第1277回 ドイツ対日本の試合で、日本チームの修正力に感心しきり。

 ワールドカップが始まっていることや、日本対ドイツ戦があるということも、まるで意識しておらず、たまたま映画を見ようと思ってプライムビデオをつけたら、冒頭に試合放映の告知があったので観ただけなのだが、ドイツ対日本の試合は面白かった。

 歴史的勝利ということもあるかもしれないけれど、前半戦、80%以上ドイツがボールを支配していて、実力の差だな、何点くらい取られるのだろうと思いながら観ていたのだが、後半にフォーメーションが変わってから劇的に展開に変化が起きて、ドイツ選手の球回しが悪くなって、日本選手がボールをまわしてゴール前でチャンスを作る場面が多くなった。状況に応じて、全体のフォーメーションを変化させるという戦い方が、とても興味深かった。

 前半、中途半端な攻撃的布陣が通用する相手ではなく、けっきょく弱い守りを崩されてばかりいたのが、守備を強化する布陣にしながら前線にスピードのある選手の投入で、速攻によって局面を打開するフォーメンションへのチェンジ。

 状況に応じてフォーメーションを変えるというのは、戦略を変えるということだろうけれど、それを実行するのは選手であり、一人ひとりの選手には個性がある。サッカーのようにチームプレーで1点を取りにいくようなゲームは、選手の個性の組み合わせ方が重要になる。だから、フォーメーションを変える時に、メンバーも入れ替える。個々の選手の能力の組み合わせ方の変化が、戦術の変化ということになるのだろう。

 ゴールをあげた選手も素晴らしい活躍だが、戦術として、面白いなあと思ったのは、途中から入った三苫選手で、左側で彼のところにボールがいった時に、少し時空が止まったような印象で、そのタイミングから急激に動き出して、ドリブルか、パスか、次の展開が、かなり多彩になった。それがスムーズに1点目につながった。

 疲れてきたから交代させるとか、動きが悪いから代えるというのではなく、戦略に応じて、その戦略に応じた戦術を実践できる選手に代える。しかし、代わらないままの選手もいるわけだから、彼らは、途中から変わる戦略と戦術に当意即妙に対応しなければならない。

 かつての日本チームが強豪チームと対戦していた時の印象は、なんか一辺倒だなあという感じだった。強引にドリブルで突破しようとして簡単に倒されて、「あああー」と解説者が声をあげるだけ、とか、ボールを持っていても、ゴールに向かって行けずに、中間あたりで、ずっとパスを回しているだけみたいな。

 海外の強豪チームでプレーする選手が増えて、状況に応じてプレーができる頭と体と技術を備えた選手が日本チームには多くなっているのだろうか。

 まあ、サッカーに限らず企業なんかでも、「我が社は、これが強みだ、自信を持っていけ」とか、「我社は、このやり方で、成果をあげてきたんだ、成果を出せないのは、お前が無能だからだ」という頑迷な頭の企業は、もう完全に時代遅れなんだろう。

 企業の問題だけでなく、たとえばシンポジウムなんかでも、事前に用意している内容を話すだけの人と、他の人が発している言葉に柔軟に対応できる人の違いがあるが、前者が多いと、個々の話が切れ切れで、全体が有機的につながっていかず、場が活性化していかないので、退屈きわまりないものになる。

 サッカーのように、明確な結果として現れないから、そうした催しも、反省がなくて改善が行われない。

 状況に応じて、手持ちのものの組み合わせ方や、アウトプットの仕方を変化させて柔軟に局面に対応し、修正していくこと。人間の能力としては、そうした力が最も高度なものなのではないだろうか。

 おそらく、鋭い牙も爪も持たないホモ・サピエンスが生き残ってきた理由は、その能力にあるのだろう。

 

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第1276回 量子コンピューターの時代の思考特性とは?

花背の三本杉。(京都府京都市左京区

 3日前のイベントの後の懇親会で、「花背(京都市左京区)の三本杉のところに白鷹竜王の碑がありますが、あれは何ですか?」という質問を受けた。この偶発的で、ローカルで、普通の人にとってはどうでもよい問いから、かなり面白い結果が導かれ、量子コンピューターの時代の思考特性や課題に対するアプローチについて書いてみた。

 世間の目先のことに忙しい人にとってはどうでもいい話だけれども、やはり、何をどう考えて、どうアウトプットするか、ということの積み重ねの上に、未来は築かれていくものだから。

 人類の思考特性に変化が起きる時、人類の歴史に変化が起きる。

 思考特性の変化は、環境変化によって生じるが、人類の環境は、自然環境にくわえて、人類が作り出した人工環境も含まれる。

 現在を生きる私たちの思考特性は、近代化の中で育まれてきた。

 いわゆる近代的思考は、17世紀の前半、最後の宗教戦争とされるドイツ30年戦争に志願しながら、その実態に失望したデカルトが、『方法序説』の中で始めた思考方法をルーツとしている。

 当時は、宗教的盲信の対立のなかで宗教戦争が泥沼化していた時代だが、デカルトは、世の中に広まっている色々な考えに盲目的に追従することを否定したうえで、自分の理性の力で、真理を見極める方法を提示しようとした。

 その方法論は、まず思考の対象をよりよく理解するために、「多数の小部分に分割すること」が必要だとし、最初は単純な認識であってもそれを複雑な認識へと発展させ、最後に完全な列挙と、広範な再検討をすることが必要であるとした。

 こうした理性の使い方が、その後の学問の方法論となる。その結果どうなっていったかというと、学問の細分化が起こり、それぞれの分野の専門家は増えたが、細部にわたって複雑化が促進されるばかりで、最後に行うべき広範な再検討のための統合的で巨視的な視点が、どの学問分野でも育まれにくいという問題に直面することになってしまった。

 ところで、現代社会が抱える問題の複雑さに対応するために、従来の古典的コンピューターの限界が指摘され、それに変わる新しい量子コンピューターというものが、少しずつ話題になってきた。

 この仕組みについて色々と説明されてはいるものの、まだ実用化されていない技術ゆえに、それらの説明も、わかるようで、よくわからないというものが多い。

 よく説明される内容が、古典コンピューターの情報単位は、「0」「1」の状態の「どちらか」しか取ることはできないが、量子コンピューターでは、量子力学の「重ね合わせの原理」を利用することで「0」「1」の「どちらも」取りながら計算を行うことができるので、膨大な情報量を、早く計算できるというものだ。

 この説明だとなんだかよくわからないが、古典コンピュータは、一つずつ、0と1の配列を確定させた条件の入力を行い、一つずつ計算行うことで一つずつの確定的な解答を出力し、膨大に出力された一つずつの確定的な解答を足して最終的な正解を得るという方法がとられるということだ。

 これは、デカルト的思考であり、多数の小部分の分析解答を確定させ、その小部分を足し合わせて全体の分析解答を確定させるという思考の延長上にある方法だ。 

 この方法は、足し合わせる小部分の数が少ないと、わりと簡単に、正しく全体の解答を得られるが、それが多くなりすぎると、複雑すぎて大変な作業になる。つまり簡単な問いならすぐに答えを用意できるが、複雑な問いに対して、順番に一つずつチェックしていくと、全体的な視点を見失いがちになる。

 それに対して量子コンピュータは、入力される個々の一つひとつをチェックしていくという手順は踏まない。

 全体の入力に対して、条件付けを行って、それに反応するものを浮かび上がらせる。

 その浮かび上がったものは、解答の可能性が高い状態にすぎないが、この条件付けを何度か繰り返して、その可能性を絞りこんでいくという手順となる。

 こうした課題解決のための「やり方」の違いは、コンピューター言語ではアルゴリズムの違いということらしいが、量子コンピューターは、一つひとつのチェックには向いている0か1かという古典コンピューターのビットではない量子ビットで計算をするので、量子コンピュータに対応したアルゴリズムが必要になる。

 アルゴリズム(やり方)の違いは、コンピューターの違いという以前に、思考特性の違いだ。

 そして、量子コンピュータの完成を待たずして、この新しい思考特性は、私たちの頭に、少しずつ準備されてきている。

 それは、ネット検索において現れる。

 たとえば、一つの検索ワードを入力すると、広告も含めて膨大な記事が、ずらりと並ぶ。

 その状態のまま、上から順に一つひとつ中身を検証して、これは求めている情報かどうか、正しい情報かどうか検証して判断していくとなると、膨大な作業になる。

 だから、検索ワードに条件付けを行う。この条件付けによって、自分が求めているものの可能性の幅が狭まっていく。

 検索エンジンが拾い集めてくる情報は、正しいとも間違っているとも言えないカオス状態であり、その中から絞り込んでいくための「やり方」(アルゴリズム)がなければ、カオスのままだ。

 うまく検索エンジンを使いこなせる人は、「検索ワード」による条件付けが優れている。

 現在は、アカデミズムの世界に身を置かなくても、学者の論文をネット上で読むことができる。

 従来は、特定分野の研究において、一つひとつ論文を読んで検証していくという気の遠くなるような作業が必要だった。しかし、現在、何かを探求している人は、検索ワードによって、学者が書いている論文にアクセスし、解答を得るための情報を絞り込んでいくことが可能になっている。

 その際には、絞り込みの条件付けが必要になる。これによって解答への到達速度が、大きく変わってくる。

 カオスの中から条件付けによって解答を絞りこんでいって、アウトプットを秩序化していく流れは、聖書の創世記や、古事記の国生みの記述と似たところがある。

 すなわち、デカルトが始めた近代的思考だけで世界を読み解くことは、そろそろ限界に達しており、次なる思考へ移行しつつあるが、それは、太古の昔に人類が創り出した神話的思考に似たものとなるだろう。

 近代科学の発展によって、膨大な情報、膨大な物質がすでに存在しており、それらの潜在的に準備されているものをどう組み合わせるかによって、新しい局面が拓かれる可能性がある。

