第1104回 日本の古層vol.2 祟りの正体。時代の転換期と鬼(7)

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赤目四十八滝 【布曳滝】

 修験道の祖とされるのは、役小角634年-701年)であり、空海(774-835)より100年ほど前の時代を生きたとされる。役小角は、聖徳太子蘇我氏の時代から大化の改新白村江の戦いなどを経て天智天皇の時代となり、壬申の乱に勝利した天武天皇の時代に至る日本の大きな歴史的転換期を生きたことになる。

 仏教が本格的に国家の中心となるのは奈良時代だが、その前に日本独自の仏教である修験道が始まっているのが興味深い。

 仏教がまだ未整備だった時代ゆえに、修験道には、新しく大陸から入ってきた仏教と古代から続く日本の山岳宗教が深く融合している。

 唐に渡った空海が、わずか半年しか恵果和尚に師事していないのに仏教の本場である中国の僧侶たち以上に評価され、密教の正当な継承者と認められたのは、当時の唐で最先端仏教とされていた密教が、日本古来の山岳宗教に通じるものがあったからだろう。空海は、10代の頃から、深山幽谷に分け入り厳しい修行を行うことで、すでに密教の真理を体得するための「験力」を備えていたのだろうと思われる。

 日本の山岳地帯は、地球の深いところでマグマが冷えて固まった花崗岩などの火成岩と、火山噴火によって外に流れ出た溶岩が冷えて固まった玄武岩などの火山岩が複雑に織りなしている。それは、四つのプレートの圧力による隆起や、その圧力による地下活動の活性化による火山噴火などが、世界の中でもっとも集中した地域であるからだ。

 とくに近畿地方の中央部、宇陀や吉野から熊野にかけては、1500万年前、日本列島の西日本が大陸から引き剥がされる時の凄まじいエネルギーと、その後の悠久の時を経た風化や水の侵食で形成された、スケールが大きく変化に富んだ驚異的な光景を見ることができる。

 アメリカのグラウンドキャニオンなど雄大な風景は地球上にたくさん存在するが、吉野から熊野にかけてのように、歩き回れる狭い範囲において、繊細かつダイナミックで多彩な変化が絶えず連続する場所は、そんなにはない。

 役小角が日本独自の仏である蔵王権現を吉野の金峯寺山で創造したのは、この周辺の自然環境とは無縁ではないだろう。

 蔵王権現は、、菩薩、諸尊、諸天善神、天神地祇すべての力を包括しているとされ、仏教的には、釈迦如来と千手観音と普賢菩薩の合体を意味し、これ一つだけで、過去、現在、未来を救済する。つまり、古代から八百万の神が存在していた日本に、突然、全てを包括する絶対神が登場したようなものだ。

 日本古来の山岳信仰は,山そのものを御神体として祀ったり、神の降臨地として、もしくは神々の鎮まる霊地として山麓の住民たちに崇められた。これらの地の奇岩・滝・泉などは、修験道という信仰形態が生まれる前から神霊の宿る地として人々によって崇められていた。

 それらの山岳地帯に入り込んで修行することによって山の神の力を体得し,それを元に呪術宗教的な活動をしていた人たちもいた。それが後に入ってきた仏教の成仏観を取り入れて、衆生の救済を目指す修験道として体系が整えられていく。

 この流れは、飛鳥時代役小角から奈良時代行基、そして平安時代空海へと受け継がれていく。

 そして、彼岸と此岸の境界である山岳において修行する修験者は、境界的な性格を持つ存在としても捉えられており、山伏を天狗として怖れる信仰もあった。さらに、修験霊山には鬼の子孫と称する者もいた。

 役小角が従えていたは善童鬼(ぜんどうき)と妙童鬼(みょうどうき)という鬼は、修験道における役小角の弟子とされる。元は生駒山地に住み、人に災いをなしていた。役小角は、彼らを不動明王の秘法で捕縛した。あるいは、彼らの5人の子供の末子を鉄釜に隠し、彼らに子供を殺された親の悲しみを訴えた。2人は改心し、役小角に従うようになった。

 全国に残る鬼退治の伝承は、この役小角の物語のように、もともとは山の中で山の恩恵を受け、鉱山開発を行ったり古来からの山岳宗教に基づいて暮らしていた人たちと、里に住んで農業を営んでいる人たちのあいだで起きた軋轢がもとになっているものもあるだろう。たとえば鉄穴流しという山を切り崩して砂鉄をとる作業は、大量の土砂を里に流し、田畑にダメージを与える。

 役小角が起こした修験道は、伝来した仏教の精神を取り込んで衆生の救済を目指すものであったから、山と里の軋轢をなくすための活動も含まれていたのではないか。

 役小角の精神を受け継ぐように登場した行基は、後に聖武天皇によって日本初の大僧正となり、東大寺および大仏建造の最高責任者となるが、それまでは弾圧を受けながらも各地で仏教を布教し、その教えを広める学校、橋、ため池など公共工事に取り組み、民衆の心をつかんだ。その行基を守り、活動を支援したのが修験道者であった。

 役小角行基の活動の後を受け継いだのが空海である。

 室生龍穴神社から東北5kmほどのところに赤目四十八滝がある。

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赤目四十八滝 【荷担滝】

 室生龍穴の前を流れる室生川も、赤目の地を流れる滝川も宇陀川に流れ込み、名張川と合流し、木津川につながり淀川となって大阪湾へと注ぐ。室生龍穴も、龍が棲むとされる赤目も、淀川の源流である。

 赤目の入山口、黄龍山延寿院がある。ここに安置されている赤目不動尊は、日本不動三体仏の一つに数えられている。

 赤目四十八滝から山を一つ越えた竜口という里には、伊賀流忍術の開祖、百地三太夫の生家がある。

 赤目の長さ4kmにわたる深山幽谷の地は、数々の瀑布が龍のように躍動し、龍が棲むと言われる底知れぬ深い澤もあり、周辺の峻険な岩壁や巨岩などともに多彩で繊細でありながらダイナミックな光景が続き、まさに万物の生々流転の縮図である。

 その地勢ゆえに、ここは古より山岳信仰の聖地であった。とくに修験道者達の行場であったためか、主たる滝は、行者滝、霊蛇滝、不動滝、大日滝、千手滝など、仏教の因んだ名が多く、赤目の地全体で大日如来を中心とする曼荼羅図にも見立てられている。

 また、赤目四十八滝の48は、阿弥陀如来48願からつけられたとも言われている。  

 空海、この赤目山中の護摩窟で護摩を修したと言われ、この妖気漂う窟に、空海の像が祀られている。

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赤目四十八滝 【骸骨滝】

 赤目の由来は、役小角が修行中に赤い目の牛に乗った不動明王に出会ったとの言い伝えにあるとされるが、それとは別に、赤目の地は岩肌の赤いところが多い。古代は、辰砂(硫化水銀)や赤鉄鉱、褐鉄鉱が、ふんだんに存在していたかもしれない。

 というのは、この赤目の地は、吉野と同じく1500万年前の大爆発によってできた地勢であり、日本国内でも最も豊かな鉱脈が集中している場所に位置しているとともに、地図上の赤目の位置が、かなり意味深なものに思われるからだ。

 赤目四十八滝の入り口に位置する黄龍延寿院は、東経136.085だが、その真北に線を伸ばすと、紫香楽宮、東近江の鏡山、敦賀気比神宮である。

 鏡山の山頂には竜王社と貴船神社が鎮座し、麓には渡来系の天日槍を祀る鏡神社があり、周辺は鍛治と関わりの深いところである。そして、気比神宮が鎮座する前の海岸は、笙の川が運んできた辰砂(硫化水銀)の堆積した場所であったことが、松田壽男氏の研究でわかっている。

 そして赤目八滝の上流側、真南のところに聳えているのが高見山で、関西のマッターホルンと言われる秀麗な山は、ちょうど中央構造線上に位置し、その頂上には、神武天皇東征の際、この場所で四方を見たといわれる「国見岩」や、道案内を勤めた八咫烏を祀る高角神社がある。

 その南が、大台ケ原で、この場所と弥山、大峰山を結ぶ三角形が、空海をはじめ、修験者たちが厳しい修行を重ねてきた聖域である。

 さらに真南には、熊野市の花の窟神社が鎮座し、ここにイザナミカグツチが祀られている。

 貴船神社や室生龍穴神社の神、龗の神(おかみの神)=龍神をはじめ、火の神カグツチの誕生とイザナミの死の物語は、水銀をはじめとする鉱物資源との関わりが非常に深い。

 その花の窟神社を真西に行くと(北緯33.88)、龍神村安倍晴明社がある。この龍神村龍神温泉は、日本三美人湯とされるが、役小角が発見し、空海が開湯したとされる。空海が訪れた時、難蛇竜王が夢に出てきて、温泉場として開湯したそうだ。

 また、安倍晴明が妖怪を封じたとされる「猫又の滝」などの伝承が残っているほか、隕石が落ちた場所とされる星神社もある。いずれにしろ、村の真ん中を流れるのは丹生ノ川であり、丹と関係の深い土地であると想像できる。

 この龍神村から真西に行くと、和歌山県日高町の丹生神社であり、日高町は、熊野古道の要所で熊野参詣のために多くの人々が訪れた。九十九王子といわれ、皇族・貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験の手で組織された一群の神社があるが、この日高町に4つ鎮座している。

 そしてこの日高町からさらに真西に行くと、徳島の阿南の若杉山遺跡である。2019年3月、この場所にある水銀坑道が1〜3世紀の弥生時代のものであることが判明して歴史家たちを驚かせた。日本の鉱山の歴史が500年も遡ったからだ。

 現時点で日本最古とされる徳島の阿南の水銀の坑道のある場所が、近畿の鉱物と関係の深い聖域とラインで結ばれているのは偶然なのだろうか。

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上から気比神宮、鏡山、紫香楽宮赤目四十八滝の入り口の延寿院、高見山、大台ケ原、花の窟神社。ここから西に行くと、丹生川沿いの龍神村安倍晴明社、熊野参詣の拠点、日高町の丹生神社、四国の若杉山の水銀鉱山。その上の東西ラインは、西から高野山、天河弁財天社。

 

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第1103回 日本の古層vol.2 祟りの正体。時代の転換期と鬼(6)

 

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室生龍穴神社 奥宮


 
古代中国で、牛は神聖な生物だった。牛に対する崇拝は、「物」という漢字にも現れている。物とは万物のこと。万物は牛から始まった。ゆえに牛が偏となっている。

 また、古代において、祭祀の時に不可欠だったのが牛で、牛は生贄だった。犠牲という漢字もまた牛偏である。

 犠牲は、人間の手に及ばない厄災などを鎮めるためのものだから、最も神聖なものこそが相応しい。

 そして、”朱”という漢字は牛の腹を真っ二つに切った状態を表しており、犠牲となった牛からほとばしる血を意味している。朱は、神聖なる犠牲を意味する色なのだ。

 古代において、朱は、硫黄と水銀の化合物である硫化水銀から得られていた。

 古代中国では、水銀に”丹”という漢字があてられ、古代日本では、水銀のことを”に”と発音していたようだ。そのため、日本に漢字が輸入された時、”丹”という漢字に、”に”という音が当てられた。

