第1665回 いつ何が起こるかわからない世界だから。


15年前の3月11日を境に、人生が大きく変わった人は数多くいる。そうした人たちの心の変化や生き方の変化が、少しずつ積み重なって、今後の日本に少なからず影響を与えることになると思う。
 あの震災の後、被災地で多くの人の話を直接お聞きしたが、いつまでも切ない思いが胸の中に残り続けたのは、名取市の閖上で亡くなった一人の方のことだった。
 訪問介護の仕事をされていたその方は、大地震が起き、津波警報が出た時、海岸から遠い場所で仕事をしていた。しかし自宅は海岸の近くにあり、子供たちのことが心配でならなくなった。車を走らせ、自宅へ向かう途中で、津波に巻き込まれた。子供たちは安全な場所に避難していて無事だったが、自分たちを思って亡くなった母親のいない人生を、生きることになってしまった。
 訪問介護をしていた場所にとどまっていれば、命を落とすことはなかった——当事者でない人間は、いくらでもそう言うことができる。しかし、子供たちが心配でならないという、胸を締め付けるような気持ちは、その場にじっととどまることを許さない。人間の心は、そのようにできている。
 それはわかっていても、なんともやりきれない切なさが、自分の中に残り続けた。でも、残り続けるということは、その方の魂が生き続けているということだと思う自分もいる。
 人は、いずれ誰でも死ぬ。生まれたばかりで目も見えず、身体も自分では動かせない赤ん坊が、ぐっすりと眠りながらちゃんと呼吸をしているのを見ると、不思議な気持ちになることがある。生命は驚くべき精密さで機能しているが、ちょっとしたことで、そのまま目覚めないことがあっても、不思議ではないとも思う。
 現代社会は、緻密な論理を駆使したテクノロジーに大いに依存している。けれど日本人は、心のどこかで「とはいえ、いつ何が起こるかわからない」という気持ちを抱えている。だからアメリカ人のように、借金をしてでも消費にお金を使うことはできず、コツコツと貯める人が多い。そのためアメリカ経済は常に活性化し、日本経済は消費が伸びない、などと経済の専門家は解説する。
 東北大震災の後、私は、雑誌『風の旅人』の編集テーマを「震災後の世界」に絞って7冊編み、7冊目の第50号の巻末に次号の告知として「もののあはれ」を掲げた。しかし、できなかった。 
 形あるものはすべて消えゆく。その過程をしみじみと味わい、執着を手放すこと——この物質文明に毒された世界では、大切な理念のように思えなくもない。しかし、それだけでは何かが欠けていると感じた。
 日本文化の軸になってきた「もののあはれ」は、その程度のものではないはずだ。先人たちは、もっと深いところで考えていたのではないか。
 中途半端な気持ちのまま作るのではなく、「もののあはれ」を徹底的に掘り下げる必要がある。それが動機になって、現在まで日本の古層に向き合い続けている。
 この取り組みで私が解き明かしたいのは、歴史の謎ではない。大自然の猛威の前に無力でしかない人間が、それでも尊厳を取り戻すために、先人たちはどのような知恵を持っていたのか——そのことだ。ただ無力感に打ちひしがれるだけでは、ニヒリズムに陥り、無気力になるか頽廃するか、どちらかしかない。そんなところに、美意識は育たない。
 子供たちを思うあまり、あえて海岸線へと向かい、津波に巻き込まれた母親。理性的な人からすれば、賢明な行動をとれなかった人ということになるだろう。しかし、賢明な振る舞いが、後々まで人々の心に残るとは思えない。
 神話や伝承で人々の心を惹きつけるものの大半は悲劇であり、それは賢明さとは真逆の、愚直さや誠実さによるところが多い。神話や伝承の中で、賢明さはしばしば狡さと結びついている。
 「もののあはれ」は、分別で論じるものではなく、生き様で示されるものだ。
 「いつ何が起こるかわからない」世界において、だからといって保身に回るのではなく、何が起きてもじたばたせず、潔く振る舞えるように心を澄ませておくこと。
 千利休が、わがままな権力者だった秀吉から切腹を命じられても怯まなかったのは、そうした心の準備ができていたからだろう。
 いつ死んでもいいような心の準備。「もののあはれ」の文化の真髄は、きっとそこにある。

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第1664回 歴史を動かす陰の力

歴史の表舞台に立つのは、常に「王」や「将軍」だ。しかし、王が権力を掌握したり持続させるためには、必ずその背後に、実務的な力を持つ集団組織が必要になる。軍事力だけで広大な地域を統治することは、いつの時代も不可能に近い。
 国家や大企業のトップが「権力者」として可視化される一方で、現実の社会を動かしているのは、しばしば異なる組織・地域・文化の「あいだ」に立つ人々だ。業界をまたぐ調整役、プラットフォームの設計者——彼らは表舞台に立たないが、ネットワークの結節点として、社会の構造を実質的に形成している。
 この構造は、現代に限った話ではない。古代史を丹念に読み解くと、日本の二つの重要な転換点に、表舞台には出ないある勢力の影が、くっきりと浮かび上がってくる。

九州の石が、なぜ大王の棺になったのか

 継体天皇と推古天皇——日本古代史において、いずれも大きな転換点に立った二人だ。
 第26代継体天皇は507年頃に即位した。武烈天皇が子を残さずに亡くなり血統が断絶したため、継体天皇は事実上の初代天皇とも位置づけられる異色の君主だ。
 推古天皇は593年に即位した日本初の女性天皇だ。蘇我氏の傀儡政権とみなされることもあるが、39歳で即位してから35年間、遣隋使の派遣・仏教の振興・17条憲法の制定・冠位十二階の制定など、日本史上重要な政策を次々と実行した。近年では、聖徳太子像の見直しや、蘇我馬子が葛城の領地を求めた際に推古天皇がこれを拒否したという記録などから、推古天皇自身の主体性が再評価されている。
 この二人の石棺が、ともに熊本の宇土の馬門から産出する阿蘇のピンク石(阿蘇溶結凝灰岩)で作られている。


 継体天皇が即位した西暦500年前後から推古天皇が即位した西暦600年頃まで、畿内の奈良盆地を取り囲む有力豪族の古墳、そして近江の三上山の麓の二基にも、阿蘇のピンク石を石棺の石材として使った古墳がある。興味深いのは、阿蘇のピンク石を使った王の石棺が九州では見られず、主に近畿(中国地方に僅か)に限定されていることだ。産地から遠く離れた場所でのみ、この石材が使われている。

