昨日、木場で開催された小池博史さんのOCCオープニングフェスティバルにおいて、小池さんと2時間にわたって、どっぷりと対談を行った。
その最後にいただいた質問は、小池さんの表現の本質に関わる問題であり、同時に現代の表現世界にとっても極めて重要なテーマを含んでいた。あの場では時間の制限もあり言い切れなかったことがあるため、ここに言語化しておきたい。
それは、「芸術表現における感情」をめぐる問題である。
質問者の方は、私たちの2時間に及ぶ対談の中でご自身が期待していた「感情」に関する話題が出てこなかったことをもどかしく感じられたようで、質疑を通して「芸術表現と感情」についての見解を求められた。
しかし、実は小池さんと私の対談の通奏低音が、終始この「芸術的感情」のことに関わっていた。というのは、こうした芸術表現をめぐる対話で、それ以外は、大して重要でないと私は思っているからだ。
ただ、そうした声にならない声は、現代社会においてはきわめて伝わりにくい。それゆえに、小池さんの舞台を「わからない」と評する人が多いという悲しい現実が存在する。
この問いに対し、小池さんは「子供の無邪気な反応」と「ヴァルター・ベンヤミンの考察」という、両極端の例を引いて答えた。この振幅の大きさこそが小池芸術の真骨頂なのだが、おそらく大半の観客にとっては、ますます煙に巻かれたように感じられたかもしれない(笑)。
また、質問者が意図した「感情」のあり方に対して、返答が難解すぎると受け取った人も多かったはずだ。
そのため私は、誰もが理解しやすい「お茶の間のホームドラマにおける感情」との対比という形で、その意図を翻案(翻訳)させてもらった。
現代の表現世界において、弁が立ち、知識量で議論の優位に立とうとする批評家や表現者は、ベンヤミンの考察を自説の補強として利用することが多い。
しかし、小池さんはその逆を行く。
それこそが私が小池作品を強力に支持する最大の理由なのだが、小池さんはベンヤミンが否定した「アウラという芸術的感情」を、自身の表現を通して奪還しようとしている。それゆえ、言葉や知識情報だけを頼りにアートを論じる人々のなかで、小池さんの表現と真摯に向き合う者はほとんどいない。彼らには小池さんの問題意識も、表現上のスタンスも理解できないからである。
「アウラ」とは何か。対談の冒頭で私が、「得も言われぬ強烈なものを受け取ってしまったので、このまま対談に入る前に、一度家に帰って頭を整理させてほしい」と口にしたような、あの感覚のことだ。
つまり「アウラ」とは、安易な言葉へ置き換えることのできない“感情”であり、存在そのものを根底から揺さぶられる状態を指す。
もともと、こうした感情を喚起するアウラ的芸術は、礼拝の対象――すなわち宗教的な聖なるものであった。
しかし、ユダヤ人でありナチズムの被害者でもあったベンヤミンは、このアウラ的芸術を否定した。ナチスがこのアウラを政治的に悪用したからである。陶酔や熱狂といった宗教的感情を誘発することでヒトラー崇拝を醸成し、特定民族への憎悪を煽り立てた歴史への反省から、ベンヤミンは複製技術時代の「非アウラ的芸術」を積極的に評価した。これがポップアートの潮流を生み出し、工業・産業化社会、すなわちアートの商業化と見事に合致していく。結果として、メディアやカルチャーシーンの主流となったこの領域で、情報を言葉巧みに流通させる「論客」たちが幅を利かせることになった。
こうした非アウラ的芸術は、魂を揺さぶる感情ではなく、「斬新」「クール」「スタイリッシュ」といったファッション感覚、あるいは個人的な「好き嫌い」の領域へと回収される。
そこでは絶対的な唯一性や真理ではなく、多数の鑑賞者によるフレキシブルな受容が前提とされるため、複製品や類似品が溢れかえる。結果として私たちの身の回りには、既視感のある表現ばかりが氾濫することになる。
ベンヤミンがファシズムとアウラ的芸術の危険な結合を懸念する論考を発表してから約90年が経つ。だが今や、「アウラ」を剥ぎ取られた複製芸術が自称専門家に持ち上げられ、アートビジネスの世界で高額取引される状況は、拍車がかかる一方だ。SNS上に溢れる投稿と大差ないものであっても、わずかな「切り口の違い」と後付けの理屈さえ与えられれば高評価を獲得する。
しかし、芸術表現からアウラが切断されると、人間は自らの「感情」をどこで処理すればよいのかという大きな欠落が生じる。
そこで登場するのが、昨日私が言及した「ホームドラマ的表現」である。テレビに限らず、小説、舞台、映画、写真に至るまで、安っぽいホームドラマのような設定が溢れている。悲しさや切なさに直接訴えかけ、それを手軽に慰撫してくれるような表現物だ。現代の多くの人々は、こうした「お涙頂戴」のレベルのものを大事な「感情」だと錯覚し、それらは「涙腺崩壊」といった陳腐なキャッチコピーとともに消費されていく。
目先の変化を競うだけの非アウラ的芸術に疲弊し、「わけがわからない」と拒絶する人々が、その反動としてわかりやすいホームドラマ的感情へとなだれ込む。
