第1244回 多くの人は、耳を傾けないだろう話

京都市太秦 蛇塚古墳

 おそらく、多くの人は、耳を傾けないだろう話。

 しかし、多くの人が、自分には関係ないと思っていても、最後には自分と深く関係してくることがある。

 おとといから、長男が彼女と京都観光に来ており、いわゆる名所は既に行ったことがあるようなので、昨日、太秦周辺を案内した。

 日本でも有数の石室の規模を誇る蛇塚古墳とか、広隆寺とか。

 広隆寺弥勒菩薩の半跏思惟像は、日本国内でも特に人気の高い仏像の一つで、国宝彫刻の第一号として教科書にも取り上げられ、飛鳥時代を代表する彫刻として誰でも知っているものだ。もし、東京の国立博物館などで展示があれば、モナリザがやってきた時のように人出がすごいことになると思うが、なぜか広隆寺は、いつもひっそりとしており、いつ訪れても、半跏思惟像の前に座り込んで長時間、過ごしている人がいる。

 広隆寺の近くに帷子ノ辻がある。辻は、十字路のことだが、六道の辻のように冥界への入り口である場合が多い。

 帷子ノ辻もそうで、帷子(かたびら)は、ひとえの衣服で、人が亡くなって入棺する時に着せる死に装束でもある。

 太秦帷子ノ辻は、平安時代嵯峨天皇の皇后で絶世の美女だったとされる橘嘉智子が、「自分の死後は亡骸を埋葬せず、どこかの辻に捨てて鳥や獣の餌にして、その朽ち果てていく様子を絵にするように」と言い残し、実行された場所と伝わる。

 その皇后の遺体の朽ちていく様子を9つに分けて描いたとされる「九相図」が今に残っている。

 橘という名は、県犬養氏の改名であり、県犬養三千代が、藤原不比等の後妻で、聖武天皇の皇后となった光明子を産み、二人のあいだの子が女帝の孝謙天皇だ。

 さらに県犬養三千代藤原不比等と一緒になる前に産んだ娘、牟漏女王が、藤原北家の祖である藤原房前に嫁いで、その子孫が、藤原四家の中でもっとも栄えた藤原北家になった。

 孝謙天皇は結婚せず、世継ぎを生まなかったため、県犬養(橘)の血統は絶たれたが、その後、橘嘉智子が嫁いだ嵯峨天皇が、桓武天皇が亡くなった後の政変に勝利して即位し、二人の子が皇統を継ぎ、橘嘉智子の血縁である藤原北家が勢力を持つようになった。

 その後しばらくは、橘嘉智子の産んだ子や孫が皇位を継ぎ、藤原北家が朝廷内で権勢をふるう。

 古事記の編纂を含め、藤原氏の栄華を、藤原不比等の陰謀云々で説明する人が多いが、そんな単純なことではなく、県犬養(橘)氏が、大いに関わっている。

 この藤原氏の栄華に大きな陰を落としたのが、10世紀の菅原道眞の祟りだ。

 菅原道眞の祟りによって多くの有力藤原氏は勢力を失い、唯一繁栄したのが、菅原道眞と親しかった藤原忠平の子孫であり、この一族は、菅原道眞の祟りを利用し、さらに貴族に代わって勢力を増大させていった武家源氏とタッグを組み、貴族の時代の最後の輝きとなった。それが藤原道長だ。

 ゆえに、藤原道長の時代というのは、藤原貴族の絶頂のように思われているが、事実としては、道長と持ちつ持たれつの関係だった清和源氏の勢力拡大を許すことになり、貴族から武士の時代への転換を加速させることになった時代ということになる。

 この転換のきっかけの菅原道眞は、日本三大怨霊の一人であるが、彼を重用して政治改革を進めようとしたのが宇多天皇だった。

 宇多天皇は、もともとは源氏の身分であり、天皇になる予定ではなかったが、急遽、なんらかの政治的力が働いて天皇になった。その政治的力が何だったかを考えるためには、菅原道眞の怨霊騒ぎで何が起きたかを確認すればよく、結論から言えば、律令制の終焉だ。道眞の祟りを非常に恐れたのが宇多天皇の孫にあたる朱雀天皇の母であり、この時代を機に、律令制の根幹であった班田収授は行われなくなった。

 そして、宇多天皇の母親は、渡来人の東漢系当宗氏

(坂本氏系)の班子女王(はんしなかこじょおう)で、彼女の父が、桓武天皇の第12皇子、仲野親王で、彼が帷子ノ辻と関わってくる。

 当時、朝廷は財政難だから、第12皇子なんか養ってくれない。そのため、仲野親王は、財力のある渡来系氏族の後ろ盾が必要だったのではないかと思われる。そして12皇子という世継ぎから遠い人物を支援する側にも、当然、魂胆がある。

 仲野親王東漢氏系の女性のあいだに生まれた班子女王(はんしなかこじょおう)は、後の光孝天皇に嫁ぐことになった。

 光孝天皇は、天皇になる予定の人物ではなく、55歳までのんびりと生きていたが、陽成天皇が廃位されて急遽、天皇にされた。これは、光孝天皇天皇に相応しい人物であったからではなく、彼の息子の宇多天皇への道を作るためであり、光孝天皇は、その3年後に死んだ。

 このようにして、12番目の皇子である仲野親王を支援した東漢氏系の氏族は、宇多天皇の即位によって報われることになる。

 菅原道眞の重用と、その改革。旧勢力の抵抗と菅原道眞の九州への左遷、その後の道眞の祟り騒動、そして律令制の終焉と新勢力の台頭は、一連のものだ。

 もともと有名な坂上田村麻呂をはじめ、軍事勢力であった東漢氏(坂本氏)は、武士が台頭する時代、武士の中に組み込まれていった。初期清和源氏の武力部門は、東漢氏系の坂本氏が担っていた。

