第1171回 『水俣 天地への祈り』 田口ランディ著 を読み終えて 

水俣 天地への祈り』 田口ランディ著 河出書房新社発行

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 久しぶりに、深い言葉に心を打たれた。

 この本は、タイトルにあるように”水俣病”をもとに書かれたものだが、水俣に限らず、今日の私たちの世界に生じている様々な歪み、軋み、断絶、衝突、破壊の現場に共通する本質的な問題と、それらを乗り超えて未来をつくっていくための鍵となる普遍的な思想が宿った書物だ。

 現在、私たちの生きる世界で生じている様々な問題は、現代人がはじめて直面する事態ではなく、状況の違いは多少あったとしても、人類のこれまでの歴史を通じて何度も起きてきたことなのだと思う。

 人間は、多くの生物と同じように自然に根ざしたところも備えているが、人間の脳は、自ら新しくシステムを作り出して、そのシステムのなかで生きていくという特徴を、人間は備えている。

 一人ではできないことを集団の力で成し遂げることが他の生き物に比べて上手な人間の、その能力によって生み出されたシステムが社会の隅々まで行き渡った状態を、とりあえず”文明”と呼ぶことにしよう。そうした文明社会の痕跡は、古代ローマや古代中国など、かなり遡った時代でも明確な形で残されている。

 そして、人間が作り出すシステムというのは、いつの時代においても、人間の意思を超えて肥大化し増殖し暴走する性質を持っている。その結果、人間は、人間が作り出すシステムに隷属させられ、犯され、蝕まれてしまう。

 人類の歴史は、そうした悲劇を繰り返しており、水俣病の問題も例外ではない。誰か特定の人間や組織を悪人と決めつけて処理できるような問題ではない。

 『水俣 天地への祈り』は、杉本栄子さんや、緒方正人さんという水俣病語り部の言葉を中心に創られた本だが、お二人の言葉は、現代の聖書というものがあるとすれば、その中の預言者の言葉のように心に響いてくる。

 この本の発行と同時に、ジョニー・デップが製作主演の映画「MINAMATA-ミナマタ」が、9月23日から日本でも公開されるのだが、ジョニー・デップが演じる写真家のユージン・スミスについて、(映画の中ではどのように取り上げられているのか、今のところ私は知らないが)、田口ランディさんと私が語り合う内容が、この本の中に収められており、杉本さんや緒方さんの言葉に触れた後に、その部分を読むと、どうしても自分の言葉が薄っぺらく感じて仕方がない。

 何が違うか端的に言うと、私のポジションが、客観的立場にすぎないということだ。

 7年ほど前、奇跡的に石牟礼道子さんをインタビューさせていただいた時も、まるで呪文のように揺らめいて立ち上ってくる霊性を帯びた言葉を前に、自分の言葉の浅さ、自分の存在の小ささが際立って何をどう応えればいいのかわからず、とてもきつかった。

 田口ランディさんも、この本の中に登場する杉本栄子さんと初めて会った時、その神々しさ、その圧倒的な存在感に畏怖を覚え、身がすくんで逃げ帰ったと書いているが、その気持ちはよくわかる。

 本当に神々しい人間というのは、実在するのだ。聖書の書かれた古代だけでなく現代も。

 2000年以上前に、人間は自らが作り出したシステムによって世界の歪みを作り出していたが、同時に、そのシステムによって世界に起きている事態を、どのように捉え、どのように対応すべきなのか、真摯に悩み、苦しみ、もがき、誠実に対応しようとつとめた人間もいた。

 しかし、世界は、一人の人間がどのように表現しても、表現しきれるようなものではない。それでも、誠実な個人が、自分が関わった世界のことを、完全ではないかもしれないけれど、できるだけ偽りなく伝えようとし、その背景に何があるのかを思索し、どうあるべきかを真摯に説いた。それが、預言者たちの果たした役割であり、彼らの表現を統合したのが聖書であり、場合によっては、神話という形をとることもあった。

 そういう意味で、今回の田口ランディさんの『水俣 天地への祈り』の中で重要な役割をになう杉本さんや緒方さん、そしてユージン・スミスといった水俣病に深く関与し、闘い、葛藤し、悩み抜き、その果てに自分ならではの思想を獲得した人たちの表現は、”現代の聖書”の預言者といって差し支えないと思う。そして田口ランディという作家は、この時代の預言者の在り方と、その表現を、この書物を通して世の人々に伝える役割を果たしている。

 さらに、20世紀に創られた表現の中で、数百年後に伝えるものとして欠かすことのできない石牟礼道子さんの『苦海浄土』や、新作能の『不知火』なども統合されて、水俣病という現代文明が作り出した、あまりにも深刻な事態を通して、”現代の聖書”のすがたが、浮かび上がる。

 現代社会には、自らをアーティスト、表現者と名乗る人は数えきれないほど存在しているのだが、その多くが、人間が作り出したシステムに魂を隷属させたままアウトプットしており、そのことに対して疑問を持つどころか、そのシステムの中で成功することが自分の有能さを証明し、自分が生きていることの価値につながると信じてしまっている。

 そうした野心の集まりが、個々の人間の魂を損なうシステムを肥大化させ増殖させる原動力になってしまっていることに無自覚のまま。

 表現者とは、いったい何なのか? 表現するということは、いったいどういうことなのか? 

 これは何もアーティストを自称する者だけの命題とは限らない。

 この本に登場する杉本さんや緒方さんなど、水俣病語り部もまた、自分の体験を通じて、自分の言葉で表現を行っている。しかし、それは、ただの過去の体験談ではなく、未来への祈りなのだ。

 未来への祈りが秘められた表現に、人間の魂は突き動かされる。

 杉本さんが講演のために呼ばれた学校で、教頭先生が自らの学校を”荒れた学校”だと言い、生徒たちが最後まで杉本さんの話に耳を傾けるか心配していたにもかかわらず、全ての生徒が最後まで真摯に耳を傾けたという話が象徴しているように、荒れているのは、生徒たちにレッテルをはる教頭に代表されるシステムと生徒たちとの関係であり、生徒たちそのものではないのだ。

 「荒れた生徒たち」という言葉のアウトプットも、その人の表現だが、沈黙も含めて、どんな表現も、その人の隠れている何かを表す。

 杉本さんのお父さんは、杉本さんに、「その人の言葉を最後まで聞いて、隅々まで見抜く人になれ」と行ったそうな。 

 とくに、当人に自覚があろうがなかろうが、多くの人に”思想”や”価値観”を伝える役目を果たしている”表現者”(最近は、インフルエンサーと呼ばれる人も含まれるのか?)のアウトプットするものに触れる際、技術や方法や正確さ、発想の新しさや目の付け所などで誤魔化されてしまうことが多いが、見抜かなければならないのは、その人の祈りの深さだ。

