第1487回 人類史上稀にみる世界的規模の画一化、標準化、規格化の時代を生き抜く力(2)。

昨日書いたことに通じる問題だけれど、現在は、映像の加工ソフトの技術進化が著しくて、富士山の写真に無数の星々が煌く天体写真を合成したり、日頃は敵対する動物同士を仲良くさせたり、フェイク画像を簡単に作り出すことができる。
 いわゆる社会問題や政治問題や国際問題とされるテーマの映像でも、簡単な操作でフェイク画像を作り出すことができるわけで、人々の心を操り、ミスリードすることだって行われる。
 この問題に関連することで、昨日、 「異なる眼差しというのは、別の角度から見たり距離を変えて見ることによる差異ではなく、隠れているものを見抜く眼差しなのだ。」ということを書いたが、フェイク画像もまた、「表層的な見せ方の違いで差別化している表現運動」の一つであり、こうしたフェイク画像を作る人間を取締ろうとしても、本質的な問題解決にならない。
 デジタル技術が発達する以前から、巷には各種の画像が溢れており、華やかな広告写真で人々の心を操り、消費活動へと導く手法も当たり前のように行われていた。フェイクとは言えなくても、虚飾という言葉が示すように「虚」であることは間違いない。
 報道写真などにおいても、有名なものでは、「ハゲワシと少女」での議論があった。「シャッターを切るより、子供を助けるべきだ」と。
 これも実にくだらない議論で、シャッターを切るのは一瞬の行為であるから、シャッターを切った後からでも子供をハゲワシから守ることはできるのであって、虚の善意による発言や議論が、人々の目を事の真相から遠ざける
 「ハゲワシと少女」を撮った写真家は、ピュリツァー賞を受賞した後、自殺したことでも有名だが、この写真によって区切られた場面の外側には、写真には写っていない別の場面が存在しており、そこには、子供のお母さんが食物の配給を受け取るために並んでいた、という話もある。
 すなわち、この一枚の写真は、「実態」というより「象徴」である。写真家の中で、この構図で切り取れば、スーダンの現実を伝える象徴的な写真になるという直観があり、シャッターを切っただけだ。
 その写真が、彼の想像を超えたセンセーショナルな事件になってしまった。
 「シャッターを切るより、子供を助けるべきだ」と声高に叫んだり、この写真で、スーダンという国の惨状を少し知った人もいる。しかし、それだけのことであり、その人たちの暮らしは、その後も、ほとんど変わっていないだろう。
 もしかしたら、この一枚の写真によって難民支援活動などの奉仕活動に舵をきった人もいるかもしれないが、そういう人は、この写真を見る前から、心のなかに何かしらの準備があったはず。
 この「心のなかの何かしらの準備」に関わっているものが、英語では、intuitionとか、 gut feeling(内臓で感じる力) ということになる。
 日本語で平たく言えば、「上手く説明できないけど、何か確信がある」とか、考えたりする前に直観的に分かる能力であり、それが、昨日も書いた洞察力ということになる。
 物事の本質や人の本質というのは、隠れており、その隠れているものを見抜く力だ。
 こうした力は、本来、人間の野生の領域に備わっているものではないかと思われる。
 野生動物の行動原理は、 人間のような理屈分別によるものではなく、まさに、gut feelingによる。生命体は、危機回避のために、この力を備えている。
 しかし、人間の文明社会は、様々な理屈分別が蔓延し、このgut feelingを曇らせる方向へと導く。
「ハゲワシと少女」の写真において、「シャッターを切るより、子供を助けるべきだ」などという議論は、gut feelingをベースにしていたら起こらないものだ。身体的な一連の流れで、両方が可能なことは誰にでもわかる。
 そして、gut feelingを曇らせることは、生物にとって生存の危機につながるものであり、それは人類にとっても同じだ。
 フェイク画像に簡単に騙され、詐欺師に大金を巻き上げられる。
 セキュリティソフトの不具合一つで世界中が大混乱に陥るような人類史上稀にみる世界的規模の画一化、標準化、規格化の時代において、そのシステムを管理できる立場にいる者に、簡単に操作される。
 これは大袈裟なことではなく、インターネット社会の前のメディアは、人々を自らの欲するままに操れる力を持っていて、その力を行使していた。スポンサーから多くのお金を得るためにはどうすればいいかわかっていて、それを実行していたし、太平洋戦争の時には、国民を扇動し、泥沼の戦争へと巻き込んでいった。
 大衆メディアがインターネットに席を譲っても、構造が変わったわけではない。
