第1331回 過酷極まりないサハラに生きる自由。


 写真家の野町和嘉さんが激賞していた、ハッサン水谷さんの写真集「サハラ蒼氓」を拝見した。

 サハラの写真と言えば、野町さんの写真を思い浮かべるが、その野町さんが高く評価するサハラ世界の写真はどんなものだろうと期待していたが、野町さんが言っていたとおり、野町さんと全く違ったアプローチが新鮮だった。

 野町さんの「サハラ」は、祈りがテーマになっている。サハラという過酷極まりない環境の中で真摯に生きている人間たち。サハラの自然が圧倒的に美しく荘厳で、まるで神が人間を試みているかのような厳しさが写真から伝わってくるほどに、そこで生きる人間の心身の強靭さや、祈りの真剣さが伝わってくる。それが、野町さんの「サハラ」だった。その世界は、20歳の時の私が、日本とは真逆の世界を求めて北アフリカを旅しようと決めた時の世界観に近いものだった。

 それに対して、ハッサン水谷さんの「サハラ」は、「蒼氓」という言葉が象徴しているように、「民」に焦点が置かれているが、その民は移住民であり、サハラという厳しい環境世界のなかで、流動的な生を送る人たちの暮らしを、ハッサン水谷さんは追いかけている。そして、その暮らしの印象が、ずいぶんと軽やなのである。子供達も、とても無邪気で、「苦」が、あまり伝わってこない。なんとも自由な気風に満ち溢れている。

 「人間、生きようと思えばどこでも生きていける」。この自由と楽天性は、私が、20歳の頃の旅を皮切りにして得た人生観でもあった。

 自由とは、好き勝手に生きるということではなく、苦を苦と感じずに生きること。

 私が旅に出ようと決心した時の日本は、サハラ世界に比べれば快適で安心安全ということだったかもしれないが、私にとっては息詰まるような不自由さがあった。社会の体制が人間に服従を強いるという不自由ではなく、自分で自分を不自由に追い込んでいくような空気が日本社会にはある。その理由の一つには、人の目を気にしなければならない社会ということもあるが、その社会的な空気に自分が染まっていることじたいが問題だった。

 物は満ち溢れているのに不自由で満たされない感覚。それは、自分が何かしらの殻をかぶっているからそうなっているのであって、殻を打ち破るためには、そうした環境と真逆のところに行く必要があると20歳の私は思い、その行先候補の第一が、広漠たる砂漠のイスラム教の世界だった。

 そして、その旅を通して、私は、野町さんが描き出した砂漠の人たちのように、生きるためのストイックさを、ある程度は得たとは思うが、それ以上に、ハッサン水谷さんが描くサハラの蒼氓のように、人間どこでも、どのようにしてでも、生きていこうと思えば生きていけるという達観らしきものを得てしまった。そのため、私は、ドロップアウトばかりを繰り返す、まさに移住民のような人生を送ることになった。

 その楽観性は、過酷な環境でも生きていけるという心身の逞しさから来ているというよりは、どのように生きても死ぬ時には死ぬという死の定めを受け入れる心情から来ているような気がする。

 ハッサン水谷さんの「サハラ蒼氓」から伝わってくる感覚は、まさにその感覚であり、サハラの環境を、他と比較し、分別で「過酷」と識別して、ネガティブな心情になったり、落ち込んだり、打ちひしがれたり、逆恨みしたり、抗ったりしない民の自由闊達な心である。

 過酷な環境のなかで、祈りの真摯さで救いの道を求める方法もあるし、大らかな逞しさによって、生をつないでいく方法もある。

 しかし、真剣な祈りは、時に敵愾心を生み出してしまうこともあるが、大らかな逞しさは、寛容につながる。

 その寛容こそ、人類の美徳であり、今日のような分断の時代の救いであり、ハッサン水谷さんは、とくに意識することなく、そのことを浮かび上がらせている。

 彼は、写真家ではなく本職は塗装工であり、写真を自己表現もしくは、社会的ステイタス獲得のための手段として使わず、純粋に「他者」との接点を生む道具として使い続けながら、何の打算もなく、自分の心が素直に反応する現場に何十年も足を運び続けた結果、そうなったのだろう。

 写真というのは、音楽や絵と違って、技術的にはプロとアマチュアの境界が、ほとんど存在しないため、撮る人の「心」がそのまま反映されやすい表現であり、それゆえ、写真界での実績とは関係なく、プロを超える表現が生まれる可能性がある。

 コマーシャル関係以外において、「プロ」を自称する写真家がどういう人たちなのか定義づけが難しい時代だが、「写真家」を称する人の、時代の傾向を追いかけたり他人の評価を気にしたりする狭く閉じた世界観の反映である作為的な表現が、ますますつまらなく感じられる現代において、新鮮な風は、ハッサン水谷さんのような無為の自由闊達さから吹いてくるのかもしれない。

 版元は小松健一さん主宰の「ぶどうぱん社」。kensherpa@yahoo.co.jp

 

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第1330回 出雲の国譲りとは何なのか?(3)

 

因幡の白兎伝承のある白兎海岸の淤岐ノ島。


神話の中で描かれる「出雲」を、縄文に遡る日本の先住系の人々の文化と捉え、天孫降臨という新参者に「国譲り」という形で実権が奪われたと考えている人がいるが、それは違っている。
 長野の諏訪大社は、今日まで太古の祭祀の形を残しているが、神話の中で国譲りに最後まで抵抗したと描かれる出雲系のタケミナカタ主祭神だが、この神は後からやってきた神であり、先住の神は、洩矢の人々が祀るミシャクジだった。
 諏訪の祭祀が興味深いのは、後からやってきたタケミナカタの末裔が現人神として地域を治めることになっても、その後継の成人儀礼の時に、先住の洩矢の神官が、後継にミシャクジ神を降ろす儀式が行われていたことだ。つまり、後からやってきた勢力は、新しい技術文化によって地域の産業化などの指導者となるが、霊的には、先住の人々が祀り続けてきた神のスピリットを引き継いでいくことになっていた。
 諏訪のケースからもわかるように、「出雲」は、縄文古来の人々ではなく、新しい知識や技術を持って日本列島に後からやってきた人たちである。
 縄文人というのは、長いあいだ、自然に即した循環型の社会の中で生きていた。だから、急激な変化というものがなかった。
 変化の速度が速くなったのは、紀元前5世紀頃、弥生人と言われる人たちが、大陸から、稲作をはじめ様々な技術や知識を運んで来てからだ。当時の中国は、春秋・戦国時代の混乱期だったが、孔子老子などの賢人も多く現れていたし、激しい内乱の中で、おそらく強力な武器を求めた結果だろう、青銅器文化から鉄器文化へと移行していった。
 だから、その時に日本にやってきた人たちが、米だけを持ってきたはずがなく、大陸において既に当たり前となっていた知識や技術を運んできたと考えるのは、自然なことだ。
 おそらく、神話の中で描かれるオオクニヌシの物語は、こうして新しく始まった日本の産業化のプロセスを伝えている。その期間は、かなり長く、100年とか200年といったレベルではないだろう。
 前回の記事で、島根県の穴道湖の西は、律令制の新秩序が始まる時に、旧秩序の終焉を象徴する形で出雲大社などの聖域が設定されたのではないかと書いたが、記紀で描かれる「出雲のオオクニヌシ」の物語は、島根県の出雲地方ではなく、鳥取県の東端を流れる千代川と、鳥取県の西端にそびえる大山の西を流れる日野川流域のあいだが舞台となっている。
 オオクニヌシが国造りを始める前に出会ったのがヤガミヒメだが、ヤガミは、鳥取の八上郡とされ、ここには万代寺遺跡という縄文早期から平安時代まで栄えた複合遺跡がある。この場所は、因幡の様々な河川が流れ込む千代川にそったところで、さらに山陰道山陽道を結ぶ連絡道の「因幡道」が通る古代の交通の要所だった。