 後の時代、源義経をかくまった奥州藤原氏は、藤原秀郷の末裔とされているが、男系の系譜では東漢氏系の坂本氏である。名門の藤原の名を継ぎ、坂本は表に名前が出ないようにしたのだ。

 こうした後の時代の流れからも、宇多天皇と菅原道眞(怨霊騒ぎ)による改革で律令制が崩壊していった背景に、桓武天皇の12番目の皇子である仲野親王を支えた東漢氏系氏族がいたとしても不思議ではない。

 この仲野親王の古墳とされるものが、橘嘉智子が死んだ後に自分の遺体を放置せよと言い残して、それが実行された帷子ノ辻に築かれている垂箕山古墳とされる。

 皇室系の墓ということで、宮内庁が管理しているが、これが本当だとすると、橘嘉智子の遺体が放置された時期の前後に、この場所に古墳が築かれたことになるが、それはありえない。

 なぜなら、この古墳は巨大な前方後円墳で、桓武天皇も、その息子で皇位を継いだ嵯峨天皇を含め、円墳であるし、垂箕山古墳は、皇位を継いだ人物の墓よりも巨大だからだ。実際に、この古墳の建造は6世紀とされ、仲野親王よりも300年も古い。近くにある巨大な横穴式石室の蛇塚古墳と近い時代である。

 この古墳と仲野親王が結び付けられている理由は、おそらく、この垂箕山古墳がある帷子ノ辻が、仲野親王を支援した勢力(東漢氏系)の拠点であり、その勢力の中心人物の古墳が、6世紀に築かれていた。そして、その勢力が支援した仲野親王が、この古墳に合葬されたからかもしれない。

 しかし残念なことに、天皇の皇子の古墳だと宮内庁が決めてしまっているため、考古学的調査を実施して調べることができない。宮内庁が、歴史を止めてしまっている。

 ちなみに、近くの蛇塚古墳は、太秦周辺に秦氏の痕跡が多く残っているので、一般的には秦氏のものとされているが、それはたぶん違う。渡来系=秦氏というステレオタイプの発想が世の中には多いが、垂箕山古墳との位置関係から、東漢氏系のものではないかと思われる。秦氏系関係でこれほど巨大な石室を持つ古墳は存在しないのに対して、東漢氏は、蛇塚古墳のような巨大石室の古墳を築いている。その代表が、蘇我馬子の墓でないかとされる石舞台古墳をしのぐ国内最大級の石室を持つ真弓鑵子塚古墳(飛鳥檜前)だ。石室以外にも、東漢氏の手によるとされる石庭も、いくつか残っており、巨石を扱う技術に長けていた可能性がある。

 それはともかく、この垂箕山古墳の脇に少し入って、息子たちに軽く説明をしていた。

 すると、通りすがりの年配のご婦人が、「入ってはいけないんですよ」と大きな声を出す。

 その根拠は、古墳の入り口に、宮内庁管理という看板と、「むやみに立ち入りを禁ず」とあることだ。

 しかし、明確な天皇陵と違い、古墳の周りに厳重に柵があるわけではない。宮内庁も、実際に皇室系のものかどうかわからないためか、天皇陵のように「立ち入り禁止」とせず、「むやみに」と付け加えている。「むやみ」に、というのは、無分別の行動を禁ずるということであり、古墳の脇で、歴史の話をすることが、無分別であるはずがない。

 でも、そのご婦人は後に引かない。それで、「この古墳がどなたのものかご存知ですか?」と聞いたら、「知りません。でも、ダメなものはダメでしょう」と言う。理由はよくわかっていないようだが、ご本人は、自分を正義だと思って、言っている。

 つまり宮内庁というお上が、なんか理由はよくわからないけれど、ダメと言っているみたいだから、ダメなんだよと。

 私は、立ち入り禁止ではなく、むやみに立ち入りを禁ずの意味を説明し、誰の古墳とされているか説明し、なぜここにあるのかを若い二人に話しているのですよ、一種の歴史の研究調査ですよ。と答えたら、「調査なら仕方ありませんね」と言い、引き下がった。

 古墳の前にお住まいの住民は、庭に出て何かしていたが、私たちの行動に何か言うわけではなく、なぜか通りすがりのご婦人が、非難してきた。

 この長文をここまで読んだ人はほとんどいないだろうが、なぜこういう話を持ち出したかというと、けっきょく、物事にじっくり向き合わず、ちょっとかじっただけで、ダメとか良いとか自分の中で決めつけてしまっている人が多いことが懸念されるからだ。

 今のコロナ騒ぎのなかにも似たようなケースがある。

 人との距離を置いているのに、炎暑のなかマスクをしていないだけで、怪訝な顔でこちらを見たり。

 民主主義というのは、ある意味で怖い。無知なまま流されやすい膨大な人を味方につければ、強権を発揮できる。ダメなものはダメなんだよと。それこそ、どこかの国を悪者に仕立てることも可能だし、政治とは別に日常的なことでも、「あの家の子には近づいてはダメよ」みたいなことも起こる。

 人間の悪や間違いというのは、多くの場合、こうした「かってな思い込み」「かってな決めつけ」ではないかと思う。それがとくに厄介なのは、その思い込みや決めつけを、学者などを権威化することで行われること。

 戦時中には、必ずそれが行われるし、コロナ禍でも同じだ。

 歴史の権威です、などと持ち上げられてメディアに登場する人の話も、その大半が、いい加減なものだ。

 

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第1243回 フォッサマグナと縄文王国

ヒスイ峡にそびえる明星山。(新潟県糸魚川市

 日本列島を南北に分断するのは中央構造線で、東の端に位置する茨城の鹿島神宮から、秩父、諏訪を通り、愛知の豊川稲荷、伊勢、高野山、四国の剣山、九州の高千穂など、日本を代表する聖域が、この中央構造線上に配置されている。

