第1458回 口先だけの分析なら、もはやAIの方が上手にできる。

昨夜の地震の状況を知ろうと思って、朝、テレビをつけたら、屋台を引きながら無料でハーブティーをふるまい、薬に関する相談などにのっている若い薬剤師が紹介されていた。
 彼がこういうことをするようになったきっかけは、病院の待合室で、患者さんが隣の人に対しては気軽に自分の症状や心配事について話をしているのに、いざ医師や薬剤師の前に来ると、素直に心の中を打ち明けてくれないことがあって、自分と患者さんのあいだにある壁のようなものを取り払う必要を強く感じたからだと言う。
 彼は、壁の外側から相手と接するのではなく、壁の内側に入って相手と接することが大事だと思い、そう思うだけでなく、具体的な形にしたことが素晴らしい。 
 医療分野に限らず、「外側から見る」ことと「内側に入って見ること」の違い。
 この違いこそ、意識の転換、すなわち世界の転換に関わる大きなポイントでないかと私は思っている。
 「外側から見て分析する」ことの問題は、レヴィ=ストロースが、100年前に文化人類学の研究において問題提起していたことだ。自分が向き合う対象を、博物館の展示物のように整理することを目的化しているような学問研究に対しての問題意識。
 こうした「外から目線」は、今日的学問の隅々なで行き渡った目線であり、その学問的目線から派生した今日的な情報伝達において普通になされていることである。
 相手を単なる「物」として冷たく扱うということ。その「物」じたいに、魂などまったく感じていないことが当たり前になっているが、対象が人間である場合も同じ。その行き着く先は、人間も、ただの「数値」に置き換えられて判断される現実である。
 結婚相手の人間の優劣は所得で判断され、 健康度を計る目安は、血圧や血糖値がいくらか?であり、芸術作品の素晴らしさを判断する目安は販売数や集客数。ニュースソースの優劣は視聴者数。SNSやユーチューブでは、いいね!の数で一喜一憂。
 南海トラフ地震においても、想定震源域で「マグニチュード6.8以上の地震が起きたとき」に、気象庁は専門家による検討会を開くことになっているそうで、昨夜、豊後水道で起きた地震は、想定震源域であるものの、基準を下回るマグニチュード6.6だったため、検討会は開催されないと気象庁から発表があった。
 現代社会において、数字の力、その説得力は最強であるらしい。
 しかし、数字には現れにくい(現時点では現れていない)内実というものがあり、未来の種は、そこに潜んでいる。
 そして、外側から見ているだけでは、その内実に触れることができない。
 リヤカーを引きながら、相手と同じ目線で語り合うことを始めた若い薬剤師は、そのことがわかっている。
 「わかっている」とか、「わかっていない」という言葉も、安易に使われており、専門家と称する人は、世間一般では、わかっている人だとみなされている。
 しかし、経営評論家に、本当の経営ができるだろうか。写真評論家や芸術評論家に、いい作品が作れるだろうか?
 作る側と評論する側では、役割が違うとか専門が違うと言われるけれど、本当にそれでいいのだろうか。
 外から評論することと、実際に会社を経営することや作品を作ることのあいだに、言いようのない隔たりがある。そして、この隔たりの中にある言うに言われぬものこそが、実際の経営や作品作りにおいては、極めて重要な鍵である場合が多い。
 経営評論家が、実際に会社の経営者にならないとしても、経営者の身近にいるアドバイザーとして、毎日のように起きる複雑なトラブルや課題に対して、その都度、優れた経営者が判断するように、素早く、適切な判断ができるようでなければ、信頼できる経営評論家とは言えないだろう。
 写真評論家や芸術評論家にしても、実際に写真を撮ったり作品を作ることを行わなくても、クリエイターが、作品をまとめた形で発表するための作品集や展示会などを行う場合、口先でああだこうだと言うだけでなく、最も適切な形でアウトプットするための具体的な対応ができなければ、信頼できる評論家とは言えないだろう。
 なぜなら、相手(作品)のことをわかるというのは、相手(作品)を分析することではなく、相手(作品)の中に秘められた力を引き出せること、生かせることだからだ。
 これは、会社組織の中の上司と部下の関係においても同じ。部下のことをわかっている上司というのは、部下を分析して、それらしく評価付けする人ではなく、部下の力を引き出せる人。
 それができる人は、リヤカーを引いている若い薬剤師のように、相手との併走ができる。
 昨日、希望者に対して実施しているポートフォリオレビューを行った。
 私のポートフォリオレビューは、一般的によくあるように、写真家が持参する作品を見て、あれこれ分析したり、上から目線でアドバイスをするといったことは行わない。
 私のポートフォリオレビューは、実際に本や展覧会などのアウトプットを行うことを想定したうえで、その写真家と一緒に、作品を組み上げていく。もちろん、手を動かすのは私であり、写真家が、それを見ながら、どう思うか、どう感じるかをくみとって形にしていく。
 私は、20年以上、それこそ無数の写真家の作品に対して、そのように対応してきた。そして、その集中時間を苦としていないので、時間を忘れて没頭してしまう。 昨日も、午後1時から始めて、休憩もなしに、午後7時半まで行った。
 写真をセレクトしながら構成して、全体の入り口となる表紙からタイトルから、展開から、具体的なレイアウトデザインまで、一挙に60ページほどの形にした。
 だいたい、いつもこのくらいのボリュームまで作り上げて、後は、ソフトの使い方や印刷発注の方法などを伝え、写真家自身の手で続きを行えるようにしている。
 もちろん、この時間で私と写真家が併走して作ったものを絶対視する必要はなく、家に帰って冷静になって自分で手を加えていけばいいし、そのようにして改良したものをPDFで送ってもらえば、それを見て、さらなる対話を行えばいいと思っている。
 目指すべきは、その人が作り上げていくものとして、最適で最善のものであること。
 「数字」ではなく「内実」で人の心に働きかけができるもの。
 展覧会などに行って、心の中では、そんなにいいとは思っていないのに、有名人が絶賛していたり専門家が高評価を与えていたり、なんかの賞を受賞していたり、世間で評判のようだから「いいもの」なんだろうなという感じで見るのではなく、その「内実」に、本当に心が動かされるのかどうか。
 そうした「内実」のあるものを作り出して、それが伝わることこそが、作り手として本当の喜びであることを、わかってほしい。心の底でわかっていながら、社会の壁で実践できていない人に、実践できる方法を、具体的に伝えたい。 
 表現者を自称する人々が世の中に溢れかえっており、何のために表現行為を行うのか?という根本的な問いに立ち返るところから、表現を志す人は始めなければいけないのではないかと思う。
 しかし、それを、言葉で説いているだけなら、口先だけの評論家と同じであり、口先ではなく、実際に手を動かして、具体的な形にして、見せることが大事な時代になってきているのではないだろうか。
 口先だけの分析なら、もはやAIの方が上手にできる。 AIが苦手なことは、言葉にならない微妙で繊細なものの中に、大事な種が秘められていることを察する力だろう。
 屋台を引きながら、一人ひとりと対話しながら自分の心の中に蓄積していく人々の繊細微妙な心模様は、屋台を引く人間だけにわかる経験であり、その経験は、標準化された言葉に置き換えて、他の人に簡単に伝えられるものではない。
 それをわかろうと思えば、自分も、実際に屋台を引くしかない。

 

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 4月27日(土)、28日(日)、東京で、ワークショップセミナーを開催します。
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第1457回 地震のサイクルと、日本社会のサイクル。

昨夜遅く、愛媛、高知で震度6弱地震が発生した。これは本当に怖い。南海トラフの前の、不気味な足音のような気がしてならない。
 台湾から宮崎、そして四国と、最近、立て続けに、中央構造線の南側の地震が続いている。
 1995年の神戸での大地震以来、北海道、新潟、鳥取、東北、熊本、そして能登と、ほぼ5年間隔で、中央構造線の北側で大きな地震が発生してきた。
 そのあいだ、大きな地震が発生していなかったのは、東海、近畿の南部、そして四国と、中央構造線の南側で、南海トラフ地震が発生した場合に大きな被害が想定される地域だった。
 前回の南海トラフ地震が発生したのは1945年。その前が1854年。80年から100年のサイクルで発生する南海トラフ地震は、日本列島の下に潜り込むプレートにエネルギーが蓄積して起こるわけだから、これはもう必ずどこかのタイミングで起きる宿命にある。
 そして、そのサイクルの期間に入ってきた。
 太平洋戦争や明治維新といった時代の転換期と重なるように起きた南海トラフ地震
 単なる偶然なのか、それとも人間社会にも、一定のサイクルがあるのか。
 私たちは、知らず知らず、ずっと同じ価値観と同じ体制が続いていくような錯覚に陥っているが、歴史を振り返れば、そんなことはありえない。そして、そうした体制変化や価値観の変化には、自然現象が大きく関わっていた。
 フランス革命以前の10年は、気候が不順で、厳しく寒い冬や、冷夏によって、旱魃が起こり、人々はパンを手にいれることができず、ギロチンで死ぬのも飢餓で死ぬのも同じだという思いが、人民の爆発につながった。
 同じ頃の1782年から1788年、日本は、天明の大飢饉に見舞われ、杉田玄白の『後見草』では、死んだ人間の肉を食い、人肉に草木の葉を混ぜ犬肉と騙して売るほどの惨状であったと記録されている。こうした状況のなか、1783年、浅間山において、歴史上、最も激甚な災害をもたらした大噴火が起きている。
 今日の四国の地震の直前、インドネシア北スラウェシ州にあるルアン火山で大規模な噴火が発生しているが、その場所は、日本の四国から台湾を通るフィリピン海プレートの南の端にあたる。
 4月9日には、近いところで、マグニチュード6.6の地震があったばかり。
 地震速報が終わった瞬間から、テレビでは、能天気な馬鹿笑い声を響かせる番組が流されて、まるで神妙な事態から気を逸らすことが、(消費誘導のために)重要視されているかのようだが、そうした気分に流されず、真剣に自分ごととして、覚悟と備えが必要な段階に差し掛かっているのだろうと思う。
 *専門家は、今回の地震は、南海トラフとまったく関係ないとは言えないが、地震発生のメカニズムが異なるため、直接的な関係はないと思われると声明を出している。
 しかし、南海トラフのメカニズムを、どれだけ把握していると言えるのか? 前回の発生は、80年前であり、太平洋戦争の終戦直前の混乱期。 
 ほとんどデータなど得られていないはずだし、データがあったとしても、メカニズムの真相などわからない。
 地震の専門家は、地震が起きた際に、いつも後付けで説明するだけであって、事が起きた後、後付けの説明を聞いても、何にもならない。