 

オオクニヌシの最初の妃、ヤガミヒメの故郷、現在の八頭町に鎮座する因幡国二宮の大江神社。

 

 ここから千代川を15km遡ったところの智頭枕田遺跡は、縄文時代から平安時代の遺跡としては、九州を除いて西日本では最大である。
 ヤガミヒメは、この地域の巫女だった。
 オオクニヌシに対して、ヤガミヒメと結ばれることを預言する素兎においては、白兎海岸が伝承地として知られているが、八上郡にも伝承が残り、万代寺遺跡の近くに白兎神社が鎮座する。この地の伝承では、兎は、アマテラス大神の道案内をするのだが、月読神の御神体とされている。
 日本の伝統的な美術や工芸の図像に、波兎文様がある。波の上を兎が跳ね飛んでいる図像だが、謡曲竹生島」では、「月、海に浮かんで、兎も波を走る」と表現され、月に照らされて揺らめく波のつながりを波の上を渡る兎と喩えている。因幡の素兎の物語で、ワニの背中を渡る兎とは、このイメージをさらに抽象化したものだろう。
 月読神というのは、浦島太郎の祖にも位置付けられており、海人との関わりが深い神であり、それは、海人にとって、月の影響を受ける潮の干満を読むことが重要だからだ。
 5世紀末、その月読神とともに、亀卜という新しい占いが畿内にもたらされた。亀卜は、預言であり、同じく月読神の御神体である因幡の素兎が、オオクニヌシに対して、ヤガミヒメと結ばれることを預言するのである。それは、オオクニヌシに象徴される新しい勢力と、ヤガミヒメという縄文時代から続く勢力の仲介役として、月読神に象徴される海人勢力が存在したことを意味していると洞察できる。

ワニによって皮を剥がれた素兎が傷口を洗い、治療したといわれる御身洗池、季節を問わず水位が一定のため、不減不増の池といわれている。(白兎神社)

 

 ヤガミヒメを娶ったオオクニヌシの物語は、鳥取県の東から西の大山の麓へと移る。
 この場所で、ヤガミヒメオオクニヌシと結ばれたことに腹を立てた八十神によって、オオクニヌシは、2度に渡って殺される。1度目は、真っ赤に焼けた大岩で、2度目は、大樹によって。しかし、なんとか母の介在によって再生し、紀国に逃げたことになっている。
 八十神というのは、たくさんの神という意味であり、これは「八百万の神」と同じではないか?
 オオクニヌシは、八十神の異母兄弟という位置付けの八十神の荷物持ちである。つまり、オオクニヌシは、後からやってきた勢力と、前からいた勢力との混血だ。
 そしてオオクニヌシは、巨岩や大樹といった縄文時代からの神威で、試されるのだ。
 オオクニヌシの死と再生の聖域は、鳥取県西伯郡の赤猪岩神社周辺だが、この地域にある殿山古墳は、全長108mで、鳥取と島根では、北山古墳(110m)に次いで大きい。
 そして、ここから北に3kmほど、日野川流域に青木遺跡と福市遺跡があり、主に弥生時代後半から奈良時代まで続く集落遺跡で、100棟におよぶ住居跡が、そのままの形で発掘されるという全国的にも珍しい巨大遺跡である。

 

オオクニヌシの死と蘇りの聖地、赤猪岩神社。

 

 青木遺跡には、縄文時代の遺物も確認され、古くから人間活動があった場所だったことがわかっているが、2016年、4基の四隅突出型墳丘墓が確認された。そして、これが現時点では最古の四隅突出型墳丘墓と見られ、従来の認識が覆される事態となった。
 というのは、前回の記事にも紹介したが、四隅突出型墳丘墓というのは、広島の山間部、島根の出雲地方から鳥取の大山周辺、そして北陸にだけ築かれた特徴ある墳丘墓だが、これまでの学説では、最古のものは広島の山間部の三次盆地に築かれたものとされていた。
 大山の北麓の麦晩田遺跡にも、古い四隅突出型墳丘墓が数多く築かれ、後に、穴道湖の西、出雲の王家の谷と呼ばれる西谷墳墓群で、かなり巨大なものが築かれているので、なぜ、広島の三次が、出雲に特徴的な四隅突出型墳丘墓のルーツになっているのかが謎だった。
 しかし、今回の発見で、鳥取と島根のあいだの日野川流域、オオクニヌシの死と再生の舞台となっている地域が、そのルーツということになる。
 出雲地方に特徴的な四隅突出型墳丘墓のルーツがあり、さらに、山陰で最大級の前方後円墳の殿山古墳がある場所が、オオクニヌシの死と再生の舞台であるというのは、何を象徴しているのか?
 大山の北麓に、麦晩田遺跡という日本最大の弥生遺跡がある。

麦晩田遺跡


 巨大環濠集落として知られる佐賀県の吉野ケ里遺跡の3倍以上の大きさを誇る。
 日本各地に、弥生時代の集落跡が残るが、この妻木晩田遺跡ほど素晴らしい眺望に恵まれた場所はないだろう。美しい弧を描く美保湾が、遺跡から見下ろせる。
 水田耕作を営みの基本にしていた弥生時代の集落は、低地帯に築かれることが多いが、弥生時代の後半、高地性集落が築かれるようになり、これは敵との戦いに備えたものと説明される。
 妻木晩田遺跡もまた、高地性集落ということになるのだが、これほど大規模で、長期間にわたるものは珍しい。
 現地の印象としては、縄文時代の遺跡のロケーションに似ており、発掘調査からも、狩猟や漁労に関する遺物が多く出土しており、この集落の住民が、周辺の森でクリなどの木の実を採集し、鹿や猪を狩り、海や川で魚介類を得ていたことと考えられている。
 遺跡内では、水田や畑などの遺構は発見されていないが、住居跡や貯蔵蔵などから炭化米などが見つかっているため、周辺の平地や谷部などで米作りを行っていたようだ。
 いずれにしろ、敵からの攻撃に備えた高地性集落というより、他地域の縄文時代の集落跡が似たような丘陵地に多く見られることから、麦晩田遺跡の住人は、縄文時代の営みの延長上の暮らしを、この丘陵地で行っていたのではないだろうか。
 さらに、この遺跡から、隠岐の黒曜石や、讃岐のサヌカイトで作られた道具や、北九州で多く見られるガラス玉が出土した。土器は、西瀬戸内海、兵庫県から鳥取のかけての日本海側地方の特徴を持ったものが見つかっている。また、鉄器類も膨大に見つかっており、中には大陸性のものも確認されているが、一つの遺跡から出土した鉄製品は、日本最大である。
 麦晩田遺跡の住民は、水上交通によって各地と結ばれていたのだ。
 また、美保湾を見下ろせる絶景の場所に、洞ノ原墳墓群があり、ここには、四隅突出型墳丘墳が、比較的大きなものが5基ほど、さらに一辺1~2mの小さなものも含め11基ほど見つかっているが、これらは西暦1世紀から2世紀にかけて作られたもので、四隅突出型古墳のなかでは、上に述べた青木遺跡もののとさほど変わらない古さだ。