 宮内庁は継体天皇陵を太田茶臼山古墳(茨木市)に治定しているが、考古学的な見地からは、この古墳は継体天皇の時代より100年ほど古い。専門家のあいだでは、約1.6km東の今城塚古墳が真陵と判断されている。
 推古天皇については、『古事記』に「大野岡上」から「科長大陵」への改葬の旨が記されており、最初の陵墓とされる植山古墳(奈良県橿原市)の石棺が、阿蘇のピンク石で作られている。いずれも宮内庁が治定していない古墳が専門家によって真陵と判断され、そこからピンク石の石棺が確認されているのだ。
 なぜ、九州・熊本の阿蘇で産出される石材が、畿内の大王・女王の棺として選ばれたのか。九州の石材を調達し、海路で畿内まで運搬できるほどの、強力なネットワークと実力を持つ集団の存在——そこに謎を解く鍵がある。

「額田部」という名前が結ぶ点と線

 その手がかりは、推古天皇の本名にある。
 推古天皇の諱(いみな)=本名は「額田部(ぬかたべ)」という。通説では、推古天皇の養育に携わった氏族が額田部氏とされているが、古代日本には「母方養育」の慣習があったことから、推古天皇の母・堅塩媛(きたしひめ)の母が額田部氏だった可能性がある。堅塩媛の父は蘇我稲目だが、母親については、どの文献にも記録が残っていない。 
 一般的に蘇我稲目は、娘を欽明天皇に嫁がせたことで実力者になったとされているが、欽明天皇には、堅塩媛の母方の実家の力が必要だったという見方もできる。欽明天皇は、新羅に奪われた任那の奪還を遺言にまで残したほどであり、海の向こうの新羅と渡り合う実践的な力を求めていたからだ。
 この仮説を傍証するのが、欽明天皇の時代(6世紀後半)、出雲(島根県松江市)に築かれた岡田山1号墳から出土した鉄刀の刀身に、「額田部臣(ぬかたべのおみ)」という銀象嵌の銘文が刻まれていたことだ。「臣」は当時の政権内で有力な勢力に与えられた役職名だ。
 出雲は敵国・新羅と対岸の位置にあり、日本の前線基地ともいえる場所だった。額田部氏がその地で「臣」として活動していた事実は、単なる技術集団を超えた政治的・軍事的な役割を示唆している。
 そして、奈良時代の文書『正倉院丹裹文書』の一文には、「肥後国宇土郡大宅郷戸主額田君得万呂…」という記録がある。
 阿蘇のピンク石の産地に近い熊本・宇土に、額田君(ぬかたのきみ)という姓を持つ人物が実在した証拠だ。
 こうして「額田部」「阿蘇のピンク石」「宇土」「出雲(対新羅の前線)」「継体天皇」「推古天皇」という点が、一本の線でつながってくる。

継体天皇の背後にも、額田部氏の影

 継体天皇においても、額田部氏との接点を示す痕跡がある。
 奈良県大和郡山市の額田部には、額田部狐塚古墳がある。この地は、額田部氏の氏寺として知られる額安寺のある場所だ。
 この古墳から出土した埴輪が尾張系であるという点が注目される。継体天皇の最初の妃は尾張目子媛であり、継体天皇の擁立に関わったとされる勢力は尾張・近江・山城・摂津に広がっていた。この系統の埴輪が大和で確認されるのは額田部狐塚古墳が初出とされ、被葬者が継体天皇を支えた人物に連なる可能性が指摘されている。
 継体天皇(507年頃即位)と推古天皇(593年即位)は、時代こそ約80年離れているが、どちらの「背後」にも、額田部氏と思われる痕跡が浮かび上がる。
 興味深いことに、継体天皇が二番目に築いた筒城宮(京田辺)の真南に、額田部氏の氏寺である額安寺があり、一番目の樟葉宮と、三番目の弟国宮の真南に、平群氏と紀氏の共通の祖を祀る平群坐紀氏神社が鎮座している。
 平群氏と紀氏は、婚姻を通じて額田部氏と同族である。

馬・鍛治・水運——三つの実力が示すもの

 額田部氏は、単一の血族集団ではなかった。
『新撰姓氏録』には、5世紀初頭、東漢氏の祖・阿知使主とともに渡来系技術者たちが来日した記録があり、そのなかに額田村主がいた。須恵器の製造や鍛治と深く関連する技術者集団だったと考えられている。
 また、雄略天皇の時代に大臣として活躍した平群真鳥の弟・早良宿禰は、母の氏である額田首を名乗り、生駒で馬を養育して天皇に献上したことで馬工連の姓を賜ったという記録が残っている。これは額田部と平群が婚姻によって同族になっていたことを示しているが、平群氏はさらに海人の紀氏とも同族だ。
 奈良県生駒郡平群町、竜田川沿いには平群坐紀氏神社という名神大社が鎮座し、紀氏の氏神として平群氏の祖・木菟宿禰が祀られている。その近くに築かれた三里古墳(6世紀後半)は、紀氏の拠点・紀ノ川下流域に特徴的な石棚付石室を持つ。
 こうした痕跡から、海人の紀氏・馬飼の平群氏・須恵器と鍛冶の技術を持つ額田部氏は、婚姻を通じて一つのネットワークを形成していたと考えられる。
 馬は軍事力と情報伝達の基盤、鍛治は武器・農具・船具の生産基盤、水運は物流と人的ネットワークの基盤だ。この三つを掌握することは、当時の権力構造において決定的な意味を持つ。
 阿蘇のピンク石を九州から畿内まで運搬するためにも、まさにこの水運ネットワークが不可欠だった。

「仲立ちの神」と「和をもって尊し」

 しかし、額田部氏の本質は「実力」だけではなかった。
『新撰姓氏録』には、摂津国の「額田部宿禰」や「倭文連(しとりのむらじ)」の祖神として、天伊佐布魂命(あめのいさふたまのみこと)が記録されている。この神は機織りの神であり、建葉槌命(たけはずち)と同一、あるいは系譜上の連続とする説がある。
 古事記の国譲りは、広く知られており、大國主命と事代主神が、武甕槌神の前の提言に同意する形をとっている。 
 意外と知られていないのが、日本書紀の国譲り神話では、その続きがあること。武神の武甕槌神でも服従させられなかった星神「香香背男(カガセオ)」を、建葉槌命が屈服させることで、ようやく国譲りが成し遂げられたとされている。