現代の表現世界は、この「無機質な記号消費」と「安易な感情消費」という両極端に分裂しており、小池さんのジレンマと孤独な闘いはまさにこの断層において展開されている。
私自身、『風の旅人』というメディアを編集していた時期に全く同じジレンマを抱えていたため、小池さんの葛藤は痛いほどよくわかる。
『風の旅人』もまた、ベンヤミンの否定した「アウラ」を現代に取り戻そうとする試みだった。それゆえ「心が深く揺さぶられた」と歓喜する読者がいる一方で、「これは何らかの宗教なのか?」と揶揄する者もいた。
日常を平穏に過ごし、個人的な悲哀があってもホームドラマ的表現で自己を慰め、アウラを失った日常の穴をスポーツ観戦の熱狂などで埋められる人々にとって、『風の旅人』や小池さんの舞台が放つ「アウラ」は日常的には必要とされない。しかし、かつて長期入院中の女性から届いた「病室で『風の旅人』を開いていると、理由もわからず涙が溢れ、心が洗われた」という手紙に象徴されるように、切実な境地にある人にとってアウラは不可欠な存在となる。

では、なぜ小池さんも私も、ベンヤミンが否定した「アウラ=芸術的感情」を取り戻さなければならないと考えるのか。その根底にある理由についても、昨日の質疑の中で触れた。
重要なポイントは、ベンヤミンの論考において決定的な視点が抜け落ちている点にある。
ベンヤミンは、アウラ芸術がナチズムに利用されたからこそそれを危険視し、否定した。芸術に人間の感情を根底から揺さぶる力を求めるべきではない、と。
だが問い直すべきは、なぜ当時の群集心理が、あれほど易々と安直なアウラ表現と結びついてしまったのかという原因である。その正体は、人々の心に渦巻いていた「退屈」と「フラストレーション(欲求不満)」に他ならない。
ナチスが仕掛けたアウラ表現とは、実に底の浅いものであった。それはスポーツの祭典と一体化する程度の、極めて恣意的で単純な熱狂にすぎない。そんな底の浅い仕掛けに群衆が容易に呑み込まれてしまったのは、機械文明の進展によって均一なコピー製品に囲まれ、宗教的信仰心も失われ、慢性的な「退屈」と「満たされない欲求」に苛まれていたからだ。
日常的な感情を慰撫するホームドラマのような表現が、本来の芸術が扱う感情と根本的に異なるのは、前者の感情の多くが「言葉で説明可能」だからである。そうした個人的な悲哀やストレスは、テレビやカウンセリング、共感しやすい小説などによってその場しのぎの対症療法的に解消できる。
しかし、言葉で説明可能な感情ばかりを優先し、目先の解消を繰り返していると、人間の心の奥底には「どうしても満たされない何か」が澱(おり)のように溜まっていく。
「得も言われぬもの」と出会い、存在そのものが揺さぶられる「感動的体験(アウラとの接触)」が決定的に欠落しているからだ。
そして、その欠落が慢性化したとき、人間は未知の衝撃や危機に直面すると容易にパニックへ陥る。隣国の侵略に対する過剰な恐怖や、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」というようなデマへの惑乱――ホームドラマ的な個人的感情を遥かに超えた集団的恐怖に直面したときこそ、人々はナチスが仕掛けたような「安直なアウラ表現」に易々と巻き込まれてしまうのだ。「自分がずっと求めていたのはこれだ!」「自分の不遇の原因はアイツらだ!」という集団的陶酔と攻撃性が、爆発的に呼び覚まされるのである。
つまり本当に必要なのは、ファシズム的な安直なアウラ表現に対する「耐性や免疫」を育てることである。その視点を欠いたまま、ベンヤミンのようにアウラそのものを排斥してしまえば、世界は無菌状態となり、人々の免疫力はかえって完全に失われてしまう。
この「陳腐なアウラ表現」は、形を変えてすでに私たちの身近に蔓延している。その典型が、「スピリチュアル性」を前面に掲げた集まりに見られる万能感や高揚感だ。「自分たちは良いことをしている」という自己承認の陶酔。
「複製表現の無機質さも嫌いだが、ホームドラマのベタな感情にも飽きた」という層が、この安易なスピリチュアルへとなだれ込んでいる。事あるごとに霊界を持ち出したり、デジタルの逆光写真にオーラを見出したり、「精神世界」を謳ったインスタレーションや安直な写真アート、地球環境問題と結びついたスピリチュアルイベントなどがそれだ。
こうした現象を批判すると、スピリチュアルな感情を刺激された人々から猛烈な反発を受けやすい。しかし、これらに無批判に浸っている限り、ベンヤミンの危惧したファシズム的アウラに対する免疫は絶対に育たない。
政治的異議申し立て運動に従事しながら、その一方でスピリチュアル的陶酔に没頭している人々は、皮肉にも自ら政治的な仕掛けに呑まれやすい体質を作り出していると言える。なぜなら彼らは感情に流されやすく、「感情に素直になることが善であり、深く考えることは悪だ」と言わんばかりに、感情を刺激されれば即座に行動へ直結させてしまうからだ。
