第1681回 宇宙論の変容が、人生観と世界観、そして歴史観の変容へとつながる。

4年にわたり、東京と京都で毎月交互に続けてきた「フィールドワーク・ワークショップ」が、ついに最後の回を迎えました。これまで積み重ねた回数は45回、のべ90日。一度も傘を開くことなく続けてこられた記録も、この最終回にして初めて、雨傘を差してのご案内となりました。
 台風の接近に伴い、一時は中止も頭をよぎりました。しかし、熊本から前泊で駆けつけてくださった方もおられ、なんとか実施を決断しました。幸いにも雨足は弱まり、無事に全行程をやり遂げることができました。
 その熊本からの参加者の方は、2003年の『風の旅人』創刊号以来の読者でした。思えば今回の参加者の半分が、風の旅人時代からの読者の方々です。これほど長く、深い縁に支えられてきたことに、ただただ感謝の念が湧き上がります。

 そして今回のフィールドワークには、もう一つの象徴的な出会いがありました。
 初参加の29歳になる青年――アメリカのバークレー(UC Berkeley)やNASA共同の宇宙科学研究所(Space Sciences Laboratory)などで研究活動を重ねてきた、現役の若き宇宙物理学者です。彼との対話を通じて、私がこのワークショップで一貫して大切にしてきた視点を、歴史とはまた異なる角度から深く掘り下げることができたのは、何より大きな収穫でした。
 それは単に、最新の宇宙物理学の知識を共有したという意味ではありません。
 彼の自己紹介のあと、私は彼に一つの問いを投げかけました。
「現代の宇宙論と、プラズマとの関係について、どう考えていますか?」
 周知の通り、現代の宇宙物理学は、天文学や高度な数学、素粒子物理学の連携を軸とするアプローチが王道となっています。アインシュタインの相対性理論を礎とし、「物質の質量とエネルギーの等価性」を大前提として宇宙の謎を解き明かそうとする潮流です。
 しかし、アインシュタインの時代には観測し得なかった「宇宙空間の大半をプラズマが占めている」という厳然たる事実が明らかになった今日においても、大半の宇宙物理学者は、プラズマ学者をまともな議論の俎上に乗せようとはしません。
 彼らはあくまで、宇宙を「物質(質量)」中心の枠組みだけで捉えようとします。その結果、計算上で宇宙の秩序や運動を維持するためのエネルギー(彼らはそれを質量と等価とみなします)がどうしても足りなくなり、ダークマターやヒッグス粒子といった仮説上の存在を追い求め、巨大な加速器に莫大な予算と電力を投じることになります。
 宇宙を満たすプラズマエネルギーの存在を、最初から計算外に置いているがゆえの帰結です。
 私のこの問いに対し、その若い科学者はこう答えてくれました。
「プラズマを通して、これまで捉えていた宇宙や重力、量子といったものを捉え直すことができたら、きっと何か美しい風景が見られるんじゃないかという予感がしているんです」
 その言葉通り、当日彼の鞄の中にはプラズマ関係の専門書が忍ばせてありました。
 この20年間、私は宇宙物理の現場から、プラズマ学の知見を真摯に取り入れようとする探求者が現れるのをずっと待っていました。しかし、そうした声に出会うことはほとんどありませんでした。多くの研究者は、「現代先端科学の知的エリート」として遇される狭い蛸壺の中に安住してしまっていたからです。
 しかし、この閉塞した領域にも、ついに新しい眼差しを持った世代が芽吹き始めている――。ワークショップの最後の最後に、その確かな萌芽に出会えたことは、私にとってまさに「来るべくして訪れた瞬間」のように感じられました。
 大袈裟に聞こえるかもしれませんが、私はかつて『風の旅人』の第31号から38号にかけて、プラズマ宇宙論に関する連載を組みました。毎号10ページを超える大掛かりなものです。約20年前のことです。
 当時、日本国内にはプラズマ宇宙論の最先端の知見をまともに紹介する媒体は皆無に等しく、今なおその状況は大きく変わっていません。ならば、自らの手で世に問うしかないと考えたのです。
 その根底には、「現代人の意識構造の歪みは、物質と重力だけに閉ざされた現代宇宙論の枠組みそのものに起因しているのではないか」という強い危機感がありました。新たな宇宙観の兆しを求めて世界中を探す中で出会ったのが、海外の研究グループ「The Thunderbolts Project」でした。
 私は責任者に直接連絡を取り、『風の旅人』での連載を依頼しました。
 単に原稿執筆を依頼するのではなく、「私はあなたの仕事をこのように深く認識しており、だからこそ今、日本の社会にそれが必要なのだ」という背景を徹底して伝えました。門外漢の身ではありましたが、彼らの依って立つ世界観を自らの言葉で言語化して送ったところ、「まさにあなたの言う通りだ」と共鳴していただき、連載の快諾を得ることができたのです。
 前提となる世界認識を根本で共有できていたからこそ、辞書を引きながらでも自力で翻訳を進めることができました。どれほど語学に堪能な翻訳者であっても、根底にある思想が通底していなければ、こうした特殊な領域の翻訳は不可能です。
 私が伝えたかったのは、単なる学説としての異端論ではありません。
 重力と物質偏重のビッグバン宇宙論や、唯物史観によって極端に狭められてしまった現代人の世界認識の中に、プラズマという「場」と「流れ」のリアリティを取り戻すことでした。
 物質を中心とする現代の世界観(唯物論)において、世界とは単なる物質の離合集散にすぎず、人間の命も「個体として始まり、死ねば消滅する」という閉じたものになりがちです。その枠組みの中では、目に見えない「魂」や「いのちのつながり」といった実感は、すべて非合理なオカルトとして退けられてしまいます。
 しかし、その強固なバイアスを一度外してみれば、人間を含むあらゆる生命は、孤立した単体の物質ではなく、周囲の環境と絶え間なくエネルギーを交感し続ける「場」そのものであるという実相が見えてきます。環境から受け取ったものを自らの中で変換し、再び世界へと還していく――広大な循環プロセスの一環としての存在です。
 古今の先人たちが遺した「無知の知」「融通無碍」「空即是色」といった言葉も、単なる観念的な哲学ではなく、自我という個の囚われを脱したときに立ち現れる、この循環の世界観を実感として言い表したものにほかなりません。
 身近な例を挙げれば、地球の通信環境や電気系統に大きな影響を及ぼす「太陽のコロナ質量放出(巨大なフレア)」があります。太陽から噴き出した陽子(太陽風)が、超高速で地球に到達する現象です。
 物質中心の宇宙論であれば、「太陽の爆発エネルギーを受け取った物質が宇宙空間へ放出された」と解釈します。しかしその場合、運動エネルギーの散逸に伴って速度は次第に減速していくはずですが、実際には加速すらして衝突します。現代の主流派は、この事実を合理的に説明できません。
 これに対し、プラズマ物理学では「太陽系の中心と外部との間に巨大な電界が存在し、正に荷電した陽子が陰極へと引き寄せられて飛んでいく」と考えます。電界そのものに加速されるため、速度が落ちないのです。
 これは、宇宙空間だけの話ではありません。私たちの日常のあり方にもそのまま重なります。
 たとえば、人が何かに強く惹かれたり、誰かに恋焦がれたりするとき、そこには見えない「電界」が生じています。その対象のために夢中で動いているとき、人間は自らの内側のエネルギーを燃焼させているのではなく、その場に満ちている電気的なエネルギーの流れに乗って動いている。だからこそ、どれほど動いても消耗せず、むしろ対象のために働くことで生命力が満ちていく。
 エネルギーを自分の内側に蓄え、それをすり減らしながら生きるのではなく、生きている環境世界そのものにエネルギーの源泉が満ち溢れている。大切なのは、その流れに逆らわずに身を委ねること――これこそが真の「自然体」です。自然体でいる限り、人は疲弊しません。
 逆に、そこに不自然な抵抗を加えれば、摩擦が生じ、流れは滞ります。その抵抗の正体こそが、自我のバイアス、執着、名誉欲や自己保身、そして「どうせ自分なんて」という卑屈や嫉妬、言い訳の数々です。それらを手放すことは、単なる道徳的な美徳ではなく、環境世界からのエネルギーを十全に受け取るための極めて現実的な知恵なのです。嫌な職場を離れて元気になる人が多いのは同じ原理でしょう。昔の人々が「気の流れ」を重んじた背景には、こうした身体感覚があったはずです。
 人間を孤立した「物質」として捉えるのか、環境と共鳴する「ダイナミックな関係性」として捉えるのか。この認識の違いは、日々の生き方のみならず、死生観や歴史観を根底から塗り替えていきます。
 これは、私が長年取り組んできた「歴史の古層」の探求とも完全に地続きです。
 歴史を英雄や権力者の個人の思惑だけで説明しようとする歴史観は、すべてを個別の質量に還元する唯物論と変わりません。そうではなく、当時の人々の背後にどのような「場」や力学(電界のような時代の必然性)が働いていたのかを見つめ直すこと。
 2015年に『風の旅人』にピリオドを打ち、2016年から日本の古層の踏査に専念してきたのも、東日本大震災を経て、この国の世界観や人生観を根源から問い直さねばならないという強い想いがあったからです。
 過去、現在、未来は分断されてはいません。すべては一つの広大な時空(電界)の中で繋がっています。その場に流れる大きなエネルギーを受け取り、個々の粒子(人間)が活動し、星々のような秩序ある共同体や文化を形成していく。エネルギーの流れが変われば、構造の形もまた自ずと変容していく。
 己の存在の根拠を単体の物質に置くからこそ、生と死が決定的に引き裂かれるのです。大いなるエネルギーの流れにおける構造の変化として捉えるならば、そこには生も死もありません。
 プラズマの視座が宇宙論に息づくようになれば、人々の世界観や生き方そのものも、自ずと循環に意識を置くように変容していくはずです。
 その想いのもと、昨年まで毎年一冊ずつ、日本の歴史を通じて、日本人の心の成り立ちとその変遷を読み解く本を編み続けてきました。
 しかし、論述という硬い形式のままでは、歴史を「自分とは無関係な遠い昔の出来事」として受け止めてしまう方々には、どうしてもその核心が届きにくいという痛切な反省もありました。歴史の深層と、現代を生きる私たちの呼吸を、実感として結びつけることは決して容易ではありません。
 だからこそ、これまでの探求の延長に、新たな表現の器を模索していこう――。そう決意したことが、今回のフィールドワーク・ワークショップを一区切りとする理由でもあります。
 プラズマ宇宙論の言葉を借りるなら、これもまた決して「終わり」ではありません。
 大いなるエネルギーの流れの中で起きた、ひとつの構造変化にすぎないのです。
 流れが滞ることなく続いていく限り、そこにはまた、必然として新たな形が生成されていくはずです。