 祈りは、決して個人的な願望などではなく、哀しみの受容だ。そしてそれは、他者や、この世に起きている出来事に深く心を寄せ、受け止めていくことでしか生じない心の動きだと思う。

 水俣という大きな歴史的事実を、真に自分ごととして受け止めることは、とてつもなく難しい。

 この時代、そんな困難を避けて通ることは簡単なので、大半の人はそうするが、それでも、向き合わざるを得ない少数の人がいる。それはもう、意味などを超えた宿業だ。

 しかし宿業は、ただ苦しいだけのものではない。自己保身、自己利益、自己都合、自己承認、自己執着、自己欺瞞といった際限のない自我への囚われほど苦しいものはなく、宿業は、そうした手強い自我を沈黙させることがある。華麗に見える人生よりも、魂の深いところで生きることを選ばざるを得ない人には、そうした心の鎮魂こそが救いであるとわかる。

  田口ランディという作家は、この書物の中で、人間の宿業だけでなく、表現することの宿業に、深く迫ろうとしている。

 そして、水俣病という極限の修羅を通して、人間の救いについて深く考えさせるとともに、人間が作りあげた刹那のシステムを現実の世界だと信じ込んでしまっている多くの人に、そのシステムを超越した世界や人間の生き様がリアルにあることを伝えている。

 

 

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第1170回 東京周辺の古代を考えるうえで(2) 平将門の乱の背景

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八王子市 多賀神社

 東京の国立市にある谷保天満宮が、なぜ菅原道眞の死を弔うための聖域として日本最古なのか、前から気になっていたのだけれど、少し線がつながってきた。そして、平将門の乱も、そこにつながっていた。

 私が住んでいる高幡不動の近くに多摩川と浅川の合流点があり、浅川を遡っていくと八王子に多賀神社が鎮座している。

 多摩川と浅川の合流点の東岸は、古代、国府が置かれていた府中である。

 八王子の多賀神社は、その府中の国府の真西(北緯35.66)で、真北は、埼玉県日高の高句麗人の移住地域で、真南もまた大磯の高句麗人の移住地域である。

 この高句麗人の居住地域のことについては、前回の記事で書いた。

 この南北の同じライン上に、多摩川と秋川の合流点の近く、あきるの市の二宮神社や、厚木市の小野神社が鎮座している。どちらも、アラハバキ神の聖域が境内にあり、かつ周辺が、縄文や石器時代に遡る遺跡の宝庫である。

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黒が、高句麗人の居住地域。紫が、氷川神社およびアラハバキ神の聖域。赤は、古代、武蔵国の政治的中心、軍事的中心、祭祀の中心。
 西の端が富士山で、東の端が筑波山。この二つの霊山のあいだに、古代の武蔵国がある。 
 関東平野のど真ん中、古代、このあたりで利根川と荒川が合流していたが、その合流点の近くに埼玉古墳群という大古墳群が築かれている。この真南が、川越の氷川神社で、さらにその真南が、府中の国府筑波山と富士山を結ぶライン上に、平将門が政庁を築いた坂東の地があり、その西が、武蔵国一宮の氷川神社さいたま市)、所沢の中氷川神社あきる野市二宮神社となる。二宮神社と府中の国府を結ぶラインは、多摩川にそった冬至のラインで、奥多摩の奥氷川神社、世田谷の等々力渓谷を結ぶ。等々力渓谷のまわりには野毛大塚古墳など古墳群が集中し、ここは、さいたま市氷川神社の真南である。  さいたま市氷川神社の真西、関東平野の西端の日高市高句麗人の居住地があり、その真南の大磯も、高句麗人の居住地で、その南北のライン上に、厚木の小野神社とあきるの市の二宮神社という境内にアラハバキ神の聖域が残る神社があり、八王子の多賀神社も鎮座している。多賀神社は、府中の国府の真西でもある。
そして、府中の国府のすぐ西にあるのが谷保天満宮(903年創建)で、菅原道眞の死後、その魂を祀る場所としては、日本最古である。

 

 大磯と日高という南北ライン上の高句麗人居住地域は、縄文時代の史跡の残るところだが、同じライン上の八王子の多賀神社の真南3kmのところが神谷原遺跡で、弥生時代の方形周溝墓が33基も見つかり、さらに関東では珍しい円形周溝墓も1基見つかっている。また、神社の東北3.5kmに、縄文時代弥生時代の遺跡である宇津木向原遺跡がある。

 八王子地域は、弥生時代の東海方面の土器の出土が多く、東海地方との交流や、その方面からの移住が多く見られる。3世紀の倭国大乱の頃からは、畿内からの移住も確認できるようだ。

 前置きが長くなったが、古代の聖域は、必ずといっていいほど、何かしらの意味がある場所に作られている。

 さらに古い聖域の上に重ねられていたり、他の聖域と、何かしらの意味を持って、方位など法則性に満ちた所に築かれている。

 上の地図で、各地にある氷川神社が規則的に配置されていることがわかるが、氷川神社は、古墳時代からの出雲系の武蔵国造の一族が祀っていた神社であり、埼玉古墳群も武蔵国造の豪族との関係が指摘されているので、富士山や筑波山を含むこれらのラインの規則性は、武蔵国造の意思が反映されたものということになる。

 府中の国府の真西で、関東平野の西の端のラインともいえる神奈川県大磯を通るラインに鎮座している八王子の多賀神社は、明治元年(1868年)、甲州勝沼の戦いで敗走した新撰組において、それまでの指導的立場だった近藤勇土方歳三と、彼らに見切りをつけたグループが分裂解散に至った地と知られる。

 この神社は、938年、武蔵国に赴任した源経基によって創建された。

 源経基という人物は、大した人物ではないが、日本史においては大きな転換点となる事件の種を蒔いた。(時代背景からして、彼でなくても、他の誰かによってそうなっただろうが)。彼こそが、平将門の乱のきっかけを作った人物なのだ。

 源経基は、第56代清和天皇の孫だったが、当時、京都の朝廷は財政が苦しくて天皇の親族を養いきれなくなっていたので、世継ぎ以外は次々と臣籍降下が行われ、彼らは、自分で糧を得る必要があり、何かしらの役職を得たり、パトロンを見つけたりしていた。