 

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第1456回 女性天皇が続いた時代。

愛子さま明治神宮に初参拝。
 この方は、なんだか巫女のようなオーラを漂わせている。
 現在、皇位継承順位は、第一位が、秋篠宮文仁親王で、第2位が、文仁親王の長男の悠仁親王
 これは皇統に属する男系男子にのみ皇位継承権を認めるという皇室典範のためで、小泉政権の時に、女性天皇の可能性が検討されたのに、皇室典範改正に慎重な安倍晋三が総理大臣になってから、改正の動きは止まってしまった。
 平成の天皇は、男性だけれど、古代の巫のようだと私は思っていた。
 私の感覚だが、秋篠宮家の人々には、現代的な空気が強く感じられる。
 現代的というのは、個人主義的な分別が根幹にある。
 巫というのは、個人主義的な分別が非常に弱くて、自分のことよりも、大きなものに対して、自分の魂を捧げるような存在であり、愛子さまの方に、そうした巫のような空気を感じる。
 男系男子にのみ皇位継承権があるなどという考えは、いったい、どこの何ものから出てきたものなのか。
 この国が天皇を中心にして一つの秩序にまとまっていったのは、一般的に思われているような、3世紀以降のヤマト王権の時代ではない。
 西暦500年頃まで、共通文字もなかった時代、日本の隅々まで官僚機構によって統治できるはずがないし、武力による長期的制圧も現実的ではない。一つの氏族や勢力に、それだけ強力な武力が集中していたとも考えられない。
 統一に向けての明確な動きは、現在の天皇の血統を遡れる最も古い第26代継体天皇からと考えるのが自然なことで、その後、抵抗勢力などとの攻防を経て、ようやく西暦600年頃に、一つの体制にまとまっていったと考えた方がいいだろう。
 17条憲法の「和をもって尊し」に象徴される推古天皇の時代だ。
 しかし、一つにまとまった新しい体制を維持していくのは、簡単なことではなく、いつの時代でも、反動勢力はいる。
 そうした不安定な時代が続くあいだは、女帝が、多く即位していた。 
 学者は、男性の世継ぎが幼かったためのつなぎだと説明するが、そうではないだろう。
 なぜなら、推古天皇の後は、皇極天皇(後に斉明天皇として重祚)、持統天皇元明天皇元正天皇孝謙天皇(後に称徳天皇として重祚)と、圧倒的に、女性天皇の方が、即位期間も、人数も多い。
 このあいだに、長期にわたって即位していた男性天皇は、存在しない。
 聖武天皇の25年が最長だが、病気がちだったため、譲位した後の元正天皇が政務を行っていた。
 天武天皇の時も、晩年は病気がちで、持統天皇が政務を行っていたとされるわけだから、この200年は、女性天皇によって日本という国は、一つにまとめられていたのだ。
 とくに、私が気になるのは、持統天皇元明天皇元正天皇と、女帝の力によって律令体制が整えられていった7世紀後半から8世紀前半だ。
 実はこの時、白鳳巨大地震(684)や、浅間山の噴火(685)が起きた。地震は、南海トラフが凄まじい破壊力で巨大な津波も起きているが、その前後に、かなり大きな地震が頻発したことが記録に残っている。
 律令体制が始まったことと、この自然災害の関係性は、どこにも書かれていないが、律令体制というのは、かなり特殊であり、それまで先祖代々守ってきた土地を、天皇に差し出して、改めて借りるという制度だ。
 そんなこと、ある日、突然に求められても、「はいそうですか」とならないのではないか。日本全国の人々に武力で強制するということだって、簡単にできるとは思えない。
 この時、この国の人々の内面にどういう変化があったのか、考える必要があるのではないかと思う。
 最近、各地で地震が頻発し、南海トラフ地震が起きるサイクルの80年から100年という(前回は1945年)時期にさしかかってきた今、愛子さまの古代の巫女のような佇まいを見た時、持統天皇元明天皇元正天皇というのは、このような感じだったのではないかと、ふと思った。
 天皇というのは、我儘な権力者ではない。
 平成の天皇のおことば、
 「国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。」 
 そして、日本中をくまなく訪ね歩き、災害があれば被災者のもとに駆けつけて寄り添い、膝をついて、一人一人の顔を見ながら語りかけておられた姿勢。
 現在は、「象徴天皇」と呼ばれているが、これが本来の天皇の姿だったのではないだろうか。
 こうした役割を担ううえで、天皇は男でなければならない、などという時代錯誤で頑迷な発想が、この国のためになるとは、どうしても思えない。

 

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第1455回 自分の計画通りに作るのか、何かに導かれるようにして作るのか。

レヴィ=ストロースは、生命原理は、エンジニアリング(設計思想)ではなくブリコラージュで成り立っていると述べた。
 毎月、東京と京都で交互に行っているワークショップセミナーの冒頭で、このことについて詳しく説明してから本題に入ることにしている。
 ウィキペディアなどで「ブリコラージュ」を調べると、「寄せ集め」とか中途半端な説明になってしまっているので、もう少し具体的な説明が必要だ。
 たとえば石工が作る石垣とか、宮大工が作る建築物、工業製品だと、ダイソンが作った掃除機などが、ブリコラージュに該当する。
 設計図を作って、それに基づいて完成させるのではなく、石や木など、物づくりに用いる物の声に耳を傾けるようにして、手や身体を動かして作り上げていくもの。
 日本庭園と、ベルサイユ宮殿の庭園の違いは、ブリコラージュと、エンジニアリングの違いだ。
 ダイソンの掃除機も、創業社長がいろいろなパーツを組み合わせて1000くらいプロトタイプを作って、ああでもない、こうでもないと、完成させていったと言う。
 私は、自分の仕事においても、無意識のうちに、ブリコラージュで行ってきた。
 私は、編集人だから、写真や文章を組み上げていくことが重要なつとめであり、写真構成などにおいても、全ての写真を見て、それこそ耳をすませるように集中して、写真と写真が呼びあっているのを察知するような感覚で組んでいく。
 自分の頭の中で設計図やコンセプトみたいなものを作り上げて、それに適った写真を選ぶとか、説明の道具として写真を選ぶとか組んだりしたことはない。
 このブリコラージュの方法で、川田 喜久治さんや細江英公さん、東松照明さんや石元泰博さんなど戦後の日本写真界の牽引者や、セバスチャン・サルガドやジョセフ・クーデルカなど海外の写真家の写真も構成してきたが、私が選び、組んだ写真のままで、ほぼ全てがOKだった。そして、それを面白いと気に入ってもらえることの方が多かった。
 自分自身の身の回りにある物にしても、デザインや色合いを統一するといったことを重視しないし、コンセプチュアルな作品を所有していない。器などにしても、デザイン重視のものよりも、焼き締めという釉薬をつかわず炎の力だけで焼いたものが好きだ。
 家具は、無垢のものが好きだし、椅子もたくさんあるが、同一規格でそろえたりせず、手触りや風合いとともに、異なるもののあいだの調和を考慮して選んでいる。
 作り手や選び手の頭の中が透けて見えるような物(エンジニアリング=設計思想)というのは、すぐに飽きてしまう。
 毎日、ベルサイユ宮殿の庭園を散歩するよりも、スティーブジョブスも通ったという京都の西芳寺苔寺)を散歩した方が、日々、異なる触発を受けるのではないか。
 飽きるかどうかだけでなく、石壁や建築物などがわかりやすいが、エンジニアリング的なアプローチで作ったものよりも、ブリコラージュで作られたものの方が、長い歳月を生き抜く。石工や宮大工の作ったものは数百年も残るけれど、現代の設計思想で作った家や壁の寿命は短い。 
 そして、ブリコラージュの力というのは不思議なことに、実践し続けていると、感度が鋭くなってくる。石工や宮大工の場合、石や木の声がよく聞こえるようになるだろうし、私の場合、写真の声がよく聞こえるようになる。自分で言うのも何だが、私は、誰かの写真集を作る場合、写真のセレクトと構成が、かなり速い。
 文章も、内容の深度や上手いか下手かは別として、計画的に考えて書いているのではなく、降りてくる言葉をブリコラージュ的に組み合わせているだけだから、かなり速いし、推敲もほとんどしない。
 写真の選択や構成に関しては、プロとして長年行ってきた仕事なので、速いだけではダメで内容が伴っていなければならないが、膨大な写真の中から高速で写真を選び、高速で構成した私のアイデアを写真家に見せても、だいたいにおいて、不満を持たれたことはなかった。
 写真に関して気難しいと言われた森永純さんや鬼海弘雄さんの写真集も、そのように作ったし、大山行男さんの場合、一般の写真家は最初のセレクトを自分で行ってある程度厳選するが、大山さんはそれをやらないので、何千枚という写真の全てに私が目を通している。
 風の旅人の創刊の時、北海道の水越武さんのところに行って、仕事部屋で一人にしてもらって3時間以上はかけて集中して全ての写真に目を通して選んで構成したのだが、掲載しようと思ったものだけ選んで持ち帰ろうとした時、水越さんは、「それだけでいいのですか?」と驚いていた。
 私はそれが当たり前だと思っていたが、聞くところによると、一般的な編集者は、使うかどうかわからない膨大な数の予備を持ち帰るのだそう。なので紛失されると困るから、デュープをとった上で送っていたらしい。私は、写真を見ながら展開を決めて写真の数を厳選していたので、オリジナルをそのまま持ち帰らせてくれた。
 それ以来、風の旅人は、デュープではなく一点かぎりの貴重なオリジナル写真を使うことが当たり前になり、写真印刷のクオリティの高さを評価されていたのも、そのあたりに理由がある。
 ブリコラージュというのは、エンジニアリング(設計思想)と違って、物を選ぶ人間側に尺度を置かず、物の中に秘められた力を引き出すことを重視する。
 石垣作りにおいて、エンジニアリング(設計思想)だと捨てられてしまうような歪な形の石は、ブリコラージュだと、うまく当てはまると、歯止めのように周りの石の力を受け止めてくれる。
 ブリコラージュは、自分の計画のために人や物を利用するのではなく、生かすという発想になるのだ。
 数日前に 『生成と消滅の精神史』に関する記事で触れたのだが、ホメロス神話のイリアスの時代、古代人が「神の声」に従って動いていた、というのは、このブリコラージュを、象徴的に、神話的に描いただけのことではないかと思う。
 ここ8年ほど私の意識は、どっぷりと日本の古層に向けられているが、この場合も同じで、私は、読書などを通じて自分の頭の中で構築した設計に基づいて計画的に動いたりせず、まず現場第一。
 フィールドワークを重視しているのは、その場の気配や見える景色が、自分の意識の深層と、どう反応するかを確かめるためだ。
 長年行ってきた写真の構成と同じように、一つひとつの風景や、その土地の記憶に耳を傾けて、それらが、どう結びついていこうとしているのか、読み取ろうとして、文章を書いたり、ピンホール写真を撮ったりしている。この場合の写真は、自分の主体的な目的意識が曖昧になるピンホール写真が相応しい。
 カメラで撮影するというのはshootという英語でもわかるように狙い撃つということであり、かなり自己中心的な行為だ。
 それに対して、ファインダーもシャッターもないブラックボックスピンホールカメラは、長時間露光で何ものかを招き入れるという感覚の行為となる。
 そういう感覚で続けていると、不思議なことにシンクロニシティが増える。
 おそらくベテランの石工などもそうだろう。その時に必要な石が、まるで向こうから声をかけてくるように、目に入りやすくなる。
 4月7日に、亀岡の千代川を訪れたのは、フィールドワークのためではなく、京ことばの源氏物語の語り会のためだったが、その会場が、保津川桂川)に面していて、対岸に丹羽富士の牛松山や、愛宕山が見えた。