  文明社会の中には、人々を騙し、誤った道へと導くものは無数に存在している。それは明確にわかる詐欺師だけではなく、善良な顔をして、社会的には善人で通っている人においても、当人は自覚なく、人を誤った方向へと導いている。
 たとえば文部科学省の管理下にある学校教育制度のなかで働く教師たちのなかで、20年後には現在の価値観が通用しない可能性が大なのに、子供たちを受験戦争へと追い込んでいく段階で、gut feelingが減退していくことに危機感を感じて行動している人が、果たしてどれだけいるだろうか?
 医師においても、頭が痛ければ頭痛薬、胃の調子が悪ければ胃薬、風邪を引いたら風邪薬を処方することが仕事だと思っている人が大半で、生命力を高めることが根本的な治療であると考えて実行している医師は、非常に限られている。
 現代文明における問題対策は、対症療法であり、これは、​​ウイルスや細菌の侵入に対抗して、それらを排除しようとすることや、一時的に病気の症状を和らげるもので、その場しのぎの対策だ。
 その場しのぎの対策は、必ず、どこかに皺寄せが行っているわけで、重要なことは、対症療法で問題解決したと思わず、原因療法を同時に進めていく心がけだ。
 こうした時代に本当に求められる表現は、当然ながら対症療法ではなく、原因療法に通じるものであり、その方法は、人々が本来備えているはずのgut feelingを目覚めさせたり、活性化させるところにあると私は思い続けていて、だから私がこれまで制作してきた雑誌や本、そしてイベントは、そうした考えがもとになっている。
 具体的には、たとえば星野道夫さんの写真において、私は、野生の息遣いが伝わる写真を選択し、当時、世間に出回っていた可愛いい動物写真は、風の旅人で掲載したいとは思わなかった。
 世界各国の場所を紹介する際も、その場所に観光に出かけたいと思わせるような写真も掲載しなかった。
 人間の困難な状況を伝える際も、惨状を伝えて人々の同情を誘うのではなく、どんなに過酷な状況であっても失われない人間の気高さや尊厳を伝えたかった。そうした表現は、その状況の深刻さを弱めてしまうなどと主張する人もいるが、それは違っている。
 野生動物のようにgut feelingの力で気高く闘って、それでも打ちのめされてしまう状況こそ、人間に、世界の不条理というものを突きつける。
 自分は不条理と関係ない安全地帯にいると錯覚しているから、軽い気持ちで同情するのであって、そういう人こそ、自分が不条理に巻き込まれることを極端に忌み嫌うし、恐れる。
 不条理に対して立ち向かうgut feelingを活性化させない情報伝達は、どんなに工夫を凝らそうとも、受け手の情報整理に使われるだけである。
 見た目に美しいフェイク画像にしても、それが、gut feelingに響いてこなければ、ただの断片的情報にすぎず、どうでもいいものなのだ。そう判断していた方が、フェイク画像にも騙されないだろう。 
 それでは果たして、フェイクによってgut feelingを欺くようなものが作れるかどうかという問題が残る。
 この問題において、写真家の杉本博司は、剥製の動物を撮影し、「この写真を見た時、生きている動物だと思った人は、自分の生命観を問い直した方がいい」と、問いかけた。
 しかし、この理屈っぽい問いかけ表現は、gut feelingが衰退しているかどうかの確認を求めているだけで、てgut feelingを活性化させるものではない。
 野生動物だって、経験が少ないと、罠=フェイクに引っかかる。剥製を上手に撮影した写真を見て生きていると思ってしまうのは、経験が足りないだけだ。
 だから、経験の浅いgut feelingはフェイクに騙されるかもしれないが、gut feelingは、経験によって、そのフェイクを見破る力を得ることもできる。
 こうしたことを、「埒があかず、キリがない」などと言うのは、それこそgut feelingが弱まっている証であり、野生の生き物は、そうした攻防をどこまでも続けていく。擬態をはじめ様々な騙し合いが野生の世界の中でも存在し、そこまで行けば、それはフェイクではなく、いのちの実態なのだ。
 インターネット世界においても、そうした騙し合いの攻防は、果てしなく続いていくだろう。
 そうした状況を、外側からの目線で批評分析しても何にもならない。誰もが当事者として、虚に対して簡単に騙されないように、gut feelingを、どう活性化させていくかだけが一番大事なことであり、この時代の表現者のミッションは、その一番大事なところにあると思う。
 表現界において蔓延している虚は、服を着ていない王様を見て、「王様は裸だ」とは言えず、王様の服は立派ですねえと、周りに迎合している状況だ。
 評論家が理屈っぽい言葉で褒める海外作品や、権威ある賞を受賞した作品を、わかったふりをして持ち上げる人は、表現業界の界隈で、とても多い。