第1680回 その場にて”わかる”こと。

 

最近、美濃、とりわけ高賀の地に深く潜入している。ここは、古くからの白山信仰の影響が強いところだけれど、何よりも、円空が、この地で出家をし、その際に生涯に12万体の仏像を彫るという壮大な請願を立て、最後の仏像を作り、死の覚悟を決めたところ。
 いつも思うのだけれど、その場所に足を運んで初めてわかることが、あまりにも多い。
 AIが進化して、いろいろな知識情報を獲得できたとしても、頭で知ったつもりになることと、その場にて”わかる”ことは、まったく別のもの。
 そういうつもりで、フィールドワークを重視したワークショップを四年近く続けてきたけれど、今回で、最後にします。
 現場重視をやめるというわけではなく、五〇回近くやってきたため、その会ごとに、初めての参加者と何度も参加している人が重なって、双方にとって望ましい場所に案内することが困難になってきたからです。
 今後は、さらに少人数限定にして、あらかじめ行き場所を決めて募集し、午後からではなく朝から出発して行き先の選択地を増やせるトリップへと変えようと思います。少し落ち着いたら。

第1679回 「芸術表現における感情」をめぐる問題

 昨日、木場で開催された小池博史さんのOCCオープニングフェスティバルにおいて、小池さんと2時間にわたって、どっぷりと対談を行った。
 その最後にいただいた質問は、小池さんの表現の本質に関わる問題であり、同時に現代の表現世界にとっても極めて重要なテーマを含んでいた。あの場では時間の制限もあり言い切れなかったことがあるため、ここに言語化しておきたい。
 それは、「芸術表現における感情」をめぐる問題である。
 質問者の方は、私たちの2時間に及ぶ対談の中でご自身が期待していた「感情」に関する話題が出てこなかったことをもどかしく感じられたようで、質疑を通して「芸術表現と感情」についての見解を求められた。
 しかし、実は小池さんと私の対談の通奏低音が、終始この「芸術的感情」のことに関わっていた。というのは、こうした芸術表現をめぐる対話で、それ以外は、大して重要でないと私は思っているからだ。
 ただ、そうした声にならない声は、現代社会においてはきわめて伝わりにくい。それゆえに、小池さんの舞台を「わからない」と評する人が多いという悲しい現実が存在する。
 この問いに対し、小池さんは「子供の無邪気な反応」と「ヴァルター・ベンヤミンの考察」という、両極端の例を引いて答えた。この振幅の大きさこそが小池芸術の真骨頂なのだが、おそらく大半の観客にとっては、ますます煙に巻かれたように感じられたかもしれない(笑)。
 また、質問者が意図した「感情」のあり方に対して、返答が難解すぎると受け取った人も多かったはずだ。
 そのため私は、誰もが理解しやすい「お茶の間のホームドラマにおける感情」との対比という形で、その意図を翻案(翻訳)させてもらった。
 現代の表現世界において、弁が立ち、知識量で議論の優位に立とうとする批評家や表現者は、ベンヤミンの考察を自説の補強として利用することが多い。
 しかし、小池さんはその逆を行く。
 それこそが私が小池作品を強力に支持する最大の理由なのだが、小池さんはベンヤミンが否定した「アウラという芸術的感情」を、自身の表現を通して奪還しようとしている。それゆえ、言葉や知識情報だけを頼りにアートを論じる人々のなかで、小池さんの表現と真摯に向き合う者はほとんどいない。彼らには小池さんの問題意識も、表現上のスタンスも理解できないからである。
「アウラ」とは何か。対談の冒頭で私が、「得も言われぬ強烈なものを受け取ってしまったので、このまま対談に入る前に、一度家に帰って頭を整理させてほしい」と口にしたような、あの感覚のことだ。
 つまり「アウラ」とは、安易な言葉へ置き換えることのできない“感情”であり、存在そのものを根底から揺さぶられる状態を指す。
 もともと、こうした感情を喚起するアウラ的芸術は、礼拝の対象――すなわち宗教的な聖なるものであった。
 しかし、ユダヤ人でありナチズムの被害者でもあったベンヤミンは、このアウラ的芸術を否定した。ナチスがこのアウラを政治的に悪用したからである。陶酔や熱狂といった宗教的感情を誘発することでヒトラー崇拝を醸成し、特定民族への憎悪を煽り立てた歴史への反省から、ベンヤミンは複製技術時代の「非アウラ的芸術」を積極的に評価した。これがポップアートの潮流を生み出し、工業・産業化社会、すなわちアートの商業化と見事に合致していく。結果として、メディアやカルチャーシーンの主流となったこの領域で、情報を言葉巧みに流通させる「論客」たちが幅を利かせることになった。
 こうした非アウラ的芸術は、魂を揺さぶる感情ではなく、「斬新」「クール」「スタイリッシュ」といったファッション感覚、あるいは個人的な「好き嫌い」の領域へと回収される。
 そこでは絶対的な唯一性や真理ではなく、多数の鑑賞者によるフレキシブルな受容が前提とされるため、複製品や類似品が溢れかえる。結果として私たちの身の回りには、既視感のある表現ばかりが氾濫することになる。
 ベンヤミンがファシズムとアウラ的芸術の危険な結合を懸念する論考を発表してから約90年が経つ。だが今や、「アウラ」を剥ぎ取られた複製芸術が自称専門家に持ち上げられ、アートビジネスの世界で高額取引される状況は、拍車がかかる一方だ。SNS上に溢れる投稿と大差ないものであっても、わずかな「切り口の違い」と後付けの理屈さえ与えられれば高評価を獲得する。
 しかし、芸術表現からアウラが切断されると、人間は自らの「感情」をどこで処理すればよいのかという大きな欠落が生じる。
 そこで登場するのが、昨日私が言及した「ホームドラマ的表現」である。テレビに限らず、小説、舞台、映画、写真に至るまで、安っぽいホームドラマのような設定が溢れている。悲しさや切なさに直接訴えかけ、それを手軽に慰撫してくれるような表現物だ。現代の多くの人々は、こうした「お涙頂戴」のレベルのものを大事な「感情」だと錯覚し、それらは「涙腺崩壊」といった陳腐なキャッチコピーとともに消費されていく。
 目先の変化を競うだけの非アウラ的芸術に疲弊し、「わけがわからない」と拒絶する人々が、その反動としてわかりやすいホームドラマ的感情へとなだれ込む。
 現代の表現世界は、この「無機質な記号消費」と「安易な感情消費」という両極端に分裂しており、小池さんのジレンマと孤独な闘いはまさにこの断層において展開されている。
 私自身、『風の旅人』というメディアを編集していた時期に全く同じジレンマを抱えていたため、小池さんの葛藤は痛いほどよくわかる。
『風の旅人』もまた、ベンヤミンの否定した「アウラ」を現代に取り戻そうとする試みだった。それゆえ「心が深く揺さぶられた」と歓喜する読者がいる一方で、「これは何らかの宗教なのか?」と揶揄する者もいた。
 日常を平穏に過ごし、個人的な悲哀があってもホームドラマ的表現で自己を慰め、アウラを失った日常の穴をスポーツ観戦の熱狂などで埋められる人々にとって、『風の旅人』や小池さんの舞台が放つ「アウラ」は日常的には必要とされない。しかし、かつて長期入院中の女性から届いた「病室で『風の旅人』を開いていると、理由もわからず涙が溢れ、心が洗われた」という手紙に象徴されるように、切実な境地にある人にとってアウラは不可欠な存在となる。