麦晩田遺跡の四隅突出型墳丘墓。

 

 しかし、この場所での営みは、約300~350年間にわたって続いていたが、3世紀後半、古墳時代が始まる時、突然、終焉を迎えた。その理由は、明らかになっていない。
 それまで、この場所にある墳丘墓は、木棺で埋葬されていたが、大小の石を組み合わせた石棺に遺体を収める台形型の古墳が登場した時を最後に、この場所での人の営みの痕跡は消えたのだ。
 古墳時代に入ると、人々は、この海に面した絶景の丘陵地を捨てた。しかし、大山の西麓、日野川流域では、青木遺跡や福市遺跡のように、奈良時代まで栄えているし、山陰最大級の殿山古墳が築かれ、古墳時代後期の5世紀後半から6世紀後半には、向山古墳群が築かれている。
 麦晩田遺跡は、弥生時代最大の遺跡であるにもかかわらず、稲作を中心にした集約農業の集落ではなく、縄文時代から続く狩猟や漁労、森で採取する木の実なども食糧源とする粗放農業が暮らしを支えていた。敵からの攻撃に備えるための丘陵地というよりは、生活環境として、それが望ましかったのではないか。
 しかし、縄文時代と明らかに違うのは、豊富な鉄器製品をはじめとする様々な技術革新だった。
 麦晩田遺跡というのは、縄文文化に、新しい産業力が重なった世界だった。
 だとすると、それは、国造りを始める前のオオクニヌシが、ヤガミヒメと結ばれた状態と重なってくる。
 オオクニヌシは、2度に渡る死と再生を経て、八十神から逃げるために紀国に行き、さらに追ってきた八十神から逃れて根の堅州国に向かい、そこで、スセリビメと出会い、その父スサノオからの試練を乗り越え、再び出雲に戻って、はじめて「大国主」となる。それまでは葦原色許男神である。
 その後、スサノオから授かった太刀と弓矢で八十神を退け、スセリビメを正妻にして、新宮を建てて住み、国づくりを始めた。この時、ヤガミヒメは、大国主のもとを去ってゆく。
 大岩や大樹の力を前に無力だった葦原色許男神が、太刀と弓矢を備えた大国主となって国造りを始める。これは、麦晩田遺跡が終焉を迎える弥生時代後期から、古墳時代への移行を象徴しているのではないだろうか。
 すなわち、オオクニヌシの国造りは、古墳時代も続く。古墳時代は、一般的にはヤマト王権の時代と考えられており、ヤマト王権は、オオクニヌシの国を奪い取って始まった王権のように解釈している人が大半だが、そうではない。
 ヤマト王権とされる時代もまた、オオクニヌシの国造りの物語で象徴される過程であり、だから、スクナビコナのような医薬とか酒造りという新しい知識文化の普及に貢献する神が加わってくる。
 オオクニヌシの国造りによって産業化は進む。しかし、それは、最終的に、強い者が全てを独占する社会になっていく。
 この状態こそが、タケミナカタオオクニヌシに対して国譲りを迫る時の言葉、「あなたの国は、ウシハクである。」という意味だ。
 そして、オオクニヌシが国を譲って、「シラス」、つまり共有社会の時代に移行するというのは、推古天皇の頃に整えられた17条憲法で、独占や徒党を禁じ、話し合いによって政治を進めていくことが求められた、律令制に向けた動きを象徴しているのだろう。
 歴史を学ぶ時、ヤマト王権氏姓制度を作り、貢献度に応じて連や臣などの身分を与えることで豪族たちを統率したなどと説明されることがあるが、この制度は、そんなに古くは遡らない。
 氏姓制度は、飛鳥時代の話であり、それらの北魏に習った統治制度づくりへの動きは、5世紀後半、「今来」という渡来人がやってきてからであり、その頃に即位した第26代継体天皇の時代こそが、大きな転換期だ。継体天皇が、現在の天皇から遡れる最も古い天皇であり、それ以前の日本は、異なるコスモロジーの国だった。
 一般的に、飛鳥時代奈良時代古墳時代ヤマト王権の延長と考えてしまっていることで、歴史の解釈に間違いが起きてしまっている。
 
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第1329回 出雲の国譲りとは何なのか? (2)

荒神谷遺跡

「出雲」は、3つのエリアに分かれる。中海の東の米子市から大山周辺と、中海と穴道湖のあいだの松江周辺、そして穴道湖の西で、出雲大社が鎮座する地域。

 出雲大社は、近畿で律令体制を築きつつある人たちによって、何かしらのシンボル的な意味合いをもって作られたものだということを昨日の記事に書いた。

 この穴道湖西地域には、もう一箇所、新旧秩序の交代時期に、何かしらのシンボル的な意味合いで設けられた、驚くべき聖域がある。

 それは、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡だ。荒神谷遺跡では、385本もの銅剣と、その場所からわずか7mのところに銅鐸6個と銅矛16本がまとめて埋められていたが、一つの聖域から出土した青銅器の数は、日本一である。

 また、ここから南東に3kmほどの加茂岩倉遺跡からは、39個もの銅鐸がまとめて出土し、一箇所から出土した銅鐸の数で、日本一である。

加茂岩倉遺跡

 この二つの青銅器埋納の聖域には不可思議な共通点があり、それぞれの場所から出土した青銅器に、「×」印が刻まれている。この印がある青銅器は、日本でこの場所だけである。

「×」印が何を象徴しているのか謎であり、埋納した青銅祭祀道具のもつ威力が逃げないようにする為などと説明されることもあるが、だとすると、他の地域の青銅祭祀道具にも、同じことが行われていい筈である。

 銅剣は、主に九州を中心として使われていた祭祀道具で、銅鐸は、近畿を中心に東は東海、西は中国四国地方の中央部あたりまで使われていた祭祀道具だったのだが、出雲の加茂岩倉遺跡から出土した青銅器が、日本の他地域から出土した青銅器と同じ型から製造されたものが数種類あることがわかっている。同じ型から作られた青銅祭祀道具の意味するところは、両地域での交流があった可能性だが、他の地域から、わざわざこの場所に持ってきて埋納した可能性も考えられる。

 もしかしたら、「×」印は、青銅器から霊的な威力が逃げないようにするためのものではなく、封じ込めて、この祭祀道具の役割を終焉させるためかもしれない。つまり、出雲の加茂岩倉遺跡は、祭祀の転換期における古い祭祀道具の墓場ではないか?

