第1053回 日本の古層〜相反するものを調和させる歴史文化〜(9)

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宝塚の清荒神(北緯34.82度)から真東に、中山寺、天神神社、加茂遺跡がある。中山寺も天神神社も境内に古墳があるので、かなり古い時代のレイラインである。さらに、清荒神(東経135.35)の真南に平林寺、門戸厄神東光寺がある。門戸厄神東光寺から夏至の日没方向が鷲林寺であり、平林寺から夏至の日没方向が岩倉山である。鷲林寺、平林寺、加茂遺跡を結ぶラインは、冬至の日没ラインだが、その東に位置するのが、役小角ゆかりの箕面山である。


 清荒神は、896年、理想の鎮護国家、諸国との善隣友好を深め戦争のない平和社会、万民豊楽の世界を開く」ために、宝塚の地に、宇多天皇勅願寺として建てられた

 こうした聖域が宝塚の地に作られたのは、宝塚のある摂津の地が、それほど重要だったということだ。

『摂』は「治める」、津は「港」であり、摂津は、瀬戸内海航路の起点の地である。

 摂津は、淀川、猪名川武庫川、古代においては大和川といった大河が海に注ぎ込む場所で、海から内陸部へと入り込んでいけるところでもあり、人や物資が頻繁に行き交っていた。とくに、瀬戸内海を通って、また日本海側から円山川由良川武庫川加古川などを経由してやってくる渡来人の集まるところでもあった。

 また、宝塚を流れる武庫川武庫の名は、神功皇后が兵具をおさめたことから名が起こったともいわれ、この場所は、古代から、海上交通の支配をめぐる攻防の地だった。

日本書紀』の応神天皇31年8月の条には、次のような伝承がある。

 朝廷の船五百隻を造り、武庫水門〔むこのみなと〕に停泊させていたところ、倭〔わ〕国に使いにきていた新羅〔しらぎ〕の船から失火して、朝廷の船が全焼してしまった。新羅の王は贖罪〔しょくざい〕として優れた工匠を倭国に献上した。

 その時の工匠たちが猪名部の始祖だという。

 三重県四日市に隣接する員弁郡(いなべぐん)に猪名部神社がある。このあたりは、淡路の巨大鍛治工房でも知られる鉄と船に関わりの深い船木氏の拠点であるが、摂津の猪名川に住み着いた工匠たちの一部が移住し、もともと現地にいた人々と混じり合ったと考えられている。猪名部氏は優れた船大工や、寺院などの木工技術者として、ヤマトの地でも活躍した。

 猪名部神社の祭神は、伊香我色男命(いかがしこお)であり、「新撰姓氏録」の記載では、猪名部氏の祖神とされる。しかし、記紀によれば、伊香我色男命は、古事記の第10代崇神天皇の時に出てくる物部氏の祖であり、国に疫病が流行した時、天皇の夢枕に大物主が現れ、太田田根子に自分を祀らせれば祟りは治り、国は平安になると神託した。

 崇神天皇は、大田田根子を探させ、彼に大物主を祀らせ、伊香我色男命にも祭祀を司らせた。

 そして、伊香我色男命の同母妹の伊香色謎命(いかがしこめのみこと)が、第8代、孝元天皇の妃、第9代開化天皇の皇后となり、崇神天皇を産む。こうしたことによって、物部氏天皇家の結びつきが強くなった。

 この物部氏と猪名部氏の関係は、第26代雄略天皇に関連する記録、『日本書紀』の12年10月条や13年9月条で、木工技術者の猪名部御田(つげのみた)や、韋那部真根(いなべのまね)を物部に預けたとあり、猪名部氏を管掌するようになったのが物部氏だったようで、そのため、猪名部氏の祖先が伊香我色男命になったようだ。