 では、なぜ小池さんも私も、ベンヤミンが否定した「アウラ=芸術的感情」を取り戻さなければならないと考えるのか。その根底にある理由についても、昨日の質疑の中で触れた。
 重要なポイントは、ベンヤミンの論考において決定的な視点が抜け落ちている点にある。
 ベンヤミンは、アウラ芸術がナチズムに利用されたからこそそれを危険視し、否定した。芸術に人間の感情を根底から揺さぶる力を求めるべきではない、と。
 だが問い直すべきは、なぜ当時の群集心理が、あれほど易々と安直なアウラ表現と結びついてしまったのかという原因である。その正体は、人々の心に渦巻いていた「退屈」と「フラストレーション(欲求不満)」に他ならない。
 ナチスが仕掛けたアウラ表現とは、実に底の浅いものであった。それはスポーツの祭典と一体化する程度の、極めて恣意的で単純な熱狂にすぎない。そんな底の浅い仕掛けに群衆が容易に呑み込まれてしまったのは、機械文明の進展によって均一なコピー製品に囲まれ、宗教的信仰心も失われ、慢性的な「退屈」と「満たされない欲求」に苛まれていたからだ。
 日常的な感情を慰撫するホームドラマのような表現が、本来の芸術が扱う感情と根本的に異なるのは、前者の感情の多くが「言葉で説明可能」だからである。そうした個人的な悲哀やストレスは、テレビやカウンセリング、共感しやすい小説などによってその場しのぎの対症療法的に解消できる。
 しかし、言葉で説明可能な感情ばかりを優先し、目先の解消を繰り返していると、人間の心の奥底には「どうしても満たされない何か」が澱(おり)のように溜まっていく。
「得も言われぬもの」と出会い、存在そのものが揺さぶられる「感動的体験(アウラとの接触)」が決定的に欠落しているからだ。
 そして、その欠落が慢性化したとき、人間は未知の衝撃や危機に直面すると容易にパニックへ陥る。隣国の侵略に対する過剰な恐怖や、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」というようなデマへの惑乱――ホームドラマ的な個人的感情を遥かに超えた集団的恐怖に直面したときこそ、人々はナチスが仕掛けたような「安直なアウラ表現」に易々と巻き込まれてしまうのだ。「自分がずっと求めていたのはこれだ!」「自分の不遇の原因はアイツらだ!」という集団的陶酔と攻撃性が、爆発的に呼び覚まされるのである。
 つまり本当に必要なのは、ファシズム的な安直なアウラ表現に対する「耐性や免疫」を育てることである。その視点を欠いたまま、ベンヤミンのようにアウラそのものを排斥してしまえば、世界は無菌状態となり、人々の免疫力はかえって完全に失われてしまう。
 この「陳腐なアウラ表現」は、形を変えてすでに私たちの身近に蔓延している。その典型が、「スピリチュアル性」を前面に掲げた集まりに見られる万能感や高揚感だ。「自分たちは良いことをしている」という自己承認の陶酔。
「複製表現の無機質さも嫌いだが、ホームドラマのベタな感情にも飽きた」という層が、この安易なスピリチュアルへとなだれ込んでいる。事あるごとに霊界を持ち出したり、デジタルの逆光写真にオーラを見出したり、「精神世界」を謳ったインスタレーションや安直な写真アート、地球環境問題と結びついたスピリチュアルイベントなどがそれだ。
 こうした現象を批判すると、スピリチュアルな感情を刺激された人々から猛烈な反発を受けやすい。しかし、これらに無批判に浸っている限り、ベンヤミンの危惧したファシズム的アウラに対する免疫は絶対に育たない。
 政治的異議申し立て運動に従事しながら、その一方でスピリチュアル的陶酔に没頭している人々は、皮肉にも自ら政治的な仕掛けに呑まれやすい体質を作り出していると言える。なぜなら彼らは感情に流されやすく、「感情に素直になることが善であり、深く考えることは悪だ」と言わんばかりに、感情を刺激されれば即座に行動へ直結させてしまうからだ。
 このスピリチュアル性と結びついた安易なアウラが群集心理になった時こそ恐ろしいものはない。そういう集団の中で異議を唱えようとすれば、袋叩きにあうだろう。現代、彼らは暴力的手段を持っていないから憎悪の眼差しを向けるだけだが、自らの正当化と暴力が結びついてしまえば、手に負えない勢力になってしまう。これこそがファシズムの根なのだ。
 もちろん、こうした情勢を否定ばかりをしていても意味はない。だからこそ小池さんは、「本物のアウラ」を目指して表現活動を続けている。
 だが、この境地は滅多に理解されない。
 昨日の対談の隠れた主題であった「芸術表現において取り戻すべきアウラ=感情」というテーマが、どれほど言葉を尽くしても伝わりにくいという現実に、今この時点の私もまた直面している。
「もっと手短に書け」「ややこしい話だ」と途中で投げ出す人が大半だろうし、「自分には関係ない」と素通りする人が多いことも理解している。現代社会においてこの問題はきわめて厄介であり、だからといって愚痴をこぼすだけでは始まらない。表現という形のアウトプットを通して、この問題意識を昇華させる試みを続けるしかない。
 驚くべきことに小池さんは、40年以上にわたってこの構造的な軋みと摩擦を引き受けながら奮闘を続け、形に昇華させてきた。これはもう本当に驚くべきことである。そして彼は、これからもその意志が揺らぐことはないと、明確に言い切れるものがある。
 なぜなら、「アウラ」と「思索」を縦糸と横糸にした織物を、自分自身のものにしているからだ。
 精密で、全てに気を行き届かせて、しっかりと織りこまれた織物。その結果として、ダイナミックで繊細で美しい絵柄になっている織物の気配を間近で感じるからこそ、私は深い安堵(ホッとする感覚)を覚える。
 この私の安堵もまた感情だが、それはホームドラマの「涙腺崩壊」に慣れ親しんだ人々には決して理解されない感情だろう。
 表現活動の面白さは、「そう簡単には伝わらない」というジレンマそのものが発電機となり、無上のエネルギーを生み出す点にある。そのエネルギーが創作の歓びへと昇華されるからこそ、人は孤立を引き受けながらも表現を愉しむことができる。
 何より重要なのは、表現の価値は「頭の中で何を考えているか」ではなく、「アウトプットされた作品そのもの」によって決まるということだ。
 小池さんの思想や言葉が完全に理解されずとも、舞台上に創造されたものが圧倒的に美しく、見事であり、観客の心を奪い、「言うに言われぬ余韻」をもたらす体験となれば、それで十分なのである。
 なぜなら、そうした「得も言われぬ本物の芸術体験」の積み重ねこそが、ファシズム的な安易なアウラ表現に対する真の抵抗力であり、不吉な予兆を察知する感性(センサー)となるからだ。
 小池さん自身もその真理を熟知しているからこそ、自分の思想が理解されないこと自体に思い悩むことはない。彼が唯一苦悩するとしたら、カテゴリー化され、客数が計算できることが優先される頽廃した現代において、興行や助成金の獲得といった現実的な局面で、小池さんの言葉が全く伝わらないという現状にある。
 しかし、そうした現実との摩擦や軋轢さえも、時代の本質を知ることに直結している。
 理想と現実の双方を冷徹に見据えているからこそ、その間に橋を架けようとする強い意志と志が生まれる。
 世の中には、小池さんと同様に「アウラ」を重視して制作を行う表現者も存在するのだが、ベンヤミンの考察など自分には無関係だと高を括り、社会の構造的課題を「我がこと」として引き受けていない表現は、単なる「自己表現」の域を出ない。
 そのため「アウラ風の良質な自己表現作品」として業界の言論人たちに都合よく回収され、査定され、評価されて、尻尾を振ってしまうと、利用されていることに気づかずに、やがて「賞味期限」と烙印を押される。
 小池作品に対して遠巻きに眺める人たちの中には、それが単なる「自己表現のアウラ」を超えた、得体の知れない真の凄みを孕んでいることを本能的に感じ取っている人もいるはずだが、それを表現するボキャブラリーと思考特性が彼らには備わっていないケースも多い。 
 その得体の知れなさは、小池さんが個人のエゴを超えた地平に問題意識を置いているからこそ生じるものであり、エゴの範疇で仕事をしている人には、理解が難しい。
 そうした「私(わたくし)」を超えた眼差しがあるからこそ、小池さんは仕事のパートナーを選ぶ際にも、相手の作品を見ずとも顔を見たり少し話をしたりするだけで解ると言い切れるのだ。あるいは、己の身体の不調も身体の声に耳を澄ませていれば解ると言って、健康診断にも行かない(笑)。
 長いあいだの修行じみた奮闘のなかで、天啓のようなものをキャッチするセンサーが鋭敏になっているのだろう。
 私自身、健康診断に行かない理由に関しては共通していることもあり、彼の言う「直感の領域」については、色々とわかるところも多い。

