第1071回 鬼海弘雄 最新写真集 SHANTI persona in india

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https://www.chikumashobo.co.jp/special/persona/shanti/


 スマホで、色調その他色々と調整ができて、手軽に撮影ができる時代、プロとアマチュアの差がほとんどわからなくなった時代。もはや、「いい写真だね」という言葉は、褒め言葉でもなんでもなくて、ただの挨拶言葉。

 そして、たまたまその場にいたことで面白いシーンが撮れたという素人写真を集めればそれなりに楽しめたり、特定の特徴のある人を記録すればユニークなものになるという被写体に寄りかかっただけの映像体験が満ち溢れており、写真そのものに感心しきり、という写真に出会うことは稀になった。

 そうした写真風潮のなかで、鬼海弘雄さんの新写真集「SHANTI」は、写真そのものの力を再認識させてくれる貴重な写真集である。

 そして、この写真集は、真剣に写真表現と向き合い、その表現力の向上を真摯に目ざしている人にとっては、最高のテキストとなるだろう。

 この写真集の主役は、子供達だ。写真を見続けていくと、まずは、子供達の目の輝き、力強さ、美しさに惹きつけられる。同時に、彼らの表情、仕草、振る舞い、姿勢、活動の豊さに、惚れ惚れとする。さらに、その子供達の背景の多様な展開に惹き込まれる。海や山など自然風景、街並み、田園、生活現場、動物たちなど、子供達が生きている環境が、一眼でわかるだけでなく、その光景が、なんとも懐かしく、美しく、神々しく、魅了される。

 一枚の写真の中に、これだけ多彩で豊かな光景と活動と物語をこめられるなんて、本当に素晴らしい。

 しかも、鬼海さんの絶妙なる立ち位置によって、画面の中の様々な出来が、実に見事に連関を成しており、そこに生じるリズムやハーモニーに、うっとりさせられ、唸らされる。

 どの写真も、主役の子供たちの有り様に感心しているだけで終わらず、画面の隅々まで見逃せない。ほんの僅かなスペースにも、驚くべき瞬間、愉快であったり、痛快であったり、惚れ惚れとするものであったり、この世界の奇跡の一瞬が焼き付けられているのだ。とくに広角レンズで遠景を撮った写真。人間の営みの多様極まりない曼荼羅世界というか神話世界が、たった一枚の写真の中に写り込んだ写真が何枚もあり、こういう世界表現は、唯一無二のものだと思う。

 

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 鬼海さんの写真は、その一枚ずつの中に世界の様々なエッセンスがこめられており、そして一切のごまかしがない。デジタルカメラで何枚もシャッターを切っていたら、たまたま子供のいい表情が撮れたとか、絶好のタイミングで面白いものが写っていた、という昨今の写真術の典型とは、かけ離れている。

 それにしても、一瞬のシャッター時間のなかに、よくもこれだけ多彩な物語を、同時に詰め込めるものだと感心する。これは本当にすごいとしか言いようがない。

 こういう写真は、誰にでも簡単に撮れるものではない。観察力や洞察力、先を読む力が必要だし、その瞬間を逃さない瞬発力も必要だ。何よりも、気の遠くなるような忍耐力がなければ不可能だ。

 おそらく鬼海さんは、シャッターを切ることもなく、インドの雑踏や荒野を何日も歩き続けて、シャッターを押すべき瞬間に出会えればいいという覚悟で歩き続けたのだろう。しかも、様々な奇跡が重なり合う瞬間というのは、おそらく一度限りのものなので、何度もシャッターを切って、その中で出来のいいものを選ぶというやり方は通用しない。

 鬼海さんは、リュックを背負って放浪といえるような長いインドへの旅を20回も繰り返して、さまよい歩いた。

 写真は滅多に写らないことを知ってから写真家になったので歩き続けることができたんだよと、鬼海さんは呟く。

 こういう写真は、写真家のなかでも、自分の状態にあぐらをかいて向上心を失っている人は見たくない写真だろうし、そうでない人は、写真のインフレ状態のなかで写真の持つ可能性を再発見させてくれるものとして、希望になるだろうと思う。

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 この写真集は、世間に氾濫している可愛い子供の本とは、まるで別ものである。

 そして、この写真集は、インドという限られた国のドキュメントでもない。

 写っている子供達を可愛いとか可哀想だとか客観的に見る感覚ではなく、写真の中で駆け回る子供達を目にするたびに、その子供達の中に自分が紛れ込んでいるような錯覚を覚える。

  海があり、山があり、川があり、街の雑踏があり、田園があり、雨の日も晴れの日もある。

 笑いがあり、涙があり、何かを訴えたいような口元もあれば、警戒している目もあるし、戯れる手足があれば、仕事に没頭する肉体もある。

 すべてが、リアルな生であり、そのリアルな生の傍らにはリアルな死があることを、体験を通して、写真の中の子供達は知っているし、写真を見る私たちにも伝わってくる。

 そして、人間の仕合せを、ニュースを通して客観的に分析するのではなく、生身の人間の1人として、この時間を生きている1人として、写真の中の子供たちは直に感じているし、写真を見る私たちにも伝わってくる。

 この写真集の中には、死体も、ゴミもある。清と濁、生と死、全てが隣り合わせなのだけれど、綺麗なものと汚いものと分別することはできず、全体として美しい。

 ほとんどの子供達は、裸足で大地をしっかりと踏みしめており、粗末な衣服を身につけているだけなのに可憐で美しい。貧しいとか豊かであるという分別も受け付けない。

 着飾る必要がない美しさ。美というのは、偽や仮の反対語であり、その意味は、真に近い。真というのは、ごまかしがないということ。

  私たちが生きるこの100年は、人類史の例外中の例外であり、それ以前の何百年、何千年と、人間の暮らしぶりは、この写真集の中の世界のように、どこの地域を訪れても大した差異がなく、ずっと変わらなかった。長く続けてこられたのは、人間本来の在り方が、そういうものだったからだろう。

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 この100年、人間は、なんと多くの仮のもの、偽りのものに自らの仕合せを重ねて夢見てきたことか。生のリアリティが、どんどん遠ざかるばかりなのに。

 もう元に戻れないとは思わない。

 この大量消費の時代は、人類史の例外中の例外であり、人類が積み重ねてきたリアルな生の連続過程ではないのだから。

 数年前にもてはやされた流行のものが、すっかり忘れさられているように、この時代そのものも消費されて、懐かしいという感慨もなく、忘れ去られる。

 そして、残り続けるものは何か?

 時間と場所を超えて、受け継がれていくものは何か?

 鬼海さんの写真の一枚一枚と向き合い、それらの写真の時空に導かれ、入り込んで、子供達が裸足で感じ取っている大地の感触を感じ、水や風の揺れを肌で受け止め、木の温かさや岩の冷たさを想像し、あらゆる自然と交流し、世代を超えた様々な人々の混ざり合いの中から無限のメッセージを受け取る。その時間のなかで、世界の多様さ、豊かさと、人間本来の美しさというものを、心から実感できる。

 鬼海弘雄という孤高の写真家は、写真に真摯に取り組んでいる人から、もっとも尊敬されている写真家の1人である。

 この稀有なる写真家の仕事を通して、誰にでも手軽に写真が撮れる時代だからこそ、写真が、他の芸術表現にはできない写真だけの奇跡を引き起こせる表現であることを改めて感じられることに感謝したい。

 

鬼海弘雄さんが、生きた東京の街を40年間にわたり撮影し続けた集大成「Tokyo View」も、まだ在庫が残っています。

 この写真集は、インドの写真と違って人間の姿は一切写っていません。にもかかわらず、そしてだからこそ、人間の気配が濃密に漂っています。

 写真を見る人が、今そこに生きている人間、そしてこれまで生きてきた人間を、写真の像から呼び覚ます、そんな写真集です。

https://kazesaeki.wixsite.com/tokyoview

 