 このことについて、数日前に経験した一つの解答への導きを紹介したい。それは、偶発的でありながら、必然性が準備されていた出来事であった。

 11月21日に、京都のIMPACT HUB KYOTOで、「時を超えた世界を旅するために」というスライドトークを行った。

 その内容を簡単に言うと、縄文時代からの歴史の流れを、地理や地勢などを軸に置きながら、それらと信仰心の関わりなどと重ね合わせて説明しながら、私が撮り続けているピンホール写真とともに、映像と言葉のよって日本の歴史の古層を感じてもらうのが趣旨だった。

 2時間半ほど休憩無しで行った後の懇親会で、IMPACT HUB KYOTOのスタッフが、「前から気になっていたことがあって、質問していいですか?」と声をかけてきた。

 京都の貴船神社の北に、花背という土地がある。そのスタッフは、IMPACT HUB KYOTOの事業関係で何度も花背に通っていて、この地にある有名な三本杉(日本で一番背が高い)がある場所に、「白鷹龍王」と刻まれた石碑が置かれていることに気づいた。そして、これは一体何を意味するのか?と気になって調べてみても、この大杉を神木としている峰定寺でもよくわからないようだし、日本の他地域でも、「白鷹龍王」という存在が見当たらない。

 私は、ほとんどの人がスルーしてしまうことに引っかかりを感じている人から、時々、このような質問を受けることがあるが、そういう時は、不可思議な縁によって何かしら大事なメッセージを受けているような感覚を覚える。

 ふつうは、大きな杉を見に行けば、「すごいねえ」で終わりだ。

 私は、どこにも情報がない白鷹龍王」という存在についての知見は持っていなかったが、花背という場所の特殊性は理解していた。

 花背は、山深いところにあるように思われているが、このあたりは、桂川安曇川の源流であるし、少し南に行けば、貴船神社の奥宮があり、貴船川、賀茂川を下っていくことで桂川とも合流できる。

 また安曇川は、近江高島まで流れており、近江高島から若狭湾の小浜まではすぐなので、このルートは、かつては日本海と都を結ぶ鯖街道として人の往来が盛んだった。

 また、桂川は、花背から西に流れ、京北を通って亀岡の盆地に至り、亀岡から保津川渓谷を抜けて京都の嵐山を経て、現在、石清水八幡のあるところ(かつては巨椋池がここにあり、多くの船舶が停泊していた)で、宇治川、木津川と合流し淀川となって瀬戸内海へと注ぐ。

 また、桂川の流れる亀岡盆地では、盆地の北に由良川が流れてきており、この由良川は、舞鶴市宮津市の境で若狭湾へと注ぐ。さらに、由良川は、兵庫県の氷上で、加古川の上流部と近づき、加古川を下ると播磨灘へと至る。由良川加古川で、日本海から瀬戸内海に抜けるルートは、日本で最も標高の低い分水嶺(90mほど)である。若狭湾の小浜から近江高島に出て、琵琶湖もしくは安曇川経由で京都から大阪湾に抜けるルートも、交通路としては、非常に利便性が高い。

 そういうことで、花背というのは、安曇川桂川由良川加古川貴船川、鴨川などを結ぶ河川交通ネットワークの要の位置にある。

 花背のすぐ近くに、片波の巨大杉の群落があるが、ここは平安京を建設する時の木材の供給地であり、樹齢1000年の巨大杉が数多く残っていることで知られているが、ここからの木材は、当然ながら、河川によって平安京に運ばれた。

花背からすぐのところに、平安京建設のための材木供給地であった、片波川の巨大伏条台杉の密集地帯がある。

 また、花背周辺から近江高島まで流れる安曇川は、古代、安曇氏が拠点としていた。

 花背の南の貴船神社の奥宮も、安曇氏の祖神、綿津見の娘である玉依姫が、川を遡って黄船で辿り着いた場所だという伝承があり、これが、貴船(黄船)神社という名前の由来である。

 これらの事情を知ったうえで、古代海人の安曇氏の祖神である綿津見の別名が神龍王であることを重ねると、同じ竜王である白鷹龍王」は、安曇氏の1勢力か1リーダーではないかと思われ、私に質問をくれたスタッフに、そのように答えた。安曇氏というのは、特定血族の集団ではなく、いくつもの海人の集団の連合体である。

 そして家に帰り、間違った答えを伝えたかもしれないので、ちょっと調べてみようと思って、ネット検索したのだが、「白鷹龍王」について説明するサイトは、どこにもない。

 しかし、「白鷹竜王」という言葉にヒットするブログが、花背以外に、一つだけあった。

 このブログは、枚方市に住む女性が、枚方市の公園紹介をするもので、公園に設置されている遊具のことや、ベンチやトイレの有る無しなどを紹介しているのだが、このブログで取り上げられている金崎公園で、フェンスに囲まれた中に「白鷹龍王」の碑があると写真付きで紹介されている。

https://www.hira2.jp/tag/%E9%87%91%EF%A8%91%E5%85%AC%E5%9C%92

 ただそれだけの内容だが、私が注目したのは、この金崎公園のある場所で、ここは、第26代継体天皇が、即位して最初に宮を築いた樟葉なのだ。

第26代継体天皇が、即位して最初に宮を築いた樟葉宮。この場所で、第50代桓武天皇は即位儀礼を行い、今は、桓武天皇父、光仁天皇を祀る交野天神社になっている。(大阪府枚方市。)

 そして、この日に行ったImpact hubでのスライドトークでは、継体天皇の時代の重要性について話をしたところだった。

 継体天皇は、現在の天皇から血縁で遡れるもっとも古い天皇(前の天皇と血統が断絶している)であり、彼が即位した西暦500年ごろは、日本史の大きな転換期だった。

 507年、継体天皇は、大伴氏や物部氏の強い推挙により、58歳という高齢で、急遽、26代天皇として即位する。

 この4年前の503年、海の向こうの朝鮮半島に、新羅という国家が誕生した。

 古代、朝鮮半島は、百済新羅高句麗という三つの国が治めて互いに争っていたが、7世紀の後半に新羅朝鮮半島を統一したことは学校教育でも習う。日本が、663年の白村江の戦いで、唐と新羅の連合軍に大敗を喫したからだ。

 しかし、実際には新羅の地の豪族は、5世紀後半まで北の高句麗への従属的立場にすぎなかった。新羅の興隆は、中国王朝が国境を接する高句麗の勢力拡大に悩まされるようになり、高句麗を南から攻撃できる新羅の地を重視し、支援をし続けたからである。

 その時期が、継体天皇の即位と重なっている。

 勢力を拡大させる新羅は、日本が経営に携わっていた朝鮮半島南部の任那の地に侵攻するようになり、最終的には、奪い取ることになる。

 527年継体天皇の命で、近江毛野は、6万人の兵を率いて、新羅に奪われた地を回復するため、任那へ向かって出発した。

 継体天皇の息子の欽明天皇は、任那を取り返すことを遺言にし、その次の敏達天皇も執念を燃やし、敏達天皇の妃であった推古天皇の時代も、西暦600年と601年に、新羅征伐計画が合わせて三度あった。

 西暦500年頃からの日本の歴史の中で、新羅への対応が、大きなウエイトを占めるようになっていくのだが、海を越えた朝鮮半島新羅と戦うためには、船を作ったり船を操る海人の力が重要になる。

 継体天皇が生まれた場所は、近江高島とされているが、ここは、海人の安曇氏が拠点としていた安曇川が琵琶湖とつながる場所であり、若狭湾の小浜にも近い。

 安曇氏が、新羅との戦争で大きな役割を果たしていたであろうことは、663年の白村江の戦いの敗戦の時に、将軍であった安曇比羅夫が戦死していることからも伺える。

 安曇比羅夫は、安曇山背比羅夫とも表記されており、山背国に本貫があったと考えられるが、山背国というのは、現在の京都市周辺である。

 近江高島出身の豪族、継体天皇の即位には、そうした歴史事情が関係しているはずであり、継体天皇は、安曇氏と関わりが深かったはずだ。

 即位後、奈良ではなく、樟葉(枚方)、筒城(京田辺)、弟国(向日山)に宮を築いたことが日本古代史の謎になっているが、これらの地は、賀茂川桂川宇治川、木津川、淀川の水上交通の要である。

 ここで、継体天皇が最初に宮を築いた樟葉の地の金崎公園について説明しているブログに話を戻すが、このブログの書き手は、とくに歴史のことは意識せずに、公園内に存在する遊具その他の設備を説明した後に、公園の片隅のフェンスに囲まれたところに、「白鷹竜王」だけでなく、「白竜王」の碑があると写真付きで紹介している。

 「白鷹竜王」の系譜や活動は謎だが、「白竜王」は、長野の安曇野の小太郎伝説に登場する。

 小太郎伝説というのは、かつては湖だった松本盆地から水の出口を作って、平地が作られたことを伝えているが、この日のスライドトークでは、松本盆地から水がなくなった歴史的事実や、海人との関係についても言及していた。

 小太郎伝説の中で白竜王は、小太郎の父親である。そして、白竜王綿津見神(わたつみのかみ)の生まれ変わりで、小太郎は穂高見神(ほたかみのかみ)の生まれ変わりとされている。

 安曇野から松本盆地は雪山に囲まれていて、雪解け水が流れ込む河川が多くあるけれど、出ていく川は犀川しかない。

 そして、この犀川は、穂高神社(安曇氏の氏神)の近くから、細い谷に沿って北上し、千曲川に合流するが、この細い谷が落石などで埋まると、水はどこにも出ていけない。このあたりは、フォッサマグナの西端に近く、地震も多いところだ。

