第1117回 京都の古層と、北野天満宮。

 

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京都、太秦の地に築かれた蛇塚古墳。石室は全長17.8メートルで、同じ飛鳥時代に作られた石舞台古墳に匹敵する。玄室の大きさは日本で六番目、積み上げられた岩石は、チャートである。

 

 京都の北野天満宮は、九州の太宰府天満宮とともに学問の神様として崇められる菅原道眞を祀る神社の代表であり、ここから全国各地に天満宮が勧請されている。

 一貴族が、全国的に知られる神様となったケースは菅原道眞くらいのものだが、その理由として一般的に道眞の怨霊が恐れられたからだと説明されるが、実際には当時の政治的状況が大いに関与していたのではないかということを、前回のブログで書いた。

 https://kazetabi.hatenablog.com/entry/2020/07/12/013520

 北野天満宮は、菅原道眞を祀るために新たに作られた聖域というよりは、それ以前から特別な意味を持つ場所だった可能性が高く、その根拠はいくつかある。

 まず、北野天満宮の一の鳥居をくぐると、楼門に至るまでの参道に、菅原道眞の母の出身の伴氏を祀る伴氏社がある。伴氏社の鳥居は、蚕の社の三柱鳥居や、京都御苑厳島神社の鳥居とともに、京都三珍鳥居とされる。

 伴氏というのは大伴氏のことである。大伴氏は、6世紀前半、第26代継体天皇の擁立の時に活躍する大伴金村をはじめ、古代史において朝廷内で重要なポジションにいた。

 飛鳥時代に、蘇我氏物部氏の台頭で陰が薄くなったが、壬申の乱の時、天武天皇を支援し、その勝利の後、朝廷内で重臣となる。

 奈良時代聖武天皇の頃、高級官吏として歴史に名を残す活躍をした大伴家持は、歌人としても知られ、彼の詠んだ歌が、万葉集全体の1割を超えているため、万葉集の編纂に深く関わったと考えられている。

 しかし、785年、長岡京遷都の時、責任者であった藤原種継が暗殺され、大伴氏がその首謀者であると疑いをかけられ、すでに亡くなっていた大伴家持も関与していたとされて官籍から除名されたほか、多くの大伴氏関係者が斬首されたり流罪となった。この時、桓武天皇実弟である早良親王も罪に問われ、抗議のために絶食するが、淡路島へ配流の途中に亡くなった。その後、長岡京で異変が起こり、早良親王の祟りだと恐れられ、急遽、平安京へと遷都することになった。

 この事件は、藤原氏による他氏排斥事件の一つとして知られているが、事情はもう少し複雑である。桓武天皇を擁立した藤原式家藤原種継が暗殺された後、種継の子供の藤原薬子と兄の藤原仲成藤原北家によって滅ぼされており、その後は、藤原氏のなかでも藤原北家だけが天皇外戚として繁栄を誇るようになるので、藤原氏の中での勢力争いがあった可能性が高い。

 大伴氏は、長岡京の変の後、しばらく衰退していたが、伴善男の時、勢力を盛り返す気配があったが、その伴善男が866年の応天門の変流罪となり、大伴氏の朝廷内での力は完全に失われた。

 しかし、その後、大伴氏が地方に下って生き残る選択をし、もしかしたら道眞の祟りの演出に関わった新興勢力の一員だったのではないかと前回のブログで書いた。

 北野天満宮境内社である伴氏社、もしくは北野天満宮の真西1.6kmのところにある住吉大伴神社が、大伴氏が大和から京都に移ってきた時に氏神を祀った場所であると考えられているので、北野天満宮と大伴氏とのあいだに何かしら関係がありそうである。

 また、北野天満宮に隣接する平野神社は、かつては現在の京都御苑と同じくらいの広さがあった。この平野神社は、土師氏の氏神を祀る神社で、桓武天皇の母親の高野新笠の母が土師氏だった。

 土師氏は、桓武天皇が即位したことによって、新たな姓を賜り、菅原氏、大江氏、秋篠氏となった。すなわち、菅原道眞もまた土師氏なのだ。道眞は大伴氏と土師氏のあいだに生まれた子供であった。

 土師氏というのは、4世紀末から6世紀前期までの古墳が巨大化していた頃、古墳造営や葬送儀礼に関っていた氏族である。巨大古墳には膨大な数の埴輪が埋められており、埴輪の運送の困難さを考えると、埴輪作りに適した場所を土師氏が拠点とし、そこが大古墳地帯となった可能性も指摘されている。実際に、応神天皇陵など大古墳が集中する藤井寺古市古墳群は土師氏の拠点であり、この地の道明寺天満宮は、もともとは土師神社で、道眞の死後、その境内に天満宮が祀られた。ここは、道眞も頻繁に訪れた地であり、道真の遺品である硯や鏡等が神宝として伝わっている。

 土師氏は、国譲りのために高天原から地上へと派遣されたのに大国主に心酔して戻ってこなかったとされる天穂日命アメノホヒ)の末裔とされる。

 北野天満宮の北門から入ってすぐのところ、本殿の背面に、御后三柱(ごこうのみはしら)」という御神座があり、ここにアメノホヒが祀られている。天満宮の参拝は、本殿の表側だけでなく裏側にあたる御后三柱も含めて礼拝するのが基本とされているのだが、現在の北野天満宮の本殿の位置は、南の一の鳥居からは随分と離れており、北門の方が近い。しかも、北門は、土師氏の氏神平野神社の正門のすぐ近くである。北門から入れば、本殿より先に、本殿の裏にある御后三柱のアメノホヒ(土師氏の祖神)にお参りすることとなる。境内の北側にある東門から入っても同じである。

 そして、この北野の地において、今では安産の神として人気の敷地神社(わら天神)は、北野天満宮よりも以前に天神を祀っていた。この敷地神社は、社伝によると、もともとは天神が降臨したとされる天神丘(金閣寺の北)の山麓で天神を祀っていたが、金閣寺造営の時に現在地に遷された。

 不思議なことに、北野天満宮の一の鳥居は、本殿の方を向いておらず、敷地神社と金閣寺の最奥の白蛇の塚(金閣寺が建てられる以前の西園寺家の別荘であった時代からの遺構で、「白蛇の塚」は、西園寺家の守り神だった)、そして天神丘を向いている。このライン上に、北野天満宮の本殿ではなく、伴氏社と、北野天満宮の中で実は一番大事な場所とされる野見宿禰社が位置している。北野天満宮への崇敬がことのほか篤かった豊臣秀吉も、野見宿禰社と同じ社殿に祀られている。

 野見宿禰は、土師氏の祖、つまり菅原道眞の祖先である。第11代垂仁天皇の時に活躍し、殉死に代わる埴輪の案を献言したことで知られる人物だ。

 北野天満宮の一の鳥居をくぐって参道を歩いてゆき、楼門をくぐっても本殿の姿が見えない。そして参道がなぜか左に折れており、その先が野見宿禰社である。 

 また、北門から入ると、まず最初に地主神社がある。もともとこの場所に小祠が設けられて、毎秋、雷神が祀られていた。その西には、西端の牛舎とのあいだに、ずらりと怨霊と関わりの深い12の末社が並ぶ。早良親王藤原広嗣伊予親王橘逸勢淳仁天皇、吉備大臣(吉備真備となっているが、吉備津彦だと思われる)などで、いずれも、恨みを残して死んでいった人たちで、菅原道眞の前の時代、厄災があった時に御霊として祀られた人たちだ。

  南の門から入って鳥居や楼門をくぐると、大伴氏関係の伴氏社や、土師氏関係の野見宿禰社(土師氏の祖)へと導かれ、北門や東門から入れば、まず最初に天神(雷神)や御霊を祀る場所があり、本殿の裏(北から入ればこちらが正面)に、土師氏の祖神であるアメノホヒの聖域がある。

 こうして見ていくと、北野天満宮は、かつては雷神や御霊を祀る聖域で、大伴氏や土師氏が関わっていた。その場所で大伴氏と土師氏のあいだに生まれた菅原道眞が祀られるようになった時、雷神と御霊という祟り神に菅原道眞という具体的な依り代が政治的に統合され、その神力が、より強力になっていったのだろう。

 北野の地で菅原道眞の霊を手厚く祀るようになるのは、朱雀天皇が譲位した翌年の947年からで、その時点で、道眞の死後、すでに44年が経っている。その時は、菅原道眞が現在のように天神そのものとして祀られていたわけではなく、早良親王をはじめ政争に巻き込まれて無念の死を遂げた人々と同じように御霊として祀られていた。

 天皇の勅使が派遣されて祭祀が行われて北野天満宮天神という正式な神号が送られたのは一条天皇が6歳で即位した翌年の987年で、これには一条天皇の祖父の藤原兼家藤原道長の父)が大きく関係している。

 藤原氏のなかでも、菅原道眞と対立した藤原時平と関係ある人々は道眞の怨霊を恐れていたが、藤原氏の中でも例外的に道眞と親しかった藤原忠平の子孫は、道眞の霊に守られるという神託を受けており、藤原兼家は、その忠平の孫だった。

 そして、兼家の姉の安子が第63代冷泉天皇と第64代円融天皇を産んでおり、円融天皇の息子が一条天皇なので、一条天皇もまた藤原忠平の子孫で、道眞の霊に守られる存在であった。

 それゆえ、一条天皇が幼くして天皇の位についた時に、藤原兼家の思惑で、道眞の霊を天皇および国家の守護神としたのだろう。さらに兼家の権勢を継いだ藤原道長も、菅原道眞の霊に守られる特別な藤原一族として、栄華を極めることになる。

 このあたりのことも以前のブログで詳しく書いた。https://kazetabi.hatenablog.com/entry/2020/07/12/013520

 菅原道眞と牛が結び付けられた伝承がたくさん残っている。菅原道眞が死後、神として祀られる時の号は天満大自在天神であるが、大自在天というのは仏教におけるヒンドゥー教の破壊の神シヴァのことであり、シヴァは白い牛の背に乗っている。

 古代中国において、牛は大切な生贄であり、牛を殺して天神を祀り、祈雨を行ったり、御霊を鎮めていた。これが日本にも伝わり、『日本書紀』によれば、第35代皇極天皇の元年(642)、厄災が続いた時に牛馬を殺して祀ったという記録が残っている。