 縄文時代、硫化水銀の朱色で彩色された土器や土偶が作られている。その後、古墳時代において、内壁や石棺などが朱で染められたものが現れ、朱は、古代世界において、精神的な意味を持つ色として様々な場面で使用されるようになった。

 朱色は、硫化水銀だけから得られるものではなく、ベンガラという鉄成分由来のものもある。奈良の天平時代から鉛の化合物で朱色を作り出すことが発明された。これは少し黄色がかった赤で、現代人が一般的にイメージする朱色は、この人工色であり、正真正銘の水銀の朱は、もっと血の色に近く美しい。

 古代において、水銀の朱が特別なものだったのは、この美しい血の色ゆえのことであるが、それだけではない。

 まず、水銀には防腐作用があり、そのためミイラを作る際に利用された。船底に塗ることで防水作用もあった。

 水俣病有機水銀の猛毒性が知られるようになったが、無機水銀の毒性はほとんどなく、鎮静作用があるので漢方薬で使われている。また殺菌性もあるので、たとえば水銀とナトリウムの化合物である伊勢白粉などは化粧用として有名だが、皮膚病の外用薬、シラミなどの駆虫剤としても利用されたようだ。

 さらに、鉱石から金、銀、銅などを精錬する場合に水銀は不可欠だった。 

 水銀は不思議な金属で、常温状態で液体だ。しかし水などに比べて遥かに比重が重く、重圧に強い。

 金や銀は岩石の中で不純物と混在しているのだが、その岩石を細かく砕き液体水銀と混ぜ合わせると、水銀が金や銀とだけ化合して粘り気のある物体(アマルガム)となる。

 このアマルガムを熱すると水銀だけが蒸発して金や銀が得られる。この性質を利用して仏像を黄金で覆うことができる。青銅で作られた仏像の表面を金と水銀の化合物で塗り、内側から熱すると水銀が蒸発して黄金が青銅の上に付着する。奈良の大仏はこの方法が使われ、50トンの水銀が必要だったと記録されている。

 しかし、水銀は液体状態だと毒性はないが、気化した時に毒性を持つ。そのため大仏建造時に水銀中毒が発生したようだ。

 この水銀と関わりの深いところが、丹とか丹生という地名になっており、日本各地に数多く存在している。

 古代中国においても日本の水銀が注目されていたという記録が残っているし、日本と大陸との交易において日本から水銀が輸出されていた。

 世界的に見ても、水銀鉱床は、ヒマラヤ山脈や地中海周辺、環太平洋など大きな造山地帯に集中しているようだ。その鉱床は地下の深いところまで及んでおらず、他の鉱床を伴っている場合は、上表部分に、しかも小さく存在しているだけなので規模において大きくは望めず、長期にわたって採掘が行われることは難しい。

 日本は4つのプレートが押し合う地下活動の活発なところで、とくに九州から関東まで伸びる長大な断層である中央構造線上にそって水銀の鉱床が多く見られる。

 この中央構造線は、九州からはるか西、中国の揚子江周辺の湖南省にもつながっており、湖南省は稲作地帯であるともに古代から水銀の産地で、ここから日本へと弥生文化が伝えられたと考えられている。

 中央構造線の中でも、近畿の紀ノ川下流域の日前神宮の鎮座するあたりから高野山を通り、吉野、宇陀、そして伊勢へと至る場所が、水銀の最大級の鉱脈と言える。

 そして、日本の古代史において、これらの場所が非常な重要な役割を果たしている。

 まず、飛鳥、藤原京平城京、それ以前の大和朝廷の拠点とされる三輪山の麓の纒向遺跡などが、水銀の大鉱脈を背後に位置している。

 そして、日本古来の山岳宗教と仏教が融合した日本独特の宗教である修験道の中心は、吉野から熊野にかけての大峰山系である。

 さらに、日本の宗教および精神史における巨人である空海は、10代の頃は四国の山岳地帯で修行したが、唐において密教の正当な継承者として認められて帰国した後、最終的に真言密教の中心として高野山を拠点とするが、その前に、3年間、大峰山系で修行した。そして、丹生都比売神社から神領を授かって高野山を開いた。

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丹生都比売神

 不思議なことに日本各地の丹や丹生の場所に、必ずといっていいほど空海の伝承がある。

 その空海を崇敬していた宇多法皇が、907年、上皇によるはじめての熊野御行を行い、1281年の亀山上皇までの374年の間におよそ100度の上皇による熊野御幸が行われた。修験道と関わりの深い後白河法皇は、34回も熊野詣を行っている。

 さらに、『日本書紀」によれば、吉野には、応神・雄略・斉明・持統文武・元正天皇らが行幸したとされているが、古代最大の内乱とされる壬申の乱の前に天武天皇が潜んでいた場所が吉野であり、戦いに勝利した後、皇后(後の持統天皇)と6人の皇子を伴って吉野の地に行き、吉野の盟約を行っている。その時に詠んだ歌が、万葉集にある(巻1127)。

 

淑(よ)き人の良しと吉く見て好しと言ひし芳野吉く見よ良き人よく見 

ーかの美しく賢き方が申されたように、吉野は要の地であり、良き人よ、よく心得て治めよー

 

 そして、天武天皇の意思を汲んでか、持統天皇は、その後、31回も吉野に行幸している。

 吉野から熊野にかけての地は、修験道が修行を行う宗教的な場所もしくは神仙境として憧憬される地であったが、それだけでなく実用的な地でもあった。それは、金、銀、銅、鉄そして水銀の豊かな鉱床が数え切れないほどあったことだ。

 吉野一帯には、丹や丹生という地名が非常に多く、水銀の産地であったことは間違いないが、水銀の鉱床のあるところは他の貴金属の鉱床が豊かなところでもある。

 水銀は、主に彩色に用いられる以外は、それ自体の金属的価値というより、金や銀など貴重な資源を取り出すうえで貴重な物質である。つまり森羅万象に秘められた力と人間世界とのあいだを媒介する不思議な物質であり、そこから丹生都比売という神が創造されたのだろう。

 播磨国風土記』に、神功皇后三韓征伐の出兵の折、丹生都比売大神の託宣により衣服・武具・船を朱色に塗ったところ戦勝することが出来たという話がある。

 また空海は、上に述べたように高野山の開山において、丹生都比売神社から神領を授かった。

 前回、橋姫を鬼にした貴船の神について書いたが、天下万民救済のために、天上界から貴船山中腹の鏡岩に降臨した貴船明神は、丹生大明神と御同体とされる。

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貴船神社 奥宮 相生の大杉。

 貴船明神の降臨の際にお供をした仏国童子(牛鬼ともいう)はおしゃべりで、神界の秘め事の一部始終を他言したので貴船明神の怒りに触れ、その舌を八つ裂きにされてしまった。そして貴船を追放され、吉野の山に逃げた。そこで一時は五鬼を従えて首領となったが、程なく走り帰って、密かに鏡岩の蔭に隠れて謹慎していたところ、ようやくその罪を許された。

 そういう話が、貴船神社の『黄舩社秘書』という古文書に残されており、貴船神社と、吉野の関係が伺える。

 仏国童子が牛鬼であるというのは、上に述べたように、牛が神聖なる犠牲でもあるという話にもつながる。

 また、貴船の神は、別名、龗(おかみ)の神という龍神であるが、この神は、古事記の中で、カグツチを産んでイザナミが亡くなった時、怒りのあまりイザナギカグツチを斬り殺し、その際、太刀の剣の柄に溜つた血から生まれたと伝えらえる。

 古代中国の殷の時代、「戈」(ほこ)という武器の刃の部分に”朱”が塗られた祭祀のための遺物があるが、太刀とカグツチの血のイメージが重なる。

 貴船神社の祭神の龗(おかみ)の神は、現在では水神とされているが、もともとは、血のイメージとつながる水銀の神であろう。だから貴船山の鏡岩に降臨した貴船明神(丹生大明神と御同体)と重なるのだ。

 水銀鉱脈が豊かな吉野、宇陀の地の室生龍穴神社は、貴船神社と同じく龗の神を祀り、その奥宮にあたる吉祥龍穴は、貴船神社の奥宮の龍穴とともに、日本三大龍穴の一つとされる。

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室生龍穴神社 奥宮 吉祥龍穴

 吉野から宇陀にかけての一帯は、室生火山群と呼ばれ、1500万年前の大爆発があったところである。

 その大爆発は、大台ケ原あたりを中心にした超巨大爆発で、それは現在の私たちが見るような火山の噴火のレベルを超えて、火砕流堆積が四百メートルの厚さに及ぶものだったらしい。そして火山灰などが固まった凝灰岩など柔らかい部分はその後の侵食で流されて、今の地形ができたようだ。

 そして、特に吉野から宇陀にかけては、鉱脈が豊かで、自然水銀や朱色の硫化水銀(辰砂)が露頭し、古代、ヤマト最大の水銀鉱床だった。

 吉祥龍穴を棲み処としていたとされるのが善女竜王で、善女竜王は、高野山の麓の丹生都比売神社にも祀られている。

 平安初期(824)、京都の神泉苑空海が祈雨の祈祷をした時、勧請したのがこの善女竜王だった。

 吉野一帯は、鬼の棲家であるとともに龍神の潜むところで、空海や、役小角など修験道者にとって最大の行場であった。そして、天皇上皇が、たびたび訪れた場所だった。

 鉱物などの資源が豊かだっただけでなく、1500万年前の大噴火が作り上げた繊細かつダイナミックな光景が、生命エネルギーを覚醒させ、人間分別には収まりきらない森羅万象の根本原理を悟らせるのだろうか。

 役小角が吉野の金峯山で示現させた蔵王権現は、日本独自の神仏で、、菩薩、諸尊、諸天善神、天神地祇すべての力を包括しているとされ、仏教的には、釈迦如来と千手観音と普賢菩薩の合体を意味し、これ一つだけで、過去、現在、未来を救済する。

 その形相は、激しい忿怒相で、怒髪天を衝き、まるで鬼である。

 

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東から伊勢斎宮、御壺山、倶留尊山、室生龍穴神社 奥宮、三輪山二上山大鳥神社と続く北緯34.5度のライン。30年ほど前、太陽神の祭祀との関係が強いラインとしてNHKでも取り上げられた。その後、真弓常忠氏が、太陽祭祀というより鉄との関係が強い場所が結ばれていると指摘した。当時は、室生寺がそのライン上にあると説明されたが、正確にはそうではなく、室生龍穴神社の奥宮の位置の方があっているし、時代的にも相応しい。太陽祭祀か鉄ということではなく、そのどちらにも関係している。鉄に限らず、このラインの周辺は鉱物資源の宝庫であるが、鉱物資源の開発は環境破壊や争いのもとになる。この地帯の東西の同緯度に聖域を置いたのは、龍神など山を支配する神と太陽運行の規則性を重ね合わせて祀ることで、恵みと咎のバランスをとることが必要だったのではないだろうか。