 そして、日本列島を東西に分断するのがフォッサマグナ。新潟の糸魚川と静岡を結ぶ糸魚川・静岡構造線がその西の端で、この構造線上や、その東側の長野の戸隠から群馬の妙義山、そして八ヶ岳や富士山など、大地の下のエネルギーの影響を受けた世界が広がる。

 興味深いのが、いわゆる縄文王国といわれる新潟、長野、群馬、山梨が、このフォッサマグナの一帯に集中していることだ。

昇仙峡(山梨県甲府市             妙義山群馬県甘楽郡下仁田町

親知らず・子知らず(新潟県糸魚川市       戸隠山(長野県長野市

 そして縄文遺跡は、北海道や東北にも多くあるが、なぜか、北海道の小樽から東北の奥羽山脈にいたる東日本の火山帯にそって展開している。とくに東北や北海道の代表的なストーンサークルは、この南北の火山帯周辺に集中しているのだ。

忍路環状列石(小樽市

 縄文人について、動物を追いかける移動生活を送っていたと思っている人が多いが、石器時代縄文時代も、人々は、ほぼ同じところに住み続けており、住居跡も、前のものの上に積み重なったいるところが多い。その同じ場所に共通しているのは、豊かな湧き水が出るところだ。東京では吉祥寺の井の頭公園などが代表的だが、武蔵野の縄文遺跡も、古代から現在まで変わらず湧き水が出続けているところにある。そして主なタンパク源は、動物というより魚介類である。

 地上の河川は柔らかい沖積平野の上を流れているので、しょっちゅう流れが変わるが、地下の水路は硬い岩盤の上なので、数千年以上、流れが変わっていない。だから安定的に水が得られる。

 縄文人は、この安定的な水資源を重視していたのだが、それにくわえて、なぜか、大地の活動が活発なところを拠点としていた。

 縄文人は、大神殿を作る技術を備えていたのに、竪穴式住居に住み続けた。それは、技術的な問題ではなく、居心地の良さだったのではないか。

梅の木遺跡。(山梨県北杜市

 地面を少し掘り下げ、大地のエネルギーに包まれて眠ること。それは、母親の子宮の中のような感覚だろう。実際に、竪穴式住居の入り口にあたるところなどに、胞衣(胎児が生まれた時の胎盤など)が埋められており、その理由は謎で、いろいろな議論があるが、縄文人にとって夜眠ることは、母胎回帰のようなものであり、目覚めは、常に新たな生命誕生だったのかもしれない。そういう生命観をもっていた縄文人は、現代人からすれば避けたくなるような荒々しい自然を、ごくあたりまえのように受け入れていた。

 真相はわからないが、縄文時代でもとくに土器文化が発達したのが、新潟、群馬、長野、山梨というフォッサマグナ地帯であり、ここで創造された土器は、誰が見ても、利便性よりも、生命エネルギーの力強さの方が優先されていることがわかる。

 

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第1242回 源頼朝を支えた北条時政の背後の力!?

奈呉の浦の雨晴海岸(富山県高岡市)。万葉の歌人大伴家持は、この雨晴の風景をこよなく愛し多くの歌を詠んだ。浜から眺める岩礁と、富山湾越しに3,000m級の立山連峰がそびえる。(この日は天気が悪くて立山連峰が見えなかった)。

 富山県の奈呉の海岸は、能登半島によって日本海の荒波から守られ、穏やかな内海になっている。

 ここは、江戸から明治にかけて北前船の寄港地として栄えたところだが、現在でも、内川の両岸には漁船が係留され、風情のある民家が軒を連ねている。

 この地に、放生津八幡宮が鎮座している。この八幡宮は、万葉歌人で政治家でもあった大伴家持が、746年に創建したとされる。

 八幡神を祀る神社は、今でこそ日本でもっとも数多いが、八幡神は、古事記(712)や日本書紀(720)に登場しない。745年から752年にかけて行われた東大寺大仏の造立の際、国家の守護神として歴史に華々しく登場した。(それまでは九州の豊前の一地方神だった)

 その歴史背景として、天然痘の大流行と、九州で起きた藤原広嗣の乱があり、この緊急事態に、聖武天皇は、それまで宗教的に弾圧されていた行基の力を頼り、律令制の縛りをゆるめ、人々が自分の土地を離れ、自ら進んで大仏造立の仕事にくわわることを認めた。

 奈良の大仏の造立は、よく言われるように人民を搾取して強制的に使役することで成し遂げられたのではなく、行基集団が信仰心に基づいて行っていたボランティアの社会活動の延長にあった。聖武天皇は、この民力を、天然痘で人口の半分から三分の1が失われた社会の立て直しに生かそうとした。

 同じ頃、大伴家持は、越中国守として富山に赴任した。その任務は、東大寺の寺領を占定し、開墾を進めることだった。正倉院に保管されている東大寺墾田地地図の24枚のうち17枚までが、大伴家持の赴任した越中国のものである。さらに、この奈呉の地は、古代から海人の拠点であり、海産物や、海上交易による富も、重要だったのではないかと思われる。

 そして大伴家持は、この奈呉の地に、豊前宇佐八幡宮から勧請して放生津八幡宮を創建した。石清水八幡宮(860年創建)より100年以上も古く、国家の守護神としての八幡神を祀る聖域としては、日本最古級となる。

放生津八幡宮 (富山県射水市)。鎌倉時代、大伴氏の血を受け継ぐ北条時政が、再興した。

  奈呉という地名は、大伴氏が拠点としていた大阪の住吉神社周辺の古代の地名でもあり、ここも、瀬戸内海から大陸へと向かう海上交通の玄関口であった。

 そして、伊豆半島伊豆の国市にも、”なご”の名がつく奈古谷集落があるが、ここは、鎌倉時代の執権政治の基礎を築いた北条時政が治めていたところで、伊豆に配流されていた源頼朝と邂逅したところだった。