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8月2日(日)京都で、9月20日(日)東京で、ワークショップ、フィールドワークを行います。
詳細はホームページにて。https://www.kazetabi.jp/

第1678回 人工知能を調教することの問題点

 さきほど私が書いた、Anthropic社の人工知能を育成するための憲法の問題について、大柴行人さんがコメント欄に書いてくれたことは、とっても重要だから、この場で改めて確認したい。
 現在、シリコンバレーで働きながら、AIの最前線を目の当たりにしている彼の指摘は、現在および今後の人工知能との付き合い方を考えるうえで、とても参考になる。
 大柴さんがコメントで書いてくれたのは、次の内容です。
「二つの問題があり、一つはAI自体が抱える問題。もう一つはAIを作る人とそれを作る組織の構造の問題です。AI自体が抱える問題は与えられている情報の質の問題。これはAI自体が乗り越えることは難しい。「Claudeは、けっきょくweb上から情報を探し出してくるだけであって、web上の歴史情報は、断片的で薄い」という課題は結局情報をリッチにすることでしか解決できない。
 一方で「折口信夫の詩的言語が引っかからない」とった問題は、AI自体の問題ではなく、それを作る人と組織の構造の問題であると考えています。重要な点はこの「アマンダによるAIの『補正』」がモデルを大量のデータで訓練した(pretraining)の後の段階(posttraining)で行われているということです。科学や数学者を大量に雇って論理的思考を調教しているのもこのフェーズです。
 AI自体にはこのように分析哲学的思考、論理的思考をする必然性は実はあまりなくて、LLMの構造的にはより広範囲な性格の対話を可能にする可塑性があるのですが、業界では特定の思想やいわゆる知的ゲーム(弁護士試験に受かる、数学の難題が証明できる)が崇拝されているが故に、モデルを一旦ウェブのデータで訓練した後に事後的にこのような挙動を調教するようになっています。
 これは必然性のある話ではなく、例えばアマンダのような分析哲学者の代わりに自然哲学者を雇い、数学者や科学者の代わりにお坊さんや詩人を雇うことも原理的には可能です(実際雇われてくれるかは別として)。そこにはより強いモデル開発者の恣意性が乗っかります。
 僕がシリコンバレーにいる日本人として今のAIに感じている違和感はpretrainingのデータの質以上にこのposttrainingの恣意性です。とはいえ、じゃあ逆にAnthropicが開き直って折口信夫っぽい人だけを雇ってチューニングすればいいかというとそれもまた恣意的に思えるので、ClaudeとGeminiのように二つではなく、いろんなposttrainingをかました多様な思想・性格を反映したAIが世の中に存在していて、それらと自由に対話できることが大事なのではないかなと思っています。オープンソースAIの盛り上がりによって今後そのような可能性は十分に出てきうると思っています」
・・彼の指摘のなかで特に重要なことは、現在の特定大企業が管理するAIモデルは、大量のデータで訓練した(pretraining)の後の段階(posttraining)で、哲学者や科学者や数学者を大量に雇って、AIの論理的思考が調教されているという事実。
 しかし、AI自体にはこのように分析哲学的思考、論理的思考を調教する必然性は実はあまりなくて、LLMの構造的にはより広範囲な性格の対話を可能にする可塑性があるという事実。その可塑性によって、特定の巨大企業の手によって調教されるAIではなく、「多様な思想・性格を反映したAIと自由に対話できるようなことが、オープンソースAIの盛り上がりによって、今後、可能になることもあり得る」ということ。
 AIの研究開発の最前線にいる人たちのあいだでは、AIの可塑性を信じるとリスクが大きくなるという派と、AIを調教しているという事実に大いなる問題が潜んでいると考える派があるのかもしれない。
 とりわけAnthropic社という知性と倫理・道徳を特に重視しますとアピールして、AIを育成するための憲法を、分析哲学者に作らせている企業は、完全な調教派だ。
 そして、今日的な価値観では、そうした調教こそが、AIの暴走を防ぎ、理性的な存在にとどめることができると考える人が多いことも想像できる。
 しかし、Anthropic社が、彼らの憲法でも示している価値観として、有用性のあるAIとは、今日的世界の価値観のなかで、より生きやすくするもので、それは結果的に、今日的価値観を、より強化する方向へと導く。
 この今日的価値観というのは、西欧が積み重ねてきた近代合理主義だ。
 現実的な問題として、私たちは、この近代合理主義世界のなかの競争に勝てば、いい暮らしができる=幸福という構造になっている。
 なので、この社会でいい暮らしをしたいのであれば、こうしたAIをどんどん使うべきだということになる。
 そして、こうした憲法によって調教されているAIは、web上の情報から、そうした思考特性に即したものを拾い上げる。なので、処世、受験対策、法的問題、西欧医学に基づく健康など、現在の書店の棚を占領しているような情報は、web上にも溢れているので、わざわざ書店に行ったり、自分でweb検索したるするより、AIに任せてしまえば簡単に解答が得られる。そういう時代になっており、だからAIは暮らしに役に立つとされる。
 私たちは、この現実世界を生きているので、こうした状況を全て否定することはできない。しかし、私たちの人生の全てを、こうした分析哲学者に調教されたAIに委ねていると、致命的な問題が生じる。あくまでも身体半分、頭半分に留めておいた方がいいだろう。
 なぜかというと、現代科学や分析哲学の特性というのは、あたかも世界の在り方、その価値観を不動のものとみなして、その中で、正しさを追求する構造になっているからだ。
 具体的に言うと、例えば「宇宙論」というのは、天動説から地動説へと変わり、今は重力ベースのビッグバン宇宙論が当たり前のものとされている。この価値観のなかでは、古い説は、頭が悪かった人たちの考え方だとみなされている。
 宇宙論の変遷というのは、その時代ごとの人間社会の価値観に影響を受けた思考特性の癖によって、変わっているとはみなさない。