 また、京都の夏の名物になった祇園祭は、清和天皇の治世において、富士山の記録に残る最大の貞観の大爆発や大地震、大津波、疫病の流行などが起きた後、869年、京都の神泉苑で怨霊を鎮めるための御霊会が行われ、一条天皇の父親の第64代円融天皇が即位した頃(969年)頃から、京都東山の八坂神社の祭礼として毎年行われるようになった。

 祇園祭で有名な八坂神社の祭神は、876年、祇園社として創建されたが、最初の祭神は天神だった。

 この天神に対して牛を生贄として殺すことで豊穣や祈雨が祈願されていたが、この天神が怨霊を鎮める神として崇められるようになり、生贄の牛が供えられることで、天神は牛頭天皇と呼ばれるようになった。

 牛と天神の組み合わせによる霊力はきわめて強力であり、これを丁重に祀れば、災厄のもとになっている怨霊を鎮められると考えられた。

 牛頭天王は、このようにして創造された日本独自の神であり、明治維新までは八坂の祇園社の祭神だった。

 明治維新によって、牛頭天皇スサノオとなり、祇園社は八坂神社となった。

 八坂神社のある東山は、古代、鳥辺野と呼ばれる鳥葬地帯である。

 一般的に、八坂神社にお参りする時、四条通りの突き当りにある大きな朱色の鳥居から入り、この西楼門が入り口だと思っている人が多い。

 しかし、実際はそうではなく、南側にある南楼門が正式な入り口であり、本殿も、南楼門に向かって建てられている。

 今では高台寺清水寺に続く観光ルートになっているが、かつては、この南楼門を出たところから鳥葬地帯へと続いていた。つまりこの門は死の世界へとつながる門である。

 そして北野天満宮の北も、かつては、蓮台野や衣笠山など、鳥葬地帯であった。

 八坂神社と北野天満宮は、京都の東と北の葬送地において、天神と牛の呪力によって怨霊を鎮める聖域だったのだ。

 そして、八坂神社の正門が鳥葬地への出入り口になっているように、北野天満宮の場合、北門と東門が、蓮台野や衣笠山などの鳥葬地、すなわち死の世界への出入り口になっていたのだろう。

 北野天満宮の位置は、菅原道眞を重んじて政治改革を行おうとした宇多天皇ゆかりの仁和寺の真東1.8kmのところで、さらに、宇多天皇や菅原道眞の親しかった藤原忠平の子孫の花山天皇の陵や、一条天皇の火葬塚が、北野天満宮の真北に並んでいる。

 また、北野天満宮は、『平家物語』の鬼の物語にも出てくる。藤原道長の栄華に貢献した源頼光の四天王の1人、渡辺綱が、一条戻橋で出会った鬼に抱きかかえられ、愛宕山に向かって飛んでいる途中、鬼の腕を切り落として落下したところが北野天満宮である。片腕を失った鬼は、そのまま愛宕山へ飛び去るのだが、一条戻橋と北野天満宮愛宕山は、地図上でも一直線上に並んでいる。

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北野天満宮 一の鳥居

 また、北野天満宮の一の鳥居の前に立つと、鳥居の背後に、きれいな山が見える。

 沢山と桃山である。北野天満宮境内の西にそって流れる天神川の源流が、この沢山である。

 沢山周辺は、旧石器時代の石器や、平安時代前期から中期にかけての土器や瓦が出土している。また磐座とみられる大岩もあり、平安時代以前から信仰の対象の山だったことがうかがえる。沢山の山頂近くにある沢ノ池では、建造物の遺構や石段、礎石跡、御堂跡なども発見されており、このあたりが、古代からの祭祀および信仰の場所であったことが想像できる。 

 山深い場所であり、訪れることは簡単ではない。しかも、京都盆地と面する部分は、急峻な断崖絶壁となっている。

 京都盆地の北側にそびえる山々の大部分は、数億年前から遥かなる歳月をかけて海底に堆積した地層である。もっとも深い海底数千メートルのところでは、プランクトンの死骸が堆積して硬いチャート層となり、浅いところでは、石灰岩、砂岩、泥岩、礫岩などが形成された。

 なかでもチャートは特別なオーラーを発していて、水晶と同じ珪素が主成分なので水に濡れると光沢を発し、ナイフで傷がつかない硬さがある。そして、岩石の形成に時間がかかっているので、地球環境の変化の影響を受けており、色味も様々で興味深い。

 沢山周辺は広大なチャート地層であり、沢山を源流の一つとする清滝川から保津川にかけての一帯もチャートの岩盤がむき出しである。

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沢ノ池の近くの菩提の滝。チャートの岩盤がむき出しである。

 沢山が古くからの聖域であった理由として、たとえば沢山の南側の断崖絶壁は、現在のように植林化されていない時、チャートの光沢のある岩盤が南からの陽光を受けて鏡のように輝いていたかもしれない、と想像してみるのも悪くない。

 というのは、沢ノ池の真南4.5kmのところに蛇塚古墳があるからだ。この古墳は、盛り土が流されて石室だけがむき出しになっているが、日本の古墳で六番目に大きい玄室が作られている。日本で五番目に大きな玄室を持つのが蘇我馬子の墓と伝えられる飛鳥の石舞台古墳で、蛇塚古墳は、これと同時代のものである。

 石舞台古墳の巨石は花崗岩だが、蛇塚古墳の方は、独特のオーラを発するチャート岩である。

 これらのチャートは、蛇塚古墳のそばを流れる桂川(西1km)、もしくは天神川(東1.3km)を利用して運ばれたと考えられる。

 どちらも、川を遡ればチャートの岩盤地帯である。

 沢山から発した水は、西に向かえば清滝川となり、神護寺を通り、愛宕念仏寺あたりを抜けた後、保津川桂川)に合流し、蛇塚古墳の西1kmのところを流れる。東に向かうと天神川となって一条天皇の火葬塚、花山天皇の陵を経て北野天満宮へといたり、太秦を通って蛇塚古墳の東1.3kmのところを通り、桂川に合流する。

 沢山から発した流れは、いったんは東西に分かれるが、蛇塚古墳のところでは、二本の流れが2.3kmほどに狭まり、その真ん中あたりに蛇塚古墳が築かれているのだ。

 しかも、東に天神川が流れていく方向が蓮台野の鳥葬地帯で、西に清滝川が流れていく方向に、現在、愛宕念仏寺や化野念仏寺があるが、ここは化野の鳥葬地帯だった。

 沢山から東西に流れていく川が山から里に至るあたりが、鳥葬という生命の循環の場所だったのだ。蛇塚古墳が、ちょうどその二つの川の中間にあるのは、偶然かもしれないが興味深い。

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一番北、沢山の山頂近くにある沢の池周辺には、旧石器時代から平安時代にかけての遺物が多く発見されている。この沢山を源流として、東に天神川となって流れ、一条天皇火葬塚、花山天皇陵、北野天満宮を通り、太秦から桂川へと合流する。また西に向かうと清滝川となり、神護寺を通り、愛宕念仏寺や化野念仏寺のある鳥葬地の化野あたりをすぎたところで桂川に合流する。化野の地と北野天満宮は、ほぼ東西の同緯度で、その途中に、道眞を重んじた宇多天皇ゆかりの仁和寺が鎮座する。嵯峨野の化野と、北野天満宮は、沢ノ池からの距離がほぼ同じである。そして沢ノ池の真南が垂箕山古墳、その真南500mが蛇塚古墳で、蛇塚古墳のところでは、西の桂川まで1km、東の天神川までは1,3kmとなる。同じ源泉から発して北野と化野の東西に分かれた水は、やがて桂川で一本となる

 

 さらに気になるのは、この蛇塚古墳の真北500mのところに垂箕山古墳があることだ。

 この古墳は、桓武天皇の第12皇子である仲野親王の古墳とされているが、それは普通に考えればありえない。というのは、この古墳は前方後円墳で70mほどの大きさを誇り、同じ桓武天皇の皇子で皇位を継いだ嵯峨天皇の陵墓の二倍ほどの大きさがあるからだ。さらに、桓武天皇をはじめ、この時代の古墳は、天皇のものであっても円墳であり、天皇の十二番目の皇子の墓が、巨大な前方後円墳であるはずがない。 

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箕山古墳


 考古学的にもこの古墳は、仲野親王よりも300年ほど前のものとされているのだが、そうした事実よりも、なぜここが仲野親王と結び付けられているかが問題なのだ。

 実は、仲野親王というのは、菅原道眞を重んじた宇多天皇の外祖父なのである。

 前回のブログでも書いたように、もともと天皇になる予定のなかった宇多天皇の母親の班子女王の父親が仲野親王で、母親が東漢氏の当宗氏の女性だった。十二番目の皇子は、自力では生計を立てるのが難しく、仲野親王は当宗氏の女性と結ばれて支援を受けていたのではないかと想像できる。

 そうすると、垂箕山古墳というのは、当宗氏(東漢氏)と関わりの深い聖域だったのかもしれない。

 これとの関連で興味深い記録があり、「806年3月17日、桓武天皇が70歳の生涯を閉じた時、天皇の山陵は当初、平安京の西北郊の山城国葛野郡宇太野(現・京都市右京区宇多野の付近)に定められた。ところが、そのことは宇太野付近の在地勢力の反発をひきおこし、京の周辺の山で不審火があいつぐことになる。占いの結果、これは山陵が賀茂神社に近いための祟りであることになり、天皇の陵は山城国紀伊郡(現・京都市伏見区)柏原山陵(柏原陵)に改められた。」というものだ。

 宇多野というのは、沢ノ池と垂箕山古墳のあいだの地域一帯である。

 この地域に勢力を誇る集団が、桓武天皇の陵の位置を変更させたのだ。

 にもかかわらず、桓武天皇の第12皇子の仲野親王の墓とされる垂箕山古墳や、仲野親王の娘で宇多天皇の母となる班子女王の陵墓(垂箕山古墳の北東1.5kmの福王子神社にあった)や、宇多天皇の陵墓(さらに北東1km)が、この宇多野の地に存在するのである。