 

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第1486回 人類史上稀にみる世界的規模の画一化、標準化、規格化の時代を生き抜く力(1)。

7月19日、「過去最大のIT障害」とされる世界的なシステム障害が起きた。
 空港や銀行がストップ…医療システムや緊急通報まで大混乱。
 このシステム障害は、ウィンドウズパソコンに搭載したセキュリティソフトが原因で、ソフトが自動でアップデートされた際に不具合が含まれていたものとみられている。そのセキュリティソフトを開発した「クラウドストライク社」は、セキュリティソフトの世界シェアが18%で、世界一。
 パソコンのウィンドウズソフトは、今だにシェア世界一で72.12%、二位のアップルの15.42%を大きく引き離しているが、この二社で世界中のパソコンのOSソフトの90%近くを支配している。 
 クラウドに関しては、アマゾンが31%、マイクロソフトは24%、Googleは11%で、上位3社のシェアの合計は67%。
 パソコンとクラウドの両方におけるマイクロソフトの世界的な支配力と影響力は、圧倒的だ。
 このマイクロソフトは、巨額の資金を人工知能研究のオープンAIに注ぎ込んでおり、その研究成果を、どこよりも優先的に自社のシステムに取り込む権利があると言われる。
 今回はセキュリティソフトの不具合で世界中が大混乱に陥ったが、たった一社の責任と存在感と影響力が、これほど大きい構造にもかかわらず、世界は、「多様化の時代」などと言っている。
 その実は、人類史上稀にみる世界的規模の画一化、標準化、規格化の時代に、私たちは生きている。
 そして、この規格化されたコンピューターネットワークシステムの中に織り込まれていく人工知能は、画一化、標準化、規格化を、よりいっそう厳密なものにしていくことにつながるだろう。
 セキュリティソフトの不具合一つで世界中が大混乱に陥るというのは、あらゆるシステムが、極めて厳密に設定された規格と標準によって結び付けられているからだ。軍隊のように厳格に統制管理されており、「気まぐれに、こういうことをやってみました」などという自由は、絶対に許されない世界。当然ながら、イレギュラーなものは、排除される。
 こうした時代に、これらのシステムと無関係に生きていくことはできないが、せめて依存状態にならないように気をつけておかなかればならない。
 スマホを無くしたらパニックになったり、ハードディスクが壊れたら、修理業社の言いなりの金額を払うことになったり。
 「生き方は一つではない」とか「どうにでも生きていける」くらいの余裕の幅を心に持っていなければ、時代が危険な方向へと走り出した時に、その流れに巻き込まれるだけの人間になる。
 大きな流れに流されない心の幅というか、別の可能性や異なる眼差しを育てる手助けになるものが、本来は、表現活動の意義だったのではないかと私は思っている。
 しかし、現代アート風表現の流行により、「多くの人がこういう時代だとおおよそ認識している世界」を、わざわざ「こういう世界ですよ」と示す程度のものに対して、「時代を表現している」などと評論家や学芸員が持ち上げて、いろいろな場所で展覧会が開かれている。
 機械文明の弊害、環境破壊の実態、管理社会の歪み、世界の冨の格差、貧困問題や平和の訴え、なんでもいいが、誰でも頭の中に浮かびそうなテーマやコンセプトを、表層的な見せ方の違いで差別化していく表現運動があるが、表層的な見せ方の違いというのは、異なる眼差しにつながるものではない。
 異なる眼差しというのは、別の角度から見たり距離を変えて見ることによる差異ではなく、隠れているものを見抜く眼差しなのだ。
 物事の本質や人の本質というのは、隠れている。
 しかし、時おり、その本質が、何らかの形で表に顕現化することがある。優れた表現者は、その瞬間を見逃さない。なぜ見逃さないかというと、その顕現化の前に、対象の本質における洞察が十分になされているからだ。
 デカルトが「我、考える、ゆえに我あり」と述べた時の「考える」の意味とは、世間に流布するデマの類を一切信じず、自分の頭で世界を理解するための努力をすることであり、そのための方法として、彼は自分の頭で考えて、「方法序説」を書いた。
 この方法序説に基づく思考運動が、世界を細かく分断する分別思考につながってしまったが、分別思考が蔓延した現在における「考える」は、デカルトが示したものだけでは不十分で、自分が向き合っている対象の本質に対する洞察が、より重要になる。
 洞察という「物事の本質を見抜く力」を養うためには経験も重要になる。その経験機会が、社会の中にどれほどあるのか?
 本来は、膨大な時間とエネルギーが費やされる学校教育に、洞察力を育むための経験の場を求めるべきだが、この学校教育じたいが、むしろ子供たちの洞察力を育むことを阻害する原因となっている。
 何かしらの表現物を見て、「考えさせられた」などという言葉が気軽に発せられているのも、現状の学校教育の底の浅さからきている。
 単に物事を比較したり、知らなかったことを知った程度のことは、受験勉強のマークシート試験で複数ある答えの中から正解を一つ選ぶ際に、どれが正しいのだろうと思案することに等しく、それは、どちらが損か得かと計りにかけることと頭の使い方としては同じで、未来に対する備えとしての「考える」ではなく、現状の物事を分別することにすぎない。
 表現物を見る時に、本質を洞察するという思考経験に乏しいと、現状の物事を分別しているだけなのに、「考えさせられた」と言う。
 そして、そういう人は、表現者が本質に向き合って表現しているものを観たり読んだりしても、「わからない」とか、分別癖がついた頭で整理できないゆえに、「重たい」=明快でない=自分とは関係ない、と片付けようとする。
 世界中のシステムが、画一化、標準化、規格化の網の中に人々を捕えていく時代、表からは見えにくい隠れた本質に対する洞察力を準備しておかないと、何か事が起こった時に、周りと一緒になってパニックに陥るだけとなる。
 しかし、表に顕現化するものは、必ず、隠れた領域から生じている。
 優れた表現というのは、その表現に触れる人を、物事の裏側の隠れた領域へと誘う力がある。だから、そういう表現に数多く触れている人は、おそらく、詐欺師に騙されにくいはずだ。
 詐欺師においても、人を騙す前、いろいろな言動に、詐欺師の本質が垣間見えるはずだから。
 そして、あまり触れない方がいい表現というのは、物事の裏側へと人々の心を誘うのではなく、新たな分別へと人々の心をリードするもの。そうした表現に多く触れると、表層的な分別から新しい表層的な分別へと意識が横滑りするだけであり、「新しい出会い」が、分別の選択肢を増やすだけのこととなる。
 それは、いろいろなイベントで多くの人とつながることで自分が豊かになったように錯覚している状況と変わらない。
 重要なことは、出会いによって、自分自身の思考がどれだけ深まっていくかであり、たった一つの芸術表現や人物との出会いが、それを可能にすることがある。
 今日の表現界において、アートフェスティバルのように同時に数多くの表現者の作品に触れることが、良き芸術体験のように思っている人がいるが、数を追うことで、一つひとつとの向き合い方が浅くなっているとしたら、逆効果だ。
 私は、20歳の時、パリに滞在していた半年の間、美術館が無料の水曜日にルーブル美術館に通っていたが、膨大な作品を観て歩くことより、サモトラケのニケ像の前で時間を過ごしていた。
 サモトラケのニケ像は、頭部と両腕がないことで、かえって、天空に飛翔するような恍惚感があって心が奪われた。同じルーブル美術館を代表する展示品で、黄金比で説明されることが多いミロのヴィーナスよりも、私の心の深いところに与えている影響力は大きいと思う。
 自分の心の深いところで感じ取り、自分の頭で洞察する機会が失われていくと、情報に翻弄されるばかりで、騙されやすさから脱却できない循環に陥ることになるし、世界中のシステム障害といった事態に備える準備が、何もできなくなる。

 