大甕神社(茨城県日立市)。日本書紀の中の国譲りの最終局面は、織物の神であるタケハズチが、星神のカガセオを説得して服従させるのだが、その象徴的舞台が、大甕神社。 この神社の境内には巨大な岩塊があるが、この岩塊が、服従することになったカガセオの荒魂が宿る宿魂岩で、そのてっぺんに、タケハズチを祀る本殿が築かれている。

 軍事力ではなく、織物が縦糸と横糸を結ぶように異なる勢力を結びつける調停の力——それが建葉槌命の象徴だ。歴史的にも、建葉槌命の後裔とされる倭文氏の役割は、揉め事の「仲立ち」だったとされる。
 だとすれば、同じ祖神の系統を持つ額田部氏も、馬・鍛治・水運という実力を背景にしながら、軍事的征圧ではなく調停・仲立ちという方法で秩序を作り上げることを、自らの役割としていたと考えることができる。
 そのことを最も強く示唆するのが、推古天皇の時代に制定された17条憲法の第1条と、第17条だ。
 一曰く、 和をもって尊しとし、むやみに反目し合わないのを教義とせよ。
 十七曰く、人夫の事がらの独断はよくない。
 
丁未の乱—宗教をめぐる争いではなく、独裁と独断を阻止する戦い

 この視点から、587年の「丁未の乱」を読み直すと、新たな意味が見えてくる。
 一般的にこの戦いは、仏教受容を推進する蘇我馬子と、日本古来の神々を重んじる物部守屋の宗教的対立として説明される。しかし、この戦いのきっかけは、物部守屋が支援する穴穂部皇子が、敏達天皇の崩御後に皇后・炊屋姫尊(かしきやひめ)——すなわち額田部皇女、後の推古天皇——を犯そうとしたことだった。
 これは単なる性暴力ではなく、炊屋姫尊の背後にある額田部氏の力を奪い、独裁者になろうとした行動だったと思われる。それゆえ蘇我馬子は「世が乱れる」と憂慮し、物部守屋は穴穂部皇子と連携した。
 仏教をめぐる問題は、単なる宗教上の対立ではなかった。同時代の中国では、北魏から隋へと王朝が変わっていたが、その後の唐も、少数民族の鮮卑族が行政の担い手だった。
 北魏を建国した鮮卑族は、国内の部族間対立を緩和するために仏教を保護し、莫高窟や雲崗・龍門の石窟寺院を築いた。この北魏から唐までが、中国における仏教文化の最盛期であり、「仏の前に平等」という理念が、異なる神々を掲げて対立する勢力の争いを鎮める力として機能した。
 日本においても、「仏の前に平等という理念」を取り入れようとする勢力と、それを拒絶して独裁を目指す勢力との対立——その本質はそこにあった。物部氏と穴穂部皇子が滅ぼされた後、仏教の振興と17条憲法の制定が同時に行われたのは、その帰結だった。

ニニギとコノハナサクヤヒメ——神話が語る統合の理念

 ここで視野をさらに広げると、古代日本の「統合の理念」が神話の形で語られていることに気づく。

 阿蘇のピンク石を産出する熊本の宇土の馬門は、緑川の河口域に位置しており、緑川の上流域には天孫降臨の舞台・高千穂がある。さらに興味深いことに、宇土の馬門、ニニギとコノハナサクヤヒメが出会った場所とされる延岡の笠沙山、二人の陵墓治定地である西都原古墳群、二人を祀る霧島神宮が、地図上に精緻な距離関係で配置されている。
 宇土の馬門から笠沙山・西都原古墳群・霧島神宮までがいずれも93kmであり、西都原古墳群から笠沙山および霧島神宮までがいずれも57kmだ。

 西都原古墳群は日本最大の古墳群で、4世紀初頭から7世紀前半にかけてあらゆる形式の古墳が築かれている。
 コノハナサクヤヒメの陵墓に治定される女狭穂塚(九州最大の前方後円墳、180m)と、ニニギの陵墓に治定される男狭穂塚(日本最大の帆立貝形古墳、175m)は、ほぼ同じ大きさで寄り添うように存在している。

 しかし、帆立貝形古墳という様式は、日本全体を統治する大王の形式とは言いがたい。
 帆立貝形古墳が最も集中する場所は、大阪・仁徳天皇陵を取り囲む小規模古墳群であり、これらは西暦400年代初頭に渡来した技術者集団の族長の墓ではないかとも考えられている。東京の多摩川沿い(高麗人が居住した狛江・等々力渓谷周辺)にも帆立貝形古墳が多く存在する。
 つまり男狭穂塚(西暦400年頃と推定)をニニギの陵墓とすれば、ニニギは5世紀初頭に日本にやってきた渡来系の技術者勢力だという仮説が浮かび上がる。この時代の最大の技術革新は、鉄製品の大量生産を可能にした鋳鉄技術と、それを支える須恵器製造の技術だった。

 ここで、神話の一場面が意味を帯びてくる。コノハナサクヤヒメは、ニニギに「あなたの子であれば、火の中でも無事に産まれる」と言い、炎の中で出産した。
 摂氏1200度で焼き上げる須恵器——「火の中でも壊れず、むしろそこで完成する」という技術の象徴が、この神話に重なる。
 そして神話の核心は、ニニギがコノハナサクヤヒメの子を「自分の子ではない」と疑ったことにある。異なるものの出会いには、軋轢と葛藤があり、それを乗り越える理念と実践が必要になる。西洋哲学でいえばヘーゲルの弁証法——対立する要素の本質を、より高い段階で統合・発展させる「アウフヘーベン」のプロセスだ。
 この理念と実践は、古代日本における問題解決の根本にあった。隼人や蝦夷など、戦いに敗れた側の人々を朝廷の門の守衛とし、祟り神を守護神に転じさせる——対立を融合・統合へと変換する仕組みが、古代日本には意識的に作られていた。
 この理念と実践を最も必要とした時代が、まさに継体天皇と推古天皇の時代だった。継体天皇は、新羅の脅威が高まる中で急遽即位した。推古天皇は、丁未の乱の後の混乱を収拾するために即位した。どちらの時代にも、力による征圧ではなく、異なる勢力を結びつける「統合の理念と実践」が求められていた。

