第1129回 撮ることの秘儀  鬼海弘雄さんの写真について

 

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 鬼海弘雄さんの写真で素晴らしいものはたくさんある。

 その中で、例えば、この一枚の写真には、鬼海さんの人柄や、哲学、そして写真の凄さ、写真表現だからこそ可能なことが、ぎゅっと詰まっている。

 これは、鬼海さんが、トルコのアナトリア地方を旅している時の写真だ。

 ゆるやかな坂をたくさんのアヒルがヨチヨチと歩いて登っており、その前方にイスラム世界特有のモスクの尖塔がそびえ、そのそばに古びた自動車が停車している。そして、自動車の前方には、見晴らしの良い高台から風景を眺めるためか、一歩一歩、確かな足取りで歩いている1人の男がいる。

 そして、その上空に、ぽっかりと浮かんだ気球。

 これらのものたちは、この一枚の写真の中で、どれ一つ欠けてはならないものたち。

 そして、どれもが、鬼海さんの愛するものたちだ。

 イスラム世界を旅していると、天空にまっすぐに伸びる尖塔を持つモスクの姿を目にしない日はない。

 それはまさに天と地を結ぶ垂直の軸であり、敬虔なイスラム教徒の魂の中心にはその軸がある。その確かな軸があるかぎり、繰り返される日常のなかで、空虚を感じたり、自分を見失うことはないだろう。信仰の深さとは、そういうものだ。

 本物の表現者もまた、自分だけの垂直の軸を魂の中心に抱いている。それは、信仰という言葉より、信念と呼ぶべきもので、信念があるからこそ死を賭する覚悟もある。世俗的な名声や金銭のために魂を売ったりはしない。

 そうした純粋なる精神を鬼海さんは愛していたし、鬼海さん自身も、そういう人だった。

 しかし、鬼海さんの懐の深さはそれだけに止まらない。

 鬼海さんは、天のことなど無頓着に右や左と余所見をしながら、地べたを這いつくばるようにマイペースで歩んでいる無垢なる存在も温かく見守っていた。気取りがなく、自然体で、けれども何かに驚くとパニックになって逃げ惑う、あどけないアヒルのようなものたち。

 そして鬼海さん自身は、そんな天と地のあいだを彷徨う魂の旅人だった。気球のように世界を俯瞰しながら、世の中の硬直した基準に囚われることなく、偏見のない目で様々な物事を見つめていた。

 しかし、ただ風に流されるだけではなかった。やはり、一歩一歩、自分の足で確かな足取りを刻んでいくことの大切さを鬼海さんは意識していた。流行に流されず、たとえ遠回りすることになっても自分のやるべきことを深くやり抜くこと。自由というのは、風の吹くまま、とか、自分の好きなように、という程度の生易しいことではなく、厳しさを引き受ける覚悟のできたチャレンジこそが本質。

 そうした魂の冒険には、相棒も必要だ。相棒は人に限らず、使い込んで身体の一部になった道具も含まれる。しかし、道具というのはあくまでも後ろから自分を支えてくれるものであり、それを使う人間の主体性の方が大事だ。

 最新式の自動車など新しいものに目を奪われるのは人間として仕方ないこと。しかし、その新しいものが、近道を行くためや、虚栄、すなわち自分をごまかすうえで都合の良いものにすぎないのなら、長い目でみれば、かえって自分を貶めるものとなる可能性が高い。鬼海さんは、目新しいものよりも、使い込まれたものに強く親近感を覚えていた。カメラも、ずっと同じものを使い続けていた。本当に信頼に値するものは、自分自身の心と身体で時間をかけて確認していくものなのだ。

 さて、鬼海さんの写真の凄さというのは、ここからが核心である。

 鬼海さんは、あまりシャッターを切らない写真家だが、シャッターを切らない時も、ずっと考え続けているし、写真ではなく文章でもアウトプットを行い、自分の考えを整理し続けている。そのようにして熟成された自分ならではの世界がある。

 それゆえ、鬼海さんが、シャッターを切る時というのは、当然ながらただの風景や人物や事物ではなく、鬼海さんの中で熟成されている”かくあるべき世界”が開示されている瞬間なのだ。

 鬼海さんは、イスラムの尖塔が示すものと、アヒルたちの歩みという一見相反するようなものが調和した状態こそ、世界なのだと一枚の写真で見事に示している。

 どれか一つの要素を偏愛的に愛して、その部分にだけ焦点を合わせている人は、この世にたくさんいる。自分が信じるもの以外は一切認めない、または無関心という頑迷さや偏狭さで。それはなにもイスラム原理主義者に限らず、科学絶対主義の学者なども同じだし、特定ジャンルの権威と祭り上げられている表現者も同じだ。 

 しかし、この鬼海さんのアナトリアの写真の中から、アヒルか、イスラムの尖塔か、気球か、1人の歩く男か、自動車か、どれか一つの要素を取り除いてみればわかるが、一瞬にして何とも味気ないものになってしまう。

 モスクの尖塔の直線と、アヒルの曲線があるから全体の線が豊かになり絶妙なるリズムが生まれる。自分の足で歩いている男と、停止している自動車と、浮かんでいる気球があるから、画面に大きな時空が生まれる。どれか一つだと、それは世界ではなく、カタログのような断片的情報にすぎない。断片的情報の提供は、写真家の仕事ではなく、商業的カメラマンの仕事だ。

 たった一枚の写真で、これだけ世界の真髄を伝えられることが、写真表現の凄さであり、これができる人が写真家という称号にふさわしい。そうでない人が、写真家と名乗るのはおこがましい。

 そんな呼び名はどうでもいいが、本来、神話というものは、この鬼海さんの一枚の写真のように、世界の本質的な有様を開示するために創造されたものだった。

 なので、実証主義という偏狭な価値判断にあぐらをかいた専門家が、神話は史実ではなく作り物にすぎないと主張して威張っているのは、とても滑稽な現象としか言いようがない。

 証拠が出揃って証明できることが、世界の真髄だと思ったら大間違いだ。

 このアヒルたちが、いったい何を考え、何を求め、お尻を振って歩いているのか、的確な説明をして、その証拠を示すことができるのだろうか。

 あどけない表情の鳥類は、官僚的組織のルールに縛られている自らを万物の尺度とする狭い了見の輩たちなど無関係に、人類より遥かに長い時間を地上で生きているのだ。

 世界は、かくも興味深く、謎に満ちて、豊かにそこに存在している。神話が語り継いできたことは、そのリアリティであり、鬼海弘雄という写真家は、近代主義の中で生まれた写真表現を通して、この時代に息づく神話を開示してきた。

 その真価は、人間の自己中心的な世界像を優れたものとみなす近代主義が、みっともない時代遅れと感じられるようになった時、よりはっきりとするだろう。

 

 

 鬼海弘雄さんが、40年かけて撮り続けてきた東京の街並み

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第1128回 追悼 鬼海弘雄さん(2)

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Impact hub Kyoto で行った鼎談「黙示の時代の表現〜見ることと、伝えること〜」(右から、鬼海弘雄さん、小栗康平さん、佐伯剛) 撮影:市川 信也さん 

 2018年11月11日。とっても楽しかった。この後、小栗さんと鬼海さんで、何日、我が家に泊まっていたのか忘れたけれど、連日、近くの温泉に行き、神護寺の紅葉を楽しみ、亀岡にも足を伸ばした。鬼海さんは、桂川沿いの嵐山の探索がお気に入りで、毎日、一番奥のところまで散歩していた。ある時、鬼海さんは、散歩のついでに自分で買い出しして、特性のスパゲティを作ってくれた。

 鬼海弘雄さんが作ってくれたスパゲティは、記憶に残る味わい深いスパゲティだった。麺の茹で加減と、カルボナーラのソースが絶妙にマッチしていて、料理というのは、こういうものなんだと本当に感心した。

 こうした話を過去形で言わなければならない悲しみはあまりにも深いけれど、記憶は永遠だ。

 同じ人間がやることだから、表現も料理も、共通したものがある。

 

