第1146回 新年の誓い

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 去年の1月3日、年のはじめに、年内にこれだけはやり遂げることを決めようと考えていて、年末に鬼海弘雄さんを見舞いに広尾の赤十字病院に行った時のことを、ふと思い出した。

 その時、ピンホールカメラで撮っている写真を鬼海さんに見せたところ、「本にしろよ」と言われた。「まだ早いでしょ」と答えると、「もう十分、このあたりで本にまとめないと整理がつかなくなるぞ」と、さらに背中を押された。 もちろん、「やります」とは答えず、そのまま、その時のやりとりは忘れていたけれど、年が明けて、一年の誓いを考えている時、鬼海さんのことを思い出した。

 鬼海さんの病は進行していたので、鬼海さんに本にしろと言われた以上、鬼海さんが元気なうちに本を完成させたいという気持ちが高まった。それですぐに制作を開始した。ほぼ毎日、朝から晩までかかりっきりだったので、3月末には印刷も完成して、すぐに鬼海さんに送った。けっこう文章も多かったのだけれど、鬼海さんは、文章も読んで感想をくれた。 一度の電話だけでなく、なんども電話をくれて、そのたびに、色々と感想をくれた。

 鬼海さんは、6月ごろからは文章を読むのも辛くなっていたので、間に合った、という感じだった。 鬼海さんに言われたように、このタイミングで本にしたことは正解だった。本にすることで、自分がやろうとしていることが、より明確になり、そのうえに、さらに取材を重ねることができた。 鬼海さんのアドバイスを真摯に受け止めて本にすることをしなかったら、その後の取り組みも、もう少し薄っぺらいものになっていたかもしれない。

 本にしろよ、というのが、鬼海さんの遺言であるので、今年も続けて、Sacred World 日本の古層を本にすることを年初めの誓いとする。 世の中の誰がどう評価してくれるかなどというのは二の次で、天国にいる鬼海さんに向けて、Sacred world VOL.2を作ること。

 風の旅人の時は、日野啓三が亡くなった後に始めたけれど、作りながら、これを日野さんが見たらどう感じるだろうか? ということだけを考えていた。何やってんだよという恐い顔か、なかなかいいね、と満足そうに微笑んでいる顔か。

 自分にとって一番確かな指針は、自分が尊敬する人にどう受け止めてもらえるか、ということを想像すること。たとえその人が、すでにこの世から去っていたとしても。この指針さえあれば、軸がブレることはない。

 忘れもしない、今から10年前の2011年の正月、私は、年末から高野山にずっとこもっていた。高野山は、何十年ぶりかの大雪で、その雪量は凄まじいものがあった。そして私は、早朝、大雪で参道が埋もれた高野山奥の院に、空海廟まで、毎日のように足を運んだ、1000年以上続いている、空海に朝食を奉仕する儀礼に参加するためだ。その時は、高野山の僧侶と私以外、奥の院空海の霊廟には誰もいなかった。

 その儀礼に参加するため、真っ暗闇のなか、奥の院の参道を30分ほど歩き続けるのは、心底、恐ろしかった。参道の周りには、高名な戦国武将の墓を含め、数千の墓が立ち並んでいたからだ。 冗談抜きに、私は、恐怖で涙まで流していた。そして今でもはっきり覚えているが、途中の参道があれほどまで恐ろしかったのに、一番最奥の空海廟に近づいた時、ふわりと空気が和らぎ、恐怖が消え去っていた。

 そして、高野山の僧侶は信じ続けている生き仏の空海に朝食を奉仕した後、30分ほどの勤行。ひたすら祈るような思いでその声を聞き続けていたが、あの時、いったい何を祈っていたのだろう。個人的には色々な思いがあったかもしれないが、大した悩みなどなく、悩みがないのが悩みなどと惚けたことを口にしていたのに。

 しかし、高野山の大雪のなかで、数日こもって風の旅人の第43号の企画を構想した。テーマは、「空即是色」だった。下山してその内容にそって制作を進め、発行は6月1日だったから、デザイン作業はほぼ終了していた。その時、3.11の東北大震災が起きた。私が準備していた風の旅人の第43号は、表紙も含め、東北大震災を心の深層で予感していたような内容だった。私は、すぐに東北に飛び、取材をして、ほぼ完成していた43号の最後の10ページに、3.11後の取材を付け加えて、印刷を行った。あまりにも、高野山で構想したことがシンクロしていた。正確に言うならば、43号の内容は、震災後の祈りとシンクロしていた。

 非科学的なことを、科学万能の現代社会で口にしてもあまり意味がないが、風の旅人の43号という本が、3.11の震災前に企画構想されていたことは事実であり、でも多くの人は、その内容を見て、3.11の震災の後に企画されて作られたと思うかもしれない。

 人がどのように受け止めるかなんて、どうでもいいが、あれから10年が経ってしまった。この10年は、自分でも、これまでの人生で一番キツイ10年だった。

 私は、誕生日が1月1日で、10年単位の2011年、2001年、1991年、1981年が、私にとって、20代、30代、40代、50代になる直前の年で、なぜかそれらの年において、その後の私の10年に多大なる影響を与える出来事があった。 そのたびに私は、それ以前の10年には、まったく想像もしていなかったことを始めたり、それまで一生懸命にやったことを無にしてしまうドロップアウトを繰り返してきた。 大学を辞めたり、会社を辞めたり、会社を始めたり、風の旅人を作ったり、風の旅人を辞めたり。10年の始まりの年は、まさに、始まりと終わりが一つになる境目だった。

 1981年には、イスラエルイラク原子炉攻撃やエジプトのサダト大統領が暗殺された。エイズという新しい病が世の中に出てきたのもこの年だった。私は、大学を辞めてしまい、2年間の海外放浪に出た。  1991年は湾岸戦争があり、そして、突然、表舞台に出てきたゴルバチョフによって、なんとソビエト連邦が終焉した。まともな就職をしたのがこの時だった。  その後の10年は、毎日、深夜12時まで、働き続けた。

 2001年は、9月11日、貿易センタービルに飛行機を衝突させるという前代未聞のテロ。その後、恩師である作家の日野啓三さんが亡くなり、運命に導かれるように、編集未経験の私が風の旅人を創刊し、編集長をやることになった。

 そして、2011年が、巨大津波原発事故。

 これらのことが起きた時、単細胞な私は、それまでと同じ人生を繰り返し続けることなどできないという衝動にとらわれてしまった。 さすがに、4度もそれが繰り返されてきたので、精神的な免疫はできている。 備えあれば憂いなし。

 2011年の正月は、大雪の高野山で降りてきた自分の着想がその後の世界とシンクロした。それは、他の人には関係なく、まったく自分個人の問題だが、自分としては、そうした経験は無視できるものではない。 私にとって10年単位の区切りである2021年も、きっと、何かが起きるだろうと思う。何が起きても、動じることがない覚悟はできている。

 

 

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第1145回 この国の祈り

 以前から気になっていることがあります。『古事記』や『日本書紀』の国譲りの物語の解釈についてです。

 国譲りの物語は、苦労して国をまとめあげたオオクニヌシに対して、天孫といわれる神様たちが国譲りを迫るものです。

 大陸から渡ってきた勢力(後のヤマト王権)を高天原天孫とみなし、それ以前から存在していた出雲国葦原中国)の王がオオクニヌシで、国譲りというのは、ヤマト王権出雲国葦原中国)を帰順させたというのが基本的な認識になっています。

 そして、出雲国の場所としては、これまでは島根県出雲大社が鎮座する場所と考えられていましたが、あの出雲大社は7世紀以降に造られたものであることがわかり、周辺に古墳なども存在せず、さらに『出雲国風土記』には国譲り神話も天孫降臨神話も記されていないゆえに、出雲大社のある場所は、7世紀以降、記紀の神話にそって人工的に作り出されたものだと考えられるようになってきています。

 ならば本来の出雲はどこにあったのか?という疑問が生じますが、古事記日本書紀で描かれる国譲りに似た物語は各地に残っており、代表的なものとして、『播磨国風土記』の中に、渡来系の天日槍(アメノヒボコ)と土着の伊和大神の確執の物語があります。この2神は土地争いをしますが、なかなか勝負がつかず、周りのものに迷惑をかけるだけだと悟った2神が、妥協案を決め、伊和大神は播磨、天日槍は但馬を開発することになったというものです。

 こうした新旧の対立は、日本中どこにでも見られたはずで、それらが記紀の編者に影響を与えた可能性もありますが、記紀の国譲りの物語というのは、古代に起きた地上の土地争いのことを単純に伝えているだけなのだろうか?と、私は疑問に感じるのです。

 記紀のなかの国譲りの場面を振り返ると、天孫の神々が高天原から葦原中国を見た時、蛍火のように勝手に光る神や、ハエのように騒がしい邪神が多くいて、草や木さえも言葉を話せる状態であり、アマテラス大神やタカミムスビ神を中心に「葦原中国の邪神達を平定するために誰を派遣すべきか」と、議論がなされています。

 そして、最初に派遣されるのがアメノホヒという神ですが、この神は、オオクニヌシに心服して高天原に戻りませんでした。

 アメノホヒというのは、第11代垂仁天皇の時、それまで行われていた殉死の風習に代えて埴輪を用いることを考案し、土師臣(はじのおみ)の姓を賜った野見宿禰の祖神ですので、古代の祭祀に影響を与えた神と言えると思います。

 国譲りの前の状態である、”ハエのように騒がしい”という表現は、記紀のなかでは、これ以前に二回出てきます。

 一つ目は、スサノオが、母の国である根の堅洲国に行きたいと願って、泣きわめき、その声があまりにも激しく、青々とした山は枯れ、川や海はすっかり乾ききった時で、「是を以ちて悪ぶる神の音、狭蝿如す皆満ち」て、あらゆる禍が起こったとあります。

 二つ目が、アマテラス大神が天の岩戸に籠ってしまった時で、高天原も葦原中國も暗闇になり、「是に万の神の声は、狭蝿那須満ち」て、あらゆる禍が起こったとあります。

 「さばえ‐なす」というのは、万葉集でも騒ぐとか荒ぶるにかかる枕詞ですが、一般的には、”さばえ”を、五月蝿と書いて、五月頃、群がり騒ぐ蝿だと解釈されているのですが、果たして、その程度の解釈でいいのでしょうか?

 スサノオが天をも揺らすような大声で泣き喚いた時は、山も枯れ、川も干上がってしまい、アマテラス大神が岩戸にこもった時は、世界中が暗闇になってしまいました。そういう状況ですから、昆虫の蝿が群がり出てきたというよりは、もっと深刻な現象を表しているに違いありません。

 活火山の桜島のある鹿児島では、蝿と火山灰は同じ”へ”と発音するそうですが、空中を漂う無数の黒いものというイメージが、蝿と火山灰で一致するのでしょう。

 山も枯れ、川も干上がり、世界が暗闇になった時、黒い火山灰が空中に舞い続けているイメージは、リアリティがあります。これは、古代から火山の大噴火の後に繰り返されてきた現象でしょうし、空中に漂い続ける火山灰によって深刻な日照不足となり、その後、作物への影響など様々な災禍が続けて起こったことでしょう。

 このことは、火山国の日本だけでなく、たとえば紀元前1500年頃、エーゲ海サントリーニ島が大爆発した時、津波地震、噴火に伴う雷鳴、空から降り注ぐ焼けた岩、そして数年にわたって空中を漂い続けた火山灰によって太陽光線が遮られたことによって、クレタ島、新王朝のエジプト、トルコのヒッタイトなど周辺諸国に壊滅的な被害が発生し、その混乱に拍車をかけるように、海の民という新勢力による大規模な移動と侵略行為が重なり、地中海周辺の文明圏の姿を一変させました。その潜在的な記憶は、後の様々な神話や聖書などに伝えられています。

 古代日本において、”さばえ”が満ちた状況は、アマテラス大神が天の岩戸に籠った時にも、国譲りの前にも起きていました。そして、アメノタジカラヲが岩戸を開いてアマテラス大神が岩戸から出てくると世界が一変するのですが、国譲りもまた、単なる土地争いのことではなく、何かしらの大きな出来事の後のパラダイムシフトだと想像することは可能です。

 国譲りにおいて最初に派遣される神はアメノホヒであり、この神が象徴している役割を踏まえると、祭祀の変化が考えられます。すなわち、火山噴火や地震などの天災を避けて通れないこの島国の環境で、人間社会の秩序をどう整えていくべきかという大きな課題が、国譲りの物語の背後にあるかもしれません。

 ここでまず考えなければいけないことは、日本という国の治め方の特殊性です。日本の歴史を天皇抜きに語ることはできません。天皇は、他国の王様とは少し違う存在の仕方をしています。 

 現在でも、天皇な莫大な公務を行っておられますが、テレビなどで伝えられる天皇の姿とは別に、一般の人々には知られない大切な仕事があります。

 それは、祈りです。

 2019年4月30日を持って退位された上皇明仁は、退位の前に、天皇の務めとして何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ました。」という言葉を述べられました。このたびの譲位も、体力が落ちている状態で公務の負担がかかりすぎると、日々の祈りに支障が出てしまうという真摯な思いからです。

 歴代の天皇は、宮中にて、国の安泰と国民の幸福、さらに世の中の平和を祈念した祈りを、人知れず、連綿と続けておられ、その秘儀の中の秘儀は、天皇から天皇への口伝で伝えられています。 

 世俗的な権力者ではなく、祈りの存在である天皇が、内閣総理大臣最高裁判所長官の任命や、国会の収集を行うことに深い意味があるのです。

 日本における天皇による権威づけは、個人の世俗的な我欲を超えたものであるということが前提になります。もちろん、その大きな説得力が、権力者による天皇の利用につながり、実際に、歴史の中で、そうしたことが繰り返されてきました。

 春・秋のシーズンで約4000人ずつ、褒章は約700人ずつが受章している叙勲にしても、その名簿と功績調書に天皇陛下が目を通され、天皇陛下から授与される形がとられていることが重要で、それは、その叙勲が、世俗的な我欲を超えた価値という意味を持つからでしょう。(現実的には、世俗的な現実の中で他人に自慢できる栄誉を獲得したという矮小化が起きているだろうとは思いますが。)

 いずれにしろ、神話というものが、天皇の権威を高めるために作られたとしても、その権威とは、権力者の世俗的なポジションのためではなく、天皇の祈りの意義を高めるためのものです。それゆえ、古代日本における神話の創造は、侵略戦争などの戦いの勝利を正当化するためのものである必要はないのです。

 天武天皇古事記の編纂を命じたことや、藤原不比等の関わりについて、”当時の体制の正当化のため”と解釈することは、あまりにも現在の我々の価値観に当てはめすぎているように思われます。知ったかぶりの人たちが口にする藤原不比等の陰謀説においても、古事記の中に、それほど藤原氏を優先化するような記述は思い当たりません。

 ところで、日本という国において、天皇が祈りを行う際、いったい何に重きが置かれるのでしょうか?