歴史の節目に潜む「見えない力」

 額田部氏が実際にここで述べたような役割を果たしていたかどうかは、現時点では仮説の域を出ない。しかし、馬・鍛治・水運という実力と、仲立ち・調停という機能を併せ持つ集団が、日本古代史の二つの大きな転換点に見え隠れするという構造は、示唆に富む。
「誰が王だったか」を追うだけでは、歴史の実像には迫れない。表には出ないが、異なる勢力・地域・文化のあいだに立ち、物流・情報・技術を掌握することで、実質的に秩序を作り上げていく存在——その力なくして、歴史の転換点は生まれなかったのかもしれない。
「権力者の背後で、誰が何をしていたのか」。この問いを持つことが、歴史を表層から深層へと読み解く、最初の一歩になる。

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第1663回 存在に対する感謝

 本橋成一さんのお別れ会から帰ってくる。
 会場となったポレポレ舎から、帰り際に、『無限抱擁』という写真集をいただく。新装版のようだが、この写真集は保有していて、2004年4月発行の風の旅人の第7号で本橋さんのページを構成した時の何枚かの写真も、ここに含まれている。
 本橋さんとのお付き合いが、この『『無限抱擁』から始まったので、なんとも運命的なものを感じる。
 人の命は永遠というわけにはいかないが、人の魂は、作品を通じて、いつまでも残り続けるということを、あらためて思う。
 というのは、無限抱擁を見ていると、本橋さん内面(魂)が、とてもよく伝わってくるからだ。作品というのは、その人の内面を映す。本橋さんの考え方、感じ方、対象との向き合い方、誠実さ、真心、真摯さ、それらを全て統合したものが「魂」だと思うが、その本橋さんの魂が、『無限抱擁』には、濃密に反映されている。
 世の中には様々なアウトプットが満ち溢れている。コンセプチュアルなもの、自分本位のもの、欺瞞に満ちたもの、それらはすべて、その人自身を反映している。
 SNSの文章やコメントだってそう。発言している内容が正しいとか間違っているかはあまり重要ではなく、伝え方とか、言葉の使い方とか、立ち位置が大事で、日頃、他者を差別的に見ている人や、自己本位の人は、そういうアウトプットになる。
 歴史解釈にしても同じで、他の国の人を差別的に見て、日本人を優秀な民族だと思い込んでいる人は、歴史解釈も、選民主義的なものになる。
 願望として権力志向の人は、歴史を学習する時も、権力者の変遷が目にとまる。
 人に勝つか負けるかに固執している人は、勝者と敗者の関係が歴史だと解釈し、その歴史解釈においても、どちらが正しいかを競い合い、相手に勝ち、やりこめるために、言葉が次第に乱暴になる。邪馬台国が九州にあったか畿内にあったかを論争している人たちの言葉は、とても荒くて、粗い。
 だから、どんなケースでもそうだが、人の意見を聞く時は、その意見が正しいか間違っているかを判断するよりは、意見に反映されている人間の内面に思いを馳せた方がいいかもしれない。これは SNS上の記事に限らず、学者や政治家の意見も同じだ。
 現代社会は、競争社会なので、作品においても、序列をつけることが当たり前になっている。様々な賞や、いいね!の数の競い合いや、評論家の批評など。
 そして、そうした声に影響されてしまって作品を見る人も多い。自分では何も感じないのに、何かの賞を受賞していたり、評論家が褒めていると、自分にはその価値を理解できないのだろうかと悩んだり、売れているというだけで、いい内容に決まっていると思い込んだり。
 しかし、作品と出会うことは、その作品を作った人間と出会うこと。その人間に惹かれたり、影響を受けたり、といったことは、おしなべて個人的で当事者間の体験だ。
 自分の中に準備ができていない時は、うまく出会えていなかったものが、自分の成長に応じて出会えることもあるし、人生の危機や、生老病死の壁にぶつかった時にしか、感じ取れないものもある。
 畢竟、どういう出会いを積み重ねて、自分自身が形成されていくかが重要で、その形成によって、自分のアウトプットが変わってくる。そのアウトプットは、正直に、自分自身を反映する。
 人間付き合いもそうだが、いつ会っても新鮮さを感じたり、味わい深いものを感じる場合は、付き合いは長くなるし、新鮮さもなく、味わい深さもなければ、会うことは義務感でしかない。
 作品だって、何度も見直せるものと、そうでないものがある。
 本橋さんは、チェルノブイリ原発事故の被災地の写真でも、衝撃だけを前面に押し出したものをアウトプットしていない。
 しかし、すべてが、じっくりと心の深いところに語りかけるものであり、いろいろな思いが湧き出てくる。
 本橋さんが、被写体の人たちと深いところで出会ってくれているおかげで、これらの作品を見る私たちも、その人たちと深いところで出会える。
 被写体の人たちにも、本橋さんにも、存在してくれていて、本当に有難うという気持ちになる。
 存在に対する感謝。いずれ死ぬことが宿命の人間にとって、生きることの意味は、究極において、そこにしかないのかもしれない。

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第1662回 古代の捉え直しと、現代日本の課題。

 古代史に関心を持つ人々の間で、「海人族(あまぞく)」や「安曇(あずみ)氏は海人族である」といった主張がよくなされます。
 また「出雲族」についても同様です。島根県にいた出雲族がヤマト王権と対立していた、あるいは一族が集団で関東などの各地へ移動したため、その足跡として「出雲」という地名やスサノオ、オオクニヌシを祀る聖域が点在している――といった言説です。
 しかし、歴史の真相はそれほど単純な構造でしょうか。
 血縁で結ばれた一地域の一族が、他地域の一族と長期にわたって抗争を繰り返し、独自の価値観を頑なに維持し続ける。あるいは「ヤマト王権による日本統一」という言葉を疑いなく使う人々は、王権を一族として捉えているのでしょうか。その王が代々世襲し、常に強力で忠実な軍団を従え、日本の隅々まで軍事力で支配し続けていたと考えているのでしょうか。
 共通の文字もなく官僚組織も築けない、交通手段は徒歩か船のみ、鉄製武器すら不十分だった3世紀から5世紀という時代に、それは現実的ではありません。