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 この写真は、家の玄関にあって、毎日のように眺めているものだが、いつも感心してしまう。画面の中に、いろいろな”素材”が盛られているが、それらが絶妙に調和していて、その調和のさせ方が、鬼海さんならではのものだ。実に味わい深い。

 鬼海さんは、料理も、写真も、文章も、そしてトークも、実に味わい深い。それは、私に限らず、鬼海さんのアウトプットに接したことがある人間なら、誰でも知っている。

 その味わい深さはいったいどこからくるのかというと、それははっきりしていて、鬼海さんの人間性からだと思う。

 その人間性というのは、良い人とか悪い人とか、世間の薄っぺらい価値判断に基づくものではない。

 うわべを取り繕ったり、ごまかしたり、手を抜いたり、安っぽい取引をしたり、卑屈に妥協したりということを一切やらないで、そのことによって自分が不利になろうが、孤独に追い込まれようが、荊の道になろうが、自分の魂を疎かにすることに比べれば小さなことだという潔さを貫き通した人だけが持つ、底知れない深さからくる味わい深さだ。

 鬼海さんが材料を買ってくれて料理してくれたあの日の夕食は、スパゲティ一品だった。でも究極のスパゲティは一品だけで十分に満ち足りたものになる。小栗さんも私も、スパゲティを食べているという分別を超えて、その味わい深い何ものかを噛み締めていた。

  鬼海弘雄さんと濃密に仕事をするようになってから、飲んだりする時に、よく言われた。

 「なあんで、俺のとこ、こないんだって、頭にきてたんだよ」って。

 風の旅人の掲載のことだ。だって、鬼海さんの写真を風の旅人で初めて掲載したのは、44号(2011年10月号)で、東日本大震災の後、一度休刊しようと決めた時で、創刊から8年も経っていたから。

 それまで、日本の写真史のなかで重要だと自分が思う写真家は、ほとんどすべて声をかけていた。しかし、鬼海さんだけは別だった。もちろん、みすずが発行した「INDIA」は大好きな写真集で、色々な写真家が出しているインドの写真集のなかで最高峰のものだと思っていたし、「PERSONA」は、人類史における普遍のポートレートだとわかっていた。

 そして、私は、おっかない人ほど近づいていくのが好きだったので、鬼海さんのことを恐れていたわけでもない。

 しかし、たとえばカメラ雑誌のように、「鬼海弘雄特集!!」というやり方だと、簡単にいつでも特集は組めるが、風の旅人の編集は、そういうものではなく、最高の素材を、最高の状態で調理させていただいて食卓に出すような感覚で作らせていただいていた。

 私は、そういう編集をしていたので、鬼海さんの「PERSONA」や、 「INDIA」には、ちょっと手を出しづらかった。

 すでに世の中に出ているこれらの写真集以外に、他にやりようがないと感じたのだ。だからといって、一つのテーマに何十年もかける人だし、何か新しいテーマで撮ってきてくださいと簡単に依頼できない。

 後に作った「居場所」のような依頼仕事は特殊で、互いに十分な信頼感が養われていたからこそ可能になった。

 「PERSONA」や「INDIA」の世界は、風の旅人の中でどう掲載しようが、そこだけ、鬼海さんの世界として完結する。というか、あらためて、数枚の写真だけ借りてきて風の旅人の中で取り上げる意味がない。

 そういう思いがあったので、長いあいだ、鬼海さんに近づかなかったけれど、休刊と決めた時には、もう後がないという心境だった。それで、鬼海さんが取り組んできた写真の中では、比較的露出の少ない、本人もまだ撮り切っていないという意識が強いトルコの写真を風の旅人で組ませていただいた。

(風の旅人第44号)

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 (撮影:鬼海弘雄 「アナトリア」より)

 

 渋谷で会って、食事をしている時、「さて、俺のことをどう扱う」というような目で、こちらを見ていた鬼海さん。

 それから数年の後、鬼海さんの世界を、きちんと編集させてもらうには写真集を作るしかない。そう考えて、鬼海さんと色々話をしていた時、「TOKYO VIEW」の話になった。

 東京の街角を撮った写真は、鬼海さんが長年取り組み続けてきたものだ。鬼海さんは、長年、「東京の街角」、「浅草の人物」、「インド」、「トルコ」と、並行して4つのテーマに取り組んでいたのだが、そのうち三つは、すでに大型の豪華本として世の中に出ているのだが、唯一、集大成のような大型本が出ていないのが東京の街角の写真だった。

 さらに、唯一、人物が1人も写っていないシリーズであり、それゆえ、ちょっとマニアックというか、本当に写真を愛する人、写真がわかる人しか関心を示さないだろうものだ。

 美しい風景とか個性的な人物の写真は、写真以外の要素でも人を惹きつけるが、TOKYO VIEWは、研ぎ澄まされた写真表現の真骨頂であり、風景や人物ではなく、まさに写真と向き合うための写真である。

 しかし、ここまでこだわり抜いたものというのは、かえって読者層を狭める。なので、さほど販売数を期待できない。それでなくても、大型の写真集を世の中に出すのは難しい時代だ。しかも、鬼海さんがイメージしているような品質だと、当然、価格も高くなり、一般の出版社が取り扱わない分野になっている。

 この「TOKYO VIEW」は、日本の出版社はどこもダメだったのでとアメリカの出版社に声がけして話を進めていた。1年くらいか、話は順調に進んでいるようだったが、結局、ダメだということになった。

 それで、私にとっての初写真集、森永純さんの写真集「WAVE」が、ようやくできた時、次作として、鬼海さんの「 TOKYO VIEW」をやろうということになったのだ。

  今、私の家の壁面には、ミニ展覧会が開けるくらい、鬼海さんの写真がズラリと並んでいて、それらの写真が、いつも語りかけてくるので、鬼海さんの肉体は消えても魂と対話ができるような気分になっている。

 なぜこれだけたくさんの鬼海さんの写真があるかというと、鬼海さんが、「TOKYO VIEW」の写真集と物々交換してくれたからだ。

 鬼海さんは、「 TOKYO VIEW」の売れ行きを気にかけてくれていた。私が、大きな赤字を抱え込むのではないかと心配してくれていた。

 私は、たとえ今現在、この写真集の価値が世の中の多くの人に伝わらなくても、10年後、20年後にはきっと伝わるので、大切に在庫を持ち続けていれば少しずつ減っていきますよと答えていた。一時的に大ブームになって売れ行きを伸ばして、しばらく経つと完全に忘れ去られてしまうようなものを作りたかったわけではないのだからと。  鬼海さんは、そうだよなと言いながらも、やっぱり気にかけてくれて、自分のルートで 「TOKYO VIEW」を人に手渡そうとしたのか、定期的に、数十部単位で、オリジナルプリントと物々交換をしてくれた。

 写真集それ自体が大赤字になったとしても、私の手元には鬼海さんの写真がたくさん残されたので、私はもう十分ですよと言っていた。

 十分どころか、大変だったけれど本当にやってよかった仕事だと心の底から思っている。やらせていただいたことを感謝しているし、幸運だったことは間違いない。

 写真だけでなく、私の手元には、鬼海さんのお化けペンタックスまで残された。

 

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  ピンホールカメラで撮った写真を見せた時だったか、ピンホールカメラでこれだけきちんと世界を切りとれるんだから、これでも撮ってみなよ、と言われて渡されたものだ。

 鬼海さんは、ハッセルで撮る前、これで撮っていたのだ。しかし、あまりにも重くて、持ち歩くのが辛いのでヤメた、と言っていた。

 確かに重い。そして、鬼海さんのように1日歩き回っても一枚もシャッターを押さないことが多い写真家だと、トレーニングのためにダンベルを持って歩き回っているようなものだ。

 この重いカメラを使って何をどのように撮ればいいのか、まだ掴めない。

 ピンホールカメラで撮るようになってからよくわかったけれど、機械は、本当に身体の一部になるくらい使いこんではじめて、自分の思うようになるということ。

 そして、このカメラの場合、重いのは単にカメラの重量だけでなく、鬼海さんの魂がドッシリと載っかかっているので、さらに重い。それを自分のものにするまで長生きできるかという問題があるが、そういうことだけのために残りの人生を賭けるのも惜しくないという気持ちもある。