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第1485回 アメリカの正義と戦争ビジネス

 トランプ氏が狙撃されるニュースが世界中を駆け巡ったが、もしトランプ氏が大統領になった場合に、一番気になるのが、ウクライナ戦争の行方だ。トランプ氏は、ウクライナ戦争を終結させる方向で考えていると伝えられている。
 以下は、2021年1月23日に書いた私のブログ記事からの抜粋で、バイデン氏が第46代アメリカ合衆国大統領に就任した時のものだ。
 「・・前任者のトランプ大統領が、あまりにもギラギラしていたからか、バイデン氏には、枯れた印象がつきまとう。
 極度の物質文明で世界をリードしてきたアメリカが枯れていくのは、物質文明が鎮まっていくことにつながりそうで、それはそれでいいのだが、現存するギラギラした輩(軍産複合体など)と、トランプ大統領のように張り合っていけるのだろうか?
 オバマ大統領は、口から出る言葉はノーベル平和賞が与えられるほどの穏健派だったが、実際は、戦争ばかりやっていた。それに対して、過激派のようなトランプ大統領の時代は、アメリカが発展途上国などを新兵器の見本市にすることはなかった。だから、トランプ大統領は、世界中の良識派以上に軍産複合体に嫌われていたことは間違いない。
 ・・(中略)
 誰がアメリカ合衆国の大統領になろうが、国益を優先するのは当然のことで、アメリカという巨大な国が、その国益を優先した政策をとる時、世界は、大きな影響を被る。その最たるものが、発展途上国などを舞台にした内乱や戦争だ。アメリカは、言うまでもなく世界最大の武器製造国であり、作った武器は、使われなければ商売にならない。とくに新兵器は、実戦こそが、最新技術のお披露目になる。
 そして、現代のアメリカのニューディール政策は、公共事業よりも、海外での戦争だった。アメリカが、世界を不安定にすることで経済復興を遂げてきたのは、歴史を見れば明らかだ。リーマンショック後の経済危機の時だってそうだ。
 これまでのアメリカは、大義名分をふりかざして、けっして悪いことはしていないと饒舌に語りながら、それをやってきた。オバマ大統領のように、善人の顔をしながらそれを実行してきた(圧力に負けてさせられてきた?)。
 (中略)
 そして、大衆メディアは、大統領の好印象を伝えながらアメリカの行為を正当化していく。これが、民主党時代のアメリカのやり方だった。
 しかし、トランプ大統領になって、なんだか奇妙なことになった。
 対外戦争がなくなり、メディアは、トランプ大統領を敵にまわし、アメリカは一枚岩ではなく分断された。
 もちろんそれは、トランプが善人とか悪人とか、そういった表層的なことが原因でそうなったわけではない。ただ、もしかしたら、不動産が主戦場だったトランプにとってのニューディール政策は、対外戦争ではなく、国境に壁を築くといった時代遅れの公共事業だったからかもしれない。
 いずれしろ、トランプは、彼独特の性格ゆえか、陰で悪さをするのではなく、表立ってムチャブリをしていたので、誰もがアメリカを警戒をした。
 もし、トランプが、オバマ政権の時のような他国を舞台にした戦闘行為を行ったりしたら、世界中で一斉に非難の声があがったのではないか。「ああ、やっぱりやると思った、なんてヤツだ。」と。
 アメリカで、自分の利益を優先して悪どいことをやりたい輩は、トランプが過激すぎるので、こっそりと悪どいことをやりにくかったのではないだろうか。「しばらくは黙っていてくれ」と言えば、オバマは賢明に従っただろうが、トランプはすぐにツイッターで暴露してしまいそうで。
 それが、トランプの天然なのか、高度な戦略なのかわからないが、とにかく、アメリカの次の一手に対して、世界中が警戒していたことは間違いない。
 トランプというのは、アメリカの横暴を計るためのセンサーになっていた。そして、アメリカは、歴史をふりかえってみても、トランプでなくてもいつも横暴だった。強大な力を持っているのだから、その力を使いたくなるのは当然なことだ。
 問題は、それが、アメリカの正義として誤魔化されてしまうか、アメリカの非道として明らかになるかの違いだけ。
 バイデン大統領になったとたん、アメリカが、自国のことより世界のことを優先するようになるはずがない。それは、どの国の指導者だって同じ。
 温暖化問題への取り組みなどにしても、大統領1人の意思でなんとかなるはずはなく、産業界の意思としてそれができるかどうか。
 大統領が強硬な意思を持って、産業界その他の利益を損なってでも何かをやろうとすると、過去の歴史では、暗殺されてしまった。
 (中略)
 トランプ氏よりも厄介なのは、メディアも一蓮托生となって好イメージだけをふりまき、あげくにノーベル平和賞まで受賞し、にもかかわらず、酷いことをたくさん行ってきたオバマ大統領のような存在なのだ。
 それは、オバマ大統領個人が悪人だからそうなるということではなく、アメリカの軍需産業を含む巨大な産業界にとって、誰が、脅かしやすくて動かしやすいかという違いによるものだと思う。
 トランプは、巨大メディアを敵視していた。その敵視の仕方は極端のようにも見えるが、本質的な部分でもある。巨大メディアの害は、日本でも同じだ。
 これまでのアメリカでも日本でも、あれだけ巨大メディアを敵にし続けて政権運営を行ってきたリーダーは、かつてなかったのではないか。
 トランプ大統領には、オバマやバイデンのような賢明さがない。そのクレイジーぶりが周りに危険な人物であるという印象を与える。
 しかし、暴力団などでも一番恐ろしいのは、凶暴さがはっきりと表に出ている者ではなく、賢明で、したたかで、周りに好印象を与えながら心が冷血動物のような輩だ。
 バイデンが好印象をまわりに振りまいて表に立ち、誰か他の人物が陰で動くということもある。その輩が、したたかな冷血動物でないことを祈ろう。トランプ大統領の時のような、わかりやすさ、見えやすさが無くなるので、より警戒が必要だ。」
 この記事を書いた一年後にはウクライナ戦争が始まり、今もその最中にある。この戦争のあいだ、アメリカは、せっせとウクライナに武器を販売してきた。
 歴史にもしもはないけれど、もしも、先日の銃撃でトランプ氏が亡くなっていたらどういう展開になっていただろうか?
 そして、もしも、銃撃されたのがバイデン大統領だったら、バイデン氏は、トランプ氏のように、「私は決して屈しない」というメッセージと、世界中に拡散したあの写真のような態度を示すことができただろうか。
 バイデン大統領は、大統領に就任した時から、アメリカの軍需産業から圧力を受けた際に、それを跳ね返すような気迫をまったく感じなかった。
 高齢で足元もおぼつかない老人を大統領候補にする民主党は、強力なリーダーシップを求めているのではなく、どちらかというと操りやすい人物ということで、神輿に載せているのではないかと思われるほどだった。
 もしもトランプ氏が大統領に復活した場合、ウクライナ戦争が、さらに酷い状況となっていくのか、それとも終結に向けて動き出すのか。
 もし終結につながるような動きがあるとすれば、現代の戦争のメカニズムが、より明確になるかもしれない。