宮中の作法はまず第一に神事、その後に他のことがあって、朝夕に神を敬う」といった天皇の基本姿勢が、13世紀前半の順徳天皇(第84代)が著した『禁秘抄』の冒頭に書かれていますが、それが日本の天皇の普遍的な姿であり、日本社会がすっかり西欧的価値観に覆い尽くされた現代でも、天皇陛下は、その姿勢を受け継いでおられます。

 天皇が宮中で行っている宮中祭祀について、原初の姿を知る術もありませんが、701年に制定された大宝律令から927年に制定された延喜式のあいだに、今日の体系的な祭祀の基礎が完成されています。律令時代には、祈年祭月次祭新嘗祭が重視され、また大嘗祭も最大の祭儀として成立しています。

 大嘗祭は、新しい天皇陛下が初めて行う新嘗祭で、新穀を神に奉り、その恵みに感謝し、国と民がいつまでも安らかであるように祈る祭りです。

 大嘗祭儀礼は秘儀ですが、その中でも根幹にあるのが、繒服(にぎたえ)と麁服(あらたえ)という布織物であるとされます。この二つは、神衣(かみそ)と呼ばれ、神の依代(よりしろ)として神聖視されているのです。

 この二つの織物の使い方は明らかにされていませんが、通説では、即位する皇子が儀礼が行われる深夜に、これらの布を身に纏い、祖霊である神々とひとつになることで、本当の天皇になると言われています。

 織物は、過去から連綿とつながる時間を織る事の象徴で、それを自分の身にまとうことが、世の災いを鎮める力につながるということなのかもしれません。

 麻の麁服(あらたえ)は、古代から阿波国忌部氏が奉織することが定められており、鎌倉時代頃からは、忌部氏の子孫である三木家が調進を行い続けてきました。

 一方、絹の繪服(にぎたえ) は、古来から東三河豊橋市豊川市の周辺)のもので、その理由として、はっきりしたことはわからないとしたうえで、東三河の絹の質が高いからと説明されていますが、本当にそれだけの理由なのか疑問です。

 この二つの地域は、当時、都のあった近畿圏に隣接する西と東で、ともに中央構造線の上にあるのですが、そのことと、神の依り代となる布織物との関係は、どこにも説明されていません。

 私は、この中央構造線というのが、日本の祭祀の根幹において、重要な鍵を握っているのではないかと思っています。

 中央構造線上には、伊勢神宮をはじめ日本を代表する聖域がズラリと並んでいます。

 そして、記紀の中の国譲りの神話で、最終的に雌雄を決するのはタケミカズチとタケミナカタの力比べですが、この二つの神を祀る聖域の代表が、茨城県鹿島神宮と長野県の諏訪大社であり、これらの地も中央構造線上なのです。

 国譲りの神話なのに、鹿島や諏訪の聖域は、邪馬台国ヤマト王権の拠点である九州や近畿に比べて、随分と東に寄っています。

 また、アマテラス大神が岩戸に隠れてしまう前、スサノオが横暴に振舞っていても、アマテラス大神は、理由あってのことだろうと寛容です。しかし、アマテラス大神が機屋で神に奉げる衣を織っていた時にスサノオが機屋の屋根に穴を開けて皮を剥いだ馬を落とし入れ、驚いた1人の服織女の陰部に横糸を通す道具が刺さって死んでしまった時、アマテラス大神は、天の岩戸にこもってしまうのです。

 つまり、スサノオは、織物を神に捧げるという行為を冒涜し、そのため、昼も夜も区別のない暗闇の世界になってしまいました。

 すると、アマテラス大神の復活は、当然ながら、織物の復活も意味します。

 だからかどうか、伊勢神宮の内宮では、誰でも知っているアマテラス大神だけではなく、天の岩戸からアマテラス大神を外に導き出したアメノタヂカラヲと、織物の神である栲幡千千姫命(タクハタチヂヒメノミコト)も一緒に祀られています。

 栲幡千千姫命は、火瓊々杵尊ホノニニギノミコト)の母親ですが、ホノニニギノミコトが天孫降臨の後に娶ったコノハナサクヤヒメもまた、機織りをしていたところ、声をかけられました。

 織物にはそれだけの深い意味があるのです。

 新しい天皇が即位する時の大切な儀礼である大嘗祭で重要な役割を果たす麻織物の産地である阿波(徳島)と、絹織物の産地の東三河が、中央構造線上にあり、国譲りの主役であるタケミカヅチの聖域の鹿島神宮タケミナカタの聖域の諏訪大社中央構造線上です。

 鹿島神宮奥宮近くに、三十センチほどの石を祀る小さな祠がありますが、この石は、地表に出ている部分は全体のごく一部で実際は地中深くまで達する巨石であり、地震を起こす原因となる巨大なナマズの頭を押さえていると伝えられ、要石と呼ばれます。つまり、タケミカヅチの聖地は、明らかに、大地の下のエネルギーと関係しているのです。

 そして、天の岩戸の神話で活躍するアメノタヂカラヲは、伊勢神宮に近い佐那神社で古くから祀られており、さらに吉野に多く見られる九頭神社などにも祀られていますが、伊勢神宮から吉野、高野山のラインは水銀の鉱脈のあるところで、中央構造線上です。

 さらに、アメノタヂカラヲの聖域として長野県の戸隠神社がよく知られていますが、戸隠神社諏訪大社の真北に位置しており、日本海に面した糸魚川から、諏訪大社、太平洋に面した静岡市を結ぶ糸魚川・静岡構造線に接しています。糸魚川・静岡構造線は、西側のユーラシアプレート、東側の北アメリカプレートというプレートの境界線なのです。

 日本列島は、四つの巨大なプレートが重なる複雑な地殻構造の上に存在していますが、その重なりの一つが、ここにあります。

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世界屈指の巨大な断層である中央構造線にそって、西から東まで重要な聖域が並ぶ。東から茨城の鹿島神宮、長野の諏訪大社、そこから南に曲がり、ゼロ磁場で知られる分杭峠東三河の霊山の本宮山、その麓の砥鹿神社、愛知の豊川稲荷、三重の伊勢神宮、奈良の吉野離宮高野山、和歌山の日前神宮、淡路島の南でオノゴロ島の候補である沼島、徳島の大麻比古神社、愛媛の石鎚神社、熊本の阿蘇神社、鹿児島の新田神社。そして日本海糸魚川から太平洋側の静岡市までが、糸魚川・静岡構造線というプレートの境界。中央構造線糸魚川・静岡構造線の交わるところが諏訪。日本の真ん中、南北にのびる赤い垂直のラインは、東経138.07度で、北からアメノタヂカラヲを祀る戸隠神社諏訪大社(下社)、南アルプスを経て、アメノタヂカラヲの娘の和魂を祀る阿波々神社、荒魂を祀る事任八幡宮

 糸魚川・静岡構造線の西は、5億5,000万年前 から6,500万年前の古い地層なのに対し、東は2,500万年前以降の堆積物や火山噴出物で出来ており、東と西で地層構造がまったく異なるものになっており、この糸魚川・静岡構造線と、中央構造線が交わるところが、国譲りの主役の1人、タケミナカタの聖域である諏訪ということになります。

 また、戸隠神社諏訪大社の真南に南アルプスがあります。北アルプスとともに南アルプス日本の屋根と呼ばれますが、北アルプスには火山がたくさんあるのに対し、南アルプスには火山が一つもありません。地質的にも、火山の噴火でできた火成岩ではなく、地中深くでマグマが冷えて固まった花崗岩が隆起してできた山脈が南アルプスなのです。

 東日本の火山帯は、北海道から東北を通り抜け、八ヶ岳や富士山のところで南へと進路を向け、伊豆半島、伊豆諸島へと続きます。

 南アルプスは、その火山帯に向き合うように連なる、別の地質で形成された巨大な壁なのです。

 その南アルプスの真南に、静岡県掛川市の阿波々神社と事任八幡宮が鎮座します。

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南アルプスの南端、粟ヶ岳の山頂に鎮座する阿波々神社。

 

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阿波々神社の真南に鎮座する事任八幡宮


 阿波々神社と事任八幡宮の場所は、戸隠神社諏訪大社と同じ東経138.07度です。 

 阿波々神社の祭神は、阿波比売(アワヒメ)ですが、社伝によれば天津羽羽神(アマツハハノミコト)の別名であり、この神は、アメノタヂカラヲと同じとされる天石戸別命(アマノイワトワケノミコト)の娘です。

 また、事任八幡宮の祭神は、日本でここだけに祀られている己等乃麻知媛命 (コトノマチヒメノミコト)という神ですが、この神は、阿波比売(アワヒメ)の荒魂です。

 つまり、アメノタヂカラヲの娘である天津羽羽神(アマツハハノミコト)の和魂が阿波々神社に祀られ、荒魂が事任八幡宮に祀られていることになります。

 日本列島の火山帯は、東と西に分かれ、東は北海道から伊豆半島、西は、南洋諸島から九州、そして山陰へと抜ける構造になっており、この二つのあいだ、近畿を中心に東は東三河、西は四国において、火山は存在しません。

 

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洞爺湖有珠山ジオパークのホームページより)

 

 火山国日本のなか、火山が存在しない近畿を中心にしたエリアの東西の端で、中央構造線上にある場所が、大嘗祭で重要な役割を果たす麻織物の阿波と、絹織物の東三河なのです。

 そして、東日本の火山帯を遮る壁のようになっている南アルプスの東経138.07度のラインに、世界の暗闇を終了させたアメノタヂカラヲとその娘が鎮座しているのです。(西の火山帯の壁は島根県の出雲)。

 中央構造線や、糸魚川・静岡構造線は、日本の大地を引き裂く巨大な断層です。当然ながら、地下のエネルギーは凄まじいものがあり緊張を孕んでいますが、火山は、大地が引き裂かれる断層の上にできるのではありません。火山は、プレートの下に沈み込んだ海のプレートからの水の働きによって上部マントルの一部が融けて上昇していき、マグマが形成されて、それが地表に噴出することで生じますので、プレートの境界などの断層の近くに、断層と平行して並ぶ傾向があります。

 そして、地殻のエネルギーが高まれば大規模な噴火になりますから、巨大な断層の中央構造線糸魚川・静岡構造線は、火山噴火や、それと連関する大地震などをもたらす地下活動の変化をキャッチする重要なセンサーだと言えるでしょう。

 それゆえ、そこに聖域があり、神が祀られるというのは、理由があってのことと思われます。

  中央構造線上で、直接的に政治とつながる場所としては、吉野離宮があります。

 律令国家の体制を築いた天武天皇は、古代最大の内乱とされる672年の壬申の乱の時、吉野離宮で挙兵を行いました。吉野離宮があった場所と考えられている宮滝遺跡は、中央構造線の緑色変岩の断層崖に面しています。

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吉野離宮のあった宮滝遺跡。

 そして、壬申の乱の勝利の後、天武天皇は、679年、皇后となった鵜野皇女(後の持統天皇)や草壁皇子ら6人の皇子を連れて吉野離宮を訪れ、異母兄弟同士互いに助けて相争わないことを誓わせた吉野の盟約を行っています。

 また、持統天皇は、在位中に31回、文武天皇への譲位の後も2回、吉野離宮行幸を行っています。

 吉野は保養地でリフレッシュのために訪れていたのかもしれないという意見もありますが、季節に関係なく行幸を行っていますので、保養のためといより、天皇の大切なつとめを果たすために吉野離宮を訪れていたと考えた方がいいのではないでしょうか。持統天皇の後、文武天皇元正天皇聖武天皇の時も、吉野宮への行幸が行われています。

 これらの天皇が吉野離宮に何度も通っていた時は、まさに『古事記』や『日本書紀』が編纂された頃です。吉野離宮には、いったいどんな意味があったのでしょう。

 『日本書紀』には応神天皇雄略天皇の吉野行幸の記事が見られるものの、離宮が築かれたことを明確に示している記事は、656年、斉明天皇の時です。

 斉明天皇は、天智天皇天武天皇の母親ですが、49歳という高齢で皇極天皇として即位し、乙巳の変大化の改新)の後に弟の孝徳天皇に譲位しますが、孝徳天皇の死後、62歳の時、再び斉明天皇として重祚するという異例の天皇です。

 この皇極天皇斉明天皇)の時代、日本書紀には、天変地異のことが数多く記録されています。

 即位1年6月、日照りがある。7月、客星が月に入る(不吉)。蘇我蝦夷が仏教儀式を行っても雨は降らず、8月、天皇が拝むと雨が降る。即位1年10月、8日地震、9日地震。11月、大雨と雷。12月、春のような気候。即位2年1月 五色の雲が立つ。大風が吹く。4月、大風と雨。即位2年5月、日食。即位2年8月、茨田池の水が藍の汁のような色になり、虫が浮かび、水が凝固し、魚が死んだ。斉明天皇即位1年5月、空に竜に乗るものが見える。即位6年、ハエの大群が現れたので、救援軍が敗れる予兆と考えた。

 ハエに関しては、推古天皇が亡くなる前も、

 即位34年、蘇我馬子が亡くなって、長雨で飢える。即位35年にハエが大量に発生、即位36年 推古天皇が病気になり、日食で太陽が消え、推古天皇が亡くなる。

 という記録があります。

 この場合の”ハエ”も、上に述べたように、単なる昆虫の蝿でなく、火山噴火による火山灰など、より深刻な影響を与える不吉なものだと思われます。

 天変地異が頻発した時代、祈雨の拝みで結果をもたらす神がかった能力を発揮した斉明天皇は、吉野離宮を築きました。

 そして、天武天皇も、神がかった力を備えていたようで、『日本書紀』の天武天皇の巻において、冒頭、天皇の出自や幼名などが紹介されたあと、いきなり「天皇は天文や遁甲(とんこう)の術をよくされた」という文章が見られます。そして、その実例として、壬申の乱の際のエピソード、「横川に着こうとするころ、黒雲が現れ、広がって天を覆った。天皇はこれを怪しんで、式(ちょく)を執り、『これは天下が二分されるという天象だが、最後には私が天下をとるであろう』と占った」とあります。

 この神がかった力を持つ天武天皇が、吉野離宮で、子供達に争わずに協力してやっていくように盟約を結ばせ、持統天皇は、その吉野離宮に33回も行幸を行っています。

 これらは、吉野離宮という場所が中央構造線上にあることと無関係とは思えません。上に述べたように、麻の麁服(あらたえ)と、絹の繪服(にぎたえ) を準備する場所、諏訪大社鹿島神宮伊勢神宮日前神宮など、重要な聖域の多くが、中央構造線の上に鎮座しているからです。

 日本は、4つのプレートの境界ということもあり、地下にエネルギーがたまり、地震や噴火が頻発します。こうした環境下において国と民の安らかさを願ううえで、大地の下の状況に無関心でいられるはずがありません。

 ならば、地下のエネルギーの問題への対応と、国譲りがいったいどういう関係を持つかについて、さらに考える必要があります。 

 絹の繪服(にぎたえ) を準備する東三河の古くからの霊山、本宮山の山頂には、三河国一の宮で、大己貴命(おおなむちのみこと)を祭神とする砥鹿神社の奥宮が鎮座しますが、この奥宮も、里宮も、中央構造線上にあります。

 そして、砥鹿神社の奥宮にも里宮にも、荒羽々気(アラハバキ)神社が鎮座します。また、アラハバキ神は、本宮山の登り道にあたる新城市の石座(いわくら)神社にも祀られており、この神社は、弥生時代の遺跡の上に作られ、すぐ近くには、石器時代から縄文時代にかけての遺物が出土した大ノ木遺跡があります。

 アラハバキ神というのは、主に東北や北海道で祀られており、本州では、東三河の地に多く祀られています。

 もともとは、古代先住民の祖神、守護神だと考えられていますが、非常に複雑なプロセスを経ており、この神の歴史は、日本の複雑な古代史を解く鍵とも言えます。

 民俗学者吉野裕子氏が古代の蛇信仰と関わりがあるとし、谷川健一氏は、塞の神であると説明しています。それ以外、製鉄と関係しているという指摘もあります。

 いずれにしろ、アラハバキ神は、客人神(まろうど神)で、これは、外部からやってきたマレビトの神が、その土地に定着することもあれば、その逆に、外部からやってきた側が主力になって、その土地のもともとの神をそのまま取り入れて残しているケースがあります。

 宮城県多賀城は、ヤマトの王権が、東北の蝦夷を制圧するために築いた拠点ですが、このすぐ近くにもアラハバキ神を祀る聖域があり、谷川健一氏は、朝廷が蝦夷から多賀城を守るためにアラハバキ神を祀ったとしています。

 このあたりの事情は複雑ですが、谷川氏によれば、ヤマト王権蝦夷統治は、「蝦夷をもって蝦夷を制す」というもので、もともと蝦夷の神だったのを、多賀城を守るための塞の神として祀って逆に蝦夷を撃退しようとしたということです。

 この発想は、後の時代、怨霊を手厚く祀ることで守り神になるという御霊信仰にもつながり、菅原道眞などに代表される怨霊神の起源が、アラハバキ神だとも言えます。

 しかしながら、谷川氏の仮説とは逆に、もともとのアラハバキ神の聖域に、多賀城を作った可能性があります。

 というのは多賀城の真北、岩手県奥州市に、巨大な磐座を聖域とする磐神社があり、東北の安倍氏が、この大岩をアラハバキ神として尊崇していたからです。アラハバキ神は、遥かなる古代から、この南北のライン上に鎮座していた可能性が高いのです。

 この磐神社のすぐ近くには、奥州安倍一族の城郭だったとされる安倍館跡があり、安倍氏は、あえてアラハバキ神の聖域の近くに城を作ったのではないでしょうか。

 安倍氏は、謎の多い氏族です。陰陽道で有名な安倍晴明や、飛鳥時代、大規模な船軍を率いて蝦夷を討ち、さらに白村江の戦いでも将軍として朝鮮半島に向かった阿部比羅夫や、蘇我入鹿を暗殺した大化の改新乙巳の変)の後に左大臣となった阿部内麻呂など中央で活躍した者も多くいます。

 「あえ」 は「饗(あえ)」であり、天皇食膳奉仕をすることです。それが阿部氏の役割でした。安倍晴明は、陰陽道で有名ですが、父の安倍益材も安倍晴明自身も、大膳大夫という饗膳を供する機関の官僚を勤めています。

 饗膳の仕事は、祭祀や外交などにおいても重要な役割を果たし、さらに天皇の側近に仕えるため、朝廷警備も担当するので、必然的に情報力と軍事力を備えていきます。

 そのようにして7世紀の阿部氏は、政権内で大きな力を持っていましたが、もともとは、東北地方においてヤマト王権によって制圧された蝦夷で、俘囚だったという説もあります。

 俘囚の中から俘囚を管理する俘囚長が選ばれ、彼らが、中央でも活躍するようになっていったと考えられます。

 その阿部氏が、平安時代岩手県北上川流域に城砦を築き、半独立的な勢力を形成することになり、1051年から1062年、朝廷と激しく戦い、最終的に滅ぼされます。奥州12年戦争、もしくは前9年の役と言われています。この阿部氏が、飛鳥時代、中央の有力豪族だった阿部氏とどういう関係になるのかが詳しくわかりません。

 いずれにしろ、この阿部氏が、岩手県奥州市の磐神社でアラハバキ神を大切に祀っていたのです。

 そして、磐神社から真北に伸びるライン(東経141度)に岩手山があり、その北麓に釜石環状列石があり、さらに真北の青森の夏泊半島下北半島最北の大間に縄文遺跡があり、函館の大船遺跡、伊達市の北黄金貝塚と、世界最古の漆や刀剣などが出土した重要な縄文遺跡が続きます。そして、その最北が余市で、ここに三つの環状列石が集中し、そのそばに、日本最古の龍神を祀るといわれる金吾龍神社があるのですが、この奥宮にアラハバキ神が祀られています。