「氏」の本質と縄文からの水上ネットワーク

 まず「海人族」についてですが、「安曇氏」という血族がはるか古代から固定的に存在していたわけではありません。そもそも「安曇」や「蘇我」といった姓(かばね)は、6世紀に氏姓制度が確立されて以降のものです。これは血族を指すのではなく、特定の職掌(役割)を束ねる立場に対して与えられた称号です。
 日本は海に囲まれた島国であり、陸地の多くは峻険な山岳地帯です。縄文時代から遠方との交流は水上交通が主体でした。糸魚川のヒスイが北海道から沖縄まで流通し、八ヶ岳や隠岐、神津島、姫島のブランド黒曜石が広範囲に運ばれたのは、陸路では不可能です。土器の分布を見ても、荷車もない時代に山越えで運搬したとは考えにくく、水運こそが物流の主役だったといえます。
 また、主要なタンパク源は魚介類であり、当時すでにマグロやイルカの漁獲も行われていました。縄文人にとって船を操ることは日常の技能であり、それができなければ暮らしは成り立たなかったでしょう。しかし、彼らが海の産物だけで生きていたわけではないことも、考古学的に明らかになっています。森の恵みを享受し、クリの栽培(広義の農耕)も行われていました。
 このような「得られる糧を広く寄せ集める暮らし」は粗放農業と呼ばれます。自然の作用を主とし、資本や労働力を一箇所に集中させない形態です。対して、計画的な灌漑によって管理を行う米作りなどは集約農業に分類されます。
 粗放農業と狩猟・採集を組み合わせた社会では、糧を得る手段が多岐にわたるため、リーダーも分散・複数化します。一方、集約農業は高度な計画性と、灌漑のための地域エネルギーの一極集中を必要とします。水の分配をめぐる争いも生じるため、強力なリーダーのもとで一致団結する仕組みへと移行していくのです。

技術革新が変えた社会構造

 弥生時代に稲作が伝来したからといって、日本全土が一挙に集約農業へ転換したわけではありません。一年に一度の収穫に依存するには、十分な収穫高と灌漑施設、そして凶作や災害への備えが必要です。古墳時代に入っても、多くの地域では依然として粗放農業の期間が長く続いていたと考えられます。
 また、産業の「鉄器化」についても誤解が少なくありません。同じ鉄製品でも、叩いて鍛える「鍛鉄(たんてつ)」と、鋳型に流し込む「鋳鉄(ちゅうてつ)」では技術的・生産的に大きな差があります。
 鍛鉄では大量生産が難しく、労力を考えれば石器で十分という局面も多かったでしょう。一方、鋳鉄を行うには、高温の鉄に耐えうる特別な陶器(鋳型)が必要です。具体的には、1200度以上の高温で焼き上げられる「須恵器(すえき)」の技術が不可欠でした。
 考古学調査によれば、この須恵器の技術が日本にもたらされたのは西暦400年以降です。古墳の副葬品に鉄製品が急増する時期とも一致します。つまり、5世紀に入るまでは、日本の広範囲で行動の自由度が高い「粗放農業」が続いていたと推測されます。稲作に縛られず、船を操って各地と物々交換を行う人々による水上ネットワークが維持されていたのです。彼らは特定の「海人族」という部族ではなく、当時の日本列島に広く存在した「動く民」の姿だったのではないでしょうか。

国家の成立と「安曇氏」の誕生

 5世紀以降、大陸からの技術系渡来人(東漢氏や秦氏など)によって須恵器などの新技術がもたらされました。この時から、日本国内において、急激に産業力が高まったことが、古墳の出土品からわかります。
 5世紀以降の古墳は巨大化しましたが、副葬品も、それまでの玉や鏡といった祭祀道具中心だったものが、農具や武器や馬具などの鉄製品が増えています。 
 私見ながら、この段階のことが、出雲の国づくりという神話で描かれているのではないかと思います。
 そして5世紀後半には「今来(いまき)の才伎(てひと)」と呼ばれる人々が大挙して来航します。彼らが官僚制度、仏教、文字文化、暦などを伝え、日本の文化基盤を劇的に塗り替えました。
 この時期、東アジアの国際情勢も緊迫します。新羅が中国王朝の支援を受けて勢力を拡大し、倭(日本)が関与していた任那や百済との緊張が高まりました。こうした激動の中で即位したのが第26代継体天皇です。この段階に至って初めて、新羅との対峙を見据えた中央集権的な国家体制の整備が急速に進められ、一つの理念のもとに、各地域が束ねられていきました。
 西暦500年という節目こそが、日本の国家のかたちが変わる境目でした。氏姓制度もこの頃から本格化します。海を越えて戦うためには大量の軍船と熟練の操舵手が必要です。その職能集団を組織し、束ねるために創設されたのが「安曇氏」という枠組みだったのです。その象徴的な人物が、後の白村江の戦いで将軍として散った阿曇比羅夫(あずみのひらふ)だといえます。

 私たちは、部族同士の抗争の結果として日本統一が成し遂げられたと考えがちです。しかし、後世の江戸幕府でさえ、参勤交代や人質制度といった緻密な統治策を駆使して、ようやく300年の平穏を維持しました。文字も移動手段も乏しい西暦300年頃から、ヤマト王権が強固な一元的支配を続けていたと考えるのは、いささか無理があります。
 歴史の流れを捉え直すことは、私たちの未来を捉え直すことにもつながります。
「中央集権的な秩序」だけが国の在り方ではありません。かつての日本がそうであったように、自律分散的な各地の拠点がネットワークでつながり、相互補完的に機能する柔軟な秩序の形が、今改めて求められているのではないでしょうか。

「出雲」という地名が語るもの

 また、「出雲」という地名は、島根県のみならず、京都や紀伊半島の潮岬など日本各地に存在します。また、関東の氷川神社をはじめ、出雲系の神々を祀る聖域も全国に点在しています。これらを「島根の出雲族が各地へ移住した足跡」と捉え、彼らがヤマト王権と対立し、最終的に屈服した過程が「国譲り神話」であると解釈する説は根強くあります。
 しかし、日本書紀を精読すると、物語は単なる「武力による制圧と服従」ではない側面を見せ始めます。

最後の抵抗者と「和」の調停

 古事記では、タケミカヅチの迫りに対して大国主神が従い、抵抗したタケミナカタが諏訪へ逃れるところで国譲りが完結します。しかし日本書紀には、その先に重要な続きがあります。
 大国主神が国譲りに納得した後も、東国(関東)では天香香背男(あめのかがせお)が激しく抵抗し続けていました。この最後の抵抗を鎮めたのは、武神ではなく、織物の神であるタケハズチ(建葉槌命)でした。タケハズチは「調停」や「仲立ち」を職掌とする倭文(しとり)氏の祖神です。
 ここから、国譲りの最終段階は凄惨な戦闘ではなく、高度な「外交的努力」によって解決されたことが読み取れます。タケハズチが「織物の神」である事実は象徴的です。力による支配ではなく、祭祀や宗教観、あるいは新しい社会の「理(ことわり)」を説くことで、異なる価値観を持つ勢力を納得させたのではないでしょうか。