  これらのことから、仲野親王宇多天皇の背後には、桓武天皇が築いた王朝体制とは別の力が存在していたとは考えられないだろうか。

 ちなみに、垂箕山古墳の真南500mのところの蛇塚古墳が、日本で六番目に大きな玄室を誇る古墳だが、飛鳥の地に、蘇我馬子の古墳とされる石舞台古墳よりも大きく、日本で三番目の規模を誇る玄室を備えた真弓鑵子塚古墳がある。この古墳は、蛇塚古墳と同じ頃に建造されたものだが、炊飯具をかたどる土器が出土しており、これは渡来人の古墳からよく見つかる土器だということで、京都教育大名誉教授の和田萃氏が、飛鳥時代蘇我氏のもとで勢力を伸ばした渡来系氏族、東漢氏の墓ではないかと指摘している。

 もしそうだとすると、同じ時代、京都の地においても、東漢氏が勢力を誇り、蛇塚古墳を築き、この宇多野の地に勢力を維持し続けて、その一族の女性が桓武天皇の第12皇子の仲野親王に嫁ぎ、班子女王を産んで、彼女から産まれた宇多天皇が源氏の身分から下克上のように天皇に即位し、菅原道眞を重用して政治改革を行おうとし、藤原時平たちによって阻止されると道眞の怨霊騒ぎを引き起こしたというストーリーができる。

 それは空想にすぎないかもしれないが、道眞の怨霊騒ぎの後、東漢氏坂上氏は、清和源氏の武士団の中心として活躍することになり、時代は、貴族の時代から武士の時代へと大きく変化していく。

 いずれにしろ、北野天満宮の境内西にそって流れる天神川の源流である沢山の頂上付近の沢ノ池の真南に、垂箕山古墳、蛇塚古墳が存在していることは、とても興味深い。

 実は、この蛇塚古墳をさらに真南に行くと向日山の東隣を通り、ここは長岡京の政治の中心、大極殿内裏のあったところである。向日山の高台には弥生時代の集落跡があり、さらに日本最古級の巨大古墳で、しかも前方後方墳の元稲荷古墳があり、その隣に向日神社がある。この向日神社を二倍にして設計したのが東京の明治神宮だということは、あまり知られていないが、明治維新という王政復古の大事業における首都の聖域として、なぜ、向日神社がモデルにされたのか!? 

 そして、向日山の麓に、現代の天皇の血統を確実に遡ることのできる最古の天皇、第26代継体天皇が築いた弟国の宮もあり、蛇塚古墳の真南7.5kmの向日山の地が特別な場所であったことは間違いない。

 さらに向日山の真南3kmのところにあるのが、この地域最大、全長128mの惠解山古墳である。この古墳からは、鉄製の武器(大刀146点前後、剣11点、槍57点以上、短刀1点、刀子10点、弓矢の鏃472点余り、ヤス状鉄製品5点)など総数約700点を納めた武器類埋納施設が発見され、このように多量の鉄製武器が出土した例は全国的に見ても非常に珍しい。

 そして、その真南4kmが、石清水八幡神社の鎮座する男山。さらに真南には、奈良県の葛城の地で重要な位置付けとなる神社が南北に並ぶ。長尾神社、葛木坐火雷神社(笛吹神社)、葛城一言主神社、そして高鴨神社(日本の賀茂、鴨、加茂神社の総本山)だ。

 話が長くなるので、それぞれの神社の特殊性については、ここに言及しないが、奈良の葛城の地は、奈良の三輪山よりも古い日本の中心地なのだ。

 いずれにしろ、不思議なことだが、京都の沢山にある沢の池から、日本の古代史の中で重要な場所が、きれいに一本の線でつながっている。

 これは単なる偶然ではない。というのは、5世紀末、奈良の葛城の地に居住していた秦氏などが、京都に移住したという記録が残っているからだ。

 5世紀のはじめ、第15代応神天皇の時代、葛城襲津彦によって、秦氏東漢氏や忍海氏といった渡来系の氏族が日本に移住して、新たな技術をもたらした。

 それからしばらくのあいだ、葛城氏は、大王家との婚姻を重ねて巨大な勢力を誇っていたが、5世紀末、雄略天皇のよって討たれた。葛城の地にいた渡来系の人々が京都に移住したのは、そうした政変のあった頃だと思われる。

  渡来人たちの移住と関係あるのかどうかわからないが、二つの地域のあいだをつなぐ南北のきれいなライン上に、重要な聖域が設けられているのがとても興味深い。

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上から、沢山のそばの沢の池、垂箕山古墳、蛇塚古墳、向日山、惠解山古墳、石清水八幡神社の鎮座する男山、狐井城山古墳、長尾神社、葛木坐火雷神社(笛吹神社)、葛城一言主神社、高鴨神社。

 

 

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第1116回 時を超えた物づくり

 
 

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 亀岡の歴史探求の延長で、亀岡の漆作家、土井宏友さんの工房へ。最近、古代の丹生、すなわち辰砂(硫化水銀)の産地を訪れることが多く、土井さんは、本物の辰砂を使った漆作品を作っている。
 また、土井さんは、古代から大切にされてきた錫(銅と化合させて青銅器を作る)を使った漆作品を多くつくっており、いぶし銀のしぶい輝きになるのだが部分的に鯛の牙で磨き上げて光沢に変化をつけるという遊び心があり、私は、とても好きなのだ。
 亀岡には、大谷鉱山という日本で有数のタングステン鉱山もあるが、タングステンの鉱脈は錫の埋蔵量も多い。鋼鉄より硬いタングステンの融点は3000度で、古代人がこの鉱物を活用できていたかどうかわからないが、錫ならば銅と化合させて青銅器を作ることができる。亀岡には、2000年以上前に金属加工技術を持った人たちが南方からやってきたという伝承もあり、おそらくその人たちは、青銅器の文化をもった人たちだったのではないかと思う。つまり、日本の歴史的段階でいえば、長い縄文時代を経て、時代が大きく動き出した初期段階の形跡が亀岡にはある。
 それはともかく、私は、土井さんの手仕事が大好きだ。この写真のドリップコーヒーのセットは、錫と漆で、まさにいぶし銀の美しさがあるが、土井さんは、ペーパーフィルターでネルドリップの味を引き出すということをテーマに、おいしいコーヒーが飲める店を歩き回り、自分の味覚で確認し、その入れ方を徹底的に研究し、そこに自分なりのアイデアをくわえ、漆製品を作る。その作り方も、実に手が込んでいて、たとえば一般的には接着剤でくっつけることで作り上げる形を、一つの木から形をくり抜いて作ったりする。そうすることで貼り合わせの場所が生じず、水も漏れないし、軽くて薄くても強度を増す。ものづくりが大好きでないとやってられない偏執的な徹底ぶりで、商売という発想がまったくなく、こういうものを愛好してくれる人がいてくれればそれでいい、という童心の自然体を保ち続けているおっさんだ。

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 あと、最近、”手作り感”とか、”温かみ”といった陳腐なキャッチでの物作りがけっこう増えているのだが、それらは技術の鍛錬を経ていないごまかしの物も多い。
 土井さんの作品は、”手作り感”などという曖昧な領域を超えて、人間技の凄みが滲み出ている。だからこそ、出来上がった物には気品が漂っている。どんな物でもそうだが、物作りにおいて、この気品が感じられないものを、どうにも私は信用できない。
 作品の良し悪しにおいて、好き嫌い、新しいとか古いとか、その他、判断の基準はいろいろあるようだが、その人の精神は、作品の気品に現れる。精神とは何かという問題があるが、それは、ものや人に対する誠実さ、畢竟、世界そのものに対する誠実さだと思う。
 2011年、福井県若狭町の鳥浜貝塚で出土したウルシの木片が世界最古の約1万2600年前のものだと判明した。
 また、北海道函館市の垣ノ島B遺跡から出土した約9千年前の装飾品が、世界最古の漆製品とされている。日本の縄文文化は、土器もそうだが、漆もまた世界最古級だ。
 このことはとても重要なことで、なぜなら土器や漆製品を作り出した人たちは、土器や漆の分野だけが得意だったということはあり得ない。なぜなら、土器にしても漆製品にしても、複合的な知恵を組み合わせて製作が可能なものだからだ。そして、複合的な知恵を組み合わせる力を備えていたということは、必ず、他の分野にも応用される。
 日本の縄文文化の中で、世界最古級の土器や漆製品が発見されているのは、それらの製品が、その物自体の性質として何千年もの歳月を経ても分解されずに残るからだ。
 エジプトなど多くの古代文明は乾燥地に位置しているが、それらの地域は遺物を長く保存するための環境条件が整っていただけであり、古代文明が、それらの地域だけで発展していたわけではないと思う。
 漆や土器は、日本の古代人が、エジプトなど古代文明の先進地域とされるところと変わらない知恵や技術を備えていたことを今に伝える貴重なタイムカプセルだ。私たちは、そこから古代のことに対する想像力を膨らませる必要がある。
 日本のように湿潤で全てを土に還してしまう風土の中で、漆が、数千年を超えて残り続けているというのは、すごいことだと思う。
 土井さんの漆作品も、数百年、もしかしたら数千年、作り手の精神とともに生き続けていくことを想像することは、とても楽しいことで、一杯のコーヒーや、一献の酒が、ひときわ美味しく感じられる。
 
 

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第1115回 菅原道眞と藤原道長のつながり

第1112回ブログ 「歴史を知ることは未来を知ること」

https://kazetabi.hatenablog.com/entry/2020/06/28/172054

の続き。

 

 この世をば  我が世とぞ思ふ  望月の  欠けたることも  なしと思へば

 藤原道長が詠んだとされるこの歌は、盤石な権力を手に入れ、得意の絶頂で詠んだ歌だというのが通説である。

満月が欠けるところのないように、この世の中で自分ののぞむ所のものは何でもかなわぬものはない第一学習社『詳録新日本史史料集成』

 国語のテストで問題が出れば、この第一学習社の現代訳のように、道長の”驕り”を表現したものであると解答しなければ不正解になる。

 それに対して、近年、道長が残した日記などを分析し、道長はそれほど傲慢な人物ではなく、家族思いの優しいお父さんだったのではないかという捉え方から出てきた。

 平安文学研究者の京都学園大の山本淳子教授が、この歌は、娘の結婚と、その場の協調的な雰囲気の喜びを詠んだとする新解釈を発表し、研究者の中では注目されているそうだ。つまり、道長のこの有名な歌は、子供の幸せを喜ぶ良きパパの歌?なのだと。

 新訳私は今夜のこの世を、我が満足の時と感じるよ。欠けるはずの望月が、欠けていることもないと思うと。なぜなら、私の月とは后である娘たち、また皆と交わした盃だからだ。娘たちは三后を占め、盃は円い。どうだ、この望月たちは欠けておるまい。」 2018.11.2  産経新聞記事より。https://www.sankei.com/west/news/181102/wst1811020001-n1.html