 青銅祭祀道具は、日本においては、今から2000年前をはさんで前後200年ほどのあいだに発展したものであり、西暦3世紀、古墳時代の始まりとともに用いられなくなった。

 荒神谷遺跡は、1983年、田んぼのあぜ道で一片の須恵器をひろった事がきっかけとなり、周辺を詳しく調査している段階における大発見だった。須恵器というのは、西暦5世紀になってから普及した硬い土器製品で、食べ物や酒をもって祭祀に使われ、古墳の中から数多く出土している。

 つまり、荒神谷遺跡は、古墳時代の集落跡であり、そこから弥生時代の祭祀道具が大量に出土した。

 もちろん、弥生時代の集落の上に、古墳時代の集落が築かれた可能性も否定できない。

 しかし、九州圏の祭祀道具である銅剣と、近畿圏の祭祀道具である銅鐸が、九州と近畿の中間地点の出雲地方に、整然と大量に並べて埋納されているのは、一つの時代のコスモロジーを終焉させる意味合いが強いように思われてならない。「×」印は、そのことを示しているのではないか。

 そして、3世紀後半以降、古墳時代に整えられていった新しいコスモロジーにとって、古い時代の異形のコスモロジーを象徴する聖域もまた、穴道湖の西側に存在している。

 それは、出雲大社荒神谷遺跡から7kmほどの中間地点にある西谷墳墓群だ。

 ここは、2世紀末から3世紀、弥生時代後期から古墳時代前期にかけての大古墳群で、その数は32基を数えるが、この古墳群の特徴は、弥生時代に作られた6基の四隅突出型墳丘墓だ。

 四隅突出型墳丘墓は、島根から鳥取、広島の山間部、および北陸にかけて特徴的に分布する古墳だが、その中でも巨大なものが、この西谷墳墓群に集中している。

 そして、3号墳の被葬者が横たわる木棺内は大量の水銀朱が敷きつめられており、厚さ2〜3cm、総量は10kgと推計されている。また、大型22個、小型25個程の碧玉製管玉の他に、ガラス小玉100個以上と、コバルトブルーのガラス製勾玉2個、玉、鉄剣が発掘された。発見された200を超える土器のなかには、各地の前方後円墳においても用いられた吉備の特殊器台・特殊壺が存在し、さらに、四隅突出型墳丘墓の分布と重なる北陸地方との関係が伺える土器が多い。

西谷墳墓群の四隅突出型古墳の被葬者。木棺内は大量の水銀朱が敷きつめられている。

 西谷古墳群のすぐそばに斐伊川が流れており、この上流部が奥出雲で、良質な砂鉄の産地だ。

 しかし、現時点の歴史学会の見解では、古代、日本には製鉄技術はなく、大陸から輸入した鉄素材をもとに、鍛造など鍛冶技術によって、様々な道具が作られていたとされている。つまり、古代、奥出雲の砂鉄は使われていなかったということだ。

 こうした見解は実証主義に基づいているからであり、鉱山跡や製鉄跡などの証拠が見つかってないからだ。日本における鉱山の歴史は、近年まで、考古学的には奈良時代以降だとされてきた。

 しかし、数年前、徳島の若杉山遺跡で、弥生時代に遡る水銀朱(辰砂)の採掘跡が発見された。

 弥生時代の始まりにおいて、多くの渡来人がやってきた。彼らが水田耕作を普及させたわけだが、証拠のことはともかく、普通に考えれば、当時の中国は青銅器時代から鉄器時代へと移行段階にあり、日本にやってきた渡来人が、「米」だけを持ってきたとは考えにくい。彼らがすでに所有していた各種の技術とともに日本にやってきたと考える方が自然だろう。

 島根県の出雲地方というのは、大陸から日本に渡ろうとした時に、流れ着いてしまう場所である。

 大陸からは九州が最も近いことは間違いないが、対馬海流の潮流は強く、朝鮮半島の南から船に乗っても、潮の成り行きに任せれば、島根にたどり着く。朝鮮半島の真ん中から北部であれば、九州にたどり着くこと自体が難しく、山陰から若狭や北陸の方が、上陸地になりやすい。

 しかし、四隅突出型古墳の解せないところは、同じ日本海側でも、出雲地方と北陸地方に存在していながら、そのあいだの丹後には存在しないことだ。丹後には、弥生時代に栄えた痕跡が明らかであるにもかかわらず。

 弥生時代、出雲と北陸を海を通じて交流していた勢力がいたが、その勢力は、丹後の勢力とは、異なるコスモロジーだったということになる。

 しかし、弥生時代、出雲と丹後に共通する祭祀道具も見つかっており、それは、宗像土笛だ。

 宗像市の中心部にある弥生時代の光岡遺跡から、宗像土笛というココヤシ笛をルーツとする笛の完全形が出土しているが、この笛は、北九州の宗像地域から関門地域周辺地域と、出雲と、丹後半島という限定された場所から出土している祭祀道具と考えられていて、この特徴的な笛のルーツであるココヤシ笛が、壱岐島の​​原の辻遺跡から出土している。この土笛が出土した場所として、東の端が、丹後半島の竹野であり、島根県では、松江市のタテチョウ遺跡や、西川津遺跡から出土している。

西川津遺跡

 出雲地方に特徴的な四隅突出型古墳が存在しない丹後に、出雲地方と共通する宗像土笛が存在する。この事実から、弥生時代、同じ出雲地方で、海上交通と関係する勢力であっても、異なるコスモロジーを持つ勢力が共存していたことが考えられる。

 四隅突出型古墳は、朝鮮半島、とくに高句麗との関係を指摘する専門家もいる。

 出雲のコスモロジーは重層的であるが、ある時期、なんらかの勢力が、一つのコスモロジーを終焉させた。その象徴が、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡に封じられた大量の青銅祭祀道具ではないかと思う。

 

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第1328回 出雲の国譲りとは何なのか?

出雲大社の隣に、摂社の命主社(いのちのぬしのやしろ)がある。巨岩の前に建てられており、古代の磐座が聖域だったと考えられる。社の前には、推定樹齢1000年といわれるムク(椋)の巨木がある。1665年、命主社の裏の大石を石材として切り出したところ、下から銅戈(どうか)と硬玉製勾玉が発見された。

 古代出雲のことは、出雲大社だけ訪れても何もわからない。

 出雲大社は、8世紀以降に律令制が始まってから、国内の祭祀秩序を形成するにあたって何かしらの意図をもって作られた聖域だが、それでも1300年ものあいだ重要な聖域であり続けたわけで、これほどの長期間にわたって人々が本気で大切にしてきた神聖なる空間は、日本以外の世界の他の場所に、それほど存在するわけではない。だから出雲大社は、現代文明の価値観に覆われた世界の中で、かなり特異な気配を醸し出している。

 そして、重要なことは、1300年前、なぜこの場所に「出雲大社」という聖域が設置されたかだ。

 出雲大社の隣に、摂社の命主社(いのちのぬしのやしろ)がある。造化三神の一柱、神皇産霊神(かみむすびのかみ)が祀られているが、巨岩の前に建てられており、古代の磐座が聖域だったと考えられる。社の前には、推定樹齢1000年といわれるムク(椋)の巨木がある。1665年、命主社の裏の大石を石材として切り出したところ、下から銅戈(どうか)と硬玉製勾玉が発見された。ともに古代の祭祀道具だが、銅戈は北部九州産、勾玉は新潟県糸魚川産の可能性が高く、北部九州、北陸と交流があったことを物語っている。