 そして、聖和天皇の孫の源経基臣籍降下し、彼が、源頼朝足利尊氏などに連なる、武家としては最も栄えた清和源氏の祖ということになる。

 しかし、武家としての繁栄を築いたのは、源経基の息子の源満仲で、満仲と、その息子の源頼光や源頼長が、藤原兼家とその息子の藤原道長と協力関係を築き上げて、清和源氏の基礎を作った。

 938年、皇族の身分から臣籍降下した源経基は、お役人として武蔵国に赴任することになり、国土豊穣、万世安穏を祈願して八王子に多賀神社を作った。

 多賀神社からは、浅川を下れば国府のあった府中に至るし、上に述べたように府中の真西に位置していること、関東平野の西端のライン上にあること、縄文時代からの史跡があることなど、土地的にも何かしらの意味があったのだろう。

 源経基が、武蔵国に赴任した当時、京都では、菅原道眞の祟りで騒々しいことになっていた。

 菅原道眞を左遷してまで藤原時平醍醐天皇がやろうとした延喜の改革は、道眞の祟り騒ぎで、あっという間に頓挫した。

 道眞の祟りを恐れていた朱雀天皇が、醍醐天皇の後を引き継ぐが、醍醐天皇の時に復活させた班田収授は、一切行われなくなった。歴史的にも二度と行われなかった。

 班田収授は、律令制の基礎であり、人頭税の徴収のための戸籍作りだ。しかし、当時、逃亡農民も増え、その仕組みは、ほとんど機能しなくなっており、おそらく菅原道眞を登用した宇多天皇醍醐天皇の父で、臣籍降下して源氏の身分になっていて天皇などになる予定ではなかった。母親は渡来系である。)は、背後の力の後押しで、税制改革を行おうとしていた。

 その税制改革は、人頭税から地頭税への完全移行で、農民の数ではなく土地の広さに対して税金を課す制度だ。

 しかし、班田収授の数に含まれない逃亡農民を使って荘園開発と運営を行って財を築いていた藤原氏にとっては、この改革はデメリットだった。菅原道眞が藤原時平たちによって潰された背景は、たぶんここにある。

 菅原道眞の改革を推す勢力は、主に地方の豪族であり、なぜなら地頭税のためには土地の計測やその収穫高の管理が必要で、そうした細かな作業を中央の役人にはできず、その役割を任せられる地方の豪族の権限が大きくなる。(土地の広さを偽って、私腹を肥やすこともできる)。 

 平将門の乱というのは、そういう過渡期に起きた事件である。実際に起きた出来事としては大したことがないが、歴史的には、菅原道眞の怨霊騒ぎとともに大きな意味を持つことになった。

 そのきっかけが、八王子に多賀神社をつくった源経基だった。

 938年、源経基は、朝廷からの監督者として武蔵国に赴任した。地方豪族を牽制し、監視するお役人として。

 朱雀天皇(930年即位)以降、班田収授は行われなくなっているので、源経基は、武蔵国で、検地をやろうとしたことになっている。

 しかし、こうした地方における役人主導の検地は、税収を朝廷に還元するためではなく、地方豪族から賄賂をとって私腹を肥やすためだった。

 それに対して、武蔵國の古くからの豪族である武蔵氏の武蔵武芝が、武蔵國においてはその前例はないと拒んだ。

 つまり、彼は賄賂の要求をはねつけ、そのため、源経基兵を使って武蔵武芝の家を襲い、略奪を行った。

 その時に、調停に立ったのが平将門平将門は、調停のための行動をとったのだが、トラブルもあって、恐れた源経基は京都に逃げ帰って朝廷に平将門の謀反を告げる。

 歴史の教科書では、源経基の賄賂の要求をはねつけた武蔵氏の武蔵武芝が、朝廷に反発し、平将門藤原純友の乱のきっかけになった人物として名が刻まれているが、実際の彼は善政を行っており、武蔵国の民衆の家は豊かで、その統治の名声は武蔵国中に知れ渡り、謀反をするような人物ではないと伝えられている。

 しかし、それらを語り伝えたのは、菅原道眞の玄孫で、上総国常陸国受領を務めた菅原孝標の娘であり、『更級日記』の作者だ。

 また、府中の国府大國魂神社の鎮座するところ)から冬至のラインにそって西北に3kmほど行ったところに谷保天満宮が鎮座し、ここは、903年、菅原道眞が亡くなってすぐ、三男の菅原道武が、父を祀る廟を建てたことに始まるのだが、京都の北野天満宮や九州の太宰府天満宮などより遥かに古い菅原道眞の聖域である。

 

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谷保天満宮。今でも豊かな湧き水が出ている古代からの聖域。

 武蔵竹芝の善政を後世に伝えたのが菅原孝標の娘であり、菅原道眞の血を受け継ぐ者が、武蔵国に深い縁があるのは、道眞の改革の支援者が、この地にいたからだと想像できる。

 つまり武蔵国は、京都の朝廷を中心とする律令制が崩壊しているなか、独自の方法で国を治め、中央から派遣される役人と、軋轢が生じていた。

 武蔵氏というのは、奈良時代藤原仲麻呂の乱の時の貢献以降、賜った名だが、もともとは、古墳時代から続く武蔵国の国造(くにのみやっこ)の血統だ。

 この武蔵国の国造は、出雲系とされ、関東地方に多く鎮座する氷川神社を祀っていた。そして、府中の大國魂神社氏神で、天穂日命(あめのほひ)の後裔が武蔵国造に任ぜられ社の奉仕を行ってから、代々の国造が奉仕してその祭務を行ったと伝承されている。

 天穂日命という神は、神話の中ではアマテラスの子供で葦原の国の偵察に行ったのに大国主命に仕えて戻ってこなかった神で、島根の出雲大社の歴代の神官の祖でもある。そして、菅原道眞の菅原氏が改姓する前の名である土師氏の祖でもある。つまり、菅原道眞と武蔵国造の祖は、系譜としては同じ天穂日命という天孫系の神様の裏切り者である。

 武蔵国には、氷川神社を要として、古代からの聖域が、法則的なラインで結ばれているのだが、これは武蔵国造と関係している。

 そして、この法則的なラインの上に、平将門が拠点とし、最期を迎えた茨城の坂東も重なっている。

 平将門を祀る國王神社は、平将門終焉の地で、新皇を名乗って政庁を置いた岩井の地だが、武蔵国一宮の氷川神社さいたま市)と筑波山を結ぶライン上にある。

 この筑波山氷川神社を結ぶラインは富士山につながり、そのあいだに、所沢市の中氷川神社や、多摩川と秋川の合流点であるあきるの市に鎮座する武蔵国二宮の二宮神社が鎮座する。