 ちょっと首をかしげたくなるが、どうやら、近年の歴史研究は、欧米の近代合理主義に染め上げられた現代の生活感覚にあてはめる傾向にあるようだ。

 それにしても、これまでの通説も新解釈にも、詩心がまったく感じられない。

 満月への感慨が、はたして自分の権力の絶頂や娘の結婚を手放しで喜ぶことにつながるのだろうか。現代人でも同じだと思うが、満月の輝きは、どこか哀しい。

 その輝きが、刹那的な時間に限られたものであることを認識していない人はいないだろう。月は次第に欠けていってしまうものであり、日の出とともに周りが明るくなっても見えなくなってしまう。

 月の輝きは、美しいけれどはかない。はかないからこそ、かけがえがない。月は、もののあはれの象徴である。

 藤原道長は、紫式部が『源氏物語』を書くことを支援した人物であり、その人物に、”もののあはれ”がわからないはずはない。

 そして道長は、この歌を詠んだ一年後には出家している。 

  道長が残した日記からその人柄を分析して、それほど傲慢ではないという結論を導き、だからという理由で、この歌を家族思いの良きパパの歌だとする結論は、その正誤はどうでもよいが、歌そのものが描き出す世界を感じ取ろうとする詩心が、どこかへ行ってしまっている。研究費と時間を使って行う真実の究明というのは、その程度のものなのだろうか。

 少し前、『源氏物語』をテーマにした大学主催のシンポジウムがあり、話を聞いていたのだが、会場から、「現在における源氏物語の意義は何ですか?」という質問があった。
 それに対して、若い時から源氏物語が大好きであったという源氏物語の専門の男性教授が、「源氏物語のブランド価値、知名度は依然として高いので、映画やテレビドラマだけではなく、商品の販売においてその名を付けるだけでも十分に通用する」と答えたので唖然とした。
 金閣寺龍安寺知名度やブランド価値が高いので観光資源として十分に通用するというのと同じ発想で、歴史価値は、マーケティング価値であるということを、『源氏物語』の専門の教授が思っているのだ。この教授の授業を受ける大学生は、高い入学金と授業料を払い、歴史価値をマーケティング価値にする処世術を学問だと錯覚して勉強することになる。
 そして、そうした学習をつんだ人の中で、自分が学んだことを活かせる仕事に就きたいと高い志を持つ若者が、美術館や博物館の学芸員を目指したり、歴史と町おこしを結びつけるプロジェクトに参加したり、ということになるのだろうか。

 それはともかく、藤原道長安倍晴明を重んじるなど陰陽道に通じていた。一定の期間、外部との交渉を遮断して閉じこもる物忌みを、20年で300回も行った記録がある。また、外出などの際、方角の吉凶を占い、方角が悪いといったん別の方向に出かけるといった方違えも頻繁に行っていた。源氏物語の中でも、光源氏などを通して、こうした様子が描写されている。

 物忌みや方違えを頻繁に行うほど”迷信深い”人物が、己の栄光に有頂天になるとは思えない。道長は、自分の宿命は、自分の意思だけでどうにかなるものではないということを弁えていただろう。

 藤原道長の時代を藤原氏の全盛時代だと思い込んでいる人が多いが、道長の時代は、貴族政治の最後の輝きであり、道長の息子の頼通の晩年、摂関家の権勢は衰退へ向かい、院政と武士の時代へと移る。

 そうした事態は突然起こったわけではなく、藤原道長が実力者として君臨する前から兆候は現れていた。

 藤原道長が娘三人を天皇の皇后にしたことが藤原氏の絶大なる権力を象徴しているように考えられているが、天皇外戚は、長いあいだ藤原氏が独占してきていたので、道長が三人の娘を皇后にできたというのは、藤原氏の中で、道長に対抗できる人物がいなくなったということにすぎない。とりわけ経済的な面が大きいが、藤原道長が特別に力を蓄えることになった理由は後述する。

 時代の変化は、道長の絶頂期の100年ほど前、900年頃に急速に始まっていた。

 班田収授を基本とした律令体制の危機と、次なる時代の鳴動である。

 律令制は、政府から人民に田が班給され、その収穫から租税を徴収するという班田収受法によって運営されていた。

 しかし、徴税を逃れるために土地から逃亡する農民が増え、同時に、自分が開墾した土地は免税という特権を利用して逃亡した農民を使役して荘園を運営して財を成す貴族も増え、班田収受法は機能しなくなっていた。

 矛盾だらけの律令体制を維持することのメリットがあったのは、有力貴族だけであり、朝廷じたいの税収も減るばかりで、天皇家においても、嫡子以外の皇子たちを養う余裕などなかった。そのため皇族たちは、次々と臣籍降下していき、源氏や平氏などの身分で天皇家の家臣となったり、経済力のある豪族との婚姻で生き延びていた。

 その代表的な1人が、887年、突如として第59代天皇に抜擢された宇多天皇である。 宇多天皇は、後に祟り神となった菅原道眞を重んじていたことで知られる天皇である。

 宇多天皇は、本来は天皇になるはずのなかった人物なので、宇多天皇を擁立する陰の勢力が存在していたと思われる。

 というのは、宇多天皇の父親の光孝天皇は、55歳になるまで天皇になることなど夢にも思わず生きていた。宇多天皇は、その光孝天皇の7番目の皇子ということもあり、皇室の身分ではなく源氏の身分に臣籍降下していたのだ。

 しかし、884年、突然、光孝天皇が55歳で即位し、その3年後に重篤な状態に陥った時、宇多天皇に白羽の矢が立てられた。宇多天皇は、887年8月25日に源氏の身分から皇族に復帰し、翌日に皇太子となったが、その日に光孝天皇が亡くなったため、すぐに第59代天皇として即位した。皇室の中に皇統の嫡流に近い者がいたにもかかわらず、2日前までは臣下の身分にあった者が、慌ただしく天皇に即位したのである。

 光孝天皇が55歳で即位したのは、平安時代初期、桓武天皇を即位させるために、62歳になるまでのんびりと生きていた白壁皇子が光仁天皇として即位させられたケースと同じだろう。宇多天皇を擁立するための布石にすぎなかったのだ。

 即位した宇多天皇は、菅原道眞を重んじて、宇多天皇を擁立した勢力に支えられて、政治改革を推し進めようとした。

 その改革の内容がどういうものであったかは、抵抗勢力によって菅原道眞が太宰府に左遷されたことと、その後の怨霊騒ぎで抵抗勢力が滅ぼされた結果、社会がどうなっていったかを考え合わせると想像することができる。 

 まず、菅原道眞が太宰府に左遷された翌年の902年、宇多天皇から譲位されていた醍醐天皇によって、藤原時平の主導で、律令制の最後のあがきと言える班田が行われた。

 宇多天皇は、息子の醍醐天皇が自分と同じく源氏の身分から皇太子となり天皇となっていたので、自分と同じ路線を歩むだろうと判断して譲位してしまったのかもしれない。しかし、醍醐天皇藤原時平に丸め込まれてしまったのか、道眞を太宰府に左遷してしまった。宇多天皇は、なんとかそれを撤回させようとしたが叶わなかった。

 醍醐天皇の時代は、班田を復活させ、貴族、寺社、豪族などが土地を私物化することを禁止する荘園整理令も施行されたため、後の時代の朝廷によって高く評価されているが、その内容は、醍醐天皇が即位した年以降の荘園が増えることを抑制するものでしかなく、藤原時平たちのような既得権組には影響がなかった。むしろ、新興勢力を抑えるということで、既得権組の優位性を強めるものだった言える。

 そして、班田収受を基本とした人頭税は、逃亡農民の増加や、逃亡農民を使って私有地を拡大していた有力貴族の存在によって、もはや時代にそぐわないものになっており、制度の改革が必要になっていた。

 当然ながら、そうした時代変化は止まることはなく、道眞を死に追いやった既得権組は、その後、怨霊による祟りとされる事変によって次第に追い詰められていくことになる。

 909年、菅原道眞を左遷した首謀者である藤原時平が亡くなり、930年、清涼殿に落雷があった。この時、多くの貴族が亡くなり、醍醐天皇は、惨状を目の当たりにして体調を崩し、3ヶ月後に崩御することとなった。そして、この落雷が、道眞の祟りによるものだという噂が広がった。

 醍醐天皇の後を継いだ朱雀天皇は怨霊を恐れた。とくに母親の藤原穏子は息子を怨霊から守るために、朱雀天皇が3歳になるまで幾重にも張られた几帳の中で育てたという。

 そして、醍醐天皇が行った班田を最後に、朱雀天皇以降、班田はいっさい行われなくなった。

 また、朱雀天皇の治世では、939年、平将門藤原純友の乱があった。

 朱雀天皇は、946年、同父母弟の村上天皇に譲位し、村上天皇の治世は、藤原氏の摂関を置かなかった。そのため、後の時代、親政の典範と評価されているのだが、村上天皇は、母親の穏子が道眞の怨霊を特別に恐れていたし、朱雀天皇も政治に強く介入していたことがわかっているので、道眞の怨霊効果が、その治世に反映されていたと考えられる。

 菅原道眞の怨霊の噂は、いくつかの事変のたびに京都の町の中に広がっていたが、北野の地で菅原道眞の霊を手厚く祀るようになるのは、朱雀天皇村上天皇に譲位した翌年の947年からである。

 実はその直前にも布石があった。

 多治比文子の神託である。

 942年、多治比文子が神がかりし、京都を騒がしている不吉な出来事は、菅原道眞の怨霊が原因であり、これを祀り鎮めなければならないという神託を受けたとされている。

 一部では、多治比文子は道眞の乳母だったという話が流布しているが、それはありえない。

 道眞が58歳で死んだのは903年なので、多治比文子が道眞の乳母であれば、道眞が死んだ時は、もっとも若い年齢(15歳)で乳母になったと想定しても73歳であり、神託を受けた時は110歳を超えている。

 それよりも多治比氏というのが一つの鍵で、多治比氏は、平城京遷都以前、柿本人麿のパトロンだったともされる多治比嶋が、持統天皇の時に右大臣となり臣下としては最高位の位であった。しかし、奈良時代藤原仲麻呂に対立する橘奈良麻呂の乱で処罰されたり、長岡京遷都の際の藤原種継暗殺事件に関わったとして、早良親王や大伴氏や佐伯氏とともに処罰されるなど、藤原氏の陰謀によって朝廷内で完全に力を失っていた。