 小太郎伝説では、「小太郎は母親の犀竜に乗って山清路の巨岩や久米路橋の岩山を突き破り、日本海へ至る川筋を作った。」と記述されているが、おそらく、犀竜というのは犀川の象徴で、この細い谷の岩を取り除く作業によって、水の流れを作り出したということだろう。

 その場所が穂高神社のすぐ近くということもあり、おそらく安曇氏が、その事業を行った。谷を拓いて水を流すことで、海人の安曇氏は、安曇野や松本あたりから千曲川に抜け、日本海に出ることが可能になる。

 その安曇氏の祖神である綿津見の生まれ変わりが白竜王で、継体天皇の樟葉宮があった場所の金崎公園に、白鷹竜王と一緒に碑が残されている。

 上に述べたように、花背の地は安曇川の源流で、安曇氏と関係があると思われるので、花背に碑が残る白鷹竜王も、安曇氏関係であると想定することは、十分に可能である。

 そして、これらの事実から、継体天皇の背後に安曇氏の勢力があったことも想像でき、大伴氏や物部氏の強い推挙により第26代天皇に即位することになった理由の一つも、そこにあるだろうと考えられる。

 白竜王と白鷹竜王の碑がある樟葉の金﨑公園は、調べてみると、溜池を埋めて整備された公園であり、これらの碑は、おそらく、その溜池のあたりにあった物なのだろう。

 ただ、この金崎公園のすぐ北に安養寺があり、明治の廃仏毀釈で寺の領地は大きく削られたから、もしかしたら、かつては、溜池だった金崎公園あたりまで安養寺の領地だったかもしれない。

 というのは、現在は浄土宗の安養寺だが、開山は、行基となっているからだ。

 奈良時代初期、行基は、行基集団を形成し、畿内を中心に民衆や豪族など階層を問わず広く人々に仏教を説き、さらには、各地に、道場や寺院、溜池、溝と堀、橋などを作るなど、困窮者の救済や社会事業を指導した。当初、朝廷から度々弾圧や禁圧を受けた時、行基を守ったのが修験道行者だった。 

 行基集団の活動が奈良時代初期、朝廷から弾圧を受けた理由は、律令制の基本は、人頭税であり、農民が土地を離れて活動することを許さなかったからだ。

 そして、花背の三本杉は、現在、峰定寺の神木だが、峰定寺も、修験道系の山岳寺院である。

 修験の祖の役小角は、賀茂氏の出身であり、修行を行ったり寺院を作った聖域は、山岳地であるけれど河川交通とも関わりが深い。

 鴨川源流の雲ヶ畑にある志明院をはじめとして、淀川沿いの箕面、石川沿いの葛城山大和川沿いの生駒山地、そして吉野川沿いの吉野の地などがそうだ。

 また、修験者たちに守られた行基は、日本地図を作成したという伝承がある。当時作成されたものは現存しておらず、真偽は不明であるが、江戸時代伊能忠敬が現われる以前の日本地図は、この行基図を元にしていたともされる。

 行基は、全国的な情報ネットワークを持っていた可能性があり、そのネットワークの構築は、河川交通を抜きには難しい。

 IMPACT HUBのスタッフから受けた問い「花背の白鷹竜王って何ですか?」について、花背という場所の地理的、地勢的な条件から想定した「安曇氏ではないか」という私の説は、枚方市に住む女性が、枚方の公園紹介のために書いたブログの中に、白鷹竜王の碑が紹介されていて、しかも、安曇氏の祖神である綿津見の生まれ変わりとされる白竜王の碑と一緒にあるという事実によって、かなり説得力のあるものになった。

 そして、この文章を、私はブログとして残すので、今後、花背の三本杉を訪れて、そこに残る白鷹竜王の碑が何となく気にかかってネット検索すると、現時点では、花背の三本杉以外では、枚方の金崎公園の紹介ブログと、私が書いたこの文章しかヒットしない。

 それでも、非常に面白いと思うのは、冒頭に書いた真理探求の方法として、近代的思考に基づく古典的コンピューターから、量子コンピューター的な思考への変容が、このたびの私の思考体験にも現れているからだ。

 というのは、金崎公園の紹介ブログを書いた人は、歴史を探求する意図は持っておらず、ただ「ステキ」という感想だけ書き残しており、主に公園の情報が欲しい人には役立つブログだが、古典的コンピューター的思考の歴史研究家にとって、検証の対象にすらならず、0か1の振り分けで、0になる。

 しかし私のように、樟葉という地名や、白鷹竜王という”条件付け”を行う人間によって、非常に意味のある情報へと”位相反転”する場合がある。つまり、条件付けによって、0にも1にも成りうる。

 この”条件付け”が、量子コンピュータアルゴリズムに該当する。

 古典コンピュータ的な世界、つまり近代思考に基づいた学問研究においては、一つ一つアウトプットされた情報が正しいものであるかどうか吟味され、その正しいアウトプットを合算して正解を求めるというアプローチがなされる。

 だから、様々な学者が書いた論文は、厳密に精査され、その論文が有効なものかどうか判断されるまでに多くの労力が注がれる。単純な問いに対する解答であれば、その方法は有効かもしれないが、問いが複雑になると、全体のごく一部にすぎない細部において、とりあえず正しいと思われる論文が、無限に生産されるばかりで、その細部を統合する全体に対する見通しは、混沌を極めるばかりだ。

 このインターネット時代、無限のアウトプットが存在し、そのどれもが、0にも1にも成り得る”量子的重ね合わせ”の状態で存在している。

 それらのアウトプットをどう組み合わせて活用するかという、その検索者のスタンスによって、つまり検索の条件付け次第で、全体に対する解答が変わってくる。

 そして、条件付けには、その人の経験が大きく関わってくる。

 特定分野において力を発揮する量子コンピュータアルゴリズムを作るうえでも、その分野の経験者のコミットメントが必要不可欠だろう。

 ならば、歴史探求における経験とは、どんなものだろう?

 歴史書をたくさん読んだり、歴史に関する論文を膨大に書いたり読んだりするだけでは、歴史の経験ではなく、もしかしたら近代的思考の範疇で記述された歴史説明を頭に刷り込んでいるだけ、という可能性もある。

 歴史はアカデミズムの世界の中に閉じているわけではない。

 たとえば、会社を作ったり、マネジメントをしたり、人を育てたり、様々な創造活動も、人間や人間社会を知るという意味において、大いなる歴史体験だ。異なる国の異なる文化を経験することも同じだ。こうした体験を積まずに、つまり、人間や社会のことに対する認識を深めずに、歴史研究をしても、偏ったものになる可能性がある。

 歴史は私たちの足元にあり、私たちが生きている環境の中にある。生きている環境世界のものは、どんな断片的なものでも、教科書検定でバイアスのかけられた知識情報より、歴史を深めるために有効なものもある。

 歴史の経験は、そうした生身の身体を通した人間世界全体のフィールドワークを抜きにはありえない。

 フィールドワークを通じて、どれだけ、言うに言われぬ歴史の声を身体に蓄えているかによって、歴史の真相を読み解くための「検索」のやり方が変わってくる。

 この場合の歴史とは、学問の1ジャンルではなく、人間がどこから来て、どこへ行くのかという普遍的な哲学的問いにつながっている探求である。

 人類の未来というのは、技術以前に、哲学(宇宙観、世界観、人生観)によって準備されていく。

 

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第1275回 人類の時空に対する意識と、歴史のサイクル。

小樽の忍路環状列石。

 11/21(月)の19:00-21:00   京都のIMPACT HUB KYOTO  https://kyoto.impacthub.net/

 で行うトークにおいて、どういう切り口でやろうかと考えているのだけれど、今回は、歴史というより時空の話をしようと思う。

 われわれホモ・サピエンスは、時空に対する意識を、強く持っている。自分が、今、空間的に、時間的に、どこに存在しているのか? という永遠の問い。

 ホモ・サピエンス特有の自己意識は、自分と他との関係、位置関係や距離関係への意識となる。

 ホモ・サピエンスが、歴史や神話を創造したことも、事実を記録したかったからというより、こうした時空に対する意識があったからだろう。

 古代から暦が作られているのも、単に実生活において役立てるためだけではない。自分を取り巻いている世界は、常に動いており、しかも、それは規則性があるということを、ホモ・サピエンスは認識していた。

 だから、祭政一致の時代には、政治的に重要な事柄を決める会議は、まずは神祇官が、適切な日や時間を、卜占で決めた。物事は、そのサイクルの中でこそ、その意義が決まってくるからだ。

 現代社会では、まずは予算があって、必要な物が決められ、それをいつ作るかという発想になる。

 個人でも同じで、欲しいものがあって、予算に照らし合わせて、いつ買うか決める。

 現代人は、この感覚を当たり前だと思っているが、この感覚は、自己が他との関係で成り立っているという感覚が薄れてきたなかで生じる感覚だ。人間の手で管理された人工的な環境の中で生き続けているとそうなる。

 自然の中から恵みを得て生きていると、その時々、得られるものが限られているわけだから、そういうわけにはいかない。

 だからこそ、ホモ・サピエンスにとって、サイクルを知ることは重要だった。

 自分個人の生き方を決める前に、まずは、自分が生きている世界全体のサイクル(時空)を把握しなければならない。

 今の自分は、そのサイクル(時空)の中の、どこに位置しているのか。

 私が、高性能のデジタルカメラではなく、ピンホールカメラを使って、日本人が古くから大切にしてきた場所などを撮影しているのは、今そこに在る物を明確な形で記録したいからではなく、その物の背後に流れる時空を感じ取りたいから。

 高性能レンズは、今目の前に存在する物を鮮明にとらえるが、今という時代の一部分を凝視するのではなく、全体を眺め渡すようにして考えた方が、部分と部分、前と後の関係に気づきやすい。