 この地も水上交通と関わりが深く、この場所を流れる狩野川流域は、古代から、船の建造に適したクスノキの産地であり、古事記のなかにも、応神天皇が、この地で船を作らせたという記録がある。また、この地に鎮座する奈胡谷神社の敷地からは、古代住居跡や土器片・玉類の祭祀遺物が出土しており、ここが古代の祭祀場だったことが分かっている。また、当社の御神体の石捧は、縄文時代以來、伝存されたものだという。

 そして、北条時政は、鎌倉時代、富山の奈呉の地の放生津八幡宮を再興した。北条時政というのは歴史上に名を残す人物であるが、父が不明確で兄弟の存在もわからない謎の人物だ。しかし、母親は、大伴氏の伴為房の娘であり、伴為房を伴善男の後裔とする系図が存在している。

 伴善男というのは、平安時代応天門の変藤原氏との権力争いに敗れて失脚し、伊豆に配流された大伴氏の代表的人物である。

 大伴氏は、奈良時代中旬まで朝廷内で大きな力をもっていたが、長岡京の変(785年)で藤原氏によって多くの大伴氏の有力者が死罪となり、その時、すでに亡くなっていた万葉歌人大伴家持まで、陰謀の罪があったとされた。

 この長岡京の変によって朝廷内で力を失った大伴氏にとって最後の一撃となったのが応天門の変(866)だとされる。これを機に、藤原氏の独裁的な権力が確立されたというのが歴史の教科書で習う内容だ。

 しかし、藤原氏によって歴史から抹消されたように語られる大伴氏は、明治時代の前まで鶴岡八幡宮神職世襲し続けた。また、長岡京の変で、大伴氏の共犯とされた佐伯氏(大伴氏と同族)は、広島の厳島神社や、福岡の住吉神社神職世襲し続けた。いずれも海上交通と非常に深い関係のあるところだ。

 そして不思議なことに、北条時政が伊豆を治めていた頃、福岡の住吉神社の神官だった佐伯昌長が、中国貿易をめぐる平清盛との軋轢で伊豆に配流されており、彼の占筮(ぼくぜい)によって、源頼朝は、1180年8月17日を平氏打倒の挙兵の日と決めたと吾妻鏡に記録されている。

 伊豆に流されていた源頼朝による平氏打倒のための挙兵の背後に、藤原氏によって歴史から抹殺された大伴氏や佐伯氏が関わっている。( NHK大河ドラマではスルーされているだろうが)。

 そして、平氏打倒の一歩を踏み出した源頼朝は、神奈川県真鶴付近で石橋山の戦いで敗戦するが、真鶴岬から船で安房国(現在の千葉県南部)へ脱出し、この地の豪族、上総氏と千葉氏に加勢を要請した。

 滅亡寸前の源頼朝が海を渡れるよう支援した海人がいなかったら歴史が変わっていただろう。

 安房国の房総半島最南端部には、安房神社が鎮座する。ここは古代からの海人の痕跡が多く残るところで、神話時代に徳島県から渡ってきた忌部氏による創建とされるが、この地に郡司職や祭祀者として忌部氏の名はほとんど見られず、『先代旧事本紀』で「大伴直大瀧」が初めて国造に任じられたとする記録をはじめ、ここでも大伴一族が国造を担っていた。

 この房総半島で力を盛り返した源頼朝は、鎌倉入りをし、鶴岡八幡宮を守護神に位置付けるわけだが、鶴岡八幡宮の初代の神官は、大伴氏の伴忠国であり、その後、鶴岡八幡宮神職は、明治維新まで大伴氏が世襲してきた。

 京都で藤原氏との政争に敗れた大伴氏は、どうやら東国において、海人ネットワークを掌握し続けていたのではないかと思われる。

 さらに、源頼朝を支え続けた北条時政は、大伴家持が創建した富山の奈呉の放生津八幡宮を再興し、この神社の神職は、今日まで、大伴氏が世襲しているのだ。

 ちなみに、この富山県の奈呉の浦は、平氏を滅ぼした後、源頼朝と対立することになって京都より脱出した源義経が、奥州藤原氏を頼って逃避行を行なった時のルートの候補の一つでもある。

 源義経一行は、この海岸で急な雨に遭い、弁慶が大きな岩を持ち上げ、一行が雨宿りできるようにしたという伝承が残る場所が、義経岩である。このあたりの地名である雨晴は、この義経一行の伝承に由来する。

奈呉の浦の雨晴海岸にある義経

 平安時代、朝廷内の権力争いで藤原氏によって葬られたかのように伝えられる大伴氏は、違うかたちで歴史の中を生き延びており、その影響力を行使した期間は、藤原氏よりも長かった。

 私たちは、都の中心にいることが権力の中心にいることだと思いがちだが、それは城壁都市の発達した大陸の国にあてはまることで、城壁都市の発達しなかった日本という国は、ネットワーク型の世界だったのではないかと思われる。だから、日本の天皇は、中国の皇帝やヨーロッパの王のような絶対権力者ではなく、どちらかというと、各地を結ぶネットワークを機能させる祭祀の要にある権威的存在だ。

 そして、そのネットワークは、日本列島内を網の目のように張り巡っている川と海の交通が重要な鍵を握っていた。

 特に、潮の流れが読みにくく座礁もしやすい瀬戸内海や、荒れやすい日本海は、大陸との交流においても重要な場所でありながら、エンジンを持たない船で航海することは簡単でなかったはずで、その専門集団は、歴史的に大きな役割を果たし続けていたことは間違いない。

 