千代川地域の保津川桂川)のほとり。保津川の向こうに丹羽富士の牛松山が見える。

 

 川の向こうは、以前に訪れたことがある小川月神社だと思い、桜も綺麗だし、待ち時間が3時間ほどあったので周辺を散策することにした。
 この千代川の一帯は、月読神の聖域であることや、瀬戸内海沿岸や紀ノ川に集中している石棚付き石室を持つ古墳が集中的に作られた場所であることは知っていて、以前、探検したことがあった。
 そして、源氏物語の公演時間が近づいたので戻ろうと思った時、ふと、以前このあたりを探検しながら、田んぼの真ん中にあって、車では近づけず、道路沿いに駐車スペースもなく、諦めた神社があったことを思い出した。
 この日は徒歩だったので、田んぼの畦道を歩いて近づいて行った。鎮守の森がこんもりとしていて、なかなか風情がある神社だった。これが、藤腰神社だった。

導かれるように田んぼの畦道を歩くと、こんもりとした鎮守の森があり、丹生の女神にも通じる野椎命という蛇神を祀る聖域があった。

 

 そして祭神を確かめたところ、野椎命だったので、驚きとともに合点した。全てのパズルが解けたように感じた。
 その内容は、昨日の記事に書いたのだけれど、、野椎命というのは、この一ヶ月ほど、何回か記事にした大山祇神三島明神)の妻で、南九州の吾田の海人族の女神だ。
 大山祇神三島明神)の妻で、吾田の海人族の女神は、地域によって名前が異なる。四国では大宜津比売、近畿では天津羽羽神、静岡の掛川あたりや神津島で阿波比売、伊豆の大島で波布比売。
 野椎命もそうだが、いずれも共通しているのは、竜蛇の女神だということ。
 そして、イザナミが生きていた時、つまり陰陽の調和が保たれていた縄文時代からの精神を反映している女神で、最近のタイムラインで何度か書いた「丹生の女神」の祈りに通じる存在だ。
 亀岡の月読神の聖域が集中しているところに、この野椎命の聖域がある。
 日本書紀のなかに描かれている月読神に関する奇妙なエピソード。保食神の食べ物の提供の仕方が気に入らないからと殺してしまったこと。古事記の中で、スサノオが大宜津比売を殺してしまった理由も同じ。そして、殺された女神たちは、大地豊穣の神となった。これは、古代ギリシャの蛇神であるメドゥーサと同じだ。
 亀岡の千代川に、石器時代縄文時代から続く千代川遺跡があり、さらに、明らかに外から進入してきた勢力のものだと思われる石棚付き石室を持つ古墳が集中していること。そのうえ、この場所の近くに、第26代継体天皇天皇に即位する前に、次の天皇になることを望まれながら恐れて逃げてしまった倭彦王が被葬者とされる古墳まである。 
 この場所は、間違いなく、古代における新旧の価値観が、せめぎあったところだ。
 新旧の価値観がせめぎあったところは、亀岡もその重要な場所の一つであるけれど、ここが全てなのではない。
 先週訪れた吉野の丹生の聖域もそうで、その場所にも、祟り神を鎮める御霊神社が多く築かれていた。亀岡の場合は、野椎命の代表的な聖域である稗田野神社のすぐ近くに御霊神社がある。
 不思議なのは、昨日のタイムラインでも書いたが、それらの新旧攻防の聖域が、なぜか、一本の規則的なラインでつながっていることなのだ。
 これについての私の考えは、そのライン上の一点が新旧攻防の舞台だったのでなく、おそらく、その周辺地域全体が舞台だった。そして、日本の場合、後からやってきた勢力は、前の勢力を駆逐してしまうことを行わず、門客神のように門を守る神にしたり、御霊信仰によって祟り神を守り神にするということを行っているので、地域全体の中から特定場所を選んで聖域として残す際に、各地に起きたことの連関性を示すために、聖域を規則的に配置することを行ったのではないかと思われる。
 いずれにしろ、何の目的も持たずに、源氏物語の語り会の待ち時間に、ふと脳裏に降りてきた導きのまま足を運んだところにあった蛇神=野椎命の聖域が、この一ヶ月ほどずっと追い続け、吉野まで足を運んでいたことともブリコラージュ的に組み合わさった。
 最近は、このシンクロニシティが、かなりの深度で起きていることが実感される。

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第1454回 古代、聖から邪に転換した竜蛇神。

 

 数日前に、近畿の真ん中の縦長の盆地の北と南の端にあたる吉野と京都を結ぶ丹生の女神のことについて書いたが、今度は、その京都を軸にした東と西の関係について考えてみたい。
 吉野三山に鎮座し、蛇神の天津羽羽神を祀る波宝神社の真北に位置する上賀茂神社は、京都を代表する二つの聖山、比叡山愛宕山を結ぶ東西の同緯度ライン上に鎮座している。
 この東西ラインは、東に行けば近江富士の三上山で、西に行けば亀岡の出雲大神宮にいたる。