 日本人が古くから大切にしてきた場所は、他の場所と、いくつかの共通点がある。その共通点に関係の広がりを重ね合わせると、時空が出現する。

東経140.90にそって、北海道の小樽から東北まで、環状列石や、縄文の重要史跡が並んでいる。

香取神宮から、諏訪大社伊勢神宮高野山、(卑弥呼の墓説もある八倉姫神社)、高千穂といった重要聖域が中央構造線上に並び、その各聖域から距離的な法則をもとに、島根の出雲大社の位置が決められている。香取神宮から諏訪大社までの距離と、諏訪大社から伊勢神宮までの距離が同じで、香取神宮から伊勢神宮までの距離と、伊勢神宮から出雲大社までの距離が同じ。さらに、伊勢神宮から八倉姫神社までの距離と、矢倉姫神社から出雲大社までの距離が同じで、八倉姫神社から高千穂神社までの距離と、高千穂神社から出雲大社までの距離が同じ。


 その場所が、どこと繋がっていたかだけでなく、何ゆえにつながっていたのか、何を結び目としてつながっていたのかが、おぼろげながら見えてくる。

 そうした探求は、過去のことが知りたいからだけでなく、私が今生きているこの時空が、大きな時空の中で、どういう位置にあるかを知りたいという、ホモ・サピエンス本来の欲求によるものだ。

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11/21(月)19:00-21:00   京都のIMPACT HUB KYOTO 

https://kyoto.impacthub.net/

で、次のイベントを行います。

「今、なぜピンホール写真なのか?〜時を超えた世界を旅するために③〜」

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第1274回 学校教育の問題と、教育に携わる教師の問題 

北海道の中学校が実施した修学旅行で、全ての生徒に配る必要がある「全国旅行支援」のクーポンを、生活保護受給世帯の生徒らに配っていなかったことが判明した。修学旅行を担当した旅行会社が「公的支援を二重に受けることはできない」と制度を誤解していたためで、学校と旅行会社は近く生徒らに謝罪するとともに、同額の商品券の配布を検討している。と伝えられている事件。

 これについて、ニュースでは、旅行会社が制度を誤解していたからと説明されているが、私は、真っ先に教師に対して怒りを感じる。

 学校側は、生活保護家庭の生徒7人が別室に呼び出し、配布の対象外と説明し、その後、対象外とされた生徒らを自分の部屋で待機させ、教員は、その7人以外の生徒にクーポンを配っているのだ。

 つまり、旅行会社の落ち度はともかく、旅行会社から説明を受けた学校の教師が、「普通に考えてもそれはおかしい」と反応していないという問題を、もっと強調すべきなのではないだろうか。

 この問題は、先日、スタンフォードの学生に行った講義について書いたこととも重なるのだけれど、日本の教育界には、「決まったこと」だけ伝え、なぜそれがそうなのかを考えさせない傾向が非常に強い。だから、生徒もそうなるし、先生とされる人にも、自分の頭で考えない人が多い。

 私は、かつて多くのスタッフを抱えて仕事をした時、「なんで、言われたとおりにできないんだ」と叱ることはなかったと思うけれど、「なんで、そんなに頭が硬いんだ。いろいろやり方があるだろう」と叱らなければならないことは非常に多かった。学歴的にも優秀な若い人が多かったけれど、上司から言われたことや、業務指示に従って仕事をする時は、非常に速やかに仕事をするけれど、どこかで指示系統が間違ったのか、明らかにおかしいことをやっている時に、確認すると、「そういうものだと思っていました」と、自分は悪くないと平気顔で答えるスタッフも多かったから。

 そんな時に、温厚な上司を装い、「こうすればいいんだよ」と正しい答を優しく教えると、上司としての受けはよくなるだろうが、スタッフは、晴れ晴れとして表情で、「はい、わかりました」となるだけで、誰がどういう指示をしたかとか前例に関係なく、今起こっていること自体に対して自分がどう感じるのか、どう考えるのかが大事だということを、その人が強く実感しなければ、また同じことが起こる。

 そういうステレオタイプ化した脳味噌の集団組織の先行きは、非常に危いと、当時、強く思っていた。

 環境世界は、流動的であり、その都度、自分の目の前に起きていることに対して、自分の頭で考えて判断するスタンスは、非常に大事だ。

「前からそうしていました。そうなっていました。そういうものだと思っていました。そういう決まりになっています。」等、どういう根拠でそうなっているのかもわからないまま、形だけ継承しているようなことも非常に多い。

 私が非常に若かった時も、「おかしい」と思って上司に確認しても、「前からそうしている」と言われ、「なぜ、そうなっているのですか?」とさらに確認しても、「いいから、そう決まっているんだから、そのとおりにやれ」みたいな対応も非常に多く、そういう組織では働けないと思ったこともあった。

 このように自分の頭で考えず、言われたとおりにきちんとやるという日本人特性は、高度経済成長のような、ゴールが明確で、そのゴールにたどり着くためにどうすればいいかも明確な時には通用するだろうが、変化の激しい時代に通用するはずがない。

 しかし、その傾向を変えていかなければいけない教育現場の先生たちが、自分の頭で考えて判断できない人たちであるならば、日本の未来は、非常に危うい。

 太平洋戦争の時の教師たちのように、人を指導する権力を持った輩が、そういう頭の硬いステレオタイプ思考であることが、一番厄介で、おそろしい。

第1273回 レイラインと、太陰太陽暦の関係。

生島足島神社(長野県上田市

 現在の長野県の県庁所在地は長野市だが、明治の廃藩置県までは松本市が長野の中心だった。

 そして、奈良時代以前は、上田市国府が置かれていた。

 信濃川流域に位置する上田市は、四方に秀麗な形の山が見られるところで、戦国時代の真田氏の拠点として知られるが、軽井沢から群馬の利根川へと抜けるルート上にあるので、縄文文化が華開いた新潟と長野と群馬の境界であるとともに、日本海側と太平洋側を結ぶ要の場所だったのだろうと想像できる。

 この上田市に、生島足島神社が鎮座している。

 主祭神は、生島大神(いくしまのおおかみ)と足島大神(たるしまのおおかみ)というあまり聞いたことのない神様だが、式内社名神大社であるので、1000年以上前から重要な神社だった。

 生島大神は、万物を生み育て生命力を与える神、足島大神は国中を満ち足らしめる神という。

 この生島足島神社は、レイラインで知られており、東の鳥居から夏至の朝日が昇り、西の鳥居に冬至の日の入りが見られるということで、当日には、多くのカメラマンが訪れるのだそうだ。しかも、このラインは、生島足島神社の旧鎮座地とされる泥宮まで伸び、さらに西に聳える美しい三角すいの女神岳まで伸び、東も、特徴的な山容の烏帽子岳まで伸び、その間に、信濃国分寺が作られた。

西から、女神岳、泥宮、生島足島神社国分寺烏帽子岳

泥宮(長野県上田市)。生島足島神社の旧鎮座地とされ、背後に女神岳が見えるが、生島足島神社と、泥宮と、女神岳は、冬至夏至のライン上にある。

 

大六のケヤキ(長野県上田市

 レイラインとか冬至のラインは、珍しいものではなく、世界各地に見られるもので、日本中を旅していても、特徴的な形の山を見かけると、その山から冬至夏至の日の出や日の入りの方向に神社があることが多い。

 伊勢神宮宇治橋の真ん中に冬至の太陽が上ることや、伊勢の二見浦の夫婦岩のあいだに夏至の太陽が上ることもよく知られている。 

 冬至の日は、太陽の力がもっとも弱まるので、復活の日として特別視されていたこともあるだろうが、実際的な意味としては、暦の基準として、冬至のラインが設定されているということがある。

 明治以降、日本は太陽暦を採用したが、それ以前は、ずっと太陰暦だった。

 太陽暦は、何回夜になったか記録していかなければ、だいたいの季節はわかっても、今がいつなのかわからなくなる。

 それよりも、月の満ち欠けで日にちの経過を判断した方がわかりやすいようで、全世界的に、人類は、この太陰暦を使ってきた。しかし、月の満ち欠けの周期は平均で29.5日なので、1年の周期である365日にぴったりと重ならない。だから閏月をつくって調整し、毎年、一年の始まりの日を設定しなければならない。

 その設定日が、冬至であることが多かった。翌日から、1日ごとに陽が出ている時間が長くなっていくから。

 冬至の日に、特徴的な山などから上る太陽が確認できる場所を決めておくと、一年の始まりを明確に認識できて、翌日からは月の満ち欠けで、1日1日を認識していけばいい。

 つまり、この太陰太陽暦のために、冬至の太陽のレイラインが設定されたと考えられる。

 珍しいものではなく、また特別にスピリチュアルなことを考えることなく、非常に現実的で、理にかなっている。

 上田のように、四方に特徴的な山がいくつかあるようなところは、冬至夏至だけでなく、そのあいだの日も、正確に特定できたのではないだろうか。

 古代人にとっても、暦はとても重要だった。

 今、自分がどの時空にいるのかを知りたいと思う心理は、やはり、環境を認識して、環境に応じて生きる術を構築するというホモ・サピエンスの知恵の中心にある感覚なのだろう。

 神話などの創造も、暦を必要とする心理と同じで、歴史的時空間の中で自分たちがどの位置にいるのかを確認する気持ちとつながっているのだと思う。

 どこから来て、どこへ行くのかという人類普遍の問い。

 

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第1272回 文字が変えた日本人の思考特性!?