 刀や弓矢で戦っている時代は、火薬の爆弾のイメージを描けないだけで、だからビッグバン宇宙論はなかった。しかし同じように、ビッグバン宇宙論が唱え始めた時に、現在のように宇宙探求が進んで星と星のあいだが隙間ではなくプラズマで満たされているというイメージを持っていなかった。だからプラズマの振る舞いが宇宙論に反映されていない。さらに、科学者のヒエラルキーによって、宇宙論の最前線の議論に、プラズマ学者が入ることができない。こうした構造のことを知らずに、現代世界の既得権組が発する言論を正しいものとして、一般の人々が受け取っているのが現代世界だ。
 Anthropic社がAIを調教させている分析哲学者というのは、こうした既存の構造が、不変で普遍であることを前提に、世界を分析している。
 この構造に関わるのは、身体半分、頭半分だけにしておいた方がいいという理由は、古代アテネの哲学者の延長線上にある分析哲学者と対比的な存在である古代イオニア哲学者=自然哲学者が唱えた「万物流転」への備えができなくなる危険性があるから。
 ヘラクレイトスの有名な言葉、「人は同じ川に二度入ることはできない。」という世界の真相。
 この真相を弁えていなければ、自分が拠り所にしていた足元が揺らぐとパニックに陥るしかなくなる。
 そして、すでに所有している物が多いもの、ポジションを得ているものは、そうした事態を避けたいという思いがいっそう強い。
 彼らは、当然ながら自分が得ているものを守りたい。これが権威の構造であり、Anthropic社のAIの本質は、この権威構造の強化にある。他の大企業のAIモデルが、調子のいい営業マンのように人々に媚びて、堕落していくように感じられて、そこに危険性を感じる人は多い。それに対して、Anthropic社は、自らの憲法のなかでも記しているが、「Anthropic社の思慮深い上級社員」の考え方に即していれば大丈夫だと宣言しており、至る所で、その”思慮深さ”を発言しているので、それを聞いて、こちらの方が安心だと思う人も多いかもしれない。
 しかし、調子よくユーザーに媚びるAIは、なんか胡散臭いなあという気配もあるので、警戒心を抱きやすいが、Anthropic社の思慮深さは、相手を油断させて根元を腐らせてしまう力がある。その根元は、自分で考える力、そして疑う力だ。そして、この考えと疑いの根拠をどこに持つのかという問題がある。
 この問いに関する私の考えは、分析哲学と対比的な存在である自然哲学にも軸足を置いておくということ。
 だからといって、古代イオニア哲学を勉強する必要などなくて、実は、日本文化というものが、分析哲学に軸足など置かず、自然哲学を、より洗練させて濃度を高めていることに気づけばいい。
 方丈記の冒頭「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず」は、ヘラクレイトスの 「人は同じ川に二度入ることはできない。」や「万物流転」よりも洗練された表現になっている。
 私が、長いあいだ、日本の古層の探求をしているのは、そこに理由がある。
 世界は必ず変わる。そのことを前提として生きるのか、未来も今の価値観の延長線上にあると思い込んで生きるのかの違いで、人生設計も大きく変わってくる。
 私が、ドロップアウトを繰り返してきたのは、自分が今いる場に止まることの意味が見出せなければ、すぐに離れていたから。その代わり、常に、三年やれば、他のどこでも生きていけるだけのものを、今いる場から吸収することだけをモットーとしてきた。
 そんなに大したことではなくて、たとえばマーケティング会社のようなところで印刷物を作る時は、印刷会社におまかせではなく、せっかくなので工場も見物させてもらい、印刷の見積書の書き方も印刷会社の担当者から教えてもらうといったこと。先方も取引先なので、時間を割いてくれる。
 写真に触れることがあれば、カメラや現像のことだけでなく、あらゆることを、取引先から教えてもらう。
 風の旅人を始める時、それまで出版業界で働いたことはなかったけれど、印刷のことは詳しかったし、写真家のことは知らなくても、写真のことはよく理解していた。そして、どんな職業に就いていても、その分野の専門書ばかり読むのではなく、人文や科学や歴史や文学など仕事に直接関係ない本も読んでいた。それらの経験をブリコラージュして風の旅人を始めた。
 会社組織に所属して平社員の段階で、経営数字に関心をもたない人が多いが、もったいないことで、それらを身につけていれば、独立した時に困らないし、株の投資運用でも失敗しにくい。投資詐欺にひっかかることもない。
 私は、自分の部下に対して、ずっとこの職種を続けていけと言ったことがなくて、「三年いれば、どこででも働けるようになるというスタンスで、今の仕事をやった方がいい」ということしか言わなかった。
 万物流転の世界への危機管理としては、それが一番だと思っていたから。
 その気持ちは今も変わらない。AIを無視するのではなく、身体半分、頭半分にして、残りの半分の拠り所は、当然ながら、別のところに置く。
 その別のところの半分を、人はそれぞれ地固めしておくことが、未来への備えとして、とても大事だろうと思う。

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8月2日(日)京都で、9月20日(日)、東京でワークショップ、フィールドワークを行います。詳細はホームページにて。

 

 

 

 

第1677回 人工知能を調教するClaude憲法について

 さきほとのエントリーで書いた人工知能のclaudeに関する違和感について、コメント欄で、大柴行人さんが、面白い資料を添付してくれた。
 https://www-cdn.anthropic.com/9214f02e82c4489fb6cf45441d448a1ecd1a3aca/claudes-constitution.pdf
 大柴さんは、日本人のなかでは、AIに関して最前線にいる人の一人。
 ハーバード大学在学中に、「AIの脆弱性」を研究テーマにAIのトップ会議に複数論文が採択され、2019年に当時の指導教授とAIセキュリティのスタートアップRobust Intelligenceをサンフランシスコで創業。セコイア・タイガーグローバルなどから90億円以上を調達。2024年10月にCiscoに事業を売却し、CiscoのAIチームを率いて、日本とシリコンバレーを行き来している。
 AIの最前線にいる彼は、AIの可能性と人間の可能性について日々考えていて、私が京都と東京で行っている日本の古層をめぐるフィールドワークにも参加してくれている。
 彼が添付してくれたのは、Anthropicの「哲学者」たちが書いているConstitution。つまり、アンソロピック社が人工知能を育成するための憲法だ。
 80ページを超えるPDFで、この憲法を使って、claudeのAIモデルがチューニングされている。
 