 人の幸福は人それぞれで、何の悩みもなく不自由もなく楽しい日々を送ることができればいいというのもあるし、それとまったく逆の過程で心身とも苦難の連続でも、鬼海さんのように、最期の時期に、「死ぬのは別に怖くはないですけどね」とサラリと言えてしまうというのもアリだと思う。

 これをサラリと言えるのは、自分に与えられた命を、しっかりと使い尽くしたという自分なりの納得感があるからだろう。その納得感を得るために、人は生きているということを、人は、忘れてしまう。

 時々、それを思い出すたびに、空虚に襲われ、死を極端に恐れてしまう。

 鬼海さんは、写真を撮る時、写真を撮られる側の人や風景に対して、その秘められた本質を、その価値を、決して損なわないように、決して歪めないように、ということに精魂を傾けてきた。

 そういう精神で生み出された結晶のような写真を、安易な気持ちで編集なんてできない。

 東日本大震災で多くの人命が失われ、風の旅人の休刊を決めた時の44号のテーマは、「まほろば」であり、この究極のテーマにいたって初めて、私は、鬼海さんに土俵に乗ってくれるよう依頼した。

 その時の企画内容は、

 「人間と自然の間には、人間が作り出した物が積み重なっている。

 人間は、考えることで、人間と自然の間を離したり埋めたりするが、自然を作ることはできないし、自然に戻ることもできない。

 しかし、人間が考えて作り出した物が、人間と自然の間をつなぎ、人間の心や世を鎮め、平和をもたらすこともある。」

 というものだった。

 鬼海さんが撮る写真というのは、その全てが、そういうものだった。その徹し方は見事としか言いようがなく、残されたものに、多少のごまかしが混ざっているようなものが一つもない、ということに、あらためて畏敬の念を覚える。

 

                                     合掌

 

 

 

 

 

 

 

第1127回 追悼 鬼海弘雄さん(1)

  10月19日、鬼海弘雄さんが、2年あまりのリンパ腫との闘病の末、亡くなった。 春頃までは、電話がかかってくれば、次の本作りのことや、良くなったらあと一回、トルコに取材に行きたいなあとか、そういう前向きな話ばかりだった。きっと、自分を鼓舞していたのだろうと思う。

 2、3ヶ月くらい前からは、次の仕事のことは話さなくなり、自分の体調のことには触れず、こちらを讃え、激励し、力を与えてくれるような内容ばかりになっていた。

 人生の奥義を知り尽くしている人だから、少しずつ達観の境地に至っていたのだろうと思う。

 抗がん剤治療という壮絶な苦しみを背負うならば、数年は生き延びることはできるが、抗がん剤治療をやめるなら数ヶ月だと医者から言われていると、2、3ヶ月前、淡々と話していた。

 その時、「もうこの年ですから、死ぬのは怖くないですけどね」とポツリと言っていた。どのような決心をなされたのか。

 最後に電話で話をしたのは9月下旬。いつもより時間は短かったが、やはり、こちらを讃え、激励する内容だった。

 人は、人生のなかで多くの出会いがあるのだけれど、人生の方向性に大きな影響を与える出会いは、数限られている。その方向性の選択の結果が、社会的評価として良かったと悪かったとかの世俗的な分別を超えて、自分自身として、その選択に納得できるかどうかは、その出会いに対する感謝があるかどうかで決まってくるだろう。

 この道を歩んでいるのは、あの出会いがあったからこそと振り返る時、この道を歩んでよかったかどうかを考えるまでもなく、この道と自分が一体化している。

 鬼海さんは、私だけでなく多くの人に、表現を通して、その人柄を通して、そんな稀有なる出会いをもたらしている。

 鬼海さんが撮ったインドや浅草やトルコや東京の街中の写真は、全て鮮明に覚えているくらい何度も何度も見てきたけれど、鬼海さんの死の前日、なぜだかふと、「居場所」という本を見ていた。

居場所 | 北星学園余市高等学校

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  北海道、京都、大阪、東京などを一緒にまわり、若者たちを取材した時のもの。

 不登校の子供達を受け入れる北海道の北星余市高校が、通信制の学校が増えてことなどもあって存続の危機にあり、この高校を卒業して頑張って社会で生きている子達を取材して、通信制の学校だと得られないものが人生の糧になるのだということを伝えるための本を作ろうとした。

 その時、写真撮影をお願いした。「日本社会においても重要な仕事だから」と、即答で受けてくれた。そして、「悩んでいる家族にも、悩んでいない人にも、よい本になるように」と、言ってくれた。

 その「居場所」という本の中には、会ったばかりの20代の若者と、ほんの少し話をして、そのあたりを一緒に散歩したりして撮影した写真や、北星余市高校まで出かけて行って、現役の生徒たちの学習風景や、彼らを支えている先生や町の人を撮った写真が掲載されている。

 そして、それらの写真がおそろしく絶妙なのだ。

 インドや浅草の写真は、撮影している現場を見たことがないが、「居場所」という本は、私自身、ずっとそばにいて、一緒に歩いて、撮影する瞬間も見届けていた。どの瞬間も、何か特別なことが起こるわけでないし、ロケハンをしていい場所をあらかじめ決めていたわけでもない。ごく普通の街中で、ごく普通の若者たちを撮影しただけだ。

 しかし、写真が送られてきた時、唸った。カメラは、シャッターを押せば誰でも撮れる。そんなシンプルな機械なのに、送られてきた全ての写真が、あったかい空気で包まれており、そのうえで、写っている人たちのそれぞれ異なる魅力が引き出されている。それがほんとに不思議で、奇跡の産物のように思われて仕方なかった。

 それまで、そう簡単にシャッターを押さない人だということは、当然、知っていた。真実の瞬間を待ち続けることにおいて常人にはないタフな精神が宿っていることはわかっていた。時間をかけて撮り続けることで、あれらの珠玉の写真群ができあがるのだと。

 しかし、やはり、それだけではないのだ。限られた時間のなかの瞬間芸のような仕事でも、他の人には真似ができない魅力的な世界が立ち上がってくる。単に写真が上手いとかそんなことではなく、「居場所」という本を通して実現しなければならないと考えていたことが、その通りになっているのだ。

 仕事を一緒にするパートナーとして、こんなに楽なことはない。

 かと思えば、「 TOKYO VIEW」という写真集を作る時は、まったく楽ではなかった。

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 この本は、長い編集制作期間を除いて、印刷だけで、やりなおしなども含めて、1年かかった。

 私は、本作りの経験はけっこう長くなるし、写真の再現性が強く求められるものも作ってきたので、印刷のことはかなりわかるという自負がある。

 しかし、それまで経験したことのない高次元のレベルが求められた。はっきり言って、狂っているとしか言いようのないくらいのテンションになって、2人で、最高峰の印刷を求めた。

 歴史に残る写真集にするために。100年後、200年後に見る人も、強く心を惹きつけられる写真集にするために。

 最高峰の印刷を求めるというのは、印刷会社に要求すればいいという問題ではない。

 単に綺麗に印刷すればいいというわけではないのだ。何をどのようにレベルアップさせるのかということをしっかりと掴んでいなければ、たとえば紙の選択、特色の選択、ニスの使い方など、印刷会社ではなく制作者サイドで決めなければならないことが決められない。

 そして、何度も何度もやりなおして、ようやく完成した「Tokyo view」という写真集において、もう発売から数年経つのに、最近も、しょっちゅう電話してきて、「今、見直しているんだけどさあ、最高だよね。いやほんと、いいものを作ってくれて、ありがとう」と言ってくれた。

 去年の暮れ、見舞った時に、私がピンホールカメラで撮っているプリントを見せた。

 すると、「すぐに本にしなよ」と言うので、驚いて、「もう少し時間をかけるつもりなんだけど・・」と言うと、「もう十分だよ、今、やんなきゃ、まとめられなくなるよ、大丈夫だよ」と、ものすごく強引に背中を押してくれた。