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第1484回 火山と日本人の精神世界(2)

 火山の多い日本のなかでも、特に人々に知られた山としては、九州の桜島阿蘇山雲仙岳、そして日本の東西の境目のフォッサマグナに聳える富士山、浅間山八ヶ岳といったところだろうか。
 興味深いことに、この西に三つ、東に三つの六つの山は、対になるように冬至夏至)のラインで結ばれている。
 桜島と富士山、阿蘇山八ヶ岳天狗岳)、雲仙岳浅間山だ。
 そして、この東西の主要火山を結ぶ冬至夏至)のライン上には、伊勢神宮をはじめ、気になる聖域が数多く存在している。
 なかでも、伊勢の夫婦岩の二つの岩のあいだに、晴れた日には富士山が見え、夏至の日の出の時、この岩のあいだ、富士山の位置から太陽が昇ることは、よく知られている。
 日本を代表する単独峰の火山は、その雄大な姿を遠くから確認することができるが、火山が活発な活動をしている時は、かなり遠く離れた場所からでも、噴煙が確認できたかもしれない。
 冬至夏至の日の太陽は、日本に限らず海外においても、古代においては死と再生のイメージと重ね合わされていたから、火山国日本においては、神々しいまでの火山と、冬至夏至の太陽との結びつきが、特別な意味を持っていたとしても不思議ではない。
 そして、この日本を代表する巨大火山との不思議な符号がありながら、これまでの歴史関係者の誰も指摘しておらず、ほぼ全ての日本人がまったく意識していない古代の重要事項がある。
 それは、日本に13基しか確認されていない八角墳だ。

斉明天皇と間人皇后を合葬する八角墳、牽牛子塚古墳(奈良県明日香村)

 八角墳は、7世紀の後半から8世紀の前半という日本に律令体制が導入された限られた期間だけに作られた特殊な古墳だが、被葬者として、天武天皇天智天皇など、この時代の主要人物が多い。
 前回の記事で、天智天皇天武天皇八角墳が、近畿の真ん中を南北に縦断する東経135.80に築かれており、同じライン上に、藤原京平城京、そして弥生時代の最大の銅鐸製造拠点である唐古遺跡があることを書いた。
 万葉仮名の「八」は、中国では「はつ」と発音する末広がりの数字だが、この文字に大和言葉の「いや」=「どこまでも重なって続いていく」という意味を持つ言葉の発音が当てられている。
 この律令制開始時期の歌人、柿本人麿は、大王のことを、「八隅知し 吾大王」と称えている。「知」というのは、「矢」と「口」で成っているが、白川静さんの説によると、「矢」には誓うという意味があり、口は顔についている口ではなく、「さい」という神の言葉を受け取る容器である。つまり、知るというのは、神意を受けて誓約するということ。
 大王は、「八隅」=「どこまでも続いていく隅々」を、神の言葉をもとに誓約し、治める存在だった。
 この聖なる数字である「八」を形にした八角墳は、こうした統治の考えと深くつながりがあるから、天武天皇天智天皇舒明天皇斉明天皇天武天皇の草壁王子、その息子の文武天皇といった6名の大王の墓になっていることは理解できる。
 しかし問題は、それ以外の7基であり、関東に5基、宝塚に1基、鳥取に1基が築かれている。
 この問題に関わってくるのが、上に挙げた日本を代表する火山との位置関係だ。
 日本に築かれた八角墳のうち、兵庫県宝塚市の中山荘園古墳、京都山科の天智天皇陵、群馬県藤岡市の伊勢塚古墳が、阿蘇山八ヶ岳天狗岳)を結ぶ冬至夏至)のライン上に築かれている。
 また、鹿児島の桜島伊勢神宮と富士山を結ぶ冬至夏至)のライン上には、東京の聖蹟桜ヶ丘の稲荷塚古墳が位置している。
 そして、会津富士と呼ばれる福島の磐梯山、越後富士の異名のある妙高山北アルプス白馬乗鞍岳という裏日本を代表する火山と、北九州の宗像大社を結ぶ冬至夏至)のライン上に、鳥取市の梶山古墳がある。
 13基の八角墳のうち5基が、日本列島の主要火山を結ぶ冬至夏至)のライン上に築かれているのだ。
 残りは8基だが、このうち7基も、日本を東西に結ぶ冬至夏至)のライン上にある。
 そのラインは、西の端が宮崎県延岡市愛宕山で、この山は、江戸時代以前は笠沙山であり、神話のなかで、天孫降臨のニニギと、コノハナサクヤヒメが出会った場所である。このすぐ近くに、ヤマトタケル熊襲退治の伝承と関わる行縢(むかばき)山が聳えている。
 そしてラインの東の端は、ヤマトタケル蝦夷征伐の時に兵を休めた場所という伝承地で、ヤマトタケルを祀る神社としては古来から格式の高い吉田神社が鎮座している。
 つまり神話の中で、ヤマトタケルの東西の遠征地と、皇室のルーツとなるニニギとコノハナサクヤヒメの出会いの場所が関わった場所を結ぶ冬至夏至)のラインなのだが、このライン上の近畿の奈良盆地に、天武天皇斉明天皇草壁皇子文武天皇舒明天皇という5基の八角墳が存在し、山梨県笛吹市に経塚古墳、茨城県水戸市に吉田古墳が存在している。
 上に挙げた5つの冬至夏至)のライン上に位置していない八角墳は一基だけであり、それは群馬の吉岡町の三津屋古墳だが、ここもまた周辺にヤマトタケル伝承の多いところで、浅間山が、真東40kmのところに聳えている。
 こうした八角墳の規則的な配置は、たまたまそうなっているだけだろうか、それとも計画的で意思的なものだろうか。
 飛鳥の八角墳は、藤原京の近くに築かれているが、関東の場合は、武蔵国甲斐国上野国国府、水戸は郡家という律令時代の行政の中心地と隣接したところに築かれている。
 すなわち、関東においても、律令制のミッションを遂行するための指導者が、八角墳に埋葬されたのだろう。
 日本に八角墳が築かれたのは7世紀後半から8世紀初頭で、柿本人麿が「八隅知し吾大王」と歌を作った時代であり、行政の指導者が、神の言葉をもとに誓約し、国を治める責任を担う時だった。
 神と誓約して、まつりごとを行い、日本の隅々まで、その安寧を願うこと。八角墳の形や、その配置には、「八隅知し」のビジョンが重ねられており、その安寧のビジョンにおいて、火山のことが意識されているように思われる。