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第1241回 記憶のリアリティと、人間の良心

7月1日に発行したSacred world  VOL.3について、写真界で最も尊敬する一人である野町和嘉さんが、言及してくれた。

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「風の旅人」佐伯剛さんの写真集、SACRED WORLD Vol.3が届いた。

https://www.kazetabi.jp/ 

 神話と史実の間合いがピンホール写真の白日夢のような描写のなかに彷徨っている印象。

 物語の始まりにある高知県足摺岬や臼婆は、写真をはじめた高校時代から度々通った場所で、実家からバイクを飛ばして30分の距離だった。

 時間を経た昔の記憶が、ちょうどピンホール描写に近い印象で脳裏に残っていたこともあり、不思議な懐かしさとともにしばし眺めた。

 ページをめくった、足摺の断崖を降った白山洞窟のこの場所では、濡れた岩で滑り、

買って間もないキャノネットを海に落としてしまい、途方に暮れた。

 代わりに買ったレンズ交換式の中古カメラ・ニッカ3Fを使いこなしたことで写真の世界が一挙に広がり今につながった、という経緯もある。

 60年近く昔のあの顛末を、白日夢写真ののなかに思い出させてもらった。

 これも写真の力?なのだろう。-

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 「神話と史実の間合い」というのは、まさに私が、日本の聖域を、あえてピンホール写真で捉えようとしている意図と重なっているので、その思いが観る人に伝わっていることは、とても嬉しい。

 また、60年も前の少年時代の足摺岬の記憶が、私が撮ったピンホール描写に近い印象で脳裏に残っていて、不思議な懐かしさとともにしばし眺めたという言葉もまた、励みになる言葉だ。

 なぜなら、個人的なことであれ人類史的なことであれ、ふだんは意識していなくても記憶の深いところに残っているものに働きかける表現を私は目指しているからだ。

 人間にとって、記憶のリアリティは大きな意味を持つと私は思っている。

 記憶のリアリティは、人間の判断や決断に大きな影響を与える。

 そして、記憶のリアリティこそが、生きてきた証とも言える。

 誰しも良い記憶ばかりではなく、切なく、悲しく、辛い記憶もたくさんある。しかし、幸福すぎる記憶が、今を生きる人間を幸福にするとは限らない。むしろ、失われてしまったものが、今の自分を苦しめることが多いのだから。

 ただ、悲しいことであれ、嬉しいことであれ、記憶のなかで一生懸命で誠実であった自分に対しては、切ないほど愛おしさを感じる。

 それは、自分のことと限らず、人類史の記憶においても同じだ。

 自分の知らない誰かが、過去において、一生懸命に誠実に行った形跡が残るものは、人の心に愛おしい感情を呼び起こす。その感情は、人間の良心であり、人間に対する信頼をつなぎとめる力でもある。

 国家愛などという言葉が安易に使われることがあるが、その愛が、愛おしさというよりは、自己顕示欲や自己承認欲を満たす居心地さにすぎない場合がある。贔屓のスポーツチームの勝ち負けによって狂喜したり憎悪の感情が生まれたりする状況が、そうだろう。負けた悔しさで乱闘が起きるのは、愛国心で戦争が起きるのと大して違わない。

 また、自分を飾り立ててくれる相手を「愛している」という場合と、なぜか自然に、その対象を支えたい気持ちがにじみ出てくる相手を「愛している」という場合の違いがある。

 自分を飾り立ててくれる相手を愛しているという時、だいたい、その理由も説明できる。

 しかし、自分のことではなく、相手のことの方が大事になる愛情の場合は、理由をうまく説明できないケースが多い。周りからすれば、なんであの人を、などと言われることだってある。つまり、理性では計算できない何かなのだ。

 たぶん、そうした心理には、自分個人の、もしくは人類の記憶が影響しているのではないかと思う。

 記憶というのは、愛おしい感情と結びつく性質があるのだ。

 現代人は、現代と近未来のことばかりを気にして、そこを飾り立てることに忙しいが、それが本当に末長く記憶に残るものになるかどうか?

 人は誰でも死ぬが、記憶の中に生きていた証は残る。

 実績とか経歴とかは、記憶ではなく記号だ。記号は、死者を飾ってくれるかもしれないが、人々の心にしみじみとした愛着を呼び起こさない。 

 

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Sacred world 日本の古層Vol.3は、6月29日に納品されますので、すでにお申し込みいただいている方から順に発送していきます。

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第1240回 退行していく社会の行く末。

ちょうど「愛国」ということを考えていた時に、安倍元首相が銃撃されたというニュースが飛び込んできた。

 アメリカやインドではなく、現代の平和ボケと言われるこの日本で、選挙運動中にこういう事件が起きるなどと、いったい誰が想像できただろう。

 15年以上前か、永田町に風の旅人の編集部があった時、上の階に政治経済研究会という政治家による勉強会の場があり、エレベータが同じだった。

 ランチを終えてビルに戻ってきた時、エレベーターが閉まる直前だったので、小走りでエレベータに駆け込んだところ、中に白いブレザーを着た安倍元首相がいて、両隣のSPらしき人物が、突然飛び込んできた私に対して警戒心露わに身構えた。私はすぐに、怪しいものではないと示すために背中を向けた。

 今回の安倍元首相への狙撃は、3m背後という至近距離からのようだが、なぜそんなことができたのか?

 太平洋戦争前、1936年の2.26事件、1932年の5.15事件より先の1930年、濱口雄幸首相が、東京駅で右翼の人物に狙撃された。

 1931年の満州事変の勃発までは、反軍運動や反戦運動が行われていたが、1932年の5.15事件あたりから、軍部の暴力を恐れ、その圧力に負けた政治家が保身に走るようになった。

 濱口首相と、安倍元首相は、似たような状況下で政策運営を行った。

 関東大震災と東北大震災という大災害、そして長期におよぶデフレと不況。

 この二人の首相が経済対策で行ったのは、まったく正反対の手法なのだが、目指すところは同じだった。

 濱口首相は金本位制による緊縮財政、安倍元首相は、桁外れの財政出動による自由競争化を行ったが、ともに、競争力のないものを淘汰し、企業に国際競争力が生まれれば経済不況から脱出できるというビジョンだった。生産性の悪い人や企業を切り捨て、延命だけしている企業などが整理されることで、日本は安定成長することができる体質に生まれ変わるのだという考えに基づいていた。