 そして、そのエネルギーをいただいてSacred wordを作った。

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  3月末に完成してすぐに送ったら、「こういうのは、これまで誰もやってないものだよ」と褒めてくれた。写真だけでなく、文章量も多いのに、丁寧に読んでくれて、面白いと言ってくれ、次は自分自身のこと(時間の中を旅している存在として)をもう少し入れてもいいじゃないか、とアドバイスをくれた。

 この本を1000部、55万円で印刷したという話をしたら、こういう形で未発表のトルコの写真集を作ってみようかと、盛り上がった。そのあとも、トルコの写真のネガを見直しているとか、あと一回、取材に行きたいとか、次の本作りのことを考えるのを心の励みにしていた。抗がん剤によって蝕まれる気力を奮い立たせるように。

 2年前までは元気だった。外でお酒を飲むこともできていたし、京都に来た時は、けっこう石の階段の上り下りがきつい神護寺など観光したし、嵐山の桂川沿いを、一番奥まで、飽きもせず、なんども散歩していた。

 最近、同じ場所を歩くたびに、あの時の光景を思い出していた。「居場所」の写真のように、鬼海さんのあったかい眼差しで包まれたあの光景を。

 覚悟はしていたけれど、こんなに早く逝くなんて。

 わかっていたことだけど、とても辛い。

 ありがとうという言葉では簡単には言いつくせないものをいっぱい頂きました。それを無駄にしないように生きていきます。

 

 

 

 

第1126回 ものの気配と、永遠

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 人はよく「気配を感じる」とか、写真などで、「気配が写っている」とよく言うのだけれど、”気配”って、何かしらんと思う。
 私は、古くからの聖域を訪れる時、ピンホールカメラで撮影するとともに、コンパクトのデジタルカメラでも記録している。
 そして、その二つの画像を見比べると、その場にいた時の自分の感じ方は、ピンホールカメラで撮った画像の方が近いと思う。
  その理由は、自分の目で見ているものよりも、デジタルカメラの写真の方が、写りすぎているからだ。
 たとえば、大きな磐座があって、まわりに森が広がっているような場所で、私は、森の木々の葉の一枚一枚を見ていないのだけれど、デジタルカメラで撮った画像には、それらが写ってしまっている。
 私は、その場に立ち尽くして、磐座を凝視しているというより、なんだか遠くの世界を覗くような感覚で眺めているので、たぶん焦点はちょっとぼやけている。デジタルカメラで撮った画像のように明晰に、対象を見てはいない。
 だいたい、人は、ちょっと興奮気味の時は、対象を明晰に見ていたりしないだろう。
 人を好きになるというのも、相手を明晰に見て判断しているというより、動きや仕草や表情も含めて、なんか全体から立ち上るものに惹きつけられている。
 明晰に見るというのは、対象の動きを止めてしまって見ているわけで、それは、醒めた目で見ているということだ。
 醒めた目で見て、それでも相手を好きだと言っているのは、冷静な客観的判断ということで科学的にはその方が正しいとされるが、相手や物事との関係においては、そこに何かしらのズルイ計算が入るケースが多いのではないか。
 生き生きと動いている相手の全体を好きになる時というのは、おそらく、細かなディティールにはこだわっていない。
 ピンホールカメラで撮る感覚は、それに近い。
 人を好きになる時、相手の息遣いを身近に感じるが、それは自分の息遣いでもある。
 そして、その息遣いの共振が、気配なのだ。
 ”気配”というものは、対象が発しているものを冷静に受信して感じているというより、対象が発しているものと自分が共振することで感じているもの。
 そして、共振している時というのは、相手のディティールを細かく見てはいない。細かく見る前に、相手とつながってしまっているからだ。
 ピンホールカメラで撮る写真というのは、何らかの作用で、その場所とつながってしまった写真なのだ。自分の意思というより、意思を超えた何かに引き寄せられて。 
 それはオカルトでも何でもない。人を好きになる感覚もそういうものなのだから。
 見栄えがいいものの写真を撮るという行為は、その対象を好きになっているというより、どちらかというと自分のアピールだろう。
 見栄えがいいかどうかわからないが、その場から醸し出されている何かに惹きつけられて共振してしまっている時、自分のことよりも大きな何かとつながっているという感覚になる。
 そのつながりを、他の誰かが認めるとか評価するとか、そんなことは二の次である。
 なぜならば、その大きな何かとのつながりだけが、時空を超えるからだ。数年単位の分別ではなく、数十年、数百年、それこそ無限に。
 表現において、永遠ということが意識されなくなって、どれくらいの歳月が流れているのだろうか。
 地上に存在するどんな物も、消滅していく定めにあるが、気配として、余韻として、いつまでも残り続けるものがある。人はそこに永遠を感じてきた。とりわけ日本人は、自然環境の影響もあって、その感性を、より研ぎ澄ませてきた。もののあはれは、永遠とつながっている。
 気配や余韻は、あからさまであることによって阻害されることがあり、たとえ幻のようなものであっても、存在の確かさが十分に伝わる伝え方がある。
 
また見付かつた。
何がだ? 永遠。
去(い)つてしまつた海のことさあ
太陽もろとも去(い)つてしまつた。
 
このランボーの詩、中原中也以外に、小林秀雄とか、数えきれないくらいお人が翻訳しているのだけれど、ランボーが表している永遠を、きちんと捉えていると感じられる人のものは少ない。中原中也以外には、金子光晴くらいかな。
二人に共通しているのは、彷徨い人であること。世間の定めた価値の枠組みの外に出て、ものごとを見ている人。
ランボーがそうなのだから、ランボーの気持ちは、そういう人にしかわからない。
 
Elle est retrouvée,
Quoi? ― L'Éternité.
C'est la mer allée
Avec le soleil
 
また見付かつた、
何が、永遠が、
海と溶け合う太陽が。
小林秀雄訳)
 
もう一度探し出したぞ。
何を? 永遠を。
それは、太陽と番(つが)った
海だ。
堀口大学訳)
 
とうとう見つかったよ。
なにがさ? 永遠というもの。
没陽といっしょに、
去(い)ってしまった海のことだ。
金子光晴訳)
 
これらの訳の違いは、allée 英語のgo の捉え方だと思うけど、中也と金子光晴以外は、海と太陽を男女の交わりに置き換えて、その昇天(恍惚)の方を永遠と捉えていて、それに対して、とくに中也は、その後の気配を永遠と捉えている。昇天するにはしたものの、その後の余韻というか虚脱を残して、あっという間に消えさったものを、焦がれる思いで追憶している。
 
 

 * Sacred world 日本の古層 Vol.1を販売中。(定価1,000円)

 その全ての内容を、ホームページでも確認できます。

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第1125回 八百万の神とは何か。

 

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兵庫県姫路市西脇の破磐神社の御神体「割れ岩」。
 日本という国は、古代から八百万の神といわれるように無数の神が存在する。
 その一つひとつの神のことについて、それがいったい何を意味するのかと説明したところで、古代の人々が感じていた神に、どれだけ近づけるというのか?
 おそらく、八百万の神の本質は、西行が詠んだこの歌のようなものではないか。
 なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる
  神と名付けられていたとしても、形あるものは、神の依り代にすぎない。
 それが、アマテラス大神であれ、住吉神であれ、猿田彦神であれ、摩多羅神であれ、ミシャクジ神であれ同じだ。
 修験道の祖の役小角は、蔵王権現という、釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩の三尊の合体した凄い神様を創造した。
 凄い神様を創造したという言い方は正しくなく、神というのは本来凄いものなのに、釈迦如来とか千手観音とか弥勒菩薩というふうに分節化されてしまうことで、それぞれ、過去世、現世、未来世などと役割分担させられてしまっていることが不自然だから、本来の統一体に戻しただけのことだろう。 
 蔵王権現は、神道においても、大己貴命少彦名命国常立尊日本武尊 、金山毘古命等と習合し、同一視されているが、つまり、神というものが個別の分節化されたものに限定されて定義付けされないということを、蔵王権現は示している。
 こんな複雑な手続きを踏まなければいけないのは、新しい知識や情報が入るたびに、世界が複雑に錯綜化し、神においても色々と目新しいものが祭り上げられ、本質から遠ざかってしまうからだ。カルト宗教は典型だが、芸能人(古代はシャーマンのようなもの)が、神のような影響力を持ってしまうこともある。
 人間は、知識や情報を身につけることが賢くなることだと思っているが、知識や情報は、本来は一つのものを細分化していく人間の脳特有の癖だと言ってもいいだろう。
 知識や情報で複雑化してしまった世界のなかで、人間は、分断化された個別のスペースの中に閉じ込められて、さらにその個別のスペースを細かく分断していく作業を続けながら生きていく。世界全体のリアリティからは、どんどんと遠ざかりながら。
 それはなにも現在に限ったことではなく、古代から同じことが繰り返されてきた。そして、常に、リセットされてきた。