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第1483回 火山と日本人の精神世界(1)

39口の銅鐸が発見された加茂岩倉遺跡(島根県雲南市

 日本が世界有数の火山国であることは日本人なら誰でも知っている。実際に世界の活火山の7%が日本にあると言われるが、そのことが日本人の精神に与えてきた影響を、東京など平野部に住んでいる現代人は、あまり深く考えることがない。
 火山と古代日本人の関わりについては、今から7300年前の縄文時代、鹿児島県の南端の沖合いで「鬼界カルデラ大噴火」があり、その時の記憶が「古事記」などに反映されていると説く学者もおられるようだが、私たち人間は、今から2000年前の記憶すら定かでないので、古事記と、10,000年近く前の時代との関連を考えることは、私にはできない。
 そこまで時代を遡らなくても、古事記が書かれた時代の直前、7世紀後半の白鳳時代に、有史において最大の浅間山の噴火があったようで、当時の記録にも、火山の後の影響などが具体的に記されている。
 今現在であったも、貞観の大噴火(864-866)のような富士山の大爆発が起きたら日本社会は根本的に変わる可能性があるはずで、律令制のビジョンと、白鳳時代の大噴火が何かしらの関わりをもっていたとしても不思議ではない。
 さらに日本の火山は、地下深くのプレートと関係しているから、大地震との連動があるし、遠く離れた場所での同時的な爆発もある。
 7世紀後半の浅間山の大噴火の時には南海トラフ地震があり、9世紀後半の富士山の大噴火の時には、2011年3月11日の巨大津波を超える大津波が東北に起きた。
 つまり火山の大噴火は、噴火による直接的な災害だけでなく、地震などと連動し、恐ろしい天変地異を鮮明なイメージで象徴するものであり、古代人には、神の怒りに見えたに違いない。
 地下深くのプレートと関係があるからだろうが、日本の火山は、一定の地理的法則に基づいて配置している。

国立研究開発法人産業技術総合研究所による日本の火山地図。



 東日本火山帯は、千島列島から西に向かって北海道を横切るように伸びるが、小樽のところからは真南に方向を変え、東北の奥羽山脈を貫き、群馬から長野の八ヶ岳、富士山、伊豆へと抜ける。
 不思議なことに、縄文時代の環状列石や主要な遺跡は、この火山帯にそっている。
 そして西日本火山帯は、南西諸島から九州の桜島阿蘇山、そして中国山地に入り、島根と鳥取の県境の大山あたりまでとなる。
 この東西の火山帯から最も離れている場所が近畿地方で、近畿には火山が一つもない。
 そして近畿の真ん中が奈良盆地で、この場所に、まつりごとの中心が置かれた。
 奈良県がまつりごとの中心になっていたのは、「ヤマト王権」といわれる強力な力を持った豪族勢力が、この場所から出て日本を統一したというよりは、火山列島の安寧のためのまつりごとを行う場所として、奈良盆地が適していたからと考えた方がいいかもしれない。
 というのは、弥生時代の祭祀道具である銅鐸の製造拠点だった唐古遺跡(奈良県田原本町)は、奈良盆地のど真ん中にあり、この遺跡がある東経135.80上に、藤原京平城京、さらに天武天皇天智天皇八角墳までが位置しているからだ。
 銅鐸が何を目的に作られたのかは様々な議論があるが、はっきりしているのは、西暦0年頃を境にして前期と後期に分かれ、前期は小型で装飾がなく、舌という鐘を鳴らす道具が備わっていたのに対して、後期の銅鐸は巨大化して装飾絵が施され、舌がなくなっているので鳴らすためではなく観るための道具だと説明される。
 この後期銅鐸の最大の製造基地が奈良県の唐古遺跡だが、銅鐸の分布も、前期と後期では違っている。

 前期のものは朝鮮半島から伝わったと考えられ、九州でも多く発見されているが、後期のものは、近畿を中心にして、西端は広島県世羅市の黒川遺跡と出雲の加茂岩倉遺跡であり、なぜかこの二箇所は、東経132.88の同経度だ。
 そして、東端は、後期型の銅鐸では静岡の掛川(長谷)だが、2007年に、千曲川沿いの長野県中野市の柳沢遺跡から、九州や近畿で発見されている型の銅戈8本と、前期の銅鐸5口が、まとめて埋められているのが発見された。この場所は長野盆地の最北端で、「境界」の地であった。
 出雲の加茂岩倉遺跡からも39口の銅鐸が発見されたが、柳沢遺跡とともに銅鐸が寄せ集められて埋められているところが、果たして、銅鐸が作られた時代にその場に埋められたのか、もしくは、後世に何かしらの理由で、まとめて埋められたのかはわからない。