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第1070回  日本の古層(17) 異なる世界の和合。聖武天皇の謎の遷都と、空海の時代(1)

 

 前回の記事で、空海の時代(平安時代初期)と、古事記から聖武天皇の時代(奈良時代初期から中期)における2人の県犬養氏橘氏)のことに言及した。

 そして、この二つの異なる時代に重なる不思議なことがあり、そのことについて書いてみたい。

 古代史には謎が多いけれど、その中でも、奈良時代聖武天皇が遷都を繰り返した理由が、未だにわかっていない。

 当時は、奈良の平城京(710〜)が都であったが、第45代聖武天皇は、740年に平城京の北、木津川のほとりの恭仁京に遷都する。その後、10年間に、難波京、紫香楽京を経て平城京に戻るという、目まぐるしい遷都が繰り返されている。しかも、その間、741年には国分寺建立の詔を、743年には東大寺盧舎那仏像の造立の詔を出している。

 この10年、聖武天皇は、まるで何ものかから逃れようとするかのように遷都を繰り返し、仏教への傾倒を深めているのだ。

 しかし、かつては、天皇ごと、あるいは一代の天皇に数度の遷宮が行われていた慣例もあったようだし、聖武天皇に限らず、たとえば第26代継体天皇は、即位の後も大和の地に入らず、19年間にわたって、淀川沿いと木津川沿いで、三度、皇居の位置を変えている。

 なので、聖武天皇の遷都に限らず、それ以前の都もまた、なぜその場所を拠点としたのか、なぜそこに移されたのかということは、十分、考えるに値することである。

 たとえば、694年から日本の首都となった藤原京は、白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に破れた日本が、壬申の乱という古代日本最大の内乱を経て、律令制という中央集権的な政治体制によって国を一つにまとめて外敵に備え、国力を安定させようとする意思のもとに築かれた都だといえる。

 その藤原京は、大和三山のど真ん中に位置していることはよく知られているが、それだけでなく、三輪山と和歌山の日前神宮・国懸神宮とのあいだを結ぶ冬至のライン上に位置している。

 南北や東西のラインのことはわかりやすいが、冬至のラインというのは、冬至の日に太陽が沈む、もしくは夏至の日に太陽が登る(その逆もある)方向に、ラインが引かれているケースである。

 古来、冬至は特別の日だった。現在、クリスマスで祝うキリストの誕生日というのも、もともとは冬至の日だったと考えられる。

 太陽の力が一番弱くなる日。そして、翌日から太陽が力を取り戻していく日。それは、生命の復活と結び付けられていた。

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一番上が平城京、その真南が弥生の大集落の唐子・鍵遺跡、その南の三角のポイントが、耳成山(上)、畝傍山(左下)、香具山(右下)で、この三つの山に囲まれている場所が藤原京。その東のポイントが三輪山。西のポイントが和歌山の日前宮三輪山日前宮のラインは、冬至の日に太陽が沈むライン。

 藤原京があった場所に立つと、大和三山の麗しい姿を望むことができるが、ここに都を築いたのは、おそらく、それだけの理由ではない。

 大和三山もそうだが、三輪山日前神宮・国懸神宮にしても、古代史において重要な役割を果たしている。

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和歌山市日前神宮・国懸神宮は、現在は、一つの境内の中に二つの神社が鎮座し、ともに、伊勢神宮内宮の神宝である八咫鏡と同等のものとされる鏡を御神体としている。この二つの鏡は、アマテラスが岩戸に隠れてしまった時、誘い出すために作られた鏡であるが、あまり美しくなかったために使われなかったものという、不可解な意味付けがなされている。つまり、出どころは同じだけれど、正当でなかったものということになる。しかし、この二つの神宮は、真南に向かう鳥居の正面にはなく、左右に分かれて鎮座しており、その正面の空間には、かつて五十猛神が祀られていた。

 日前宮は、神話の中で、岩戸に隠れたアマテラスミコトを外に誘い出すために作られた鏡で、最初に作られたのだけれど実際には使われなかったという謎めいたエピソードのある鏡が御神体であり、日本古代史においても特別な位置づけで皇室からも大切にされてきた。そして、三輪山は、祟り神、国譲りの大国主が祟り神となって現れた大物主を祀っている。どちらも、大和政権の中枢ではないけれど、無視できない存在として、一目を置かれている。

 そして、大和三山においては、

「香具山は 畝火おおしと 耳梨と 相あらそいき 神代より かくにあるらし 古昔も 然にあれこそ うつせみも 嬬を あらそうらしき」という中大兄皇子の謎めいた歌がある。

 この歌を、額田王をめぐる中大兄皇子大海人皇子の恋争いと重ねて解釈する人もいるが、もっとシンプルに、香具山と耳成山が、畝傍山をめぐって争いを続けてきたと読み取ればいいのではないか。

 畝傍山の周辺には、初代の神武から、第2代綏靖(すいぜい)、第3代安寧(あんねい)、懿徳(いとく)など、初期の天皇の陵墓が存在する。古代、天皇は亡くなることで、より権威を増していたが、畝傍山は、そうした聖域であったのだろう。

 そして、耳成山は、もともと火山で、大和三山でもっとも姿が美しい山(ピラミッド説もある)である。この山の流紋岩は、古代からよく知られていた。

 耳成山の北方、奈良盆地中央に弥生時代の大環濠集落、唐古・鍵遺跡がある。大集落は、列島の西と東を結び、七〇〇年間繁栄をつづけた。この大集落が、ヤマト王権が誕生する礎となったと思われるが、この遺跡で使用されている様々な石器類に、耳成山の岩が多く使われていた。

 そして、香具山というのは、畝傍山耳成山と違って、火山ではなく、奈良盆地の東の龍門山系が侵食作用を受けて、その侵食に耐えて残った土地が山となっている。だから、大和三山のなかでは、あまり特徴のない姿をしている。

 しかし、古代から、天香久山の土は、霊力、呪力のあるものとして神聖視されてきた。国家の大事に際して、その土を使って、その吉凶禍を判断する聖地だったのだ。

 古事記』には、神武天皇が夢のお告げに従って、天香久山の赤埴(あかはに)、白埴(しろはに)を採集させて作った土器を神に供えたので、戦いに勝つことができたと記されている。

 そういう卜占(ぼくせん)に携わる者は、アメノコヤネ命の苗裔と称し、壱岐対馬、そして大和だけでなく伊豆とも深い関わりがある。

 香具山で祀られている国之常立神(くにのとこたちのかみ)は、古事記においては、造化三神などの後、6番目に生まれる神様だが、『日本書紀』においては、初めて登場する神で、根源神である。それは、卜占を、国家秩序の中心にする発想と関係しているのではないかと思う。日本書紀の成立時(720年)に、アメノコヤネを祖神とする中臣氏が、朝廷内の神事・祭祀職として、大きな力を持っていたことも背景にあるかもしれない。

 こうして見ていくと、694年に都として定められた藤原京の位置は、日本が中央集権的な統一国家を築くために、異なるバックグラウンドを持つ氏族を和合させる象徴的な意味合いがあったように思える。

 この藤原京は、第43代元明天皇の710年、平城京へ遷都される。

 平城京は、藤原京の真北である(東経135.79)。

 平城京のあるところは、佐紀盾列古墳群のすぐ傍である。佐紀盾列古墳群は、4世紀末から5世紀前半にかけての古墳群で、200メートル超す巨大古墳が4基みられ、初期ヤマト政権の王墓である可能性が高いと考えられている。

