自由について

 自由という言葉を聞くと、私は昔から「自恃」という言葉を連想した。
 ただ自分の好きなようにすることが自由なのではなく、自分に不自由を課しながらでも、自らを恃める状態に自分を持っていくこと。耐えられないほどの不自由さとは、何かをする前に自分の限界が決まってしまうこと。そうならないよう、時には無理をしてでも、自分の殻を脱ぎ捨てるために行動すること。最終的には、自らを恃み、自らに備わっている可能性をめいっぱいに発揮できるような環境を手にいれること。自由という言葉には、そのようなイメージを持っていたし、今もそれは変わらない。

 今朝の朝日新聞の朝刊で、保坂和志さんが、「自由」について述べ、優れたサッカー選手を例にしていた。
 ピッチ上で一番「自由」に動き回れる人は、もっとも練習したり考えている人。もっとも練習したり考えたりしている人が、そこから最も飛躍できる「自由」さを持っていると。
 保坂さんがこの対話の最後に、現在社会では「自由」という言葉が氾濫し、その中身がいくつもあって、しかも混同されて使われていて、わけがわからない状態だから、今こそ、「自由」を運用・享受する人間の側に新しい自覚が求められると思う、と締めくくっている。
 
 確かに、現在、「自由」という言葉が使われる時の、その中身はいろいろになっている。いろいろになって、それは価値観の多様を認めることだから、いいことだという風にも言われる。
 でも、ピッチのうえで「自由」に動いて得点シーンを演出し、そのプレーで人に感動を与える「自由」の美しさと、チーム全体の動きと関係なく好きかってに動いて得点に絡めず、それでいて「自由にプレーしてみました」と言う時の「自由」のつまらなさの違いは、だいたいの人がわかっているだろう。

 サッカーでも将棋でも小説でも、おそらく社会でも、一定の形式がある。中身と切り離された形式主義はおもしろくないが、中身の面白さの濃度を高めるために形式は必要だと思う。その形式は、ある意味で不自由さでもあるけれど、不自由さの中でどれだけ自由に動けるかという可能性の広がりこそが面白いのであって、可能性が引き出される余地のない無制限さは、くだくだしてしまりがなく、飽きてしまう。

 ただ、「形式」と言う時に気をつけなくてはならないと思うのは、ステレオタイプの形式の中身がなくなった状態のものに固執してしまったり、人にそれを強要することだ。
 「一流大学に行けばなんとかなる」とか「大企業に就職すれば何とかなる」という前時代の妄想をそのまま引きずったり、「定職に就かない者」全員を社会の落伍者のように括って、定職に就いている自分自身のアイデンティティを確保しようとすることなど。
 その種の形式主義の主張は、中身の発展性の可能性を感じさせないことが多い。
 ただ、その逆に、フリーターとかニートという状態も、そのなかでの過ごし方によっては、フリーターとかニートという形式化した状態にとどまっているだけということになってしまう。それは、大企業の社員だって同じで、大組織のなかでも自分の可能性を引き出しながら、人を魅了するプレーを行う人もいるし、大企業に所属しているという形式に安住し、中身を疎かにしている人もいる。
 フリーターであれニートであれ会社員であれ公務員であれ小説家であれ、社会的動物の人間として生きていくかぎり、人間がつくった「形式」のなかで生きていくことはやむを得ず、「形式」そのものに自由を求めてもしかたがない。大事なことは、自分に与えられた「形式」のなかで、どれだけ練習したり考えたりして、自分の可能性をめいっぱい発揮できる状態へと自分を導いていけるかどうかだと思う。

 それと、もう一つ考えなければならないことは、今日の社会などで顕著に見られることだが、「スタンダードな形式」があると信じ込まされて受け入れ、その「形式」のなかで一生懸命練習したり考えたりしているのに、相手に簡単に打ち負かされてしまって、自信を喪失することだ。
 アメリカンフットボールは、アメリカが圧倒的に強い。そして、アメリカだけで圧倒的に人気がある。あのスポーツには、アメリカ人の身体性や思考特性にもっとも適したものが詰め込まれているのだろう。あのスポーツをグローバルスタンダードにしたら、他の国は勝てるわけがない。将来的に勝負ができる状態になるかもしれないが、それまでにコテンパンにやられてしまう。アメリカが推し進めている国際経済も、それに類したものだと思う。
 しかし、この問題は、アメリカを非難して解決できることではない。戦後、インテリとか企業エリートの大半は、アメリカに留学し、アメリカ的な考え方や感じ方を擦り込まれている。彼らに悪意はない。しかし、自分が学んだものを基本としてロジックや行動が展開される。竹中さんにかぎらず、そういう人は無数にいる。そういう人の言動がマスコミなどを通じて日本社会に浸透していき、知らず知らず日本人の無意識になって当たり前のことになってしまう。
 企業活動などにおいても、近年、非常に合理的な仕組みで大きなマーケットを攻略して収益を上げた企業が、マスコミなどで華々しく取り上げられたりする。そして、その企業の発想や方法に成功の鍵があるかのように伝えられ、多くの人が真似をしたがる。でも、実際には、非常に合理的な仕組みでビジネス展開できる業種の勝ち組は、数社に独占されている。
 規模が大きくなればなるほどスケールメリットがでてきて、合理性は高まる。合理性と合理性が戦うと、より大きくて強いものに全てが吸収されてしまい、勝ち負けがはっきりついてしまう。
 旅行業で言うと、格安航空券販売というのは、個人旅行ブームで大きなマーケットが期待されて、そこに参入する企業も多かった。しかし、結果的に、二位、三位グループだったマップや四季の旅社も倒産したりHISに吸収されることになって、生き残れなかった。オリジナリティを発揮できず、規模の戦いになってしまったからだ。
 成功事例というのは、成功した企業にとって真実であるけれど、その成功者がいる領域に入って頑張ろうと思っても、成功者からの遅れを取り戻すことは至難の業だ。
 それは、最初から不自由な戦いを強いられることでもある。
ビジネスにおいても、自由な戦いとは、時代の表層的なニーズを追うのではなく、自分の内側から生じる必然にそって活動し、一流のスポーツ選手と同じように人よりも練習し、プレーのことを常に考え、常に試行錯誤をしながら、商品やサービスの可能性を高めていくことではないだろうか。
 また、ビジネスの世界に限らず、自らを恃み、自らの思いにそってフリーターやニートを選ぶことも、そのなかで自らの可能性を広げる真剣な練習や試行錯誤が行われている場合は、そこから飛躍できる「自由」さがあると言えるのだろう。
 もはや、これからは、フリーターか定職者かという構図で捉えられない時代かもしれない。周りの者が就職するから自分も就職するというのと、周りの友人がフリーターだから自分もフリーターをやっているというのも、周りで行われている方法を踏襲して仕事をやるというのも、状態の違いはあれど、中身は同じだから。