 不思議なことに、この東西ラインには、「御影」という名が深く関係している。
 三上山に降臨したのは、鍛冶の神、天御影命であり、比叡山の西麓には御蔭山がある。下鴨神社の祭神である賀茂建角身命は、ここに降臨したとされる。
 さらに、亀岡の出雲大神宮の背後にそびえる山も、御影山だ。
 天御影命が鍛冶の神ということからか、この東西ラインには、鍛冶関連の場所も並ぶ。近江の三上山の近くには、製鉄関連の遺跡や、日本最大の銅鐸の出土があるが、京都の愛宕山上賀茂神社のあいだにある高山寺あたりは、世界最高品質の仕上げ砥石の産地であり、この東西ライン上の西の端には、現在、砥石館(亀岡市)があるが、ここは、中砥としては世界最高品質の青砥石の産地だ。
 金属製品は、砥石がなければ、使い物にならない。
 さらに言うならば、愛宕山カグツチの聖域で、上賀茂神社の祭神、賀茂別雷命は、火雷神の子である。
 火雷神は、カグツチの火によってイザナミが黄泉の国で醜い姿になっていた時、その身体に現れていた神。
 この火雷神は、奈良の葛城を拠点にしていた鍛冶関連氏族の忍海氏が祀っていた神で、現在、そこには葛木坐火雷神社が鎮座している。
 火雷神というのは、鍛冶の際の火花が象徴化された神だと思われる。
 そしてカグツチというのも、単なる火の神ではなく、古代の産業革命を引き起こした火であり、なぜなら、カグツチの火で陰部に火傷を負ったイザナミの大便から生まれたのが陶器の神であるハニヤスで、陶器というのは、器として使われるだけでなく、鉄製品の鋳鉄技術においては、高温で焼き固めた須恵器という陶器が必要だった。
 そして、瀕死の状態のイザナミの尿から生まれたのが、もともとは水銀の神であろうミズハノメだ。ミズハノメは、一般的に水の神のように思われているが、この神を祀る代表的な聖域である丹生川上神社の鎮座地は、丹生(辰砂=硫化水銀)と関わりの深い地だ。水銀というのは天然では液体状態で存在せず、そのほとんどが辰砂という硫黄との化合物で存在しているが、この化合物を熱することによって液体水銀を分離して取り出す。火傷を負ったイザナミの尿からミズハノメが生まれたというイメージは、辰砂を熱して水銀を取り出す工程に重ねられている。
 そして、このようにして取り出された水銀は、化合しやすい性質なため、金や銀や銅の精錬に利用される。
 このように鍛冶など新技術と関わりが深いラインが、近江から京都にかけて東西につらぬいているが、このライン上の亀岡のところで、日本の歴史上極めて重要なことが、1500年前に起きている。
 御影山の麓の出雲大神宮の真西700mのところに千歳車塚古墳があるのだが、これは、6世紀前半、第26代継体天皇の時代に築かれた全長が82mの前方後円墳であり、古墳時代後期としては丹羽地方最大だ。
 そのため、この古墳の被葬者は、倭彦王とされている。
 倭彦王というのは、第25代武烈天皇が後継者の子供をもたずに亡くなった時、天皇への即位を望まれた王なのに、殺されるのではないかと恐れて逃げてしまったため、代わりに継体天皇が即位することになったという奇妙なストーリーが、日本書紀に残されている。
 現在の天皇の血統を遡れるのは、第26代継体天皇までである。それゆえ、もし亀岡の倭彦王が逃げなければ、天皇の血統は違ったものになっていたということになる。
 この話が史実かどうかはわからないが、たとえフィクションであったとしても、なぜ、亀岡の地が、天皇の血統の分かれ目であるかのような記録が残されているのかが気になる。
 現在、丹羽と丹後は分かれているが、律令制以前は但馬、丹後も含んで丹波国造の領域とされ、その中心が、亀岡だった。
 国府が置かれていた場所は、千歳車塚古墳から北西2.0kmの八木町だと考えられている。
つまり、丹羽というのは、若狭湾日本海を通じた大陸への玄関口で、その政治的拠点の亀岡は、桂川を通じて京都から瀬戸内海、奈良方面にも出られやすいところだった。
 この地は、平安後期に台頭した清和源氏とも関わりが深く、神蔵寺は、鬼退治で有名な源頼光藤原道長の後援者でもあった)が帰依し、源頼政首塚も亀岡にある。
 足利尊氏が、鎌倉幕府打倒の挙兵をした地も、亀岡の篠村八幡宮だ。
 日本海畿内をつなぐ要衝の地である亀岡は、古代から、歴史の転換に関わる場所だった。
 そして、比叡山愛宕山と亀岡の出雲大神宮を結ぶライン上で、もう一つ気になるところがあり、それが、昨日訪れた千代川町だ。

石器時代から中世にかけての千代川遺跡のある場所は、保津川桂川)の向こうに、丹羽富士と称される牛松山を望むことができる。

 保津川桂川)の西、現在、千代川インターチェンジがあるところに、石器時代から中世まで続く千代川遺跡があった。
 そして、このあたりには、18基にも及ぶ拝田古墳群がある。
 なかでも16号墳は、和歌山の紀ノ川下流域の岩橋千塚古墳群や、瀬戸内海沿岸に見られる石棚付石室を備えた古墳だ。
 亀岡盆地は、この石棚付石室を備えた古墳が7基発見されており、全国的には紀ノ川流域に次いで集中している。この石室の分布が、海人勢力の紀氏の活動域と重なっているため、内陸部でありながら、亀岡も、海人勢力と関わっている可能性が高い。
 というのは、この千代川には、保津川を挟むように月読神の聖域があり、とくに小川月神社は、延喜式名神大社である。
 亀岡に月読神の聖域があるのは、現在、京都の松尾大社の摂社になっている月読神社との関わりが指摘されているが、京都の月読神社も、もとは延喜式名神大社であり、その歴史は、隣の松尾大社より古い。
 日本書紀によれば、京都の月読神社は、西暦487年に、壱岐から亀卜がもたらされた場所である。
 日本の卜占は、弥生時代から牡鹿の肩甲骨を使った鹿卜が行われていたが、6世紀以降は、亀卜が吉凶の判断を司ることになった。
 亀卜が導入された時期は、今来という渡来人が大挙してやってきており、訓読み日本語や官僚制度など、その後の日本の秩序形成において重要な役割を果たした。
 そして、月読神というのは、三貴神の一神でありながら、アマテラスやスサノオと比べて、神話の中の存在感は小さく、物語は一つだけであり、しかも、かなり特殊な内容だ。
 その内容は日本書紀に記録されており、月読神が保食神と対面する時、保食神が饗応として口から飯を出したので、「けがらわしい」と怒って保食神を剣で刺し殺してしまい、保食神の死体からは、牛馬や蚕、稲などが生れ、これが穀物の起源となったというものだ。
 古事記の中では、これと同じ内容の物語が、スサノオ と大宜津比売(オオゲツヒメ)のあいだで起きている。
 数日前のエントリーで、大宜津比売の別名が天津羽羽神で、”はは”というのは蛇を意味し、大宜津比売が殺されるエピソードは、古代ギリシャにおいて、蛇神で豊穣の神であったメドゥーサが、都市秩序の守護神(=合理主義精神)のアテナイの助力を受けたペルセウスによって殺されたことと同じだと書いた。
 日本においても、縄文土器には蛇のモチーフが多く用いられており、蛇は豊穣神だった。
 しかし、日本に新しい秩序がもたらされた時、蛇神は、邪悪な神として殺された。そのことが、スサノオによって殺された豊穣神である大宜津比売、月読神によって殺された保食神の物語に象徴されているのだろう。
 さらに、数日前のエントリーにおいて、大宜津比売の別名の天津羽羽神は、阿波比売という名を持ち、この女神は、『続日本後記』(840年)によれば、大山祇神三島明神)の后でもあり、近畿の吉野川や四国の紀ノ川など、中央構造線上と、そのラインを伊豆までのばしたところに祀られているということを書いた。
 大山祇神というのは、天孫降臨のニニギと結ばれたコノハナサクヤヒメの父である。
 そして、古事記においては、大山祇神​​と結ばれて神々を産んだのは、野椎命(ノヅチノカミ)であり、野椎というのは、野つ霊(ち)であり、これは、草や野の精とも言われるが、伝説的な蛇であるツチノコの別名でもある。
 この野椎命を祀る藤越神社が、亀岡の千代川町の、石棚付き石室を持つ拝田古墳や千代川遺跡の近くに鎮座している。

藤腰神社。南九州の海人、吾田の女神であり蛇神の野椎神を祀る。

 大宜津比売や野椎神といった竜蛇神は、イザナギイザナミの陰陽両神が並び立っていた時の神であり、これは縄文時代から続くもので、この時代、蛇は、聖なる存在だった。
 それに対して、大宜津比売を殺したスサノオや、保食神を殺害した月読神は、カグツチの火によってイザナミが死んだ後に生まれた神であるから、陰陽の調和が崩れるような社会変化があった新しい時代の神だと言える。この時代、蛇は邪悪とされた。
 近江の三上山から西に伸びる鉄関連の場所や「御影」の名が残るライン上にある亀岡の千代川町には、石器時代からの遺跡があり、保津川を挟むようにして月読神の聖域があり、さらに、瀬戸内海の海人と関わりが深いと思われる石棚付き石室を備えた古墳があり、この古墳のすぐ近くに、蛇神の野椎命を祀る藤越神社が鎮座している。
 陰陽調和の時代と、陰陽調和が崩れた時代の聖域や史跡が、重なり合うようにして存在している。
 野椎命は、別名が、カヤノヒメで、南九州の吾田の海人勢力の女神である。
 千代川遺跡から真南3.5kmのところに、稗田野神社が鎮座しており、ここは、古事記編纂に関わった稗田阿礼生誕の場所とされるが、この神社も祭神は、野椎命と、大山祇神と、さらに保食神である。
 奇妙なことに、紀ノ川河口と瀬戸内海沿岸に分布し、例外的に内陸部の亀岡に7基存在する石棚付石室を持つ古墳は、この稗田野神社と、千代川遺跡のあいだの南北3.5kmに集中しているのだ。
 石棚付石室を持つ古墳は、6世紀以降に築かれており、月読神が京都の桂川沿いに祀られるようになった後だから、月読神と石棚付石室を持つ古墳の勢力は関係していると思われる。
 そして、この月読神に殺された保食神は、スサノオ に殺された大宜津比売と同じ性質で、大宜津比売は、蛇神の天津羽羽神と同じ。同じ蛇神である野椎命とともに、これらの女神神は大山祇神の妻であり、吾田の海人勢力の女神でもある。
 大山祇神の娘であるコノハナサクヤヒメもまた、別名が神吾田津比売だから、野椎命や大宜津比売の娘という位置付けになる。 