 三輪山の傍の箸墓古墳などヤマト政権の初期の纏向古墳群や大和・柳本古墳群が5世紀初頭に衰退し、その後、佐紀盾列古墳群での大規模古墳が作られるが、5世紀前半からすぐに、応神天皇綾など、大阪の藤井寺周辺の百舌鳥・古市古墳群が大古墳地帯となる。 

 平城京の傍の佐紀盾列古墳群周辺には、第11代垂仁天皇の皇后であった日葉酢媛や、第12代垂仁天皇、第14代成務天皇の古墳などが見られる。

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日葉酢姫陵 日葉酢姫は、垂仁天皇の2番目の皇后。父は、和邇氏の流れをくむ彦座生の子、丹波道主王垂仁天皇との間に景行天皇、元伊勢行幸のヤマトヒメを産む。日葉酢姫綾のある佐紀陵山古墳群は、有数の大規模古墳群で、この地から、河内の応神天皇陵など古市古墳群へと大規模古墳群が移った。この古墳の墳丘長は、207メートル。兵庫県では最大級の明石の五色塚古墳と相似形で、大きさなどもほぼ同じである。

 日葉酢媛というのは、和邇氏と関わりの深い彦座生(第9代開化天皇の第三皇子)と、鍛治の神、天御影の娘とされる息長水依媛とのあいだの子で亀岡の方面を拠点にしていた丹波道主の娘で、平城京の傍の若草山付近も和邇氏の拠点だったので、平城京への遷都の背景に、そうした事情があったかもしれない。(つづく)

 

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第1069回 日本の古層(16) もののあはれ源流 古事記と和邇氏、そして空海の時代(下)

(前回の続き)

 そして、人間行為が幻にすぎないことを知り尽くしながら、それでも人間的行為を永遠に化することを希求する日本人が創造したものは、”もののあはれ”だけではなかった。

 それは、人工と天の摂理を組み合わせることだ。大陸から学んだ陰陽道などを通して、天の摂理と人間的行為のあいだに矛盾が生じないようにする日本独自の方法が作り出され、修験道などで、天の摂理と人間存在を一体化するような修行も行われた。その中で空海は、傑出した人物であり、現在まで続く様々な痕跡を数多く残している。

 明治維新政府によって、仏教の地位が下げられ、天皇を唯一の神のように祀り上げるため、空海も、単なる歴史上の一僧侶として扱われた。そして、教育のなかでも最澄と同じ平安時代を代表する人物としてのみ教えられるようになった。

 しかし、日本史のなかで、空海最澄は、大きく異なる。最澄は偉大な僧侶かもしれないが、空海は、一僧侶ではなく神のように崇められてきた。現在でさえ、弘法大師のことを”信仰”する年配の人は多い。

 それは、高野山奥の院を訪れて、空海廟の前、はるか彼方まで連なる戦国大名の墓などを見れば、中世において、いかに空海の神力が崇敬されていたかわかる。

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高野山 奥の院

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高野山奥の院。参道には織田信長武田信玄豊臣秀吉伊達政宗など戦国時代の大名たちをはじめ、その数20万基と言われる石塔が並ぶ。高野山の信者にとって空海は今も生きて瞑想を続けていると信じられ、空海の入滅後1200年にわたって、空海廟に食事を運ぶ生身供(しょうじんぐ)が続けられている

 空海に関する伝説は数多くあるが、伝説ではなく具体的な形として、空海が残した不可思議な永遠を、現在の私たちでも確認できる。

 たとえば、空海の所縁のある聖域は、太陽や星の運行と極めて精緻に重ねられているところが非常に多い。

 この地図は、ほんの一例である。*このラインは、この外にも続くが、話が長くなるので、今回はこの範囲に限定。

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 上の地図で、高野山奥の院空海廟は、水平ラインの右から二つ目で北緯34.22度。そして、その水平ライン西の端のポイントが讃岐の善通寺で、空海が生まれ育った場所であるが、ここも34.22度。東のポイントも同緯度で、天河弁財天。厳島竹生島と並ぶ日本三大弁財天のひとつで、宗像三神の市杵島姫を祀っている。

 空海は、「もし、厳島神社と気比神宮に何かのことがあれば、高野山の私財を投げうってでも、社殿の復興に尽くさねばならない」と遺言しているのだが、空海の出身は讃岐の佐伯氏で、安芸の宮島厳島神社の創建も同じく佐伯氏の佐伯鞍職で、歴代の神主も主に佐伯氏であったが、空海は、そんな親戚づきあいのことを言っているのではなく、おそらく、日本の歴史上、宗方の名が意味するものへの尊重が含まれている。

 そして、水平ラインのもう一つのポイントは、和歌山の日前神宮國懸神宮。アマテラスを岩戸から呼び出すために作られた鏡で、けっきょく使用されなかった鏡が御祭神という、日本の歴史上、重要であるけれど不可思議な立ち位置の聖域である。

 垂直のラインは、上から京都嵯峨野の天龍寺大山崎の天王山の自玉手祭来酒解神社(酒解神社)、空海の創建で空海と北斗七星の伝説がある星田妙見宮、そして、生駒山二上山金剛山という古代史で重要な聖山が続き、その一番下が、犬飼山転法輪寺である。

 この垂直ラインは、すべて東経135.67度。

 一番北の天龍寺は、今は観光客で賑わう庭園で有名な寺で、室町時代の創建だが、空海の時代、この場所は、第52代嵯峨天皇の皇后である橘嘉智子が作った日本初の禅寺、檀林寺だった。そして、ラインのその下にある大山崎の自玉手祭来酒解神社(酒解神社)は、橘氏の祖先神を祀っている。

 空海は、嵯峨天皇橘嘉智子に信頼され政策上でも支持されていた。それはほとんど帰依という関係だった。

 地図上の垂直線の一番下にあたる犬飼山転法輪寺というのは、空海高野山に導いた狩場明神と出会った場所である。狩場明神が犬を二匹連れていた話はよく知られているが、狩場明神の別名は、犬飼明神という。

 そして、橘嘉智子の出身の橘氏は、県犬養氏で、同じ犬養だ。県犬養氏は、古代最大の内乱である壬申の乱(672)の時、天武天皇を支え、その功績により橘姓を賜った。

 そして、古事記が編纂された元明天皇(在位707-715)の時、元明天皇にもっとも信頼されていた人物が県犬養三千代で、彼女は藤原不比等と再婚し、彼女の力によって、当時、下級官僚だった藤原不比等は出世することができた。

 その後、第45代聖武天皇の皇后となった光明子は、藤原不比等県犬養橘三千代の娘である。

 『古事記』を文字にして残す作業の時、フミヒトと呼ばれる文章能力を備えた渡来人の集団が活躍したようだが、フミヒトが住んでいた場所は、大阪の古市郡(現在の羽曳野と富田林のあいだあたり)で、そこは、県犬養氏の拠点だった。

 古事記のことを藤原不比等の陰謀のように言う人がいるが、古事記を読んでも、藤原氏が特別に扱われているようには感じられず、藤原氏よりも和邇氏の存在の方が気になるくらいだ。

 もしかしたら、古事記への影響は、藤原不比等ではなく県犬養三千代の方が大きかったかもしれない。太安万侶は、古事記の序文のなかで、天武天皇ではなく県犬養三千代への信頼の厚かった元明天皇のことを讃えている。

 県犬養氏の祖は謎だが、海人の隼人であるという説もある。

 隼人といえば阿多隼人が知られているが、和邇氏の祖は、阿太賀田須命(あたかたすのみこと)であり、宗方氏の祖も同じ人物で、和邇氏と宗方氏は同族ということになる。そして、ともに”阿多”と関係がある。