 猪名川が流れる摂津の宝塚の売布神社の祭神も、伊香我色男命の息子の意富売布連(もののべのおおめふのむらじ)ではないかと言われる。さらに聖徳太子の頃には、物部氏若湯坐連(わかゆえのむらじ)が、宝塚を拠点としており、聖徳太子は、物部守屋蘇我氏に滅ぼされた時、その障りを除く為に中山寺を建立したと、宝塚の中山寺の縁起に残されている。その時から厄神明王が本尊として祀られるようになり、これが我が国最初の厄神明王とされている。

 厄神明王は、愛染明王不動明王が一体化したもので、全ての厄を払う力を持つとされ、今でも大人気だが、明王というのは、憤怒の相である。大日如来の命を受けたり大日如来の化身として、仏教に未だ帰依しない民衆を帰依させようとする役割を持つが、こちらも、荒神と同じく、古代インドの夜叉や阿修羅といった悪鬼神が仏教に包括されて善神となったものだ。

 厄神明王を祀っている聖域の代表が、清荒神の真南のところに位置する門戸厄神東光寺であり、ここは、空海ゆかりの日本三大厄神の一つである。

 空海は、嵯峨天皇の命を受けて厄神明王の像を三体刻み、丹生都比売神社と石清水八幡と門戸厄神東光寺に国の安泰を願って勧請した。これが三大厄神であるが、空海の刻んだ像は、摂津の東光寺にだけ残っているとされる。

  宇多天皇は、空海を追慕しており、天皇に即位して10年で醍醐天皇に攘夷した後、出家して阿闍梨として真言密教の道を究めていくが、宇多天皇も、猪名部氏と深い関わりがある。

 平安時代の女官、春澄 洽子(はるすみ の あまねいこ)が、官稲千五百束を賜って猪名部神社に奉納したという記録が『三代実録』にあるが、彼女の父は、猪名部氏だった。

 洽子は、改名する前は、高子という名で、清和、陽成、光孝、宇多、醍醐の五代の天皇に仕えた。そして、宇多天皇天皇の位に押し上げた功労者である藤原淑子の下で典侍(ないしのすけ)という後宮の次官となり、宇多天皇の信任も厚かったとされる。

 猪名部氏のルーツである宝塚の地に宇多天皇清荒神を作らせたことと、何かしら関係があるかもしれない。

 しかし、それ以上に、門戸厄神東光寺など宝塚周辺の空海ゆかりの地と、宇多天皇ゆかりの清荒神の関係がとても深い。

 清荒神は、真言宗の寺だが、鎮守社として三宝荒神社があり、神仏習合の聖域である。

 三宝荒神は、役行者由来の日本特有の信仰である。火と竈の神として信仰されることが多いが、本来は、密教不動明王などと同じ憤怒の表情で仏・法・僧の三法を守護する。神の荒魂に古代インドに源泉をもつ夜叉神の形態が取り入れられた守護神であり、鬼の力で、災いを制するという発想である。

 清荒神との関わりにおいて興味深い話がある。門戸厄神東光寺の西、夏至の日に太陽が沈む方向に、833年、淳和天皇勅願寺として空海により開創されたという鷲林寺があり、その荒神堂に、麁乱(そらん)荒神を祀っている。

 空海が、音霊場を開く土地を求めて廣田神社に宿泊していた時、夢枕に仙人が現れ鷲林寺を創建する地を教示された。それに従い入山したところ、この地を支配するソランジンと呼ばれる神が大鷲に姿をかえ、口から火焔を吹き空海の入山を妨げた。空海は傍らの木を切り、湧き出る六甲の清水にひたして加持をし、大鷲を桜の霊木に封じ込めた。その霊木で本尊 十一面観音を刻み、寺号を鷲林寺と名付けた。同時に、大鷲に化けたソランジンは麁乱荒神としてまつられたとされる。このソランジンは、廣田神社の祭神、向津姫(瀬織津姫)ともされるが、宇多天皇が作った清荒神は、鷲林寺の麁乱荒神を移したものであるという説がある。(東大寺 三宝院洞泉相承口訣)。