 天孫降臨のニニギは、大山祇神の妻である吾田の海人勢力の女神の子であるコノハナサクヤヒメと結ばれる一方、コノハナサクヤヒメの姉妹であるイワナガヒメのことは拒んだ。
 同じ吾田の海人勢力の女神であるイワナガヒメは、古代ギリシャにおいてペルセウスに殺された蛇神のメドィーサと同じで、新しい秩序体制からは嫌われたのだ。
 同時に、新しい秩序体制は、コノハナサクヤヒメを通して、古くから伝えられてきた価値観も融合した。
 これが、日本の古代に秘められた構造であるのだが、さらに複雑なことに、表から排除されたように見えるものは、祟り神となりながらも、丁寧に祀られることで門客神(アラハバキ)となって、門を守る鬼神になった。
 京都においては、上賀茂神社から鴨川をはさんで真西1kmのところに西賀茂大将軍神社が鎮座するが、祭神は、イワナガヒメである。この場所は、平安京を守る四神相応の神、北を守る玄武とされる船岡山の真北2kmで、大極殿からは真北4.5kmだ。
 このイワナガヒメの聖地は、平安京の北の門を守っている。
 さらに、平安京大極殿の真西19kmところが、保食神を祀る亀岡の稗田野神社なのである。この場所は、古代、山陰道沿いの佐伯郷で、南九州の海人族の隼人が居住する場所でもあった。
 隼人は、宮中における門の番人でもあった。さらに、四神相応の西を守る白虎は、「道」とされるので、山陰道に沿った稗田野神社の場所こそが、平安京の白虎(専門家のあいだでもどこなのか定まっていない)だった可能性が高い。 
 四神相応で平安京の南を守る朱雀もまた、専門家のあいだでも場所が定まっていない。一般的には巨椋池ではないかとされているが、この場所は、平安京から西にずれている。平安京の真ん中を貫く朱雀通りの真南の場所は、京田辺の月読神社であり、ここもまた隼人の居住地で、隼人舞の発祥の地で知られている。
 古代中国において、朱雀は「鳥隼」のことである。それゆえ、その朱雀の地の守り人として居住させられた南九州の海人が、隼人と呼ばれるようになったのだろう。
 南九州の海人は、呪力を持つと信じられており、それゆえ門の番人になったわけだが、祟り神もまた、丁寧に祀ることで守神となるという思想があって、それが門客神になった。
 いずれにしろ、この国の古層には、南九州の海人たちの文化があり、新しくやってきた人たちによって、一部は忌避されながらも、一部は融合された。さらに忌避されたものも、祟り神から守り神へと転換された。
 そうした複雑な構造が、今でも紐解くことが可能な状態で残されているのが、亀岡だということになる。
 第25代武烈天皇の後継者がいない時、新しい天皇の候補となりながらも逃げてしまった亀岡の倭彦王という奇妙な物語。そして、月読神が、食事の作り方が不潔だからという理由で殺してしまった保食神の物語。この月読神の聖域と保食神の聖域が、亀岡においては、同じところに残っているという事実。
 非常にわかりにくい日本の古層であるが、1500年も前のことを、現代に引き寄せられる可能性のある事物や痕跡が、残り続けていることもまた、歴然たる事実だ。
 ただし、大きな課題は、それらの事物や痕跡と、どう向き合うかだ。
 そして、その事物や痕跡の背後を、どのように洞察するのか?
 教科書に書かれている歴史は、事物を並べているだけであり、その背後への洞察は、まったくといっていいほど含まれていない。
 実証主義というのは、明確に書かれた記録でも出てこなければ、事実とはしない。だから想像力を駆使して読み解かなければいけない神話も、単なる作り話として、隅に置かれてしまう。

 

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第1453回 『生成と消滅の精神史』下西風澄著について。

先週の21日(日)に行ったワークショップセミナーに、昔、風の旅人の編集部で働いていた中山慶が参加してくれて、会が終わった後、ノンアルコールビールを何本も飲みながら夜遅くまで話し込んだ。

 その時、彼が、最近読んだ本として、「生成と消滅の精神史』下西風澄著を紹介してくれた。

 まだ30代の独立研究の哲学者の本で、ホメロス神話から古代ギリシャ哲学、そして近代西欧の哲学の変遷に、日本の万葉集古今和歌集の変遷を重ね合わせ、さらに明治時代、西欧の近代的自我と東洋の思想のあいだに引き裂かれた夏目漱石の心まで語り尽くすという400ページを超える人間意識(心)に関する壮大な論考だ。

 近年、全体を見渡すことを諦めて部分を細かく限定した矮小な論考ばかりが氾濫しており、真剣に向き合って読みたい本があまりないことから、中山慶の話を聞いて、すぐに読もうと決めた。

 すると、翌日の夕方には、気を利かした中山から本が届けられた。

 著者の下西風澄氏は、あえて大学のアカデミックな世界に身を置かず、組織的なしがらみを受けずに自分の心に誠実に、メルマガを介した小規模のパトロンをつけて、こういう壮大で骨太な本を上梓しており、ドロップアウトを繰り返してきた私にとっても共感するところが多く、これは新たな知、新たな精神の在り方だと嬉しい気持ちもあって、早速、読み始めた。

 途中、吉野の方に探検に出かけたりしたが、昨日、なんとか最後まで読み終えた。

 まず、この「生成と消滅の精神史」は、近年の哲学思想に関する論考としては、珍しく、読んでいる段階でも最後まできちんと向き合って読もうと心の姿勢を保って読み続けられる書だった。

 「物事の本質をよくわかっていない人」が書いたものは読んでいると、世界がどんどん狭いところに閉じていくので、辟易してくることが多いが、この若い哲学者の論考には、それがなかった。

 こうした哲学に関する本の場合、書き手が、わかっているか、わかっていないかの境目は、デカルトやカントなどの歴史上の偉大な哲学者とされる人たちを雛壇に乗せて崇めるばかりでなく、歴史の時間を通して認識できているかどうかに尽きる。

 つまり、デカルトを一人だけ取り出して、その中身をいくら細々と分析したとしたところで、デカルトはわからない。デカルトの誕生は、当然ながら、その歴史的背景によるものである。

 それにしても、この本の帯で養老孟司さんが、「将来が明るく見えた」とか、成田悠輔さんが「静謐なる饒舌」とか書いているけれど、何のことやら?

 養老さんの書評は、毎日新聞の書評で、どうやら最後のセンテンスだけ帯に抜き出しているようだけれど、それ以前を読んでみたら、単なるあらすじを書き出しているだけで驚いた。

 成田さんの書評は見つからなかったが、単なる宣伝キャッチなのだろうか。静謐とか饒舌は、あまりこの本の中身とは関係ないのだが・・・。

 デカルトやカントを歴史的な流れの中で位置付けて捉えるという視点は、私が22歳の時、文京区に住んでいた吉本隆明氏に会って話した時、「きみは巨視的」だと見下された。

 まあ、その時の私なんかのレベルよりも、下西氏は、巨視的と言わせないくらい、十分すぎる資料は用意できているようだ。 

 そうした準備を行うことが、専門性に対する敬意ということでもあるが、未来への展望ということにおいて、専門性に対する敬意は、読み込んだ資料の多い少ないではなく、専門部分と全体のあいだに架ける橋次第となる。

 この本について、中山が、「未来への展望につながるというより、現在への解毒につながる書」と言ったが、実に的を得た表現だと思う。

 下西氏は、現時点までの人間意識(心)の歴史的変遷を見事に総合的に捉えた。しかし、歴史全体を眺め渡すという視点それ自体は、分割された細部に閉じ込められた現在の視点にとって、未来を向いているとは言えるけれど、夏目漱石メルロ=ポンティあたりにつなげるために、それまでの哲学の歴史の流れを示す程度の内容では、未来の扉を開くことは難しいと感じた。

 西欧思想では、クロード・レヴィ=ストロース、日本文学では、石牟礼道子さんまでつないで欲しい。

 下西氏はまだ若いので、それは、これからの仕事なのだとは思うけれど、レヴィ=ストロース石牟礼道子さんに意識(心)が食い込めていないゆえに、実は、この書物には、決定的に欠けているものがある。

 もし、ジュリアン・ジェインズが生きていたなら、このような形で自分の研究が引用されているのを知れば、おそらく落胆するのではないだろうか。

 ジュリアン・ジェインズは、ホメロス神話のなかでも、紀元前800年頃のイリアスと、紀元前700年頃のオデッセイアのあいだの100年の人間意識(心)の変化に注目していた。

 しかし、下西氏は、ジュリアン・ジェインズのイリアスに関する洞察を引用しながら、オデッセイアのことには触れず、ホメロス神話をひとまとめにしてしまっている。

 そのうえで下西氏は、ホメロス神話は、人間の心/意識が、神や自然と一体となった”風の心”だとみなし、その心/意識は、ソクラテスによって神と自然から切り離されたと述べる。

 ソクラテスこそが、心を発明したのだと。

 このソクラテスの発明の瞬間から、”集中する心”が、世界に分散された意識の切片を人間一人の一個の身体の中に凝縮し、すべてを一人の心に束ねあげる精神の運動である哲学が始まり、個人の意思や感情が、私という小さな箱の中に独立することになった。

 つまり、現在に到る”自分本位”になりがちな世界観や人生観は、ソクラテスから始まったのだと下西氏は書いている。

 しかし、ソクラテスの時代は、すでに「万物の尺度を自分に置く」ソフィストたちが跋扈している時代であった。

 ソクラテスが説いた「無知の知」は、下西氏の本のなかでは、ホメロス神話の時代の、「根拠もないのにそういうものだと信じている」状況に対する批判であるかのように書かれているが、むしろ、ソフィストたちに向けられた警鐘だったのではないか。

 ジュリアン・ジェインズを引用しながら、イリアスの世界だけをホメロス神話とみなし、オデッセイアのことを隠してしまうのは、いただけない。

 ジュリアン・ジェインズは、心/意識が神と自然から切り離されはじめたのは、イリアスの100年後のオデッセイアからだとみなしていた。 この100年のあいだに起きた変化から、イリアス以前の人間精神を読み解くことが、神と自然から切り離されて自我の檻の中に閉じ込められた現代人にとって重要事だとし、そのことによって、現代人が気づいていない人間精神の領域にアクセスすることができるのではないかと考えた。それは、フェニキア文字以前の、ヒッタイトやミケーネの、現代とは異なる文明世界に生きる人間の意識(心)を知ることであり、その時代の文字が解読できれば、人間意識(心)の新しい扉を開けるかもしれないと、彼は祈りのような言葉で、一冊の壮大な本を書き終えている。