 阿多に関して、神話のなかでもう1人重要人物がいる。それはコノハナサクヤヒメで、『古事記』では、本名を神阿多都比売(かむあたつひめ)と言う。

 阿多のことは日本の古代史を考えるうえでもっとも重要なテーマの一つである。

  嵯峨天皇の皇后となった橘嘉智子は、県犬養三千代が創建した梅宮大社を、木津川のほとりから京都の桂川のほとりへと移した。

 梅宮大社の祭神に、天孫降臨のニニギに嫁いだコノナサクヤヒメがいる。

 そして、コノハナサクヤヒメは、富士山と結びつけられているが、天孫降臨のニニギと出会った場所は九州である(宮崎の延岡の愛宕山とされている)。

 鹿児島の桜島は、北岳と南岳からなる複合火山で、北岳(御岳)は筑紫富士と呼ばれているが、桜島という名となった理由の一つに、島内にコノハナサクヤヒメを祭る神社が鎮座していたので咲耶島と呼んでいたが、いつしか転訛して桜島となったという説がある。

 実際に、桜島の月読神社でコノハナサクヤヒメを祀っている。そして、この月読神社は、伊勢の豊受神を祀る外宮のそばの月夜見神社や富士山、そして、武蔵国一宮の小野神社(聖蹟桜ヶ丘)と冬至のラインで結ばれている。小野氏の祖は和邇氏であり、和邇氏の祖が阿多なのだから、桜島、伊勢、富士山、小野神社を結ぶこのラインは、おそらく阿多と関係するものである。

 いずれにしろ、天孫降臨したニニギと、すでに地上にいたコノハナサクヤヒメとのあいだに生まれた山幸彦が天皇家の後継となる。

 この構図は、初代天皇神武天皇の時も同じで、日向からヤマトに来た神武天皇は、日向の女性とのあいだにできた息子ではなく、ヤマトに来てから出会ったヒメタタライスズヒメを皇后とし、彼女とのあいだにできた子供を世継ぎとする。

 しかも、ヒメタタライスズヒメは、出雲系とされる事代主と、摂津の豪族、三島溝杭(下鴨神社の祭神、賀茂建角身命とされる)の娘のタマヨリヒメとのあいだにできた娘である。

 ニニギと同様、神武天皇でも、異なる氏族のグループが婚姻を通して和合していくプロセスが繰り返されており、これは、大国主の国譲りにおいても同じだ。国譲りを主導したタカミムスビが、大物主神大国主の和魂)に対し、国津神を妻とするなら心を許していない証拠、だから自分の娘の三穂津姫を妻とするように求めている。

 日本の古代は、氏族間の対立を解消するために、こうした和合のための婚姻が繰り返されているのだ。

 県犬養三千代藤原不比等のあいだに生まれた光明子が第45代聖武天皇に嫁いだことも、三島溝杭の娘と事代主のあいだに生まれた姫が、神武天皇に嫁いだことに等しい。

 そして橘嘉智子は、自分が生まれる50年前に世を去った県犬養三千代のことを強く意識していたことは間違いない。犬養三千代が、現在の京都府綴喜郡井手町に創建した梅宮大社を、わざわざ自分が拠点とする京都の嵯峨野の近く、桂川のほとりの松尾の地に移した。梅宮大社の祭神は、酒解神酒解子神大若子神小若子神で、橘氏の祖神ともされるが、梅宮大社では、大山祇神木花咲耶姫命・ニニギ、山幸彦としている。

 つまり天孫降臨の構図である。

 そして、橘嘉智子は、橘氏でありながら同族の橘逸勢よりも藤原氏の冬家との結びつきを優先し、嵯峨天皇とのあいだに仁明天皇を産む。絶世の美女だった橘嘉智子は、禅に深く帰依し、一切の執着をすて、自分の死に臨んでは、「自分の体を餌として与えて鳥や獣の飢を救うため、また「諸行無常」の真理を自らの身をもって示すために、自らの遺体を埋葬せず路傍に放置せよと遺言し、遺体が腐乱して白骨化していく様子を人々に示し、その遺体の変化の過程を絵師に描かせたという伝説があるのだが、自分の子供である仁明天皇への世継ぎに関してだけは執念を燃やし、同族の橘逸勢や、自分の娘の正子とさえ確執を産んだ。(842年 承和の変

 自分個人の肉体の滅びへの執着はないが、古代から連なる永遠の糸を、そして阿多の記憶を、息子へと託す思いだったのだろうか。

 古事記の中で、多くの和邇氏の女性が、天皇に嫁ぐことになる。しかし、それらの物語は政略結婚という類のものとは思えず、コノハナサクヤヒメとニニギのように、異なる背景を持つ人間の和合である。

 県犬養三千代の時代に形として残された古事記も、橘嘉智子の時代に活躍した空海が残した痕跡も、異なるものを和合する思いが込められているように感じられる。

 聖武天皇光明皇后は、仏教の力を借りて、なんとか国を平安に導こうと努力はした。特に光明皇后は、貧しい人に施しをするための施設「悲田院」、医療施設である施薬院」を設置して慈善を行った。さらに、重症の癩病患者の膿をみずから吸ったところ、その病人が阿閦如来(あしゅくにょらいであったという話はよく知られている。

 そして、空海が生きた橘嘉智子嵯峨天皇の時代には大規模な軍縮が行われて、それから平安末期まで、盗賊は増えたものの、戦争のない平和な時代が続いた。日本史のなかで最も長い平和の時代である。

 この二つの時代は、氏族間の血なまぐさい戦いが繰り広げられていたことも共通している。

 さらに、古事記の時代と空海の時代に共通していることは、県犬養氏橘氏)の二人の女性である。県犬養氏も、コノハナサクヤヒメを祀っているのを見ると、宗方や和邇氏と同じ阿多を祖とするのだろう。

 倭国大乱の後の卑弥呼やトヨの時代、男ではまとまらない世の中を女性が太陽となって和合させたが、県犬養氏の2人の女性は、古事記和邇氏の女性のように、陰の力となって和合させようとしたのかもしれない。

 

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第1068回 日本の古層(15) もののあはれ源流 古事記と和邇氏、そして空海の時代(上)

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亀岡の佐伯郷の稗田野神社。稗田阿礼の生誕の地とされ、稗田阿礼を祀る。近年、この神社のすぐ傍で、大規模な古代都市遺跡や古代寺院遺跡が発見された。

 日本の古代を探っていると、何か一つの発見があるたび、そこから新たな謎が生じる。そして、自分は、この国のことをまるでわかっていないと思わされる。

 一つひとつのディティールは、それ自体で完結していなくて他の何かと関係をもっている。その関係の糸がどこまでも続いている。その関係の糸をロジックで解きほぐそうとすると、わけがわからなくなる。なぜなら、必然と偶然が重なり合っているからだ。偶然的要素が、思考の連続を絶つ。しかしそれでも、何となくであるが、全体のフレームのようなものは、うっすらと見えてくる。偶然も含めて、なるべくしてなったのではないかという。 

 太安万侶は、古事記の序文で、次のように書き始める

 「この世界は、ものの形と質が分離してなくて、名前も行為も、形も存在しない。しかし、天地が初めて分かれ、3柱の神(アメノミナカヌシ、タカムスビ、カミムスビ)が造化の端緒となり、陰陽が分かれ、2体の霊(イザナミイザナギ)が諸物の祖となり、かくして黄泉と現世を出入りするようになる」と。

 

 この古事記の書き出しは、

 紀元前4世紀、中国戦国時代の思想家、列子の言葉と少し似ているように思う。

 

有生の気も有形の状も、全て幻である。 

造化より生み出され、陰陽に因りて変化するものを、生といい死という。 

 