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兵庫県宍粟市に鎮座する播磨三大社の伊和神社の本殿は珍しく北を向いているが、その北側に美しい三角形の宮山がそびえ、その頂上付近は、巨大な岩塊が多く存在する。
 

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愛知県小牧市の岩崎山。
 
 もっとも古い段階は、神の依代としては磐座で十分だった。磐座を通じて、「なにごとのおはしますかは知らねども・・・」と、畏れ多い気持ちになり、ともすれば自己中心的で傲慢になりやすい人間の心を制御した。
 縄文時代ストーンサークルの真ん中に石棒を立て、天を指していた柱が、やがてミシャクジと呼ばれ、御柱になり、神の依り代として、人々を導いた。
 依り代となって導くものは、猿田彦になったり、アメノウズメとなったり、そこから芸能の人が生まれ、芸術表現が創造され、それらの創造物もまた神の依り代のようなものだった。
 そして、「なにごとのおはしますかは知らねども 」と、人間に畏れ多さを感じさせるもっとも神秘的で確かなものは、天体の動きや配置だった。太陽や月や北極星やオリオンなどの天体の規則正しさを司るものこそ、まさに神と呼ぶべきものであるというのは、古代の日本に限らず、世界中で共通のことだ。
 

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兵庫県三田市 愛宕山稲荷神社
 
 天体の動きは、宇宙の根本原理を示すものであり、信頼に値するものだ。だから、農業も、航海も、天体観測を基準にした。
 中世、世阿弥が創造した能において、翁の舞は芸の真髄が求められるが、翁の舞は、目の前の出来事の枠の外の現実を、どれだけリアリティあるものとして伝えられるかにかかっている。
 目の前の出来事をなぞることは、世界を細分化し、結果的に人間を袋小路に導いていく。それは、目の前の出来事にしか興味を持たなくなった人間を、さらに、世界の本質と実態から遠いところへと誘う。そうした処世作為は、目の前の出来事に縛られた権威付けや評価付けで増殖していく。
 過去と未来につながる大きな時間は、目の前の出来事の単なる積み重ねではなく、その狭く閉じた枠の外を流れている。翁の舞にかぎらず、モナリザのあの微笑みにしても、日々の出来事に対する感情の現れであるはずがない。
 
 
 
 

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第1124回 古代いかるがの謎がつなぐ世界。

 明石港の近くに、風の旅人の頃からの読者が住んでいて、おととい、明石に着いた後、「明石港の近くの伊弉冊神社と岩屋神社のあたりを徘徊しましたよ」とメールを送った。
 すると、彼女は、なんの意味の含みもなく、「伊弉冊神社は、地元では”さなぎ”っていうんですよね、おかしいですね。」「あと、岩屋神社は、えべっさんです。」と返信してきた。
 地元の人は、なんの意識もなく、そのように呼んでいるのだけれど、”さなぎ”と聞いて、私は、ピピピピッと電流が走った。
 ”さなぎ”というのは 古代、金属関連を象徴するワードなのだ。
 伊賀の敢国神社は、鉱山と関係の深い金山彦神と阿部氏の祖先である大彦命を祀っているが、そこは、佐那具という地名だ。
 また、伊勢の多気には天岩戸で活躍するタヂカラヲを祀っている佐那神社があるが、あの周辺は、水銀の産地だ。
 さなぎは、銅鐸とか鉄鐸の”鐸”のことだとする説があって、これはどういうことかというと、青銅器とか不純物の多い褐鉄鉱などは1000度以下の融点なので、縄文土器を焼く技術があれば金属を溶かすことができ、その溶かした金属を、陶器の型に流しこんで銅鐸や鉄鐸、場合によっては金属製品を作るのだが、金属が冷えて固まったら、まわりの陶器を壊して金属器を取り出す。銅鐸や鉄鐸などが、陶器の殻を破って出てくる感じが、”さなぎに似ているのだ。
 これは、初期段階の金属加工の方法であり、鉄といっても砂鉄など磁鉄鉱や岩盤の赤鉄鉱ではなく、鉄分の多い土地の水中の植物のまわりに、バクテリアの作用で生じる水酸化鉄のこととなる。
 この褐鉄鉱で作る製品は、不純物も多くて脆いので、武器には使われず、簡単な道具や祭祀のための道具に使われていたと考えられている。
 真弓常忠さんという学者は、イザナギイザナミの二神は、この古代の鉄文化(鐸=サナギ)を象徴する神であるという大胆な説を唱えている。
 それで、明石の伊弉冊神社が、そのことにどうつながるのかというと、伊弉冊神社の100mほど西が明石川の河口なのだが、明石川を遡っていくと、神出地区があり、さらにその上流が志染地区、そして三木である。
 三木というのは、古代から鍛治で知られた土地で、今でも金物の産地として知られている。
 そして、志染地区は、古代、渡来系の金属関連技術をもっていた忍海氏の拠点だった。
 さらに神出地区は中世から古代、須恵器の大産地で、この南部の高丘などで作られた瓦などが奈良の寺などに運ばれている。須恵器の窯としては、日本最大のものも、この地域から出ている。
 須恵器というのは、土師器に比べて硬く、水漏れもしない陶器だが、高温を作り出す技術がないとできない焼き物だ。土師器ならば縄文土器と同じレベルの800度くらいの温度で作れる。
 なので、須恵器を作り出す技術を備えた時、つまり高温の火力を作り出す方法を身につけた時から、鉄製品の不純物が減って、品質が高まる。
 鉄そのものの融点は1500度くらいで、須恵器を作る火の技術があっても、1200度から1300度までが限界なので、そのため、鉄を完全に溶かすのではなく、ハンマーで叩けば変形可能なくらいの状態にして形を整えていく。
 三木の志染地区を拠点にしていた渡来系の忍海氏は、そうした高いレベルの鉄製品を作る技術を持っており、それゆえ、推古天皇の頃、武器製造で力を発揮した。
 しかし、明石の伊弉冊神社と関係する金属関連の勢力は、忍海氏以前の人たちだ。
 もともと金属資源の豊かなこの場所は、縄文時代から人が住んでいて、その痕跡も多く残っている。 
 明石川上流の神出地区には、雌岡山、雄岡山という、高さも形も同じような双子山があり、雄岡山は水晶なども豊富で、鉄資源に恵まれている。