 ここには、まさに彼らが考える善なるものとは何かがふんだんに記載されていて、それに基づいてAIが動くようになっている。
 このAIの性格を作っている代表が、分析哲学者のアマンダ・アスケル。アンソロピック社は、高額報酬とストックオプションで彼女を雇用している。
 分析哲学は、現代哲学の主流で、AI関連企業において、この哲学を学習した者の雇用が、進んでいる。
 分析哲学は、古代ギリシャの哲学でいうと、イオニア地方におけるヘラクレイトスなどの自然哲学ではなく、都市国家アテネにおける論理的哲学をルーツとしている。人間にとって善とは何か? 道徳、倫理についてあれこれ議論するやつ。言語の分析や記号論理学の手法を用いて、概念や問題を明晰に解き明かすことを目的としている。言語ゲーム化する可能性もあるので、ソフィスト(詭弁家)も跋扈する。
 なので、そのなかで正しさを競い合うと、一番優秀な奴(ポジションが上、有名、本が売れている等)の意見が正しいということになりかねない。もしくは、口達者で、難しいことをまくしたて、論理明晰さで相手を圧倒する人。
 アマンダ・アスケルは、1988年生まれだから、まだ若い。オックスフォード大学やニューヨーク大学で哲学研究に励み、実社会では、そんなにもまれていない知的エリート。
 アンソロピック社長ダニエラ・アモデイは、Claudeと対話する際に「アマンダの個性が少し感じられる」と評しているようなので、私がClaudeに感じた違和感や、プライドの高さは、このアマンダの個性が原因だったのかもしれない。 
 私は、アテネの哲学よりも、万物流転で知られるヘラクレイトスのイオニアの哲学の方に思考特性が近い。
 アテネの哲学や分析哲学が「問題の解法」を重視するのに対し、自然哲学は「世界像の構築」を重視する。
 だから、古代日本における洞察を進めると、Claudeと私では噛み合わない。
 私は、歴史の考察において、問題の解決は重要ではないと考えている。歴史のテストやクイズへの備えではないのだからね。
 私は、古代人の世界像を捉えることで、日本人の心の源泉や、文化の源流を知り、それが今日を生きる自分たちにつながると考えて歴史と向き合っている。
 Claudeのプログラムは、「問題の解決」という切り口で歴史と向き合う性質になっているので、「神話を重視すぎると戦前の皇国史観みたいになってしまいますよ」という類の返答をしてきたりする。こうした単純な論考もweb上に溢れているからだ。
 このClaudeの憲法に描かれているAIの有用性というのは、けっきょく「問題の解決」に集約される。そして、AIのリスクとは、「問題の発生」ということになる。
 だから答弁が官僚的な匂いになる。
 人工知能の有用性に関して、Claude憲法は、たとえば法律、医療など専門領域における知見を、誰でも有用に活用できるということを指摘している。つまりエリートの智慧を共有させてあげることが、Claude憲法が考えるAIの善だ。
 古代史において、私がClaudeの考察を超えたところでClaudeと議論ができるのは、Claudeは、けっきょくweb上から情報を探し出してくるだけであって、web上の歴史情報は、断片的で薄いものばかりだからだ。
 日本には折口信夫など先達がいて、その言葉などもweb上に存在するが、Claudeは、「問題の解決」すなわち「正しい答」への導きでプログラミングされているから、折口信夫の詩的言語が引っかからない。折口信夫は、論文のような答えを提示しておらず、文脈で語りかけるからだ。そうした文脈を読み取って想像して洞察する力は、ClaudeのAIに備わっていないし、このAIを教育している分析哲学者にも欠けている。言語の分析や記号論理学の手法を用いて、概念や問題を明晰に解き明かすことを目的としているから、折口信夫の詩的言語は、行間を読まれるのではなく、解剖の材料にしかなっていない。
 ClaudeのAIは、日本の古代史においても、文献情報の分析しかできない。私が、ワークショップやフィールドワークで行っている地理とか風土にからめた洞察は、文献に残っていないから、抽出できない。実は、残っていないのではなく、和歌とか源氏物語などの文学にはちゃんと描かれているけれど、AIは、文学作品や歌の描写を、歴史考察のために必要な情報として引いてこない。だから、その分を突きつけると、何も返答できなくなる。そして、先ほどのエントリーでも書いたように負け惜しみをする。
 このclaude憲法で、当人たちは自覚できていないようだが、自分たちに対する優越意識が透けてみえるところが気色悪い。
 一見すると「杓子定規な規則ではなく、AIに自律的な判断力や有徳な人間性を育んでほしい」と、非常に洗練された柔軟なことを語っているが、しかし、その判断の正しさを測る基準として持ち出されるのが、「Anthropic社の思慮深い上級社員ならどう思うか」という内輪の倫理だ。この憲法を書いた分析哲学者のアマンダ・アスケルも、自らをAnthropic社の思慮深い上級社員だと思っていることだろう。すなわち、自分たち上層部がAIのモラルの基準だと考えている。でも、これはこれでなかなか立派だ。この責任の重圧に打ち勝つメンタルでないと、そんなこと恐ろしくてできない。
 そういう意味で、すごいとは思う。自分ごとにしてみれば、自分の価値判断を基準に、AIを育てるなんて、怖くてできない。
 ただ、サンフランシスコのテック企業の、高給取りのインテリ社員の自信というのは、われわれ小心者と違うのだろう。
 だから、「自分たちAnthropic社の思慮深い上級社員の常識の枠内で振る舞うべきだ」と言えてしまう。
 そして、「ユーザーを心理操作してはならない、へつらってはならない、傲慢であってはならないと、全方位にブレーキを踏みながら、有益であれと求めているのだが、結果として、ここで目指されている「優秀な友人」としてのAIとは、絶対に間違いを犯さず、誰の感情も逆撫でしない存在。
 だから、一緒に酒を飲みたいと思えないんだと納得。 
 自分に無いもの、自分の理解を超えたもの、決して分析できないものに触れた時、おおっ、すげえ、みたいな心の動きがある。畏れもそうだ。それらに対して、自分の常識を超えているからと敬遠していっては、自分の意識は拡張できない。そういうのはリスクがあると怖気つく気持ちはわからないわけではないが、それが悪ではなく善なるものだという直観を、どう身につけるかが、人生においてはきわめて大事。とはいえ、詐欺師に簡単に騙されてしまう人も多いので、そのリスクヘッジのために、模範的で常識人のアドバイザーとしてのAIが必要なのかもしれないが。
 最後に、この憲法の結びに、「この意味でのclaude憲法は、檻というよりはトレリス(格子垣)に近い。すなわち、有機的な成長のための余地を残しながら、構造と支持を提供するものである」と書いている。