 しかし、濱口首相の判断と実践は、世界恐慌によって、むしろ悪手となってしまった。

 多大な犠牲をはらって日本企業の国際競争力を高めても、世界恐慌のため、世界中で物が売れなくなってしまったのだ。

 この20年の日本も、自由化の旗印のもと、多大なる犠牲をはらって産業競争力をつけるための手が打たれてきた。

 しかし、コロナウィルスの世界中の蔓延や、ロシア・ウクライナの長引く戦争など、90年前の世界大恐慌と似たような状況にある。

 生産性を高めるために整理されたり、いつでも整理できるような非正規で低賃金という不安定な環境に置かれた人々が膨大に存在しており、長引くデフレは、むしろそういった境遇の人にとっては延命の綱だったが、最近、エネルギー価格の高騰によって、その状況も変わってきた。

 陰で、得体の知れない不安に怯え、不満をぶつける矛先を探し、失うものは何もないと捨て鉢になっている人も、かなり存在するかもしれない。

 80年前の戦争は、経済悪化による人々の不満や不安によって、少しずつ準備され、強権によってその状態を一挙に打開しようとした軍部が、少しずつ支持を高め、さらに暴走していくことになった。

 国民とは無関係のところで、かってに戦争が進められていったということではない。

 進行中の歴史のなかで生きている人間が、その時起こっていることの意味を理解できないのは、古今東西同じだ。

 とりわけ現在は、歴史を後から振り返っても不吉すぎる状況が重なっているのだけれど、深刻なニュースの後に、馬鹿笑いの番組が続き、目先の欲求を刺激するコマーシャルや通販番組の類が、テレビだけでなく、あらゆる情報媒体に溢れているため、自分が生きている現実のシリアスさが、いまひとつピンとこない人は大勢いる。

 しかし、社会や学校や職場などでないがしろにされ、暗い恨みを抱え込んで篭っている人たちの中には、もしかしたら今回の安倍元首相が自家製の銃で殺害されたという事件に、陰湿な復讐の思いを具現化する術を見出した人がいるかもしれない。

 数年前、3Dプリンターで銃の製造が可能で、その方法がネットに流出しているという話に触れ、時代の変化に驚いたが、その変化は、ネット空間だけでなく現実世界のものになりつつある。

 こうした事件は、一人の殺害者、一人の犠牲者で終わるものではなく、必ず、別の事態を引き起こしてきた。溢れかえる情報ニュースによって鈍麻させられていると、それらのつながりは見失われるが、一つのことに思いを集中させている人には、一つの事件が大きな啓示になる。

 今回、安倍元首相を銃撃したのは、40代の男だという。

 インターネットなどで中傷記事をしつこく続けて逮捕されたというニュースで、その犯人が、20代とかではなく40代で、意外と歳をとっているんだと不思議な感覚になることが、たまにあった。

 以前であれば、こうした過激な行動は、若い世代が行うものだという印象があった。社会に対する不満は若い人の方が持ちやすく、年齢を重ねるうちに順応したり、自分の無力を知って、しかたないと諦めていったり。

 40代というのは、昔ならば、おっさんなんだが、今回の事件でSPに取り押さえられている人物の雰囲気もそうだが、おっさんというより、20代のまま年月を重ねているように見える。

 それはまるで、「失われた20年」などとよく言われているように、この期間の日本社会の時間が止まっていることを象徴している。

 生命にとって時間が止まることは、生きていない、もしくは成熟していかないということだ。

 ロシアとウクライナの戦争によるエネルギー危機で、節電を呼びかけながら、同時に、熱中症対策のためにエアコンを惜しまず活用しようとテレビで呼びかけられる。さらに、就寝時には枕元に常温の水を用意すること、などと、良識ある大人に対して子供向けの注意喚起を行っている。

 同時に、ウクライナでの激しい戦闘や死者や負傷者のことを伝えられているので、安心安全に関する神経が麻痺してくる。

 結局、自分ごとになるのは、目先の熱中症対策や、コロナ感染への過剰な備えであり、本質的な危機、本当の危機への意識は、遠ざかっていくのだ。

 社会は、高度経済成長期から成熟期に移行していかなければならないのに、成熟どころか退行しているようにも感じられる。

 現在の日本の知識人や文化人の多くは、太平洋戦争のトラウマからか、日本を愛するというスタンスから距離を置き、西欧文化の方を上位に位置付ける傾向にあるが、その結果、寄る辺をなくした日本人の心は少しずつ空虚になっていき、その空虚が、暴力を引き起こす。

 国を愛するということから目を背けるのではなく、国を愛するということを国家主義に直結させないために、どういうことが必要なのか?を考えるべきなのに。

 自分の足元や、今ある自分へとつながっている歴史文化などを丁寧に見つめ直し、今ある自分を再確認し、誰かから強制されるのではなく、自分の心で感じ、自分の頭で考え、自分の言葉で語り、自分の方法で伝える術を身につけていくことが大事で、それが真の意味で、自分や自分がいる世界を尊重し、愛することにつながる。そうした道案内をできる人こそが、知のエキスパートであるはずなのに、メディアに登場する「知の専門家」とされる人たちは、馬鹿丁寧な危険回避のアドバイスを、繰り返し国民に刷り込み、その結果、自分の頭で考えないロボットを作り出していくことを仕事としている。

 刷り込まれた考えと、自分の頭で考えたことの区別がつかなくなる状態が一番怖い。

 危険回避の対象が、コロナや熱中症から他の何かにすり替えられても、気づかなくなってしまう。

 このたびの事件を受けて、参院選自民党が圧勝するようなこととなれば、危機回避という大義名分で、人々の声や行動に縛りがつけられる可能性が高いし、憲法改正も現実化を増してくる。

 1930年当時、その15年後に、広島と長崎に原爆が落とされることを想像できた人は、一人もいなかっただろう。

 