 しかし、多治比氏の血統は、桓武天皇に嫁いだ多治比真宗葛原親王を産んだことで後世に受け継がれた。葛原親王の異母兄の嵯峨天皇が子供達が政争に巻き込まれないように源氏の身分へと臣籍降下させたのに対して、葛原親王の子供達も臣籍降下して、その末裔が平氏となるのだ。

 源氏のルーツは嵯峨天皇平氏のルーツは桓武天皇とよく言われるが、桓武天皇嵯峨天皇の父でもあるので源氏と平氏のルーツである。なので、平氏に限定するならば、そのルーツは、桓武天皇の第三子で、多治比真宗が産んだ葛原親王ということになる。

 多治比氏以外に、菅原道眞と関係しているのが、道眞の母親の大伴氏である。大伴氏もまた、長岡京遷都の際の藤原種継暗殺事件の後、866年の応天門の変伴善男を筆頭に多くの親族が首謀者として流罪となり、朝廷内での力を完全に失っていた。

 しかし、伴善男の後衛とされる三河の伴氏は、源義家郎党で一の勇士として知られる伴助兼などが出る武士団となり、のちに、ここから分かれたものが近江にうつって甲賀流忍術の中心となる甲賀二十一家の伴家にもつながっていく。また、鎌倉武士の守護神である鶴岡八幡宮の神主は、伴善男の後裔の大伴忠国から明治維新まで25代にわたって大伴氏がつとめているのだ。

 藤原氏の他氏排斥のための陰謀によって朝廷内で力を失った多治比氏や大伴氏は、地方にくだって武士として次の時代を拓いており、これらの勢力が、道眞の怨霊騒ぎの陰に存在している。

 実際に北野天満宮を訪れてみるとわかるが、第一の鳥居をくぐって一番最初に鎮座するのが、大伴氏関係の伴氏社であり、ここは「京都三珍鳥居」としても知られている。

 さらに、この北野天満宮の真西1.5kmほどのところに大伴氏の氏神を祀る住吉大伴神社がある。

 北野天満宮境内社である伴氏社は、道眞の母を祀る社とされているが、大伴氏が大和から京都へ移住した時、氏神を祀る社として祀ったのが、この伴氏社か、もしくは住吉大伴神社であるとされており、どちらが氏神であれ、北野天満宮の鎮座する場所は、大伴氏と縁の深い場所だった。

 いずれにしろ、以前にブログに書いたように、道眞の祟り騒動は、当時の政治状況と深く関係している。

 https://kazetabi.hatenablog.com/entry/2020/05/19/234523

 

 そして、菅原道眞を重んじた宇多天皇の母は、班子女王であるが、彼女は、桓武天皇の第12皇子である仲野親王と、渡来系の東漢氏の当宗氏の母のあいだに産まれた。

 東漢氏は、軍事力に優れていたことで知られるが、秦氏と同じように、製鉄技術を日本にもたらし、土木建築技術や織物の技術者も含まれていた。

 また、白川静氏は、訓読を発明したのは、『史(ふみと)』と呼ばれる人だと指摘したが、史氏(文・書=ふみとも言う)は、公文書の執筆を担っていた東漢氏だった。

 この東漢氏だが、飛鳥時代蘇我氏物部氏の戦いにおいては、東漢氏蘇我蝦夷を裏切ったことで勝負は決まった。また、壬申の乱においても、東漢氏坂上熊毛が、大友皇子を裏切り天武天皇の側について勝利に貢献した。桓武天皇の絶大なる信頼を得ていた坂上田村麻呂もそうだが、自らが王になるのではなく、時代が変化する時、その方向性の鍵を握る存在として実力を誇っていた氏族だった。

 そして、菅原道眞の怨霊騒ぎの頃から摂津の多田の地で足場固めをしつつあった清和源氏のルーツ源満仲は、この東漢氏の一族、坂上氏(坂上田村麻呂の末裔)を武士団の中心としていた。源満仲もまた、藤原氏の政敵である源高明を裏切って、これを滅ぼし、藤原氏と手を組むことを選択した。

 この東漢氏の一つ当宗氏が、宇多天皇の母、班子女王の母の実家であり、この氏族もまた新興勢力だったのだ。

 新興勢力は、律令制に変わる社会制度を求めていたのだろう。道眞の怨霊騒ぎによって班田が行われなくなり、人頭税から地頭税へと移行していくと、土地の計測や税収の管理を行う受領の権限が増していった。彼らは強力な武士団も持っていたので、中央の統制を受けずに、土地を開墾し、鉱山を開発し、その富を蓄積していくことになる。京都に止まって出世争いするのは身分の高い家柄の貴族だけであり、それ以外は、地方に下って受領となることで活路を見出そうとしていた。彼らが新興勢力である。

 宇多天皇と菅原道眞(903年没)の時代から、道眞の祟りで社会が動揺していた時代は、まさにその過渡期であり、その過程の939年、平将門藤原純友など新興勢力の反乱があった。

 そして、その乱の直後の942年、道眞の怨霊を祀るように多治比文子に神託があり、怨霊を恐れる朱雀天皇村上天皇に譲位した翌年の947年、道眞の霊が、大伴氏ゆかりの北野の地に祀られる。

 そして、天皇の勅使が派遣されて祭祀が行われて北野天満宮天神という正式な神号が送られたのは987年、一条天皇の治世である。その4年後の991年、北野天満宮は、国家の重大事、天変地異の時などに天皇から特別の奉幣(神への捧げもの)を受ける神社に加えられた(当時は19社、のちに22社)。

 しかし、一条天皇の治世と言っても、987年というのは僅か6歳で一条天皇が即位した翌年のことであり、一条天皇の意思ではない何かが、こうした動きの背景にあったものと思われる。 

 6歳の一条天皇を強引に天皇に即位させたのは、藤原道長の父、藤原兼家である。

 986年、天皇に即位してわずか2年、当時18歳だった花山天皇が、出家に追い込まれた。

 この陰謀の首謀者が、一条天皇の祖父であった藤原兼家であり、これは藤原氏のなかでの権力争いでもあった。

 花山天皇の出家事件の時、源満仲率いる武士団が、天皇を護衛するという口実で睨みをきかせていた。

 こうして藤原兼家から藤原道長にいたる栄華の道が準備されたわけだが、その段階で、北野天満宮で祀られる菅原道眞が、国家的な神となるのである。

 藤原兼家の次女で円融天皇に嫁ぎ、一条天皇を産んだ藤原詮子は、国母として強い発言権をもち、しばしば政治に介入した。

 この詮子に、989年3月19日、北野天満神が憑依したという記録が、『小右記』に残されている。

 『小右記』というのは、藤原道長の時代を代表する学識人、藤原実資が書き残した膨大な日記であり、社会や政治、宮廷の儀式、貴族の暮らしなどを知るうえで重要な史料である。 出家後の道長の法成寺での生活ぶりや、藤原道長が詠んだという歌、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば」も、ここに記されている。

 藤原詮子への北野天満神(=道眞)の憑依は、内裏の火災を防ぎたければ、幼い一条天皇藤原氏氏神である春日大社へと行幸させよという内容であったが、978年に大内裏を焼失し、その後も内裏の再建と火事を繰り返していた円融法皇を牽制するものだった。

 北野天満神が国家神となってからすぐの藤原詮子への憑依であるが、藤原兼家は、自分に抵抗する勢力を抑え込むために、道眞の怨霊の力が有効であることを認識していた。

 その理由は次のように考えられる。

 藤原兼家や、その娘で一条天皇の母となる詮子と、北野天満宮との関係を考えるうえで重要な人物が、兼家の祖父の藤原忠平である。

 忠平は、宇多天皇や菅原道眞と深く結ばれた関係であった。藤原忠平の妻、源順子は、宇多天皇の皇女(養女ともされる)という説もあるが、『大和物語』では、菅原の君とされ、菅原道眞の近親であると考えられる。

 道眞と藤原時平が対立した時も、忠平は道眞と親交が深く、道眞の左遷に反対した。

また道眞が左遷された後も手紙をやり取りしていたため、忠平の子孫を保護するという道真からの御託宣があったとされる。

 忠平は、菅原道眞の怨霊騒ぎのなか藤原時平が亡くなり、醍醐天皇が病気がちになって宇多法皇が国政に関与するようになると急激に出世し、朱雀天皇の時に摂政、次いで関白に任じられる。以後、村上天皇の初期まで長く政権の座にあった。

 この藤原忠平の次男、藤原師輔が、藤原兼家の父(藤原道長の祖父)であるが、彼は、藤原忠平の意思を継いだのか、道真を祀った北野神社を支援していた。

 師輔自身は、摂政・関白になる事はなかったが、彼の死後、娘の安子が生んだ冷泉天皇円融天皇の二代の天皇が続き、藤原兼家道長など子孫の繁栄の基礎を築いた。

 このように見ていくと、藤原兼家藤原道長親子は、兼家の祖父の藤原忠平の時から菅原道眞と関係が深く、忠平の子孫として道眞の霊に護られる存在であり、道眞の怨霊で追い詰められていった人たちとは逆の立場だという精神的強みがあった。

 興味深いのは、菅原道眞と親しかった藤原忠平の孫の藤原安子が産んだ円融天皇、その息子の一条天皇、安子が産んだ冷然天皇の息子の花山天皇の陵が、北野天満宮のまわりに規則正しい配列で位置しているのだが、これらの天皇もまた、菅原道眞の霊に保護されるという藤原忠平の子孫に該当するのである。 

  このようにして確認していくと、北野天満宮に国家神として菅原道眞が祀られるようになった理由が、浮かび上がってくる。

 道眞の怨霊があまりにも恐ろしかったからというよりは、10世紀の政治的事情が絡んでいたということだ。

  藤原道長の父、藤原兼家は、天皇外戚として摂関家となり繁栄するが、その繁栄の手口は、道眞を死に追いやった藤原時平たちの時代と異なっていた。

 もはや時代の流れに逆らえないと判断していたのか、兼家は新興勢力に対抗するのではなく、逆に密接に結びついて主従関係を結んでいった。

 兼家が関係を結んだ勢力を家司受領という。徴税によって国家財政を支えるはずの受領は、地頭税における土地と税収の管理の権限を高め、私的収奪による蓄財を行った。それを黙認したのが新しく摂関家となった藤原兼家藤原道長であり、受領は、その見返りに摂関家に対して経済的奉仕を行った。莫大な献物を行い,受領在任中に摂関家に荘園を寄進し,その経営にも当たるなど摂関家の経済基盤の重要な一翼をになったのだ。