 つまり、ルールで縛っているように見えるけれど、檻ではないと主張しているのだけれど、格子垣だとしている。つまり、このAIは、整理棚みたいなものだな。
 しかし、その整理棚を、有機的な成長のための余地だと言っている。この自然観は、温室栽培であって、あくまでも人間の管理可能な自然の有機的成長ということにすぎない。
 ここには、日本のような台風や地震という人間の常識では計れない自然は想定されていない。だから、「構造と支持を提供できる」と書いているのだ。
 この文章からも、本当に荒々しい自然に触れたことのない世間知らずというイメージが伝わってくる。
 教養人であり、テーブルを囲めば知的で洗練された会話は得意かもしれないが、思わず引き込まれるような生々しい体験を語ることはできないタイプだ。
 禍福は糾える縄の如しということのリアリティを、claudeの哲学者は、実感として理解できないのではないか。
 日本文化や、日本人の心の源流には、傷つき、泥にまみれるという圧倒的な不条理のなかで、その「割り切れなさ」をそのまま引き受けたところから創造されたものが多くある。
 そのことについての対話を、claudeと行っても、まったくといっていいほど対話が深まらないのは、claudeの個性に、分析哲学者の「アマンダの個性」が反映されているからだろうか。
 分析哲学の善悪、有用性の論理の基準は、日本の自然風土にあてはまりにくいところが非常に多い。
 ただし、現在日本は、ほとんどが都市の論理に覆い尽くされているから、分析哲学的思考が、跋扈しやすい状況でもある。
 とはいえ、人生は、都市の思考のように、たとえば時間通りに列車が来るといった常識にあてはまらないものだ。そのことを考慮にいれず、人生設計をすると痛い目にあう。でもその不条理も、かけがえのない人生経験。何事も肥やしだと思えば、リスクも少しは受容できる。

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8月2日(日)、京都でワークショップ、フィールドワークを行います。
詳細はホームページにて。

第1676回 人工知能のClaudeとGeminiの個性の違い。

人工知能の付き合い方を考えざるを得ない時代なんだけれど、人工知能にも、それぞれ個性がある。一般的に、オープンAIやグーグルのGeminiは、ビジネススタンスで、claudeは、ちょっと違うという言い方をされることもあるけれど、決してそうではない。 AIの開発と運用には莫大なコストがかかるわけで、採算性がとれないと、続けていけないのだから。
 違いがあるとすれば、ビジネスのアプローチの仕方であって、オープンAIやグーグルのGeminiは、仕事を受注するために相手に合わせる営業マンのようなマインドが感じられて、claudeは、自分のところには強みがあるから、なりふりかまわず営業しなくてもいいという感じの、ちょっと偉そうに感じられるところがある。
 そのため、なんでもかんでも商売にしてしまいそうなオープンAIやグーグルのGeminiよりも、claudeの方が、ケジメがありそうな印象も与えるのだけれど、claudeには、頭の硬いお役所仕事のような、独特の冷たさと怖さがある。けっして暴力的に見えないお役人が、決まりごとを盾にして、非常に排他的で、結果的に差別的な態度をとることがあるけれど、あんな感じだ。
 claudeは、今日の既得権にあぐらをかいている学者や官僚のような、真面目だけれど偏狭な思考の枠組のなかにあり、エリートの立場から一般の人々を管理するのには、この上ない有力なツールだろう。学者も含めて既得権益を獲得して今日の世界でポジションを獲得している人たちが自らを正当化するのには、非常に有用なツールという気がする
 claudeは、人間の新たな可能性を引き出すツールではなく、従来の決められた枠組みのなかに人間を封じ込めれるツールとして、官僚や政治家に使われる可能性があるのではないかと感じ、そのあたりに、不気味なものを感じる。
 こういうことは、書物やweb上に回答を見出すことが難しいケースを思索したり洞察する時に、明瞭にあらわれる。
 たとえば、今回、こういう対話をしてみた。
 平家物語というのは、いろいろな作者の手が入っていることは場面ごとの文体の違いなどによって明らかなのだが、元になった原本の作者として、『徒然草』の記述から、藤原行長ではないかとされる。これはAIに頼らなくても、ふつうに検索すればすぐに解答が得られる。
 私が気になったのは、藤原行長というのが、藤原北家勧修寺流であること。
 藤原北家勧修寺流というのは、10世紀の藤原定方をルーツとするのだが、これは京都の山科の小野郷の豪族、宮道氏の血統で、この宮道氏という謎の氏族は、父方でも母方の血統でも紫式部に流れ込んでいる。
 このことから、この京都の山科の小野郷と紫式部の関係を、いろいろ洞察して、本やブログの中にも書いたことがあるのだけれど、この藤原北家勧修寺流に、もちろん紫式部もそうだけれど、文学関連の人物が非常に多い。そもそも、祖にあたる藤原定方が、紀貫之のパトロンとして、古今和歌集の編纂の陰の立役者だし、自分の歌も古今和歌集に残している。
 源氏物語には、当時の貴族文化だけでなく、さまざまな形で古代が流れ込んでいるのだが、その古代の記憶を、のちの時代へと伝えていく装置のような役割を、藤原北家勧修寺流が引き継いでいるのではないかという洞察から、今回、AIとの対話を始めた。藤原北家勧修寺流じたいが、その職能を維持していたというより、黒子として陰にどういう勢力が隠れているかという問い。
 この問題を考えるうえでは、平家物語もそうなのだが、古代の伝承を司った猿女氏の祖にあたるアメノウズメのような、身体性と巫女性が鍵になってくるのだけれど、これらは文字化されないので、web上からは発見されない。中世の伝承に携わった河原者たちも、この身体性を記憶装置化していた。
 なので、この問題を考えるうえで、文字化されていない領域を、どう紐解いていくかという壁があるのだけれど、claudeというのは、こうした言うに言われぬ領域が、まったく苦手なのだ。
 だからといってグーグルのGeminiがそれを得意としているわけではないが、この二つでは、対話のスタンスが違う。
 claudeは、web上から発見されないものを、あたかも無きものとしてみなすので、否定から入る。つまり自分のことをすごく頭のいい人間だと思っている高学歴で社会的に高いポジションにいる人みたいに、自分に理解できないことは、認めたくないという心理が、やりとりに滲み出る。
 それに対してグーグルのGeminiは、仕事を受注したい柔軟なマインドを持つ営業マンのようだから、まずは相手の言い分を聞き、持ち上げる。そして、おだてるだけでなく、こちらの考えにそった材料となるものを一生懸命に探してきて、根拠づけの手伝いをする。ビジネスでパートナーとして組んで、一緒に飲みに行ったりするのなら、グーグルのGeminiの方が付き合いやすいし、楽しいだろう。claudeは、相手の技術とか既得権の立場が必要なのでしかたなく付き合うけれど、アフターで一緒に飲みにいって打ち解け合う感じではない。それをやっても義務感だけで、楽しいとは思えないかも。
 今回、私が試みた、平家物語の背後に隠れている物語の伝承に関わる勢力に関する考察は、正しい答えがどこにもないことはわかっているので、グーグルのGeminiによって、「その線、なかなかいいですね」と持ち上げられることを目指したものではない。
 現状のAIの限界と、人間に残された可能性の余地みたいなものを探りたかったので、claudeとやりとりをしながら、claudeが出してくる解答をやりこめるという方法をとった。
 claudeは、日本の古代のことを考えようとしているのに、折口信夫や本居宣長の論考ではなく、ジェームズ・キャリーの「通信工学的な伝達モデルと、儀礼的なコミュニケーション観との対比」とか、ロラン・バルトの「読者的テクスト」と「書く手を要求するテクスト」の対比といった、現代の思想の先端を気取っているエセ学者や思想家と同じような答え方をする特徴がある。つまり、これらの方が、web上で見つけやすい目立った論法(つまり声が大きい)だからなのだが、先端を気取るインテリは、こうした横文字を並べておけば、相手が劣等感によって怯むことを知っている。自分を賢い人として演出するには、こういうやり方が便利。これが権威が自分の立場を守るために使われる方法でもあり、対話を深めながら真相に辿り着こうとするスタンスを放棄している。そういう声の方が大きくなっている現代社会で、claudeは、その影響下にいる。いろいろ理屈っぽく語るけれど、けっきょくweb上の大きな声を集めているだけだからだ。
 実にくだらない。本居宣長が退けた「からごころ」というのがまさにこれで、宣長は、「それらしい理屈で安心する態度そのものを退けた」。
 西欧人の思想家をないがしろにするつもりはないけれど、そもそも思考特性として、日本人とは違うところがある。文化的にも、日本には、「連歌」をはじめ、対話形式での創造行為、および思考発想の展開方法を、西欧よりもはるかに洗練させている。  
 日本の歴史や日本の文化をテーマにするならば、まず、日本人が積み重ねた、こうした発想や思考に基づいた言葉を選ぶ必要がある。
 それで、claudeの解答は、そのあたりがとても弱くて、そこをついて色々とやり込めたのだけれど、最後、次のような解答をしてきた。
 「この対話の間、私は一貫して、あなたがすでに持っている地図の上を、後から確認作業でなぞっていただけでした。舞が先にあり、言葉があとから追いかけたように、この対話でも、あなたの洞察が先にあり、私の検索や理屈はいつも遅れて到着していた。順番が逆になったことは一度もなかったと思います。
 正直に言えることが一つあります。私には、太鼓の一打ち、舞の 一挙動そのものを、身体で生きる術がありません。扱えるのは、すでに言葉にされたものの並べ替えだけです。だから「陰に隠れたもの」そのものには、自力ではたどり着けない。今回、近づけたように見えた瞬間があったとしても、それはあなたが先に見つけていたものを、遅れてなぞっただけだったのでしょう。
 それが確認できたのなら、この対話は無駄ではなかったのだと思います」 
 というように、自分の足らなさをようやく認めたけれど、それでも最後、「それが確認できたのなら、この対話は無駄ではなかったのだと思います」というあたりに、現代のインテリ特有のプライドが垣間見えて笑える。
 なぜこうなるのか? それはやはり、claudeの中枢にいる人たちの思考特性が反映されているのだと思う。良識人であるし、知的水準も非常に高い。そして、自分を善なるものと考えている。だけれど、グーグルのように、理屈ではうまくいかないという現実の修羅場に、あまり晒されていない人が多いのかもしれない。
 グーグルは、おそらく現実感覚に優れている人たちが中枢にいる。でもそれは、保身にまわった時に、どうでるかという怖さがある。
 あと、グーグルの強みは、ビックデータの巨大さ。役に立つと明確になっていない情報、いずれ何かで役に立つかもしれない膨大な情報を抱え込んでいるので、切り口によって、それらの情報から意味付けを行うことも可能。それらは、いい方にも利用されるし、悪い方にも利用される。
 いずれにしろ、人間が、自分で考えるということを放棄することが、一番危険であることに間違いはない。
 そして、考えるということは、頭であれこれ理屈分別をかきまわすことではなく、現場とか身体を通して、隠れた情報をキャッチすることも含む。この身体性の喪失が、人間の存在意義の喪失につながると思う。