 武蔵国造につながる豪族、武蔵武芝が源経基の賄賂の要求をはねつけ、そのため、両者のあいだでいざこざが起き、その調停に立った平将門が謀反を起こしていると、京都に逃げ帰った源経基が朝廷に報告した。しかし、そのすぐ後、常陸・下総・下野武蔵上野5カ国の国府の「平将門の謀反は事実無根」との証明書が、当時の権力者で、平将門とも関係の深かった藤原忠平へと送られことで、将門の申し開きが認められ、逆に源経基は、讒言の罪となった。

 藤原忠平は、平将門が少年期、京都にいた時に、平将門と主従関係を結んでいた貴族だった。

 藤原忠平は、菅原道眞が太宰府に左遷された時、道眞の友人であり、道眞を擁護していた。そして、道眞の死後、その祟りで次々と藤原氏の有力貴族が亡くなった後、道眞と親しかった藤原忠平が朝廷内で実権を握ることになった。生前の道眞を擁護していた ため、道眞の怨霊によって彼の子孫だけは守られるとされたのだ。

 この藤原忠平と、平将門は、主従関係にあった。

 そして藤原忠平の孫が、藤原兼家で、兼家の息子が藤原道長。教科書でも藤原氏絶頂の象徴として教えられる11世紀の藤原道長の繁栄は、実は、菅原道眞の祟りと関わっている。

 いったんは平将門の謀反の疑いが晴れ、告げ口をした源経基が裁かれたにも関わらず、その半年後、平将門が次々と関東の国府を襲撃し、「新皇」を宣言し、東国の各地域の諸官を任命したので、源経基の言っていた将門の謀反は本当だった、ということになり、源経基は、平将門討伐のため、東国に派遣される。

 平将門のこの行動は、武蔵国だけでなく、関東の各地域で、朝廷から派遣された役人と地方豪族との間で軋轢が高まり、時代の流れに逆らえなくなっていったのだろう。

 だとすると、その平将門を討伐した藤原秀郷は、何ものなのかという疑問が残る。

 藤原秀郷は、歴史的には平将門の乱のことだけ伝えられるが、その前後は、ほとんど何も残されていない。そして、奥州藤原氏や、そこにつながる皆川氏など多くの武家の祖となったことだけが歴史的には伝えられている。

 藤原秀郷のことについては別の機会に触れるとして 平将門の討伐のため、源経基の軍勢が武蔵国に到着した時にはすでに乱が平定されていたように、地方の秩序回復においても朝廷は無力になっていた。

 歴史の教科書で、藤原道長の時代が、平安時代に権力を握った藤原氏の絶頂だと教えられるが、それは正確でない。

 藤原道長の時代は、平将門の乱の後であり、朝廷の力は失墜し、菅原道眞の怨霊騒ぎによって、有力な藤原氏は次々と亡くなっていった。

 上に述べたように、藤原道長が繁栄できたのは、藤原忠平の子孫で、道眞の怨霊から守られる存在とされたことが、一因としてある。

 しかし、実際に道眞の怨霊が現れて忠平の子孫を守ると伝えたとは思えないから、当然、その仕掛け人がいる。

 藤原道長が繁栄できたのは、源満仲源頼光多田源氏)、源頼信河内源氏)が、菅原道眞の怨霊に守られるとされた藤原忠平の子孫、藤原兼家藤原道長を、他の藤原氏が没落していくなか、強力に支援していたからだ。

 結果として、藤原氏のなかで分けあっていた権益を、藤原兼家藤原道長の一族が独占していくことになるが、当然ながらその見返りも必要で、多田源氏河内源氏は、権益と権限を獲得し、実力を高めていく。

 藤原道長は、そうした歴史の流れに逆らえないことを悟っていただろう。

 道長の生涯の2度の妻は二人とも源氏の女性であり、彼は、晩年、出家した。そして、道長の死後、藤原氏は急速に衰えていく。

 自らの存続のために利用せざるを得なかった新興勢力が、その見返りを得ることで、より実力を身につけていくことは目に見えている。

 藤原道長が詠んだ「この世をばわが世とぞ思ふ望月(もちづき)の欠けたることもなしと思へば」の歌に関して、自分の栄華と満月を重ねた道長の驕りと解釈するのが通説になっているが、満月は明日から欠けていくものであり、平安時代の貴族に、その認識がない筈がない。

 空に輝く満月を見てどこにも欠けたところがないと思うことができるのであれば、我が世もずっと続いていくと思えるかもしれないが、そんなわけにはいくまい、というのが、この歌の素直な心情だろう。

 10世紀から11世紀、日本の歴史的転換期の裏側で、どのようなことが起きていたのかを知ることが、その後の歴史や、その前の歴史を考えるうえでも重要なことになる。

                                (つづく)

 

 

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第1169回 東京周辺の古代史を考えるうえで。(1) 日本の歴史を変えた騎馬技術と高句麗人。

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高麗神社(埼玉県日高市

 

埼玉県日高市の高麗神社と、神奈川県大磯の高来神社(高麗神社)は、東経139.32という南北ライン上に鎮座している。どちらも、かつて高麗人(高句麗人)が拠点としていたところだ。

 埼玉の高麗神社は、若槻礼次郎浜口雄幸斎藤実平沼騏一郎小磯国昭鳩山一郎の6人が参拝した後、首相に上り詰めたため、「出世明神」と呼ばれており、都心から離れているが、今でも参拝者がとても多い。

 神奈川県大磯の方も、明治期に総理大臣として活躍した伊藤博文山縣有朋大隈重信など8人の総理経験者が大磯に別荘や邸宅を所有するなど明治政界の要人たちが集まり、「明治政界の奥座敷」と呼ばれていた。戦後は、吉田茂も、ここに館を設け、亡くなる直前まで過ごした。

 歴史家の説では、668年、高句麗新羅・唐連合軍に滅ばされた時に、その王族・若光を中心に高麗人が相模国の大磯に渡来し、その後、716年、若光一族を含めた各地の高麗人が、埼玉県日高に集められたことになっている。

 埼玉の日高周辺には、石器時代から縄文時代の史跡が発見されているが、弥生時代古墳時代の史跡がなく、つまり耕作不適地であり弥生時代以降は無人の荒野であったため、高麗人が集団移住させられたと説明されており、南北のライン上ということは、たぶん気づいていないか、特に意味があると考えられていない。

 しかし、日本の国土は70%が山岳地であり、干拓や開墾の進んでいなかった古代においては平地の耕作可能地はさらに少なかった。そういう状況で、弥生時代以降、全ての日本人が稲作民になっていた筈がなく、山周辺を拠点に縄文時代と大きく変わらない営みを続けていた人たちがたくさんいた可能性はあり、埼玉の日高周辺が無人だったから集団移住させられたという説は、あまりにも単純すぎる。