(つづく)

 

 

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第1102回 神話のわかりにくさの背後にあるもの。

日本神話に出てくる神や天皇の名前は、長くて、わかりにくくて、覚えにくい。そして、名前ばかりが連なっているところもあり、筋がぼやけてしまう。
 でも、これはきっと、わざとそうしている。
 20歳の時、大学を辞めて2年間ほど諸国放浪したが、リュックサックの底に聖書と資本論を数冊入れた。この二つが好みの本だったわけでなく、逆に苦手だったからだ。
 当時、インターネットのない時代で、日本を離れたら日本語の活字に触れられることはないだろうと思っていた。実際にそうで、旅の途中、話し相手も含めて日本語が恋しくてしかたなかった。
 聖書と資本論をリュックに入れたのは、持っていける本の量が限られているので、一度読んだら終わりというものではなく、何度も読み返せるものをと思ったからだ。 
 旧約聖書の『創世記』は、ふだんの生活の中でなら不毛としかいえない内容で、敬虔な信者ですら、毎日、少しずつ読むことなんてないだろう。しかし、旅の途中、私は他に読む本もなかったので、『創世記』の部分を何度も開き、これはいったい何を言わんとしているのかと想像していた。
 内容が象徴的で、アダムとイブからアブラハムの時代まで、数字が無数に重ねられている。何年生きて子供を産んでその後何年生きて死んだの繰り返しだ。しかも、それぞれ登場する人物にあてはめられる数字が百年を超えているのでリアリティがない。
「アダムは百三十歳になって、自分にかたどり、自分のかたちのような男の子を生み、その名をセツと名づけた。アダムがセツを生んで後、生きた年は八百年であって、ほかに男子と女子を生んだ。 アダムの生きた年は合わせて九百三十歳であった。そして彼は死んだ。セツは百五歳になって、エノスを生んだ。 セツはエノスを生んだ後、八百七年生きて、男子と女子を生んだ。セツの年は合わせて九百十二歳であった。そして彼は死んだ。・・・」
 ざっとこんな感じが続く。
 しかし、毎日見ているうちに妙なことに気づいた。それぞれの人物は子供を産んだ後の年月が異様に長いのだ。アダムの場合は800年、セツの場合は807年。最初は気の遠くなるような数字の羅列に思われたが、それぞれの人物において子供を産んだ後の歳月は、何年生きたと表示されていても無視していいんじゃないかと気づいた。
 子供を産んだ時から次の時代は始まっているのだから。
 それに気づいて、それぞれの人物が子供を産むまでの歳月だけを足していったら、アブラハムの誕生まで1948年だった。
 それをする前は、子供を産んでから生きたという807年とか800年という無数の巨大な数字が壁になっていて、計算しようなどという気持ちになれなかったのだ。
 しかし、そのフィルターを外したら、意外と計算は簡単で、アダムとイブからアブラハムまで、1948年というわりと現実的な数字でおさまった。
 アブラハムは、ソドムとゴモラの時代、神に救われる道を示した人物で、イエスキリストも人々に説教するたびに、彼より約2000年ほど遡るアブラハムのことを引き合いに出している。アブラハムは聖書の中でもっとも重要な人物なのだ。
 そして、その頃の私は、パレスチナ問題に関心を持ってイスラム諸国を巡っている時だった。チュニジアに滞在していた1982年の夏、イスラエル軍によるレバノンベイルートへの激しい爆撃が行われた。
 そのイスラエルが強硬な手段でパレスチナの地に独立したのは西暦1948年だ。それは、創世記の暗号に散りばめられた数字から浮かんだアブラハムの誕生の数字と同じで、私は愕然とした。
 これはミステリーでもオカルトでもなく、狂信的なシオニストたちは、この創世記の謎の数字の暗号解読を当たり前のようにすませているだろうと思った。
 20世紀に入り、世界中に離散していたユダヤ人が、3000年前のダビデとソロモンの栄華の地、パレスチナに帰還する壮大な計画を建て実行していったわけだが、それを実現するためには、壮大な計画に応じた壮大なビジョンとモチベーションが必要だ。
 シオニストたちは、彼らの聖典の核心にあたる部分と、自分たちの宿命を重ね合わせた。
 シオニストにとって20世紀のイスラエル建国は、4000年前、神に選ばれたアブラハムと同等の価値あるものでなければならない。
 こうした壮大なビジョンを時代を超えて伝えていくためには、誰にでもわかるようなハウツーブックで示すわけにはいかない。
 誰にでもわかるようなものは、安易な気持ちで手を出す人も大勢いて、安易な気持ちで歪めてしまい、安易な気持ちで拡散させるからだ。今日の大衆マスメディアの報道や、ツイッターなどの情報拡散がその典型だ。
 多くの人が関心を持つものの価値が高いというのは20世紀の大衆社会の人間が陥った最大級の錯覚で、歴史を振り返ってみても、そういう安易なものが次の時代にきちんと伝わっていったことはない。
 放浪を終えて日本に帰り、聖書の「創世記」から獲得したイメージと歴史認識を400枚ほどの原稿にまとめた。そして当時、世の中でもっとも評価されていた批評家が、「マスメディア論」なるものを上梓していたので、若干22歳、若気のいたりの私は、彼のところに強引に押しかけ、原稿を渡した。
 そして数週間後、再び会いに行ったところ、とりあえず話をしようということになって話をしたら、「きみは巨視的すぎる。デカルトを語る場合は、デカルトの研究者が日本には最低10人いて、それぞれが全集を出しているからそれを全部読んでから来い」と一蹴された。
 当然、私が書いたものは読んでくれていなかった。
 宗教戦争の時代に生きて後の科学的思考につながる道筋をつけたデカルトへの敬意はあっても、その研究者になるつもりはなかったので、2度と彼のところには行かなかった。
 それはともかく、中国の老荘思想なども、誰にでもわかるものではないけれど、2000年の歳月を超えて現代でも多くの読者がいる。
 ”わかりにくさ”の壁は、大衆マスメディアのように冷やかし気分で関わってくる大勢に真実を歪められないための一種のフィルター装置でもある。
 私は、若い頃の「創世記」体験があるので、神話に触れる時は、ただ言葉を追うだけのことをしない癖がついた。
 わかりにくく書かれていれば、わざとそうしているのだろうと思うようになった。そして、なぜそうしなければならないのかを考える癖がついた。
 もちろん、わかりにくさにも二つのタイプがあって、一つは、それを記述している当人が物事をきちんと把握できていない状態で記述している場合。それを書いている当人がわかっていないのだから、読み手に何も伝わらない。下手くそな翻訳は、そうなっている。語学力の問題ではなく、原文の文脈が読み取れていない翻訳者が翻訳するとそうなる。
 わかりにくさの背後にある真実は、それを記述している人間が、あえてそうしなければならない理由も含めて物事の道理を理解している場合にのみ存在する。
 たとえば、ものづくりの匠とか武術の達人が、その極意を弟子に伝えていく場合に、そうなる。
 このたび私が作った「Sacred world 日本の古層Vol.1」には神様の名前がたくさん出てくる。
 それらの名を覚えたり理解しなければならないという感覚が、現代人特有の強迫観念であり、それらの名がほのめかすものをぼんやりと想像して、何かしらの気配みたいなものを感じるだけで十分なのだ。
 写真をピンホール写真にしているのも、見るための対象ではなく、眺めるための対象だからだ。
 現代を生きる私たちにとって古代世界は、決して見ることができないもので、いくら実証主義を重ねても、そのままリアルに再現できるものではないし、それができると思っている人は大事なことを何もわかっていない。
 再現することより、想像すること、そして何かしらのものが今を生きる自分にもつながっていると感じられることこそが大事なのだ。
 歴史というものは、リアルに実証できる形で後世に伝えられていくものではない。むしろ、誰にでもわかるような具体化は、何か大事なものが抜け落ちていても気づきにくくするわけで、真実はその時点で歪められてしまう。
 どんな具体化であっても、”仮”のもののはずなのに、”仮”であることを忘れ、それが正しい答えだと思ってしまう。
 今回のパンデミック騒ぎのこれまでにない特徴は、コンピュータによる計算が重く用いられたことだが、計算式にあてはめるデータというのは、どんなに厳選したとしても、仮のものでしかない。(感染率の伸びのシミュレーションにしても、致死率の計算にしても、データを得た時の状況に左右されるし、データ化されていない実態がどれほどあるかわからない)。にもかかわらず、そのデータを仮では実として扱ってしまい、計算式は複雑でいかにも専門家の装いだけれど、出てくる答えは誰にでもわかる数字というパフォーマンスに、人々が踊らされてしまった。
 どんな現象や情報でも、私たちに伝わっているものは、仮のものである。仮のものであるという認識を忘れさせないためにも、あまり安易にわかりやすいものにしてしまってはいけないのだ。秘伝を伝授する人は、そのことが痛いほどわかっている。
 古代世界は、実証的に精密に見なければならないものではなく、眺めるように感じるものであり、たとえ明確にわからなくても何か大事なものを感じられるかどうかの違いこそが大きい。
 その”あはひ”に耐えうる心の許容量が重要で、何事も白黒はっきりとさせないと気がおさまらないのは、意思がはっきりしているのではなく、ものごとの”間”の重要さを知らず、曖昧な状況に耐えうる心のトレーニングができていないだけなのだ。
 芭蕉が生きた時代から現代まで300年ほどしか経っていない。その芭蕉が師と仰いだ西行は、芭蕉の500年前に生きた人物だ。
 芭蕉は、西行が残したものの背後に、何か大事なものを感じていた。その大事なものが誰にでもわかるように大衆化されていれば探求の心も起きない。だから、師と仰いでその背中を追うこともなかっただろう。
 探求の心は、今の自分には届いていないものがそこにあることを感じながら、それを眺めるように心に思い描きながら歩み続けること。その歩みのプロセスが人間を深める。
 だから大事なものを後世に残す際は、答えをわかりやすく残すのではなく、その探求の心を維持し続けられるように設定する。
 おそらく世界中のどの神話も、安易に消費されず長く語り継がれてきているものは、そうなっている。

 

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第1101回 日本の古層vol.2 祟りの正体。時代の転換期と鬼(5)

かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀と滑った 後ろの正面だあれ?