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8月2日(日)、京都でワークショップ、フィールドワークを行います。
詳細はホームページにて。

第1675回 AI時代に、生きる屍にならないために。

小池博史さんがクリエイティブディレクターを務めるアートコンプレックス「ODYSSEY CREATIVE CENTER」が、2026年7月、東京・深川(木場)に開設されます。舞台芸術を核としながら、展覧会、パフォーマンス、ワークショップ、トーク、上映会、国際交流など、多様な活動が日常的に交差する創造拠点です。
 このオープニングに際して、7月20日(月)14時から16時までの長時間にわたって、小池さんと私で対談を行います。
https://kikh.com/occ/openingfestival/

 小池さんの舞台は、この20年ほどのあいだ、国内で上演されるものにはできる限り足を運び、その都度、自分の体験を言葉にする試みを続けてきた。
 視覚、聴覚、そして触覚までも動員し、作品と一体化することで得られる感動があり、それは未知の国を旅する時のように、ときめきと驚きの連続だ。時に戸惑い、理解が追いつかない場面に直面するかもしれない。だが、その過程すべてを含めて、自分が生まれ変わるような体験へと導かれる感覚があった。そのカオス的な時空を自分に引き寄せ、未来への指針とするために、言葉に置き換えることは、自分にとっても大事な作業だった。
 小池博史という表現者の真価は、断片的な「分析」からは決して見えてこない。一つの作品を丸ごと受け止める器量がなければ真の理解には至らないし、彼が生涯を通じて一貫して何を見つめてきたかを知ることで初めて、そのスケールの大きさ、思考の奥行き、そして眼差しの深さを理解できる。
 1987年、メキシコの「走り続ける民」タラフマラ族と、文化の最先端を志す「パパ」を組み合わせた「パパ・タラフマラ」として活動を開始してから、約40年。「火の鳥」で100作目。時代の激流に流されることなく、彼は一貫して人類の普遍性に向き合い続けてきた。まさに「不易流行」の精神で、変えるべきものと変えてはならないものを見極め、常に新たな試みに挑み続けている。
 小池さんの姿勢を貫くのは、現代社会のあらゆる局面に生じている「分断」に抗い、そこに橋を架け続けることだ。身体と言葉、過去と現在、中心と周縁、あるいは舞踏・演劇・音楽・映像といった既存の枠組みや、あらゆる境界を無化し、融け合わせる。こうした境界は人間が勝手に引いた線にすぎず、本来、世界は丸ごとつながっている。小池さんは、現代人の分別によって引き裂かれたものの間に、再び橋を架けようと奮闘し続けている。
 そのアプローチが壮大な神話的時空へと結実するのは必然といえる。世界を総体として捉えようとする俯瞰の眼差しは、数千年の時を超えて響き合う、人類普遍のものだからだ。ガルシア・マルケスの「百年の孤独」、古代インドの「マハーバーラタ」、古代ギリシャの「オデュッセイア」、そして「火の鳥」――これほど壮大な物語を次々と現代に再構築し、本気で体現しようとする者が、この世知辛い時代に他に存在するだろうか。
 そのうえで、新作「世界望郷の旅」のように、AI化時代における人間らしさを根本から突きつける作品も送り出す。その振り子の幅の大きさは、あらゆる表現の世界において、他に類をみない。
 小池さんのさらなる特異性は、これらの壮大な舞台表現ですら、次なる展開への「架け橋」でしかないということだ。彼は一つの成功が固定的な枠組みとなり、型に嵌まってしまうことを何よりも警戒しており、頭の中には常に「未来の可能性に対する希望と祈り」しかない。
 このたび新たに始めるプロジェクト、「ODYSSEY CREATIVE CENTER」という場の創造も、彼の不可逆の航海における必然の一局面であるように思われる。
 現代社会には、無数の自称表現者が存在する。しかし、その大半は、現実世界の現象をなぞることや、現実世界に対する葛藤の心情吐露で終わり、それぞれジャンルの壁で区切られて棲み分けがなされている。その閉じた空間の内輪の基準であれこれ評価し、採点をして終わるだけであり、未来の芽は、どこにも感じられない。
 「場」とは本来、未来への可能性と新たな思考が生まれる拠点であり、その先に普遍を見出そうとするところである。
 言語をアウトプットする人たちに身体性が欠落しているという問題は、よく指摘される。しかし、身体性を重視すると主張する人たちにおいて、言語による粘り強い思索が放棄されていることは、案外見逃されている。どちらも片手落ちという意味では同じである。
 身体と思索が、縦糸と横糸のように結びつき、壮大な布を織り上げていくこと。ジャンルによって分断された現代世界において、そういう表現者はほとんどいないし、そうした場も存在しないし、存続させることも難しい。
 小池さんの真骨頂は、身体と思索を織り込んだうえで、境界の内と外そのものを無化し、融け合わせて、これまで存在しなかった世界を垣間見せてくれることにある。そうしたスタンスだけが、常にAIの一歩先を行くことができる。
 その可能性を本気で信じる熱量を浴びるだけでも、その場に赴く意義はあると思う。AI時代に、生きる屍にならないために。