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高麗村石器時代住居跡

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高麗川秩父を源流とし、入間川、荒川へとつながる一級河川。流域には、石器時代縄文時代からの遺跡も多い。この高麗川の流域に、高麗人の集団移住地があった。

 日高の地は、高麗川が流れており、この一級河川は、入間川から荒川へとつながっており、この両川には、縄文時代弥生時代古墳時代の史跡も多く、それらの地につながる日高は、古代から要衝の地だったはず。

 高麗人が大磯に移住したとされる668年は天智天皇が即位した年で、716年というのは、女帝の元明天皇の娘、日高(氷高)皇女が、唯一、母親から娘へ行われた譲位によって第44代元正天皇として即位した翌年である。彼女の治政において日本書紀が完成された。

 この二つの年は、古代史における一つの節目であるが、日本と高句麗人の関わりは、もっと古く、しかも、日本史全体を通じて、何度も歴史を変えた重要な出来事につながっている。

 それは、騎馬技術に関することだ。 

 日本に戦闘その他、馬の活用が輸入されたのは、4世紀終わりから5世紀に掛けて、朝鮮半島で行われた倭と高句麗の間で行われた戦争での敗戦がきっかけとされる。 この史実は、日本書紀三国史記などに記録されている。

 それまで日本(倭)の主たる戦いは、歩兵によって行われていた。

 古代、朝鮮半島は、三つの勢力に分かれていた。南の百済、真ん中の新羅、そして北が高句麗高句麗は中国北部と接しており、中国北部は、古代から騎馬民族が活動する舞台だった。

 中国の歴代王朝のほとんどが、北方の騎馬民族が南下して、その実力によって実権を奪ったものだった。

 よく知られたモンゴル民族の元だけでなく、日清戦争の頃の清は、満州人であり、南北朝時代北魏鮮卑族。秦の始皇帝も、西方の民族であり、隋や唐も、北方の民族であり、中国を制圧した後に皇帝になった時、由緒の正しい王朝にするため、中国王朝の系統の中に自分の存在を加えている。

 そして、古代、日本の情勢が大きく変わるのは、その高句麗戦争の敗戦の後の5世紀初頭であり、その時、応神天皇陵など巨大古墳が河内の地に築かれるようになり、副葬品に馬具などが加わった。

 この歴史的変化に注目して、江上波夫氏が、1948年に「日本民族=文化の源流と日本国家の形成」と題するシンポジウムで騎馬民族征服王朝説などを発表して注目された。(今ではこの説は否定されている)。

 日本全土が、大陸からやってきた騎馬民族に制服されてしまったという極端な見立てに関しては、辻褄の合わないことが多くて否定されて当然だが、5世紀に、騎馬の技術が日本に入ってきて、戦争の方法をはじめ、社会に大きな変化が生じたことは事実だろう。

 その変化に、高句麗が関わっているのだ。

 

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埼玉県日高市の高麗神社と、神奈川県大磯市の高来神社という、ともに高麗人の拠点だった場所は、東経139.32で同じである。そして、それぞれの地から東に43kmのところに東京都世田谷区の等々力渓谷があり、この湧水の地には、野毛大塚山古墳など古墳が集中している。さらに、この等々力渓谷から冬至のラインにそって多摩川沿いには、古墳が数多く築かれ、府中の国府が置かれたが、このラインは、多摩川と秋川の合流点の近くに鎮座する二宮神社奥多摩の奥氷川神社というアラハバキ神の聖域をつないでいる。また、等々力渓谷の真北、杉並区の大宮八幡宮を通って、武蔵国一宮の氷川神社さいたま市)に至るが、ここもアラハバキ神の聖域である。この氷川神社と府中の国府を結ぶ線の延長で、大磯と日高を結ぶラインと交わるところに小野神社(厚木市)が鎮座するが、ここもアラハバキ神の聖域で、ここから南の伊勢原市にかけて、石器時代縄文時代からの遺跡が多い。

 

 そして、大磯の高来神社と、日高の高麗神社から43kmのところに、東京の等々力渓谷があり、この周辺に古墳が数多く築かれている。

 この等々力から冬至のラインにそって府中まで、多摩川沿いに古墳がずらりと並び、府中に武蔵国国府が置かれたこと。さらに、このラインは、奥多摩の奥氷川神社まで伸びているが、このライン上に、アラハバキの聖域が幾つか見られること。

 さらに、等々力渓谷の真北に、東京のヘソとされ弥生時代の祭祀場の上に築かれた大宮八幡宮が鎮座し(周辺は、石器時代縄文時代の史跡の宝庫)、さらにその真北が、武蔵国一宮でアラハバキ神の聖域でもある氷川神社さいたま市)であること。

 さらに、大磯の高来神社と日高の高麗神社を結ぶライン上の厚木の小野神社も、あきるの市の二宮神社も、アラハバキ神の聖域であること。

 こうして見ていくと、高麗人の拠点が、縄文時代と関係があるとされるアラハバキ神の聖域や、古代武蔵国の要の地と深く関わっていることがわかる。

 アラハバキは、縄文人が祀っていた神というより、縄文人と後からやってきた人々のあいだに接点があった場所で、後からやってきた人々が、先住の人々の信仰をアラハバキとして残したのではないかと思う。ゆえに、アラハバキの聖域は、客人、まろうどと名付けられていることが多い。マレビトに関係する場所ということだろう。

 東北や関東は、縄文時代の痕跡が数多く残っている。彼らは、狩猟採集を営みの中心にしており、弥生時代が始まって水田耕作が始まってからも、古代から続けてきた営みを続けていた人は多かっただろう。なにせ日本は国土全体の70%を山岳地帯が占め、干拓の進んでいなかった昔は、さらに農耕可能な平地は少なかったはずだ。

 縄文時代からの営みを続けている狩猟採集民の方が、農耕民よりも、馬の扱いが上手だったと言えるかもしれない。

 岐阜県の木曽や、長野の伊那、甲斐など、かつて縄文王国とされた地域に名馬の産地が多い。また、東北地方において、5世紀後半というかなり古い時代に馬飼いの資料が残っているのだが、蝦夷が、優れた乗馬や騎乗での高度な騎射技術を持ち、それが、後の時代の武士の技術として磨かれていったことは歴史的事実だ。