 ジュリアン・ジェインズは、ホメロスを起点にして、時代を下るのではなく、時代を遡ることが、未来の扉を開く鍵だとみなしていたのだ。

 このことは、日本文化の中の意識(心)の変化においても同じことが言えて、下西氏は、万葉集の時代を、イリアスの時代と重ねて、人間の意識(心)が神や自然と一体化しているとみなし、古今和歌集を、ソクラテスに重ねている。そして、古今和歌集における意識変化の歴史的背景として、平安京が(アテネのように)人工的都市空間であったことが大きな原因だとしている。

 しかし、奈良時代平城京も四神相応に基づいた都であり、人工化は、奈良時代から始まっている。

 そして、 万葉集も、後期の歌は、奈良時代中旬以降のものだ。

 これについて白川静さんの重要な洞察があり、柿本人麿が、前期と後期の分岐点で、 人間の心が神や自然と一体化していたのは、柿本人麿以前だと示している。

 後期においては、死者の招魂のための挽歌が、成立していないのだ。

 下西氏は、ホメロス神話において、イリアスオデッセイアの違いに言及していないが、同じように、万葉集の前期と後期の違いについても触れていない。しかし、人間意識(心)の変遷を探るうえで、この違いこそが大事だ。

 そして、ここの部分の違いを重視していない意識(心)が、「生成と消滅の精神史」という力作において、人間意識の歴史の流れを、夏目漱石とメルロ・ポンティあたりで終わらせてしまっているところにつながっているように思われる。

 ジュリアン・ジェインズは、イリアスオデッセイアの違いを生じさせたものが、フェニキア文字(アルファベット)という普遍的共有文字の創造にあると睨んでいた。

 彼は、この普遍的共有文字によって整えられてしまう人間意識というものは、この文字を使っている人間は、広い世界を手に入れたかのように錯覚しているが、実際には、世界が限定的に狭められているのではないかと考えていた。

 人間が、理性的な賢さを身につけたから神や自然と分離した意識を持つようになったのではなく、人間が、普遍的共有文字によって何かを失ってしまったから、意識が、神や自然から分離してしまった。これは、意識(心)の進化ではなく、ある意味で、退行である。

 たとえば、普遍性のある合理的精神に基づく設計思想の建築物や石壁と、樹木や石の声を神の声のように聞き分けて作る宮大工や石工の仕事で、後者が、知的に、精神的に劣っているとは言えない。むしろ、後者によって作り出されたものの方が、長い歳月を生きながらえる強靭な”生命力”を持っている。

 哲学者でなくても多くの人が気づいていることは、近代合理主義世界が、人間から、レヴィ=ストロースの言う「野生の力」、すなわち自然界の摂理に通じる生命力を奪い取っているということだ。

 それゆえ、その分岐点に遡ることこそが、人間精神の豊かさを再発見することにつながる可能性がある。

 ジュリアン・ジェインズは、イリアスオデッセイアのあいだに分岐点があると考え、白川静さんは、万葉集の前期と後期のあいだに分岐点があると考えた。白川さんは、最初から漢字の研究者になることを目指していたのではなく、万葉集の探求こそが当初の目標だったが、万葉仮名は漢字であるため、漢字の探求が必要になったと言っていた。そして、白川さんは、万葉集の前期と後期のあいだに起きている変化が、古代中国の詩経でも起きていたことに気づいた。

 奇しくも、ホメロスイリアスオデッセイアが創造されたのは、アルファベットの発明から200年後だが、日本の普遍的共通文字である訓読み日本語が発明されたのは西暦500年頃、今来という渡来人の手によってであり、それから200年後が、万葉集の柿本人麿の時代である。

 古代中国においても、殷という古代王朝において神官が独占していた祭祀文字を、周が、標準的な共通文字として改良をしたのが3000年くらい前で、その200年後の紀元前800年頃に詩経が書かれている。この三地域(他でもそうかもしれない)では、同じような時間的サイクルで人間意識(心)の変遷が起きている。

 普遍的共有文字の普及と、都市化は一体である。

 普遍的共有文字というのは、人間の意識(心)の都市化とつながっている。別の言葉で言うと、これは、設計思想であり、目的と結果を効率よくつなげる合理的精神と言い換えることができる。世界を整理することが得意だけれど、世界から微妙な機微を削ぎ落としていく。

 言うに言われぬものの価値よりも、ものごとを的確な言葉で定義つけることに価値が置かれるのだ。

 だから哲学者というのは、近代合理主義世界において、もっとも頭脳優秀な人物ということになる。

 しかし、それはしょせん普遍的言語の中の世界であり、言葉で作られた自分の意識と、世界の実態とのあいだに乖離が起きる。だからパスカルの苦悩は必然であり、その後のカントやヘーゲルなどの哲学者によって、その苦悩から逃れるための方法論を求めて思考を繰り返していくということが続いた。それが、近代ヨーロッパの哲学だった。

 どこまで行っても、言葉の檻の中であり、メルロ=ポンティが身体とか自然という言葉を使ったとしても、哲学のための言葉上の身体とか自然としか聞こえないし、夏目漱石にとっての自然も、意識(心)の逃避場所と批評されるように、自我の写し鏡でしかない。

 レヴィ=ストロースは、哲学者ではなく文化人類学者ゆえに、言葉の前に、具体的な他者の存在とどう向き合うかという課題があったし、言葉による一般化や抽象が、その具体的な他者を損なうことに対して、強く自覚的だった。さらに、そうした一般化や抽象は、設計思想(エンジニアリング)の癖がついた近代的人間意識の産物であることを深く理解していたレヴィ=ストロースは、生命原理は、人間の自分本位の設計思想の枠組みを超えたブリコラージュにあるという認識に至った。

 石牟礼道子さんの文学も、漱石のように自我を反映した観念的な自然や事物ではなく、水俣病という歴然たる事実にさらされた魂から生まれたものであり、その事実は、言葉による一般化や抽象化を、決して許さない。それゆえ事実(現実)と、文学のあいだには、悶えがあった。

 レヴィ=ストロースの思想や、石牟礼道子さんの文学こそが、ジュリアン・ジェインズが発見していた、オデッセイアからイリアスへと遡っていくための回路であった。

 イリアスから、一挙にソクラテスへと飛んでしまう下西氏の思考の中には、意識(心)の今日的課題を乗り超える鍵が、 レヴィ=ストロースの思想や石牟礼道子さんの文学の中に秘められているという認識が、あまりないのかもしれない。

 下西氏は、日本文学においても、万葉集から古今和歌集へと一挙に飛んで、万葉集イリアス古今和歌集ソクラテスと重ねたうえで、中世以降の日本の文学における心は、西行を引き合いにして、万葉的な心と古今的な心の間で戸惑い彷徨うものだったかもしれないと書く。

 果たしてそうなのか?

 道元はどうなのか?

 濁りなき 心の水にすむ月は 波もくだけて ひかりとぞなる

 曹洞宗坐禅には、坐禅以外の目的は何もなく、坐禅と自分が一つになる。

 坐禅の心のような澄んだ水にある月は、風が吹いたり、小石が落ちたりして揺らげば、水面に満ちた光になるだけ。

 その境地には、自我と世界(自然)のあいだに断絶や対立や葛藤はない。

 古今和歌集に関しても、下西氏は、万葉集との差をつけるために、恣意的に、自然そのものを歌うのではなく、自然を心の従属的な対象物のように扱う歌を挙げている。

 しかし、紀貫之の歌で、

 桜花 散りぬる風の なごりには 水なき空に 波ぞ立ちける

 といった、自然と人間のあいだに断絶はなく、”なごり”を介して、空と心に波が立つ様を表現したものもある。

 その逆に、万葉集にしても、とくに後期は、自然を人間の心に従属させただけの安易な歌も多い。

 淡雪(あわゆき)の ほどろほどろに 降りしけば、奈良の都し 思ほゆるかも

 大伴旅人のこの歌は、太宰府において降る雪をみながら奈良の都を思い出しているのだが、近代的自我に蝕まれた現代人でも、軽く共感できるものがある。

 この世にし 楽しくあらば 来む世には 虫に鳥にも 我れはなりなむ

 これも大伴旅人の歌だが、この世俗的な歌は、人以外の生き物に生まれ変わることは畜生道であるという認識を前提にして、この一瞬の酒宴が楽しければ良しと歌っている。

 自然と人間の心が一体化していた時代においては、鳥は、魂を運ぶ聖なる存在だったのに、万葉歌人大伴旅人にとっては畜生になってしまっているのだ。

 下西氏の分類整理に従うのならば、古今和歌集の編纂者である紀貫之の歌が万葉集に入っていて、万葉詩人の大伴旅人の歌が古今和歌集に入っていても、誰も気づかないだろう。

 万葉集とか古今和歌集とか、一括りにして、人間の心を語るわけにはいかず、一つひとつ、一人ひとり、別の境地がある。

 確かに平城京や平安宮は、設計思想で作られた人工的な都市空間であり、人間意識もまた、その計画性の影響を受けてしまう。

 しかし、その時代の文化の全てが、人間本位の計画的世界(都市)の中から生まれたわけではない。

 古代ギリシャにおいても同じで、アテネという都市文明の中から生まれた哲学と、イオニア地方の哲学者で「同じ河に二度入ることはできない」の言葉で知られるヘラクレイトスでは、世界の捉え方に違いはあった。

 私が、日本の歴史において海人に焦点をあてているのは、都市空間に生きることを望まず、自然環境を、リアルな現実として生きながら、それこそ縄文時代からの人間意識(心)を引き継いで伝えていく役割を担っていたのではないかと考えているからだ。