 そして、この東経141度のラインは、実は大規模な火山帯のラインと一致しているのです。

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余市地域にある三つの環状列石の一つ、西崎山環状列石。

 

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北海道の余市には日本最古の龍神を祀るといわれる金吾龍神社が鎮座し、この奥宮にアラハバキ神が祀られている。この神社の近くに三つの環状列石があり、この東経141度のライン上に、環状列石や縄文遺跡が並ぶ。  余市の真南は、室蘭岬のそばの北黄金貝塚。その南、内浦湾を超えて函館の大船遺跡、その南、津軽海峡に面した戸井貝塚津軽海峡を越えて大間のドウマンチャ貝塚、その南、陸奥湾を越えて夏泊半島の付け根の平内町の60の縄文遺跡、そこからまっすぐ南に奥羽山脈が伸びて、岩手山の北麓に、釜石環状列石がある。  日本最大の環状列石である秋田の大湯環状列石群は、ラインから少し西にずれているが、奥羽山脈の西の花輪盆地にある。そして、岩手山の真南、岩手県奥州市に磐神社があり、ここは阿部氏がアラハバキ神を祀る聖域。さらにここから真南が多賀城で、この地にもアラハバキ神の聖域ある。

 縄文遺跡は、東国をメインに日本の至るところに広がってはいるものの、主に北海道と東北、そして、長野と山梨に遺跡が極端なほど集中しています。

 新潟も火焔土器が有名ではありますが、たとえば土偶は、日本の各地で発見されてはいるものの、北海道、青森、岩手、長野、山梨が、圧倒的な数を誇っています。

 そして興味深いことに、これらの地域は、火山の集中地帯なのです。

 縄文文化が、火山地帯において特に発達しているのに対して、ヤマト王権のあった近畿は、火山がまったくありません。これはいったいどういうことなのでしょう。

 日本の火山地帯の分布を、もう少し詳しく見ていくと、さらに興味深いことがわかります。

 日本には主に二つの連続する火山地帯があり、一つは、北海道、東北、関東から静岡県に至り、そこから愛知県や関西方面には向かわず、南に進路をとり、伊豆半島、伊豆諸島に続いていきます。

 そしてもう一つは、南洋諸島から九州、そして山陰の出雲へと続くものです。

 なかでも、通常の噴火とはスケールがまったく異なる超巨大噴火は、日本列島では過去12万年間に18回、発生したようですが(火山学者の早川由紀夫群馬大学教授が、噴火時の噴出物の総量を基準としてシミュレーションを行った)、その多くは、北海道、東北、九州の火山で、そこに鳥取県の大山、島根県の三瓶山がふくまれています。

 これらの場所は、北海道の余市から東北の奥羽山脈へと続くアラハバキ神の聖域であり、さらには天孫降臨出雲神話の舞台です。 

 火瓊々杵尊ホノニニギノミコト)が天孫降臨した場所は、高千穂ですが、そのひとつの候補が鹿児島と宮崎の県境の高千穂峰で、これは霧島連山の第二峰であり、七千年まえから八千年前の噴火によって出現した成層火山です。

 霧島は、日本の代表的な火山地帯で、火山や、火口湖が二十ほど集まっています。その中の新燃岳は、2019年11月から火口直下を震源とする火山性地震が増加するなど、現在も、いつ噴火してもおかしくない活火山です。2011年にはマグマ噴火があり、2018年にも爆発噴火があり、噴煙が8000メートルまで上がったと推定されています。

 天孫降臨神話のもうひとつの候補地は宮崎県高千穂町で、阿蘇山の超巨大噴火で形成された火砕流台地の一画です。

 いずれにしろ、高千穂は、霧島や阿蘇といった日本有数の火山地帯であり、そこに火瓊々杵尊ホノニニギノミコト)が降り立ったことになっています。

 これは史実ではなく神話であり、その神話が秘めたメッセージは、この国の火山活動を鎮めることが期待されての天孫降臨だったということではないでしょうか。

 火瓊々杵尊ホノニニギノミコト)の”ニニギ”は、親和的であるとの意味ですが、”ホ”は、天孫降臨の際にアマテラス大神から稲穂が授けられたために、一般的には稲穂のことと解釈されていますが、火という漢字を使っているのに、それは不自然です。

 また、ホノニニギノミコトと結ばれたコノハナサクヤヒメは、一夜の契りで身篭ったことを疑われた時、産屋に火をつけて、ホノニニギノミコトの子であれば無事に生まれるはずと言い、火照命(海幸彦)・火須勢理命火遠理命(山幸彦)という、”火”がつく三柱の子を産みました。

 この話からすれば、ホノニニギノミコトの”ホ”も、文字通り、稲穂ではなく火そのものの意味で問題ないはずで、それゆえ、ニニギは、火に対して親和的な神ということでいいのではないでしょうか?

 ホノニニギノミコトと結ばれたコノハナサクヤヒメも、富士山や浅間山などの火山で祀られている神様です。

 そして、東征を行う神武天皇の実名も、彦火火出見(ひこほほでみ)であり、ここにも”火”が関係しています。

 その神武天皇は、『日本書紀』の中で、東征にあたって、兄達や子供達に語りかけます。

昔、火瓊々杵尊ホノニニギノミコト)は天關(アマノイワクラ)を開き、雲路(クモヂ)をかき分け、先駆けの神を走らせて、地上に降りました。その時はまだ世界は開けていなかった。その暗い世の中で、正しい道を養い、この西の偏(ホトリ)の土地を治めた。

 しかし、遥か遠くの地はまだ恩恵を得られていない。境界をつくって分かれて、互いに侵し合っている。

 ところで鹽土老翁(シオツチノオジ)から聞いたのだが、

『東に美(ウマ)し国がある。青い山を四方に囲まれて、その中に天磐船(アマノイワフネ)に乗って飛んで降りた者が居る』とのこと。思うに、その土地は必ずこの大きな事業を広め、天下に威光を輝かせるに相応しい場所だろう。六合(クニ=国)の中心となるだろう。

 その飛び降りた者とは饒速日ニギハヤヒ)だろう。その土地へと行って、都にしようではないか

 

 この話の中で、ホノニニギノミコトの天孫降臨の際、アメノタヂカラヲのように天關(アマノイワクラ)を開いたというのが興味深いですが、いずれにしろ、新しいコスモロジーに基づいた恩恵を広げるためにホノニニギノミコトが降臨し、そのコスモロジーに基づく国の中心に相応しい場所としてヤマトの地を選び、神武天皇が東征を行ったという内容です。

 そして、神武天皇は幾つかの試練を経て、奈良盆地畝傍山の東南の麓に、宮を築きます。その橿原宮の位置は、火山が存在しない近畿の真ん中で、さらに、日本を代表する火山である阿蘇山と富士山を結ぶライン上になります。

 橿原宮が実際に存在したかどうかは別として、神話の中で定められているところが、阿蘇山と富士山を結ぶライン上であることは紛れもない事実で、その近くに飛鳥の宮や藤原京が建設され、祭政一致のまつりごとが行われていたことも事実です。

 神話がフィクションであっても、神話を作った人々の意識の中に、富士山と阿蘇山があったことは間違いないでしょう。なぜなら、橿原宮の位置だけでなく、イザナミイザナギが国産みによって最初に作ったオノゴロ島の有力候補である沼島(淡路島の南)の位置は、阿蘇山と富士山を結ぶラインのちょうど真ん中であり、この場所に降り立って、イザナミイザナギは、次々と島を産んでいくのです。

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富士山と阿蘇山を結ぶライン上に、神武天皇が最初に宮を築いたとされる橿原宮がある。さらに、富士山と阿蘇山のあいだは約750kmで、そのちょうど真ん中の375kmのところが、淡路のすぐ南の沼島になる。オノゴロ島を淡路の沼島とすると、イザナミイザナギが産んだ8つの島というのは、オノゴロ島の東にオオヤマト、東回りに西にイヨ、その後、ツキシ、オキ、サド、コシまで、法則性のある図形の上を辿っていくことになる。(その次のオオシマとキビコシマが、どこかわからない)。

 これほどまで神話が、火山との関係を踏まえて創造されていたとすれば、神武天皇に激しく抵抗したナガスネヒコが何ものであるかということも考えなければなりません。

 ナガスネヒコを、「スネの長い」異族のこととする説もありますが、ナガスネは、長背嶺で、つまり長く伸びる山脈と捉える説もあります。

 すると、東北の火山地帯である奥羽山脈などが頭に浮かびますが、実際に、東北では、ナガスネヒコと、脛(すね)につける服装品である脛巾(はばき)という言葉をもつ荒脛巾神(アラハバキ)を同一視するところもあります。

 神武天皇の東征神話がフィクションであったとしても、荒脛巾神(アラハバキ)は、古代から現在まで実際に存在しており、記紀の編纂において、神武天皇とのあいだに軋轢が生じた存在として、荒脛巾神(アラハバキ)のことが念頭にあった可能性はあります。

 上に述べたように、アラハバキ神は、東北の奥羽山脈という火山帯にそったところに多く祀られています。

 そして、東日本の火山帯が途切れたところに急激に隆起した南アルプス(火山の多い北アルプスに比べて火山が一つもない)を壁にするように東三河の聖域があり、そこにもなぜかアラハバキ神が集中的に祀られ、ここが、大嘗祭で準備される聖なる二つの布、麁服(あらたえ)と繪服(にぎたえ)のうち、絹織物の繒服(にぎたえ)の産地なのです。

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東三河の古くからの霊山、本宮山の山頂には、三河の国の一宮である砥鹿神社が鎮座するが、すぐ傍にアラハバキ神を祀る聖域がある。この写真の場所は国見岩や岩戸神社という聖域で、砥鹿神社の奥宮の、さらなる奥の院ということになる。

 ”あら”と”にぎ”、すなわち、荒魂(あらだま)と和魂(にぎだま)は、神の霊魂が持つ2つの側面のことであり、この神の御魂の二面性が、神道の信仰の源となっています。

 荒魂はその荒々しさから新しい事象や物体を生み出すエネルギーを内包している魂とされ、和魂は優しく平和的で、仁愛、謙遜、運によって人に幸を与える働き、収穫をもたらす働きがあるとされます。

 そして、荒魂として現れた霊魂は、鎮め祀られることによって和魂となります。

 天皇の祈りというのは、この二つの魂が示す森羅万象の有様を、ともに大事なものとして受容し崇めながらも、時折、人間の営みに破滅的な災禍をもたらす荒魂を鎮め祀り、和魂に転換させ、国と民の安らかさを願うものなのでしょう。

 おそらく、縄文時代から祀られてきたアラハバキ神は、火山との関わりが強い荒ぶる神だったのではないでしょうか。縄文人は、荒ぶる神を身近なものとすることで、自然を畏れる気持ちを常に維持し続け、そのことが自然との調和均衡を崩さない暮らしを続けさせる力となり、人間社会においても長く平和が維持されていたのだと思われます。

 これはとても不思議なことで、東北だけでなく、長野から山梨にかけても、八ヶ岳と富士山という巨大な火山を結ぶライン上に、千を超える縄文遺跡が集中しています。

 縄文人は、狩猟採取をするのなら移動生活を送っていてもおかしくないのに、なぜか数千年以上にわたって火山帯の上に集落を築いています。八ヶ岳から富士山につながる火山帯から横に外れたところに、縄文の集落は、ほとんど存在しません。そして、八ヶ岳周辺の火山帯の上に集中する縄文集落からは、それと平行するように連なる火山のない南アルプス雄大な景観が眺められるようになっています。

 しかし、弥生時代となり、大陸から入ってきた新しい知識や技術によって、人間の自然観は少しずつ変容していきます。たとえば洪水対策などにおいても、自然の脅威の前にただ怖れおののいて生贄や人柱を捧げるなどといった行為は消えていき、人間の知恵と技術で食い止めるということを始めます。

 その結果、自然を畏れる気持ちも希薄になり、傲慢になった人間と人間が争い続けるようになります。弥生時代倭国大乱などの状況が、そのようなものでしょう。

 国譲りや天孫降臨という神話は、古い勢力を支配した新しい勢力の正当化というよりは、後には戻れない人間社会の変化において、再び、人間と自然のあいだを調和させようとする精神的な創造行為であり、その要に天皇の祈りを位置付け、天皇の祈りの意義、その正当性を伝えるためのものだったのではないでしょうか。

 そして、その祈りの中心として火山のない近畿が選ばれましたが、大地の下のエネルギーを敏感に感じられる場所として、中央構造線上の吉野に離宮が築かれたのです。

 天孫としての天皇陛下に求められたことは、一般の人々がともすれば忘れがちになる荒魂と和魂という森羅万象の二つの側面を、ともに受け入れながら、人間社会に活力と平和を賜るよう祈り続けることなのでしょう。

 日本の信仰が、森羅万象の和(にぎ)と荒(あら)をともに尊重する心構えに基づいているため、アラハバキ神に代表される天孫降臨以前の神様たちも、決して消滅させられることなく、隠れていながら大切な場所で、共存し続けているのではないかと思われます。

 なぜなら、それこそが、この国の祈りの形なのですから。

 

 

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第1144回 邪馬台国とは何か? 日の本、阿蘇山と富士山をつなぐもの。

 

 女王卑弥呼邪馬台国がどこにあったかというのは、いつになっても多くの人の関心を集める。

 邪馬台国があったのは近畿か九州かという議論は、長く続いてきた。

 初期ヤマト王権が宮を築いた奈良盆地の纒向にある箸墓古墳は、今でも卑弥呼の古墳だと思っている人が多いし、木津川沿いの椿井大塚山古墳から大量の三角縁神獣鏡が出土した時は、この場所こそが邪馬台国だと主張する人もいた。近年では、淡路や近江などで弥生時代の大規模な鍛治工房が発見され、さらに2年ほど前には、徳島の阿南にある古代の水銀鉱山が弥生時代のものであるとわかり、それは、これまでの日本の鉱山の歴史を一挙に500年も遡らせ、邪馬台国のお国自慢が1箇所増えた。

 九州や近畿に限らず、日本全土から出土する弥生時代の遺物は、これまでの弥生時代のイメージを覆すほど、かなりの先進性を伝えている。少し前までは、日本の鉱山は奈良時代が最古で、それまでの時代は、鉄をはじめとする金属は輸入に頼り、日本国内でそれを加工する程度だったとされていたが、そうした歴史学者の設定だと説明つかない規模の金属製品が、日本中から出土している。

 もはや、はっきりとしていることは、弥生時代の先進地域は、九州と畿内に限らないということだ。そして、弥生時代以降、金属の武器も大量に作られたわけだから、争いも激化しただろう。

 肝心なことは、中国の歴史書に残る卑弥呼邪馬台国というのは、そうした争いを勝ち抜いて全てを統一した国ではないということ。

 弥生時代に、九州か畿内にあった国が日本全土を侵略して巨大な国を治める野心を持っていたとは、とても思えない。いったんは侵略することができても、それを維持管理することは大変だ。山や谷が多い日本は、地形が複雑で、地図で見るよりも広大な世界なのだから。

 九州、畿内、東国などの地域において、小さなクニに分かれて頻繁に争いが繰り返されていたことは十分に想像できる。死者も多く出て、クニは荒れるわけだから、いかにして争いを減らし、お互いに連合できるかを真剣に考えた人物はいただろう。その人たちが集まって、一つの秩序的な形を作り上げた。それが、倭国大乱の後の卑弥呼邪馬台国なのだろうと思う。女性の巫女を中心に置くことで、クニとクニが連合する新たなシステムが整えられた。

 それが、たとえどこかローカルな場所に限定される出来事であったとしても、中国の歴史書に記録が残ったことは、後世において大きな意味を持った。

 一つの集団が新しい秩序的世界を作ろうとする時、周りのものたちへの説得力を強めるために、その正当性を示す必要がある。これは、中国の長い歴史においても繰り返し行われてきたことだ。

 中国の場合、古くは秦の始皇帝の時から日清戦争の清に至るまで、ほとんどの統一王朝が、西や北からの騎馬遊牧民の侵攻によるものだが、それらの勢力は、自らの系譜を、古代中国の夏や殷や周につなげようとした。そして、賢人は、古代国の治世を理想的なものとして崇めた。

 夏や殷や周などは中国大陸のごく一部だけを治めていただけで、他の地域では他の勢力が凌ぎを削っていたが、中国王朝の歴史の中に、夏や殷や周の記憶が特別に深く刻まれた。それは、やはり、文字による記録がしっかりと残されていたということが大きい。

 日本の邪馬台国の場合も、これと同じだと思う。

 日本の歴史において、邪馬台国がどこにあったかということが、現代の我々が想像している以上に大きな意味を持つ時代があった。

 それは6世紀から7世紀、第26代継体天皇から飛鳥時代にかけてだった。この時代は、朝鮮半島において、高句麗の南下や、新羅の勢力が拡大するなど日本の周辺が緊張を孕んでいた。日本から朝鮮半島への出兵は、それまでは1000人程度だったのに、6世紀になって同盟国の百済などから派兵が求められ、継体天皇の21年には、6万人が筑紫まで行ったと記録されている。