このスピリチュアル性と結びついた安易なアウラが群集心理になった時こそ恐ろしいものはない。そういう集団の中で異議を唱えようとすれば、袋叩きにあうだろう。現代、彼らは暴力的手段を持っていないから憎悪の眼差しを向けるだけだが、自らの正当化と暴力が結びついてしまえば、手に負えない勢力になってしまう。これこそがファシズムの根なのだ。
もちろん、こうした情勢を否定ばかりをしていても意味はない。だからこそ小池さんは、「本物のアウラ」を目指して表現活動を続けている。
だが、この境地は滅多に理解されない。
昨日の対談の隠れた主題であった「芸術表現において取り戻すべきアウラ=感情」というテーマが、どれほど言葉を尽くしても伝わりにくいという現実に、今この時点の私もまた直面している。
「もっと手短に書け」「ややこしい話だ」と途中で投げ出す人が大半だろうし、「自分には関係ない」と素通りする人が多いことも理解している。現代社会においてこの問題はきわめて厄介であり、だからといって愚痴をこぼすだけでは始まらない。表現という形のアウトプットを通して、この問題意識を昇華させる試みを続けるしかない。
驚くべきことに小池さんは、40年以上にわたってこの構造的な軋みと摩擦を引き受けながら奮闘を続け、形に昇華させてきた。これはもう本当に驚くべきことである。そして彼は、これからもその意志が揺らぐことはないと、明確に言い切れるものがある。
なぜなら、「アウラ」と「思索」を縦糸と横糸にした織物を、自分自身のものにしているからだ。
精密で、全てに気を行き届かせて、しっかりと織りこまれた織物。その結果として、ダイナミックで繊細で美しい絵柄になっている織物の気配を間近で感じるからこそ、私は深い安堵(ホッとする感覚)を覚える。
この私の安堵もまた感情だが、それはホームドラマの「涙腺崩壊」に慣れ親しんだ人々には決して理解されない感情だろう。
表現活動の面白さは、「そう簡単には伝わらない」というジレンマそのものが発電機となり、無上のエネルギーを生み出す点にある。そのエネルギーが創作の歓びへと昇華されるからこそ、人は孤立を引き受けながらも表現を愉しむことができる。
何より重要なのは、表現の価値は「頭の中で何を考えているか」ではなく、「アウトプットされた作品そのもの」によって決まるということだ。
小池さんの思想や言葉が完全に理解されずとも、舞台上に創造されたものが圧倒的に美しく、見事であり、観客の心を奪い、「言うに言われぬ余韻」をもたらす体験となれば、それで十分なのである。
なぜなら、そうした「得も言われぬ本物の芸術体験」の積み重ねこそが、ファシズム的な安易なアウラ表現に対する真の抵抗力であり、不吉な予兆を察知する感性(センサー)となるからだ。
小池さん自身もその真理を熟知しているからこそ、自分の思想が理解されないこと自体に思い悩むことはない。彼が唯一苦悩するとしたら、カテゴリー化され、客数が計算できることが優先される頽廃した現代において、興行や助成金の獲得といった現実的な局面で、小池さんの言葉が全く伝わらないという現状にある。
しかし、そうした現実との摩擦や軋轢さえも、時代の本質を知ることに直結している。
理想と現実の双方を冷徹に見据えているからこそ、その間に橋を架けようとする強い意志と志が生まれる。
世の中には、小池さんと同様に「アウラ」を重視して制作を行う表現者も存在するのだが、ベンヤミンの考察など自分には無関係だと高を括り、社会の構造的課題を「我がこと」として引き受けていない表現は、単なる「自己表現」の域を出ない。
そのため「アウラ風の良質な自己表現作品」として業界の言論人たちに都合よく回収され、査定され、評価されて、尻尾を振ってしまうと、利用されていることに気づかずに、やがて「賞味期限」と烙印を押される。
小池作品に対して遠巻きに眺める人たちの中には、それが単なる「自己表現のアウラ」を超えた、得体の知れない真の凄みを孕んでいることを本能的に感じ取っている人もいるはずだが、それを表現するボキャブラリーと思考特性が彼らには備わっていないケースも多い。
その得体の知れなさは、小池さんが個人のエゴを超えた地平に問題意識を置いているからこそ生じるものであり、エゴの範疇で仕事をしている人には、理解が難しい。
そうした「私(わたくし)」を超えた眼差しがあるからこそ、小池さんは仕事のパートナーを選ぶ際にも、相手の作品を見ずとも顔を見たり少し話をしたりするだけで解ると言い切れるのだ。あるいは、己の身体の不調も身体の声に耳を澄ませていれば解ると言って、健康診断にも行かない(笑)。
長いあいだの修行じみた奮闘のなかで、天啓のようなものをキャッチするセンサーが鋭敏になっているのだろう。
私自身、健康診断に行かない理由に関しては共通していることもあり、彼の言う「直感の領域」については、色々とわかるところも多い。
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8月2日(日)京都で、9月20日(日)東京で、ワークショップ、フィールドワークを行います。
詳細はホームページにて。https://www.kazetabi.jp/