  

 表の裏は表である。

 表の裏のまた裏は表であるというのは、本来は一のものを二つに分ける現代人の合理的な分析だが、表の裏が表であることがわからないと、日本の古代は解けない。

 今では縁結びの神として人気がある京都の貴船神社は、縁切りの聖所でもある。

 丑の刻に、藁人形を呪いたい人に見立て、神木に釘を打ち込むという丑の刻詣りの発祥の地とも言われている。

 その起源は、社伝によると、神武天皇の母の玉依姫(たまよりひめ)が黄船に乗って浪速より淀川に入り、鴨川からさらに貴船川をさかのぼり、ついに貴船の地に到り、祠をまつったのが起こりとされ、貴船神社の奥宮には、その玉依姫の黄船を石垣で囲ったと言う船形石が今も残る。

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貴船神社奥宮の船形石。神武天皇の皇母・玉依姫命が大阪湾から黄色い船に乗り、淀川・鴨川をさかのぼり、その源流である貴船川の上流のこの地に至った。その黄色い船(きふね)は人目に触れぬよう石で包まれ、船乗り達から「船玉神」として信仰されてきた。

  玉依姫が乗ってきた船ということだが、事情は複雑だ。

 玉依姫は、神話のなかでは竜宮の出身であり、日本各地で龍神を束ねる海神族の祖先とされ、また姫自身も龍神として崇められている。

 なぜなら、玉依姫というのは、神話のなかで、山幸彦と結ばれた海神の娘、豊玉姫の妹という設定であり、豊玉姫が生んだウガヤフキアエズの育ての親で、にもかかわらずウガヤフキアエズと結ばれ、初代神武天皇を産むのである。

 玉依姫ウガヤフキアエズを育てるきっかけは、豊玉姫がお産の時、夫の山幸彦が約束を破って覗き見をしてしまい、正体であるワニの姿を見られたことを恥じた豊玉姫が子供の残して竜宮へと去り、妹の玉依姫に、ウガツフキアエズの養育を頼んだからだった。日本の天皇家のルーツにはかくも複雑な事情があるということを、神話は敢えて記している。なぜそう表現する必要があったのかは、現代人にとっても考えるに値することだ。

  日本の皇室の起源および貴船神社の起源に、龍神玉依姫が存在している。

 竜は単なる水の神ではなく、天候を左右する力があると信じられていた。

 竜は雲をあやつり風を起こす。竜が回転して躍動すると竜巻となり、海の水も天空へと吸い上げる 雨は、そうした竜の力によって地上に降る。竜は、風を操り雲を操り、雨を降らせる。だから古代から、雨が降らないと竜に祈り、雨が降りすぎても竜に祈った。竜は、結果として祈雨と止海の神としても崇められることになっただけで、もともとは水神ではない。

 玉依姫と関わる京都の貴船神社の祭神は、龗(おかみ)の神である。そしてこの神も、当然ながら竜神である。神話の解説書などで龗(おかみ)の神は水神であると定義されているが、そんな生易しいものではない。

 龗の神(竜神)は、日本神話において、伊邪那岐神が、火の神カグツチを斬り殺した際、十握剣の柄についた血から生まれた神であり、誕生の時から妖しい宿命を背負っている。

 龗の神(竜神)を祭神とする貴船神社を舞台とする「鉄輪」(かなわ)という恐ろしい能があるが、この能の元になっているのは平家物語の 「剣巻」で、その内容は次のようなものだ。

 嵯峨天皇の時代、一人の嫉妬深い貴族の娘が、貴船神社に7日間籠り、自分を生きながらにして鬼神に変え、夫を奪った妬ましい女を殺させて欲しいと祈り続けた。

 貴船神社の神は、本当に鬼になりたければ、姿を整えて宇治川へと向かい、37日間、水の中に身を浸せと神託を与える。

 女は悦び、誰にも見られないように、長い髪を5つに分け、5つの角を作った。そして顔には朱を塗り、全身を丹(硫化水銀)で赤く染め、頭に鉄の輪を被り、その三箇所に火をともし、二本の松明に火をつけて口にくわえ、夜更けに大和大路を走って南へと向かうと、頭より5つの火が燃え上がり、眉が太く、歯は黒く、顔も全身も赤い姿が、まるで鬼のようで、これを見た人々は、恐ろしくて気を失って倒れ、死んでしまう人もいた。そのように宇治川へと到り、37日間、川の水に身を浸し、貴船の神の計らいで、生きながら鬼となった。宇治の橋姫とは、この鬼のことである。

 宇治の橋姫は、古くから様々な歌や物語の中に登場する。

 『源氏物語』においては、それまでの主人公の光源氏が、最愛の女性、紫の上の死後、幻のように姿を消してしまい、新たに彼の子供達の物語である宇治十帖が始まるが、その最初が、「橋姫」の帖である。

 この帖の主役は、光源氏の息子の薫である。しかし、光源氏は薫の本当の父親ではない。

 光源氏の実際の息子は、光源氏の愛人の六条御息所の嫉妬が怨霊となったことで呪い殺された葵の上とのあいだにできた夕霧であるが、その夕霧の友人の柏木と、光源氏正室である女三宮との姦通によって生まれたのが薫であった。

 光源氏の最愛の女性、紫の上には子供が生まれなかった。そして女三宮朱雀天皇の娘で、朱雀天皇の懇願によって、光源氏は彼女を正室として迎え入れたのだった。

 その女三宮が、自分の息子の夕霧の友人である柏木と姦通して子供が生まれたことを知った光源氏は、宴席で柏木に皮肉を言う。柏木は恐怖で自失し、心を病み、死の床につく。

 『源氏物語』第45帖、すなわち宇治第1帖の「橋姫」で、このように呪われた男女関係の結果として生まれた薫が、自らの出生の秘密を知ることになる。そこに、堅物とされた薫の最初の恋が重ねられていく。薫が尊敬する皇族、八の宮が静かに暮らす宇治に通ううちに、薫は、八の宮の娘に心惹かれていく。

 『源氏物語』の宇治第1帖のタイトルが「橋姫」となっているのは、次の歌による。

 橋姫の 心をくみて 高瀬さす 棹(さお)のしづくに 袖ぞ濡れける

 この歌は、「宇治の橋姫のように宇治の地の暮らしで淋しい思いをしているであろう姫君(八の宮の娘たち)の心を思い、自分も、浅瀬にさす舟の棹の雫に袖を濡らすように、 涙で袖を濡らしている。」と研究者が訳しているが、橋姫の心と、恋愛に苦しんでいるわけでもない八の宮の娘を重ねるのは、どうにも違和感がある。 

 橋姫の複雑な心は、薫の複雑な心であると素直に解釈した方がいいのではないか。

 世の中には、天変地異だけでなく、紫の上のように子供が欲しいのにできなかったり、光源氏のように最愛の人に先立たれたり、挙句の果てに妻と他の男性とのあいだに子供ができて、それを自分の子として育てたりと、自分にはどうすることもできない不条理があり、生きていくことが不安定なものにならざるを得ないが、自分の心さえ、自分ではどうにもならなくなってしまう時がある。嫉妬や姦通、そして呪いが嵩じて鬼にもなる。

 薫は、形の上では光源氏という権力者の息子になっているが、実際の父と母のことを思うと、人には言えない複雑なものがあったろう。

 さて、橋姫は、鬼であるが、同時に、祓いの神である。

 日本の歴史は、この表裏の関係があるから、現代人にとって非常にわかりずらくなる。

 表の裏が表なのである。表の裏のまた裏が表だという現代人の合理的分析では解けないのが、日本の古代なのだ。

 鬼は、イコール神である。最高神アマテラスでさえ同様である。

 宇治の橋姫神社に祀られているのは瀬織津姫であり、瀬織津姫、その水の流れで人間についた悪縁や苦しみ、罪を洗い流し、河口まで運んでいってくれる神である。

 社伝によれば、宇治の橋姫神社の瀬織津神は、646年、宇治川上流の佐久奈度神社から勧請された。

 佐久奈度神社は、琵琶湖から流れ出た水が、大きく湾曲する岩盤地帯にあり、急流が、まるで竜のように激しくうごめき岩にぶつかる場所に鎮座しているが、この場所は、「中臣大祓詞」の創始地とされる。

 大祓詞は、もともと6月と12月の末日に、罪や穢れを祓うために唱えられていた祝詞であるが、中臣大祓詞というのは、都の朱雀門の前に、王や貴族や官僚や周辺の里人が集まり、中臣氏によって罪や穢れを祓うために詠まれた「大祓詞」のことである。

 この時に詠まれた大祓詞は、平安中期に編纂された延喜式にも記載されていて、現在でも見ることができる。

 応仁の乱で、京都が焼け野原になった後は途絶えていたが、1871年に、明治天皇によって400年ぶりに復活し、現在でも宮中や全国神社で行われている。

 その中臣大祓詞において重要な役割を果たしているのが瀬織津姫である。

 「高い山や低い山の末より、佐久奈度に落瀧てくる速川の瀬に座す瀬織津姫が、罪や穢れを大海原に持ち出してくれる」と、大祓詞で、唱えられる。

 この瀬織津姫が、宇治の宇治橋に勧請されて橋姫と同体となり、この橋姫に倣って、伊勢神宮の内宮の入り口にかかる宇治橋の手前200mのところに饗土橋姫神社が創建された。「饗土」とは、疫病神や悪霊などの悪しきものが入るのを防ぐために饗応の祭りを行う土地を意味する。

 宇治川で鬼となった橋姫には、さらなる伝説がある。

 貴船神社の神の力で鬼女となった橋姫は、妬む女を殺し、その親類を殺し、誰彼かまわず殺しながら、延々と生き続けていた。

 そして、長い歳月を経て、この鬼と一条戻橋で出会ったのが渡辺綱渡辺綱は、紫式部と同じく藤原道長に仕えていた源頼光清和源氏の基礎を築いた源満仲の息子で多田の地を拠点とし、多田銀銅山の開発も行っていた)とともに、京丹後の大江山の鬼退治を行った頼光四天王の一人である。

 渡辺綱に家まで送ってくれるよう頼んだ橋姫は、突然、鬼女に変幻し、綱を掴んで舞い上がって愛宕山に連れ去ろうとするが、綱は、北野天満宮の上空で、持っていた太刀で鬼女の腕を切り落とした。

 愛宕山は、前回の記事でも書いたように、イザナミを殺し、恨みや祟りの起源となったカグツチを祀る山であり、そこが鬼女の住処ということになるだろう。橋姫という鬼を生んだ貴船神社の龗(おかみ)の神(竜神)は、イザナギに斬られたカグツチの血から生まれた神である。そして、渡辺綱がかろうじて鬼から逃れた北野天満宮は、菅原道眞の祟りを鎮める場所である。

 さらに伝説は広がり、渡辺綱に斬られたこの鬼は、実は、源頼光とともに大江山の鬼退治をした時に、唯一生き残った茨城童子であるともされる。

 大江山は、古来から鉱山で知られるところであり、鬼退治のために源頼光が選ばれたのは、多田の地の鉱山経営で、その分野に深く通じていたからだともされる。

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京丹後の鬼退治の舞台、大江山皇大神社。アマテラス大神が降臨したと伝わる日室岳の遥拝所。

 また渡辺綱は、嵯峨源氏の祖で「源氏物語」の光源氏のモデルの一人とされる源融の玄孫であるが、生まれてすぐに父が亡くなり養子となる。その養母の実家が淀川の渡辺津であり、そこに移り住んで渡辺姓となり、後に源頼光に仕えることになる。