 日本もまた、この時期、一つのまとまった国として朝鮮半島や中国に対応しなければならないという状況になっていたのではと思われる。

 その時に、急遽、天皇に即位することになったのが、北陸の豪族で、尾張の海人たちと連合していた継体天皇だった。

 当時、中国や朝鮮半島から多くの渡来人がやってきて、政治や軍事においても重要な役割を果たすようになってきており、日本は、国としてのアイデンティティを再構築する必要があったのではないかと思われる。

 卑弥呼の時代は、邪馬台国がどこにあったとしても、それとは関係なく日本各地で様々な勢力が凌ぎを削っていたことが考古学的にも証明されている。

 しかし、卑弥呼邪馬台国は、倭国の中心であると中国が記録に残したところであり、その継承者であるということは、新しいリーダーたちにとってはとても大事なことであった。

 古墳中期の大古墳の世紀が終わり、5世紀後半から6世紀にかけて、畿内の有力な豪族が拠点とする地域で、古墳の内部に奇妙な変化が起こる。それまでの代表的な棺であった長持形石棺とは形も材質も違う新しい棺が登場するのだ。阿蘇のピンク石を使った家形石棺である。

 それまで、兵庫県加古川の竜山石や、奈良県葛城市と大阪府太子町のあいだの二上山の凝灰岩など、畿内の石が有力者の古墳の石棺として切り出されていたが、遠く離れた阿蘇の地から、わざわざ巨岩を運んできた。

 このことについては、第1139回のブログで、古代の復活をテーマに記事を書いた

 高槻の継体天皇の古墳とされる今城塚古墳の阿蘇のピンク石の石棺は、わりと多くの人に知られているが、それ以外に、物部氏、大伴氏、阿部氏など、6世紀以降、重要な役割を果たした豪族の拠点とする場所の古墳が阿蘇のピンク石の石棺を使っており、畿内で10箇所が発見されている。しかも、奈良市天理市桜井市橿原市藤井寺市羽曳野市と、ぐるりと奈良盆地を取り囲む重要な拠点に配置され、さらに、琵琶湖の水上交通の要衝である三上山の麓、日本最大の銅鐸が出土したところの2つの古墳もそうだ。阿蘇のピンク石の石棺は、これ以外、吉備に2つほど見つかっているだけで、6世紀頃の近畿の主要勢力と関係ある石棺ということになる。

 6世紀のはじめに即位した第26代継体天皇は、第16代仁徳天皇から第25代武烈天皇までとは血がつながっていない。

 武烈天皇が子供を残さなかったので、大伴金村物部麁鹿火が、過去に遡って第15代応神天皇の血を受け継いでいるのではないかという理由で見つけてきた豪族が継体天皇だ。そして、継体天皇は、即位した後も20年もの間ヤマトの地には入らず、クズハ(現在の枚方市)、ツツギ(京田辺市の甘南備山の麓)、オトクニ(向日市)など、淀川から木津川の河川近くに宮を築き、死後も、奈良ではなく、淀川近くの今城塚古墳に葬られた。

 このことについて、通説では、新しく天皇となった継体天皇が、旧勢力が多く残る奈良の地を警戒したからとされているが、阿蘇のピンク石の石棺の配置でもわかるように、高槻と、畿内の重要な拠点はネットワークが形成されており、高槻の周辺の三島地域が、琵琶湖と瀬戸内海と奈良盆地からちょうど等距離にあり、淀川、木津川、宇治川桂川の河川交通を有効に使える場所で、それが、国のまとまりと、外敵に備えるうえで最適だったと考えた方が自然だ。

 そして、阿蘇のピンク石の石室で結びついているからといって、当時の有力者が九州出身だったということではなく、中国の歴史書に記された邪馬台国が九州の阿蘇の地だという共通認識を彼らが持っていて、それを統一のアイデンティティにしたのではないかと思われる。邪馬台国の時代は、彼らの時代とは300年ほどしか違わないし、中国から多くの知識人が渡来している状況でもあり、邪馬台国の情報を共有することはさほど難しくはなかっただろう。

 阿蘇のピンク石は、有明海側の宇土の馬門というところに石切場が残っており、そこから船で畿内へと運ばれたと考えられている。

 宇土の馬門の真東には、阿蘇山の近く、日神を祀る幣立神宮がある。その東西のライン上に沈目遺跡があって、3万年前の日本最古の石器が出ている。

 阿蘇山から西の平野には、数多くの古代の史跡が発見されている。

 ただ、こうした古い遺跡は、日本国中、至るところにあるので、ここが邪馬台国だと決める理由にはならない。

 邪馬台国論争をする人たちのあいだで、混迷の原因になっているのが、魏志倭人伝に残された邪馬台国までの道程だ。

 書かれた道程をそのまま当てはめると、どんどん南になって南洋諸島になってしまうという人もいたり、近畿こそが邪馬台国だと主張する人は、南ではなく、東の書き間違いだとしている。

 この道程の記述に関しては、その距離や日数を単純に足していくと、南洋諸島になってしまうけれど、戦後、東京大学榎一雄氏が発表した興味深い説があり、それは伊都国を中心にして、そこから放射線状に各地域のことを記載しているというものだ。確かに、魏志倭人伝の文章を見ても、この説が妥当ではないかという気がする。その内容は、以下のようになっている。

 

始めて一海を渡ること千余里で、対馬国に着く。

また南に一海を渡ること千余里、瀚海(かんかい。大海・対馬海峡)という名である。

また一海をわたること千余里で末廬国(まつろこく。松浦付近)に着く。四千余戸ある。

 

ここまでの文章は、「また南に」、「また一海をわたる」と、”また”という言葉がついているので、その距離を足していけばいい。

しかし、次からは、”また” という言葉がなくなる。 

 

東南に陸行五百里で、伊都国(いとこく・いつこく。糸島付近)に着く。

東南の奴国(なこく・ぬこく。博多付近)まで百里

東行して不弥国に(ふみこく・ふやこく)まで百里

南の投馬国に行くには水行二十日。

南に進むと邪馬台国(邪馬壹国)に到達する。女王が都とするところで、水行十日・陸行一月

 

 これは見ると、邪馬台国や投馬国は、伊都国からの距離や日数で示しているようにも見えるし、伊都国の前の末廬国からの距離や日数で示しているようにも読める。ただ、末廬国は佐賀で、伊都国は福岡とされるので、いずれにしろ、九州の北だ。

 九州の北から邪馬台国まで「水行十日・陸行一月」となるが、 これは、南に船だと10日だが、陸路ならば1ヶ月ということだろう。

 投馬国の場合は、船で20日。陸行の記述はない。おそらく陸路だと困難な場所だからで、それは霧島など高い峰々を超えていかなければならないからだ。

 そうすると、北九州から、投馬国までの距離の半分が邪馬台国ということになる。そして、投馬国は、「官を弥弥(みみ)といい、副を弥弥那利(みみなり)という」と説明されている。つまり、ミミの人たちが治めているということで、ミミというのは、谷川健一氏が指摘しているように南洋系の航海を得意とする人たちであり、日本各地にその足跡を見ることができるが、鹿児島の大隅半島薩摩半島を拠点とする人々だと思われる。

 そうすると、北九州と鹿児島のあいだが邪馬台国ということになり、阿蘇山周辺がちょうどいい。

 熊本と宮崎のどちらかという細かな議論は専門家に任せるが、邪馬台国阿蘇山が、特別な意味を持つ関係であるのは間違いないだろうと思う。

 そして、歴史認識や神話解釈において間違いやすいポイントが、邪馬台国が九州なら、九州の王権が東に進んでいって近畿を征服したのか、という話になるやすいことだ。

 事実、神武天皇の東征など、そういう物語になっているし、天孫降臨の場所が九州の高千穂なら、そこが日本国家のルーツで、天孫降臨というのは渡来人で、渡来人の国がそこにあったのか、という話になる。

 しかし、そうではなく、6世紀の新国家にとって、自分たちが正当であるというアイデンティティが必要で、そのアイデンティティの獲得のために、中国の歴史書に記録が残っている邪馬台国の存在が重要だった。それは、阿蘇の地の邪馬台国だった。だから、その史実と自分たちを結びつける神話を構築した。さらに、阿蘇のピンク石の石棺は、古来から続いている政権であるというアイデンティティを共有するシンボルになった。

 これは何も特殊なことではなく、日本に限らず、世界中の多くの地域で同じようなことが行われている。中国の歴代王朝でもそうだったが、わかりやすいのがエチオピアだ。

 エチオピアは北部アフリカ諸国のなかで、唯一、イスラム教の侵攻に耐えてキリスト教国家として存続し続けた国だ。キリスト教の求心力があったからこそ、イスラムの侵攻を防いだ後も、ヨーロッパ列強のアフリカ進出に対抗できた。イギリスやフランスは、アフリカの各地域を民族間で分断させ、その分断を利用して巧みに統治を進めて植民地化を行ったが、唯一、エチオピアだけは独立を守り通した。

 そのエチオピアは、イスラムの侵攻にさらされている時代、国の起源に関わる神話を創造した。エチオピアの起源が、紀元前1000年まで遡り、ソロモンとシバの女王の息子、メネリク1世にあるとするものだ。そして、メネリク一世が、エルサレムのソロモン王の宮殿にあった「失われたアーク」(モーセ十戒が刻まれた石版を収めたとされる契約の箱)をエチオピアの地に持ち帰ったする神話。失われたアークは、その後もアクスムのシオン・マリア教会の礼拝堂の中に大切に守られているということになっている。

 この神話を伝えているのは、13世紀に編纂されたエチオピアの歴史書「ケブラ・ナガスト」なのだが、当時は、イスラム世界の猛攻を受けている時期だった。

 実際にエチオピアキリスト教が伝わったのは、エチオピアの北部にあたるエジプトのコプト教を通してであり、それはローマ時代後期のこと。当然ながら紀元前1000年のソロモンの時代ではない。

 しかし、エチオピア人は、シバとソロモンの末裔と称する王によって一つにまとまり、イスラムの侵攻を防いだ。

 この「失われたアーク」は、ふだんは見ることができないが、年に一度のティムカットの祭りの時に、神輿に担がれて人々の前に姿を表すなどという間違った情報も出ているが、祭りの時に出てくるのは、エチオピア各地の教会に大切に保管されている失われたアークのコピーである。コピーであることは、エチオピア人も了解している。しかし、そのコピーは、本物がアクスムにあると信じられているからこそ、意味のあるコピーなのだ。

 本物の「失われたアーク」が、実際にエチオピアアクスムにあるかどうかは、本当は誰も知らない。しかし、そこにあると信じられたうえでコピーが作られ、そのコピーが各地の教会に置かれ、それらの教会が各地の人々の求心力になっているという構造がある。

 20年ほど前、私がエチオピアを訪れた時、不謹慎な質問でも大丈夫だという人物に、もしも研究調査で、アクスムのシオン・マリア教会に「失われたアーク」がないとわかったらどうなるか? と聞いたら、青ざめた顔で、そんなことになったら、一挙に国民のアイデンティティが失われ、国は崩壊すると言っていた。

 白か黒かはっきり決着をつけることが科学の進歩だと信じている人は多いが、グレーのままだから守られている秩序もある。エチオピアという国は、そのようにして、神の力で守られてきた。

 このエチオピアの神話作りは、日本の6世紀から7世紀の状況と共通するところがある。

 当時のリーダー達は、中国の歴史書に書かれた邪馬台国がどこだったのかを知っていた。

 だから、その時点では畿内を中心に国を一つにまとめる努力がなされていたが、自分たちのルーツを九州にして、九州を起点にするような神話世界を構築した。

 そして、国をまとめていく時には男の力が必要だとしても、その後、男同士のエゴで乱れた場合は、女王を国の中心にした方が治るという教訓も、邪馬台国から受け継いでいた。

 6世紀から7世紀を俯瞰してみると、邪馬台国と同じような皇位継承が行われている。

 継体天皇の孫にあたる女帝の推古天皇が即位したとされるのが593年。その直前、前回のブログで書いたように、海部氏の力を背景に穴穂部皇子の横暴があり、穴穂部皇子物部氏と組んで国が二分された。崇峻天皇にも、不穏な動きがあった。

 その2人が蘇我馬子に殺害されて擁立されたのが推古天皇であり、推古天皇は39歳という高齢で即位し、35年もの長きにわたり国の治めている。そのあいだに、冠位12階や17条憲法などが、次々に制定された。そして、推古天皇のもと、後世に横暴だと烙印をおされた蘇我馬子を含む豪族たちの勢力の均衡は保たれていた。

 推古天皇の後、男の舒明天皇皇位を継ぐが、それとほぼ同時に他の男性と結婚していた宝姫王(後の皇極天皇斉明天皇)が、37歳という高齢で舒明天皇の皇后になる。

 そして、現代でも高齢出産で大変な年齢なのに、天智天皇天武天皇、間人皇女を産んだことになっていて、在位12年で舒明天皇が亡くなった時、49歳という高齢で天皇になる。再びの女帝だ。

 その後、大化の改新乙巳の変)が起こり、皇極天皇は、史上初めて譲位を行ない、皇極天皇とは同父同母である弟の孝徳天皇が即位するが、その孝徳天皇が9年後に亡くなると、皇極天皇は、61歳で再び斉明天皇として皇位に復活する。

 その女帝の斉明天皇が亡くなったのが661年。推古天皇の即位から斉明天皇が亡くなるまでの68年のあいだの男帝は、舒明天皇在位が12年、孝徳天皇が9年にすぎない。

 この傾向は、古事記日本書紀が書かれた奈良時代まで続く。

 女帝の斉明天皇の後、天智天皇の在位はわずか4年で、その後、壬申の乱をはさんで天武天皇が即位して13年。そこからまた女帝の持統天皇が7年、男の文武天皇が10年の後、女帝の元明天皇が8年、その娘の元正天皇が9年。次の男の聖武天皇は25年(実際は光明皇后の影響が大きかった)だが、その後にまた女帝の孝謙天皇が9年、男の淳仁天皇(女帝の孝謙天皇上皇として権限を持ち、淳仁天皇は実質的な力がなかった)が6年、淳仁天皇が淡路に流されて、孝謙天皇が再び称徳天皇として復活して6年。

 推古天皇が即位した593年から称徳天皇が亡くなる770年までは177年だが、そのうち女帝の期間が86年、男は79年。女帝が8代、男帝は7代だが、孝徳天皇淳仁天皇などは権限を持たせてもらっておらず、実質的に国のトップといえる男の天皇は、天智天皇天武天皇の2人に、聖武天皇を加えるかどうかという程度だ。

 現在、今上天皇 徳仁に男の子供がいないということだけで、世継ぎがどうなるのかと議論になるが、過去に遡れば、当たり前のように女帝が続いていた。

 アマテラス大神というのは、日本人なら誰でも知っている太陽の女神で、皇祖神として崇められている。

 しかし、この太陽神は、古事記日本書紀で、描かれ方が異なる。

 古事記の方は、よく知られているように、イザナギが黄泉の国から帰った後、禊をしている時に生まれる。

 このアマテラス大神が生まれる時は、すでにイザナミは亡くなっている。

 それに対して日本書紀においては、イザナギイザナミが、山とか木とか草の神を産んだ後、天下を治めるものが必要なのではないかと判断して、大日孁貴(オオヒルメノムチ)という太陽神を産む。その後、月の神が生まれ、太陽神の支えになるだろうということで、この2神を天に送る。太陽神は、アマテラス神と表記されていない。

 その後、なぜか、古事記においては国生みで一番最初に生まれたものの不完全であったために流された蛭子が生まれ、さらにその後にスサノオが生まれるが、スサノオはその時点から我慢がきかず、いつも泣き喚いて、そのため人間は死んでしまい、青い山々は枯れ果てたので、イザナギイザナミは、根の国に追放する。

 そして、その後にカグツチが生まれるのだ。

 それからは、古事記と同じような展開となり、カグツチが生まれて全身が焼かれて死んだイザナミに会うために、イザナギが黄泉に行くが、醜く姿の変わったイザナミに恐れをなして地上へと逃げ帰り、穢れを落とすために禊をする。

 その時、左目を洗った時に天照大神が産まれる。

 イザナミイザナギが一緒に産んだ太陽神は、大日孁貴(オオヒルメノムチ)と呼ばれたのに、イザナミが死んだ後、禊によって生まれた太陽神は、天照大神となっている。これが、私たちのよく知っている皇祖神、アマテラス大神だ。すると、太陽神は、イザナミの死の後、禊を通して別の名前で復活したことになる。

 これをどう解くか?