 

ヴァルカモニカ渓谷の岩絵。約1万年前からローマ時代までの8000年間に描かれた14万点にもおよぶ精巧な線刻画が残っている。


 ジュリアン・ジェインズは、『神々の沈黙』という著書のなかで、人間がアルファベットを使い始めた時から言語野が左脳になり、それ以前は右脳に言語野があって思考や理解の仕方が全く違っていた可能性があると指摘している。

 日本の場合も、現在の私たちが使っている訓読み日本語の発明の前と後で断絶がある。

 具体的には、5世紀後半に、その境界がある。

 それ以前は、いわゆるヤマト王権の時代とされるが、8世紀に入って完成した古事記や日本書記に5世紀以前のことが説明されていても、その実態はよくわからない。天皇陵とされている巨大な前方後円墳も、宮内庁が管理しているため考古学的調査は行われていない。

 そもそも、墳丘長が525mもあって世界最大の墓ともされる大仙陵古墳が、仁徳天皇とされる天皇の権力を表すものだとする従来の認識は、本当に正しいものなのだろうか。

 5世紀後半、訓読み日本語が創造されたのと同じ頃、大王級の古墳の石室が、縦穴式から横穴式になった。前方後円墳の円墳部分の頂上に設けられた一つの石室に一人を埋葬するスタイルから、墳丘の横に穴をうがって通路を作り、その奥に石室を設けるスタイルで、これは中国の漢の時代に発達したものである。

 その頃から、埋葬場所である石室は大きくなり、しかも同じ石室に複数の人物が埋葬されるようになったが、古墳そのものは小さくなった。

 この変化は、単なる構造変化ではなく、明らかに死生観が変化したことを示している。

 また横穴式石室を持つ古墳に埋葬された最初の天皇は、第26代継体天皇だが、この天皇は、記紀のなかで、第25代武烈天皇と血統が断絶されている。

 天皇家は、万世一系とは言えず、6世紀初頭に即位したとされる第26代継体天皇が現在の天皇家の祖である。

 こうしたことを踏まえると、5世紀後半、文字が導入されてからの歴史は、現在の我々でも何とか理解可能な状況になっているのだが、それ以前は、謎だらけだ。 

 文字による記録が残っていないために、その時代は、歴史の空白地帯とされているが、記録の問題以前に、文字の使用前と使用後で、人間の発想や価値観などが変化していて、そのため、現在の我々の理解の仕方では紐解けない謎になっている可能性もある。

 3世紀から作られ始めて、4世紀後半から5世紀前半にかけて、あまりにも巨大化している前方後円墳は、本当にヤマト王権の権力を示しているのだろうか?

観音山古墳(群馬県高崎市)。6世紀後半の前方後円墳

観音山古墳(群馬県高崎市)の横穴式石室の玄室は日本でも有数の大きさを誇り、欽明天皇陵とされる丸山古墳(奈良県橿原市)の玄室と同じ平面規模がある(高さは1/2)。また、豪華な副葬品は中国や朝鮮半島とのかかわりがあるものが多い。埴輪は円筒埴輪をはじめ、人物・馬・家・盾など多くの形象埴輪が確認された。横穴式石室の入口近くからみつかった、三人の巫女が並んで座っているものは、非常に珍しい。


 東国のなかでも、群馬や山梨には、なぜか巨大な前方後円墳前方後方墳が多く作られているのだが、ここは縄文王国でもあり、優れた造形の巨大な縄文土器が数多く出土している場所でもあり、大規模な縄文遺跡も多い。

 また、群馬と山梨のあいだにある長野も縄文王国だが、松本市に、弘法山古墳という東日本最古級の3世紀末から4世紀中葉頃築造の前方後方墳がある。この古墳じたいの大きさは、全長66mにすぎないが、標高約650mの弘法山の上に築かれており、アルプスの山並みを望み、松本盆地を見下ろし、その全体を見渡せ、弘法山全体が、古墳のようでもある。

 鏡や鉄剣や勾玉などの出土品以外に、石棺のまわりに葬送儀礼と関わりがあると考えられる土器があったが、それは濃尾平野のものである可能性が高い。つまり、東海地方とのつながりが考えられる。

弘法山古墳(長野県松本市

 現代は、海岸部に人が多く住む都市が集中しているが、山梨や群馬や長野は、内陸部である。

 古代においては、なぜ内陸部に、文化の痕跡が多く残っているのだろう?

 群馬の高崎や前橋、甲府盆地、松本などは、山間部ではなく、山に近い盆地や平野の端であり、そういう場所は、山から流れてきた河川が扇状地を作っている。また、周辺の山々の積雪が多いので、その雪解け水の水量は豊かで、飲料水に不自由することがない。

 川からは主要なタンパク源である鮭などの魚類が獲れるし、山からも様々な食物が得られ、平地は集落を作りやすく、耕作地を広げることもできただろう。

 そういう意味で、生きていくには理にかなっており、縄文時代から長く人々が住み続けてきたのも当然のことだと思われる。

 しかし、土器のデザインが装飾的になったり実用性の範疇を超えて大きくなったり、古墳が巨大化するなどの”文明化”は、他の地方との関係や交流が影響を与えていると思われる。

 暗黒時代などとされるヨーロッパ中世にルネッサンスが起きたのは、10世紀頃からのロマネスク巡礼での各地との交流や、十字軍などを通じてイスラム文明と接したことが契機となった。日本においても、それが良かったかどうかはともかく、黒船がやってこなければ、150年前に、文明開化?は起きなかっただろう。

 列島の内陸部の山梨や群馬や長野であるが、河川などを通じて、日本海側にも太平洋側にもつながることができる。

 群馬は、日本海に注ぐ千曲川の支流が軽井沢あたりまできて、群馬を流れる利根川は、かつては東京湾につながっていた。つまり群馬は、日本海と太平洋の接点である。

 山梨は、富士川が太平洋に注ぎ、北部は、盆地続きで、松本から安曇野、そして、日本海へと注ぐ姫川につながる。濃尾平野から木曽川を遡っていけば、割と簡単に松本に行ける。姫川のヒスイや八ヶ岳の黒曜石は、縄文時代、日本各地に運ばれていた。

 山梨や群馬や長野は縄文時代から日本各地の交流の要であり、だとしたら、これらの地に築かれている巨大な古墳もまた、交流の結果だとみなすことができる。もちろん、それほど重要な拠点だったから近畿のヤマト王権が奪い取って支配したと説明することも可能ではある。

保渡田古墳群(群馬県高崎市)の八幡塚古墳。墳丘には葺き石が葺かれ、円筒列が墳丘裾部、中島裾部、中堤縁に見られる。

 前方後円墳に関しては、古墳の周縁部に設置されている円筒埴輪が吉備の弥生時代後期の祭祀器と似ていること、墳丘に葺石を敷き詰めているのは出雲地方の四隅突出型墳墓に見られることなど、ヤマト王権が、それらの地域の連合勢力であることを象徴しているという説がある。

 連合勢力だとしても、どこか一点に築かれた巨大な権力が全国を支配していったという考えにつながるのだが、私が不思議に思うのは、各地に残る巨大な前方後円墳のすぐそばに、様式の異なる前方後方墳が破壊されることなく残っていることだ。この二つの異なる古墳は、対立を表しているのだろうか? 

 それとも、単に流行が違っただけと考えることはできないのだろうか。

 東国に多くみられる前方後方墳であるが、その最大規模のものは近畿に集中しており、前方後方墳が、ヤマト王権以外の地域の王の墓とは言いきれない。

 5世紀後半以前、文字が無かった時代に起きていたことを、文字を獲得した後の人間が理解するのは、簡単ではない。

 文字が無かったというのは、現代の定義による「文字」が無かっただけで、古代には、別の様式の文字があった。

 たとえば、500年前に、スペインがインカを侵略した時、当時のインカ人は、キープと呼ばれる色とりどりの紐を束にしたものを使い、結び目の形、紐の色、結び目の位置などによって、様々なことを記録し、税金の管理なども行っていた。

 1994年、ペルーの首都リマの北方およそ200 km に位置するスーペ谷に残る大規模な都市遺跡であるカラル遺跡が発見された。これは、紀元前3000年頃から紀元前2000年頃のもので、神殿建造物群、円形劇場、住居群で構成されているが、ここからの出土品の中に結び目のある繊維の断片も含まれており、情報記録システムのキープ(紐文字)であると主張する専門家もいる。

 スペインがインカ帝国を滅ぼした時、当時のインカ人は、現地に残されていた石造建築に使われている巨石と同じ大きさのものを一つだけでも動かすことができなかったのだが、その当時のインカ人は、過去に作られていた巨石建造物を利用していただけでなく、4000年も前にカラル遺跡で使われていた紐文字という情報伝達方法を慣習的に継承していたのかもしれない。

 現代人が定義する「文字」ではない文字を使用していた時代に、現代人の理解を超えた文明が存在していた。その文明の中の価値観やコスモロジーを、現代人が読み解けないから、謎の古代文明とされる。

 そして、現代人が理解できないのは、ジュリアン・ジェインズが指摘しているように、思考特性が違うからだろう。

 数千年にわたる長期的な人間意識の変遷を探求することは簡単ではないが、実にシンプルな形で象徴的に俯瞰できる場所がある。

 イタリア北部のアルプス山麓のヴァルカモニカ渓谷だ。70kmに渡るこの渓谷で、氷河の浸食により滑らかになった岩の表面に、約1万年前からローマ時代までの8000年間に描かれた14万点にもおよぶ精巧な線刻画が残っている。

 テーマは、農耕、航海、戦争、集落の地図など多岐にわたるが、最後が、ローマ時代に刻まれたアルファベットで終わっている。

 紀元前8000年~5000年前後は、シカやヘラジカ、狩る人間の姿などが描かれている。紀元前5000~3000年頃になると、四角形や円といった抽象的な記号が増え、農地を思わせる図形も出てくる。紀元前2000年頃になると人間や動物の他に天体・幾何学図形など絵柄は多様化し、宗教的・科学的要素が強くなっていく。