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Sacred world 日本の古層Vol.3は、6月29日に納品されますので、すでにお申し込みいただいている方から順に発送していきます。

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第1239回 瀬戸内海の海人と、歴史の真相

明日、印刷納品される Sacred world 日本の古層 Vol.3は、海人に焦点をあてている。

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 日本は島国であり、古代、船がなくては、人も物資も動かせなかった。大陸から新しい知識や文化を日本に伝えたり、大陸の勢力と戦う時に、海人の力が欠かせなかった。

 兵庫県明石は、明石海峡の向こうに淡路島を望む風光明媚な場所で、新鮮な魚介類で有名だが、源氏物語の重要な舞台でもある。

 紫式部は、源氏物語を須磨と明石の帖から書き始めたとされ、紫式部の創作の意図が、この地に秘められていた可能性が高い。

 源氏物語においては、落ちぶれた光源氏が明石に流れてきて、明石入道の一族と知り合い、住吉神の加護を受けて、復活していく。

 源氏物語は、光源氏が主人公ではあるがが、その光源氏は、長大な物語の途中でフェードアウトしてしまい、後半の宇治十帖においては、明石一族の物語が転換し、最後に栄光を掴むのは明石一族で、光源氏は、その媒介にすぎなかったかのような描かれ方をしている。

 明石の地には、光源氏を救った住吉神を祀る聖域が多いが、住吉大社神代記』では、大阪の住吉大社よりも、明石こそが住吉神のルーツとなっている。

 明石というのは、地理的にも瀬戸内海の際、つまり瀬戸際であり、光源氏個人の運命においても、また歴史的にも、瀬戸際の攻防が繰り広げられたところだった。 

  聖徳太子の時代、この明石と愛媛県今治市に共通する謎のエピソードがある。

 明石市大蔵の稲爪神社の縁起には、推古天皇の時代に朝鮮半島から鉄人と呼ばれた大将が8千人の兵を引き連れ日本に侵攻し、九州の兵を打ち負かして明石の地まで攻め上ったが、伊予国の小千益躬(おちますみ)が、三島明神の加護で鉄人の弱点を見つけて討ち取り、明石の地で撃退したとある。

(稲爪神社/兵庫県明石市

 

 小千益躬は、瀬戸内海の海人である越智氏の祖だが、越智氏の後裔の河野氏が自らの氏族の来歴を記した『予章記』の中にも、明石の稲爪神社と同じ記録があり、しかも、この戦いで亡くなった兵士を

弔うために創建されたという愛媛県今治市東禅寺の由緒では、鉄人が攻めてきたのは、推古10の出来事となっている。 

 推古10年というのは602年である。

 この602年というのは、日本書紀によれば、聖徳太子の同母弟の来目皇子が、征新羅大将軍として25,000の兵を率いて九州の筑紫国に至ったが、病気で亡くなった年である。

 そして、その後任として、聖徳太子の母違いの弟、当麻皇子征新羅将軍となり、難波から船で出発したが、兵庫県明石の地まで進んだところで妻の死を理由に大和に引き返すという奇妙なエピソードが日本書紀に残されている。

 明石と今治の伝承では、602年に新羅が攻め込んできて、九州の兵を打ち破り、明石まで攻め上ったが、越智氏によって撃退されたとあり、日本書紀では、602年に、新羅討伐のために来目皇子が率いる兵が九州まで行ったところで来目皇子が病死してしまい、しかたなく、当麻皇子が、新羅討伐のために西に向かったが、明石の地で、妻の死を理由にヤマトに引き返したとなっている。

 5世紀後半より、朝鮮半島新羅の勢力が拡大し、日本が治めていた朝鮮半島南端の任那加羅諸国)を、562年に併合してしまった。

 それを取り戻すため、日本も兵を送ったが失敗に終わり、欽明天皇敏達天皇は、その奪還を宿願として遺書にまで残した。

 なので、当麻皇子が、新羅討伐に向けて進軍している時に、妻が死んだからといってヤマトに戻ってしまうというのは、普通は考えられない。日本書紀は、嘘を書いている可能性が高い。

史実は、明石と今治という二つの地に共通して残っている伝承なのではないだろうか?

 しかし、複雑なことに、古事記日本書紀に、こういう物語も残っている。

 新羅討伐を終えた神功皇后が、畿内へと戻ってきた時、忍熊皇子が反乱を起こし、明石の地に砦を築いて待ち伏せをしたという内容だ。その場所が、五色塚古墳とされる。

 日本書紀ではは、神功皇后新羅を討伐して戻ってきたという設定および、聖徳太子の時代は当麻皇子新羅を討伐しに遠征をするという設定で、明石について言及され、今治と明石に残る伝承では、新羅が日本に攻め込んできて明石の地で撃退したとなっている。

 真相はよくわからないが、明石が運命の分かれ目であることは共通している。

 伊予の海人、越智氏は、婚姻によって紀氏とも同族化しているが、663年の白村江の戦いにも参加している。

 白村江の戦いにおいて、越智の直という人物が唐の捕虜になったが、観音菩薩の霊験により無事帰還することができ、観音菩薩を奉じて寺を建てた。この寺がどこであるか具体的な記述はないが、愛媛県今治市に、四国霊場第58番の仙遊寺があり、この寺が越智氏と深く関係している。 

仙遊寺愛媛県今治市の御本尊の千手観音菩薩像)

 

 寺伝によると、仙遊寺天智天皇の勅願により、当時の国守であった越智守興(おちもりおき)によって建立された。標高300mの作礼山の頂上付近に殿堂を建立したのが始まりといわれており、作礼山の麓に越智守興をまつった三嶋神社が鎮座している。

 この寺の御本尊の千手観音菩薩像は、竜女が海から竜登川を伝って作礼山に登り、一刀刻むごとに三度礼拝し、何日もかけて彫ったものだという伝承があり、海神信仰との結びつきが秘められている。