 私は、邪馬台国の時に、卑弥呼が祀っていた日神が、大日孁貴(オオヒルメノムチ)に該当するのではないかと思う。

 その後、九州に限らず日本各地で、カグツチイザナミの死で象徴される凄惨な事態となり、それはおそらく様々な地域で強力になった武器による戦乱を意味しているのだと思うが、その乱れた状況をとりあえず終結させたのが、6世紀の継体天皇以降の時代なのではないか。

 その時、かつて邪馬台国で祀られていた日神が、あらたに天照大神として復活した。元からあった太陽神ではなく、穢れを祓う禊を通して、新たに現れた太陽神のもとで国を一つにまとめ、新秩序を作り上げようとしたのだ。

 その努力は、もちろん継体天皇1人の力ではなく、継体天皇の子の欽明天皇や孫の推古天皇の時代にも引き継がれ、いくつかの混乱を経て、天武天皇の時代まで続けられたのかもしれない。

 日本という国名は、日の本(ひのもと)からきているが、そのことについて、一般的には「やまと」が日出ずる国だからと説明されるが、その程度の意味だろうか。

 中国に使者を送る時は、日が上るところからやってきました、ということで構わないが、中国との関係より大事なのは、日々、生きている国内のことだ。

 

 日の本(ひのもと)の 大和の国の 鎮めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 富士の高嶺は 見れど飽かぬかも

                      (万葉集 巻3・319 作者不詳)

  (日本の大和の国の鎮護としてまします神よ。宝ともなっている山よ。駿河国の富士の高嶺は、見ても飽きないことだなあ。 )

 

”ひのもと”は、やまとの枕詞だ。大和の枕詞は、そらみつ、秋津島、敷島など他にもあるから、”ひのもと”という言葉を響かせて、大和ときて、神ときて、富士とくると、”ひのもと”の”ひ”は、火を連想させる。

 この歌の場合、火のもとの大和の国の鎮護の神は富士山だが、邪馬台国阿蘇山の関係も同じだ。やまとの鎮護の神は、火の山だった。

 どこまでが偶然で、どこまでが必然かはわからないが、阿蘇山と富士山を結ぶと、そのラインが、ちょうど現在の橿原神宮、初代神武天皇が最初の宮を築いたと神話に記されるところを通る。

 そして淡路島のすぐ南の沼島も通るが、ここは、オノコロ島の有力候補の一つだ。日本書紀によれば、イザナギイザナミは、最初に産んだオノコロ島に降り立って、ここを国中之柱(クニナカノミハシラ)とした。その後、イザナギは左に、イザナミは右に、柱をまわって出会ったところで陰陽を合わせ、まず初めに淡路島を産んだ。それは、吾恥(=アワジ)だった。*第1140回のブログで、「恥」と、神に奉斎する巫女の関係を書いた。

 イザナギイザナミは、アワジの後、オオヤマト、イヨ、ツクシ、オキノシマ、サドノシマ、コシノシマ、オオシマ、キビコジマと産み、この8つが、オオヤシマグニとされた。それ以外の、イキや、ツシマは、潮の泡や水の泡が固まってできた。(つまり、イザナギイザナミは直接関与していない)。

 不思議なのは、下のラインのように、オノゴロ島を淡路の沼島とすると、イザナミイザナギが産んだ8つの島というのは、オノゴロ島の東にオオヤマト、東回りに西にイヨ、その後、ツキシ、オキ、サド、コシまで、法則性のある図形の上を辿っていくことになる。(その次のオオシマとキビコシマが、どこかわからない)。そして、富士山と阿蘇山のあいだは約750kmで、そのちょうど真ん中の375kmのところが、淡路のすぐ南の沼島になる。これは、単なる偶然なのか必然なのか。

 この話は、イザナミイザナギが日本の国土を作ったというより、この神話が作られた時の国家、阿蘇と富士をつなぐアイデンティティを共有して連合する勢力の範囲を示しているのかもしれない。

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阿蘇山と富士山を結ぶライン上に、ヤマトの中心と、オノゴロ島候補の沼島が位置する。沼島は、阿蘇山と富士山のあいだ750kmのちょうど真ん中である。

 そして、機内のヤマトの地において、このラインから南1kmのところに、日本の古墳の中で、もっとも奇妙な古墳がある。

 それは、丸山古墳である。この古墳は、天武天皇持統天皇の陵の候補ではあるが、被葬者は、継体天皇の息子、欽明天皇ではないかという説もある。

 墳丘の長さが318mもあり、日本で6番目に大きな古墳だ。しかし、この古墳は6世紀後半のものとされており、古墳が巨大化した5世紀前半から中旬から150年近く経っている。また、天武天皇持統天皇の治世は7世紀後半なので時代が合わない。

 さらに、5世紀の巨大古墳が縦穴式の長持型石棺であるのに対し、この古墳は、家形石棺で、横穴式の石室が28.4mもあり、日本の古墳全ての中で最大なのだ。

 そして、通常の石室は円墳の中央に置かれるが、この丸山古墳では中央から20mほどずれてしまっている。

 その理由はわかっておらず、私の想像では、6世紀後半に活躍した有力者のために、5世紀に作られた巨大古墳に、日本最大の横穴式の石室を設置しようとしたためではないだろうか。

 さらに不可思議なことは、この古墳の400mほど東に植山古墳があり、この古墳が、阿蘇のピンク石の石棺を用いており、推古天皇と竹田皇子の古墳と推定されている。

 しかし、この南800mの平田梅山古墳を、宮内庁欽明天皇陵としているが、欽明天皇の古墳が丸山古墳か植山古墳で、平田梅山古墳の被葬者は、蘇我稲目ではないかという説もある。 

 いずれにしろ、6世紀から7世紀にかけて、新体制を築くために努力していた者たちの中で最高位の人物の陵墓が、九州の阿蘇山と富士山を結ぶラインのところに集まっているのである。

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阿蘇山と富士山を結ぶラインのところに、6世紀から7世紀のヤマト王権の中枢が集まる。ラインの真上が神武天皇橿原宮が築いたとされる畝傍山、右上は藤原京(ラインから1km以内)、左下が飛鳥の宮、三角形の三つの点が、日本最大の石室を持つ丸山古墳(左)、阿蘇のピンク石の石棺を持つ植山古墳(右)、欽明天皇陵(下)である。

 天孫降臨のニニギとコノハナサクヤヒメが、上に述べたエチオピアのソロモンとシバのように、日本の天皇家の起源ということになるが、2人が出会ったとされる場所は、いろいろな説があるものの、神話上の人物の話なので、事実かどうかわからない。そんなことより、コノハナサクヤヒメが富士山の祭神として崇められてきているということについて、もう少し考える必要がある。

 コノハナサクヤヒメと富士山がつながっている理由について、納得できる説明は見られない。父親が山の神だからといって、娘が富士山の神様になる必要もないだろう。

 また、コノハナサクヤヒメは、はかない命の象徴でもあり、富士山の堂々たる様とは結びつかない。だから、コノハナサクヤヒメは、一般的に桜を重ねてイメージされる。

 しかし、木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)の木花は、本当に桜なんだろうか? 木花は、現在でも、樹氷とか樹霜のことを指す。実際の花ではなく、木についた霜とか凍った水滴が花のように見える状態。

 コノハナサクヤヒメが、富士山の樹氷とすれば、それはそれでつながるし、はかない命を象徴する理由にもなる。しかし、コノハナサクヤヒメは、浅間山などでも祀られているし、樹氷ならば、わざわざ富士山である必要がない。

 だとすると、樹氷ではなく、やはり火山と関係しており、花咲か爺さんの物語のように、火山の灰が霜のように樹木に積もって、花に見えるイメージを表しているのではないか。

 つまり、コノハナサクヤヒメは噴火の神様で、富士山の噴火は、遠く離れた場所でも火山灰を運び、木花を咲かせたのだ。しかも、火山灰によって太陽の光が遮られ、夜のように暗くなった状態で。木花之佐久夜毘売には、”木花”と”夜”という言葉がついているのだから、この説明で、大きな矛盾はないはずだ。

 富士山は単独峰であるため、かなり離れたところからも美しい姿を拝める山だが、噴火の時に立ち上る噴煙は、近いところだと凄まじい迫力だったろうが、遠く離れたところから見ると、神がかった美しさがあったのではないか。

 コノハナサクヤヒメが、吹き上がる噴煙や火山灰の神様であるとすると、浅間山で祀られている理由も納得できる。

 ニニギが、阿蘇山の近くに天孫降臨し、富士山を象徴するコノハナサクヤヒメと出会い、結ばれる。この二人の末裔が”やまと”であるのだから、阿蘇山と富士山を結ぶライン上に新たな国の中心を置いたことは必然だった。

 そして、邪馬台国の日神を復活させることで、やまとは、古代と一つながりになる。

 やまとは、火と日のもとにある国なのである。

 

 

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第1143回 古代は未来への架け橋となりうる。

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丹後の竹野の海岸に立つ穴穂部間人と聖徳太子の母子像。

 

 現代社会で他者との競争に明け暮れて生きる私たちは、私たちの意識というものは、自分の言動を管理している自己意識が全てだと思いがちだ。

 そして、社会での色々な不安や悩み、他人と比較した優越感や劣等感、確執や争い、喜びや満足も、この自己意識の基準の上に生じている。

 脳の専門家の説明では、右脳は感情的な部分を担い、左脳が論理的な部分を担って、そこから人間意識が生じるとされる。

 それに対して、ジュリアン・ジェインズが、『神々の沈黙』という著書の中で、私たちの意識は、古代において大きく変わった時期があったと述べている。

 彼は、その意識の変化は、アルファベット文字を使い始めた紀元前1000年頃と判断した。その根拠として、ギリシャ最古の叙事詩ホメロスの神話において、書かれた時期の異なるイリアスオデッセイアの二つの物語に着目し、イリアスが書かれた頃と、オデッセイアが書かれた頃の言葉の使い方の違いから意識のあり方の変容を見出し、それを、右脳言語から左脳言語への移行というふうに捉えた。

 その言語野の変化によって、人間意識の変化が現れ、それまで自分と世界が一体化されていたのに次第に分断され、社会の変化として、巫女の減少と消滅のことが挙げられていた。

 アルファベットの登場以前、人間の言語野が右脳にあった時は、巫女が、社会の中に当たり前のように存在した。しかし、アルファベットの登場後、言語野が右脳から左脳に移行していくにしたがって、巫女は少なくなり、しかし巫女の重要性は認識されていたため、巫女な素質のある者をデロス島などに住まわせ、世俗的な穢れに染まらないように隔離して育てた。しかし、さらに時代が下り、ローマ時代になると、その努力すらほとんど効かなくなってしまったようだ。

 アレクサンダー大王は、アリストテレスを家庭教師に持つ理性的な人物であったが、東征前に、デロス島の巫女の神託を受けていた。それほど、巫女の存在が重視されていた。それは迷信とかではなく、実際の世界においても、不可欠な力だったようだ。

 そして、ジュリアン・ジェインズは、フェニキア文字以前の未解読の文字言語、ヒッタイト文字やミケーネ文字などが詳しく解読できるようになれば、人間は、現在の自己中心的な意識ではない方法で世界とアクセスすることが可能だと覚ることになるだろうと預言した。

 ジュリアン・ジェインズは、ただの知的好奇心で、このような研究と考察を続けていたわけではない。彼は、我々の左脳言語に偏重した意識が、今日の様々な歪みを生み出していると認識していた。

 たとえば幸福感なるものは、満たされた感覚を得られればそれで幸福なはずなのに、左脳意識のロジックが介入すると、人と比較したり、社会的な体面とか色々な分別で、それを計ろうとして、せっかくの喜びを損なってしまう。

 優劣とか不安とか焦燥とか猜疑心などという幸福感を蝕むものは、左脳意識のお得意な分別から生まれている。この不幸な状況を抜け出すための意識の回路を、ジュリアン・ジェインズは見出そうとしていたのだと思う。

 左脳意識よりも右脳意識が思考回路の軸になるような思考というものはどんなものか。それを知るために、左脳言語を主体にした思考(科学的分析)で、フェニキア文字以前の文字言語を解釈したとしても、意識の構造が異なるから、真の意味で理解できない。理解したと思っていても、それは左脳意識の思考の癖でそう決めつけているだけのこと。

 これは、左脳言語と右脳言語のあいだだけでなく、文学作品などの翻訳でも起こる問題だ。いくら外国語の単語の意味を多く記憶していたとしても、文脈を読む力、書かれている内容の背後を読む力が弱いと、その真の意味を捉えて翻訳することはできない。

 欧米言語の場合は、アルファベットの使用が、意識の変化に大きな影響を与えた。ならば、日本の場合はどうなのか。

 日本の場合は、ヒッタイト文字などのように3000年以上前に遡らなくても、2000年から1000年前に、そうした変化があったのではないか。

 長く平和に続いた縄文時代は、それ以降とはまったく異なる世界観があったのではないかと想像できるが、おそらく意識の在り方も、それ以降とは異なっていたのではないか。

 しかし、弥生時代が始まってからは、急激に島国以外からの人々が増え、異なる文化背景を持つ人々が、この狭い島国で争うこともあっただろうし、そのことによって凄惨なことになったため、まとまって生きていくためにはどうすればいいのか、ということも真剣に考えざるを得なかっただろう。

 そして、国を束ねていく人たちのあいだで、共通文字として漢字が導入された。その漢字を、島国で古くから育まれてきた意識との調和を実現するために、様々な工夫が重ねられ、古事記日本書紀万葉集をはじめとする多様な表現も創造された。この時代が、古代ギリシャでは、ホメロスの神話の時代にあたるのではないだろうか。

 その後、ギリシャでは哲学が発展し、その強固なロジックをもとに、民主制が敷かれる。

 日本も日本ならではのロジックを獲得し、律令制を強化していく。

 しかし、日本の古代の特徴的なところは、おそらくそれ以前の時代がとても豊かで長く続き、その蓄積が大きかったからだと思うが、漢字という中国から輸入した言語に重きを置く意識に抵抗する別の意識が膨らんでいった。そして、仮名文字を、豊かに育んでいく道が、表現分野において実践された。

 石川九揚氏が、二重言語国家・日本という見事な書物で、漢字とひらがなという日本語の二重構造から浮かびあがる日本文化および日本人の意識の深層を、鋭く解いていく試みを行ったが、まさに、日本という国、日本人の意識を考えるうえで、この二重構造に対する認識は不可欠だ。

 私は、漢字と仮名文字を調和させていく試みが、日本の長く平和に続いた古代の記憶を、タイムカプセルのように現代まで伝える箱舟になったのではないかと思っている。

 そして、その揺籃期において、紫式部をはじめとする女性が力を発揮したということ、また、女性にそれを可能にさせる社会構造が、長年の歴史的蓄積によって整えられていたことも大きかったと思う。

 古代日本は、この部分において、きわめて成熟を遂げた社会だった。 

 古代、地方から選ばれて宮中に仕えていた采女と呼ばれる女性も、今日の基準で言うところの美人とか、スタイルがいいとか、そんな下卑た基準ではなく、教養や品格が大事だった。

 宮中に仕えるといっても、単に夜の相手をしたり、お手伝いさんだったわけではなく、大王の話相手や、幼い姫や皇太子の教育係でもあったのだから。

 社会において、女性の文化的地位が高かったのは、おそらく、それ以前から、その基礎が準備されていたからだろう。このことが、日本文化において、とても大きかった。

 というのは、やはり、男性に比べて女性の身体の方が、月経や出産など、自然の摂理に即してできており、自然に基づいた身体に宿る意識は、左脳の自己都合的なロジックに勝るものだからだ。

 1000年ほど前、紫式部などの女性を中心にして、新しい日本の文学が創造された。その文学は、今日では単に文学部、絵画部、音楽部などに分断された専門的部門の一つにすぎないものになってしまったが、言語を使うことで意識を整えていく人間の精神にとって、文学は骨格である。もしも、文学は自分には無縁だと鼻で笑って他分野の表現活動に勤しんでいる者がいたとしたら、時代の風潮のなかで人に受けたりそうでなかったりすることはあっても、古代から箱舟に乗せられて伝えられてきた人間精神の普遍性を、未来へとつなぐ仕事とは、また別のものだろう。

 紫式部たちが創造した文学の中に宿る精神は、その後の様々な表現者や為政者に影響を与えた。本来の詩人は、ホメロス(1人とは限らない)のように言葉の力によって精神の箱舟を生み出すものであって、単に詩と呼ばれる定型の言語活動をする人のことではない。だから、詩人は、画家や音楽家や写真家と違って、詩家とはならず、詩の人であり、名刺の肩書きとなる業界や専門ジャンル、ましてや社会的ステイタスではない。

 

 「詩は志の之くところなり。心に在るを志と為し、言に発するを詩と為す。」

                             (白川静 字統より)

 この意味において、詩心が、過去と未来の紐帯となってきた

 源氏物語」を、実際に読んだこともないのに、漫画や、流行の早わかり本からの断片的情報で、プレイボーイの女性遍歴だと思っている人がいたら、それは非常に残念なことだ。

 「源氏物語」は、ホメロス神話のように、古代の精神と次の時代の精神をつなぐ役割を果たしており、それは、紫式部に、そういう志があったからだ。だから彼女もまた、当然ながら、真の詩人である。

 その紫式部に影響を与えたと思われる竹取物語

 紫式部が、源氏物語のなかで、「物語の出で来はじめの祖(おや)なる竹取の翁」と書いているように、日本最古の物語といわれるが、成立年も、作者もわかっていない。原本も存在しない。もっとも古い写本でも、室町時代に書かれたもので、それでも原本の時代から300年が経っており、しかも、この写本はほとんど流通しておらず、多くの人が現代語訳で知っている「かぐや姫」は、江戸時代に活字印刷で出回った「流布本系」を原本としている。