 銅戈(どうか)と硬玉製勾玉は、弥生時代に遡る祭祀道具なので、出雲大社が築かれた時代よりもはるかに古い。

 出雲大社は、島根県の出雲という場所に存在していた勢力が作り上げたのではなく、近畿で律令体制を築きつつある人たちによって、何かしらのシンボル的な意味合いをもって、この古代からの聖域に作られた。

 神話の中でも、出雲大社の祭神であるオオクニヌシは、国譲りの代償として「天日隅宮」と呼ばれる大きな社の造営をしてくれるよう求め、これが「出雲大社」であるとされる。また、出雲大社神職の祖は、アメノホヒとされ、この神は、アマテラス神の子神として位置付けられる。

 出雲の話になると、一般的に、ヤマト王権VS出雲勢力のように語られ、出雲政権がヤマト王権に打倒されたように思われている。

 しかし、神話で描かれているのは、戦いではなく、国譲りであり、新しい秩序に最後まで抵抗したのは、東国にあたる諏訪大社の祭神のタケミナカタである。

 そして、古い秩序と新しい秩序を分ける概念は、タケミカヅチオオクニヌシ に対して述べる「ウシハク」から「シラス」への移行だ。

 ウシハクというのは、一人の強い者が独占する社会で、シラスとは、共有社会と理解されている。現代で言えば、資本主義社会から共産主義社会への移行だが、マルクス階級闘争による変革を論じたため、こうした変化は、すべて戦いを経て行われるものだと現代人は思い込んでいる。

 しかし、日本の古代における変革は、国譲りによって成された。もちろん、こうした記録も、勝者が自分を正当化するため、奪い取ったのではなく譲られたと改変したのだと、疑い深い人は主張し続けるだろう。

 しかし、日本以外の国における体制転換後の社会において、打倒された側の神が、日本のオオクニヌシ のように大切に祀り続けられているだろうか?

 現代でも日本各地にオオクニヌシをはじめとする出雲系とされる聖域は数多くあり、アマテラスやタケミカヅチなどの天孫系とされる神社よりも、地元との結びつきが強いところが多い。

 一般的に、神社は願い事をするところではなく、神様に対して感謝を伝える場だと言われるが、天孫系の神社においては、感謝の祈りを捧げるものの、出雲系の神社は、なぜか現世利益の願い事をするところが多い。

 神話の中のオオクニヌの「国つくりの物語」は、スクナヒコとの協働も含め、明らかに産業化の過程を示している。国が豊かになるために産業化が必要なのは、今も昔も変わらない。明治維新以降の富国強兵や、戦後の高度経済成長の時代のように、競争によって産業力は高まる。

 しかしながら、その競争によって、勝者と敗者が生まれ、強いものが独占する状況になってくる。オオクニヌシ の国が、タケミカヅチによって「ウシハク」とされたのは、こうした状況だったからであり、古代においても現代と似たところがあった。

 「ウシハク」というのは、誰もが現世のご利益のために厳しい競争を繰り広げる社会であり、日本神話は、この競争状況を否定しているわけではなく、必然のプロセスとして受け止め、しかし、ある程度、産業化によって豊かになったところで、価値観の転換が必要だということを示しており、それが、アマテラスの治世に象徴される「シラス」なのだろう。

 あまねく照らし出す太陽の光のように、恩恵は行き渡らなければならない。

 しかし、この国譲りによって、オオクニヌシは、消えてしまうわけではなく、その存在感を維持し続け、時々、疫病などの祟り神として現れる。

 その祟りを鎮めるのは、たとえばオオタタネコ。この神は、オオクニヌシもしくは事代主という出雲系の神を祖に持ち、「須恵器」に象徴される新技術の使い手である。

 疫病や天災などにおいて、ただ神頼みをするだけでなく、人智を尽くして対応せざるを得ない局面があるということだ。 

 神話が伝えているのは、地域間の対立や闘争ではなく、パラダイムの転換だと思う。

 そして、日本という国のユニークなところは、パラダイムの転換が起きても、従来のコスモロジーが闇に葬られるのではなく、新しいコスモロジーの多層構造の中に組み込まれるところにある。 

 このメカニズムが日本の歴史をわかりにくくしているのだが、これは、0か1の対立構造の単純思考ではない日本ならではの深い知恵を反映したコスモロジーでもある。

 「禍福は糾える縄のごとし」という独特の幸福観も、このコスモロジーの延長上にある。

 日本においては、祟り神は守神となる。邪霊を防ぐために、邪霊が入ってくる門に鬼が配置されるのである。

 こうした複雑さを面白いと思えるかどうか? 

 現代社会では、何事も割り切って、スッキリさせようというバイアスがかかるが、そうした単純化は心の耐性を弱くする。自分の期待通りに物事が進まないと、激しく落胆するしかなくなるからだ。

 「ものは考えよう」という柔軟な思考は、日本の歴史文化の土壌で育まれてきた。

 幸福というものが、現代社会のように地位やお金をはじめ画一的な基準で設定されて、その設定に心が縛られてしまうことほど、実は不幸なことはない、ということに気付けるかどうか?

 日本の歴史の真相を知ることの意義の一つは、こうした単純思考から脱出するためなのだが、その歴史が、たとえば「古代出雲」VS「ヤマト王権」とか「藤原氏の陰謀」とか、あまりにも単純化された図式で説明される傾向にあることが、歴史を学ぶうえで一番の問題だと思う。

 5月20日と21日に京都で行うワークショップセミナーでは、古代日本の秩序化に関わる精神的コスモロジーの真相にも迫ります。

 ワークショップセミナーの詳細・お申し込みは、こちらまで。

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第1327回 大事なことだから隠す必要がある。

牽牛子塚古墳(斉明天皇陵)

 

歴史好きの人のなかで、藤原氏の陰謀ということが、よく言われる。古事記日本書紀なども、藤原不比等の陰謀で藤原氏に都合が良く書き換えられ、都合の悪いことは隠されたと。

 梅原猛氏などは、古事記編纂において口承を伝える役割をになった稗田阿礼藤原不比等が同一人物だなどと言い放っている。

 しかし、そうした陰謀論の類は根本的なところで間違っている。

 「陰謀によって都合の悪いところを隠す」というのは現代人の発想であり、古代人は、「大事なことだから隠す必要がある」と考えていた。

 日本の歴史を改めて見直すためには、発想を180度転換して、隠れていることの神聖さや真相を読み解いていくことが大事だろう。

 奈良時代、表に出ている藤原よりは、隠れている阿部の方が私は気になる。

 一般的に、672年の壬申の乱の後、天武系の血統の天皇が続き、平安時代桓武天皇から天智系(正確には、桓武天皇の父の光仁天皇から)の天皇になったとよく言われる。

 しかし、天武天皇の後の持統天皇の父は天智天皇で、次の文武天皇は、若すぎたために母親の阿部皇女(後の元明天皇)が実質的に政務を行ったが、彼女の父も天智天皇だ。そして、若くして亡くなった文武天皇の後、元明天皇が、平城京に遷都し、古事記日本書紀を編纂した。その次の元正天皇は、元明天皇から娘という女性から女性への日本史上唯一の譲位であり、次の聖武天皇は、男系では天武系の血統であるものの、祖母が元明天皇なので、天智天皇の血を引いている。その次が、聖武天皇の娘の孝謙天皇(後に重祚して称徳天皇)だから、奈良時代においても天智天皇の血は濃厚だ。

 こうして確認していくと、歴史学者が言うような天智系とか天武系というのは大して意味がない。

 それよりも重要なのは、平城京遷都と記紀の編纂という後世に大きな影響を与える大事業を行った元明天皇と、奈良時代の後半、重祚という形で2度、天皇に即位した孝謙天皇の諱(いみな)が、それぞれ阿部皇女、阿部内親王というように「阿部」であることだ。

 諱(いみな)というのは、本名ということだが、隠された名とも言える。

 古代、実名で呼びかけることを無礼とする習俗があった。本名は、その人の霊的な人格と結びついており、その名を口にすることで霊的人格を支配することができると考えられたためだ。

 現代的発想だと、このように隠すことや、隠れていることの意味が理解できない。

 元明天皇も、孝謙天皇も、隠れている名、つまり霊的な力を帯びた名が「阿部」であり、このことは、とても重要な意味を持っている。

 なぜ、この二人の女帝の隠れた名が「阿部」であるのか?