 藤原兼家の時の家司受領の代表的人物が、源頼朝足利尊氏など清和源氏の発展の基礎を築いた源満仲である。

 彼は、969年、安和の変において、藤原氏の政敵の源高明に謀反の疑いをかける密告の役割を果たした。そして、986年には藤原兼家の孫の一条天皇を即位させるために花山天皇を出家させる時にも関与をした。

 また満仲の長男の源頼光は、藤原兼家道長親子の家司として備前・但馬・美濃・伊予・摂津等の受領を務め、蓄えた財により京都の一条通りに邸宅を構え、たびたび藤原兼家道長に多大な進物をして尽くした。兼家の二条京極第新築の宴で来客への引出物として30頭の馬を贈ったり、道長の土御門殿が全焼して再建する際には家具・調度一切を頼光が一人で贈ったという記録が残っている。

 また、藤原道長は、正室の源倫子以外に、藤原氏との政争に破れた源高明の娘の明子を妻とし、2人の源氏の女性とは、それぞれ六人の子宝に恵まれ、そのうち3人が天皇の皇后となった。さらに妾四人のうち2人が源氏の娘なのである。

 そして、源倫子の父、源雅信の孫にあたる源済政が、信濃、美濃、讃岐、近江、丹波、播磨の受領を歴任できたのも、藤原道長や頼通への徹底した奉仕の結果だった。

 藤原道長が伴侶に選んだ妻と妾、あわせて6人のうち4人が源氏の娘であり、道長が、いかに源氏との関係を大事にしていたかがわかる。

 藤原道長の栄華は、このように新興勢力の成長段階において、持ちつ持たれつの関係を築けたからであった。それは、朝廷内で発言力のある摂関家だから可能だったことであり、そのため、道長と、それ以外の貴族(藤原氏も含む)のあいだに圧倒的な差が生まれた。道長が3人の娘を3代の天皇に次々と嫁がせて皇后にできた理由がそこにある。

 しかし、こうした癒着によって実力を蓄えた新興勢力は、その勢いを増し、重要な政局においては、彼らの存在を無視できなくなる。武家の源氏や平氏は、そのように台頭していった。

 藤原道長は、当然ながら、そうした時代の流れも読んでいただろう。道長の栄華は、貴族の時代から武士の時代へと変化していく流れの中の、一瞬のタイミングをうまくとらえたものでしかない。

 そして、摂関家の立場を利用して、新興勢力と持ちつ持たれつの関係になることは、新興勢力に勢いを与えることでもあり、強大化していく彼らが、そのうち自分たち貴族に取って代わる存在になると道長は悟っていただろう。

 藤原道長は、紫式部に『源氏物語』を書かせる。光源氏の栄光の人生は道長自身と重なるが、源氏物語の主人公は、道長が持ちつ持たれつの関係を築いていた源氏という設定にしている。

 そして藤原道長は、『源氏物語』の主人公に自分をだぶらせるように、新しい時代の到来を予感しながら、光源氏と同じく早い段階で出家し、静かに一線を退く。

 藤原道長の歴史的貢献は、紫式部を通して、「もののあはれ」という精神を、この世に深く刻んだことだ。

 その藤原道長が詠んだとされる歌、

 

この世をば  我が世とぞ思ふ  望月の  欠けたることも  なしと思へば

 

 は、地上の栄光の上にあぐらをかいた傲慢者の心情ではなく、かといって娘の結婚を喜ぶ良きパパの心情を詠ったものでもない。

この世界を自分のものだと思うのは、満月を見て欠けたところなど何一つないと思うことに等しい。(いくら美しい満月でも、やがて欠けていく宿命に逆らえないのだから、人の栄華だって同じだろう。)

 いろいろと理屈を考えず、月のことを思い浮かべ、歌をそのまま自然に味わっても、こうした心情なのではないかと思う。

  (つづく)

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北野天満宮にて菅原道眞を国家神として祀ったのは、藤原道長の父の藤原兼家だが、藤原兼家の姉で、菅原道眞と親しかった藤原忠平の孫の藤原安子が産んだ第64代円融天皇、その息子の第66代一条天皇、安子が産んだ第63代冷然天皇の息子の第65代花山天皇の陵が、北野天満宮のまわりに規則正しい配列で位置している。  三角形の一番北が一条天皇の火葬塚、その南1kmが花山天皇の陵、さらにその南500mが北野天満宮の北門である。  一条天皇の火葬塚の西南1.7kmのところが一条天皇陵のある朱山、その麓が龍安寺で、ここはもともと大伴氏の拠点の場所だった。龍安寺から西南500mが、菅原道眞を重んじた宇多天皇ゆかりの仁和寺仁和寺北野天満宮の本殿の真西1.9km。仁和寺の真北800mが宇多天皇の陵。   北野天満宮の北門の真西1.6kmが、大伴氏の氏神、住吉大伴神社。  北野天満宮の一番南側にある社が、道眞の母親、大伴氏を祀る伴氏社。その真西2.5kmが、円融天皇の陵。そのすぐ傍にあるのが、宇多天皇の母親の班子女王(東漢氏の当宗氏)を祀る福王子神社(陵もここにあったとされる)。

 

 

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第1114回  美意識と人生の選択。

 

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京都郊外、日本一の高さを誇る花脊の三本杉。現存する樹木としては国内最高となる62.3メートル(右端の杉)、残りの二本も、国内第2位と5位。

 

古樹と巨岩と水の流れ。悠久の時間を感じさせるものと、絶えず流転していくもの。古代から日本人の心に受け継がれてきた自然観は人生観につながっている。そして、日本人の美意識も、この自然によって育まれてきた。
 静と動に濁りがないこと。それを日本人は美と感じてきた。日本の自然環境が、そうした美意識を育んできた。
 何を美しいと感じるか?
 人生の進路、人との関係、選挙の投票など、様々な重要な場面で、美のセンサーが重要な鍵を握る。
 そして、美のセンサーを磨くものと、劣化させるものがある。
 美のセンサーを磨くものは、己を謙虚にし、劣化させるものは、虚栄を美と錯覚させる。

 

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名張川龍王の滝。

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古墳で、有名な飛鳥の石舞台古墳のように石室がむき出しになっている。石舞台古墳蘇我馬子の古墳とされ、たくさんの観光客が訪れるが、太秦の蛇塚古墳の石室は全長17.8メートルで、石舞台古墳に匹敵する規模なのだ。そして玄室の底面積の大きささは日本の古墳で四番目の大きさ。そして、石舞台古墳で使われている石材は、わりとどこにでもある花崗岩だが、太秦の蛇塚古墳の石材は、チャートである。

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愛宕山麓、空也の滝。

 

 

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第1113回 自然と人間のあいだ

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 1日の降雨量が、1ヶ月の平均総雨量と等しいとか、その2倍、3倍であるという報道が増えた。

 梅雨の7月は、例年でも降雨量が多いのに、以前なら1ヶ月かけて降り積もった雨量が、たった1日で降ってしまうという状況は、いったい何を物語っているのか。

 地球温暖化との関係が強調されてはいるが、人間にとって都合のよかった気象条件の緩やかな変化を、人間自身の手によって、人間には対応しずらい劇的な変化に変えてしまったということなのか。

 一昨日前、「エベレスト」という映画を見た。1996年の大量遭難事故の事実に基づいて作られた映画だ。
 お金さえ支払えば、登山のアマチュアであってもプロのガイドやシェルパーによる全面サポートを受けながらエベレストに登頂できる。そのようにして、七大陸最高峰にトライすることが人気なのだという。
 あらかじめシェルパーやガイドによって急斜面にロープが張られたりクレバスに橋がかけられたりするので、登攀技術や経験を持たない参加者が多く、そのため登るスピードは遅いし、障害物のある場所などでは混雑で渋滞状態となり、長時間待たされ、それに対して参加者が不満をぶちまけるというシーンもあった。
 この映画の前に、「フリーソロ」というドキュメンタリー映画を観た。ヨセミテのエル・キャピタンという岩山の1000mもの垂直の壁を、命綱を使わず、素手で登るという究極のチャレンジ。ちょっとしたアクシデントが死に直結する。
 二つの映画は、ともに人間によるチャレンジでも、あまりにも対照的であるが、自然の凄まじさは同じだ。しかし、自然の凄まじさを理解し尽くして、その克服のための準備を最大限に行うという姿勢と、自然のことを甘く見てしまう姿勢で、結果があまりにも違ってしまう。
 世界最高峰のエベレストは、天候が穏やかであれば、荘厳で美しく、プロのガイドやシェルパーが至れり尽くせりのサポートをしてくれれば、人に自慢できるような栄光の瞬間を手に入れることができるかもしれない。しかし、ひとたび天候が悪化すると自然の猛威は凄まじい。人間の努力なんかまったく無関係で、あっという間に、死の淵に飲み込まれる。

 とくに、高山などにおいては、一瞬のあいだの気象変化は、天国と地獄の差ほど劇的である。気持ちを整理したり準備を整えたりする余裕なんかまったく与えてくれやしない。
 なので、自然の状態変化を読み取る能力が必要であるし、たとえ何事も起こっていない状況であっても注意深く行動しなくてはならない。油断や欲は禁物だ。また自分の身体状態に対しても敏感でなければならず、状況に応じて弁えて行動しなければ取り返しのつかないことになる。それらは、野生動物にとっては当たり前のこと。
 現代文明は、人間に楽をさせてくれるが、その代償として、人間の野生のセンサーが鈍麻していく。
 野生のセンサーが壊れているけれど現代人にとって最優先の安楽で快適な状態が、人間にとって望ましいことなのか、敏感な野生のセンサーを備えたまま、自然の怖さと素晴らしさに向き合えることの方が望ましいのか。