 さらに、ソランジンの話は、摂津のシンボルともいえる甲山に鎮座する神呪寺(かんのうじ)にも伝わる。お椀を伏せたような形の甲山は、花崗岩隆起によって形成された六甲の山々と隣接しているが、形成過程が異なり、古い火山が侵食されて今の形になった。

 神功皇后が、国家平安守護のため、その頂上に、如意宝珠(廣田神社の宝物で、神功皇后は、海中からこの宝珠を得てから連戦連勝したとされる)と兜を埋めたという伝説に彩られており、廣田神社神奈備である。六甲山系の東端の高台に鎮座する鷲林寺のすぐ近く真東に位置しているので、鷲林寺において、この山から上る太陽を拝むこととなる。

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鷲林寺の荒神堂。鷲林寺の真西が六甲山の山頂。真東が甲山。


 弘法大師の弟子で、淳和天皇の妃の如意尼が、甲山に寺を建立しようとしていた時、鷲林寺からソランジンと呼ばれる神が大鷲に姿を変えてやってきて、建立の邪魔をしにきた。恐怖を感じた如意尼は、空海に相談したところ、東の谷に大岩があるので、その上に神を祭れと教えがあり、それに従ったところ、ソランジンは、邪魔をしなくなり、守護神になったという伝承だ。

 如意尼は、空海から法名を受ける前、淳和天皇の妃だった時の名は真名井御前であり、丹後の海部氏出身とも、但馬の日下部氏とも言われるが、正史には存在しない。

 清荒神三宝荒神が移される前の話として、宝塚にもう一つの伝承がある。

 淳和天皇の妃となった如意尼の侍女で、後に出家して甲山の神呪寺で修行をしていた如一尼(にょいつに)の夢枕に天女が現れ、東の方の聖なる所に行くよう、お告げがあった。

 その場所に行くと、聖徳太子が建立し、その当時廃れていた平林寺があった。如一尼はこれを再建し、ここで修行を重ねた。

 いく年かが過ぎたある日、西方の峯に一筋の光がさし、雲のたなびく中に荒神が現れた。そのご加護を受けた如一尼は如一禅尼と改名し、人々を分け隔てせずに仏の道を説き、平林寺は栄えたという。

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(左)門戸厄神東光寺。門が真東を向いている。大阪湾に近い高台からの見晴らしは素晴らしい。古代は、すぐそばまで海だった。(右)平林寺と宝塚神社がある高台。門戸厄神東光寺清荒神を結ぶ南北のライン上にある。生駒山からヤマトの金剛山まで見渡すことができる。冬至の日には、大阪の生駒山から太陽が上る。さらに、鷲林寺が、冬至の日に太陽が沈む方向にある。 また、夏至の日に太陽が沈む方向に岩倉山があり、山名の由来は、「神が座す磐座(いわくら)」に由来している。

 如一尼は、和気氏の女性で、奈良時代後半の宇佐八幡宮神託事件道鏡天皇になるのを阻止した和気清麻呂の血縁であるが、和気氏は、もともとは備前の金属技術を持った渡来系の豪族だった。和気清麻呂は、道鏡事件が有名だが、実際の活躍は、桓武天皇の側近の高官になってからだ。播磨・備前国司となった後、786年に、摂津太夫民部卿となり、神崎川と淀川を直結させる工事を達成している。三輪山から奈良の中心部を通って淀川まで流れていたヤマトの大動脈であった大和川の土砂堆積による逆流を防ぐと同時に、淀川水系を使った物流路を作ることにもなった。この物流路が、難波宮の資材を長岡京の造営に再利用するというアイデアとなった。さらに和気清麻呂は、桂川賀茂川に挟まれ、より水流に恵まれ、水運に使えるうえに疫病対策にもなる京都の地に都を作ることを桓武天皇に提案し、造宮大夫として平安京つくりを推進した。