 渡辺津というのは、淀川の河口にあった港町で、瀬戸内海の海上交通によって物資が運ばれ、荷揚げされるところだった。

 古代は、難波京が置かれ、後に石山本願寺、そして大阪城が築かれたところである。

 そして、現在は、奈良盆地を抜けて大阪の応神天皇陵など巨大古墳のある藤井寺の近くを通って西に流れて海へ注ぐ大和川は、古代、藤井寺あたりから北上し、この渡辺津で淀川とつながっていた。

 すなわち大和川は、奈良と大阪をつなぐ大動脈だったが、相次ぐ洪水によって、1703年、大工事によって大和川の流れは変えられ、淀川とつながらず西向きに流れるようになったのだ。 

 渡辺綱が生きていた頃、彼が拠点とした淀川の渡辺津は、大和川とも合流する場所であり、京都や奈良と大阪をつなぐ水上交通の要だったのだ。

 渡辺綱の子孫は渡辺党と呼ばれる武士団に発展し、港に立地することから水軍として日本全国に散らばり、瀬戸内海の水軍の棟梁となった。

 渡辺党の武士は、摂津源氏源頼政の兵力の主力として保元・平治の乱を戦い、宇治川合戦の際にも平氏の大軍に対して勇猛果敢に戦った。また、源平の戦いで源義経屋島の戦いに挑む際、渡辺党に助けられて兵力を整えたことも記録されている。

 渡辺津は、経済や軍事のみならず、宗教的にも重要な場所であった。京から四天王寺住吉大社、熊野へ詣でる際は淀川からの船をここで降りていたため、熊野古道もこの渡辺津が起点だった。後にこの場所に石山本願寺が築かれ、浄土真宗の本拠となり、織田信長と激しい戦いが行われた。

 源頼光は多田銀銅山の鉱物資源に通じており、渡辺綱は水上交通に通じていた。

 この二人が中心になって、酒呑童子という京丹後の鬼退治が行われた。

 神話や伝説の記述はシンプルであるが、その記述の背後に秘められた文脈、歴史的事情は、かなり怪しく意味深なものがある。

                                 (つづく)

 

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第1100回 日本の古層vol.2 祟りの正体。時代の転換期と鬼(4)

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伊賀の鍛冶屋にある山神遺跡の磐座。巨石の前面から古墳時代の土師器片と推定される遺物が見つかっている。この遺跡の東3kmのところに木津川が流れており、すぐ近くに元伊勢とされる猪田神社が鎮座する。このあたり、伊賀の鍛治拠点の一つと考えられる。

 今から2500年ほど前、大陸から米作りや、それにともなう技術、道具を日本にもたらした人々がいた。

 中国の江南、揚子江の流域の呉や越から、中国の大乱、春秋戦国時代の時の亡国の危機の最中に日本へと逃れてきた人たちがいたと考えられている。

 日本にとっても大きな変革期となるこの時、日本列島と中国大陸のあいだで活躍していた海人が、その仲介役を担っていた。

 揚子江流域は、稲作地帯であるとともに日本の中央構造線の延長線上で鉱脈が多く、古代から水銀の産地としても知られていた。水銀は金属を鉱石から重要鉱物を分離する冶金に用いられたり、赤い硫化水銀は染色に用いられる。

 弥生時代の始まりにおいて、日本に稲だけがもたらされたはずがなく、米作りに必要な道具も一緒に入ってきただろう。

 しかし、これまでの歴史の教科書では、弥生時代、日本の至るところから鉄製品が発見されていても、日本にはそれらを作る技術はなく輸入に頼っていたとされていた。日本国内で鉱山が奈良時代のものまで発見されていなかったからだ。

 しかし、2019年3月、徳島の阿南市にある古代の水銀鉱山から、弥生時代後期(1~3世紀)とみられる土器片がみつかり、歴史を大きく書き換える必要が出てきた。なぜなら、この発見まで歴史学者のあいだでは、卑弥呼の時代(紀元3世紀)も、大和朝廷の拡大期においても、日本には鉱山技術はないとされていたからだ。

 もちろん、異端説として、そうした歴史学の権威の説を疑う人たちもいた。

 たとえば、真弓常忠氏(1923年ー 2019年4月)はその一人だが、真弓氏は、専門が考古学ではなく祭祀を通して日本文化の形成過程を明らかにしようとする人だったので、考古学中心の歴史学の権威からは、その説は無視されていた。

 真弓氏は、奇しくも、2019年、徳島の若杉山鉱山が弥生後期のものだと明らかになった1ヶ月後に亡くなられたので、鉱山技術と鉄など金属の関係を説いていたのではなかった。

 真弓氏が説いていたのは、鉄は鉱山から得られるものとは限らないということ。中央構造線近くなど地下活動が盛んで鉄の含有量の多い地域にある湖沼などの水に鉄成分が溶け込み、その鉄分が、湖沼に生い茂る葦などの植物が出す酸素と化合し、バクテリアの作用などによって鉄塊となり植物の根のまわりに付着して大きくなっていく。これが褐鉄鉱(水酸化鉄)だ。褐鉄鉱は、400度くらいの温度で溶融するので型に流し込めば道具ができる。縄文土器の野焼きは700度くらいからなので、もしかしたら縄文時代から褐鉄鉱を使った道具づくりを行っていたのではないかと真弓氏は考えた。残念ながら鉄は酸化しやすい金属で、水分に触れると腐食して崩壊して後に残らない。そのため証拠を見つけるのが難しい。

 証拠がないと歴史学の権威は認めない。不幸なことに、そのように学問は遅滞し、形骸化する。

 敢えて”形骸化”という言葉を使うのは、証拠探しが学問になってしまっているからだ。証拠探しの学問における正しさは、次の証拠が見つかるまでの猶予期間でしかない。つまり後になって間違いだったとわかることを、正しいこととして受け入れるしかないのだ。

 正しさというのは一体なんだろう?

 たとえば神話に描かれている人物が、実在したかそうでなかったの論争は、真の意味での正しさにつながるのか?

 神話を疑う学者は、神話上の人物が存在しないという証拠になりそうなものを集めて存在しなかったと結論づける。それで終わりである。ではなぜ神話のなかにそうした話があるのかという問いに対しては、「作り話である」と答えてやり過ごすことになる。

 神話の中で名付けられている存在が、実際に生きていたかどうかは大きな問題ではなく、それがたとえ何かの象徴であっても、そのことを書き留める必要性がどこにあったのかを解いていかなければ歴史の理解は深まっていかない。

 鬼退治という伝承があれば、実際に鬼がいたかどうかが問題なのではなく、その伝承が後世に何を伝えようとしているのか、その背景にどういうことがあったのか、その本質を想像し、考えなければ、今につながる生きた歴史にならない。

 菅原道眞の祟りにしても同様である。

 弥生時代の黎明期、中国から日本に新しい文化が伝えられる時、その仲介的な役割を果たしていた海人は、後に安曇氏と呼ばれるが、数十年、数百年のあいだ、様々な婚姻を繰り返しているうちに、その経験と情報を受け継ぐ形で様々な氏族が派生していったものと考えられる。古代から京丹後の籠神社の神官をつとめてきた海部氏や、その同族とされる尾張氏なども、そうだろう。

 いずれにしろ、最初に中国からの技術者や知恵者とともに、稲の耕作に適した地と鉱物資源を求めて時間をかけて日本を西から東へと進んでいった人たちがいなければ、日本の隅々まで米作りを軸とした新しい文化が広がることはなかった。

 そして、道具づくりのための鉱物資源に関しては、揚子江流域の湖南省の地脈の延長である日本の中央構造線にそって進んだと思われる。中国での経験を持つ人たちが、土地の特徴から有力な鉱床を見極めることができるからだ。もしかしたら縄文時代に、すでにそうした場所は発見されていたかもしれず、神話上の猿田彦のように後からやってきた人たちの案内役になった人たちもいるかもしれない。

 中央構造線は、九州の高千穂から、四国の剣山、和歌山の紀ノ川河口域にある日前神宮高野山伊勢神宮、愛知県の豊川稲荷豊橋、そこから少し北上して諏訪大社秩父、茨城の鹿島神宮へと至る。いずれも鉱脈のあるところで、そのラインにそって聖域が並んでいる。

 たとえば和歌山の日前神宮から高野山伊勢神宮に至るラインは、水銀の鉱床で知られ、鹿島神宮のある茨城の海岸は砂鉄の宝庫である。

 また、愛知県豊橋の高師という場所は、上に述べた褐鉄鉱が発見されたところとして有名で、その近くから銅鐸も発見されている。この褐鉄鉱は、豊橋の高師原という場所で、土が雨で流された後に露出しており、その様子が幼児や動物に似ていることから高師小僧と名付けられた。

 真弓常忠氏が、鉱山開発の前の鉄製品製造の材料として指摘した褐鉄鉱は、日本の他の場所でも発見されている。しかし、有望な資源であるならば取り尽くされてしまった可能性もある。

 たとえば、近江の日野の別所では、天然記念物に指定された巨大な褐鉄鉱が発見され、伊賀の服部川流域の真泥でも発見されているが、この二つの場所には共通点があり、いずれも原初の琵琶湖があったところだ。琵琶湖は世界で3番目に古い淡水湖だが、ずっと今の場所にあったわけではなく、約500万年ほど前から地殻変動のたびに移動を続けてきた。その最初の場所が、伊賀の服部川流域で、その後、甲賀や日野の地を通って北上していった。

 伊賀と甲賀は忍者で有名だが、伊賀焼きと信楽焼という古くから陶芸の産地としても知られている。その理由は、原初琵琶湖の湖底の泥が良質な陶芸づくりのために適しているからだ。

 伊賀から甲賀花崗岩の山々に囲まれた盆地であり、風化した花崗岩が川に流されて古代の琵琶湖の底に蓄積していた。花崗岩には鉄分や石英や長石が多く含まれているが、これらの物質を含んだ粘土は高温の熱に耐えることができる。すると釉薬を使わなくても、赤みのある鉄の色、炎と薪の灰の効果、粘土に含まれる石英や長石の溶融などで素晴らしい窯変が起こる。人間の計算を超えた奥深い美が、千利休など中世の茶人に愛された理由だった。

 また、伊賀や甲賀に褐鉄鉱(水酸化鉄)が存在していた理由は、周辺の花崗岩の山々から豊富な鉄分が水に溶け込んで原初の琵琶湖に流れ込み、湖に生い茂っていた葦などの水中植物が光合成によって生み出す酸素や鉄バクテリアの作用で水酸化鉄となって固体化していたからだと思われる。

 原初の琵琶湖には象やワニなどの動物も数多くいた。なぜわかるかと言うと、それらの生物の足跡が、伊賀の服部川甲賀野洲川の流域など琵琶湖が移動していった場所の至るところで発見されているからだ。