 しかしそれでも不思議なのは、後期型銅鐸埋納地の西端にあたる出雲の加茂岩倉遺跡と広島の黒川遺跡を結ぶラインのすぐ西に、西日本火山帯の活火山としては東端に位置する三瓶山(島根県大田市)が存在し、後期型銅鐸埋納地の東端である静岡の長谷と、長野の柳沢遺跡を結ぶラインのすぐ東に、東日本火山帯の西端にあたる八ヶ岳、富士山、伊豆諸島が存在していることだ。
 地図上でこのことを確認すると、火山帯との境界に銅鐸を埋納することで災いを封じるという願いがこめられているようにも見える。
 そして、この東西の火山帯から最も離れた場所の奈良盆地に、銅鐸の製造場所としては最大の唐古遺跡があるということは、魏志倭人伝に「倭国大乱」と記録されているように日本国内で各地の勢力が争っている時代から、近畿の真ん中で、境界を護るための祭祀道具である銅鐸を製造するという意識があったということだ。
 そして、後に律令制の時代となり、藤原京平城京の都も、この近畿の真ん中に築かれた。さらには、律令制が始まる時代の重要人物である天智天皇天武天皇八角墳もまた、同じ南北ライン上に築かれたということは、この八角墳にも、国の安寧のためのビジョンが重ねられているということだろう。(続く)

 

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第1482回 「社会問題」や「国際問題」を伝達する表現について(2)

さきほど書いた問題にも通じることなのだが、アメリカで、トランプ前大統領が銃撃された。それを伝えるTBSの報道番組で、膳場貴子アナと、元外務省事務次官立命館大学客員教授藪中三十二氏のやりとりで、この事件が、「大統領選挙に有利になる可能性がある」とか、「プラスのアピールになりかねない」などのやりとりがあったようで、このことに対して、不謹慎だと批判の声があがっている。
 この銃撃に第三者が巻き込まれて死亡しており、トランプ氏自身も、耳を銃弾で撃ち抜かれ、ほんの数センチ横にズレていれば命はなかったわけで、自分の身に置き換えたら、その恐怖は計り知れない。
 これはけっこう生々しい事態なのだが、こういう時に、「選挙のプラスにアピールになりかねない」という言葉が軽々と出てしまうというのは、一種の職業病なのだろう、感覚が麻痺してしまっている。
 日頃から、情報を伝える仕事が、断片的に情報を伝えるだけの作業になっており、だから、シリアスな問題に対して深刻そうな顔でコメントした後、すぐに爽やかな顔に変わって、「次は、スポーツです。今日の大谷選手は、いかがだったでしょうか?」と切り替わってしまう。
 そうしたメディアの影響もあって、今日の社会では、知るということが単なる情報処理でしかなくなっているが、日本の学校教育じたいが、「知る」ことを頭の中に情報をインプットすることとみなして、そのインプットの正確さや量の多さをテストによって判断し、その結果を、人間の優劣を計る尺度にしてしまっているところに、根本的な問題が横たわっている。
 情報処理において人間を凌駕するAIの時代となり、これまでの教育や社会の情報処理に慣れてしまった弊害に苦しめられる人が増大するだろう。
 社会問題や国際問題をテーマにしたイベントや情報発信においても、できるだけ楽しく人が集まりやすい場づくりをして、「どんな形でも、知ってもらうことが大事だから」という声をよく聞く。
 でも、本当に、それでいいのだろうか?
 もし自分が深刻な病や家族の問題などで苦しんでいる時、「あなたのこと、飲み会の時に聞いたよ。大変ね、同情するわ。」とだけ言ったすぐその後に、隣の友人と声を立てて笑いながら会話に没頭したりする様を見ると、知ってもらうことが救いになるどころか、かえって寂しく辛い思いになるのではないだろうか。
 現代人は、「知る」ということを、単に情報をキャッチするという意味で認識している。
 しかし、「知」という漢字は、矢と口から成っているが、「矢」は、白川静さんの説によれば「誓う」という意味があり、口は、顔についている口ではなく、「さい」という神の言葉を受け止める容器である。
 つまり、知るというのは、ある種の啓示を受けて突き動かされて、心に何かを誓うこととなる。知ったからにはどうするのかが大事なのだ。
 「知る」ことを、そういう姿勢に昇華させるためには、自分の頭で考えるというプロセスがどうしても必要になる。それゆえ、情報を与えることは、同時に、情報の受け手が自分ごととしてじっくりと考えられるようにする配慮が必要になる。とくに、情報提供を仕事としている人で、その自覚がない者の言動は、信じるに値しない。
 彼らは、深刻な顔をして社会問題について言及した後、爽やかな顔で、「次はコマーシャルです」と切り替えるが、太平洋戦争においても、教養人の顔を装って、国民をミスリードする報道を繰り返した。戦争の少し前には、平和運動で盛り上がっていたのだ。
 今後、同じようなことが起きても、変わらず、そうなるだろう。
 なぜなら、「大統領選挙に有利になる可能性がある」という言葉に象徴されているように、頭の中が、物事を有利か不利かという分別で判断する癖がついてしまっており、それは、自分の保身に関する思考判断にもつながるからだ。
 平時においては、究極の選択は必要がないが、戦争というのは極限状態であり、その時に、その人の思考の癖があからさまになる。
 日頃から自分の失敗を他人のせいにしたり、部下の手柄を自分のものにしたがる人は、戦争となれば、その傾向をいっそう強めるだろうし、情報を右から左に流すだけの人は、政府発表に対して何の批判精神ももたずに、むしろ迎合と便乗の色合いを強め、機械的に情報伝達を行う。
 「知る」ことの本意は、自分の人生において、何かしらの啓示を受けること。
 情報を得ても、これまでと同じ殻の中に閉じこもり、同じような考え方を繰り替えしているのであれば、何も知ったことにはならない。