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左が雌岡山、右が雄岡山。高さもほぼ同じ。雌岡山の山頂には神出神社があり、近くに古代の祭祀場の磐座がある。雄岡山は、水晶の谷があり、金属資源が豊か。
 おそらく、その鉄資源と、明石が関わっている。というのは、明石の海の向こうの淡路島の船木町で、弥生時代最大級の鍛治工房跡が、数年前に発見された。それ以外にも鉄関連の遺跡が淡路で多数発見されており、淡路は、古代の鉄製品づくりの拠点だったのだ。
 そして、神出地区から明石川をくだってきて、明石港あたりから淡路に渡るためには海人の力が必要だ。岩屋神社のことを地元の人はえべっさんと呼ぶようだが、恵比寿というのは、イザナミイザナギの国生みの失敗作であるヒルコという説もあるが、恵比寿は、海の向こうからやってきた存在という意味もあり、また、蝦夷という説もある。 
 そして、明石の地の蝦夷というのは、ヤマトタケルによって征伐されて明石の地に連れてこられた奥州の蝦夷、それは佐伯と呼ばれる人たちのことだ。
 彼らは、最初、伊勢の地に住まわせたが、あまりにも騒ぐので、三輪山の麓に移し、そこでもトラブルを起こしたので、さらに播磨、そこから瀬戸内海各地に移住させたと「日本書紀」に書かれている。
 佐伯というのは、”さわぐ”という意味であるとか、後に彼らの戦闘力を買われて朝廷の警護を担当するようになるので、”さえぎる”という意味であるとされる。
 佐伯の地は、明石(播磨町)以外、安芸の宮島、讃岐、大分の豊後水道に存在しているが、いずれも、瀬戸内海の海上交通の要である。つまり、佐伯氏で象徴される古代蝦夷が水上交通を担い、金属関連技術を備えた勢力と協力関係を担う体制ができていて、それが、明石港近くの伊弉冊神社と岩屋神社なのではないか。
 そして、その明石の伊弉冊神社と岩屋神社は、古代、伊和津姫神社であったと考えられており、伊和津姫は、伊和大神の妻だが、伊和大神の拠点である宍粟郡の伊和神社の地も、鉄の産地なのだ。すなわち、播磨から明石、淡路にかけて、”伊和”で象徴される勢力が、鉄の力を背景に実権を握っていたということになる。
 そこに、伊和大神に国譲りを迫る渡来系の天日槍(アメノヒボコ)がやってくる。しかし、天日槍は、けっきょく、播磨を去り、近江の鏡山周辺に移り、さらに但馬の豊岡に落ち着く。
 ということで、明石港の近くに住む彼女の何気ない言葉に触発されて、今日の午後、前に一度行ったことがあるのだが、明石川上流の神出地区の探求に行ってきた。
 すると、さらに驚くべきことに、現在、探求中の”いかるが”と関わってくるものが、そこにあった。
 可美真手命神社だ。可美真手命(うましまで)というのは、ニギハヤヒの子供で、物部氏の祖だ。もともと、この可美真手命神社は、1100年前の延喜式内社の物部神社とされていて、1800年も前に創建されたということになっている。

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雌岡山と雄岡山を正面に望む丘の上に鎮座する可美真手命(うましまで)神社。延喜式内社の物部神社とされる。この元住吉山からは、縄文、弥生の遺物が出ている。
 可美真手命神社は、明石川に面する元住吉山の上に鎮座していて、元住吉山は 、1928年に段丘裾部から縄文土器が発見され 、「元住吉山遺跡」と名付けられて 西日本における縄文時代後期後半の標本遺跡となっている 。さらに1975年の道路建設に伴う調査では、 頂上平坦部より 弥生時代中期から後半にかけての土墳墓と考えられる遺構が発見され 、1983年の調査でも縄文時代後期後半の土器が出土している。
 可美真手命神社が鎮座するこの古代の聖域に立つと、なんと、明石川の向こうに、雄岡山と雌岡山がきれいに並び立っている。

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可美真手命(うましまで)神社の目の前が明石川の上流域で、川の対岸に住吉神社がある。川の向こうに見えるのが、雄岡山。
 さらに、この可美真手命神社の位置は、大阪府の交野のいかるがである磐船神社と、加古川のいかるがの地を結ぶラインの上にある。(北緯34.74度)。磐船神社は、可美真手命(うましまで)の父、ニギハヤヒが降臨したところで物部氏の聖域である。
 そして、昨日、加古川のいかるがと阿部氏のことをブログで書いたのだが、明石川上流の神出地区と、加古川のいかるがと、交野のいかるがを、さらに東に行くと、伊賀の服部川沿いの真泥というところに至る。ここは、原始琵琶湖の湖底で、褐鉄鉱の産地だった。
 そして、この伊賀の重要拠点が、阿部氏の祖先である大彦命と、鉱山関係の神の金山彦を祀る敢國神社であり、これらが東西に一直線でつながっている。
 さらに不思議なのは、加古川の”いかるが”、鶴林寺から真北にラインを引くと、日本海に注ぐ円山川沿いの但馬五社が並んでいる。
 この5つの神社は、12km間隔で並んでいる但馬を代表する神社で、この地方を切り拓いた神様を祀っていることになっている。
 そのなかで、北に位置する二つの神社、絹巻神社と、小田井縣(おだいあがた)神社が、鶴林寺のちょうど真北に位置していて(134.83)、ともに、アメノホアカリと深く関係している。
 鶴林寺の真東の大阪府交野の磐船神社が、アメノホアカリニギハヤヒ)の降臨の地とされているが、アメノホアカリニギハヤヒ)は、物部氏の祖神であり、磐船神社鶴林寺のライン上にある明石川上流の神出地区に祀られている可美真手命が、そのニギハヤヒの息子なのだ。
 しかも、但馬五社の南、朝来市に物部八幡神社が鎮座するが、ここも物部の里で、円山川の上流域となる。
 そして、同じライン上の真南に10km行ったところが生野銀山であり、ここから南に市川が流れており、播磨平野に至る。
 日本海側の豊岡から円山川と市川で、瀬戸内海に抜けることができる。このライン上にアメノホアカリ物部氏が関係している。

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円山川にそって、北から、但馬五社が並ぶ。絹巻神社、小田井縣(おだいあがた)神社、出石神社、養父(やぶ)神社、粟鹿神社である。その南に、物部八幡神社生野銀山がライン上に続いている。そして、その一番下が、加古川鶴林寺(いかるが)であり、真東にいくと、物部氏の祖神ニギハヤヒアメノホアカリ)が降臨した大阪府交野の磐船神社(いかるが)で、そのラインの途中が、明石川上流の可美真手命神社で、ニギハヤヒの息子を祀っている。

 明石の伊弉冊神社と岩屋神社から、これだけのものがつながってくると興奮せざるを得ないのだが、ほとんどの人は、なんのことかさっぱり、という感じなんだろうな。
 神出の可美真手命神社のそばに、コーヒー豆を焙煎して販売しているところがあり、立ち寄って少し話をしたのだけど、丘の上に小さな祠があるのは知っていたが、なんなのかよくわからない、と言っていた。まあ、しかたないところだ。
 

 

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第1123回 いかるがの背後にあるもの(5) 食物を司ることの意味の深さ 

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斑鳩寺 (兵庫県揖保郡太子町)。境内に稗田野神社の御旅所があり、稗田神社と深い関係にあった。稗田神社は古事記の制作に関わった稗田阿礼を祀っているが、稗田阿礼は、鎮魂儀礼に携わっていた猿女氏である。


 第1121回の記事において、第12代景行天皇神功皇后が、現在の兵庫県加古郡播磨町で、御食事(みあえ)を行ったことについて、その背景を書いた。

 「あへ」は”饗”であり、「饗応」のこと、すなわち”酒食を供してもてなすこと”で、同盟関係を強くするためや、神と人間との結びつきを強めるために行われた。それは、古代だけでなく、現代の政界やビジネス界も同じである。

 そして、古代、天皇および祭祀の食膳に仕えた人々を統轄した氏族が、膳氏(かしわでうじ)と阿閉氏(あべうじ)だった。この両氏は、ともに、第10代崇神天皇の時の四道将軍の一人、大彦命の末裔で、兄弟氏族のようなものだ。

 食膳は、ただの食料提供ということではなく、上に述べたように饗応を調えることであるから、外交や、祭祀とも深く関わっていた。

 現在でも、天皇皇位継承において即位の礼が行われるが、即位の礼を構成する5つの儀式の最後の一つが饗宴の儀であり、その後、五穀豊穣を感謝し、その継続を祈る一代一度の大嘗祭(古代は、一代一度ではなく、毎年行われる宮中祭祀新嘗祭と明確な区別はなかった)が行われるが、あべ氏や、かしわで氏は、これに関わっていた。