 摂津と和気氏の関わりは、とても深かった。さらに、和気氏空海の関係が、ミステリアスなほど深い。

 京都の高雄山中腹にある神護寺は、和気清麻呂の開基で和気氏の氏寺だったが、遣唐使から帰国した空海が、東寺や高野山の経営に当たる前に拠点とした寺である。

 そして、和気清麻呂の5男、6男の和気真綱と和気仲世が、遣唐使から帰ってきた空海を財政的にも支援していたし、朝廷とのつなぎ役ともなった。

 812年、空海神護寺で初めて行った灌頂を受けた者の名が、空海自身の筆で残されているが、 最澄、 和気真綱、 和気仲世、 美濃種人(和気一族の従者) の4人で、最澄以外は、和気氏関係者だったのだ。

 平林寺を再興した如一尼は、空海から灌頂を受けた和気真綱の娘で、空海の姪とも言われる。

 和気氏は、宇佐八幡宮事件から注目を集め、同じ渡来系の血を受け継ぐ桓武天皇の信頼が厚かったが、和気氏が歴史に存在していなかったら、平安京もなかったかもしれないし、空海が歴史舞台に登場する機会も、失われていたかもしれない。

 そして平林寺は、宇多天皇が作らせた清荒神と、空海ゆかりの日本三大厄神門戸厄神東光寺を結ぶ南北のライン上に位置している。

 さらに不思議なのは、平林寺のある高台から夏至の日の太陽が上る方向、猪名川の側に加茂遺跡があることで、この加茂遺跡から中山寺清荒神が、東西のラインにそって、きっちりと並んでいる。

 加茂遺跡は、丘陵に立地する近畿地方を代表する弥生時代の遺跡であり、東西800メートル、南北400メートルという広大な環濠集落だ。遺構や遺物は旧石器・縄文時代から平安時代かけてのもので、とりわけ、弥生時代中期~後期の遺構の遺構が最盛期であり、環濠、外濠、斜面環濠を擁し、最明寺川と台地の斜面の地形と合わせ、防御機能に優れている。

 加茂遺跡のある高台から大阪平野を一望できるが、古代の海岸線は今よりも内陸に食い込んでいたので、この要塞化した巨大集落から、海が望めた可能性が高く、行き交う船も確認できただろう。

 さらに、鷲林寺、平林寺、加茂遺跡の夏至の日の出のラインを東に行くと、役小角が修業し、弁財天の導きを受けて悟った箕面山となる。

 役小角は、西宮の甲山の南の目神山でも弁財天を感得し、六甲修験道を開基したが、鷲林寺は、その起点である。(目神山は、鷲林寺と門戸厄神東光寺を結ぶ冬至の日の出ライン上にある)。

 平林寺と中山寺聖徳太子、鷲林寺と門戸厄神東光寺空海、そして六甲修験道を作った役小角は、清荒神「行者洞」でも祀られている。

 宝塚の地は、聖徳太子役小角空海と、それぞれ活躍したのが紀元600年、700年、800年と、百年ごとに歴史上に現れた伝説的な聖者と関わりの深いラインが張り巡らされている。

 さらに、この3人は、怨霊、鬼と深い関係がある。

 そして、空海の時代から100年後の紀元900年が、宇多天皇の時代なのだ(867年 - 931年)。宇多天皇で、忘れてならないのが日本三大怨霊の一つ菅原道眞(845-903)である。

  宇多天皇は、藤原氏の政治的影響をできるだけ減らそうと努力し、菅原道眞を抜擢して、政治改革を行おうとした。

 聖徳太子の紀元600年、役小角の紀元700年、空海の紀元800年は、それぞれ、推古天皇天武天皇桓武天皇という古代における重要な改革が行われた天皇の時である。

 同じく宇多天皇や菅原道眞が世に現れた紀元900年も、延喜の改革が行われるなど、日本の歴史で何度か起きた大きな転換期の一つだった。(続く)