 紀元前1000年頃は、武器や盛り上がった筋肉・男性器など男性の雄々しい姿が特徴で、決闘の様子なども刻まれている。

 ローマ時代に終焉したのは、詳しい理由はわかっていないが、記録がアルファベット文字に取って代わり、そのことによって記録の場所が、岩の表面ではなく他の場所へと移ったのかもしれないが、だとすると、8000年間に渡ってつながっていた人類の記録(記憶)装置はアルファベットによって無効とされ、それ以降は、アルファベット文字を使う人間が、過去を一方的に裁断し、自分たちの視点で解釈するようになったことを意味する。

 文字化によって形成された学問体系を抜きにした素朴な感慨だが、日本の縄文土器も、ヴァルカモニカ渓谷の岩絵と同じく、紀元前3000年頃から2000年頃のデザインが最もダイナミックで精密で実用性よりも宗教的な意味合いを強く感じるのだが、紀元前3000年頃から2000年頃というのは、地球規模で、人類の精神に変化が起きていたのだろうか。

 エジプトでクフ王をはじめ巨大なピラミッドが築かれたのも同じ頃であり、上に紹介したキープ(紐文字)の出土があったペルーのカラル遺跡も同じ時期である。

 謎とされる古代文明は、世界各地に残されており、なかには、現代の技術でも再現が難しいものも存在し、それらは、宇宙人が作ったとものだと主張する人たちのコミュニティがあって、ああだこうだと盛り上がっている。

 地球以外に、高度な文明を持っている生物が存在すると想定することは一つのロマンだろうが、私たち地球人は脳の全ての力を使い切っていないという専門家もいて、この脳の全てを使い切らないにしても、使っていない部分を使えるだけで、まったく異なることができる可能性があるかもしれない。

 昔から火事場のクソ力などと言われたりするが、変性意識といわれる集中状態によって、意識下に封じられていたものが表に出てくることがあり、それまでに思いもしなかったアイデアが閃いて、魂が震えることだってある。

 宇宙人のことを想定しなくても、現生人類のなかに、一度は失われた力が秘められていて、それを復活させることが可能かもしれないと想定することもロマンであり、こちらのロマンの方が、世の中を変える力としては、宇宙人に期待するよりも、可能性が高いような気がする。

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第1271回 わかることと、わからないことの間

 わかることと、わからないことの間の在り方について、色々と思うことがある。

 先週、スタンフォード大学の学生に対する講義を行った。スタンフォード大学の学生は、自分が選ぶ海外の国において、一定期間、授業を受けるプログラムに参加できる。

 私が関わった講義の内容は、「編集」に関するものだが、半年ほど前に私が制作した「The Creation」という本と、写真史の中でも名著とされるエルンスト・ハースの「The Creation 」を題材にしたものだった。

 この2冊の「The Creation」の違いは何なのかを掘り下げながら、東洋と西洋の文化の違いや人類普遍の共通性を確認し、考察し、その考察を形あるものとしてアウトプットする(編集する)うえでの原理や方法論を考えていくという授業である。

 編集というのは、本の編集に限らず、全ての創造行為に通じている。全ての存在物は、何一つ単独で存在しておらず、様々なものの編集物として存在している。生命体にしても、細胞や器官などの総合的集合体であり、それらの部位の連携が全体を機能させているわけで、これもまた編集のうちにはいる。

 「The Creation 」は、「天地創造」という意味で、世界各国の神話の冒頭に必ずといって出てくる物語だが、これは、昔々に実際にあった出来事というより、どのように世界が成り立っているかというビジョンが示されている。このビジョンは、人間特有のイリュージョンという言葉に置き換えた方が適切だ。

 動物行動学者の日高敏隆さんは、様々な動物の行動観察から、「全生物の上に君臨する客観的環境など存在しない。我々は認識できたものを積み上げて、それぞれに世界を構築しているだけだ。」という言葉を残したが、つまり現代科学が作り出した宇宙イメージもまた、現代人特有の認識によって構築されたイリュージョンだということになる。

 近代以降、火薬の利用や蒸気機関など爆発力によって人間世界が大きく変貌することになったが、爆発力こそが最高のエネルギーを生み出す力だという認識の延長上にあるイリュージョンが、ビッグバン宇宙論なのだろう。宇宙の始まりが、限りなく凝縮した一点から究極の爆発によって始まるという説は、20世紀初頭までの近代人の認識が反映されている。

 しかし、ここ数十年で、レーザー放電や放射線など、爆発力ではない力が人間社会に影響を与えるようになってきた。その経験と認識が人類に蓄積されていくと、宇宙構造に対するイリュージョンも変化し、ビッグバン宇宙論は過去のものとなるのではないか。

 近代の宇宙論は、近代人が作り出した神話にすぎない。おそらく1000年後の人たちからは、そのように判断されることになる。 

 いずれにしろ、古代に創り出された天地創造の物語も、客観的事実や史実の記録ではなく、その神話を作り出した人々の時空観と思考特性が反映されている。

 エルンスト・ハースの「The Creation 」は、明確に、「聖書」が元になっており、ゆえに、近代文明を作り上げた西欧の時空観や思考特性が現れている。

 それは、ダーウィンの進化論に通じる考え方で、我々が生きている宇宙の時空は、直線的に、階段を登っていくように変化していくというものだ。

 それに対して私が作った「The Creation 」は、「天地開闢」、「流転」、「陰陽調和」、「縁起」、「無常」、「転生」という言葉を軸に、6つのパートで構成し、最後が最初につながっていく循環的な時空観を表そうとしたのだが、これは、一般的には「東洋思想」の特性とされる。

 西洋思想の表現においては、学問もそうだが、モーゼの十戒のように、明確で厳密であることが課せられるのに対して、東洋思想というのは、その明確さを意識の囚われとして否定するところがあり、ゆえに、空海であれ道元であれ、彼らの言葉の真意は捉え難い。

 「わかる」と断定したり決めつけたりするレベルは、物事を本当にわかっていないということであり、だからといって沈黙していても、「言葉で表現できない」という認識の上にあぐらをかいているだけということになり、禅問答が展開される。

 今回のスタンフォードの学生への授業も、なんとなく、その禅問答のようなものになった。

 この授業に対して、学生からレポートが提出されたが、一人の聡明な学生から、

  I'm really enjoying the space these assignments are creating for reflection. という言葉があった。

 「reflection」は、反響という意味だが、熟考するという意味でもある。反響という熟考は、create (創造)されるものであり、その創造の場は、単なる場所というより、space、つまり「間」であり、宇宙である。

 この聡明な学生の、この一文が、まさに今回の授業でCreateしたかったことを表しており、これだけでも、わりとうまくいった授業だったと感じられるが、こちらもまた、そこからreflectionが始まる。何かを教えているというのはおこがましく、同時に、こちらが学んでいると言った方が相応しい。

 「The Creation 」の制作において、私が苦心したのが、6つのパートの冒頭に掲げた言葉の捉え方であり、それを英語化することだ。

 「天地開闢」や「陰陽調和」を、英語でどのように表現するか?

 この際の英訳は、語学力の問題ではなく、もとの日本語に対する理解と認識の問題となる。

 これらの日本語の一文を、近年、高性能になった自動翻訳機に入れれば、beginning of heaven and earthとか、Harmony of yin and yang という英語が出てくるだろう。

 しかし、この英訳は、状況をわかりやすく整理しているにすぎず、本質には至っていない。

 天地開闢というのは、世界に向き合う際の人間意識の開闢である。つまり、混沌にしか思えなかったものが、意識の開闢によって、どのように捉えられるかということだ。

 カール・ユングは、フロイトとともに歴史的に名を残す心理学者で、人間の無意識の探求者だった。彼は、無意識を、認識言語の形として残しているが、それもまた混沌の秩序化と言えるだろう。

 ユングフロイトには、決定的な違いがあった。

 フロイトは、無意識を性に還元する傾向が強く、無意識を個人の意識に抑圧されたものとして捉えたのだが、ユングは、個人の無意識の奥底に人類共通の集合的無意識が存在していると考えていた。

 しかし、こうしたユングの探求は、個別現象の徹底的分析というやり方が正当となっている20世紀型の科学と逆行していると批判されることもあり、「オカルティズム」と扱われることもあった。

 ユングは、世界各地の神話・伝承ともつながる集合的無意識を、全ての人間が共有していると考えていたが、だからといって、人間がその集合的無意識に固定的に永久に縛られてしまうわけではなく、無意識と意識の調停作業を通した変化の可能性を秘めていると考え、だからこそ、心の治療も可能であるという信念があった。 

 私は、「天地開闢」の英語化として、このカール・ユングの、In all chaos there is a cosmos,in all disorder a secret order.という一文を当てた。

 認識言語の獲得は、意識の開闢であり、それが、(自分にとっての)世界の始まりだと考えたからだ。

 そして、「陰陽調和」の訳に関しては、Harmony of yin and yangとせずに、Take things as a whole,though they manifest in variety of forms.とした。

 これもまた、かなり飛躍した意訳であり、ステレオタイプの解答を当てはめることを正解とする日本の教育システムでは通用しないことは十分に承知している。

 しかし、認識の幅を狭めて正しいか間違っているかを議論することよりも、認識の幅を広げて、自分の存在や世界それ自体を見直すことが、時には必要なことがある。

 現代の世界を支配する価値観や、物事の認識の仕方に、何の問題もなければ敢えてそういう試みは必要ないだろうが、そうとも言えない状況が、政治だけでなく、学問や産業など至るところで見られるのだから。

 陰陽調和に話を戻すと、そもそも世界の様相を二つに分けて整理することが、近代人には理解しやすい思考となる。しかし、陰陽というのは、陰陽太極図を見ても感じられるように別々の二つではなく、一つの様相の光と影であり、一つながりのものだ。陰の極点が、陽への転換点となり、逆もしかりだ。

 

 近代の分析的思考というのは、この一つながりのものを分け隔てていく傾向があり、それが結果的に、今日の学問の分断的状況をもたらしている。

 この分析的思考は、人類がもともと備えていた思考特性ではなく、17世紀前半、最後の宗教戦争とされるドイツ30年戦争に志願しながら、その実態に失望したデカルトが、『方法序説』の中で始めた思考方法だ。