 古代、生まれた子は母親の元で育てられ、母親の実家の影響を強く受けた。女の子の場合はなおさらであり、人生において父親よりも母親とともに過ごす時間が大半となる。

 孝謙天皇(阿部内親王)の母は光明皇后で、光明皇后の母は県犬養三千代だった。県犬養氏は、後に橘氏と改名するが、奈良時代の中頃に実権を握った橘諸兄県犬養三千代の子であり、彼を産んだ後、県犬養三千代藤原不比等の後妻となり、不比等の出世を助けた。

 なぜなら、県犬養三千代こそが、当時の天皇元明天皇(阿部皇女)の幼少の頃からの側近で、天皇の絶大なる信頼を得ていたからだ。

 また、光明皇后の娘の孝謙天皇にとって、県犬養三千代は母方の祖母であり、元明天皇(阿部皇女)は、父方の曾祖母にあたる。

 そして、平城京遷都と記紀編纂の時代の鍵を握る元明天皇の母親は、姪娘(めいのいらつめ)で、彼女の父親は蘇我石川麻呂だが、母親の名が隠れている。

 しかし、姪娘の別名が、日本書紀に桜井娘とあり、「桜井」が、その謎を解く鍵となる。

 桜井というのは、奈良県三輪山の南側に広がる地域であり、ここには安倍文殊院がある。この寺は、大化改新(645)の時、政務における最高責任者である左大臣になった阿部内麻呂が、阿部氏の氏寺として建立したものだ。

 そして、この近くに山田寺というのがあったが、ここは、姪娘の父、蘇我石川麻呂の発願で建てられはじめ、この場所で、蘇我石川麻呂は自害した。

 蘇我石川麻呂は、中大兄皇子中臣鎌足と組んで蘇我入鹿の暗殺を行ったことが歴史の教科書にも載っているが、なぜ蘇我氏なのに蘇我入鹿を打倒したのかについて、蘇我氏の中の勢力争いなどと説明されることが多い。

 その真相は、蘇我石川麻呂というのは、山田寺が「桜井」の安倍文殊院の近くに建てられているように、阿部氏とつながりが深かったのだろう。蘇我石川麻呂の娘で、桜井娘という別名を持つ姪娘の母親は、阿部氏の娘だと思われる。

 中大兄皇子は、蘇我入鹿打倒の前、中臣鎌足の進言に従って、姪娘(桜井娘)を妻としているのだが、それは、後ろ盾として阿部氏の力が必要だったからではないか。

 だから、蘇我入鹿を倒した後の大化改新の新政権で、阿部内麻呂が、政務における最高責任者の左大臣になり、右大臣には、阿部内麻呂とつながりが深かったと思われる蘇我石川麻呂がなった。

 しかし蘇我石川麻呂は、649年、阿部内麻呂が亡くなった時、滅ぼされてしまった。

 阿部内麻呂の死の時には、孝徳天皇朱雀門まで来て哀悼し、皇極上皇中大兄皇子を始め群臣が付き従って哀哭したという記録が残っているのだが、同じ年、後ろ盾を失った蘇我石川麻呂は、謀反の罪を着せられ自害に追い込まれたのだ。

 大化改新の時の実質的な実力者であった阿部内麻呂の子が、阿部御主人で、彼は壬申の乱において天武天皇側で活躍し、晩年は、天武天皇の皇子の忍壁皇子に次いで、政権内で地位が高かった。

 忍壁皇子の母親は、宍人大麻呂の娘だが、宍人部というのは、食肉に関わる職能部で、阿部氏と同族である。

 阿部御主人や忍壁皇子の時代、文武天皇が697年に14歳で即位していたものの、幼少のため、天皇の母の阿部皇女(次の元明天皇)が事実上の後見人として、皇太妃という名の天皇だったので、この時代は、「阿部」関係者が、政治の中枢を独占していたことになる。

 そして、阿部皇女が、701年に作られた大宝律令に即した政治運営を行うため、信頼を置いていた県犬養三千代の推薦で、実務に長けた藤原不比等を重用した。

 陰謀家のように伝えられる藤原不比等は、晩年、自分の後継者を長屋王と考えていたが、長屋王の母親は御名部皇女であり、彼女の母は、元明天皇の母と同じく姪娘(桜井娘=阿部)だ。また、長屋王の妃の吉備内親王の母親は、元明天皇(阿部皇女)。長屋王の周辺も、「阿部」関係者で占められている。

 1988年、平城宮の東南に長屋王の邸宅が発見され、発掘調査が始まったが、広さは約6万㎡に及び、出土した木簡は4万点を超え、その内容から、贅沢極まりない暮らしぶりが浮かび上がっているが、彼は、阿部御主人の息子の阿部広庭と結びつきが強かった。

 阿部御主人は、『竹取物語』の中でかぐや姫に求婚する貴人として登場するが、「財豊かに家広き人にておはしけり。」と、大金持ちで一族は繁栄の極みにあることが示されている。

 興味深いのが、この阿部御主人を被葬者の有力候補としているのが、キトラ古墳であり、この古墳は、飛鳥の阿部山の麓に建造されている。

 キトラ古墳のすぐ北には、忍壁皇子を被葬者の有力候補とする高松塚古墳があるが、この二つの古墳は、石室に陰陽道と関わりのある四神相応図や天文図が描かれていることで知られている。

キトラ古墳の壁画体験館。石室内天井の天文図を紹介したもの。

 律令制の開始時期において、阿部氏に連なる二人の有力者の古墳の石室内の壁画が陰陽道との関わりを暗示しており、さらに、この二つの古墳の周辺には、これまた陰陽道と関わりの深い八角形の古墳が集中的に建造されている。八角墳は、律令制の開始時期だけに作られた特殊な古墳であり、その被葬者は、天武天皇との血縁が深い人たちばかりで、八角形は、陰陽道で宇宙を表している。そして、天武天皇自身が、陰陽道の使い手だったことが、日本書紀に記録されている。

 さらに、キトラ古墳高松塚古墳の真北に藤原京平城京が築かれており、このラインは近畿の中心を通り、真南が潮岬で、真北が、二月堂のお水取りの水を送る若狭の鵜の瀬である。