第1052回 日本の古層〜相反するものを調和させる歴史文化(8)

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丹後、鬼伝説の大江山の近くに鎮座する皇大神社伊勢神宮の内宮と外宮に対応するように、豊受大神社が近くに鎮座している。

(日本の古層(6)の続き)

 亀岡の佐伯郷にある御霊神社には、吉備津彦命が祀られている。日本の古層(6)の記事で書いたように、吉備津彦命のもともとの名が、ヤマトから派遣された将軍、彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこ)に討たれた渡来系の製鉄氏族の湯羅(うら)のことだとすると、亀岡の地にも、吉備と似たような鬼退治の歴史があったと考えられる。

 亀岡における製鉄氏族のことも、(6)の記事で述べたように、河阿(かわくま)神社に伝えられている。この周辺は鉱山であったが、約二千年程前に、九州方面から移住してきた南方系の採鉱治金術を知った部族がやってきて、ここに住み着いた。そして、河阿神社の拝殿前には人身御供が入れられた長持(収納箱)が置かれた台石があり、 毎年麓の家々の中から藁屋根に白羽の矢がささった家の娘が人身御供として神前に献上されたと伝わる。

 南方系の九州からやってきた人たちということとなると、(6)の記事で書いたように、稗田野神社などで祀られている野椎神(のづちのかみ)=「鹿屋野比売(かやのひめ)」と重なる。

 さて、丹後・丹波の鬼伝説のうち、最も古いものが、古事記の中の、第10代崇神天皇の時の話である。

 『日本書紀』の中では、第10代崇神天皇の時、吉備津彦命山陽道丹波道主命山陰道の平定のために派遣されたとなっているが、古事記』の中では、山陰道に派遣されたのは、丹波道主命ではなく、その父の日子坐王(ひこいますのみこ)=崇神天皇の弟である。

 日子坐王が、旦波国に遣はされて、「玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)を殺さしめたまひき」とある。

 これについて、「丹後風土記残欠」では、もう少し詳しく、「青葉山中にすむ陸耳御笠(くがみみのみかさ)が、日子坐王の軍勢と由良川筋ではげしく戦い、最後、与謝の大山(現在の大江山)へ逃げこんだ」と記されている。

 大江山は、金属鉱脈が豊富で、周辺には金屋など金属にまつわる地名が多く見られる。

 玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)は、土蜘蛛とされているが、名前に御という尊称がある。さらに、谷川健一は、「神と青銅の間」の中で、「ミとかミミは先住の南方系の人々につけられた名であり、華中から華南にいた海人族で、大きな耳輪をつける風習をもち、日本に農耕文化や金属器を伝えた南方系の渡来人ではないか」と述べている。そして、福井県から鳥取県日本海岸に美浜、久美浜、香住、岩美などミのつく海村が多いこと、但馬一帯にも、日子坐王が陸耳御笠を討った伝説が残っていると指摘している。

 だとすると、日本の古層(6)に述べたように、亀岡の河阿(かわくま)神社に伝えられている「約二千年程前に、九州方面から移住してきた南方系の採鉱治金術を知った部族がやってきて、ここに住み着いた」という伝承と重なってくる。

 吉備の国の湯羅(うら)もまた、製鉄技術をもたらした渡来人であり、古事記では第7代孝霊天皇の時、日本書紀では第10代崇神天皇の時に討たれたことになっている。

 金属技術をもった人々が戦いに敗れるのだから、より強力な武器を持った人たちが、新しい支配者になったということだろうか。

 とすると、もともと丹波・丹後に住んでいた人たちは、いったいどういう人たちなのか。

 京丹後市弥栄(やさか)町に、弥生時代奈具岡遺跡がある。ここでは、紀元前1世紀頃の鍛冶炉や、玉造りの工房が見つかっており、玉造の道具としてノミのような鉄製品も作られていた。ここから出土した鉄屑だけでも数kgにもなり、製作された鉄製品の量は莫大だったことがわかる。