 稲作定住の時代になってからも、大陸との交流や、日本各地の交流は行われており、とりわけ島国の日本では、船を操って移動する人々の役割がなくなることはなかった。

 もともと、日本人の心の種をもとにして詠まれていた歌は、平城京の時代、唐から輸入した文化の影響もあって少しずつ退行し、平安京が築かれた頃には、ほとんど詠まれなくなり、かわりに漢詩が流行した。

 しかし、9世紀後半、貞観の大地震や富士山の大爆発があった。それはまさに、観念としての自然ではなく、歴然たる事実としての自然に向き合わざるを得ない事態だった。そして、同時に、菅原道真の祟りや平将門の乱などで象徴されるように、律令制による中央集権的体制が崩壊する事態が起き、地方分権的な自律分散型の世界へと移行しはじめた。その時、古今和歌集が編纂された。歌の復権であり、その流れの中で源氏物語が創造された。

 源氏物語の中では、海人にとって重要な住吉神が、大きな役割を果たしている。

 光源氏が、須磨と明石に落ちぶれていった時に、彼を支えた明石入道は、住吉神を崇敬していた。そして光源氏も、住吉神によって救われ、再び、都で活躍するようになる。さらに、源氏物語の後半、光源氏が消えた後は、明石入道一族の繁栄の物語となる。さらに、その舞台は、宇治であり、宇治は、古代海人勢力の和邇氏(後の小野氏)の聖域であった。

 源氏物語は、紫式部の独創ではなく、海人勢力が語り継いできた物語が反映されていると思われる。

 古今和歌集から源氏物語の時代に、取り戻そうと試みられた心は、ジュリアン・ジェインズが、イリアス以前に遡って見出そうとしたものと重なってくるのではないかと私は思っている。それが、後に、禅思想や能の世界や芸能に象徴される日本の中世文化のコアになった。

 源氏物語には数多くの魅力的な女性たちが登場するが、光源氏の「色好みの精神」は、単なる好色ではなく、優れた女性を手に入れることは女性(巫女)を通じて霊力を身に着けることにつながるという古代の思想が反映されており、そのためには、それ相応の心尽くしともてなしが必要で、光源氏の女性たちに対する気遣いは、尋常ではなかった。そのことを踏まえずして、源氏物語の真相は理解できない。

 古代、巫の力は、自分の存在を打ち捨てる覚悟で神に仕えることで、その身に神を憑依し、神そのものになって人々に豊穣をもたらし、人々を災難から守護する存在であった。日本の天皇の祈りは、その精神を受け継いでいる。

 そうした古代の精神は、20世紀文学を代表する石牟礼道子さんの作品の中に宿る、心構えとしての「のさり=自分の及ばぬ大いなるもののはからいを引き受ける」と、行動の指針としての「悶えて加勢する」ことに通じている。

 レヴィ=ストロースは述べている。

 「私は、西洋世界が耳を傾けようとさえするならば、日本文明が与えることができる優れた教訓のかずかずを知らないわけではありません。それは、現在を生きるためには、過去を憎んだり破壊したりする必要はないという教訓であり、自然への愛や尊敬に席を譲らないで文化の産物の名に値するものはない、ということであります。」と。

 私が作った風の旅人という雑誌は、まさしく、下西氏が、ホメロス神話の時代の人間意識(心)だとみなした「風の心」の雑誌だった。

 そのことは、作っていた時から意識していたことだった。

 下西氏は、ソクラテスを心の発見者とし、ホメロス神話の登場人物の心は、神や自然と一体化しているゆえに人間意識(心)が未分化で原始的であるかのような書きぶりだが、ホメロスの詩の表現者たちは、心が未分化だったのではなく、意識(心)と自然を統合する術を持っていたのであって、それは、かなり高等な力なのではないか。

 ホメロスの書き手は、石工が石の声を聞いて石を動かしているようなブリコラージュの手法で、登場人物を動かしている。

 風の旅人もまた、同じような、「風の心」の原理で作られていた。

 作り手の私に、強い意識や意思があったわけではなく、それこそ神の声を受けているような感覚で、あの雑誌は作られていた。白川静さんや、レヴィ=ストロースの愛弟子である川田順造さんなどの声、そして写真家たちが撮った写真の声は、私の思惑(意識)を超えた神の声のようなものだった。

 近代的自我を持った人間であったとしても、自分の意識(心)で、物事を計画的に決めて、行動しているとは限らない。

 イリアスの時代の古代人のように、何ものかに突き動かされて、何ものかに導かれるように、結果的にそうなっていったということは多い。

 下西氏の『生成と消滅の精神史』で示されているように、夏目漱石に象徴される近代的自我の葛藤が、歴史的な必然性であるという認識は、近代的自我特有の過剰なる自己意識によって自己否定に陥って苦しんでいる人にとっては、少し救いになるかもしれない。自分の今の状態は、自分を超えたものによって導かれたものなのだから。

 しかし、歴史的な必然は、すでに次の段階に来ている。生成と消滅ではなく、隠と顕の変転によって。一点の粒子を基準とした集中と拡散ではなく、波のような連続体の起伏の次なる段階として。

 

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第1452回 歴史が動いた時の背後。

久しぶりに天気が回復したので、昨日、以前から気になっていた所を訪れた。

 これは、大谷選手の話題とは異なり、かなりマニアックで、古代に興味がない人には退屈な話だけれど、古代の重要鉱物である丹生=辰砂=硫化水銀や、現在、大河ドラマでやっている平安時代の10世紀から11世紀のことに関心のある人は、少しは気になる話かも。ただ、いずれにしろ、日本の歴史を捉え直すうえで、とても重要なこと。

 昨日、私が訪れたのは、松尾大社の近くの私の家から、ちょうど真東に大文字山が見えるけれど、その少し南、安祥寺上寺跡というところ。

 この場所に立つと、南側に山科盆地、その向こうに奈良盆地を見渡せ、盆地の彼方に、吉野の山々が見える。

 近畿は、ちょうど真ん中に縦長の盆地があり、その南端が吉野で、北端が、京都盆地と山科盆地だ。

 南北に細く伸びる盆地の上、東経135.81が、近畿のど真ん中のラインで、この最南端が潮岬、最北端が、若狭の常神半島の先の御神島になる。

 そして、興味深いことに、この近畿の真ん中ライン上、飛鳥には天武天皇陵があり、山科盆地には天智天皇陵があり、いずれも世界でも珍しい八角墳だ。

 さらに、このライン上に、藤原京平城京弥生時代の銅鐸の最大の製造基地である唐古遺跡(奈良県田原本町)まで重なってくる。

 この南北のライン上で、南北に伸びる縦長の盆地の南端の吉野では、丹生川上神社(下社)が鎮座しており、ここは丹生川の上流部で、丹生川は吉野川と合流し、紀ノ川と名称を変えて、太平洋と瀬戸内海の分岐点である紀伊水道へと注ぐ。

 そして、この南北ラインの北端にあたる山科で、吉野と向き合うように標高350mのところに築かれたのが安祥寺上寺であり、最盛期の平安時代前期は、ここから南の山裾あたりまで、堂院、僧房、塔、仏堂、僧坊、楼門など壮麗な建造物が展開し、塔頭の坊舎が七百余もあったよう。

 この場所は、山科川の源流であり、山科川を下っていくと、紫式部のルーツである宮道氏の館(現在は勧修寺)があるところ(山科の小野郷)を通り、宇治川と合流し、大阪湾へと注ぐし、宇治川を遡れば、宇治(この場所も、東経135.81のライン上)を軽油して琵琶湖へとつながる。

 近畿の真ん中の縦長の盆地で、東経135.81上の南北の端にあたる吉野の丹生川上神社(下社)と、山科の安祥寺上寺跡は、河川ネットワークの起点でもある。

 さらに、山科の安祥寺上寺跡の登り口のところは、後山階陵遺跡という6・7世紀を最盛期とする古代たたら製鉄が行われていた場所だった。

 そして、この製鉄遺跡の場所に、平安時代初期、第54代仁明天皇の皇后、藤原順子の陵墓がある。

 安祥寺も、この藤原順子が発願したもので、唐の長安にある青龍寺より青龍権現を請来して創建された。

 青龍寺というのは、空海密教を学んだ恵果が住持していた寺だ。

 空海高野山を開く際、丹生津比売神社が神領の一部を寄進したと伝えられ、丹生津比売神社が高野山鎮守神とされているように、空海と、丹生の関係は深い。

 高野山奥の院は、辰砂(丹生=硫化水銀)の鉱脈の上にある。

 そして、藤原順子が、なぜ山科に、空海ゆかりの青龍寺より青龍権現を請来して安祥寺を築き、さらに、その南麓の製鉄遺跡のところに陵墓が築かれているのか?