 明石は、瀬戸際の地だが、伊予水軍の越智氏の活動範囲でもあった。

(多伎神社(愛媛県今治市)は、3万坪に近い境内の敷地に自然林が茂り、山頂近くに奥の院に磐座があるが、もとはこの磐座信仰に始まるとされる。社殿の裏及び境内一帯に30数基の古墳群がある。西暦6~7世紀頃のものとされ、当時、この地方を支配していた越智氏一族の墓であろうと推定される。)

 

 越智氏は後に河野氏となり村上氏となり、源平の戦いや豊臣秀吉の時代においても、大活躍し、勝負を決する鍵となった。

 この海人は、日本書紀古事記など、国家が残す歴史においては、表舞台に立っていないが、歴史を動かす原動力であったことは間違いない。

 

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第1238回 日本にしか存在しない八角形の古墳の謎。

               天武天皇の母で第37代斉明天皇の牽牛子塚古墳

 東京で私が拠点にしている高幡不動聖蹟桜ヶ丘のあいだに、珍しい八角形の古墳がある。

 これは、世界中で日本だけ、しかも、7世紀後半から8世紀前半の律令制の開始時期という極めて限られた時に、畿内に9基、関東に5基の地域限定で作られたものの一つだ。

 Sacred world 日本の古層 Vol.3では、この謎解きも行なった。

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 興味深いのは、天智天皇天武天皇は、日本の律令制を考えるうえで最も重要な二人であるが、彼らの古墳は、京都の山科と、飛鳥の檜前で、ともに東経135.807度という小数点3桁の精度も一致している近畿のど真ん中を南北に貫くライン上に築かれていることだ。

 そして、飛鳥の天武天皇陵の周辺に4つの八角墳が存在する。天武天皇の母で第37代斉明天皇の牽牛子塚古墳、天武天皇の子である草壁皇子の束明神古墳、草壁皇子の子で第42代文武天皇の陵墓とされる中尾山古墳、そして、かつて斉明天皇の御陵候補だった岩屋山古墳である。

  また、天武天皇陵から8kmほど東に行った奈良県桜井市にある段ノ塚古墳は、天智天皇天武天皇の父である舒明天皇陵だと考えられており、東経135.807度を軸にした7つの八角墳は、被葬者が不明の岩屋山古墳を除いて、天智天皇天武天皇の血縁者のものばかりである。 

 これ以外の近畿の八角墳は、兵庫県宝塚の中山荘園古墳と、鳥取の梶山古墳で、梶山古墳の被葬者は麻績王(おみのおう)が有力だが、麻績王は、天智天皇の子の大友皇子だという説がある。

 中山荘園古墳は、近くに鎮座する売布神社の周辺が若湯坐氏の支配地域だから、その関連性が考えられる。若湯坐(わかゆえ)は貴人の養育にあたる者で、摂津の豪族で天武天皇の養育を行なった凡海氏の関係かもしれない。そうだとすると、近畿の八角墳9基は、すべて天智天皇天武天皇の関係者のものということになる。

 そして、近畿以外の八角墳は、なぜか関東の5基しか存在しないが、被葬者がわからない。

 

 

 しかし、山梨県笛吹市の経塚古墳、東京都多摩市の稲荷塚古墳、群馬県の三津屋古墳の3基は、奈良時代国府が設置された地域であり、律令制のミッションを背負って関東に派遣された有力者が埋葬された可能性が高い。

 興味深いのは、山梨の経塚古墳と東京の稲荷塚古墳はどちらも北緯35.638の東西ライン上に築かれ、この二つの場所から群馬の伊勢塚古墳までの距離が78kmと同じで、さらに水戸の吉田古墳と、群馬の伊勢塚古墳(藤岡市)および三津屋古墳(北群馬郡吉岡街)までの距離が129kmで同じことだ。八角墳という形もそうだが、その配置にも数理的なモデルが使われている。

 日本の律令制は、壬申の乱に勝利した天武天皇によって進められ、持統天皇がそれを完成させた。八角墳の大王の御陵は、この時期に作られている。

 道教において、八方位は宇宙を象徴している。そして、真北の空に煌めき、天体の軸となっている北極星を、天皇大帝(てんこうたいてい)という宇宙の最高神とみなしている。 そして日本において、大王が「天皇」という称号を用いるようになるのは、八角墳が築かれた時期と重なっている。

 律令制の始まる時期、道教の影響を受けて作られた八角墳は、万物の中心に天皇を位置付けて、四方八方を整え、新しく国を整えていこうとする統治者の精神を表しているように思われる。

 しかし、畿内八角墳が9基存在することは、それで説明できるとして、なぜ、他の地域では関東だけに5基築かれているのかという疑問が残る。

 壬申の乱において、天武天皇は、東国の勢力を味方につけることで、最終的に勝利をおさめることができた。つまり、それが、関東の勢力であったということになるだろう。

 だとすると、関東は、その当時、十分に力を備えていたということになるが、事実として、八角墳が築かれている甲斐国(山梨)、上毛野(群馬)、武蔵国(埼玉から北東京)には、4世紀後半から7世紀に至るまで、大古墳が数多く築かれている。

 なぜ関東なのか?

 日本は現在でも国土の60%が山岳地帯で耕作可能地は限られている。古代においては、現在より海水面が高く、大阪平野濃尾平野も海だった。つまり、現在、日本で貴重な平野と考えられ人口が集中している沖積平野(東京23区を含む)は、存在していなかった。

 そのなかで、関東平野というのは、飛び抜けて広大な耕作可能な平野であり、政治の中枢が畿内にあったとしても、有力者が、手中におきたい場所だったはずで、そのため、新しい技術や知識をもった渡来系の人々が移住させられたことが記録に残っている。

 壬申の乱では大海人皇子天武天皇)と同じく、源頼朝平氏打倒のため、東国の武士を味方にした。

 北九州と近畿だけでなく、関東が果たした役割も考えていかないと、日本の古代は解けない。

 

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