 『方法序説』は、「理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法」ということだが、デカルトは、この本の中で、世の中に広まっている色々な考えに盲目的に追従することを否定したうえで、自分の理性の力で、真理を見極める方法を提示しようとした。

 そのために、思考の対象をよりよく理解するために、「多数の小部分に分割すること」が必要だとし、最初は単純な認識であってもそれを複雑な認識へと発展させ、最後に完全な列挙と、広範な再検討をすることが必要であるとした。

 こうした理性の使い方が、その後の学問の方法論となる。その結果どうなっていったかというと、学問の細分化が起こり、それぞれの分野の専門家は増えたが、最後に行うべき広範な再検討のための統合的で巨視的な視点が、どの学問分野でも育まれにくいという問題に直面することになってしまった。

 この流れは、近代にだけ特有の現象ではなく、2500年前の古代ギリシャにおいても同じ流れがあった。

 ギリシャ哲学は、「ミュトス」という空想に対して、「ロゴス」という理性を重視し、神話のように「物語る言葉」ではなく、「論証する言葉」を追求した。その結果、

ソフィストが跋扈するようになり、そこから、ソクラテスの「無知の知」の問答へとつながっていった。

 2500年前というのは、古代中国においても、孔子老子孟子荘子などが出た時代だが、ソフィストと同じく、言葉の論理で正誤のイニシアチブを牛耳ろうとする詭弁家という存在が跋扈していた。

 つまり、理性による客観的分析の思考は、2500年くらい前に著しく発展したが、その矛盾も露呈し、いったんは終焉し、理性を超えた力に重きを置く宗教の時代となった。しかし、理性が重視されないようになると、しだいに盲信や偏見に支配された状況がはびこるようになり、宗教戦争が激しくなった。デカルトが生きた時代は、そうした時代の終末期であり、彼は、再び、理性の力を取り戻そうとした。その試みの延長上に、産業革命があり、近代化がある。

 産業革命は、聖書の中ではバビロンの塔の建設に該当し、その結果、聖書の中で「言葉が乱れた」とあるのは、多言語になったということではなく、産業化で、例えばコンピュータ言語のように言葉がややこしくなり、各分野の専門家と称する詭弁家が増えることも必然であり、それが、言葉が乱れるということだ。

 人類の思考の変化は、階段を上るように過去から現在に向かって整えられていったのではなく、何度も同じようなことが反復され、どうやら循環的に変化してきている。

 ミュトス(空想)は、ロゴス(理性)の立場からはイリュージョンだが、ロゴス(理性)もまた、人間のイリュージョンである。そして、それらのイリュージョンは、環境によって変化する。

 ミュトスの時代、立場の異なる者のあいだで、それぞれの盲信によって戦争が起きたが、ロゴスの時代でも、イデオロギーの違いや、自己都合的な論理的正当化で戦争が起こる。そして厄介なことに、ロゴスの時代の戦争の方が徹底的になってしまうのは、自分の正しさを正当化するために論理武装による強化が起きるからだ。そのため、政府や財界、権力者に迎合し都合のいい説を唱える学者が、重用される。

 このことは、デカルトが、『方法序説』のなかで、「私が明証的に真理であると認めるものでなければ、いかなる事柄でもこれを真なりとして認めないこと」と考えたとおりになっている。つまり、理性は、対立を防ぐ道具になるように思われているが、実際は、激しい対立を生み出す原理主義につながっていく可能性を秘めていることを歴史が実証している。

 フランス革命共産主義革命の際、掲げられた正義によって、その正義にそぐわないものが疑われ、殺され、破壊されていったことは、人間本能の動物的野蛮さゆえではなく、デカルト方法序説にある「私が明証的に真理であると認めないものは、一切認めない」という頑なな理性を起源として、それが過激化していった結果だ。

 さて、「陰陽調和」の訳語として、Take things as a whole,though they manifest in variety of forms.としたのが正しいか間違っているかはともかく、その意識に基づいて、私は、「The Creation」を作った。

 そして、今回の講義の前、二つの「The Creation」を見て、何の説明も受けずに、どう感じるか、どう考えるかを綴ったレポートが学生から提出された。その中に、ずばり、Take things as a whole,though they manifest in variety of forms.という一文が、二つの本の違いを解く鍵だと指摘している聡明な学生がいた。

 その学生は、私が作った「The Creation」は、本の中の引用文や写真のつながりの在り方じたいが、一つのものが他のものを支配するような世界観ではなく、自然界の生態系のようになっていると述べていた。そして、エルンスト・ハースのように被写体の正面からダイレクトに撮るという方法は、彼個人がどのように対象を見ているのかということを明確に伝えて観るものを誘導するが、私が作った本の大山行男さんの写真構成からは、世界に対する窓が次々と増えていくようで、まるでドラッグをやったかのように世界の見え方そのものが揺らぎ、変化するというようなことを書き添えていた。

 こうした感想を持ってもらえた時点で、私が作った本の本質を直感的に掴んでもらえているという喜びがあった。

 しかし、この感性と思考に優れた学生たちに対する講義は、この二つの「The creation」の違いが、何に由来しているかということと、その違いを形にしていくための方法論を言葉で説明することが主題であった。しかも、日本語のわからない人たちに対して、英語という西欧言語を使って。

 この二つの違いを説明するためには、二つの世界の文化、思想、宗教、風土、そして歴史など全てを包含して説明しなければならず、それこそ、「全体的視点」が必要になる。

 二つの「The Creation」の制作における方法論の違いは、簡単に言うと、エルンスト・ハースの本の場合は、最初に厳密な設計図があり、その設計図に基づいて細部を構成して作り込んでいくというエンジニアリングの手法であり、私の本は、厳密な設計図を用意せず、宮大工や石工が、樹や石を見て、それらがどこに行きたいか、どこに組み合わさってペアになりたいかという声に耳を傾けて全体を統合していくのと同じく、一つひとつの写真に耳を傾けて、全体を整えていくブリコラージュの手法ということになる。

 文化や風土や宗教は、言語による説明が可能だが、このブリコラージュに関しては、日本語で説明するのも難しい。ウィキペディアなどで説明されているような内容では不十分であり、これは一つの奥義みたいなものだ。

 しかし、20世紀において最も信頼できる知の巨人である人類学者のレヴィーストロースは、このブリコラージュが、生態系の本質であり、生物の存在は、神の創造や進化論というエンジニアリング的な展開によるものではないということを指摘した。

 今回のスタンフォードの学生への講義において、私には、強力な助っ人がいた。それは中山慶であり、彼は、おそらく日本国内で最も優秀な通訳者の一人であると私は思う。優れた通訳者というのは語学の達人というだけではダメで、言語力が重要になる。単語を置き換えればいいわけではなく、言葉を組み立てる力が必要なのだ。

 それにくわえて、私が風の旅人を作っていた時、社会に出たばかりだった彼は私のアシスタントであり、私の考え方やビジョン、そして仕事のやり方を、誰よりも詳しく知っている。

 そして、この講義の責任者であり進行役が、写真表現家の荻野Nao之君で、彼は日本生まれメキシコ育ちで、日本語と英語とスペイン語バイリンガルだが、言語的な多様性だけではなく、脳内の思考特性にも多重性が感じられ、彼の作品を風の旅人に掲載する時、彼の思考特性の多重性を引き出そうと思って文章を書いてもらい、何度も何度も推敲を続けたことがあった。多重性の整合性を具現化するための試みでもあり、それは荻野君の中に潜在している欲求でもあった。だから彼は、その延長上で、その後も表現活動を続けている。

 ゆえに、今回の講義のテーマである二つの「The Creation」についての考察は、彼にとっても大変興味深いものであり、だから、講義の内容への没入も強くなって、自分ごとの問題として、ファシリテーターとして積極的に関与することになる。だから、時おり彼が参入することで、講義の内容にドライブがかかる。

 私一人では不可能なことだが、中山慶や荻野Nao之が重なることで、他に取り替えの効かない時間が生まれる。

 もちろん、そうした得難い時間であることが、学生に伝わらなければ意味がない。

 そのため、英語においては中山慶という強力なバックアップ体制のある状況に関わらず、私は、講義の前半の1時間半においては、敢えて自分の拙い英語を中心に話を進めていくという匹夫の蛮勇の選択をした。

 もちろん、ダメだったら途中から中山慶に頼ればよく、行けるところまで行くという気楽な判断である。

 なぜそういう判断をしたのかというと、この難しいテーマの授業において、明確な答えを伝えることが目的ではなく、二つのコスモロジーのあいだに言葉の橋を架ける苦心を見せることも大事ではないかと思ったからだ。英語がうまいか下手かは二の次であり、そもそも言語の起源や幼少期は、言うに言われぬことを、たどたどしく伝えることから始まったはず。言語の本質は、正しい答えを示すことではなく、手探りしながら世界と自分の関係を輪郭づけていくことだと思う。私個人としても、一つの正しい答えよりも、人によって異なる答えに至る思考の流れの方が、興味深い。

 正しい答えを固定的なものだと捉えることが大きな間違いで、答えは常に流動的で、状況によって変わってくる。

 デカルトを起源にする近代思考は、宗教戦争の真っ只中を生きたデカルトが、当時の多くの人々が陥っていた宗教をベースにした旧パラダイムへの盲信から抜け出すための方法論として編み出したもので、その当時ならではの事情が背景にある。

 このことを踏まえず、昨今の日本の教育的状況には、とても不吉なことが多い。生徒一人ひとりの学習状況をデジタル化によって共有化、保存化して、それを生涯教育にも役立てようという教育の管理化などもそうで、教師の事務的作業が増えて本来やるべき教育の時間が奪われるという問題以外に、こうした一元化こそが、「学習」の本来の意義を遠ざけることになる。