 歴史の教科書ではいっさい触れられていないが、日本の歴史を考えるうえで、極めて重要なことが、ここに秘められている。

 藤原順子は、一般的には、藤原北家の繁栄の基礎を築いた藤原冬嗣の娘として紹介される。

 藤原冬嗣以前は、藤原四家のうち、式家が桓武天皇の擁立に関わって権勢をふるっていた。奈良時代は、光明皇后の信任が厚かった藤原仲麻呂の南家が政治の頂点にいた。

 一般の歴史好きのあいだでは、藤原冬嗣は、橘嘉智子と関係を深めて、その夫である嵯峨天皇擁立に貢献し、薬子の変で式家を凋落させ、娘の順子を嵯峨天皇の子である仁明天皇の皇后とし、藤原北家の繁栄の基礎を固めたと説明される。

 歴史の通説というのは、このように一人の人物の陰謀とか立ち回りによって歴史が動いていったように説明されているのだが、歴史は、誰か一人が、「ああすれば、こうなる」といった具合に単純に動いていくはずがない。

 どのように複雑かというと、藤原冬嗣の政権工作に貢献したと考えられているのが、藤原良房と藤原順子を生んだ藤原美都子で、彼女は、当時としては珍しく、藤原冬嗣と合葬されている。

 彼女の父は、その当時没落していた藤原南家の藤原美作であることはわかっているが、母が誰なのかがわからない。

 藤原美作は、中央では活躍できず、石見、阿波、三河などの地方官僚をつとめていた。なので、藤原美作が、藤原美都子の後ろ盾となって藤原冬嗣の政権工作に貢献できたとは考えられない。

 だとすると、美都子の母の実家の存在が気になるが、痕跡が消されている。

 しかし、美都子の娘で仁明天皇の皇后になった順子が、山科の製鉄遺跡の場所に埋葬され、ここに安祥寺を築いたのは、この場所の勢力と深い関係があったからだと想像できる。

 藤原順子は、京都市の五条堀川に館を構え、五条后と呼ばれた。

 ここには柿本町があるが、柿本人麿が、丹生と関わり、古舞を管掌する一族であった丹比氏の丹比嶋の支援を受けて、その関係の呪的集団の依羅(よさみ)の娘を妻としていたことを、数日前のエントリーで書いた。

 京都の五条堀川の柿本町の北300mの元京都市立醒泉小学校の跡地から、竪穴住居9棟や方形周溝墓が見つかったほか、千点を超える土器や石器が出土した。また、北東から南西に水が通った流路が作られていたこともわかった。このあたりは、ちょうど鴨川と桂川の中間で、川の流れの向きを考慮すると、北東から南西の方向だと鴨川から桂川へと水を流すことができる。

 この巨大な弥生遺跡は、醒井(さめがい)通りに面していて、滋賀県米原市で霊仙山を源とする清流に沿った日本有数の名水の地も醒井であり、ここは、今でも「丹生」という地名である。

 そして、京都の柿本町の西に壬生寺がある。12世紀に、”大勢で一緒になって念仏を唱える”という融通念仏という宗教運動が起き、それが集団での踊りという形になっていくが、1300年、京都の壬生寺において、融通念仏を行っていた円覚上人によって、壬生大念仏狂言が始まったことを、数日前のエントリーで書いた。

 アメノウズメが象徴しているように、踊りには、古代の巫の行為が反映されているが、それが丹比氏という「丹生」関連勢力に受け継がれ、律令制開始期に活躍した柿本人麿を後援(丹比嶋)し、この流れが、中世の芸能文化につながっていったことも、そのエントリーで説明した。

 かつての壬生寺は、現在の場所よりも少し東であり、現在の柿本町も含んで、ここら一帯は「壬生」だったのだろう。壬生は、丹生と同じである。

 この京都の「丹生」の場所に、五条后と呼ばれた藤原順子が館を構えていて、京都の山科に、安祥寺を築き、その麓の古代たたら製鉄の場所に陵墓が作られた。

 しかも、この場所は、近畿の真ん中の南北に伸びる盆地の北端であり、その南端が、吉野の丹生川の上流部に鎮座する丹生川上神社(下社)。丹生と丹生がつながっている。

安祥寺が築かれたところは、山科川の源流でもある。

 丹生川上神社は、史実かどうかはともかく、初代神武天皇が戦勝祈願をしたところと伝わるが、この場所と、山科の安祥寺を結ぶライン上に、天智天皇天武天皇八角墳が築かれ、藤原京平城宮まで建設されている。日本古代において、極めて重要な何かが、丹生と丹生を結ぶラインの背後に秘められている。

 当然ながら鍵になってくるのは、丹生の海人の存在だ。

 先日の記事で、中央構造線上に、三島明神大山祇神)と関わりの深い丹生関連の女神の聖域が並んでいることを書いた。

 防水効果と防腐効果に優れた丹生=辰砂は、船の建造に欠かせなかったゆえに海人との関わりが深かった。

 そして海人は、漁労に携わったり船を操って物質や人を運ぶだけではなかった。

 肥前国風土記には、海人族が、「騎射(うまゆみ)を好み」とあり、船で馬を運んで騎射を行う戦闘集団であったことが示されている。

 歴史的転換期には、この戦闘集団が大きな役割を果たしていたのだろう。

 藤原順子の墓が、古代たたら製鉄所の場所に築かれているのも、その集団とのつながりがあってこそであり、彼女の母、美都子が、藤原冬嗣の政権工作に大きな貢献をしたのも、同じ理由だ。

 藤原美都子の母親が誰だかわからないと先に述べたが、美都子の弟の藤原三守は、嵯峨天皇の皇后、橘嘉智子の姉を妻とした。

 橘嘉智子は、京都に梅宮大社を築いた。橘というのは、県犬養氏が名を変えたものだ。藤原不比等の後妻として、不比等の出世を陰で支えた県犬養三千代が、京田辺の綴喜に築いていた梅宮大社を、平安遷都後、橘嘉智子が、桂川のほとりに勧請した。これは県犬養氏氏神であり、祭神は大山祇神三島明神)である。

 そして藤原冬嗣藤原北家は、藤原不比等の前妻の子である房前と、県犬養三千代の前夫との子である牟漏女王のあいだに生まれた子の末裔であり、藤原北家の祖として藤原不比等のことばかり取り上げられるが、県犬養三千代こそが重要である。なぜなら、その当時の天皇元明天皇という女帝であり、彼女が子供の頃から県犬養三千代が教育そのほかに関わり、絶大なる信頼を得ていたのであって、当時、下級官僚だった不比等は、彼女のお陰で出世できた。

 藤原北家は、不比等だけでなく、丹生の海人勢力と関わりの深い大山祇神氏神とする県犬養(橘)の血統でもあるのだ。

 そして、藤原冬嗣の妻、藤原美都子の弟の藤原三守橘嘉智子の姉と結ばれたように、美都子の母は、この丹生の海人勢力と関わりが深かったのだろう。

 だから、美都子の娘の順子が、五条堀川の壬生(丹生)の地に館を構え、吉野の丹生川上神社と向かい合うような山科に安祥寺を築き、その麓の古代たたら製鉄の場所に埋葬された。

 そして、この藤原順子が、歴史的に大きな意味を持ってくるのは、842年の承和の変である。

 第52代嵯峨天皇の子の仁明天皇の時代、皇太子は、第53代淳和天皇の子の恒貞親王であったが、恒貞親王廃太子となり、代わりに、藤原順子が産んだ道康親王(後の文徳天皇)が皇太子となった事件で、一般的には、藤原冬嗣の子の藤原良房の陰謀などとされている。

 しかし、処罰された者の数は膨大で、当時の良房の政治的地位で、ここまで大規模な政変が可能だと思えず、それゆえ、皇太后であった橘嘉智子が、強いエゴで、自分の孫を皇位につけようとしたとも説明される。

 これは、持統天皇が、自分の子の草壁皇子を世継ぎとするため、陰謀によって大津皇子を死に追いやったとする説と似ているのだが、橘嘉智子というのは、当時、来日した禅僧から、日本で唯一、禅のことを理解していると言われた女性で、彼女は、日本で最初の禅寺である檀林寺を、現在、嵯峨野の天竜寺がある場所に築いた。そんな彼女が、自分の執心で、政変を起こすとも考えにくい。

 だから、事実はそれほど単純なものではないだろう。

 恒貞親王も、その父の淳和天皇も、承和の変が起きる前から、争い事に巻き込まれることを予期して、皇位につくことや、皇太子の地位にあることを辞退し続けており、当人たちの気持ちとは別の力関係が、背後にあったと考えられる。

 持統天皇が33回も吉野離宮に足を運んでいた謎について、先日も書いたが、持統天皇の背後には、吉野の丹生勢力がいた。

 承和の変においても、藤原順子の背後にいた丹生勢力が、大きく関わっていた可能性があるのではないだろうか。

 一般的に、歴史を振り返る時、男系の権力者の系譜ばかり追う傾向にある。藤原不比等がどうのこうのと、一人の男の陰謀によって、歴史が左右されてしまったかのように。

 しかし、権力者の子であっても、養育は、母方の実家であり、子は、母方の実家の影響を強く受けていた。

 源氏物語は、光源氏が消えてしまった後、明石入道の一族の繁栄の物語となるが、明石入道の悲願の夢は、自分の娘が産んだ娘が、天皇の世継ぎを産むことだった。このエピソードは、天皇の地位という権力を得ることよりも、国母の実家として、世継ぎの養育や教育に関わることが重視されていたことを反映している。

 これに関して大事なことは、天皇というのは権力者ではなく、先日も書いたように、その重要な役割は、国家の安泰と国民の幸せを祈ることであり、その祭祀の本質は、古代の巫女が、自分の存在を打ち捨てる覚悟で神に仕えることで、その身に神を憑依し、神そのものになって、人々を災難から守護するために祈ることである。

 世継ぎを養育するということは、その精神を伝えることでもあったのではないか。

 ちなみに、丹生の転語である壬生というのは、皇子や皇女の世話や養育を行う大王直属の集団と説明されるのだが、大事な皇子や皇女に多大なる影響を与えるポジションを、ただの職能とするのは不自然であり、古代からの慣例である母の実家がその役割を担い、それが壬生とされたのは、結果として、丹生関係の女性が、その母であったことが多かったのだろう。

 それは、古事記の中に登場して大王から求愛される女性の大半が、水辺の巫女的な女性であることにも、つながってくる。

 丹生の女性というのは、島国の日本においては、縄文時代から続く海人族の女性であり、渡来人が多く来日し、彼らがもたらした新しい知識や技術によって日本の制度が変化していった後も、その勢力は政治の表舞台にはあまり顔を出さず、陰の力として、また文化の担い手として、そして、古代からの祈りの継承者として、重要な役割を果たし続けていたのだと思われる。

 

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