 実際に竹取物語が書かれてから1000年近く経ち、写本を繰り返すうちに、その時々の価値認識にもとずく判断で、文脈は大きく変わっていないにしても表現に修正が加えられていった写本を、竹取物語の原本としているのだ。

 助詞や助動詞の表記も、1000年前と同じかどうかわからない。

 「ぬ」という文字も、否定なのか完了なのか、未然形、連用形、終止形など、学校教育の古文で習う方法論に添って理解しようとしても、そもそも、平仮名一文字が書き換えられていたら、意味が大きく違ってしまうことになる。

 なので、物語の真意は、文脈全体から判断していくほかない。

 しかし、文脈といっても、古典研究に精を出すだけや、物語の中だけを解析してもわからないだろう。文章の背後のことを想像力で補えるだけの時代認識も必要だ。

 上に述べた”巫女”ということについても、時代によってその捉え方がまったく異なる。

 現代で巫女といえば、神がかりをして、時には口から泡を吹いたりして、わけのわからないことを言う宗教家だと思っている人が多いかもしれない。

 それはともかく、紫式部は、竹取物語から、古代から箱舟に乗せられてきた大切な精神のエッセンスを受信している。それが、”もののあはれ”という形でさらに磨き抜かれていく。

 物語の出で来はじめの「竹取物語」」の作者も、自分勝手な想像力で物語を作ったわけではなく、それ以前の時代から伝わっているものから、精神のエッセンスを掬い取っている。

 竹取物語の成立は平安初期と考えられているが、”もののあはれ”の精神の起源はそれ以前にある。とくに、上に述べたように、漢字という新しい思考の様式が入ってきて、それまでの思考の様式との違いに軋轢を感じながら、なんとかそれを分断させずに調和させようと努力していた時代、6世紀頃からの精神文化が、古代と新しい時代をつなぐ架け橋として、非常に大きな役割を果たしたことだろう。

 文学作品は、上に述べたような修正が加えられ、原本に触れることもできず、原本のように信じられている多くの写本も修正が加えられており、古代へとアクセスするためのハードルは非常に高い。

 しかし、造形美術は、ストレートに、私たちの左脳意識以外の意識に働きかけてくる力がある。

 完全な形で現存する造形美術として最も古い斑鳩中宮寺の半跏思惟像や、国宝第一号の京都の広隆寺弥勒菩薩像を愛する日本人はとても多い。

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中宮寺 木造菩薩半跏像 (中宮寺ホームページより)、広隆寺 弥勒菩薩(パンフレットより)

 この二つの像を、仏像のジャンルで分けることにまったく意味はない。

 日本が、まだ仏教を消化しきれていなかった時代に作られた、静かに物を思うあの表情、あの微かな笑み、あの佇まいに心惹かれる人が多いのだ。

 竹取物語の作者もまた、中宮寺の半跏思惟像や広隆寺の彌勒菩薩像によって、古代から伝わってきた精神文化のエッセンスを受け取ったことだろう。

 中宮寺の半跏思惟像は、中宮寺に住み、その場所を尼寺にした穴穂部間人や、聖徳太子とつながっている。そして、物部氏蘇我氏の戦いの時に丹後の竹野に隠遁していた穴穂部間人は、竹野の土地とつながっている。そして、第11代垂仁天皇の妃で、竹野媛の後裔で、竹野の地をルーツに持つ迦具夜比売命かぐやひめ)をモデルにしたとされる竹取物語は、丹後の竹野の地の記憶と無関係であるはずがない。

 穴穂部間人が丹後の竹野に隠遁していたのは、おそらく彼女の母親が、その土地とつながっているのだ。母親とは、蘇我稲目の娘で欽明天皇に嫁いだ2人のうち1人の小姉君(おあねのきみ)だ。

 小姉君の娘の穴穂部間人は、用明天皇の皇后になるが、ともに父親は欽明天皇である。そして、用明天皇の母親が、蘇我稲目の娘である堅塩媛(きたしひめ)で、穴穂部間人の母親が、蘇我稲目の娘の小姉君。もしも、堅塩媛と小姉君が実の姉妹だとすれば、用明天皇と穴穂部間人の子供の聖徳太子に流れる血は濃すぎる。

 小姉君は、蘇我稲目の養子と考えるのが自然であり、なぜ彼女を養子にしたのかというと、おそらく、丹後を拠点にする海部氏と同盟関係を結ぶためだろう。

 穴穂部間人が、丹後の竹野に身を隠すことができたのも、母親の実家だからだと考えると筋が通る。

 そして、興味深いことに、蘇我氏が滅ぼされた後に天皇に即位した孝徳天皇の皇后となりながら、難波京において、孝徳天皇と関係を断つようにヤマトの地に帰ってしまった中大兄皇子と行動をともにした間人皇女も、聖徳太子の母親と同じ名前だ。

 彼女は、中大兄皇子の妹とされ、兄妹の間で禁断の恋に落ちたからだとする世俗的な発想の説もあるが、2人を産んだとされるタカラノヒメミコ(後の皇極天皇重祚して斉明天皇)は、他の男性に嫁いでいたのに、37歳の時、突然、舒明天皇の皇后になり、中大兄皇子天智天皇)と大海人皇子天武天皇)と間人皇女を産んだとされる。しかし、37歳以降というのは今でも高齢出産であり、当時だとちょっと考えられない。

 間人皇女は、養子縁組だと判断するのが自然だろう。そして、彼女もまた丹後の竹野の間人と関係している可能性が高い。なぜなら丹後の海部の力は、大化の改新乙巳の変)の後の新政権にとっても重要だからだ。

 丹後の竹野は、羽衣伝説の土地でもあるが、この地域の女性の役割を踏まえることなく、竹取物語の本質にたどり着けないと思う。

 海部氏の拠点である丹後の女性とは、簡単に言うと、神に奉斎する聖なる人であり、さらに同盟関係における紐帯。

 中世の戦国時代において、同盟関係を結ぶ大名同士の間では、妻や子供が人質にとられたが、古代において、同盟の紐帯で人質の役割も負う女性は、時には皇后になり、皇統を継ぐ子供を産む人物でもあった。

 垂仁天皇の皇后となり景行天皇ヤマトタケルの父)を産んだと神話に記録される日葉酢媛(ひばすひめ)も丹後の女性である。

 とくに、丹後の竹野川流域は、古墳の多さや多くの弥生遺跡などの出土品から判断して、古代から栄えた場所であることは間違いないが、飛鳥時代の頃は、海部氏と呼ばれる海人の拠点でもあった。

 海人は、単に漁に勤しむ人ではなく、船舶を自由に操る人たちであり、古代世界において重要な役割を果たしていた。

 古代に限らず、中世においても、たとえば豊臣秀吉は、瀬戸内海の村上水軍を味方にするための懐柔策を駆使しており、水軍が敵につくか味方になるかで、勝負の行方が決まってしまうところがあった。

 海部氏と尾張氏アメノホアカリを始祖とする同族であったとされるが、それは、もしかしたら同盟関係の盟約が結ばれたうえでの同族だったかもしれない。尾張氏物部氏が同祖とされるのも、それと同じかもしれない。

 6世紀のはじめ、突然、天皇に即位することになった第26代継体天皇の最初の妃は、尾張目子媛であり、継体天皇は、尾張氏の力を味方につけていた。

 ある日、突然、福井の王が、歴史の表舞台に登場したわけではないのだ。

 壬申の乱で勝利を収めた大海人皇子天武天皇)は、その名からもわかるように、幼少期に、若狭湾の沿岸で、凡海氏(海部一族の伴造) の養育を受けていた。

 欽明天皇の時代に、蘇我稲目が、突然、頭角を現すようになるが、小姉君を通して、丹後の海部氏との関係が深まったからだろう。

 小姉君は、聖徳太子を産んだとされる穴穂部間人や、その兄弟の穴穂部皇子崇峻天皇を産む。

 しかし、穴穂部皇子は、敏逹天皇が亡くなった時、次の王は自分であると横暴に振る舞い、その後、物部守屋と組むが、蘇我馬子に阻止されて、物部氏とともに滅ぼされる。崇峻天皇も、即位したものの自分の思うどおりにできないと不満をもらし、蘇我馬子に殺害される。

 これらのことについて、歴史の教科書は蘇我氏の横暴を伝える。

 しかし、穴穂部皇子の行動は、かなり問題がある。

 というのは、穴穂部皇子は、敏逹天皇が亡くなった直後、炊屋姫(敏達天皇の皇后、後の推古天皇)を犯そうとして、天皇の死体を安置している神聖なる殯宮に押し入ろうとしたのだ。その時、敏達天皇の寵臣の三輪逆(みわのさかう)が門を閉じてそれを防いだのだが、そのことに怒った穴穂部間人は、三輪逆を殺すように物部守屋に命じ、守屋は軍を率いて実行した。その時、蘇我馬子は、「天下の乱は近い」と嘆くが、守屋は「汝のような小臣の知るところにあらず」と答えたと記録が残る。 

 こうした記録を見れば、蘇我馬子は、海部の力を背後に持つ穴穂部間人と物部守屋が結びついて、傍若無人な行動を起こしつつあったことを憂いているようにも見える。

 崇峻天皇の暗殺にしても、崇峻天皇が、蘇我馬子を殺害することを暗示したからでもある。もしかしたら蘇我馬子は、様々な勢力の調和をはかりながら国をまとめていこうと、聖徳太子と協力しながら努力していたにもかかわらず、穴穂部皇子崇峻天皇が、自分たちの背後にある丹後の海部の力をもとに、横暴になっていた可能性もある。

 そう考えないと、蘇我馬子物部守屋との戦いの際、聖徳太子蘇我氏と行動をともにした理由がわからなくなる。いくら、聖徳太子の父親(用明天皇)が蘇我氏の血を受け継ぐとしても。聖徳太子は、叔父の穴穂部皇子の粗暴な振る舞いよりも、蘇我馬子の方が、国を束ねるうえで相応しいと判断していたのではないか。

 蘇我氏は最初、強力な軍勢を持つ物部氏の前に劣勢だったが、聖徳太子が、「この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立し、この世の全ての人々を救済する」と誓いを立てたことで、流れが変わり、勝利したとされる。

 これが大阪の四天王寺の起源であるが、単なる神頼みを行ったわけではなく、河内の勢力を味方につける何かしらの根回しがあった可能性もある。

 物部守屋を弓で射た迹見赤檮(とみのいちい)は、物部氏の一族であるという説もあるが、この戦いの後、勝利の殊勲者として、物部氏の遺領から一万田を賜与されており、彼が寝返ったと想像することは可能だ。

 蘇我氏物部氏の戦いの時、穴穂部間人は、母と義母が蘇我氏の出身で、兄の穴穂部皇子物部氏とつながっていたわけだから、その心中は、さぞ複雑なものだったろう。

 日本神話は、悲劇の女性を主人公にするものが、とても多い。

 旅している天皇が、各地で出会った女性に妻どいをするという形をとっているが、同盟関係を結ぶための手続きが、神話化されているのだろう。

 しかし、大切な紐帯役として嫁いでいく女性は、同盟関係が破綻する時、垂仁天皇の皇后、狭穂姫命(さほひめのみこと)のように、兄をとるか、天皇をとるかと迫られて引き裂かれる。

 世の不条理にさらされて、女性は、よりいっそう神話的な存在となっていく。

 紫式部が書き上げた長編小説の源氏物語も、光源氏のまばゆい魅力が、光源氏と関わりを持つ1人ひとりの女性の個性を、より鮮明に浮かび上がらせる。

 女性たちは、実に多様な、個性ある存在として書き分けられている。

 多様社会といわれる現代、実際のところ、源氏物語の登場人物ほど多様な個性を、1人ひとりが持ち合わせているだろうか。

 源氏物語に登場する女性たちの多様性を生み出すものは、いったい何なのか。

 それは、彼女たちが、世間の基準にそって分別を駆使しながらエゴを肥大化させる人物ではなく、関わりを深める他者の隅々まで気持ちを行き届かせることでエゴを滅却し、その結果、世間の基準が無化された、その人自身の色が立ち上がってくるからだろう。ジュリアン・ジェインズの言葉を借りれば、左脳言語による計画や打算ではなく、右脳言語に即した無為の献身によって、時代を超えた個性的な存在となる。

 それに対して、竹取物語において、かぐや姫に求愛し、かぐや姫に試みられる男性陣の、狡いけれども滑稽な顛末となる言動は、自己基準の左脳言語に即した意識による茶番ということになるだろう。

 竹取物語の作者は、丹後の竹野の女性たちが、異なる勢力のあいだで紐帯の役割を果たしながら運命に翻弄されてきた歴史事実をもとに、神聖なるものと穢れた世俗に関する比喩表現を立ち上げたのではないか。

 今から、1000年以上も前に、人間意識の違いを絶妙に書きとめながら、普遍性を追求している姿勢は、とても感動的であるが、それもまた、古代からの蓄積があってのこと。

 そして、それらの文学が、後の時代に多大なる影響を与えているわけだから、まさに、古代は、未来の架け橋となっている。計算高い左脳意識による計画によってではなく、エゴによって分断される世界の紐帯にならねばという志を育む右脳意識と結びつくことで。

 古代に限らず世界というものは、解釈の度合いを人と競い合うだけでは何にもならない。自分に引き寄せて、その根元を解かなければ、どこにもつながらない。

 

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第1142回 鬼とは何か? という本質的な問い。かぐや姫の背後にあるもの(後半)

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中宮寺 木造菩薩半跏像 (中宮寺ホームページより)

 かぐや姫は、高畑勲監督のジブリ映画で大ヒットして、その映画のサブタイトルが、「姫の犯した罪と罰」だったため、かぐや姫罪と罰は何ぞやと、この映画を見た人たちで議論になったようだ。

 映画の中で、その罪とは、「地球上の虫や鳥や動物たちのように生きること」に憧れたせいだと語られている。

 そのため、「生命そのものの営みが、なんで罪なのか?」という疑問が残されたのだ。

 かぐや姫の罪については、古くから多くの研究者によって議論が繰り返されているが、明確な答えは出ていないようなので、少し考えてみよう。

 竹取物語は、源氏物語のなかで、「物語の出で来はじめの祖(おや)なる竹取の翁」とあるように、日本最古の物語といわれるが、成立年も、作者もわかっていない。

 竹取物語の原文の中で、かぐや姫は、地上に降りた理由として、「昔の契りありけるによりなむ」と述べていて、その段階では、特に、罪をおかしたなどとは書かれていない。

 そして、物語の最後、かぐや姫を迎えに来た月の王は、翁に対して、汝、幼き人と声をかけ、「汝が少し功徳をなしたから、汝の助けになるだろうと、しばらく、かぐや姫を地上に置いておいたが、翁は、それからずっと黄金を貯めづけて、すっかり変わった」と言った後、

かぐや姫は、罪をつくり給へりければ、かく賤しきおのれがもとに、しばしおはしつるなり。罪の限り果てぬれば、かく迎ふるをと述べている。

 ここで初めて、かぐや姫の罪ということが出てくるわけだが、この部分の意味として、「かぐや姫は、罪を犯したために、賤しい翁のもとに(穢れた地球に)、しばらく降ろされたが、罪の期間が終わったので、迎えにきた」とされているわけだが、竹取物語が書かれたのは9世紀から10世紀と考えられているが、その頃はまだかな文学は完全に成立していない。

 そして、竹取物語の原本は存在していない。写本は、物語が書かれた時より300年以上経った室町時代の初期が最古とされている。さらに、室町時代に書かれた写本ではなく、江戸時代に活字印刷で出回った活字印刷で出回った「流布本系」が、現在において、かぐや姫の原文古典の扱いになっている。そして、このプロセスの中で修正が加えられてきたこともわかっている。

 なので、この部分を、江戸時代に書かれたものを基準にして理解しようとすると、どうにも意味が通らないような気がしてならない。

 前後の文脈から判断すると、ここで月の王が述べる言葉は、現世の罪というものは、(そのままにしていたら)限りがない、ということではないのか?