 

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第1481回 「社会問題」や「国際問題」を伝達する表現について(1)

「KYOTOGRAPHIE」を京都の春の風物詩にまで育て上げた主催者の努力への敬意とは別に、この記事で、ダニエル・アビー氏が批評していることは、非常に大事なことを含んでいる。

www.tokyoartbeat.com


 特に今日の写真表現の有様について深く考えるべき立場にいる人は、ダニエル氏の言葉に対して、もし抵抗なり違和感を感じるようなら、目を背けて耳を閉じるのではなく、その理由について考える必要があると思う。
 とりわけ、ジェームズ・モリソンの展示「子どもたちの眠る場所」や、「イランの市民と写真家たち」による「あなたは死なない──もうひとつのイラン蜂起の物語──」という展示、そして、ヴィヴィアン・サッセンの回顧展などに関するダニエル氏の批評は、社会的大義および、被写体を自分の表現材料するという、写真家の人権に対する意識の深さが大きく関わってくるものである。
 この問題に対して、ダニエル氏が言葉を尽くして説くように、複雑で深刻な世界各国の情勢に対する「偽りの理解」や、対象となる人々への無意識の”侮辱”(無意識だから、よけいに悪質でもある)を拡張してしまう表現を、鑑賞者が、目を楽しませるだけのアートと同じ感覚で消費してしまう可能性に対して、どれだけ慎重に、かつ真摯に考え抜いているかどうか?
 「KYOTOGRAPHIE」を、毎年、楽しみにしている鑑賞者もいるだろう。しかし、その楽しみが、ダニエル氏の書くように、「春の京都で、様々なユニークな会場を舞台に展示を開催し、観客は、各会場を巡りながらスタンプラリーのような興奮を感じることができる。」といったもので、楽しさが気楽と同一の感覚となり、結果的に深刻に考えなくてすむような演出によるものだとしたら、それはファッションショーと同じとなる。
 ゆえに、その場に善意に満ちた「社会問題」や「国際問題」を挿入しても、ダニエル氏の言うように、「鑑賞者は、一連のグローバルな問題を把握しているかのような錯覚を得る。」という自己満足に陥るだけに終わる。
 表現活動のミッションは、こうした世俗的な自己本意の問題処理の仕方に対する闘いだ。だから、時として、自己満足や自己保身の牙城に閉じこもりたい人たちを敵にまわすことになる。
 誰しも、他者の問題を自分ごととして突きつけられることに対しては、拒否感がある。それゆえ、自分の砦として築き上げている自分に馴染みのある思考の型に物事を当てはめて、自己流の理解で処理する。それが、表現物を心地よく楽しむための術だ。興行的に成功することを目的化するならば、この方法で鑑賞者を満足させてあげることが必要になる。
 ファッションショーならば、それでいい。しかし、そうした舞台に、「社会問題」や「国際問題」を乗せてしまうことに対して、どれほど深くその問題について考えているのかということを、ダニエル氏は言いたいのだろう。
 彼の本心は知らないが、私は、このことに関して、自分なりに深く考えて実践してきたつもりなので、ダニエル氏の文脈を、深読みしすぎているかもしれない。
 テレビなどでも、キャスターが「社会問題」や「国際問題」について深刻そうな顔でコメントを発した後、すぐに爽やかな顔になって、「次はスポーツです。今日の大谷選手は、どうだったでしょうか」とか、「コマーシャルです」と話題を変える。
 雑誌の場合も、「社会問題」や「国際問題」のまわりにタレントの不倫記事とか、女性グラビアとか広告が散りばめられる。環境問題の記事があったとしても消費を煽るコマーシャルとセットになっている。
 そうした媒体は、たとえ「社会問題」や「国際問題」を扱っていても、気楽に接することができる。
 気楽に見ることができたり、気楽に考えることができるようなものは、世の中に溢れかえっているわけで、あらためて自分のエネルギーを使って真剣に作る意味がない。
 知的な雰囲気のある媒体や舞台を作って、それを観る人が、少し自分が賢くなったような良い気分になることは、商売としてうまくいくコツかもしれないが、私は、生理的にそういう媒体づくりが耐えられなかった。
 媒体づくりは、一つの場づくりであり、場全体の力を通して、見えにくいものを見たり、考えにくいものを考える場にする必要がある。
 そのためには、ゾーン状態と言えるほどの意識の集中へと導くエネルギーの漲った場づくりが求められる。
 そのように作り上げられた場には、人によっては見たくないものや考えたくないものも含まれているかもしれない。
 風の旅人は、創刊号の時から、「見たくないものを見せられた」というクレームがあった。
 しかし、不思議なことに、同じ内容を観た入院中の方から、「涙がボロボロ出て止まらなかった」というメッセージをいただいた。
 自分の置かれた状況によって、同じ内容でも物事の見え方は変わってくる。しかし、それは、いずれの場合でも、軽く表面的に流していないということで同じなのだ。
 今回の、ダニエル氏の言葉を尽くした論評も、そのへんの誰もが無責任に発している凡庸な分析や褒め言葉ではないので、気軽に消費してすませる類のものではない。
 とくに、物事を表面的な処理ですませたい人にとって、見たくないことや考えたくないことが含まれている。
 しかし、大事な問題に対するシカトの癖は、自分の頭で考える力を育てることにならず、いつしか、その反動は、必ず自分に返ってきてしまう。

 

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