 また、平安時代、京都から離れた関東において、勇猛で知られた坂東武士は、馬を駆けさせながらの騎射の術など、馬での戦いが得意だった。平治の乱の敗戦の後、伊豆国へ配流されていた源頼朝は、北条時政などの坂東武士らと組んで、平家打倒の兵を挙げて勝利した。 その勝利の立役者であった源義経は、馬の機動力を最大限に発揮し、短期間の長距離移動と奇襲攻撃による騎兵の力で、敵を翻弄した。

 高麗人との関わりの中で、日本の中に浸透していった騎馬の技術が、日本史を大きく変えていったのだ。

 高麗人が、日本にやってきたのは、歴史書では、高句麗が唐と新羅に負けた668年ということになるが、それよりも250年前、高句麗との戦争に破れたことがきっかけで、当時の日本人は、馬の活用の必要性を痛感したわけだが、馬の飼育や騎馬の技術などの獲得のため、高麗人の力が必要だったはずだ。

 江上波夫氏の騎馬民族征服王朝は極端な説であるが、騎馬の知識と技術をもった勢力が優勢だったと考えることは自然なことで、どういった勢力が、どのように高麗人と関わりを持っていたのかを探ることは、日本の古代史において、重要な鍵になるのではないかと思う。

 

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第1168回 目の焦点と、心の焦点。

 

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富士ヶ嶺から望む富士山

 

 

富士山と、富士山周辺の聖域をピンホールカメラで撮ると、確かに、その霊気が針穴の中に忍び込んでくるような気がしないでもない。

 最近、私のピンホール写真を見た写真家の水越武さんから写真の焦点について問いを投げかけられたが、たとえば霊気というものがあるとして、それは、どこか具体的な場所にピントを合わせて確認できるものではない。

 霊気は、気配と言い換えてもいいのだけれど、現実世界においては、「気配」は実態のないものとして無視される。 ゆえに、カメラメーカーは、実態のあるものを鮮明に映し出すことに全力を尽くして新製品を作り出している。

 しかし、気配というものは、生きていくうえで無視できるものではない。

 人と接するうえでも、学歴とか地位とか、明確に形に現れているものを重視する人もいるが、その人が醸し出している雰囲気(気配)に惹かれたり、場合によっては騙されないように警戒したり、ということがある。

 なんとなくわかる、なんとなく感じる、というのは、人間に限らず野生動物にとっても生きていくうえでとても大切な力のはず。 姿形のはっきりとしたものにばかりに意識を傾けてしまうと、気配とか雰囲気を読み取る力を劣化させてしまうかもしれず、それは、生命力を低下させることと同一かもしれない。

  ピンホールカメラで撮ると、高性能デジタルカメラの鮮明な画像と違い、朧な画像となる。

 しかし、画像がくっきり鮮明であるということと、”焦点”が合っているというのは、同じこととは言えない。

 焦点には、目の焦点と、心の焦点がある。

 カメラやレンズの技術が発展して、スマホで撮ろうが、コンパクトデジカメであろうが、目の焦点を合わせた、くっきりと鮮やかな写真というのが当たり前になっている。

 昔であれば、写真を撮るにあたって瞬時に目の焦点を合わせることじたいが高い技術を要求されたが、現在では、そんなことは機械任せで誰でも撮れる。

 しかし、写真にかぎらず、絵画でもそうだが、重要なことは、目の焦点よりも心の焦点を合わせることだ。

 西欧人は、人と話す時は、目と目を合わせることが必要だと考える。

 古代ギリシャの芸術から、西欧文化においては、視覚的な明晰さを重要視する傾向が強い。

 しかし、日本においては、相手の心情を察して、あえて目を合わせずに対応するという心遣いがある。

 平安時代の男女は、顔を合わさずに対話を行なっていたが、目に見えないぶん、心の焦点を合わせることに、意識を集中していたことだろう。

 心の焦点を合わせるためには、被写体と自分の心の距離が、適切でなければならない。

 自我が強過ぎて、被写体を自分の表現のために利用するだけだと、心の焦点は近くなりすぎ、そのアウトプットは私的なものにすぎなくなる。

 被写体に対して関心が弱いまま、シャッターを何枚も切っているだけの写真は、心の焦点が遠過ぎて、テーマがぼやける。(何を伝えたいのか、さっぱり伝わってこない)。 

 絵画を観る時に心が動かされるかどうか決定するのは、画家の心の焦点であり、画家の心の焦点が、どこまで深く世界の真実を捉えているかによって、感動が違ってくる。

 最新のカメラを使えば誰でも簡単に決定的瞬間を撮れるようになった今、写真は、撮影者の心の焦点が問われる段階に来ている。

 心の焦点とは、世界(他者や被写体)のどの部分に、どのくらいの深さに、焦点を当てているか、ということになるだろう。

 

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白糸の滝

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青木ヶ原樹海

 

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青木ヶ原樹海


 

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第1167回 東京オリンピックが浮かび上がらせたもの

女子バスケットボールの試合が始まってすぐ、日本の選手たちと、2mを超える選手のいるアメリカチームとの体格差が大人と子供のように違いすぎていたので、50対100くらいの点差で負けても仕方がないと思ったが、75対90と、そんなに差が開かなかった。

  また、陸上の女子長距離で、日本人選手がゴールした順位は7番とか8番だったけれど、先着したのはアフリカの選手ばかりで、腰の高さやストライドの大きさが日本人とはまったく違う体格。にもかかわらず、小さな日本選手が集団の先頭を走り続けてペースを作っているということに驚いた。

 昔、日本選手がマラソンなどで活躍していた時があったが、当時は、アフリカ選手が、まだ本格的なトレーニングを積めていない時で、現在、トレーニングの環境を整えたアフリカ選手は、陸上の長距離種目では圧倒的に強い。

 彼らの身体を見ていても、足が長く全身がバネのようで、体格的に劣る日本人が勝てそうな気がまったくしないけれど、対等に渡り合えていることじたいがすごい。

 勝負に勝つか負けるか、というのは選手にとって大事なことだろうが、それを見させてもらう方は、体格差のハンデがあったり、不利な条件があったり、過酷すぎる試練があるなかで、それを乗り越えるための必死の姿と、それが結果的にうまくいかなかった時の潔い態度が、心に響いてくる。