「ウシハク」から「シラス」への転換

「出雲」とは、単なる一地域の部族名ではなく、新しい時代が始まる以前の「古い原理」で治められていた社会の総称だったのかもしれません。
 大国主神や事代主神は、今も「産業の神」として崇められています。古代においても、現在と同様に経済的発展が最優先された時代があったのでしょう。しかし、自由な競争原理のみに任せれば、必然的に「強者がすべてを独占する」構造が生まれます。
 これこそが、タケミカヅチが大国主神に説いた言葉――「汝の国はウシハク(強者が私有し、独占する状態)である。それをシラス(公のものとして共有し、知らしめる状態)へ変えよ」――の本質的な意味ではないでしょうか。
 格差が広がり、勝者と敗者が分断される社会。特に震災大国であり、富も命も無常である日本において、独占による秩序がいかに脆いものであるかを、古代人は痛感していたはずです。その無常観を超えて、いかなる社会秩序を築くべきか。彼らはその問いに真摯に向き合っていました。

織物の精神:不易流行の秩序

 日本書紀において、最終的な平安をもたらしたのが「織物の神」であったことは、極めて示唆に富んでいます。
 織物は、張り替えのきかない「縦糸」と、その間を臨機応変に通り抜ける「横糸」の組み合わせで編み上げられます。社会の秩序もまた、特定の支配者がすべてを染め上げるのではなく、異なる糸を組み合わせて調和させるべきだという思想がそこに反映されています。
 この「織物のスピリット」は、日本神話の核心に位置しています。
 天照大神は、スサノオの乱暴によって機織り小屋の巫女が亡くなったことに心を痛め、天の岩戸に隠れました。また、伊勢神宮の内宮には天照大神が祀られていますが、その相殿(あいどの)に織物の神であるタクハタチジヒメ(栲幡千々姫命)が祀られている事実は、意外に知られていません。
 日本の信仰の要にあるのは、善悪を裁く絶対的な審判者ではなく、調和を編み出す「織物の精神」なのです。

 織物の縦糸は、一度張れば変えることのできない「不変の軸」です。対して横糸は、時代や状況に応じて柔軟に変化させることができます。これこそが、松尾芭蕉も説いた「不易流行(ふえきりゅうこう)」の精神です。
 守るべき本質を大切にしながら、変えるべきことはしなやかに変えていく。この「軸のぶれない融通無碍(ゆうずうむげ)」の精神こそが、日本文化の根底に流れる叡智です。
 私たちは今、古代から受け継がれてきたこの「織物の精神」を、現代のネットワーク社会の中で再発見すべき時期に来ているのかもしれません。

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第1661回 蛇行剣の謎と、メディアの情報操作

昨夜、さきほど書いたように志村さんの番組に感銘を受け、その余韻を引きずりながら、NHKの知人から追加情報をもらっていた蛇行剣に関する番組も観た。こちらは、ひどい内容だった。
 「歴史探偵」という番組は、きちんとしたドキュメンタリーではなく、適当な娯楽番組という位置付けなのだろうが、ここから得る情報が自分の知識教養になると思って観ている人も多いのだから、こうした番組の作り方は、明らかなミスリードだ。
 何が問題なのかというと、メディアの悪い体質の典型で、自分たちにとって都合の悪いことを隠していること。

毎日新聞より

 NHKの番組では、蛇行剣を「空白の4世紀」を解く鍵と位置付け、当時の日本を支配していたとされるヤマト王権の権力を強調する文脈で番組を進行させていた。3メートルに達する巨大な蛇行剣を、王権の強大さを象徴する遺物として視聴者に印象付ける展開。
 しかし、この蛇行剣が出土した富雄丸山古墳は、ヤマト王権の象徴とされる前方後円墳ではなく、日本最大の「円墳」だ。番組はこの重要な事実を伏せている。また、蛇行剣は全国の約70基の古墳から100本ほど出土しているが、その半数近くは宮崎県や鹿児島県に集中している。特に大隅半島や薩摩半島など、古くから海人勢力の拠点として知られる地域に色濃いという事実も、番組では語られない。
 実際、蛇行剣が出土する古墳の多くは円墳や方墳であり、ヤマト王権の指標とされる前方後円墳での例は、長野県の千曲川流域の七瀬双子塚古墳など極めて稀である。
 日本第4位の円墳である茶すり山古墳(兵庫県朝来市)は円山川流域に築かれ、ここからも蛇行剣が出土している。
 日本最大級の円墳二つから蛇行剣が出土しているのだから、円墳との関係で、蛇行剣の謎を解き明かす努力が必要だ。
 しかも、その分布は、添付の地図を見ていただければわかるように、「水上の交通要衝」と深く結びついている。千曲川、円山川、富雄川といった重要河川の流域にその足跡は点在する。