 平安時代陰陽師として広く知られる安倍晴明も、”あべ”氏であるが、彼は、921年、大膳大夫(だいぜんのだいぶ)の安倍益材の子として生まれた。大膳大夫とは宮中の食膳を司る役所の長官のことで、晴明も父の後を継いで大膳大夫を努めるようになるが、その後、賀茂氏に弟子入りし陰陽の道に進んだ。晴明は、陰陽師として有名になった後、播磨の守にもなっている。

 安倍晴明陰陽道と聞くと、呪文や式神を思い浮かべ怪しいイメージとつながるが、陰陽道は、森羅万象の摂理を読み取り、禍(わざわい)を避け、福を招く方術であり、天文、暦数、時刻、易といった自然の観察に関わる学問を組み込み、自然界の変動や災厄を判断し、人間界の吉凶を占う技術であるから、祭政一致の古代において、”まつりごと”と深く関わっていた。日本を律令国家に導いた天武天皇は、『日本書紀』において、天皇の出自や幼名などが紹介されたあと、いきなり「天皇は天文や遁甲(とんこう)の術をよくされた」という文章が出てくるほど陰陽道に通じていた。

 また、古代のまつりごとは、祭祀を行う神祇官と政治を司る太政官に明確に分けられていたが、神祇官が、大嘗祭・鎮魂祭の施行、巫(かんなぎ)や亀卜を司っていた。

 古代、神の意思や要求は、卜占(=うらない)によって知ることとなった。

 たとえば、”神の祟り”と言う時、現代人の感覚だと、罪ある行為の後に受ける罰、禍というイメージとなる。

 しかし、柳田國男は「タタリといふ日本語のもとの意味は、神かかりの最初の状態をさしたもの」と説明している。また、折口 信夫は、「神意が現はれる」ことを意味するとし、「人の過失や責任から祟りがあるのではなく、神が何かを要求する為に、人を困らせる現象を示すことてあった」としている。

 古代においては、祟りの現象の中にある神の要求、解決しなければならない出来事への対処を知るために、神との交流が必要で、卜占こそが、その重要な手段だった。

 そして、卜占を専門に行う卜部という者たちが神祇官の中にいた。彼らの卜占の技術は亀卜であった。亀卜とは、海亀の甲羅を焼き、そのひひ割れの形状で占う占術であった。(亀卜が日本に入ってくる前は、鹿の骨が占いで使われていた)

 卜部の構成するメンバーは、対馬の者が10名、壱岐の者が5名、伊豆の者が5名だった。

 この卜部のルーツに、天皇や祭祀の食膳に仕えた阿閉氏が関係している。

日本書紀」によれば、顕宗天皇3年(487年)の2月、阿閉臣事代が天皇の命を受けて朝鮮半島任那に派遣される途中、壱岐島において、月神が人に憑りつき、「土地を月の神に奉納せよ、そうすればよい事があろう」という託宣があった。それを朝廷に奏したところ、これを受けた朝廷は壱岐の県主の押見宿禰に命じて壱岐の月讀神社から分霊させ京都に祀らせた。これが、京都の松尾大社の摂社となっている月読神社で、押見宿禰の子孫が、壱岐の卜部なのである。

 さらに阿閉臣事代は、同じ年の4月、対馬においても、日の神が人に憑かれて、『倭の磐余(イワレ)の田を、わが祖・高皇産霊(タカミムスヒ)に奉れ』と告げられた。阿閉臣事代はこのことを朝廷に奏上し、神の求めのままに四十四町を献った。対馬の下県直(シモツアガタノアタイ)が、これをお祀りしてお仕えした。とある。

 対馬の下県直の子孫が、対馬の卜部である。

 壱岐島においては、月神が自分に土地を奉納せよと告げ、対馬では、日神が、高皇産霊(タカミムスヒ)のために田を奉納せよと告げるのだが、対馬の日神というのは、皇祖神のアマテラス大神ではなく、アマテル(阿麻氐留)である。これは、アマテラス大神ではなく、同じ太陽神のアメノホアカリだとする説もあるが定かではない。しかし、対馬が日神のルーツであることは確からしい。

 律令国家の最高神として位置付けられたアマテラス大神というのは、もともとどこかに存在した神というより、かつて存在した日神を、国家神として新たに権威づけし直した神なのだろうと思われる。

 いずれにしろ、神祇官の中で卜占を司る壱岐対馬の卜部が、食膳および外交に仕えた阿閉氏を通じて、ヤマト王権の中に深く関わることになった。

 壱岐対馬という九州と大陸のあいだを結ぶ地域は、朝鮮半島や大陸の最新の情報の受信地としても機能しており、当然ながら、その情報は政治判断において重要だった。朝鮮半島および中国の動向は、日本の近未来と無関係でありえない。

 卜占は、単なるシャーマニズムではなく、陰陽道が、天文、暦数、時刻、易からの知識と情報で災厄を防ぐための道を判断したのと同じで、海亀の甲羅に現れるひびの形状を意味付けるうえで、あらかじめ獲得されていた情報知識が活用されていたことは言うまでもない。

 そして、阿閉氏というのは、異なる勢力との和合、服属儀礼、外からの使者などとの「饗(あえ)」の食物供献に関与することで、外交交渉を担当していた。また、大嘗祭などの祭祀や儀礼においても、その祭祀に関わる膳部、采女、卜部などを統率する立場となる。

 大嘗祭は、新たに即位した天皇が、皇祖神に対して、新穀からなら御飯(おもの)、御酒(みき)などの神饌をお供えし、自らも召上げる一代一度の祭儀だ。

 その準備は、新穀を収穫する二つの地方を占いで決める儀式から始まる。その二つの地方は、悠紀(ゆき)と、主基(すき)と呼ばれ、ともに清浄という意味がある。令和の大嘗祭においては、悠紀が栃木県で、主基が京都府だった。古代、播磨国は、悠紀や主基にたびたび選ばれており、若狭や伊勢とともに重要な御食国(みけつこく)だった。

 古代王権は、新天皇の即位にあたり、地方勢力を代表する悠紀(ゆき)とか、主基(すき)に対して、国讃(くにほめ)や、めでたい伝承を奏上させることで、服属を確認し、さらに言葉に宿る生命力や呪力を獲得しようとした。食を司ることは、このように単なる食べ物を管理することではなく、そこには、占を行う卜部や、大嘗祭や鎮魂祭などの時に神楽の舞などの奉仕をした猿女や、天皇の食事に奉仕した采女なども関わってくる。

 さらに阿閉氏は、そうした職掌ゆえ、大王に近侍しながら地方との関係を深める立場であり、天皇の考え、外国や地方の動向など貴重な情報が多く集まった。そして大王の警護や雑役を務める丈部(はせつかべ)も統率し、軍事的な役割も果たすことになる。

 第1121回の記事で取り上げた『住吉神代記』のなかで、三韓遠征から神功皇后が凱旋する時、加古郡播磨町の浜に上陸して住吉の神に饗(あへ)を捧げる前の出来事として、「海の上を鹿の子のようなものがたくさん浮かんでいるように見えて、それが何かと近づくと、角のある鹿の皮を着た大勢の人たちが船を漕いでいた。それで、その地を、鹿兒(かこの)濱と名付けた。」という描写があった。

 アイヌの英雄叙事詩のなかに、「角のある鹿の皮を身につけた少年」の物語があるが、アイヌの人たちは、鹿皮を着衣として使っていた。

 実は、神功皇后が阿閇濱(あへのはま)と名付けた加古郡播磨町というのは、俘囚の人たちの移住地だった。

 俘囚とは、奥州における蝦夷征服戦争の中で生じた帰服蝦夷を指し、当時、律令国家体制において、これら俘囚は強制的に全国各地に移住させられ、国司から食糧を支給され、庸・調の税が免除されていた。そうした政策がとられたのは、彼らの反乱を抑えるためでもあるが、俘囚は優秀な傭兵でもあったからだ。彼の生活様式は一般とは異なり、漁労狩猟が認められ、農業は行わず、あとは武芸訓練を行っていた。