「生といい死という」という言い方が面白い。この世界には生と死があるのではなく、生も死も、変化の一つの相にすぎないということだろう。

 太安万侶が、「黄泉と現世を出入りするようになる」と書いているのに近い感覚がある。

 旧約聖書の中で、エデンの園で禁断の果実を食べたエバが、アダムにも与え、その結果、彼らの無垢は失われ、自分と他人を意識化し、裸を恥ずかしいと感じて局部をイチジクの葉で隠す。これを知った神は、アダムとイブを楽園から追放し、2人は、死すべき定めを負うことになる。つまり、禁断の果実を食べる前は、自分と他者の区別も、死という概念もなく、すべては溶け合うように一体だったのだけれど、禁断の果実を食べてしまったために、死という概念に怯えながら、生に対しても、苦しいとか楽になりたいとか、いちいち分別を持ちながら生きていく定めになるということ。

 おそらくエデンの園というのは、古事記で一番最初に書かれている「夫れ混元既に凝りて、気象未だ效れず。名も無く為も無し。」という無分別状態のことだろう。

 

 列子の言葉は、さらに続く。

 

数を尽くして変を極め、形に因りて移りゆくものを、化といい幻という。 

造物なる者はその功は神妙にして深遠、とても知り得て尽すことは出来ぬ。 

だが、形に因る者ならばその功は形として顕れて易々と知り得ることができる。 

形として存するものは随って起こり随って滅するが故に、永遠持続する存在とはなり得ない。 

これ生死であり幻化であり、この双方は一である。 

                   出典・参考・引用 久保天随著「列子新釈」

 

 つまり、「造物なる者はその功は神妙にして深遠とても知り得て尽すことは出来ない」ものだけれど、何らかの形に落とし込んで理解しようと思えば理解できる。しかし、形あるものは消えゆく定めであり、永遠ではなく、幻にすぎない。人が何らかの形で世界を理解したと思って、それを形で表したところで、そんなものは幻であると。そして、生とか死というのも、世界を何かしらの形に落とし込んで、物事の働きを陰陽で分別するからこと生じる概念であり、これもまた幻である。と。

 だとすると、古事記の中で、 三神による造化の端緒も、イザナミイザナギが諸物の祖となることも、この世界を何らかの形あるものに置き換えようとする人間の分別の働きということになる。そうした分別がなければ、そもそも、現世とか黄泉という概念もない。

 太安万侶は、天地創造の秘密を書き下ろそうとしているのではなく、そういった行為は幻にすぎないと知りながら、時代の要請に従って、とりあえず形あるものにしておくというスタンスなのではないか。

 もともとは第40代天武天皇の命によって、稗田阿礼が、様々な古い物語を色々な人から耳で聞いて記憶していたけれど、けっきょく長いあいだ、そのまま放置された状態だった。

 そして、天武天皇が亡くなり、しばらく経って、女帝の第43代元明天皇(在位707-715)の時、世の中に色々な解釈の歴史記録が出回っているが、これはいかんということになって、古事記という一つの形にすることとなった。

 しかしながら、太安万侶は、文字に置き換えることは大変なことで、うまく伝えるためには色々と工夫が必要なんだと、序文の中で、はっきりと書いている。

 世界の構造を具体的な形にして説明することなんかできない、またそうした行為は永遠から遠ざける幻にすぎないとわかっていても、人間は、それを辞めることができない。幻にすぎないことを知りながら、幻を追うしかない。

 だから、問題となるのは、その幻の追い方だ。

 古事記には、真実の歴史が書かれているわけではない。だからといって陰謀論の好きな人が言うように藤原不比等のでっち上げでもない。おそらく古事記は、幻を通して、分別というこれまた幻から逃れられない人間の宿業(ほとんどは悲劇)を様々な角度から描いている。

 どんな地上の栄光を書いたとしても、その終わりがあることはわかっている。とすれば、栄光を形として書き表すことじたいも、悲劇を書いているということになる。

 『源氏物語』が光源氏の栄光を描いていると思い込んでいる人も多いが、源氏物語全体に流れるのは、哀しみである。主人公の光源氏も、物語の途中からフェードアウトしてしまう。

 現在に伝わる日本文学のほとんどが、哀しみをベースにしたものである。なぜなら、形にして表すという行為自体が幻であると理解していない人が形作ったものに、永遠性が備わるはずがなく、だから時代を超えることはないからだ。

 幻にすぎないことを知り尽くしながら、それでも幻を追わざるを得ず、幻を形にせざるを得ない日本人がたどり着いた方法が、”もののあはれ”だった。

 この場合の日本人の定義は難しい。古代、多くの渡来人がこの島国にやってきて、彼らが持ち込んだ文化などの和合のプロセスを踏んで、日本の形が整えられていった。日本の象徴である天皇じたいに、渡来人の血が流れ込んでいることは、系譜を辿るだけで明らかだ。第50代桓武天皇の母も、第59代宇多天皇の母も、渡来人の血が流れている。

 だから、日本人は、血統で定義できず、地震や台風など天災の多い小さな島国において、島の内と島の外からもたらされた様々な文化が和合することによって象られた精神を共有する人たちということになるだろう。

 そして、古事記には、もののあはれの源流がある。古事記の中で、天皇以外で一番多く登場するのは和邇氏だが、その和邇氏の多くが悲劇の主人公である。仁徳天皇皇位を譲るために自ら命を絶った菟道稚郎子

うじのわきいらつこ=母親が和邇氏)や、第11代垂仁天皇の皇后で、垂仁天皇を深く愛しながら、反逆者となった兄とともに死ぬことを選んだ狭穂姫命(さほひめのみこと=母親が和邇氏の彦座王の娘)のように。

 和邇氏の系譜は、のちに柿本氏や小野氏につながるが、その中に柿本人麿や小野小町など文人も多く含まれる。”もののあはれ”文学の水脈に、和邇氏の存在が見え隠れしている。

 また、紫式部の父方のルーツを辿れば、山科の小野郷を拠点にしていた豪族、宮道氏に至る。(紫式部の墓は、京都の堀川通に、小野篁の墓と並んで作られている)

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大原野神社 紫式部氏神で、京都の人門(西南)の位置にある。また、山科の小野郷(小野小町が暮らしていた)や、紫式部源氏物語を執筆した近江の石山寺の真西に位置し、源氏物語の舞台となる宇治橋冬至の日の日の出方向にある。

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小野妹子の古墳と考えられる唐臼山古墳。 現在、琵琶湖大橋が掛かる琵琶湖で最も狭いところに小野郷があり、小野篁をはじめとする小野氏を祀る神社や、唐臼山古墳をはじめ無数の古墳がある。この地はもまた、平安京の鬼門の位置(北東)にある。

 古事記において過去の物語を耳で聞いてすべて記憶したとされる稗田阿礼は、猿女君と同族で、猿女君は、巫女などとして朝廷に仕えて祭祀を司っていた。

 この猿女君についても、小野氏和邇部氏が猿女君の養田を横取りし、自分の子女を猿女君として貢進したという記録もあるし、そもそも、猿女君も小野氏も同族であるという説もある。

 また、平安時代小野篁は、地獄の入り口で閻魔大王に仕えて死んだ人間を裁くことの手伝いをしていたという伝説も残っているように、小野氏というのは、生と死の境目で何かを司っていた氏族なのだろうと思う。風水で平安京を鬼や邪霊から守る鬼門や天門などに小野氏の拠点があるのも、偶然ではないだろう。(つづく)

✳︎ピンホールカメラで撮影した日本の古代の聖域の写真を紹介するホームページを一新しました。 https://kazesaeki.wixsite.com/sacred-world

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平安京を鬼や邪霊から守る位置にある小野郷。真ん中は、平安京大内裏朱雀門跡。北東(鬼門)のポイントが八瀬の小野郷、この地には早良親王の霊を鎮めるための崇道神社(小野毛人の墓と同じところ)がある。南東(風門)のポイントが随心院のある小野郷(小野小町が生まれ育った場所で、紫式部の父方のルーツの場所)、北西(天門)が岩戸落葉神社の小野郷(源氏物語の中、落葉の姫が隠遁していたところ。西南(人門)のポイントは、紫式部氏神大原野神社。ここだけが小野郷でなく、春日という地。しかし春日もまた、小野や柿本と同じく和邇氏の後裔である。桓武天皇の命で、奈良の春日から大原野に神社などが移されたが、奈良の春日は、かつては和邇氏の拠点だった。