 私がそのように解釈するのは、かぐや媛は、月から迎えが来る前、月に帰りたくないと嘆き悲しみ、迎えが来てからも、世間のしがらみに執着し続け、喜怒哀楽の虜の中であり、天界から見たら、まさに罪の中にあるように思えてならないからだ。

 しかも、羽衣を着せられるギリギリの瞬間まで、帝宛に言い訳じみた手紙を書き、手紙と一緒に不死の薬を地上に残す。

 不死の薬なぞというものは、究極の執心であり、自然界の摂理に反する究極の罪である。虫や鳥や動物たちのように生きることとはまったく相反する人間ならではの煩悩だ。

 かぐや姫は、俗界で生きているうちに、煩悩の虜になっていた。

 結婚を進められて、「浮気でもされたら後悔するに違いない」と答えたり、5人の男を試したりする行為などは、自己にとらわれ心おごる状態である。

 しかし、かぐや姫は、羽衣を着せられた瞬間、一切の執心が消え、卑しい翁のことを、いとほし、愛しと思しつることも失せて」、何事もなかったように車に乗って、月に帰っていくのだ。

  かぐや姫は、罪をおかしたから地球にやってきたのではなく、俗界で長く生きていると罪に限りがなくなるから、月の世界からお迎えが来たのではないか。

 かぐや姫は、俗界で喜怒哀楽の暮らしを続けた結果、財を蓄えることにしか精を出さない賤しい翁に対してさえ執着してしまっていた。

 羽衣を着るというのは、そうした俗界の執着の外に出ることなのだ。

 かぐや姫の物語で、最も重要なところは、かぐや姫が去った後である。

 かぐや姫が残した手紙と不老不死の薬を受け取った帝は、

逢ふことも 涙に浮かぶ わが身には 死なぬ薬も 何にかはせむ」

 と呟く。この部分を、「嘆き悲しみの中にいる自分にとって、不死の薬は、なんの役にも立たない」と訳してしまうと、ちょっとニュアンスが変わってくる。

 逢ふことも 涙に浮かぶ という情景は、かぐや姫との出逢いを、幻のように思い返して見ている状況のように感じられる。

 この状態は、羽衣を着せられたかぐや姫が、憑き物が落ちたようになった状態と近い。

 帝にとっては、不死の薬、それがどうした? 自分には関係ない。という感じだ。

 それは、役に立つとか立たないかという俗界の分別を超えて、哀しみの中の諦観であり、哀と真の愛がイコールになる心境だ。

 そして、帝は、その不老不死の薬と、かぐや姫からの手紙を、駿河の山の頂上で燃やさせる。その山は「富士の山」と名付けられ、燃やされた煙は、未だに雲の中に立ち上ると伝えられている。 

 この最後の文章に、この作者の”もののあはれ”観が表現されているのに、無粋な研究者は、「当時の富士山は、火山活動が活発だったことを表している」などと説明する。

 この物語の最後、肝心なことは、帝は、不死の薬だけでなく、かぐや姫からの手紙も燃やさせたことだ。

 雲の中の向こうは、かぐや姫が帰っていったところであり、不死の薬や手紙といった執心につながるものは、煙となって、俗界のことはすっかり忘れているかぐや姫の世界に上っていくのである。

 帝の到達した達観の境地がそこに表現されており、その世界観こそが、”もののあはれ”である。

 この竹取物語を起源に、源氏物語など日本特有の文化が育っていくことになる。

 竹取物語を本流とするならば、垂仁天皇に帰された竹野媛の物語や開化天皇の時の竹野媛の物語、そして羽衣伝説は、支流である。それらの水が集まって竹取物語になっていく。

 その源は、かぐや姫のモデルとなった迦具夜比売命かぐやひめのみこと)の曽祖母である竹野姫が巫女をつとめた丹後の間人である。

 かぐや姫が帰っていったところは、俗世間を離れて忌み籠り、神に奉斎するところでであろう。

 前回のブログに書いたように、古代、太陽の神も月の神も、天の神の両目だった。

 竹野媛の父親の由碁理(ゆごり)は、丹後の籠神社に伝わる海部氏勘注系図では、始祖・天火明命の七世孫と記されている。

 籠神社の発祥は、現在、奥宮になっている真名井神社で、天火明命豊受大神を祀ったことを起源としている。

 丹後の地は、全国でもっとも豊受大神を祭る聖域が集中しているところだが、峰山町に、月輪田という三日月型の水田の史跡があり、豊受大神が、天照大神のために籾種を蒔いて稲作をした場所が月の輪田であるとされる。また、真名井神社においても、豊受大神は、月神の一面を持っているとされている。

 この竹野の地が、蘇我氏物部氏が争っている時、聖徳太子の母親、穴穂部間人が隠遁していたところであった。

 そして、第26代継体天皇は、竹野にルーツを持つ竹野媛ゆかりの堕国や、かぐや姫の父親ゆかりの筒城を、都にした。

 第50代桓武天皇も、堕国に長岡京を建設し、その後、筒城の甘南備山の頂上から北を見て、そのライン上に平安京の真ん中の朱雀通りを計画し、その上に、羅生門大極殿を築いた。しかし、桓武天皇平安京を造営する前に、甘南備山の真北のライン上には、竹野媛と同じく甚凶醜(いとみにくき)という理由でニニギに忌避された磐長姫を祀る西賀茂大将軍神社が鎮座していたのである。

 さらに不思議なことに、筒城の地の甘南備山から真南に行ったところが、斑鳩中宮寺跡だ。現在法隆寺東伽藍夢殿の東隣にある中宮寺は、室町時代後期までここにあった。

 中宮寺は、聖徳太子の母親、穴穂部間人の宮殿だったものを聖徳太子が寺にした、もしくは、穴穂部間人自身の開基だったとされる。

 中宮寺のあった場所が、京田辺の甘南備山、その真北の麓の月読神社、平安京羅生門平安京の中心の朱雀通り、大極殿、磐長姫を祀る西賀茂大将軍神社と同じ南北ライン上にあるのは、単なる偶然なのだろうか。

 中宮寺には、凛として気高い半跏思惟像がある。この仏像は、如意輪観音像と称されているが、造像当初の尊名は明らかでなく、弥勒菩薩像として造られた可能性も高い。

 しかし、そんな分別はどうでもよく、この像は、日本に数多くある像の中で、もっとも美しいものであることは間違いない。気高さがあり、近寄りがたい雰囲気もあるが、見ているだけで人を幸せにする力がある。

 この像は紛れもなく女性であり、穴穂部間人という女性を通して、古代の竹野媛につながる神に仕える巫女を連想させる。

 羽衣を着せられて罪を祓われたかぐや姫は、この半跏思惟像のように、穢れた俗界の愛憎とは無縁の境地であったろうと思う。

                                  (つづく)

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上から、磐長姫を祀る西賀茂大将軍神社、平安京大極殿羅生門平安京の中心、朱雀通りの位置決めの基準となった京田辺の甘南備山(この北麓に月読神社)、斑鳩中宮寺跡。東経135.74で、完全なる南北の一直線上である。

  

 

第1141回 鬼とは何か? という本質的な問い(5) かぐや姫の背景にあるもの(前半)

 前回の記事で、第11代垂仁天皇の時に、甚凶醜(いとみにくき)という理由後宮を出され、その途中、堕国で自殺した竹野媛のことを書いたが、多くの人はマニアックな話だと思うだろう。しかし、この話は、誰もが知っている「かぐや姫」ともつながっている。

 この二つを結びつけるものは、日本海に面した京都府丹後市、旧竹野町の間人という場所である。

 この場所は、竹野媛の生まれ故郷というだけでなく、飛鳥時代蘇我氏物部氏とのあいだで争い事があった時に、聖徳太子の母親の穴穂部間人が隠れていたところでもあった。

 さらに、この場所は、第10代崇神天皇の時、日子坐王による鬼退治があり、さらに飛鳥時代聖徳太子の異母弟の当麻皇子による鬼退治の伝承のある所でもあり、その鬼が追い詰められた場所が、間人の海岸にある立岩だ。 

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間人の海岸にそびえる立岩。

 聖徳太子の母親が隠れていた地域が、聖徳太子の弟によって鬼退治されるというのは、いったいどういうことなのか?

 この謎について、納得感の得られる書物は、私の知る限り、どこにも見当たらないが、日本の古代を考えるうえで避けて通れない問題である。

 今では日本海の寒村にすぎない場所の伝承は、ローカルな昔話でしかなくなっているが、この間人という土地は、古代史を読み解く上で重要な史跡が数多く残されている。 

 立岩から少し行った所に、4世紀末に作られたと考えられている日本海側最大級の神明山古墳があるし、すぐ近くに王の墓とされる組み合わせ式の長持形石棺が出土した産土山古墳をはじめ、古墳が多い。

 さらに、ここは竹野川の河口で、竹野川を遡っていくと、川にそって、弥生時代のハイテク都市として知られ羽衣伝説とも関わってくる奈具岡遺跡や扇谷遺跡などがあり、さらに弥生時代最大規模の墳墓や、青龍3年(235年)という、卑弥呼の時代の年代がきっちりと刻まれた、紀年銘鏡では最古の鏡が出土した大田南古墳もある。しかも、この青龍3年の方格規矩四神鏡は、継体天皇の古墳がある大阪府高槻市の安満宮山古墳から出土した鏡と同じである。

 これらの事実から、竹野川が海に流れ込む間人という土地が、古代史を解く上で、非常に重要な鍵を握っていることがわかる。

 もちろん、「謎の丹後王国論」という研究が行われていることは私も知っている。

 丹後王国論は、この丹後の地に、ヤマトや吉備と並ぶ独立性のある勢力が存在していたという内容で、網野銚子山古墳、神明山古墳、蛭子山古墳など日本海側を代表する巨大古墳が、この地域に集中的に造営されていることがその根拠であり、さらに、その後の様々な出土品から、古代、この地が栄えていたことが実証されている。

 しかし、三つの大きな古墳は、造営の時期がヤマト王権の拡大期と重なっており、しかも、4世紀の中旬頃に作られた蛭子山古墳から、順々に南から北へと場所が移動し巨大化しているので、これらの古墳は、ヤマト王権に対抗する勢力のものではなく、ヤマト王権が、丹後地域に侵攻していく過程を示しているのではないかと思う。

 実際に、神明山古墳は、平城京の北にあるヤマト王権の陵墓群と考えられている佐紀陵山古墳の中の日葉酢媛陵古墳と相似形なのだ。

 このことについての議論は専門家に任せるとして、謎を秘めているのは、聖徳太子の母親とされる穴穂部間人だ。

 結論から先に言うと、この穴穂部間人は、間人に鎮座している竹野神社と関わる存在だろうと思われる。

 竹野神社といっても、現在、巨大な神明山古墳の横に鎮座するものではない。神明山古墳の隣に鎮座する現在の竹野神社は、神明山古墳を築いた勢力が、竹野神社の祭祀を、自分たちの懐に抱き込んだのだろう。この竹野神社には、丹後の鬼退治を行った日子坐王が祀られている。

 竹野神社の参道は、海岸線に向かって伸びているのだが、そこには現在、御旅所がある。そこは竹野川の河口域の弥生時代の遺跡の中で、海岸に鬼が閉じ込められた立岩が聳えている。

 おそらく、そこが、本来の竹野神社の鎮座地だろう。竹野川内陸部には弥生時代の日本を代表するような史跡が散在しており、それらの場所と海をつなぐところに竹野神社があった。

 そして、その竹野神社に仕える巫女が竹野媛だった。

 竹野媛は、古代の記録では、2人存在している。しかも、非常に謎めいたポジションに位置付けられている。

 1人は、前回の記事でも書いたが、丹波道主命の娘で、第11代垂仁天皇後宮に入りながら甚凶醜(いとみにくき)という理由で帰され、その途中、堕国(継体天皇の弟国宮と、桓武天皇長岡京のあったところ)で自殺したとされる女性。この自殺が意味するところについて、殉死=人柱ではないかという考察を、前回の記事で書いた。

 そして、もう1人が、丹波の大県主・由碁理(ゆごり)の娘。第9代開化天皇の最初の妃で、開化天皇が、自分の父親の妃であった物部氏伊香色謎命(いかがしこめのみこと)を自分の皇后にするという現代社会ではタブーのことを行ったため、丹後の地の竹野に帰り、晩年は、竹野神社で日神を奉斎していたとされる。

 この日神は、アマテラス大神のことにされているが、おそらくそうではない。太陽神信仰は、時代との関係で変容していく。

 わかりやすい例として、古代エジプトがあげられる。

 サッカラに階段状のピラミッドが建築された紀元前3000年頃のエジプト初期王朝時代は、天空の神ホルスが最高神として崇められた時代だ。ホルスは、エジプトの神でもっとも古く、もっとも多様化した神であるが、初期のホルス神は、太陽と月を両目に持つ天空神だった。それは光の神でもあり、エジプトの南と北の異なる聖域を自由に行き交っていた。

 ホルス神は、「王そのもの」であり、当時のファラオは、ホルス神の化身、地上で生きる神(現人神)だった。

 そして、二つの目のうち、右目が太陽のラー、左目が月のウジャト。しかし、ホルス神が父のオシリス神を殺害したセト神(砂漠の神)と戦っている時、ホルス神は、左目(ウジャト=月)を失う。しかし、その後、この左目は、エジプトをさまよって様々な知見を得た後、時の神トート神によってホルス神のもとに回復する。

 そのため、月(ウジャト)の目は、「全てを見通す知恵」や「修復・再生」の象徴とされ、魔除けの護符となり、供物の象徴となる。

 太陽を象徴するラーは、当初は、あまねく地上を照らし出す存在だったろうが、ホルスが外敵と戦う国家の守護神になっていくように、ラーも、戦いの力を象徴する存在になっていく。そして、エジプト古王国時代のギザのピラミッドを建造したクフ王の息子、ジェドエフラーから、ファラオは、「ラーの息子」を名乗るようになる。

 月と太陽のホルス神の時代から、太陽が絶対的な中心になるラー神の時代への移行ということだろう。

 紀元前2500年頃、巨大なピラミッドが建設されていた古王国時代のエジプトで、太陽神ラーは、他の神々を生み出したアトゥムと結びついた万物の創造神であり、ファラオはラーの息子となった。

 しかし、その後、ラーは権威が衰え、自らを崇め敬わない人間を滅ぼそうとするようになる。

 やがて、紀元前1500年頃、エジプト南部のナイル川沿い、現在のルクソールを中心にした新王国の時代、ラーは、この地方の豊穣神アメンに吸収され、ラー・アメン神となり、ファラオもアメン神の子となった。

 そして、太陽信仰が創造神から豊穣神に変容した新王朝のエジプトでは、アメン神殿と祭司団は絶大な権力をふるい、王権と対立する勢力になった。

 遊牧系の人々にとって、太陽は宇宙の秩序を司る神として崇められるものだが、農耕系の人々にとって太陽は、植物の成長を促す豊穣の神として崇められる。

 そして、遊牧系の組織においては、宇宙の秩序を司る太陽と一体化した王が強力なリーダーシップを発揮する。それに対して、農耕系の組織においては役割分担が複雑で、生産活動のための各種の儀礼が重要になり、祭祀集団の力が増していき、王に対抗するようになる。

 いずれにしろ、農耕生産が大規模になっていくと、作物の成長に欠かせない太陽が豊穣・生産の神として存在感を高めていき、やがてはその祭祀自体が権威的存在になっていくが、もっとも古い時代においては、修復・再生の力である月も、太陽と等しく豊穣の神として崇敬されていたということだ。

 女性の月経や潮の満ち干にも影響を与える月のサイクルは、人間が循環する自然界の摂理に添った生活を営んでいる時は、再生力や修復力とつながっていると信じられ、そこに生命原理を認識する人々によって畏敬の対象とされていた。日本の縄文時代もそうだった。

 ゆえに、日本の古代においても、巫女というものは、日々の現実の問題に対応するため、太陽と月の両方に奉斎していたはずだ。竹野媛も同じだっと思う。

 月の神は、日本神話の中で三貴神の一つであるはずなのに、アマテラス神やスサノオに比べて、存在感が非常に薄い。記紀のなかでもほとんど出てこない。

 それは、古代エジプトのように、もともと月と太陽は天の神の両目として同等であったのに、現実世界においては太陽の存在感のみが高まっていき、月は、トート神のように知恵の神や、癒しの神としての位置付けとなり、学問や芸術と結びつくものの、現実の裏側で精神的な役割を果たすだけとなっていくからかもしれない。

 竹野媛が還っていく丹後の間人の地というのは、4世紀から8世紀、もしかしたその後の時代において、自然界の摂理に添った人間の営みが行われていた古代の記憶装置のようなところだったのではないだろうか。

 浦島太郎や羽衣伝説、そして竹取物語が、この地に起源を持つのは、単なる昔話なのではなくて、自然界の摂理から離れて穢れていく人間が、自らを省みるために、記憶の中に眠る古代を復活させる試みなのかもしれない。

 同時に、新しい秩序世界の構築を急ぐ新しい権力者にとっては、そうした記憶は、取り除くべき障害物となる。だから、何度もこの地は鬼退治の対象となる。

 しかし、そうした人間のエゴとエゴがぶつかり合う戦いが続いた後、なんとかそれが治った時は、異なる価値観を持った者どうしが一つに和合していくが必要であり、古代の記憶は、重要なかすがいになり得る。そうして、古代の復活が起こる。

 おそらく歴史というのは、そのように、過去と現在を行ったり来たりしながら進んできたのだろうと思う。決して、右肩上がりの一直線に進んできたのではなく。

 

 前置きが長くなってしまったが、過去と現在が行ったり来たりするように、古代においても2人の竹野媛が登場し、その2人は、もちろん無関係ではなく、当時の人間にとって、共通の記憶のなかにある。

 垂仁天皇甚凶醜(いとみにくき)とされた竹野媛は、垂仁天皇の皇后になった日葉酢媛と姉妹であり、父親は丹波道主命だ。

 丹波道主命は、記紀のなかで日子坐王の息子とされて、その母親は、天御影神という鍛治の神の娘の息長水依媛とされる。日子坐王は第9代開化天皇の息子だから、丹波道主命は、王の血を受け継ぎ、さらに、鍛治の神様の血を受け継ぐ存在であるとされている。

 しかし、丹波道主命を産んだとされる息長水依媛だが、その時代は、息長氏は存在しない。息長氏は、『記紀』の中で、第26代継体天皇の曽祖父にあたる意富富杼王(おおほどのおおきみ)を始祖としているのだから、古事記の中で登場する息長水依姫は、それよりも古すぎて、架空の存在ということになる。