 そういう選手たちの素晴らしい活躍を観た後、閉会式で、バラバラのダンスとかパフォーマンスを長いあいだ観せられて、なんだか気の抜けたビールを飲むような気分になった。

 とくに、新体操のチーム競技における、ものすごく困難な、究極ともいえる調和の演技を見た後は、特にそれを感じさせられる。

 公園での遊びがコンセプトのようだが、コンセプトから入る広告代理店的発想が、ああいう演出になるのだろうなあと改めて思った。

 個人が邪念を持たずに全力を尽くすことで、結果的に、人々の心を打つ世界が生まれる。

 それに対して、人々に受けそうなコンセプトを作って、そのコンセプトに合いそうな人を寄せ集めるという商業主義世界のなかの物作りの方法しか頭にない人々がいる。

 今回のオリンピックは、大会前の様々な不祥事の下劣さや低俗さと、選手一人ひとりの真摯さ、潔さ、清々しさの違いが、鮮明なまでに浮かび上がった舞台だった。

 そして、オリンピックに便乗して、組織委員会に莫大なお金を支払ってスポンサーとなり、ゲームの合間にコマーシャルを打ち続けた企業。

 今までも同じだったのだろうが、今回は、なんだか妙に違和感を感じた。ワンパターンの、「うまい!」しかやらないビールの宣伝などが顕著だが、安易な便乗態度が鼻につくからだろうか。コロナ禍での開催であっても、企業としての工夫も努力の跡も見られない。おそらく、広告代理店任せの宣伝なのだろう。

 さすがにトヨタは企業名や商品名を連呼する宣伝の必要のない大企業だからか、今すぐには商売に結びつかない水素自動車の認知拡大につとめていた。広告代理店の発想ではなく、おそらくトップを中心とした会社の方針が明確なのだろう。

 日本人は、ありのままの自分を潔く受け入れ、その限界のなかで、やるべきことをやろうと真摯に打ち込む時、世間の”受け”を基準にするのではなく、自分自身の中の誠実さを基準し、とても美しく、気高い存在になるのだけれど、組織や業界の論理に縛られ、様々な因習によって成り立つ村社会を保身の場にした瞬間、基準が周りの目となり、虚栄やメンツを肥大化させ、くだらないパフォーマンスで世間の受けを狙う下卑た存在になってしまう。

 名古屋の河村市長の金メダル噛みつきという醜悪な絵が、今回のオリンピックを典型的に象徴している。

 選手の努力の結晶を、自分の宣伝、虚栄、利益などに結びつけようとする醜悪な面々が、これまでは比較的陰に隠れることができていたが、今回は、とても目立ったオリンピックとなった。

 

 

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第1166回 見えるものと見えないものの間

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足摺岬 竜宮神社

 

 日本は、アメリカや中国などに比べると小さな島国ですが、北から南まで長い国で、その自然や文化の多様性は、無限とも言えるほどの豊かさがあります。

 現在、私が取り組んでいる「 Sacred world 日本の古層」のプロジェクトで、ピンホール写真で撮った訪問地域が広がってきたので、ピンホール写真紹介のWEBSITEを更新しました。

 https://kazesaeki.wixsite.com/sacred-world

 

 私は、長年、優れた写真家の仕事をそばで見てきましたが、個人的に、ピンホールカメラという道具を愛好しているわけではありません。

 しかし、今、取り組んでいるプロジェクトにおいては、ピンホールカメラで試みるのが、もっとも相応しいと考えています。

 なぜなら、

「未来も過去も、目に見える世界の基準を超えたところに存在している。そのため、目に見えている物に意識を限定させる映像ではなく、見えているものと見えていないものの間の微妙な領域に対する想像力を養う映像が、過去と現在と未来の橋渡しになる。」と考えるからです。

 私が、古代世界を自分に引き寄せたいのも、古代マニアだからではなく、古代と現代と未来は、決して断絶しているわけではないと考えるからです。

 そして、未来は、現代の基準の延長ではありません。現代の基準や価値観の範疇でやっている限り、「新しい」という言葉で表現されるものも、すべて、「現代」のコピーです。

 過去においても、現在の価値観や基準を当てはめて分析してしまうと、見誤ったり、見落としたりするものが増えます。

 考古学の成果は素晴らしいですが、気をつけなくてはいけないと思うのは、発掘された遺物における実証主義だけをもとに過去を分析しようとすることには限界があるということです。

 現在という時代一つを考えてもわかりますが、私たちの周辺には、膨大な物が存在しています。

 これらの多くは、長い時間の経過のなかで、当然ながら朽ち果ててしまい、ごく一部だけが、未来の人間によって発掘される。

 その時、電気製品やコンピューターが発見されても、それがどういうものだったか、未来の価値観で分析するのは簡単ではないでしょう。

 海に沈んだ軍艦が発見されれば、未来の人間にとっても、戦争のことは理解できます。

 しかし、第二次世界大戦など大きな戦争があったということは、とても重要な歴史的事実ですが、それよりも重要なことは、その戦争を人間がどう受け止めて、その戦争の後に、どういう価値観の時代が築かれたかです。

 これは、未来の人間にとっても同じでしょう。

 私たちが、古代を考える時も同じで、考古学的な発見や記録をもとにヤマト王権とそれ以外の勢力の戦争を時代ごとにつないでいくと、古代の歴史の変遷が理解できたかのように錯覚してしまいますが、それは、この100年の歴史にあてはめると、日清戦争日露戦争第一次世界大戦第二次世界大戦があった、という理解でしかなく、第二次世界大戦後の複雑な世界は、とうてい理解できません。

 過去や未来のことは、現在、目に見えていることや、理解できていることを元に、判断はできません。

 いずれも、見えているか見えていないかわからない微妙な領域に存在しています。

 そして、その微妙な領域に対する想像力を養うことでしか、未来や過去は、自分に引き寄せられないでしょう。

 引き寄せたところで、理解できるものでないかもしれない。 

 しかし、理解できなくても、それらに対する心構えは、整えられるかもしれない。

 人が生きていくうえで大切なことは、おそらく、何事においても、わかったつもりになることではなく、わかるようでわからないことに対する心構えを整えることであり、それに対する作法を身につけることで、その心構えは、より整えられていくと思われます。

 ピンホール写真というのは、わかるようでわからない領域に対する一つの作法なのです。

 

 「Sacred world 日本の古層」は、ホームページだけで販売しております。(税込、発送料込み1300円)

 https://www.kazetabi.jp/

 

 

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第1165回 偶然と必然は糾える縄のごとし

 

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事任八幡宮 (静岡県掛川市


偶然と必然は、糾える縄のごとしであり、偶然だったことも、後から思えば必然だったのかと思わされることが多い。

 昨年の冬、京都から東京に移動する時、出発の前日までは長野経由を考えていたが、大雪で道路の状況に不安があったので、東海道を通ることに変更した。

 東海道を通るのならば、ただ車で走るだけではつまらないので、どこかに寄り道をしようと考えた。ちょうど数週間前、写真家の水越武さんと、北海道の積丹半島を一緒に旅していて、水越さんは愛知県出身で、水越さんのことを思い出して、東三河の霊山である本宮山に登ろうと計画した。