 

第1067回 日本の古層(14)古代ヤマトの東西につらなる金属の神の足跡

   大学入学共通テストにおける英語の民間試験の導入について揺れ動いている。グローバル化に対応するために英語力を高めなければならないのだと頭でっかちの文部科学省が考えているようだが、これまでも学校教育のなかで英語を学ぶ時間は、莫大なものだった。にもかかわらず学校教育の英語はほとんど成果をあげてこなかった。しかし、近年、外国人観光客が増えて、京都のレストランやショップなどでも英語で対応している店員は増えていて、日本人の英語コンプレックスはかなり減っている。それは学校教育のお陰ではなく、人間というものは必要になればなんとかするもので、教育で無理強いしたところでなんともならない。

 そして、いくら英語の点数が上がったところで、語るべきものが自分の中になければ意味がないし、語るものがあれば、下手な英語でも、対話は成り立つ。

 私は、若い頃から世界の秘境辺境や古代遺跡などを数多く訪れたが、海外を旅するたびに自分は日本のことを何も知っていないと思いしらされた。

 そして最近、日本の様々な地域を訪れて、日本の古代の不思議を探っていると、こんなに小さな島国でさえわからないことが多すぎるのに、広大な海外のことを理解することなんて、途方もないことだと心から実感する。中近東やアフリカ、中南米ユーラシア大陸の様々な場所の史跡を訪れて、少しは歴史がわかったつもりになっていたが、実に大雑把な訪問と一方的な理解でしかなかったことを痛感している。

 ただ、世界の隅々まで旅していた時も、今、日本の狭く限定されたところに深く入り込んでいる時でも、共通している思いは一つあって、それは、過去よりも現在が優れているというのは、現代人の自惚れにすぎないということ。そして、古代人は、現代人の想像をはるかに超えた叡智を持っていたということだ。 

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愛宕神社

 一昨日、京都の古代からのランドマークである愛宕山に登った。頂上付近に瘤のように盛り上がった独特の形は、古代人の心も惹きつけただろう、日本には数多くの愛宕山があるが、その大元にあたるのが、京都の愛宕山だ。

 この愛宕山は、カグツチ神や火雷神を祀っており、火伏せ、防火の神として古くから崇敬されている。

 カグツチは、神産みにおいてイザナギイザナミとの間に生まれた神で、古事記の中では、彼を出産する時にイザナミの陰部に火傷ができ、これがもとでイザナミは死んでしまったと伝えられている。

 カグツチの誕生は、キリスト教世界においてはエデンの園の禁断の果実のような位置づけであり、この神の誕生前と誕生後で、世界は大きく変わる。

 イザナミが死んだ後、黄泉の国からイザナミを連れ戻そうとしたイザナギは、けっきょく逃げ帰ることになるが、黄泉の穢れを落とすために禊を行い。その禊から、海神三神や住吉三神に続いて、アマテラスやスサノオやツキヨミが生まれる。そこから、暴力をも含んだ生々しい神々の物語が始まる。禁断の果実を食べたアダムとイブの後、カインとアベルの殺害の物語が始まるように。

 聖書の中で、アベルを殺したカインは、神から「あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ」と告げられるが、カインの子孫であるトバルカインは「青銅や鉄で道具を作る者」と『創世記』第4章に記されているように、カインは、人類が金属道具を獲得することに関係している。

 それに対して日本神話では、黄泉から逃げ帰ろうとするイザナギと、追いかけるイザナミのあいだで、イザナミが「1日に1000人殺す」と言い、イザナギは、「ならば1500の産屋を建てる」と不吉な言い争いをするのだが、イザナミを殺したカグツチも、単なる火を示しているのではなく、火による創造物と大いに関係している。それは陶器であり、金属道具だ。陶器や金属を作り出すためには、火を有効に使ったり、高温にするための方法が必要になる。

 たとえば、鞴(ふいご)は鍛治をする際に火を起こす道具だが、前後に動かすピストン運動が男女の和合を連想させる。そのイメージと、イザナギイザナミの”まぐわひ”が重ね合わされる。

 イザナミが火の神カグツチを産んで火傷をし病み苦しんでいるときに、その嘔吐物から化生した神である金山彦、金山姫は、全国で鍛治の神として祀られているが、カグツチと、金属製作技術を関連させて見てみると、興味深いことがわかる。

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西から、美作の鍛冶町、多加の鍛冶屋、出雲大神宮愛宕神社上賀茂神社、御蔭神社、鏡山、額田神社。縦軸は、上から福井の気比神宮、近江の鏡山、熊野の花の窟神社、そして四国が日本最古の鉱山遺跡、若杉山遺跡。

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亀岡 出雲大神宮の磐座

 京都の愛宕山に登ると、その途中、真西に亀岡の御影山が見える。御影山は禁足地で、その麓に鎮座する出雲大神宮の神体山である。出雲大神宮の場所は、愛宕山と同緯度の北緯35.06度である。

 そして、愛宕山から東側には、京都を代表するもう一つの山、比叡山の姿を望むことができるが、その麓に、御生山(みあれ山ー御影山とも言う)があり、この山を神体山とする御蔭神社が、その麓に鎮座する。御蔭神社は、鴨川と高野川の分岐点に鎮座する下鴨神社の元宮とされ、賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)を祀っている。この御蔭神社の場所も、愛宕神社と同じ北緯35.06度。さらに、御蔭神社と愛宕神社のあいだに、賀茂建角身命の娘、玉依毘売から生まれた賀茂別雷命(かもわけいかずちのみこと)を祀る上賀茂神社が鎮座するが、ここも同緯度である。

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天御影神が降臨したとされる三上山山頂の磐座

 愛宕山を起点に、亀岡の御影山と比叡山の麓の御蔭神社まで、御影でつながっているが、天御影神という鍛治の神様が降臨したとされる場所が、近江富士と呼ばれる美しい姿の三上山で、三上山のすぐそばに鏡山がある。そして鏡山の場所は、北緯35.06度で愛宕山と同じなのだが、この山の頂上に竜王社という磐座があり、ここに立つと、冬至の日に、三上山の頂上に太陽が沈んでいくのを見ることができる。

 そして、鏡山の麓、真北の位置に菅田神社というのがあり、菅田というのは、鍛治を司っていた氏族である。そして、鏡山のすぐ近くの大岩山では、24個の銅鐸が出土しており、一ヶ所から見つかった銅鐸の数としては、島根県の加茂岩倉遺跡の39個に次いで多い。しかも、その中に、日本最大の銅鐸が含まれている。

 また、鏡山の真北にある鏡神社は、鉄文化と関わりのある渡来人の神で、応神天皇を産んだ神功皇后の母方の祖先であるアメノヒボコを祀っている。

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鏡山の山頂の竜王社の磐座

 さらに、北緯35.06度を東に伸ばすと、三重県桑名市で、ここは昔から木曽川長良川の渡しとして栄えていた東西交通の要所だが、そこに額田神社があり、意富伊我都神(おういがつのみこと)という天御影神の息子の神様を祀っている。額田氏というのは、谷川健一の説では、金属の鋳造を専業とした技術者の氏族とみなされる。

 次に西に目を向けると、愛宕山から亀岡の出雲大神宮を通ってその先に、天御影神の別名、天目箇神が集中的に祀られている土地がある。それは、兵庫県の多加町の千ケ峰周辺である。生野銀山に近いところにあるが、コンビニすら見つけるのが難しい辺鄙な場所なので、現在では、訪れたことのある人、および知っている人は、あまりいない寂しいところだ。