 学習は、決まり切ったルール(知識情報)を身につけるために行うのではなく、多元的宇宙に柔軟に対応する知恵を身につけるために行う。鋭い牙や爪や身を守る厚い毛皮を持たないホモ・サピエンスの生存の鍵は、それしかない。ホモ・サピエンスが、環境変化に対応できない硬直した思考しか持たなければ、とっくの昔に滅んでいたことだろう。

 日本の教育界は、学習とは、決まった答えをできるだけ正確に、速く、たくさん身につけることだと思ってしまっており、正しい答えの流動性に対する認識が欠けている。

 社会で必要とされる能力が、今後どうなっていくかもわからない状況で、画一的な思考しかできない人を増やす教育が行われる社会の行く末がとても心配だ。

 スタンフォード大学の聡明な学生たちに対して、エンジニアリングおよびブリコラージュの思考の違いと、その起源を、風土や、歴史や、宗教に遡らせるという日本語でも明晰なる説明が難しい内容のことを、私は、敢えて、稚拙な英語で伝えた。

 正直に言うと、自分でも自分が考えていることが正しいかどうかわからないので、私の発信している言葉の全てを、そのままに受け止めてもらわない方がいいという気持ちもあり、それゆえ、稚拙な英語の方がかなっている。

 そして、15分間の休憩中、案の定、学生たち同士が、「けっきょくブリコラージュって何だ?」みたいな話をしている。

 曖昧で複雑で、そこに歴史や文化の違いや様々なものが関わってくるということはわかるが、明晰なる解答には至っていないという状況だ。

 私の側からは、とりあえず畑を耕したという段階で、そこに種を撒いて苗を育てるのは彼らだ。 

 そして、休憩の後の後半は、学生たちからの質問の時間とした。その質問が難問になることは十分に予測できた。日本語でも答えることが難しい、「今、私たちが生きている現実世界に落とし込んだ時に、どうすればいいのか?」という具体性の質問になることは、前半の講義の展開から読むことができた。

 このスタンフォードの学生に対する講義は、コロナ禍の前にも数年行っていて、その時は、その具体性においては数枚の写真を実際に編集して組んでいくという作業などを通して説明を行った。

 一般的には、「 言うは易く行うは難し」だが、ブリコラージュは、「言うよりも行って見せた方が易し」ということがある。これは、武術などにおいてもそうだろう。説明は難しいが、見せることの説得力はある。

 しかし、今年の講義では、既に二つの「 The Creation」という物が存在していて、それを見れば、違いはわかる。その違いはどこから来ているのかという説明を、長々と前半の授業で行った。後半は、それを、どういう方法で行っているのかという学生の素朴な疑問に、言葉で答えなければならない。

 ここからは、私と一緒に仕事をして、私の仕事を客観的に見ていた中山慶の言語力に大きく頼ることになった。

「ブリコラージュとエンジニアリングの方法論の違いはよくわかった。しかし、そのブリコラージュに基づいて制作するという時、やはり、エンジニアリングと同じようにゴール設定があるのではないか? ないと言えるのか?」という類の禅問答のような質問が続き、答えなければいけないのだが、それに対して、まずは、どう答えるべきか考えなければならない。でも私は、英語で思考ができず、日本語で思考する。そして、その思考を、沈黙した状態ではなく、日本語を外に発しながら行った。

 考えたことを喋るのではなく、考え中のプロセスを、そのまま喋る。

 その私の日本語を中山慶が受け取って、そこに風の旅人を制作していた時の私の方法論を、中山慶が客観的情報として認識したものを、当意即妙に織りこんで、すばやく英語で伝えていく。

 学生は、私が学生の質問に対して何か一生懸命に考えているというプロセスを、私が発する日本語で感じながら、その思考の中身を、中山慶の英語によって知るという展開となった。

 中山慶は、私が口にしている日本語だけを英語にするのではなく、私との経験で記憶しているものを、次々とexampleとして多投できる言語力と英語力を備えており、そのexampleの幅が説得力を持つ。

 しかし、それは唯一絶対の答えではない。そこが肝心なところである。唯一の解答は得られないけれども、「なんとなくわかった」と感じてもらえれば授業は成功であり、後の余白は、学生たちの領分となる。

 表現や情報の発信者が、いくら準備を整えて、頭を働かせ心を尽くして行ったアウトプットでも、その受け手側が、非常に偏狭で偏った視点を持っていたり、自分がわからないことや知らないことに対する心の耐性が強くなければ、一方通行になってしまう。しかし、その場にいたスタンフォード大学の学生たちは、コンピューターサイエンス専攻の学生も多かったのだが、歴史、文化、風土、宗教といった内容も、自分ごとの問題として受け止める真摯な姿勢を持っていることが感じられた。

 彼らの優秀さといってしまえばそれまでだが、アメリカでトップレベルと言われる大学の学生たちの顔ぶれは、アジア、中南米、アフリカなど、出身地が全世界的だし、なかには移民家族や貧困層出身もいた。

 数十年前までならアメリカは、白人とそれ以外の差別が当たり前だったが、もはやそんなことは言っておられない。

 トランプ大統領を強烈に支持する白人層も多いが、アメリカという国を一つに束ねていくミッションを自分ごとだと意識している人々は、差異を排除するのではなく、差異への理解を深めることが、大事だとわかっている。 

 そして、差異を自分に引き寄せることが、自分の仕事を、より豊かにするだろうと認識している。

 30年以上前、世界中に日本製品が溢れ、日本人自身が日本人を優秀だと思うようになってしまった。

 しかし、その当時の製品づくりは、まさにエンジニアリング的な方法で、正しいゴールを一つ決めて、その一つの価値観を皆で共有して、規則正しく、ミスが起こらないように、ゴールに向かって無我夢中で走り続けるというスタイルであり、日本の教育制度は、そうした人材つくりに特化している。

 だが、この20年で、世界の状況は一変した。日本が得意としてきた規格品の大量生産は、他の国でも簡単にできるようになった。

 西暦2000年以降、多くの日本人が気づいていないところで、世界の何が変わってきているのか。

 日本人の賃金が上がらないことなど、この20年の日本の停滞の原因が色々な角度から語られているけれど、実際のところ、何が一番問題なのか。

 私は、差異に対するスタンスにおいて、日本は、大きく立ち遅れてしまったのではないかという気がする。

 欧米などと比較して、亡命者や移民などの外国人受け入れにおいて、日本国があまりにも少ないことは知られているが、日本は、同じベクトルに向かって歩調を合わせるという国民意識が浸透しすぎたためか、人と異なることに対して尻込みする人が多いし、自分の知らないことやわからないことに対して、心を閉じてしまう人も多い。

 戦後日本は、同質化の環境での共同作業に集中して世界一の物作り大国となったが、現在は、それだけだと強みにはならない。

 現代社会の電子化技術において半導体の存在が重要だということは誰でも知っている。

 そして、1980年代、日本の半導体生産は、世界一だった。

 その半導体生産において日本の優位性がなくなってからは随分と立つが、それでも、半導体製造装置においては、2000年くらいまでは日本のキャノンやニコンが世界の圧倒的シェアを占めていた。

 半導体装置さえあれば、人件費の安いところならどこでも大量の半導体を製造して輸出できたわけで、その意味で、日本はイニシアチブを握れていた。

 しかし、現在は、オランダのASMLという企業が、世界で圧倒的なシェアを持つ存在となり、日本企業は太刀打ちできなくなっている。

 半導体製造装置のなかでは、半導体露光装置というのが重要で、この技術は、レンズ性能によるところが大きいので、かつてはニコンやキャノンという日本の光学メーカーが世界最強だった。

 しかし、ニコンやキャノンは、その自社の強みをもとに、それ以外の部品も自社周辺で行おうとした。

 それに対してASMlは、レンズ技術においてはドイツのカールツァイスという写真好きなら誰でも知っている伝統企業と組んだ。そして、それ以外の部品もオランダの電気機器関連の多国籍企業であるフィリップスなどとの連携で、半導体製造装置を製造している。

 設立は1984年という若い会社だが、16カ国に60以上の拠点を有し、世界中の主な半導体メーカーの80%以上がASMLの顧客という急激な成長を遂げている。

 まさに、この会社の存在の仕方じたいが、ブリコラージュ的と言っていいだろう。

 20年以上前は、コアコンピタンス(企業の強み)をシーズ(種)として事業を展開して発展する会社モデルがエコノミストから賞賛されていたが、その方法でキャノンやニコンが、半導体製造装置部門で世界一であったのは2000年代初頭までなのだ。

 かつて日本は大量生産の規格品の輸出で貿易収支を黒字にしてきた。そして、その後、中国や韓国などが大量生産の規格品で優位に立つと、半導体製造装置など、電子・電気機器が、日本の輸出収入の柱となった。今は、この分野での落ち込みが激しく、それに取って変わるものが見当たらない。

 移民の流れをはじめ、世界の情勢が、急激に同質化を許さないベクトルに向かっており、北朝鮮など一部の国が、その流れから完全に取り残され、捨て鉢の生存方法を取る構えでいる。

 島国日本は、その変化に取り残されずに、やっていけるだろうか?

 古代から日本の神というのは、世界の設計者ではなく、個のものを他のものとつないでいく縁起の力に宿っていた。だからこそ、出会いは神の恩恵であった。

 デカルト方法序説で示した明晰で一元的な真理によって性急に問題解決をはかろうとするのではなく、多元的な道理によって成り立つ世界の実態を踏まえ、真摯に問題に向き合い続けるうちに巡り会う邂逅を自分の糧とすることで自ずから開かれていく道があると念じること。決して投げやりにならず、この世界の幅と奥行きをキャッチできるアンテナを準備して、直線的でなくスパイラルな行程を、少しずつ歩んでいくしかない。

 

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