 1000m近い絶壁を素手で4時間ほどで登りきってしまったアレックス・オノルドは、は、「幸福な世界には何も起きない」と言う。

 アレックス・オノルドは、何も起きない退屈な人生を選択する気持ちはなく、多くの人は、何も起きないことが幸福だと思い、その道を選択する。

 しかし、当人は、何も起きないという状態に安住したくても、自然は、そのように都合よく振舞ってくれない。

  コロナ問題にしても、安全・安心とか科学的分析や対応を強調する声ばかりが異様に大きいのだが、そういったものは、身体的感覚を失った頭(左脳)だけの情報操作にすぎないのではないか。
 対策をきちんとしてもらえなかった、正しい情報をもらえなかった、だから危険な目にあってしまったという不平や不満の声は、現代社会では簡単に多くの支持者を得る。
 自分の野生のセンサーを大事にしている人なんか、ほとんどいないからだ。
 もはや野生のセンサーという言葉自体が、非科学的でリアリティのないものになってしまっているので、それを失っているという自覚もないし、そのことに対して反省する必要もない現代社会。
 野生動物の世界では通用しない人間様だけの論理で、どこまで押し通せるのだろうか。

 

 

 

 

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第1112回 歴史を知ることは、未来を知ること。

 私が子供の頃もそうだが、日本の歴史教育は、本当につまらないものになっている。「鳴くよウグイス平安京」と、何年に何が起こったかと、権力者や優れた業績を残した人の名を覚えることが重要視され、教科書に載っていることを正確に覚えて書けるかどうかをテストで試されるだけで、なぜそうなったのか?など、その背景のことについてじっくり想像したり、議論する学習はなかった。

 歴史の成績は、権威機関によってこれが正しいと決められたことを正確に覚えることが重要で、想像力を膨らませてしまうと、間違った解答とされてしまう。

 しかし、これからの行為においては、正しいか間違っているかの判断は重要だが、過去に起きたことについて、正しいか間違っているかを決めることに、どれだけの価値があるのだろう。なぜ、過去のことなのに、権威機関が正しいと決めたことに従わなければいけないのだろう。

 歴史を学ぶことの意義は、温故知新であり、古いものをたずね求めて新しい知見や道理を発見することのはず。新しい知見は、全員が共有できるものである必要はなく、人それぞれの人生が違うように、少しずつ違っていて構わないのだ。

  そして歴史認識は、未来の洞察と関わっている。歴史がどのように動いてきたのかを考えることは、これからどのように歴史が動いていくかを考えることにつながる。

 マルクスは、階級闘争が歴史を動かすと説いた。その思想を信じた人たちが、階級闘争によって現状を力づくで変えようとした。また、天皇を中心に日本の歴史が継承されてきたと教えられ、そのことを強く信じてしまうと、天皇に忠義を尽くすことが日本人として相応しいということになってしまう。

 また、テクノロジーの発達が歴史を動かしてきたと信じている人は、未来もそうやって作られると信じているだろうし、戦争が時代を変えてきたと思っている人は、これからもそうだと思う。時の権力者が自分に都合の良いように歴史を動かしてきたと思う人は、これからも歴史はそうやって動くだけだと諦めて政治に無関心になる。

 歴史はどう動いてきたかについて、一つの正しい答を覚えて信じることは、思考停止に陥ることだから、害の方が大きいかもしれない。

 歴史は、生き物である。歴史への向き合い方に応じて、姿を変える。それは未来も同じである。

  今では多くの観光客が訪れる京都の上賀茂神社。この上賀茂神社は、京都でもっとも古い神社の一つで、この神社の神体山である神山の麓からは縄文時代後期の土器が出土している。

 この神社は、もともとは賀茂氏の神社だったが、長岡京遷都の頃から国家の神社に位置付けられるようになり、桓武天皇によって、平安京遷都以降、平安京の守り神となった。

 京都の地図を見ればわかるように、この上賀茂神社の位置は、愛宕山比叡山という二つの代表的な山のあいだで、京都を南北に貫く中心軸の上にある。

 桓武天皇は、天皇になるまでに数々の血なまぐさい政争を経験し、実の弟の早良親王をはじめ、無念の死を遂げた人たちの”怨霊騒ぎ”に悩まされていた。疫病などで人が亡くなったり天変地異があると、怨霊の仕業だから、その霊を鎮めなければならないと、祓いや祈祷を行ったり誰もが必死だった。

 律令制の基礎を築いた天武天皇の治世以来、陰陽道は政策決定における重要な位置を占める官僚組織になっていたので、たとえば都の鬼門(鬼が入ってくる方向)に比叡山がある云々と、陰陽道にもとずいて、平安京内の聖域が定められていることは多くの人に知られている。

 しかし、その当時の朝廷の陰陽道依存は、現代人の我々が想像するよりも周到であったのではないかと思う。

 昔の人の方が現代人よりも迷信深いからというのではない。科学的分別に支配された現代人であっても、初詣の時に神社で購入した破魔矢を、ゴミ箱に捨てたりする人は、ほとんどいないのである。

 最初から何もしなければ気にしないことでも、何らかの関係が生じたものは、途中からぞんざいに扱うと罰が当たる。現代人でも、そう考えるのだから、当時の人々は、なおさらだろう。

 だから、神様との関係において、陰陽道などを用いて何かしらの条件設定を行えば、それ以降も、その条件を徹底していくということが行われるはずで、そのあたりのところを確認していくと、一つひとつの聖域が持つ意味も、より深いものになってくるだろうと思う。

 平安時代以降、国家において伊勢神宮の次に重要な神社となった上賀茂神社に話を戻すと、上賀茂神社の祭神は、賀茂別雷神社(かもわけいかずちのかみ)である。

 名前からして雷の神様のように聞こえるが、単なる雷の神様ではなく、字のとおり、雷の力で別ける神様だ。一般的に水と火を別けるとされているが、雷というのは、たとえば磁鉄鉱に磁性をもたらす力があり磁石をつくることができるので、砂浜で砂鉄を選り別けることも可能になる。

 とくに陰陽道のことを踏まえると、森羅万象を構成する要素である水、火、土、金、木などを別ける力を備える神と捉え直してもいいかもしれない。

 次の地図には、京都の代表的な聖域がのほとんど全てが含まれている。

 これを見ればわかるように、聖域の位置が、山と盆地の境界で、かつ東西や南北など一直線上にきっちりと配置されている。(寺社の境内は広く、昔はさらに広かったので、一点だけのポイントだけで見ると少しズレているが、空間としてはほぼライン上である)。

 京都の代表的な山は、比叡山愛宕山で、この二つの山が、東西のライン上に並んでおり、その間に京都の都がある。その中心軸のラインは、貴船、上賀茂、一条戻橋、東寺である。しかも、西端の老ノ坂峠、東端の逢坂の関という京都の東西の出入り口が、北緯34.99度の同緯度なのだ。さらに老ノ坂峠は、愛宕山の真南でもある。

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京都は、山に囲まれた盆地だが、この限られた空間に配置された聖域は、見事なまでに位置関係が整理されている。 一番上が、貴船大明神が降臨した貴船山で、その真南に上賀茂神社、一条戻橋(晴明神社)、東寺である。 東西の平行線は、一番上のラインは、西から愛宕山、高雄山、上賀茂神社比叡山。上から二番目が、西から愛宕念仏寺、大覚寺仁和寺北野天満宮、北白川天神宮。 三番目が、西から嵯峨野天龍寺蚕ノ社永観堂三井寺。四番目が、西から松尾大社、八坂神社。 五本目が西から老ノ坂峠(京都への西の出入り口)、西芳寺清水寺、逢坂の関(京都の東の出入り口)。上賀茂神社から西南の斜めのラインは、五山の送り火の左大文字、金閣寺龍安寺仁和寺仁和寺の真南が双ヶ丘、蚕の社愛宕山から東南に伸びるラインは、龍安寺北野天満宮、一条戻橋、京都御苑永観堂を通って、逢坂の関まで伸びる。 松尾大社から比叡山までの西北のラインは、梅宮大社、一条戻橋、下鴨神社糺の森)を通り、近江の地の日吉大社に至る。日吉大社松尾大社の祭神はオオヤマクイで同じ。このラインは冬至のラインでもある。不思議なことに、晴明神社のある一条戻橋が、これらのラインの中心にある。一条戻橋が平安遷都の時に作られていたが、その後、晴明がこの橋のたもとに屋敷を構えて、橋の下に式神を置いていた理由は謎だったが、この地図を見れば、まさにここが京都の中心点にあたることがわかり、陰陽道にとって要の地だったことがわかる。

 上賀茂神社の真西は、火の神、カグツチを祀る愛宕山愛宕神社で、真北は、水の神とされる貴船大明神が降臨した貴船山。五行の”火”と”水”が、真西と真北にある。

 さらに、真東には比叡山があり、真南には、平安京鎮護のために東寺が建造された。

 さらに東南の方向に下鴨神社があるが、ここは、元々は巨大な森だった。「糺の森」と呼ばれるこの森は、現在でも東京ドームの約3倍の広さがあるが、平安時代は、現在の40倍の大きさを誇っていた。(応仁の乱で7割が焼失した)。つまり、鴨川と高野川の合流する三角ポイントの広大な地域が、原始の森だったということになる。

 つまり、この方向は五行の”木”である。

 そして、上賀茂神社の西南の方向には、金閣寺龍安寺仁和寺といった京都を代表する寺や五山送り火の左大文字が並ぶが、このライン上にある朱山や衣笠山は、古代からの葬送の場所だった。衣笠とは遺骨を覆った布を指す。つまり、このラインは五行の”土”と言える。

 残るは、”金”ということになるが、五山送り火大文字山比叡山から琵琶湖西岸の比良の山々は、古生層に花崗岩が貫入した古代の鉄鉱石資源帯だった。比叡山大文字山のあいだの花崗岩帯の副成分鉱物の「褐簾石(カツレン石)は、1903年、日本で初めて発見された放射性鉱物としても知られている。そして、ここには、関西で一位、全国でも二位のラジウムを誇るとされる北白川温泉もある。陰陽五行の”金”とは鉱物を指すので、比叡山が、金ということになる。