 そして、麓の新城に一泊した時、宿の近くに縄文から弥生へと続く遺跡があり、弥生遺跡の上に石座神社が鎮座し、その鳥居をくぐってすぐのところに、アラハバキ神が祀られていた。

 その時は、とくに深くは考えなかったが、その後、本宮山に登ったら、山頂のところに、アラハバキ神が祀られ、すぐそばに巨大な磐座があった。さらに、麓の、三河一宮である砥鹿神社にもアラハバキ神が祀られていた。

 水越さんと一緒にまわった小樽や余市周辺には、環状列石がたくさんあり、ここにある金吾龍神社が、アラハバキ神の本拠とされている。そして、これらの環状列石群から真北のラインにそって、北海道、そして東北の奥羽山脈にそって、縄文遺跡、環状列石、アラハバキの聖域が数多くある。

 このように東北や北海道に多く見られ、縄文との関連が考えられるアラハバキ神が、東三河の重要な聖域に祀られていることを初めて知った。

 そして、本宮山から東に向かうにあたって、そのまま車通りの少ない山沿いのクネクネ道を東に進もうと考え、掛川の阿波々神社という粟ヶ岳の山頂付近に巨大な磐座祭祀場があることを知っていたので、通り道にあたることもあり、ひとまずそこを目指した。

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阿波々神社 (静岡県掛川市

 そして車を走らせていると、ふと数年前、屋久島の写真家の山下大明さんの写真展が掛川の隣の袋井で野草社の主催で行われ、その時に観に行ったことを思い出した。野草社の代表の石垣さんとは、2年前、私が関わった大山行男さんの写真集「神さぶる山へ」でも縁があり、京都の私の家にも来ていただいた。石垣さんは、かなり霊感の強い方で、電話などでもそういう話をすることがあるのだが、その石垣さんが、掛川の事任八幡宮をとても大事にしているということを思い出した。袋井に会社を作ったのも、この神社が一つの縁だという話も聞いていた。

 それで、通り道から少しだけ逸れるということもあり、事任八幡宮にも足を伸ばした。そして、その後、粟ヶ岳の阿波々神社が、この奥宮に当たり、さらに、二つの神社が、南北のライン上にあることに気づいた。粟ヶ岳は、南アルプスの一番南の端に位置しているので、この南北ラインは南アルプスラインでもあるわけで、ならば、その北に何があるのか確認したら、ゼロ磁場で知られる分杭峠諏訪大社戸隠神社という聖域が並んでいた。

 これは何かあるぞと直感し、さらに、このラインが銅鐸の東限と関係していると発見し、阿波々神社の祭神の天津羽羽神の別名が阿波姫であることなどから、三河と四国との関係が気になり始め、四国を旅した。

 四国で天津羽羽神を祀っている聖域が、土佐の朝倉神社だが、このあたりも歴史的に実に不可思議なところだった。

 

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朝倉神社は、背後の赤鬼山に鎮座していた。その麓に朝倉古墳がある。(高知市

 土佐は、縄文から弥生までは、日本でも最大級の田村遺跡というのがある。そして、銅鐸の西限である。

 この土佐で栄えていた文化は、弥生時代後半で、ぷっつりと途切れる。土佐は、日本の都道府県のなかで、岩手より北の地を除けば、前方後円墳がない唯一の場所である。

 そして、土佐一宮土佐神社の祭神は、出雲の神々である。さらに、地方神にも関わらず、畿内の王権からは、大神として特別視されていた。

 さらに、古代の資料で、土佐の国造と、阿波の国造が同族だとわかった。

 ならば、阿波にも、天津羽羽神の聖域があるだろうと探したら、吉野川の日本最大の川中島である善入寺島に、かつてはあった。もともとこの川中島は、明治までは粟島という名で、3000人もの人が住むところだったが、明治維新の後、住民は退去させられ、聖域は破壊された。

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吉野川に浮かぶ日本最大の川中島、善入島。(徳島県吉野川市

 この聖域は、阿波青石と言われ、徳島地方の古墳の石棺などにも用いられている緑色片岩の岩盤の上に築かれていた。

 今では、立ち入り禁止の荒れた竹やぶになって、聖域の面影がまったくない。

 天皇の神格化が行われていく時代に、あまりにも強引なやり方で、歴史の闇に葬られている。天皇の神格化にとって、あまり好ましくない歴史でもあるのか?

 縄文から弥生、そしてヤマト王権の時代へと移っていくなかで、表から裏になったものがある。

 裏になったものは、完全に消えてしまったのではなく、むしろ、堂々とした形で、地元の人々に大切にされる形で残り続けてきた。

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吉野三山に鎮座する波宝神社。(奈良県五條市)。ここにも、かつて天津羽羽神が祀られていた。

 

 出雲の神々を祀る土佐神社は、中世も、そして今でも、地元では大切な聖域だし、掛川の事任八幡宮も、「事のままに願いが叶う」などとされ、参拝者が非常に多い神社である。

 祟り神の菅原道眞を祀る天満宮が、学問のための聖域となったり、東大阪にある石切神社は、物部氏の聖域であるが、腫れ物を治す神様として全国的にその名を知られて、毎日のように大勢の人が熱心に百度参りを行っている。百度参りとは、本殿前でお参りして、入り口に戻り、再び本殿前でお参りすることを百度繰り返すこと。

 こうした例はいくらでもあるが、歴史の裏にまわったものは、生き残りの戦略なのかどうかわからないが、奇妙な変容を遂げて、人々の心を掴み続けている。

 そして、人々は、その本来の姿を、あらためて考えることはない。

 なので、普通に、それらの聖域に足を運ぶだけだと、聖域に記された情報じたいが曲げられているので、何もわからない。

 真相に近づくためには、その場所と、他の場所とのつながりを通して、洞察していくしかないのだ。

 しかし、このつながりは、計画的に見出していくことは難しい。なぜなら、上に述べたように、大事なところが破壊されていたり、本来のものが、裏のひそやかなところに隠れていたりするからだ。表の立派な本殿だけを見ていても、何もわからないし、裏の情報は、あまり伝わってこない。

 そうした状況で、裏をつないでいく力は、偶然と必然が織り成す縁の力であり、この縁の力は、いったいどこからやってきているのか不思議な気持ちになることが多い。

 そうした不思議が続くと、自分の意思や欲求で動いているのではなく、何ものかに動かされているような感覚になってくる。

 

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