 また、キトラ古墳の真西には伊勢神宮が築かれ、キトラ古墳から同距離に真東に淡路の伊弉諾神宮が築かれ、丹後の皇大神社と、伊吹山と、熊野大社を結ぶと美しい五角形となり、その真ん中が平城京となる。陰陽道の五芒星というのは、発展的な秩序を示しているが、平城京は、その五芒星の真ん中なのだ。

 藤原京から平城京への遷都は、古代史における謎の一つだが、陰陽道に基づいて、計画的に実行されたことがわかる。

 そして、伊勢神宮熊野大社伊弉諾神宮を結ぶ五角形は歴史好きの中でわりと知られているが、実は、この五角形の中に、小さな五芒星が隠れており、この小さな五芒星こそが、この時代の隠された真相を秘めている。

 この小さな五芒星の謎は、全国に14基しかない八角墳のうち、近畿の8基、鳥取の1基を除く5基が関東に集中している理由ともつながっている。

 5月20日と21日に京都で行うワークショップセミナーでは、その秘密を解き明かします。

 ワークショップセミナーの詳細・お申し込みは、こちらまで。https://www.kazetabi.jp/%E9%A2%A8%E5%A4%A9%E5%A1%BE-%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%97-%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC/

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第1326回 京都の桂川流域に秘められた歴史の真相。

 

京都は日本の歴史文化の宝庫とされていますが、観光地の大半は豊臣秀吉以降の時代に作られたものが多く、多くの人が古都の街並みだと勘違いしている祇園明治維新以降のものです。

 京都のなかで平安京遷都の1200年前より古い聖域は、京都の西側の桂川沿いに集中しており、これまで2回行ったフィールドワークを含むワークショップセミナーで、松尾大社や月読神社、梅宮大社など、1200年以上前の聖域を案内しました。

 5月20日(土)と21日(日)に行う第三回目は、嵐山の渡月橋周辺から、桂川沿いを松尾大社方面に歩いて私の家に向かいますが、このあたりは、東西に比叡山愛宕山を望み、京都で最も風光明美なところ。

 嵐山周辺は、京都観光のメッカで多くの観光客が訪れる所ですが、その90%以上が、天龍寺周辺の竹林をはじめ土産物屋が並ぶ嵯峨野地域に集中し、渡月橋の南岸は、素通りしています。

 現在、渡月橋の南岸にはモンキーパークがあり、コロナ禍以前は、外国人観光客が大勢訪れていました。

 実は、モンキーパークの隣にある櫟谷宗像神社こそが、嵯峨嵐山地域で最も古い聖域なのに、嵐山観光の日本人は、ほとんど誰もやってこない。それは、歴史的背景が、どこにも紹介されていないからでしょう。なので、今回のワークショップでは、そのあたりも掘り下げます。

 ✳︎ワークショップセミナーの詳細、お申し込みは、こちらのサイトから。

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 嵯峨野方面は、桓武天皇の息子の嵯峨天皇親族ゆかりの聖域ですが、櫟谷宗像神社は、それ以前のもの。

 櫟谷宗像神社の鳥居近くに掲げられている由緒では奈良時代の創建となっていますが、社伝では創建は668年で、白村江の戦いの5年後、天智天皇が即位した年となります。

 この668年というのは、松尾大社に伝えられているところによれば、松尾山の中腹にある磐座で中津島姫を祀った年となっています。

 中津島姫というのは、宗像三神の市杵島姫の別名ですが、松尾大社自体は701年に創建され、主祭神が、秦氏と関係の深い大山咋神(おおやまぐいのかみ)と、中津島姫(市杵島姫)ですが、668年、天智天皇の即位年に、まずは松尾山の磐座に中津島姫が祀られたということになります。

 この同年に、嵐山に櫟谷宗像神社が創建され、宗像三神のうち、市杵島姫と奥津島姫が祀られた。

 つまり、663年の白村江の戦いの後、宗像海人の女神が、京都の桂川沿いの嵐山と松尾の両方に祀られたわけです。

 そして、天武天皇の長男で壬申の乱でも活躍した高市皇子は、654年頃に誕生したとされていますが、彼の母は、九州の宗像大社の神主でもあった宗像徳善の娘の尼子娘ですから、白村江の戦いの前後、天智天皇天武天皇の時代、宗像氏が何かしら大きな役割を果たしていて、京都の松尾と嵐山に痕跡を残しているわけです。

 宗像氏は、主に北九州の玄界灘を拠点に活動していた海人と考えられていますが、宗像市の中心部にある弥生時代の光岡遺跡から、宗像土笛というココヤシ笛をルーツとする笛の完全形が出土しています。この笛は、宗像地域を西限とし、関門地域を経て丹後半島付近までの日本海沿岸部にほぼ限定されて出土する祭祀に関係のある道具と考えられていて、この特徴的な笛のルーツであるココヤシ笛が、壱岐島の​​原の辻遺跡から出土しているのです。

 そして、壱岐島から、5世紀末、現在は京都の松尾大社の摂社となっている月読神社に、月読神と亀卜がもたらされました。

 壱岐島も宗像海人の活動域ですが、宗像という名は後につけられたもので、弥生時代から古墳時代にかけて、この海域の海人が、山陰から丹後にかけて活動し、5世紀末、京都の桂川沿いに入ってきていた。その海人勢力が、天智天皇天武天皇の時代に、特に重要な役割を果たすようになったということでしょう。 

 京都の月読神社は、洪水によって松尾山の麓に遷座されましたが、もともとの鎮座地は、ここから真東に500mほどの桂川西芳寺川の合流点で、現在も地名が「吾田神」となっています。

 アタというのは、南九州の海人の拠点であった大隅半島を指しますが、宗像氏の祖が「吾田片隅命」(アタカタスミ)なので、宗像氏のルーツは、アタということになります。

 宗像大社は北九州に鎮座していますが、ここから北に向かって宗像大島、沖ノ島と連なる宗像の聖域をたどって朝鮮半島に到るので、もともと南九州で活動していた海人が、朝鮮半島との関係で活躍するようになってから北九州に拠点を移したのかもしれない。

 宗像土笛の起源がココヤシ笛ということも、南方とのつながりを示しています。

 さらに、亀卜を行った亀の甲が出土している地域は、非常に限られているのですが、壱岐島対馬以外では、神奈川県の三浦半島と千葉の房総半島のみで、いずれも、南九州とは黒潮の流れでつながっています。

 三浦半島や房総半島には、古代海人と関わりの深い海蝕洞穴が数多く見つかっていますが、三浦半島の間口洞穴遺跡から、弥生時代の占いに用いられた卜骨と、後の時代の卜甲が見つかりました。この洞窟は、出土物に漁具が多いため、海人関係のものと考えられています。

 弥生時代からの占いである骨卜は、亀卜が伝わってからも引き続き行われており、その出土は日本各地に見られますが、海上交通の拠点が大半で、内陸部でも長野県の千曲川とか群馬県の高崎など河川交通の要所です。航海という天運に身をゆだねざるを得ない海人にとっては、占いが重要で、その技能を持つ専門家がいたのかもしれません。

 弥生時代、日本における占いは骨卜で、中国においては、殷の時代から亀卜が用いられていました。しかし、中国では漢の時代から亀卜は衰退しており、5世紀末から朝廷儀礼で亀卜を重んじるようになった日本とは対照的です。