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伊賀の服部川流域、真泥の地に残る象やワニの足跡。

 なぜ生物の足跡が発見されるかというと、湖の沼地を象やワニが歩き回っていた後、足跡が消える前に火山の爆発があったからだろう。足跡の上に火山灰が厚く降り積もって覆い尽くしてしまい、その後の数百万年のあいだに足跡のあった部分の上は灰が降り積もった凝灰岩の地層になった。そして、足跡の部分は、花崗岩の成分が混じった硬い地層になった。その数百万年後、服部川などの侵食作用によって柔らかい凝灰岩の部分が流されることで、足跡のある硬い部分の地表が現れた。今でも伊賀の服部川流域では、原初琵琶湖の湖底地層が確認できる。

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服部川の川底に、原初の琵琶湖の固定の地層が確認できる。

 また生物の足跡の地層には火山灰で埋め尽くされた褐鉄鉱(水酸化鉄)も大量に存在していたのではないかと思われる。服部川の侵食によって、生物の足跡とともに褐鉄鉱も地面に現れていた。その褐鉄鉱を鉄製品の材料に使えることを知った人々によって、その大半が取り尽くされた。私たちの時代に発見されたものは、その時代にはまだ凝灰岩の下に埋まっていて、その後、川の流れが変わるなどの侵食作用によって隠れていたものが外に出てきただけかもしれない。

 古代から伊賀や甲賀の地は、この褐鉄鉱(水酸化鉄)の鉄資源と、高温に耐えうる窯づくりに適した土があったことで、鉄の生産地になったのだろうと想像できる。

 褐鉄鉱ならば低い温度でも溶けるが、そのままでは不純物が多く混ざっており、脆くて壊れやすいので加工もしずらい。
 粘り強くて壊れにくい鉄製品を作るためには褐鉄鉱や鉄鉱石から炭素を取り除いていくのだが、そのためには1300度くらいの温度が必要になる。1300度くらいになると、硬いもので叩けば変形する粘りのある状態となり、これを錬鉄と呼ぶが、この錬鉄をさらに叩いて伸ばしたり鍛造して刀剣などを作ることになる。
 すなわち原始的な脆い鉄製品から高品質で丈夫な鉄製品へと進化させるためには、高温に耐えうる土の窯が必要で、伊賀の土は、それを可能にした。

 神話の中で、天孫降臨のニニギの子供を身ごもったオオヤマツミの娘、コノハナサクヤヒメが、ニニギに自分の子供ではないのではないかと疑われた時、天津神の子供ならば無事に生まれるはずと産屋に火を放ち、火照命(海幸彦)・火須勢理命火遠理命(山幸彦)の三柱の子を産むのは、高温に耐えうる土で窯を作る技術革命を暗示しているのではないか。

 その土の窯によって、強力な刀剣ができ、それが天津神の力となった。 
 伊賀には高倉神社があり、高倉下命ゆかりの地である。
 高倉下命は、神武天皇が熊野山中で危機に陥った時、布都御魂の剣を献上した。その剣の霊力は軍勢を毒気から覚醒させ、神武天皇は大和を征服する。
 その布都御魂の剣は、神話のなかで、タケミカヅチオオクニヌシに国譲りを迫る時に使った剣でもあった。
 今までにない新しい強力な剣の力によって、神武天皇も、タケミカヅチも、旧い勢力を支配下に置く優位な立場になったということ(クニを一つにまとめた)で、その歴史的な鍵となったのが、伊賀の地の原初の琵琶湖の湖底に堆積した土だったのだ。
 伊賀一宮の敢国神社は、正面の南宮山を遥拝する形で鎮座しているが、もともとはこの山頂に祀られていた。南宮というのは、伊吹山の東麓の南宮大社もそうだが鍛治を象徴している。そして、敢国神社の祭神の一つが鍛治の神、金山比咩命である。

 そして甲賀の地から野洲川にそって琵琶湖に向かうと近江富士と呼ばれる三上山がそびえるが、この山の山頂に降臨したとされるのが鍛治の神、天御影神であり、この山の周辺は日本でも有数の銅鐸発見地で日本最大の銅鐸もここから見つかっている。

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三上山山頂の磐座。ここに鍛治の神、天御影神が降臨したとされる。

  真弓常忠氏は、著書「古代の鉄と神々」のなかで、銅鐸は褐鉄鉱の産出と関係の深い祭祀道具だったと指摘している。

 中世の頃より、伊賀忍者甲賀忍者の対立がよく知られているが、甲賀の地は、琵琶湖に流れ込む河川のなかで最大の野洲川を遡ったところで、野洲川の支流の杣川の源流が油日岳で、その里宮の油日神社が甲賀忍者の集会所だった。

 油日神社は、名前のとおり油の火の神として全国の油関係の人たちから信仰されているが、その元宮である油日岳の山頂には、罔象女神(ミズハノメ)が祀られている。

 興味深いのは、罔象女神(ミズハノメ)というのは今日では水神として知られているが、油日の名は、油日岳の山頂に油の火のような光とともに油日神が降臨したことが起源とされていることだ。

 また、伊賀の地は、淀川に合流する木津川を遡り、その支流の服部川や柘植川の流れにそって広がる。服部川沿いは、伊勢街道として伊勢方面へと至り、柘植川沿いは、大和街道として三重県鈴鹿から亀山へと至る。この街道は、後に東海道となるが、その歴史は古く、 大海人皇子壬申の乱の折に、あるいは源義経木曽義仲を討つ折に通った道であるとされる。

 そして、この柘植川沿いの地に、都美恵神社が鎮座する。この神社は、古代の穴石神社で、この地は、倭姫命の元伊勢巡幸の地であるとされる。

 この場所は、古代史においてとても重要な位置づけにあり、『伊勢風土記』の逸文に、出雲の神の子、出雲建子命、又の名を伊勢津彦がこの地で勢力を誇っていたが、神武天皇の東征の時、天日別命から国土を明け渡すように要求され、最初は渋ったものの最終的には譲歩し、「強風を起こしながら波に乗って東方へ去って行く」ことを誓い、信濃の地へと逃げていったとされる。

 本居宣長は、この伊勢津彦を、「古事記」における国譲りでタケミカヅチに負けて諏訪の地へと逃れたタケミナカタの別名であるとしている。

 この伊勢津彦の別名、出雲建子命というのは、出雲という名がついているが、天穂日命アメノホヒ)の孫であり、アメノホヒはアマテラスの息子であるが、大国主オオクニヌシ)に国を譲るように使者として派遣されながら、オオクニヌシに心酔して高天原に戻って来なかった神である。出雲大社の神官の祖神とされ、菅原道眞の土師氏の祖神でもある。

 出雲建子命が、ニニギが天孫降臨する前に地に降り立っていた神の孫であることや、出雲建子命は別名が櫛玉命(くしたまのみこと)であることから、櫛玉命という同じ別名を持つニギハヤヒ神武天皇の東征の時に抵抗したナガスネヒコと一緒にいた)も、ニニギよりも早く天孫降臨していた神であるゆえに、二つの神を同一とする説もある。

 そのためか、ニギハヤヒを祖神とする物部氏の総氏神である奈良の石上神社の祭神である布都御魂剣が、都美恵神社の祭神でもある。

 しかし、布都御魂剣は、タケミカヅチが国譲りを迫る時に使った剣であり、さらには神武天皇の大和制服の力ともなった剣でもあるので、国譲りの結果、この地を支配した側の神として祀られている可能性もある。

 さらには、出雲建子命は、古事記の中でヤマトタケルによって征伐された出雲建の子であるという説もある。

 出雲建子命が初代神武天皇の時代で、出雲建を征伐したヤマトタケルは第12代景行天皇の息子であるという設定なので、後の時代の出雲建が出雲建子命の親であるというのは、時代として矛盾が生じる。

 しかし、布都御魂が、タケミカヅチ神武天皇、第10代崇神天皇の時に出てくるので、この三つは、大きな変革の起きた同じ時代のことを異なる角度から語っているだけの可能性もある。初代神武天皇の時もしくは第10代崇神天皇の時に、出雲建子命もしくは出雲建という先住の人々と、後からやってきた人たちの確執があった。

 さらに伊勢国風土記逸文に、出雲建子命のところに阿倍志彦の神がやってきて城を奪おうとしたが逃げ帰ったということも記載されているのだが、長野の諏訪の地でも、守矢(もれや)神がタケミナカタに敗れ、そのタケミナカタタケミカヅチに追われているので、似たような状況が伝えられている。

 諏訪大社では、その後、守矢氏が神職をつとめ続け、伊賀一宮の敢國神社は、敢國と書いて、あへくにと読むのだが、この神社は阿部氏が祀ったと考えられているので、諏訪の場合と似ている。

 つまり、伊賀の阿部、諏訪の守矢が、出雲系とされる出雲建子命やタケミナカタに敗れ、その出雲系が、神武天皇の時の天日別命や、国譲りの時のタケミカヅチ信濃の地へと追われている。その後、阿部と守矢や、それぞれの地で神職者となる。

 いずれにしろ、この伊賀の柘植川流域も”出雲族”という名で象徴される勢力の拠点で、国譲りの舞台の一つであるが、”古代出雲”が意味するのは、伊賀や島根など特定の一箇所ではないような気がする。

 似たような国譲りの伝承は、例えば播磨の地にも残されており、鉱物資源に恵まれ、かつ高温に耐えうる窯づくりに不可欠な土を産出するところは他にもあり、日本の各地で同時的にそうした技術革命が広がった可能性は高い。いずれにしろ、技術革命によって強力な鉄製品を作りだすことができて日本国内に変化が起きたということを、神話は語っているのかもしれない。

 あらためて見直すと、伊賀と甲賀の地も、技術革命の条件を満たしていた。興味深いことに、上に述べた甲賀の油日神社の元宮の油日岳は、この伊賀の都美恵神社からも近い。油日神社と油日岳の直線距離は3kmだが、都美恵神社からは4.5km。二つの神社の距離は4.8km。

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上から順番に甲賀忍者の集会所、油日神社、油日岳、伊賀の国譲りの場所、都美恵神社。伊賀國一之宮の敢國神社

 そして、伊賀の都美恵神社が鎮座する場所は、柘植川と、その支流の倉部川のあいだに挟まれた土地であり、倉部川の源流も油日岳である。

 つまり、油日岳は、琵琶湖へと流れる野洲川の源流の一つであるとともに、大阪湾へと流れこむ淀川に合流する木津川の源流の一つでもあるのだ。

 油日岳から、水上交通の二つの道で、琵琶湖と大阪湾の両方につながることができる。そして、その二つの交通路に沿って鍛治と関連の深い三上山と敢国神社がある。

 さらに国譲りの神話が残るこの油日岳から都美恵神社周辺の場所は、大阪湾や奈良から東国へと向かう道と、日本海から琵琶湖を通って伊勢方面や奈良方面へと向かう道が合流する場所でもあった。

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甲賀、伊賀、亀山のあいだの三つのポイントが油日岳を要とした、甲賀の油日神社と、伊賀の都美恵神社である。琵琶湖、奈良、伊勢湾への道が交わるところになる。