 意富富杼王の後、歴史的に息長氏の名が登場するのは、息長真手王であり、彼の娘の広姫の血が、第34代舒明天皇と、その皇后の第35代皇極天皇(第37代斉明天皇として重祚)に流れているとされ、しかも、この2人の子供が、天智天皇天武天皇と、間人皇女とされる。なぜか、ここにも聖徳太子の母親と同じ名前の間人が登場する。

 ここで問題となるのは、日葉酢媛や竹野媛の父親の丹波道主命だが、日本書紀の異説に、彼の父は、彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)となっている。彦湯産隅命の母親が、第9代開化天皇の最初の妃となった竹野媛なのだから、これは重要な指摘だ。

 敢えて異説という形で記録を残したのは、表の情報を得てわかったつもりになる人を対象にしているのではなく、その裏側にアクセスしようとする人に大切なことを伝え残すためだろう。

 残された異説によって、第9代開化天皇の妃でありながら丹波の竹野に帰って巫女となった竹野媛は、第12代垂仁天皇に、甚凶醜(いとみにくき)とされた竹野媛の曽祖母ということがわかる。

 同じ名前なのは、竹野神社の巫女に対して用いられた名前だからだ。

 そして、日本最古の物語とされる竹取物語(日本の昔話でおなじみのかぐや姫)は、竹野媛の息子の彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)の息子である大筒木垂根王の娘で、垂仁天皇の妃の1人になった迦具夜比売命かぐやひめのみこと)がモデルとされる。すなわち、かぐや姫は、竹野媛の曾孫ということになる。

 大筒木垂根王は、名前のとおり、現在の京田辺市の木津川流域の筒城地域を拠点にしていたと考えられている。

 しかし、この筒城地域の有力者としては、丹後の鬼退治を行った日子坐王と、和邇氏の娘、袁祁都比売命(おけつひめのみこと)との間に生まれた山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)が存在する。しかも、この山代之大筒木真若王が、第15代応神天皇を産んだ神功皇后の曽祖父に位置付けられているのである。

 この筒城の地は、古代史を考えるうえで、とても重要である。なぜなら、第26代継体天皇筒城宮(つつきのみや)を築いたところであるし、桓武天皇平安京を造営する時、筒城の甘南備山をポイントにして、その真北に朱雀通りを作り、その朱雀通りに、政治の中心の大極殿を置いたからだ。(大極殿から南の羅生門までと、北の西賀茂大将軍神社=甚凶醜(いとみにくき)の磐長姫が祭神、までの距離は4.4kmで同じである)。

 丹波道主命の父が二つの陣営に分れているように、この筒城においても、丹後の竹野媛の子孫の大筒木垂根王と、丹後の鬼退治を行った日子坐王の子孫の山代之大筒木真若王が存在している。

 そして、大筒木垂根王の娘、すなわち竹野媛の子孫として、かぐや姫が位置付けられているのである。

 第9代開化天皇の妃の竹野媛も、第11代垂仁天皇甚凶醜(いとみにくき)とされた竹野媛も、迦具夜比売命がモデルとなったかぐや姫も、理由と結果は異なるが、元の場所へと帰っていくことで共通している。

 この竹野の地の女性が意味しているものは一体何だろうか。

 (つづく)

 

 

第1140回 鬼とは何か?という本質的な問い(4) 桓武天皇と継体天皇と明治維新の不可思議な縁の裏側

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鴨川と桂川の合流点。左が桂川、右が鴨川。背後に見える山は、左が比叡山、中央が東山、右が、上醍醐

 

歴史はつながっているという当たり前のことを、現代社会において、あまり意識されることはないが、過去においては、歴史のつながりを無視できない時期があった。歴史こそが、自らが存在する根拠。とくに、国を統治するものにとっては、歴史は、執政の指針であり、護符でもあった

 

 前回の記事で書いた継体天皇のことを掘り下げるために、桂川と鴨川の合流点を訪れた。それぞれの川の水の色が少し違うのがわかる。

 二つの河川が交わるこの場所が、古代、水上交通の要であったことは誰でも想像できる。

 さらに、この場所は、広大なカルデラの中心のような場所で、ぐるりと周辺を山々が囲んでいる。北には比叡山が聳え、その西に愛宕山、南には天王山、交野山から生駒山、東には、上醍醐、東山、宇治から奈良盆地の東の山並みまで、畿内の重要な聖山が見渡せる。

 この二つの川の合流点の西に、羽束師坐高御産日神社(はづかしにますたかみむすびじんじゃ)が鎮座している。通称、はづかし神社だ。

 観光客はほとんど訪れないが、創建は477年と、京都で最も古い神社の一つであり、延喜式神名帳では、山城国第一の社として大社に列している。

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羽束師坐高御産日神

 風水害除けの神としても信仰を集めたが、朝廷は雨乞い祈願の神として崇敬した。遣使など渡航の際には、風雨の災難除けに参詣された。

 現在、周辺は住宅化が著しくて車の通りも多く騒がしいが、境内一帯は『羽束師の森』と称されるように深い森におおわれ、今でも静粛な雰囲気が満ちている。

 なぜ、”はづかし”なのかという問いに対する答えとして、竹野媛の霊を祀っているからという説がある。

 竹野媛というのは、第11代垂仁天皇の時代、丹波道主命の娘で、後に皇后となった日葉酢媛を含む4人の娘の末娘で、姉たちと一緒に天皇後宮に入るが、甚凶醜(いとみにくき)という理由で実家に帰されることになり、その途中、自分のことを恥じて自殺を試み、最終的にこの地で深い淵に堕ちて亡くなったとされる女性だ。その由来で、この地を堕国と呼ぶようになり、それが訛って弟国になったと古事記に記されている。

 しかし、この物語は、竹野媛の容姿が美しくないために帰されたと受け取っている人が多いが、ニニギに選ばれなかった磐長姫の物語に通じるところがあり、近代的価値観のバイアスのかかった顔やプロポーションに関する美醜の問題ではないと私は考えている。”甚凶醜”と、何がどう醜いかは書かれていないのだ。

 そして、前回の記事でも書いた第26代継体天皇が、この弟国の地を都にした理由について、学校の歴史授業に限らず大半の歴史本でもスルーされている事の重要性を、もう少し深く考える必要がある。

 なぜなら、平安時代桓武天皇もまた、この弟国の地に長岡京を造営したからだ。

 もちろん、この地が、上に述べたような水上交通の要の地であることもあるが、それだけではない。

 たとえば、弟国宮(桓武天皇の時の長岡京)の中に向日山があり、その上に向日神社が鎮座しているが、明治天皇を祀る明治神宮は、この向日神社を1.5倍のスケールにした設計なのだ。

 竹野媛が墜ちて死んだという堕国(弟国)は、継体天皇桓武天皇明治天皇に、何かしらの陰を落としている。

 さらに、この場所は、京都から太宰府都落ちする菅原道眞が、途中に立ち寄って、自分と竹野媛を重ね合わせて、歌を残した場所だった。

 その時、菅原道眞は、北の方向を見返したとされ、はづかし神社のすぐそばに見返天満宮が鎮座している。本殿が珍しく北を向いている。

 そして、はづかし神社の本殿の後ろに、北向きの小さな社が合わさっている。

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羽束師坐高御産日神社(通称、はづかし神社)の本殿の裏側。神社では珍しく北を向いている。

 これは、菅原道真を祀る神社の総本山である京都の北野天満宮も同じで、北野天満宮の場合、本殿の裏に天穂日命アメノホヒノミコト)が祀られていて、そちらが本来の聖所だったとされる。

 このはづかし神社の場合、ここから東に7kmほど行ったところ、伏見の地の山科川宇治川が合流するところに式内社天穂日命神社が鎮座している。

 はづかし神社の本殿の裏に一体化している祭神について、神職の方がおられたので尋ねてみたが、菅原道眞が北を見返したこととのつながりかもしれないけれど、よくわからないとのことだった。

 私が思うに、菅原道眞が北を意識したように、北の方向に大事な何かがあるということだ。

 北というのは、この神社にゆかりのある竹野媛の出身地である丹後の間人だろうと思われる。その場所は、聖徳太子の母親の穴穂部間人が、蘇我と物部の争いの時、隠れていたところだった。そして、日子坐王や聖徳太子の弟の当麻皇子の鬼退治の舞台だ。

 そして、竹野媛というのは、古事記日本書紀には2人が登場するが、もともとは、その竹野の地の巫女だった。

 日本海に面した丹後の竹野の地に竹野神社が鎮座するが、現在の鎮座地は、日本海側で2番目に大きな神明山古墳の隣である。しかし、この巨大古墳の造営の時期は4世紀後半とされており、そこから判断すると、鬼退治をした側(日子坐王側)の古墳であろうと思われる。なぜなら、この竹野神社には、日子坐王が祀られているからだ。

 この神社の参道は、異様に長く伸びており、その起点に御旅所がある。おそらく、本来の神社の場所は御旅所があるところだろう。そして、その場所は弥生時代の遺跡の中。目の前に、鬼退治の鬼が閉じ込められたとされる立岩がそびえる。そして、そこは竹野川の河口で、竹野川を遡っていくと、扇谷とか奈具岡など弥生時代のハイテク都市や、弥生時代最大の墳墓である赤坂今井墳墓、卑弥呼の時代にあたる青龍3年(235年)の紀年鏡が出土した大田南古墳がある。 

 この鏡は、方格規矩四神鏡で、継体天皇の古墳とされる今城塚古墳がある高槻の安満宮山古墳から出土した鏡もまた青龍3年の方格規矩四神鏡であり、この二つが、日本で発見されている紀年鏡で最も古い2枚の鏡なのだ。

 竹野媛の出身の丹後の竹野は、弥生時代からとても栄えていた場所だが、鬼退治の物語にも象徴されるように、ヤマト王権とは異なる価値体系、世界観があり、その中心に、日神に奉斎する巫女がいた可能性がある。その日神は、後にアマテラス大神と呼ばれる女性神ではなかったのではないか。

 というのは、太陽神の性質というのは、歴史的段階を踏んで、変容していくからだ。

 古代エジプトにおいても、紀元前3000年の初期王朝、紀元前2500年の古王国偉大、紀元前1500年の新王朝時代で、変化していく。

 この太陽神の問題は、古代の謎のパズルを解く上で極めて重要なので、後日改めて記すが、第11代垂仁天皇は、竹野媛の姉で皇后となった日葉酢媛が死んだ時、もう殉死はやめようと、土師(はじ)氏の祖先の野見宿禰の助言を受けて、埴輪を作って生きた人の代わり古墳に埋葬したと記録されている。

 はづかし神社の場所は、古代、泊橿部(はつかしべ)の土地だったとされるが、泊橿部について実態はよくわかっておらず、土に関連する仕事に従事した泥部と同じ集団ではないかという説がある。

 4世紀末から6世紀前期までの古墳時代、古墳造営や葬送儀礼に関った氏族が土師氏だが、土師氏という姓は、日葉酢媛の死に際して埴輪のアイデアを出した野見宿禰の功績に対して垂仁天皇が与えたもので、後に土師氏が担うような仕事を行っていたのが泥部とか泊橿部(はつかしべ)の人々だったのかもしれない。そして、その時、まだ埴輪が発明されていないとすれば殉死が行われていたということで、それは、高貴な人の死の時だけではなく、土木工事においても、洪水などの災害が起きないように神に祈願するために、人柱が行われていたのではないだろうか。泊橿部(はつかしべ)は、おそらくその人柱と関係あった。桂川と鴨川の合流時点は、古代から、たびたび川の氾濫が起こったことが記録されている。

 ここで考えなければいけないのは、自ら死を選んだ竹野媛の”はづかしさ”というのは、「恥を知れ」とか、「人と比較した劣等感」といった人間社会のルールや慣習の範疇の”恥”ではないだろうということだ。おそらくその恥は、西行の歌の、「なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」の”かたじけなさ”に通ずるものだろう。

 巫女にとって神に身を捧げることは、身にあまるようなこと。かたじけないこと。

 また ”はじ”は、羞とも書き、ごちそうなどを人に羞める時に用いられるが、本来の意味は、羊の生贄を、うやうやしく、畏れ多く、はづかしさをもって、神にすすめることを意味する。

 いずれにしろ、竹野媛と日葉酢媛は姉妹であり、その死の時期は、殉死から埴輪へと変わる端境期にあたり、そのため、竹野媛の死は、埴輪以前を象徴するもだと洞察できる。

 垂仁天皇は、竹野媛の姿形が美しくないから返したのではなく、本来の場所、つまり神の元に帰した。

 なので、彼女が自殺をしたと描かれているのは、おそらく殉死(人柱)のことではないかと思う。

  「堕は、裂肉を聖所に埋める意味。聖所における呪禁の方法として行われる血祭。それは聖所を守るためのものであり、また同時に聖所を攻撃し、堕廃する方法であったと思われる。共感的呪術は、攻守とも同じ方法をとるのが原則である。(白川静 字統)」

 この白川さんの言葉からすれば、堕というのは、境界を鬼によって護衛する事に通じる。

 きっと堕国という地名の起源はそこにある。

 第1137回の記事で書いたように、ニニギが、妻として迎えることができないと親元に返した磐長姫が、平安京の北を護るために西賀茂大将軍神社に祀られているのと同じだ。

 そして、この堕国の地を、第26代継体天皇も、第50代桓武天皇も、都にした。

 桓武天皇の母親、高野新笠は、土師真妹の娘であり、土師氏の血を受け継いでいる。

 高野新笠の陵が、弟国宮(長岡京)の北西5kmほどのところの京都市西京区大枝にあるが、このあたりの山背国乙訓(古くは弟国=堕国)が、高野新笠の生まれ故郷ではないかと考えられている。

 そして、高野という姓は、桓武天皇の父、光仁天皇が即位する際に、賜ったものだ。

桓武天皇は、母親が土師氏と百済系の和氏の娘ということで出自は低く、さらに父親の光仁天皇も、生まれたからずっと天皇になる予定もなく、むしろ世継ぎ争いに巻き込まれないように慎重に生きていたのに62歳の高齢で即位させられ、桓武天皇即位への道が作られた。継体天皇と同じように、実に怪しい皇位継承となっている。

 高野新笠の生まれ故郷、堕国で亡くなった竹野媛の竹野は、”たかの”だった。そして、奈良時代の最後、孝謙天皇称徳天皇と女帝が重祚したが、この天皇は、「高野天皇」「高野姫天皇」と称され、奈良の平城京の北にある陵も、高野陵とする。

 竹野媛の”たかの”が、継承されているのである。

 桓武天皇というのは、継体天皇の宮、弟国に長岡京を造営しただけでなく、継体天皇のもう一つの宮、木津川沿いの筒城にある甘南備山を平安京造営の軸として、その真北に平安京の中心の朱雀通りを作り、朱雀通り沿いに、羅生門大極殿などを置いた。

 不可思議なのは、この朱雀通りを北に延長したところに、平安京の北を護るように、磐長姫を祭神とする西賀茂大将軍神社が鎮座し、さらに、大極殿羅生門のあいだの距離が、大極殿と西賀茂大将軍神社と同じであることだ。

 大将軍と名付けられる神社は、平安京遷都の時に、都を護る方位神として、平安京の四方に設置された。しかし、磐長姫を祭る西賀茂大将軍神社は、由緒によれば創建は609年、女帝の推古天皇の時代である。すなわち、平安京ができる前から、京田辺の甘南備山と西賀茂大将軍神社の位置関係が定まっており、その南北のライン上に、平安京の中心を持ってきたということになる。

 継体天皇から桓武天皇につながるこの不可思議な縁は、堕国の竹野媛といい、磐長姫といい、”甚凶醜(いとみにくき)」という理由で本来の場所に返されたもの”と関係している。

 このことが、日本の古代史を理解するうえで、極めて重要な鍵であることは間違いない。

 

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この地図上に、垂直と水平のラインがいくつかあるか、この中で、計画的に定められたと記録が残るのが、南北を貫く長いライン。一番南の甘南備山の頂上から真北を見て、平安京の朱雀通りを建設し、朱雀通り沿いに南を護衛するための羅生門を置き、その北に政治の中心の大極殿を置いた。しかし、不可思議なのは、その北の西賀茂大将軍神社(磐長媛とその家族神が祭神)は、平安京遷都以前からここにあった。それ以外のラインは計画的だという記録はないが、偶然とは思えない縁でつながっている。黒のマークは都のあったところ。継体天皇は、この領域で3度宮を造営したが、一番最初が石清水八幡のそばの樟葉宮。2番目が、京田辺の甘南備山のそばの筒城宮。甘南備山を基準に平安京は計画されたが、筒城宮の真北が、伏見の桓武天皇陵。継体天皇の宮の3度目の場所が、1番目の樟葉宮の真北の弟国宮で、桓武天皇も、ここに長岡京を築いた。さらにこの場所の向日神社が、明治神宮のモデルである。桓武天皇の母親の高野新笠の実家もこの弟国郡だが、その陵は羅生門の真西に作られた。そして、継体天皇桓武天皇の都となった弟国宮(長岡京)のすぐそば、真東のところが、羽束師神社ということになる。