 しかし、この地域のことを、谷川健一が、『青銅の神の足跡』の中でも次のように言及している。

 「西脇市の大木や市原、更に南の野村西方の山中には数カ所に旧坑がみとめられるといわれている。そのなかでもとりわけ吹屋ガ谷の旧坑は面積がおよそ一反歩で、鉱滓はおびただしいという。伝えるところでは、杉原谷方面で採掘した原鉱を、この吹屋ガ谷に運んで精錬したものだといわれる。それがいつの頃か不明であるが、一千年以上を経た旧坑の跡であることは疑いないと『三木金物史』は述べている」

 この文章の中の杉原谷は、多加の千ケ峰周辺を流れ、西脇において加古川と合流する川のことである。

 この杉原川にそって、西脇の天目一神社、多加町鍛冶屋の大歳金刀比羅神社、そして荒田神社、青玉神社が、天目一箇神を祀っている。この中で、大歳金刀比羅神社のある鍛冶屋という場所が、北緯35.06度で、京都の愛宕神社の真西なのだ。

 この鍛冶屋周辺の地は、縄文、弥生時代からの遺跡が見つかっており、古墳時代に入ってからも、前期、中期、後期とそれぞれの時代の古墳が残っており、この内陸部が、古代から変わらない重要な場所であったということになる。

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左/天目一神を祀る青玉古墳 右/多加町鍛冶場の古墳群の一つ、東山古墳群

 兵庫県多加町からさらに西に行くと、岡山の美作だが、古代、美作国とその周辺部も鉄生産の中心地であり、鉄製品や製鉄炉・鉄滓などが各地で出土している。中世の刀工生産もよく知られている。この美作の鍛冶町に天目一神を祀る宗道神社があり、ここもまた北緯35.06度なのだ。

 吉備の国から伊勢国桑名まで、すなわちヤマトの東と西まで、北緯35.06度のラインにずっと金属関係の場所が連なっている。

 さらに不思議なラインを加えるならば、日本書紀」において、カグツチを産んだことで死んだイザナミが葬られた場所とされる熊野の有馬に、花窟神社産田神社があり、イザナミカグツチを祀っているのだが、その有馬は、東経136.08度で、近江の鏡山や菅田神社の真南である。 

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イザナミの埋葬場所とされる花の窟神社。

 そして驚くべきことに、この熊野の有馬は、今年の3月、徳島の阿南町の若杉山遺跡で日本最古の鉱山遺跡が発見されて話題になったが、その坑道と同緯度である。(33.89度と33.88度)

  若杉山の辰砂(しんしゃ=赤色硫化水銀)の坑道は、弥生後期の1世紀から3世紀のものとされ、これまで考古学的には山口県の長登銅山跡の8世紀頃が最古の坑道だとされていたので、日本国内の鉱石採掘の歴史が500年も遡ることになった。

 若杉山遺跡の発見までは、古代日本の遺跡から大量の金属製品が出土していても、それらはすべて輸入された原料で、日本国内では加工だけ行っていたというのが専門家の見解だった。しかし、この500年の差は日本の古代史にとって大きな問題であり、その中に邪馬台国大和朝廷も含まれるので、鉱物を輸入していたのか国内で入手できていたのかの違いは、古代の歴史を読み解くうえで重要な鍵となる。

 金属製品を持っているかどうかで農業生産力や軍事力は大きく異なってくる。もし輸入に頼らなければならないとしたら、大陸との交通路にあるところが特に重要な地域になるし、もし国内で獲得できる技術があるならば、鉱物資源の豊かな場所が、特に重要な地域になる。

 兵庫県の多加など山間部は、現在は不便な場所で寂れているが、縄文時代から古墳時代の終わりまでずっと栄えていたことは歴史的遺物が証明しているわけであり、その理由は、鉱物資源だったということになる。

 卑弥呼のことはともかく、若杉山遺跡は、飛鳥の地から、ちょうど冬至の日に太陽が沈む方向でもある。冬至というのは太陽の力が一番弱まって翌日から強くなっていくという復活の日である。古墳の中の石室に辰砂(しんしゃ)で真っ赤に塗りこめられているケースがいくつか発見されており、それは再生(永遠の生命?)のイメージと、血のように真っ赤な朱砂が結び付けられているからだが、若杉山遺跡と飛鳥の宮の位置関係が、冬至のラインにそっているとなると、飛鳥の場所が、若杉山遺跡(辰砂の採掘場所)を基軸に定められたのではないかと想像することもできる。しかも、このライン上に、高天原伝説のある奈良県葛城の高天彦神社や、大和地方で最大の水銀鉱山があった宇陀の地の宇太水分神社下社も鎮座している。

 それはともかく、徳島の若杉山遺跡の坑道は、邪馬台国の時代とも重なるので、阿南町は、卑弥呼の国はここにあったと町興しを始めた。

 その若杉山遺跡と、イザナミの埋葬地である熊野の有馬が東西の同緯度(北緯33.89度)で、有馬の真北(東経136.08度)が、近江の鏡山ということになる。さらにその北の若狭湾に面した敦賀は、古代、大陸からの玄関口だが、ここに神功皇后アメノヒボコと縁のある気比神宮があり、ここも136.08度である。気比神宮の話は長くなるので、ここから先は、また別の機会に。

 いずれにしろ、聖書の中では禁断の果実を食べた後のカインの罪、日本では”黄泉の国”や、穢れや禊という観念をつくりだしたカグツチイザナミの物語、それは古代世界を激変させた金属技術と関係しているが、恩恵も与えるが負の代償も大きい文明の利器である金属関係の場所は聖域となり、聖域であるからこそ、かなり計画的に、人為を超えた太陽や星の動きと関連するように配置されていることは、専門家の見識を借りなくても、地図を確認すれば誰にでも明らかなことなのだ。

 そして、この壮大な時空間のビジョンを実現している古代人は、山を歩いて鉱脈を探り、鉱石を取り出して加工し、金属製品を作り出すまでに知恵を技術を発達させていたわけで、当然ながら、かなり精緻な測量技術をも備えていたということになる。

 

✳︎ピンホールカメラで撮影した日本の古代の聖域の写真を紹介するホームページを一新しました。

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第1066回 過去と未来の橋渡しになる映像を

 

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亀岡 御霊神社
 ピンホールカメラで撮影した日本の古代の聖域の写真を紹介するホームページを一新しました。

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  日本というのは、たぶん世界の中でも実に特殊な国で、一千年以上も前の歴史を探るために、文献の量が十分で少なくても、古墳や神社が無数に存在していており、今日の我々に、重要な何かを伝えてきています。

  大陸の国々は、新しくやってきた侵略者によって、それ以前のものは徹底的に破壊されました。けれど、日本は、島国ということもあってか、一つの国を完全に支配できるような規模の侵略者はやってこなかった。だから、新しくやってきた先進技術や文化を持つ人たちは、日本にそれまで存在していた文化なり信仰を尊重しながら、新しい技術や知識を広めることに努めたようです。 明治維新や太平洋戦争の後でさえそうです。たとえば古墳などにしても、古墳前期から後期まで何百年も異なる時代のものが存在していますが、後の時代の人たちは、前の時代の古墳を再利用するということを、ほとんど行っていないのです。 その結果、日本には、過去の歴史の軌跡を順々に追えるように、様々なものが残っています。欧米文明にすっかり覆い尽くされているように見える今日の日本社会ですが、表層の下、潜在的な場所では、過去と現在は断絶されていません。 新しいものに対する情報ばかり優先的に伝えられる現代社会ですが、丁寧に過去を点検することによって、新しい視点、洞察、発想が得られるということもあろうかと思います。