 甲賀と伊賀は、どちらも原初の琵琶湖があったところで、鉄生産に不可欠な良質の土と、褐鉄鉱など鉄資源に恵まれていた。

 その要にある油日岳の山頂に、罔象女神(ミズハノメ)という水神が祀られているが、油日岳の山頂は、油の火のような光とともに神が降臨した場所である。

 今では水神とされる罔象女神(ミズハノメ)と油の火のような光、この二つのあいだには、日本の古層を理解するうえで重要な鍵が隠されている。

 そして、神話の中で、神武天皇が東征の際に天神の教示によって天神地祇を祀り、戦勝を占った地が吉野の丹生川上神社であるが、ここの祭神が、後に罔象女神(ミズハノメ)や、京都の貴船神社などでも祀られている龗神(おかみのかみ)とされた。

 ともに雨乞いの神として知られるが、単なる雨を司る神ではない。

 天神とは、 「祟りの正体。時代の転換期と鬼(1)」でも書いたように祟りと関係の深い火雷神であり、龗神(おかみのかみ)は竜神である。

 油日岳の山頂に神が降臨した時の油の火のような光というイメージも、火雷神や竜とつながっている。

 

(つづく)

 

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第1099回 日本の古層vol.2   祟りの正体。時代の転換期と鬼(3)

 日本の歴史は、リーダー(権力者)の足跡を追っていても本質が見えてこない。

 リーダー(権力者)は、今でもそうだが、必ず他の誰かに取って代わられることが前提であり、その人物の治世において何かが成されていたとしても、その多くが、それ以前に準備されてきたものだ。

 そして、そうした準備は、権力の前面に立たないところで行われている。栄枯盛衰の波にさらされるリーダー(権力者)と違って、したたかに時代を超えて生き延びていく者たちによって。

 だからといって背後に隠れた存在が、悪人で、自らの権益のために陰で物事を企んでいるという単純なことでもない。人は、食べて遊んで寝ることだけに喜びを感じる種ではなく、生きるためには何かしらの生き甲斐を必要とする。それは古代から変わらず、歴史の表舞台に立っていないけれど、そうしたミッションのために活動し続けた人たちがいる。

 例えば、菅原道眞の祟りについての話になると、道眞と藤原時平の権力争いのような単純化され、道眞が死んだ後に次々と災いが起こったために道眞の祟りと恐れられ、神として祀られるようになったというのが一般的な話である。

 しかし、菅原道眞と藤原時平という個人の確執が、事の本質ではない。

 事の本質を理解するためには、祟り騒ぎの後、世の中がどうなったかを知ることが鍵となる。

 ”道眞の祟り”される現象に一番苦しめられたのは、第61代朱雀天皇である。(在位930-946)。この天皇の時、京都で疫病などが流行しただけでなく、富士山の噴火や地震など天変地異も多かった。

 現在も世界中で大騒ぎしているウィルスは、それ自体の攻撃力で人間を殺すわけではない。細菌の複合感染や他の病気との合併症が死因であり、100年前のスペイン風邪の場合は、第一次世界対戦の影響での栄養失調と劣悪な衛生条件による細菌の複合感染が死因と後の研究で分析されており、現在の新型コロナウィルスも、飽食の結果としての肥満や糖尿病などの成人病などとの強い関係が、後の研究で分析されることになるだろう。

 10世紀、菅原道眞の祟りが騒がれた時も、何かしらの複合的な要素が重なった混乱があった。自然災害、そして疫病。さらに、貴族の時代から武士の時代への転換の先駆けとされる藤原純友平将門の乱(939)が起きている。

 そうした時代の転換は、急に起こるものではなく、それ以前に少しずつ準備されていた。

 そのことを考えると、菅原道眞と藤原時平の確執というのは、時代の変化に対応しようとする勢力と、その流れに逆らおうとした勢力との確執であると想像できる。

 どちらが抵抗勢力であったかは、道眞の祟りの後にどうなったかを見れば明らかだ。

 道眞の祟りとされる現象を経て、第61代朱雀天皇は、古代律令制の要であった班田収授を放棄し、人頭税から地頭税へと改革を行った。

 菅原道眞を太宰府に流した藤原時平は、第60代醍醐天皇と組んで延喜の改革を行っていたが、これは現状に合わなくなっている律令制固執するものであり、そのために、醍醐天皇は後の時代の朝廷から高く評価されるが、実際は、時計の針を戻そうとする悪あがきにすぎなかった。だからすぐにこの改革は頓挫した。

 道眞の死後、祟りを仕掛けた勢力が結集して、方向修正をさせたのだった。

 藤原時平サイドは、崇高な志をもって律令制を維持しようとしたわけではない。

 律令制の基盤は、土地は朝廷のもので、耕作者は死んだら朝廷に土地を返す。そして税金は土地の大きさではなく人間の頭数にかかる。

 にもかかわらず、奈良時代以降、飢餓などを乗り越えるために全体の生産性を上げることなどが口実となって法律の改正が繰り返され、自ら開墾した土地の私有が認められるようになっていった。

 これを巧みに利用したのが藤原時平など藤原摂関家で、逃亡農民を荘園で使うことで、利を蓄えていった。

 朝廷の土地から農民が逃亡して藤原氏の荘園に雇われれば、人頭税は減る。そして、藤原氏の荘園は潤う。こうした状況を抜本的に改革しようとしたのが第59代宇多天皇と菅原道眞だった。

 宇多天皇は、生まれた時から天皇になる予定のなかった人物で、天皇に仕える源氏の身分で青少年時代を過ごした。

 しかし、突然、事態が急変し、これもまた天皇になる予定のなかった父親が55歳になって、突然、光孝天皇として即位させられ、その三年後に亡くなり、息子の宇多天皇が即位する。明らかに、光孝天皇は布石であり、背後に宇多天皇を即位させるための力が働いていたと考えるのが自然だ。宇多天皇を強く支えたのは、藤原淑子の実家の難波氏や、母親の班子女王の実家の当宗氏で、ともに渡来系の氏族である。

 この宇多天皇が政治を行うえで頼りにしたのが、藤原氏ではなく、菅原道眞(土師氏)だった。

 だからおそらく、宇多天皇と菅原道眞は、農民の逃亡や、荘園の優遇といった現状が律令制にそぐわなくなっている状況において、税制改革などの行政改革を行おうとしたが、抵抗勢力にそれを阻まれた。しかし、祟りという仕掛けによって、抵抗勢力は取り除かれることになった。

 宇多天皇の母親の班子女王の実家、当宗氏は、平安時代初期に軍神として活躍した坂上田村麻呂で知られる東漢坂上の一族である漢系渡来氏族なのだが、坂上氏は、武門を家業としていた。そして、北野天満宮が創建された頃(947)、第56代清和天皇の血統でありながら武士としての歩みを始めた源満仲が、京都から摂津の多田の地に移り、所領として開拓するとともに多くの郎党を養い武士団を形成していくが、その中心に坂上氏を置いた。

 これが、後の時代、源頼朝足利尊氏新田義貞武田信玄などに連なる清和源氏の武士としての興りである。

 清和源氏の武士としての歩みは、菅原道眞の祟りの後に、力強くなっていくのだ。 そして、このように時代の秩序が大きく変わる時、見境のない勢いだけではうまくいかず、周到な準備もまた必要である。

 源満仲は、住吉神の神託によって摂津の多田の地を選んだとされるが、そうではなく、その地へと導いた智慧者がいたということ。

 多田の地は、有数な鉱山であり、満仲は積極的に鉱山開発を行った。

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多田銀銅山

 食物と金属、これらがなければ、人を養っていけないし、自分たちを守ることができない。とくに田畑を耕したり治水灌漑を行う道具や武器として鉄は重要な鉱物であった。

 日本国中、祟りや鬼と関わりのあるところのほとんどが、鉱物資源(とくに鉄)と関わりが深いのである。

 そして、こうした情報と智慧に通じる人たちが存在していた。以前からあった場所の情報を持ち、新たな開発において、その場所の特徴を見極める目と感覚を備えた人々。こうした人たちは、どの権力者からも重んじられるので、権力の表舞台に立つ必要はなかった。そして、自分たちの存在価値をより確かなものにし、長く生き延びていく方法は、権力争いに顔を突っ込むのではなく、自分たちの智慧や情報ネットワークを、より充実させていくことだった。

 どうやら、こうした役割に徹する人は、弥生時代の始まり頃から(もしかしたらそれ以前から)存在していたようだ。(続く)

 

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第1098回 総括/新型コロナウィルスの教訓。「ソドムとゴモラに追随するな。」

 最近になって、感染者の数、死者の数が急激に減ってきて、専門家が脅かしていたような欧米のような事態にはならず、緊急事態宣言の全面的解除の方向に向かっている。

 そして、「日本の対応がうまくいっていった理由」が、あれこれ語られたりする。そして、まだ安心できないとか、第二波が怖いと、主張する声が相変わらず大きい。

 そもそも、日本の対応がうまくいったなどという視点は、日本国内のことにしか意識がいっていないからだ。

 世界を見渡せば、うまくいっているのは日本だけではない。ベトナム、ネパール、カンボジアラオスエチオピアエリトリアパキスタンやインドやインドネシアでさえ日本より優秀、日本よりも人口あたりの死亡率の低いところや死者がゼロのところはたくさんある。

https://news.google.com/covid19/map?hl=ja&gl=JP&ceid=JP:ja

 対応がうまくいかなかった、というより対応することすら難しかった国は、実は世界の中のごく少数だった。

 アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、スペイン、ドイツ、ベルギー、オランダの8カ国が、飛び抜けて犠牲が大きかった。

 そして、この8カ国は、今日の西欧文明が世界を覆い尽くしていく状況のなかで、常に注目を集めている国々である。海外のニュースでも、アフリカや中南米だけでなく、ヨーロッパでも、この8カ国以外のニュースはほとんど入ってこない。北欧や東欧で、今何が流行っているかを知っている人などほとんどいない。

 今回のパンデミックは、皮肉なことに、世界が注目する国々において悲惨な状況が発生した。だから、日本だけでなく、世界中が、この8ヵ国のようになってしまったら大変だ、医療設備がわりと整っている世界でもっとも豊かな国々ですら酷い状況になっているのだから、自分たちの国で同じことが起こったら悲劇がどれほどのものになるか想像もできないと戦慄してしまった。

 そうして数ヶ月が経った現在、結果はどうなったこいうと、世界全体の死者数30万のほぼ8割近くが、この8カ国に集中している。さらに、この8カ国の高齢者施設で、その4割が亡くなっている。つまり、世界の死者の三分の一が、欧米の高齢者施設という非常に限られた空間の中だけで発生している。しかも、その死のほぼ100%が合併症で、死者や重症者のほとんどが肥満である。

 この事実が、報道などであまり前面に出てこない。アフリカなどでパンデミックが起きたら、冷たく分析するのに、これら8カ国は、特別視されているのか、その実情に対して、あまり辛辣な意見は出てこない。