 この亀卜は、壱岐島から月読神といっしょに畿内に入ってきましたが、九州と大陸を結ぶルートにある玄界灘の海人が、その役割を担いました。

 海人は、外交においても活躍しており、壱岐島で月読神の神託を受けた阿部事代の阿部氏も、海人と関わりの深い海産物などの食膳と、食でもてなす外交と、水軍を統率する氏族で、後に陰陽師安倍晴明が出るように、占いとも関係していたと考えられます(史実では、安倍晴明賀茂氏から陰陽道を習ったことになっていますが、奈良時代の初期に築かれたキトラ古墳は、石室に陰陽道と関係の深い天文図や四神相応図が描かれており、その被葬者の有力候補は、竹取物語の登場人物のモデルでもある阿部御主人です。)。

 月は、潮の干満に影響を与え、月を読むことは、海人にとって重要なことだった。

 海人の伝承が重なって創造されたと考えられる浦島太郎の祖も、月読神です。そして、浦島太郎を竜宮城へと導いたのが「亀」。ここに、亀卜と月読神が重なってきます。松尾大社の境内には、手水場の亀とか、撫で亀とか、亀の彫像がたくさんあり、亀は松尾大社の神使とされています。その理由はどこにも詳しく書かれていませんが、松尾大社の創建以前、この場所に亀卜がもたらされたことが理由かもしれません。亀卜は、いわば、神の声を伝えるわけですから。

 嵐山の櫟谷宗像神社の前に架かっているのも渡月橋だから、ここでも「月」が関係してくると思ったら、それは違っていました。

 もともと、この橋の名は法輪寺橋で、鎌倉時代亀山上皇が、橋の上空を移動していく月を眺めて「くまなき月の渡るに似る」と感想を述べたことから渡月橋と名付けられたそう。

 しかし、名のことはともかく、この橋が月の鑑賞にふさわしい場所だったことは間違いありません。

 

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第1325回 鬼伝承の地と、鉱物資源と、交通の要衝。

岐阜県瑞浪市の鬼岩。ここは木曽川支流の可児川の源流に近く、巨岩群の中を、清冽な水が勢いよく流れている。

 この地は日本有数のラジウム温泉の場所で、すぐ近くに、日本最大のウラン鉱脈がある。

 鬼岩から5kmのところには、高レベル放射性廃棄物の処分のための研究施設、瑞浪超深地層研究所があったが、ここは、輸入ウランに価格競争で負けて廃坑になった日本最大のウラン鉱だった。その鉱山の坑道を放射性物質の処理にかかわる基礎実験施設として利用し、おもに岩盤中の物質移動に関する研究などに活用されてきたが、2004年3月に終了し、埋め戻されることとなり、2021年にその作業も終了した。

 しかし皮肉なことに、この瑞浪のウラン地帯は、リニアモーターカーのトンネル区間でもあり、その路線は、ウラン鉱床そのものは回避しているようだが、ウランが蓄積されやすい地層は避けようがないため、トンネル工事で発生する残土の放射能分析は行われている。


 そして、この怪しい地に、鬼伝説が伝えられている。刀工で有名な岐阜県関市から追われるようにやってきた太郎という男が、この巨岩群のなかに潜み、人々に悪さをしたため、恐れられ、討伐されたという伝承。

 この美濃の鬼退治は、一般的にはあまり知られていないが、有名な吉備の鬼退治や丹波の鬼退治と共通のポイントがある。

 一つは、「鉄」と関わりがあること。二つ目が、吉備は山陽道、丹後は山陰道、そして、瑞浪東山道沿いで、それぞれ、日本列島の西、北、東に向かう大動脈上であることだ。

 また庄内川の流域は、多治見とか瀬戸とか、古代から日本有数の陶器の生産地で、鬼退治の舞台の備前丹波とともに日本六古窯である。

 鉄の生産には、高温に耐えうる窯を作る技術も必要だから、良質な粘土や水を必要とする陶器の産地と重なっているのだろうか。

 そうすると、鬼とは一体何なのか?

 岐阜県瑞浪の鬼は「太郎」という個人になっているが、おそらく集団だろう。一般的に、鍛治職人は、強い火の前で作業をするので顔が焼けたように赤くなるとか、火を片目で凝視し続けるため片目が潰れていることが多いなどの理由で、鍛治職人のことを鬼とみなす説が知られている。

 しかし、私は、鍛治も含まれるかもしれないが、窯技術も含めて新しい技術を持った渡来系の人々が関係しているのではないかと思う。

 というのは、たとえば岡山の鬼は温羅(うら)と呼ばれるが、これは、当初は、人々に恩恵を与えて慕われていたと記録されており、丹波の鬼退治では、当麻皇子が退治した鬼の中に「胡」と称する鬼がいた。

 中国において三国志の時代の後、五胡16国の時代があるが、漢民族から見た北方の異民族が「胡」であり、特に、鮮卑族を指している。

 しかし、気になることが一つある。

 日本におけるウラン鉱脈は、岐阜県瑞浪と、鳥取と岡山の県境の人形峠の二箇所だが、人形峠のある苫田郡鏡野町には、こんな伝承も残っている。

「農家に二〇歳過ぎの娘がいたが、ぼんやり病で寝込んでしまって、なかなか癒らない。

 両親が不思議に思って問い糺すと、娘のいうには、毎晩夢うつつのうちに、鉄山の役人という一人の男がやって来て、一緒に寝るのだというのであった。

 その後、数か月たって娘は、変なものを産んだ。それは、牙が二本長く生え、尻尾も角も、ちゃんと生えていて、紛れもなく牛の化物といったものなのである。村の衆は、これは鬼の仕業だと思った。」『鏡野町史 民俗編』より。

  アメリカ先住民の聖地は、ウラン鉱脈のあるところに多いが、長老たちの語る口承で、「地面を掘り起こすと災いが起こる」と伝えられてきた。

 ウランの埋蔵量が豊かなところは、日本でもそうだがラジウム温泉などがある。ラジウムと接することで放射性を持った大気であるラドンは、気体の状態とか水に溶け込んだ状態ならば身体にも良い影響を与えるので、古代から湯治に活用されてきた。

 しかし、地面を掘り起こしてウランそのものが外に出てしまうと、その粉塵などから生じる放射能が、生物にとって有害になる。東北大震災の原発事故でも問題になった内部被曝が起きる。

 古代人が、ウランそのものを採掘していたかどうかはわからないが、人形峠苫田郡は、たたら製鉄が長く行われてきたところであり、鏡野町史において、牛鬼を産んだ娘が「鉄山の役人」とまじわったとの記述もあるとおり、砂鉄や鉄鉱石など鉄資源の採掘が行われ、その時に掘り起こされた結果として、ウランの放射能被害が出た可能性はないだろうか?

 もちろん、実証はできないが、神話は、一度起きたことの記録ではなく、その場所が、歴史上何かしらの役割を果たす時、いくつかの記憶が重ね合わせられて創造される。

 日本においてウラン鉱脈のある代表的な二つの場所、岡山・鳥取の県境の人形峠岐阜県瑞浪に鬼伝承があるのは、偶然なのか、それとも必然なのだろうか?

 5月20日(土)、21日(日)に京都で行う「日本を深く掘り下げるためのワークショップセミナー」では、「鬼」についての洞察も、重要なテーマになっています。(2日に分けてではなく、同じ内容を両日とも行います)。

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