 そして、これらの俘囚を管理するために、俘囚の中から優れた者を夷俘長(いふのちょう)に専任し、俘囚社会における刑罰権を夷俘長に与える旨の命令が発出されている。

 あべ氏は、もともと俘囚の長であり、後に、中央で重要な役割を果たす貴族になっていったという説もある。

 阿部氏と同じく、朝廷の警備や武力勢力として朝廷に仕えて中央で勢力を伸ばした佐伯氏は、大伴氏と同族とされるが、そのルーツが、「日本書紀」で次のように説明されている。

 「日本武尊が東征で捕虜にした蝦夷を初めは伊勢神宮に献じたが、昼夜の別なく騒いで神宮にも無礼を働くので、倭姫命によって朝廷に差し出され、次にこれを三輪山山麓に住まわせたところ、今度は大神神社に無礼を働き里人を脅かすので、景行天皇の命で、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5ヶ国に送られたのがその祖である」と。

 空海は、讃岐の佐伯氏の出身だが、空海が幼少の頃、佐伯今蝦夷が朝廷内で活躍していた。佐伯今蝦夷は、聖武天皇に仕え、東大寺造営の管理推進において成果をあげ、その後、要職をつとめ、遣唐使の大使にも任命され(病気のため断念)、桓武天皇の時、長岡京への遷都が行われると、これまでの土木・建築における実績を買われて、藤原種継らと共に造長岡宮使に任ぜられ、宮殿の造営を担当している。

 空海は、佐伯今蝦夷の中央での活躍に刺激を受けて、讃岐から奈良に上京したとも伝えられる。

 この佐伯氏は、長岡京遷都の際の藤原種継暗殺の首謀者として、大伴氏とともに処罰されるなど、藤原氏との政争によって、しだいに中央での勢力を失っていくが、佐伯氏の空海が築いた真言密教もそうだが、推古天皇元年(593年)、安芸の有力豪族となっていた佐伯鞍職(さえきくらもと)が神託を受けて創建した厳島神社では、鞍職が初代神主となって以降、佐伯氏が代々神主を務めてきた。一時、藤原家に神主職を奪われたが、藤原神主家が滅亡すると再び佐伯氏が務め、世襲により現代に至っている。

 さらに、神仏習合の一大霊場である立山を開山したのは、奈良時代のはじめ、佐伯有頼である。今でも、立山剱岳方面の山小屋経営者や山岳ガイドには、有頼の末裔の家系伝承を持つ佐伯姓の人物が多い。

 また、九州の豊後(大分)では、鎌倉時代から戦国時代に至るまで、大友氏に所属した武士として佐伯氏がいる。

 大伴氏もまた、佐伯氏と同じく藤原氏との政争に敗れたが、鎌倉時代以降、鶴岡八幡宮神職を担い続けているし、一部は、甲賀忍者など武士化したと考えられている。

 すなわち、佐伯氏や大伴氏は、平安時代の貴族政治においては政争に敗れたものの、宗教界や武士世界のなかで、古代からの氏族のスピリットを受け継いでいったとも言える。

 空海が作り上げた真言密教の宇宙観にしても、稲作に従事せず漁労や狩猟といった縄文時代から続く営みを続けていた蝦夷の太古の世界観が、なにかしら反映されているようにも思われる。

 そして、神功皇后が、鹿の毛皮を着た人たちと出会い、饗(あへ)を捧げるため、酒と塩で仕込んだ魚を捧げた阿閇濱(あへのはま)は、現在の加古郡播磨町であるが、ここは、現在でも佐伯姓の人がとても多い。

 県別の総数では、佐伯姓は愛媛がもっとも多く、その次が東京で、兵庫は東京とほぼ同じくらいの数(5000人前後)で3番目であるが、播磨町だけで約700人、特に播磨町野添は約400人で、小地域での集中度は、立山の開山の佐伯有頼の末裔と称する山岳ガイドや山小屋が集中する富山県立山町 芦峅寺の地域の約500人に次いで全国で2番目である。<日本姓氏語源辞典(著者:宮本洋一氏) より>

 実際の数は変遷していくものだが、私(佐伯剛)が生まれ育ったのは兵庫県明石市の西の端の二見町で、加古郡播磨町は隣接し、徒歩圏内だった。そして、祖父母が住んでいた。祖父母の家に行くたびに、まわりの米屋さんや肉屋さんが佐伯さんだったことを、はっきりと覚えている。

 神功皇后が阿閇と名付けた地は、神話の中でヤマトタケルに征伐され、蝦夷から移された部民、佐伯の土地でもあった。

 起源を東北に持つ可能性のある佐伯氏と阿部氏が、共通して関わっていた朝廷儀礼があり、それは、喪葬儀礼だった。

 天皇崩御すると、殯(もがり)宮が作られ、遺体が安置される。そして、遺体が埋葬されるまで数ヶ月、数年にわたって殯宮や殯庭で、様々な儀礼が行われた。歌舞を奏した鎮魂や、声を発して哀情を表したり、なかでも酒食の献上は非常に重要な意味を持っていた。

 この喪葬儀礼全体を統率する役割を担っていた氏族として、佐伯氏と阿部氏が、皇親氏族や、藤原氏、多治比、紀氏、大伴、石川、石上氏とともに記録されている。

 天皇の近親者か、天皇の側で、食膳奉仕や、守衛を行っていた氏族が、天皇崩御時においても、つとめを果たしていたということになる。

 ここ何回かのブログで、”いかるが”の謎を追い、近畿にある6つの”いかるが”の地を探求しているのだが、これらの地は、アメノホアカリニギハヤヒ)と関わりが深く、この神を祖神とする物部氏の陰が背後にあることを第1119回のブログで示したが、さらに、阿部氏が取り仕切っていた饗(あえ)との関係も気になるところだ。

 三重県四日市の”いかるが”には、采女という地名が残るが、ここは、古代から、采女を多く出した土地であり、伊勢の采女として、歌にもよく詠まれている。采女は、天皇の食事や身の回りのことに奉仕した女性だった。

 また、大阪府交野の”いかるが”と、京都府綾部の”いかるが”は、ともに私市(きさいち)という地名で、私市というのは私部(きさいちべ)の村であり、私部というのは、后(きさき)のための食べ物を作ったり、身の回りの世話をする人々だった。

 そして西播磨の揖保郡太子町の”いかるが”の斑鳩寺の中に稗田野神社の御旅所があり、近くに稗田野神社が鎮座して稗田阿礼を祀っており、斑鳩寺と稗田神社は深い結びつきがあったと考えられている。稗田阿礼は猿女氏の者で、猿女氏は、鎮魂儀礼に関わっていた氏族であり、歌舞の祭礼を行うアメノウズメはその祖神である。

 加古川の”いかるが”の地は、ヤマトタケル誕生や、三韓遠征に勝利を収めた神功皇后の物語の舞台となっているのだが、ここは、神話の中の饗(あえ)のルーツのような場所である。

 最後に、奈良の斑鳩法隆寺を築いた聖徳太子であるが、聖徳太子と阿部氏との関係が、とても気になる。

 四天王寺の場所が阿倍野という地名であったり、聖徳太子斑鳩宮に移る以前の居所の上宮の候補地が奈良県桜井市であるが、ここは阿部氏の拠点でもあった。そのうえ、聖徳太子にもっとも愛された女性、膳部菩岐々美郎女(かしわで の ほききみのいらつめ)は、阿部氏と同族で食膳に仕えた膳氏の女性だった。

 膳部菩岐々美郎女について、聖徳太子は「死後は共に埋葬されよう」と言ったと伝えられる。推古天皇30年(622年)、膳部菩岐々美郎女は、聖徳太子と共に病となり、太子が亡くなる前日(旧暦2月21日)に没した。そして、聖徳太子墓所である磯長綾(しながりょう)に合葬された。 

 

                                  (つづく)

 

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