 はっきり言おう。この8カ国に象徴されるものこそが、この近代文明に覆い尽くされた世界のなかで、典型的なソドムとゴモラだったのだ。

 なぜ、この8カ国の、とくに高齢者施設に死者が集中したのか。それは、肥満で持病(生活習慣病)を抱えた高齢者が、世界中でもっとも集中した場だったからだ。

 世界で肥満率が一番高いのは、トンガやサモアなど太平洋の島々。このあたりは、コロナウィルスの被害は出ていない。彼らの肥満は、おそらく体質的なものだろう。

 そして、その次の肥満圏が、欧米の先進国。中世ヨーロッパ人の肥満が多かったわけでないだろうから、体質ではなく生活習慣病の可能性が高い。

 最近のThe Centers for Disease Control and Prevention (CDC) の調査で、2017年と18年の2年間、アメリカ国内の2歳から19歳の肥満率が19.3%ということがわかった。 2005年の頃は15%くらいで、増加しているようだ。なかでもニューヨーク州がひどいのだが、原因として、加工食品、砂糖入りの飲料、運動不足があげられている。

 今回、コロナウィルスが狙い撃ちした国々の特徴は、植民地支配や奴隷制などを通じて、外国から搾取して自国の繁栄を成し遂げた国々だ。

 それらの国々の現在の高齢者たちが現役の頃は、世界の中で唯一、長期間バカンスや短時間労働を謳歌していた。そして、肉体労働などキツイ仕事は元植民地からの移民にまかせ、自分たちは身体を動かさなかった。

 世界の富を独占し、キツイ仕事を他に押し付けた代償が、この8カ国の高齢者の肥満率の高さにつながっている。

(イタリアも、貧しい南部ではなく、豊かな北部で感染の被害が大きかった。)

 奇しくも、今回のパンデミックは中国から始まったが、その被害の大半は武漢で、国中に広がることはなかった。いくら封じ込めたからといっても、一人でも外に感染者が出れば、次々と感染が広がるはずで、アメリカなども早い段階で中国からの渡航者を拒絶していたにもかかわらず、感染爆発となった。

 ハイテク都市の武漢は、中国のなかの欧米先進地帯と一緒である。ここから感染爆発が起きた。しかし、それ以上にならなかったのは、高齢者たちが、その人生の大半を貧しさのなかで過ごしてきたからだろう。

 なので中国の成人肥満率は、5.6%で、日本の4.5%に比べて少し高いが、 WHOは Aランクとしており、欧米先進国の20%や、アメリカの30%に比べて、はるかに低い。

 

世界・成人の肥満率ランキング(WHO版)

http://top10.sakura.ne.jp/WHO-WHOSIS-000010R.html

  アメリカ31.8%、イギリス24.9、スペイン24.1、ベルギー19.1%、オランダ16.2%、 イタリア17.2%、ドイツ21.3%、フランス15.6%。

 アメリカは若い人でも肥満が多い。それに対して、フランスやイタリアやオランダなどの場合、若い人はスタイルのいい人が多く、全体は押し下げられているが、その分、高齢者の肥満率が高く、ほとんどの高齢者が肥満だということになる。

 それに対して、コロナ感染の死者が出なかったベトナムは1.6%、ネパールは1.5%。人口の割に少ないインドは1.9%、日本は、4.5%であり、欧米との差は大きい。

 インドは、欧州の国の人口の20倍ほどあるから、実数として、50万人とかの死者が出てはじめて欧米並みの被害ということになる。しかし、実数でも欧米の10分の1の犠牲者となっている。

 全てがそうだと言えないが、 WHOの肥満ランキングを見る限り、現在でも、仕事をする際、自分の身体を使う、自分の足で歩くといったことが普通に行われていて、加工食品がそんなに流通していないところは、肥満率が高くなく、それらの国で、欧米のような感染爆発が起きたところはない。

 日本においても、今回のコロナウィルスの死者は、東京周辺や大阪周辺など大都市圏に集中し、感染者が一人も出なかった岩手など東北は被害がなかった。

 たとえば岩手の人たちが、毎日の食べ物で、どれくらい加工食品を食べているのか。そして肥満率はどうなのかを調べれば、感染が少なかったこととの因果関係がわかるだろう。

 世界を見渡しても、土地の食べ物が食卓に並び、野菜をふんだんに食べ、身体を動かすことが当たり前の地域、たとえばベトナムやネパールなどは当然ながら肥満率は低く、それらの地域では、コロナウィルスの死者が一人も出ていない。 

 現在の欧米先進国の高齢者だけが、長いあいだ、飽食の時代を過ごしてきた。

 日本も決して褒められたものではないが、それでも、今の高齢者は、敗戦後、貧乏な時代を長く過ごした人が多い。

 そういう人たちが入所している介護施設においても、太った人はそんなにいない。

 しかも、日本は世界一の長寿国であるため、数十年前から、介護制度の在り方を真剣に議論し続け、介護施設で高齢者のお世話をするという概念がない。

 日本の介護制度の優れているところは、高齢者の自律支援を行うということが、ケアマネジャーを軸に、徹底されていることだ。

 なので、介護施設などにおいて、毎日のように身体を動かすトレーニング、レクレーションがプログラムに入っている。食事においても栄養士がついて、栄養面、健康に気が使われている。

  そういう詳細な分析をせずに、コロナウィルス対策の先生方は、緊急対策後の対応を練るために、相変わらず、ドイツやイギリスを参考にするなどと言っている。

 日本の知識人は、明治維新以降の欧米追随意識が抜けきっていない。それが、今回の過剰な騒動につながった。

 アフリカの8つの国で20万人が亡くなっていても、これほどまで騒ぐことはなかっただろう。心配そうな顔はしても、心のどこかで、「ああアフリカね、仕方ないね」と整理して終わり。

 現在、日本国内のコロナ騒動が少し鎮静してきて、専門家が主張していたようなイギリス並みの結果にはならずに拍子抜けしたのか、メディアは、新しい話題を探し出してきて、懲りずに大衆を煽ろうとする。

 昨日、夕食を食べながらニュースを見ていたら、今度はインドがコロナウィルスで大変になっているぞーという調子で情報が流れてきた。

 この24時間内で感染者数が3970人にのぼり、アジア最大の感染者数となった。事態は悪化する一方であると。
 しかし、アジア最大というが、アジアはもともと感染被害が小さい。死者がまったく出ていない国も、ベトナムカンボジアラオス、ネパール、ブータンとたくさんある。そして、インドの人口は13.5億もある。
 現在、感染が収まりつつあると報道される欧州の新規感染者数だが、スペインは5月15日で2138人。イギリスは3560人。これらの国々は、人口で、インドの20分の1しかないのに、今現在の新規感染者は、インドとさほど変わらない。ということは人口あたり、今現在でも、欧州はインドの10倍以上ひどいということ。
 アメリカに至っては、5月14日、1日で26,776人の新規感染者。人口はインドの4分の1なのに、新規感染者は7倍もある。今のアメリカは今のインドよりも30倍近く酷いということだ。なのに、次はインドが酷い状況になっていると煽るメディア。ゴールデンタイムの NHKでもこうだから、昼間のダラダラと時間の長いワイドショーの場合、どうなっているのか(よく知らないが)。

 あの不衛生なインドなら仕方ないだろう、これからが大変だという印象だけ植え付けているメディア。
 ニュースの印象操作は、ひどすぎる。分母を伝えなかったり他国と比較することなく、感染者数だけ(しかも重症かどうか、死者がどれくらいかも伝えない)を吹聴するなど印象を操るばかりでなく、もっと実態に即した数字を比較したりしながら分析する努力をすべき。

 インドの死者は2870人。人口のわりにかなり少ない。そして、インドの肥満率は、世界トップレベルの1.9%で、欧米の10分の1だけれど、人口が欧米の国の20倍だから、肥満の人の数は、欧米よりは多い。しかしインドの平均寿命は、欧米よりも10歳以上低い。高齢で肥満で生活習慣病を抱えながら生き続けている人が少ないのだろう。結果、人口あたりの死者は欧米の200分の1なのだ。

 結論として、今回のパンデミックの皮肉は、ウィルスが集中的に攻撃したのが世界中の人々が常に注目して憧れて追随したがる欧米8カ国であったことだ。しかしそこは、自らの豊かさや安楽さだけを優先して、植民地支配や奴隷制度で他者を搾取してきたバビロンの飽食の世界だった。

 文明の末期に生きるわたしたちは、今回のような災いに対して、「ああ、アフリカやアジアね、しかたないね」ではなく、「ああ、あの飽食の欧米ね、それはしかたないね、自分たちも気をつけなくてはいけないね。」とならなければいけない。

 ソドムとゴモラに追随してはいけない。

  今回のパンデミックは、飽食をターゲットにしており、100年前のスペイン風邪と逆のパターンの文明病のようなものだ。

 100年前のスペイン風邪は、栄養失調と劣悪な衛生が複合感染を引き起こして人命を奪った。そうした環境要因を作り出したのが第一次世界対大戦だった。

  いずれにしろ、パンデミックの歴史を振り返ると、必ず、人為的な要因がからんでいる。

 (上に述べた8カ国の共通点は、もう一つあり、結核発展途上国の病と決めてBCGワクチンをやめた国々であるということ。このことについては、第1094回の記事で書いたので、ここでは省略した。)

 

 

*この文章を読んで、じゃあブラジルはどうだ、ロシアはどうだと言う人がいますので、念のために書き添えますが、私は、欧米8カ国でパンデミックが終わると言っているのではない。

 欧米8カ国のライフスタイルが、豊かさの基準のように信じ込んで、その真似をしたがる人は世界中に増えており、実際に各国の肥満率は高まっている。

 ブラジルの成人の肥満率も19.5%で、アメリカよりは低いが欧州とさほど変わらない。

 ただ、ブラジルは人口2億でベルギーの19倍もあるのに、死者はベルギーが9500人に対して、ブラジルは15000人。数だけ見れば、ブラジルは世界で感染死者数が多い国ということになるが、人口あたりの数字は、欧州よりもかなり低い。

 しかし、そういう重箱の隅をつつくようなことはどうでもよく、問題は、明らかに感染死が多いところと、感染死がまったくないところがあり、それぞれの傾向を読み取ったうえで、なぜ詳細に研究分析しようとしないのかということ。

 

 肥満率との相関関係は明らかにある。しかし、たとえば発展途上国で、ここ数年、急激に肥満が増えて青年や中年でも肥満が多い国と、欧米のように長いあいだ豊かさを享受してきた結果として、高齢者の肥満が非常に多い国があり、その違いも分析する必要があるかもしれない。

 データを見ても、肥満や持病が、コロナウィルスによる死の危険性を高めることは間違いないが、さらにそれが高齢者という条件と重なったら、ほぼ絶望的に厳しくなるという事実。

 そういうことを踏まえて、生活を見直していかなくてはならないし、現状の対策においても、今の大人たちが原因を作り出した文明病とも言えるこのパンデミックで、若い人も巻き込んで、彼らの夢や学習機会を奪うという愚かなことはやめた方がいい。

 

 

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