愛知県埋蔵文化財センター資料

 番組では、富雄丸山古墳を大和と河内を結ぶルート上に配し、「ヤマト王権の海への進出路」と説明していたが、日本全土の分布を見れば、むしろ「水上交通を掌握する勢力が内陸へと入り込んだ結節点」に富雄丸山古墳が存在すると考える方が自然ではないか。
 さらに、この番組が伏せているのは、蛇行剣と共に大きな謎を秘める「鼉龍文(だりゅうもん)盾形銅鏡」の存在である。
 番組後半で、円の鏡を映し、富雄丸山古墳からは鏡も出土しているので、さらにヤマト王権のことが解明できるかもしれないなどとお茶を濁していたが、この古墳から出土したもので特筆すべきは、世界で唯一の形状を持つ、高さ64cm、幅31cmの巨大な盾形銅鏡である。この巨大な盾形銅鏡と世界最大の蛇行剣は一緒に出土しているのだ。
 しかも、墳頂の主埋葬施設ではなく、北東側の「造り出し」にある素朴な割竹形木棺を覆う粘土層から見つかった。さらに重要なことは、木棺内には櫛や重ねられた鏡が「足側」に置かれていたこと。女性が身を飾る櫛が足元にあるという特異な配置は、被葬者が単なる権力者ではなく、祭祀を司る「巫女」であった可能性を強く示唆している。
 それに対して、この古墳の主を埋葬する墳頂の施設に収められていたのは、定型的な三角縁神獣鏡であった。この鏡は、「卑弥呼の鏡」と紹介されることが多いが、これは卑弥呼が魏から賜った100枚の銅鏡でないことが明らかになっている。大陸では発見されていない日本独自のもので、しかも、全国からの出土数は、100どころか300を超えている。
 それはともかく、古墳の麓に埋葬されている祭祀関係者と関わりが深いと思われる蛇行剣と盾形銅鏡は、王権の誇示装置ではなく、特定の祭祀集団に深く関わる呪具だったと感じられる。
 盾形銅鏡に刻まれた「鼉龍(ワニ)」は水神や再生の象徴とされる。蛇行する剣とワニを刻んだ盾。これらは被葬者を守護する究極の呪具ではなかったか。
 ここからは私見だが、蛇行剣の主産地である南九州は、古来「アタ」と呼ばれ海人族の拠点であった。ここに、「ワニ」が関係してくる。
 和邇(わに)氏の祖が、吾田片隅(あたのかたすみ)なのだ。和邇氏は記紀において大王家に多くの后妃を送り込んだ氏族であり、日本武尊の母や、悲劇の皇子・菟道稚郎子の母、あるいは神吾田津姫(木花之佐久夜毘売)の系譜とも重なる。
 この系譜は、表舞台の権力者となるよりも、巫女的な女性を輩出し、母系を通じて次代を育む「境界の守護者」としての役割を担ってきた。その末裔が柿本氏、春日氏、小野氏といった、歌、陰陽道、外交、文学などを通じて「彼岸と此岸」を繋いできた勢力である。
  縄文土器にも描かれている蛇や蛙、そしてワニ。これら水陸の境界に生きる生き物たちは、現世と常世を行き来する霊性であり、それは古代巫女とも重なる。
 古代日本人は、自分たちが生きている現世だけで、世界が完結しているとは考えておらず、向こう側の世界とコンタクトする霊的な存在が、重要な役割を果たしていた。
 蛇行剣や鼉龍文盾形銅鏡は、そうした霊性を守護するものだったのではないかと、私は想像している。 

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第1660回 志村ふくみさんの東西融合のコスモロジー

NHKの知人からの情報で、昨夜、「藍(あい)一色一生  染織家 志村ふくみ」という再放送を観ることができた。1999年に放送されたものだ。
 この番組は、現在101歳の志村さんが75歳の頃に制作されたもの。
 私が、ロングインタビューをさせていただいたのが90歳の頃だから、その間の15年で、志村さんは、ほとんど変化していないように思えた。
 私がお会いした時も、お肌が瑞々しくて、自然の草花のエッセンスがお身体に宿っているのではないかと思ったくらいだが、お肌だけでなく、話が明晰で、それは、75歳の頃も90歳の頃も同じだ。少し前、側近の方のお話しを伺った時、脚が悪くなったのであまり外に出ないけれど、100歳を超えているにもかかわらず、頭脳の明晰さは、まったく変わらないということだった。
 私は、これまで、数多くの素晴らしい方々をインタビューさせていただいたけれど、そのなかでも志村さんは特別だった。というのは、志村さんは、話されている言葉をそのまま書き写すだけで、きちんとした内容の文章になるのだ。
 ふつうは、話し言葉というものは、言葉になりきれないものがあるのが当たり前。インタビューにおいては、その沈黙のなかに潜んでいる言葉をどれだけ掬い出すかが、とても大事。場合によっては原稿化したものに後から朱書きを入れて、その沈黙の部分を補うことも普通だ。しかし、志村さんの場合、まったくそういうことが必要なかった。
 テレビ番組では、番組の性質上、着物姿だったけれど、ふだんは洋装で、音楽も西欧のクラシック、文学もリルケなど西欧のものに親しんでおられた。
 そのことをお尋ねすると、織物というのは、感性だけでなく、極めて厳密なロジックも必要。縦糸というのは、一度張ったら2度と張り直せない。だから、厳密に、緻密に、考え抜くことが必要。その下地があるから、横糸の融通無碍が生きてくるのだと、仰っていた。
 草木を集め、染色する段階では、自然の言葉に耳を傾け続ける。そして、いざ織物をつくるとなれば、論理的に考え抜く。そのうえで、横糸を織り込んでいく時は、潜在的直観を動員して色をつかんでいく。志村さんは、西洋と東洋の叡智を、一人の人間の中に見事に統合している人。私が受けた印象は、そういうものだった。
 志村さんをインタビューしたのは、風の旅人の第47号の時で、テーマは、妣(はは)の国へ 〜来し方、行く末〜というテーマだった。
 インタビューを終えて、軽く雑談している時、次号のテーマを「死の力」で編集したいという話をしていた時だと思う。突然、志村さんが、「あっ、そういえば、一昨日、石牟礼道子さんと、電話で長話したわ」と。
 私は驚いた。というのは、その頃、石牟礼さんは、かなり病状が悪いと知人たちから聞いていたからだ。
 志村さんの突然の一言に食らいつくように、「石牟礼さん、お元気なんですか? お話を聞くことができるんですか? 次号のテーマ、死の力は、石牟礼さんにご登場いただけることが理想なんですが」と私が問うと、志村さんは「日によってよくない時もあるようだけれど、連絡してみたら」と言って、連絡先を教えてくれたのだ。連絡先は、渡辺京二さんだった。私は渡辺さんにお手紙と企画書を送り、この内容なら石牟礼さんがベストなのはわかると了解いただき、話ができそうなタイミングで連絡をいただけることになった。ただし、インタビューのために熊本まで来られても、その日、具合が悪くてダメだったとしても諦めて欲しいと言われた。
 私は、連絡を待ち続けて、締切の直前、奇跡的に電話があり、今なら大丈夫ということで、その日の夜の飛行機で熊本まで飛び、翌日、病院でお話しを聞くことができた。
 志村さんのあの一言がなければ、石牟礼さんの、あの奇跡のインタビューは実現できなかった。

 

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第1659回 人間にとって本当に大事なことが問われる時代