  ピンホールカメラは、ファインダーも絞りもシャッターもなく、ただ暗箱とフィルムがあるだけで、光を通す穴は、わずか0.2mm。露出時間は、光の状態を見て勘に頼るしかなく、写る範囲も、だいたいこのあたりと見当をつけるだけです。 そして対象の前で立ちすくんだまま、何分か、ひたすら待ち続けるのですが、その場ではフィルムに像が写っているかどうかはわかりません。だから、フィルムを持ち帰って、現像した後に何ものかが写っているのを確認できると、それだけでホッとします。そして、こんなシンプルな仕組みなのに何ものかが写ることが不思議でなりません。最新のデジタルカメラで撮影すると、自分の眼で実際に見ている時より細部まで鮮明に写りすぎています。他の人の目にはどう写っているのか私にはわかりませんが、私自身に関して言えば、どうも、目で見たものと写真になったものでは感覚が違う。ピンホールカメラは、レンズを使っていないので、デジタルカメラの画像のような細密さはありませんが、自分が風景の中にいる時の見え方は、むしろピンホールカメラで映し出されたものの方が近いという気がするのです。

 実際に、現場にいる時、風が吹いていれば枝や葉は揺れ動いていてデジタルカメラの写真のようにシャープにディティールが見えるはずがなく、ただ周辺が揺れ動いているという気配だけが伝わってくるはずなのです。 高機能のデジタルカメラは高速シャッターで、揺れ動いているものを静止させてしまいます。そして薄暗い森の中も、高感度センサーで明るく鮮やかに処理をします。そうした処理によって、揺れ動くものの息吹や、闇に潜むものの息遣いは消えてしまいます。それが、現代の消費者のニーズになっています。しかし、消費者のニーズというのは、人々が意識できる範疇の欲求の反映にすぎず、世界は、自分では意識できていない物事との偶然の出会いに満ち溢れていて、その出会いが、人間を触発し続けます。意識によって限定された世界ではなく、無意識が感応する世界が、偶然と必然の組み合わせの中で写し出されることの驚き、それが私にとってピンホール写真の魅力です。何枚も撮って、その中の一枚だけかもしれないけれど、自分で恣意的に切り取った写真ではなく、偶然と必然の組みあわさった恩寵のような写真が受け取れるかもしれないと祈りのような心境で、暗箱に0.2mmの窓を開けて待っているのです。

  ピンホールカメラを抱えて、古くから人間が大切にしてきた場所を訪れていると、その地勢、山の形などからも、古代、人々がそこを聖地にした理由を、しみじみと感じる瞬間があります。 そして、古代の人たちが、先人から受け継いだものをとても大切にしていたということも感じられます。それは、現代社会に生きる私たちが失ってしまっている大事な感覚です。先人から受け継いだものを意識できないことは、未来に託すべきものを意識できないことと同一でしょう。現代人は、今この瞬間の自分の周辺だけに世界が狭く限定されてしまっていて、過去や未来とのつながりや、同時代においても、所属先や趣味・関心の違いを超えた普遍的なつながりを、喪失してしまっている。自分と世界が断絶されてしまっており、現代人を蝕む孤独や不安の根元的な理由はそこにあるのではないかと思います。その不安や孤独を紛らすために、刹那的な快感、喜悦を求めたところで、本質的な解決とはならないでしょう。

 私たち現代人に染み付いている思考、感覚を変えることは簡単ではありません。しかし、物の見方、見え方というのは、世界観を形成するうえで、とても重要な鍵を握っていることは間違いなく、視点に影響を与える表現が、鍵を握っているように思います。人間は、聞いたことよりも見たことの方を、より強く信じるようにできていますから。そのため、 今、目にくっきりと見えているものに世界を限定してしまうのではなく、見えているか見えていないかわからない微妙な”あわい”に潜む何ものかに対する想像力を喚起する映像が重要で、そうした映像が、過去と現在と未来の橋渡しになるような気がします。 そして、その委託の作法は、私にとって、ピンホールカメラの受容的な方法が適しているのです。

                                            

 

第1065回 日本の古層(13) 白川郷の伝統的家屋ー自然に対する敬虔さが反映された形

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雨の白川郷へ。台風が近づいていたので観光客は少ないと思っていたけれど、予想に反して、観光バスが何台も乗り付け、外国人で溢れていた。しかし、ピンホールカメラで長時間露光すると、動いている人は写らないので、昔のような静けさが念写される。
 白川郷の伝統的住居は、しみじみと美しい。無駄がなく、奇をてらってもいない。
 周りの風景にしっとりと溶け込んで、その存在が風景を乱すことがない。人間の知恵というのは、本物の個性というのは、たぶんこういうものであるのだろう。

 茅葺の屋根の勾配は、かなり急であるが、どの家も同じ角度で、方向も同じであり、積雪や日照や風の対して、計算し尽くされたものであろうことは容易に察しがつく。またそこまで徹底する必要があるほど、自然環境が過酷であるということも想像できる。

 実際に、この辺りでは、冬から春にかけて、平均20メートル以上の風が川沿いに吹き抜け、風速が40mにも達することが頻繁にあるという。そのため、屋根の方向を風に逆らわないように分ける必要がある。しかも、冬の間、4メートルにも達する雪が降るので、屋根に雪が積もらないように、積もってもすぐに溶けるように、急な角度で、東西に面して屋根が作られている。そのように自然環境と切磋琢磨する厳しい必然性が、長い歳月のあいだに一貫した形を作り上げ、その磨き抜かれた合理性が、いつしか美しい風情を醸し出す姿となる。

 人間が他の動物と異なるところは、環境を自分の思い通りに操作しようとする傲慢な気持ちを持つところであるが、同時に、環境に揉まれれば揉まれるほど、暮らしに磨きをかけていって、適応の術を作り出すこともできる。極寒の極北地方、灼熱の砂漠地方、また高山や熱帯雨林など、きわめて過酷な環境において、人類がしたたかに生き抜いてきたのは、自然の前に謙虚な心構えで対応しようとする適応力によるものなのだ。

 人間は、他の動物のように厚い毛皮もないし、冬のあいだ、仮死状態になって眠ることもできない。常に、弱い身体を外部環境に晒したまま、おろおろと生き続けなければならない。しかし、人間は、もって生まれた遺伝情報だけに頼らず、脳を働かせて、暮らしの形態を変化させることができる。

 ただし、その脳機能は、際限なく巨大化し、周りとのバランスを無視し、自己目的のためだけに力を発揮しようとする弊害もある。そうした脳の性質に対して、人間は、注意深くあらねばならない。

 人間にとって最も大事なことは、自らの脳力の使い道を知ることなのだ。

 白川郷の伝統的住居の、手を合わせたような屋根の形は、人間が長い歳月をかけて環境との対話を重ね、少しずつ修正しながら定まったものであり、その環境に対する敬虔さが、心に響いてくる。
 それに比べて、人間の都合だけで作り上げている現代社会の様々な物は、人間の刹那的な欲望を刺激するが、すぐに飽きられてしまい、捨てられてしまう。自然の摂理に即していないために、自然環境を損なう原因となる。
 そんな虚しいものを、現代人は、美しいとか、カッコいいと思っている。
 コマーシャルも、ファッションアートも、人の消費意欲を刺激することばかりに忙しく、人間が自分の都合に合わせて世界をコントロールできるように錯覚させるが、今回の台風のように、自然の底力は、人間に己の小ささを思い知らさせる。
 自然に逆らわずに、自然に即して生きることが、もっとも理にかなった生き方であると、昔の日本人は理解していた。
 簡単には戻れないけれど、そういう生き方や暮らし方を古臭いと忌避するのではなく、地道なことではあるけれど、その立派さを次の時代に伝えていく努力の積み重ねが、いつの日か、人間の誤った生き方の転換につながる指標になるのかもしれない。

 

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