 そうした、金、木、土、水、火のこじつけはともかく、上賀茂神社を中心にして、京都を代表する聖域が、東西南北に広がっていることは間違いない。

 さらに興味深いことに、この上賀茂神社の真南、東寺の方向に、一条戻橋が位置していることだ。

 この橋は、あの世とこの世をつなぐ橋をして知られ、平安京造営の時から作られていたとされる。

 そしてこの橋のたもとに、10世紀に活躍した陰陽師安倍晴明の屋敷があり、現在は、晴明神社となっている。

 陰陽道では、使役する鬼のことを式神と言うが、安倍晴明は、この式神を、一条戻橋の下に住ませていたという伝承もある。

 この一条戻橋は、「平家物語」で、渡辺綱が女に姿を変えた鬼と出会う場所である。鬼は、渡辺綱を掴んで空に舞い上がり、愛宕山に向かって飛ぶ。その時、渡辺綱は、「髭切」の太刀を抜いて鬼の腕を切り落とし、北野天満宮に墜落する。片腕を失った鬼は、愛宕の方向へ飛び去る。

 よく知られた説話であるが、面白いのは、鬼と出会った一条戻橋と愛宕山の一直線上に北野天満宮があることだ。

 日本の三大怨霊の一つとされる菅原道眞を祀る北野天満宮の位置も、方位に従って周到に定められた可能性がある。

 さらに、渡辺綱に腕を斬られた一条戻橋の鬼は、平家物語で描かれる橋姫と同じだという話がある。

 橋姫は、嫉妬に狂った女が鬼となって夫を奪った女性を殺したいと貴船大明神に祈って鬼となる物語だが、貴船大明神が降臨したと伝わる貴船山は、一条戻橋の真北に位置しているのだ。

 これらを確認するだけでも、京都の聖域は、陰陽道などを元にしたコスモロジーに従って位置関係が決められ、平家物語などの物語は、それを踏まえて表現されていることがよくわかる。

 平安遷都の時にすでに、上賀茂神社を起点として、南に東寺、北に貴船神社、西に愛宕山、東に比叡山など東西南北の重要な聖域が定まっていたので、その後に作られていく中世の聖域も、このコスモロジーに基づいて、順々に線上に重ねられていった。

 上賀茂神社衣笠山や朱山を結ぶ西南の方向には、金閣寺龍安寺仁和寺という京都を代表する寺院が並ぶが、そのラインに五山送り火の左大文字がある。そして、見晴らしの良い朱山の中腹に第66代一条天皇の綾が作られ、一条天皇の火葬場までがこのライン上である。

 一条天皇の時代は、日本の精神文化の歴史を考えるうえで重要である。

 藤原道長による藤原摂関家の絶頂の時とされるが、正確に言うと、藤原摂関家の栄華の最後の花火であり、藤原氏は、道長と頼通の親子以降、影響力を失っていく。もう少し具体的に言うと、一条天皇の後、貴族の時代から武士の時代に移行していくのだ。

 一条天皇の時代は、『源氏物語』を書いた紫式部など日本固有の文学が花開いた時であり、さらに、第60代朱雀天皇の頃から活躍したとされる安倍晴明の影響力が、もっとも高まった時代と言えるかもしれない。

 安倍晴明は、一条天皇の前の花山天皇が皇太子の頃から信頼を受けていたが、一条天皇の治世においては、天皇だけでなく藤原道長にも重んじられていた。

 藤原道長は、陰陽道を重視していたようで、一定の期間、外部との交渉を遮断して閉じこもる物忌みを、20年で300回も行った記録がある。

 また、外出などの際、その方角の吉凶を占い、その方角が悪いといったん別の方向に出かけるといった方違えも頻繁に行っており、そのまえに、所有している別の自宅を使っていた。源氏物語の中でも、こうした貴族の陰陽道に基づく風習が描写されている。

 そして、今では菅原道眞を祀る神社として知られている北野天満宮だが、祟り神としての道眞を、国家的な守り神へと昇格させるうえで、どうやら陰陽道が関係しているように思われる。

 菅原道眞が亡くなったのは903年であるが、天皇の勅使が派遣されて祭祀が行われて北野天満宮天神という正式な神号が送られたのは987年、一条天皇の治世である。その4年後の991年、北野天満宮は、国家の重大事、天変地異の時などに天皇から特別の奉幣(神への捧げもの)を受ける神社に加えられた(当時は19社、のちに22社)。

 道眞が亡くなってから90年近く経っている。

 そして、一条天皇の治世と言っても、987年というのは僅か6歳で一条天皇が即位した翌年のことであり、一条天皇の意思ではない何かが、こうした動きの背景にあったものと思われる。

 幼少の一条天皇が即位したのは、藤原道長の父親の藤原兼家の陰謀で、安倍晴明に深く信頼を寄せていた花山天皇が、即位して僅か2年、18歳で出家させられて退位したからである。

 北野天満宮と、その祭神の菅原道眞が、国家にとって特別なものとなるのは、菅原道眞の死後(903年)の厄災が直接の原因ではなく、国の秩序が大きく変貌しつつある状況のなかで、相変わらず権謀術数が繰り返し行われている時だったのだ。

 

(つづく)

 

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第1111回 わかりやすい自分事と、わかりにくい他人事で切り分けるのではなく。

 近年、テレビメディアやSNSの影響からなのか、人々は、わかるかわからないか、共感できるかできないか、という単純な線を引きたがる傾向が強い。
 しかし、わかることや簡単に共感できることというのは、自分の経験の中で処理できることにすぎず、重要なことは、わかるかわからないかではなく、わからないことへの自分の向き合い方なんだと思う。
 わからないことは不安なことだから、どうしても自分から遠ざけてしまいたくなる。それは異なる価値観への排斥や、時には暴力行為にも通じる。
 しかし、自分の人生についても、どうすればいいかわからない問題に直面することは多い。自分の問題なら自分で考えて行動するしかないが、たとえば身内が重い病を患っている場合など、自分ではどうしようもなく、どうすればいいかもわからず、心苦しく見守るしかないということだってある。そういう苦しい心境を吐き出せる場を見つければいいという考えもあるけれど、吐き出したところで救いになるわけではなく、じっと堪えて向き合い続けるしかない。
 私は、わからないことだらけの古代のことを、敢えてピンホールカメラで向き合うという選択をしているが、ピンホールカメラで撮った写真というのは、見るというより、眺めているという感覚になる。針穴を開けている長時間露光の時も、風景を見ているというより、眺めている、もしくは、その状況を祈るような気持ちで見守っている。
 眺めたり見守る時というのは、その瞬間だけを見ているのではなく、その先に思いを馳せている。その先に思いを馳せる感覚は、祈りに近い。
 そして、その先というのは、未来でもあり過去でもある。
 たとえば病の中にある身内のことを思う時、その未来のことを心配すると同時に、過去の懐かしさが苦しくなるほど胸に迫る。
 それは、現代の病んだ社会のことを思う時だって同じだろう。
 私たちは、祈るような思いを抱いている時、切り取られた現代のこの一瞬だけに向き合っているのではなく、過去と未来と重なった現代に向き合っている。そういうトータルな時間は、見るというより、眺め渡すような感覚だ。部分的に曖昧であるか明晰であるかという分別はどうでもよく、全体として、それらのトータルな時間が、自分事であるかどうか。
 最新のカメラが典型だけれど、解像度をあげることが、物事を正確に映し出すと現代人は考えている。

 監視カメラの高性能化によって、犯人を特定しやすくなり、はるか上空を飛ぶカメラで地上の様子が手にとるようにわかる。かつてのSF世界の中で私たちは生きている。 

 このように解像度をあげることを良しとする監視世界の正確さとは何なのか? それは、当面の課題解決のための正確さであるが、その部分の解像度があがり、そこに意識を集中するにつれ、当面の課題以外の大事なことが次第に見失われていく。 

 たとえば、今回の新型コロナウィルス騒動にしても、1日の地域ごとの感染者数や感染経路などが詳細にニュースで伝えられる。全体の時間は限られているわけだから、一つ事が詳細になればなるほど他の事が締め出される。新型コロナ騒動のあいだ、世の中で、他に事件は何も起こっていないかのようだった。

 しかし、日本国内で、不幸にも新型コロナで亡くなった人はいるものの、同じ期間に自殺したり交通事故で亡くなっている人は、はるかに多い。一月から5月まで、東京だけで自殺した人は797人。全国だと7797人。毎日、60人弱が自殺していた。

 コロナウィルスで亡くなった方は、日本全国で、6月26 日現在で968人。その大半は70代以上で持病のある方なので、無神経な言い方かもしれないが、コロナウィルスに感染せず、他のインフルエンザや風邪、熱射病でも亡くなった可能性のある人だって大勢いる。

 そうしてコロナウィルスで亡くなった人や、その遺族のコメントに報道の時間が割かれるなか、コロナ禍の最中に自殺した人や家族の何人が報道で伝えただろう。問題がないのではなく、問題が常態化してしまっているから伝えられないだけで、新規の問題のことだけが異様に解像度が高くなっている。私たちは、そのように高解像度によって修正された現実に生きているという認識が大事だ。

 一番の問題は、この近視眼的な目だ。環境問題、地域紛争、教育格差や経済格差、世の中には様々な課題があるが、近視眼的な目でしか物事を見られなくなると、当然ながら、他の部分が見えなくなり、現実感覚に偏りが生じる。

 現代の問題を、現実感覚に偏りが生じた思考で解こうとしても、さらに問題を複雑化させるだけなのだ。

 仮想敵が最新の武器を備えれば、それに対抗するためにこちらも最新の武器を備えて、そのことが仮想敵にさらなる対策の口実を与えるという堂々巡り。

 現代の問題を考えるために、現代の解像度をあげて見るということが、果たして、現代の問題を正しく見ることになるのか?
 どこまで解像度をあげても表層的なものにすぎないのではないか。
 現代の問題の本質を考えるためには、未来と過去を重ねて捉える視点が必要なはずで、それは、トータルな時間全体を眺め、見守るような眼差しであり、そうしないと、現代において著しく欠損しているもの、見失っているものを発見できない。
 高解像度の精密な描写というのは、物事を正しく写しているのではなく、恣意的に切り取った範囲のことを、わかったつもりになって処理することにだけ向いているとしか思えない。
 重要なことは、わかることではなく、わからないことに対する作法。
たとえわからなくても、もしくは、わからないからなおさら、自分ごとの感覚が深まること。
 作為的に技巧的に、ある種の虚栄で難解にしただけのものは、自分ごとの感覚から遠ざけるばかりで、人を他人事に導いてしまう。
 わかりやすい自分事や、わかりにくい他人事は世の中に無数に存在するが、わかりにくい自分事こそが、自分の未来の在り方につながっているのだと思う。

 

 

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