 今回のワークショップで39回目、毎回二日ずつ行っているので、累計で78日目にして初めて、集合時間の時点までキャンセルの連絡をもらえないケースが出た。
 今回は二人ほどキャンセル待ちの人がいて、直前まで空きを待ってくれていたので、その機会を喪失して残念なことになった。
 社会では、AIによって人間の仕事が奪われる云々の情報が飛び交っているけれど、奪われる仕事は、どちらかというと、事務的で機械的で無機的な領域で、人間ならではの配慮や誠意が重視される領域は、そう簡単にAIに取って変わられないのではないかと個人的には思っている。
 ビジネスの取引などにおいても、人間力というのは大きな意味を持つはずで、この人に任せようとか、この人は信頼できると感じられるかどうかが分かれ目になるケースも多いのではないだろうか。
 そうした人間性さえ、どうでもいいという社会になってしまうくらいなら、AIを導入することは、人間にとって悲劇としか言いようがない。
 私は、そのように考えているので、キャンセルのことを伝えないという人に対して、怒りというより、気の毒に思えてならない。主催者の準備に対する配慮とか、人に対する誠意を持てない人が、いくら明るく社交的で愛想よく振る舞っていても、人間として信頼を得られるはずがなく、AI時代において、真っ先に不要とされるに違いないからだ。
 今回少し気になったのは、その人が、何度も参加してくれているメディア関係の人から、このワークショップのことを聞いて興味を持ったメディア関係者だったということ。
 メディアの仕事というのは情報発信を担っている。そして、現代社会には、メディアが発信する情報言語が溢れかえっている。
 情報の伝達とは、知識や知恵を媒介することであり、それはすなわち「橋を架ける」行為に他ならない。どこへ向けて橋を架けようとしているのかが見えない言葉は、単なる自己顕示であり、発信者のエゴにすぎない。
 橋を架ける際、その場の状況を無視した橋は、渡ろうとする者を危険にさらすことさえある。何より重要なのは、対岸をどれほど深く想像できているか。
 もしその対岸が、人々の不幸へと繋がる領域であれば、橋を架けるべきではない。
 ゆえに、メディア組織に所属しながら、自分が関わる対象を、軽く見てしまったり、ぞんざいに扱ったりすることほど罪なことはないだろう。
 メディアの中だけでなく、政治経済や戦争や人権や環境問題など、もっともらしい言葉で発信している人は、数えきれないほどいるけれど、自分が発信している言葉を、どれだけ自分ごととして自分に引き付けているか?
 発信するかぎりは、その対象のことを深く知らなければいけないという強い意識を持っている人が、果たしてどれだけいるのか?
 私は、20歳の時、大学を中退して海外放浪をしていた時、イスラム諸国を巡りながら、アラビア語を取得したうえでイスラム圏を旅して市井の人々の話を聞きたいと本気で思い、チュニジアのブルギバスクールというところで、摂氏50度にもなる狂った夏、必死にアラビア語を学んでいたことがあった。そして、バザールに行って、少し会話をしてみる。しかし、一人の人の断片的な話を聞き集めたところで、いったい何がわかるのだろうと無力感を感じてしまった。そんな話を少し聞き齧って、現地の人はこう考えていると、自信をもって発信できるとは思えなかった。
 現在、アメリカとイスラエルによるイラン攻撃について、テレビの街角インタビューで、この事態をどう思うか?と一人ひとりに尋ねているが、「物価が今よりも上がるのは困りますねえ」、「ガソリン代は大丈夫なんですかね」、「株をやっているので株価が心配です」といった言葉を編集し、メディアは、街の人々の声をお聞きしましたと、お茶の間に流している。メディアが予め欲しいと考えている類の意見を編集しているだけなのか? それとも、たまたまそういう意見の人と出会ったのか?
 メディアは、信頼の確保のために、有名大学の教授といった「権威」を借りて横流しにする。これは、思考の責任を「権威」に丸投げする行為だけれど、その行為自体が、かなりみっともない。
 情報の橋を架けるその先にある対岸とは、現在から見た「未来」でもある。ゆえに情報を媒介する者は、”現場”を軽く扱わないということは当然として、誰よりも未来を深く思索する覚悟が求められる。
 「未来の平和」といった空疎なスローガンをなぞるのが思索ではない。現場に立ち、五感を研ぎ澄ませて、自らの頭で考え、実践し、省察と修正を繰り返す。その泥臭いプロセスを通じて得られる「他者とは容易に共有し得ない手応え」の積み重ねこそが、真の思索だ。
 こうした全人的なプロセスから創出されるものは、いわばその人固有の「伽藍」であり、その空間に漂う空気こそが、情報の「文脈」となる。
 受け手がその伽藍に身を置き、静かに独索できる時間を提供できているか。その視点を持っていれば、自らの伝え方や橋の架け方に対し、自ずと謙虚な自省が生まれる。
 もちろん、誰もが完璧な橋を架けられるわけではない。しかし、対岸の状況や川の流れを無視しているのか、あるいはそれらを細心に汲み取ろうとしているのか、その姿勢の差は決定的に大きい。
 私はかつて『風の旅人』という媒体メディアを編んでいた頃から、「正しさ」ではなく「根源」を探ることを自らの立脚点としてきた。
  例えば、アボリジニの歴史は西洋の実証主義的な歴史観とは相容れない。西洋的な「正解」から見れば間違いかもしれないが、彼らにとっては紛れもないリアリティである。そのリアリティに深くコミットし、感応しようとすること。それが私の考える「根源を探る姿勢」だ。そうしたスタンスの延長で、現在、日本の古層と向き合っている。
 権力者や専門家の言葉、世俗的なところでは金融会社が持ち込む投資話に惑わされず、それらを一旦脇に置く。その上で、自分はどう感じ、どう考えるのか。その内面的な必然性を徹底的に大切にすることからしか、根源へは辿り着けない。それは正誤の判断を超えて、自らの生を全うするために世界とどう対峙するかという、実存的な問いとなる。
 ネットやAIから得た既成の知識や周囲の状況にばかり翻弄され、自らの感覚や思考を見失うことは、世界に対する身体性の喪失を意味する。 世界に対して注意深くあることは、同時に世界の一部である自分自身に対して注意深くあること。
 外なる世界に反応する内なる自己が存在し、内なる自己が働きかける外なる世界が存在する。両者は決して切り離せない一分(いちぶん)のもの。
 「形骸化した権威」や「自己増殖する情報」が蔓延する社会において、一人ひとりが、真正を見極めるための基準軸を、どのように形成していくのか? これは誰かに教わったり、ハウツーのマニュアル本でテクニックを得ようとしてもできるものではなく、自分の暮らしや生き方を通して、積み重ねていくしかないものだろう。
 AI時代においては、もはやメディアに限らず、その人でなくても他の誰かが言っているというレベルのものは、AIの方が的確に伝えることができるので、ご用済みになる。
 そして、事務的で機械的で無機的な領域は、AIに任せてしまえばいい。
 そうなることで、かえってノイズは減り、人間にとって本当に大事なことは何なのかという問いに、深く向き合えるのかもしれない。
 
 

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