 また、京丹後の峰山に、弥生時代の日本最古の高地性集落、扇谷遺跡がある。一般的に弥生時代の集落は、コメの生産地となる水田に近い平野部に形成されていたが、そうではなく、ここは、山地の頂上・斜面・丘陵にある集落で、石の矢尻や槍など戦いとの関連が考えられる武器や遺体なども発見され、軍事的要素が強い。さらに、ここからは、陶塤、菅玉、鉄製品、ガラスの塊、紡錘車など、古代のハイテク技術が見つかっている。

 この峰山の地に、比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)が鎮座するが、伊勢神宮の外宮の祭神である豊受大神は、ここから、京丹後の鬼伝説で有名な大江山の傍の豊受大神社を経て、伊勢の地に勧請された。伊勢神宮の外宮の神様は、もともとは丹波の神様なのである。

 そして、伊勢神宮の外宮の神職である度会氏が起こした伊勢神道では、豊受大神天之御中主神・国常立神と同神で、この世に最初に現れた始源神であり、豊受大神を祀る外宮は内宮よりも立場が上ということになっている。

 そして、豊受大神は、羽衣伝説と関わりがある。

 羽衣伝説は、全世界に類似のものがあり、なぜ世界中に似た神話があるのかは神話学の難問であるが、日本では、「丹後国風土記」と「近江国風土記」に記されているものが最古と考えられる。静岡の三保の松原の羽衣伝説が一番有名だが、その理由は、室町時代世阿弥によって作られた謡曲『羽衣』のためであり、あそこが羽衣伝説のルーツではなく、丹後と近江の物語が全国に広がったと考えらえる。

 丹後風土記の羽衣伝説は、峰山地方が舞台となっており、丹波郡比治里の真奈井で天女8人が水浴をしていたが、うち1人が老夫婦に羽衣を隠されて天に帰れなくなり、しばらくその老夫婦の家に住み万病に効く酒を造って夫婦を富ましめたが、十余年後に家を追い出され、漂泊した末に奈具村に至りそこに鎮まった。この天女がトヨウケビメ豊受大神)であるという。

 羽衣伝説が何を象徴しているのか、様々な議論がある。その一つに白鳥処女伝説という異類婚姻譚(いるいこんいんたん)がある。人間が、人間と違った種類の存在と結婚する説話で、世界中で見られる。

 これは、古代の部族の者以外(生活習慣の違うもの)との婚姻を起源とする説がある。また、何かと引き替えに、女性が一種の人身御供として異類と結婚するということでもある。

 とくに日本には、他界(死後の世界、神の世界等)と関わると何事か幸を得るという感覚が古来からあったようだ。その代表が、「古事記」の中の山幸彦を助ける豊玉姫(海神の娘でワニの化身)だろう。この両者の子供がウガヤフキアエズであり、ウガヤフキアエズ豊玉姫の妹の玉依姫と結ばれて神武天皇を産む。

 神武天皇じたいが、異類婚姻譚の結果なのだ。

 そして、羽衣伝説のあるところは、白鳥の飛来地でもある。京丹後において、天女が降りた地は、比治里の真名井だが、比治里という地名から、とりあえず峰山の比治山とされているが、真名井という場所ならば、元伊勢の籠神社の奥宮であり、籠神社が目の前の阿蘇海は、シベリア地方などから飛来してくる水鳥の絶好の餌場や休息地になっている。

 また、近江国の羽衣伝説の舞台である余呉湖のある長浜周辺も、全国でも有数の野鳥の宝庫であり、コハクチョウが飛来する。

 羽衣伝説のもとになっている白鳥伝説は、異類婚姻譚だけでなくもう一つの深い意味があると考えられる。それは、鉄だ。

 近年の研究でもわかってきたが、渡り鳥には、磁場が見えるらしい。”見える”というのは象徴的な意味ではなく、渡り鳥の目の中で、磁場が生化学的な反応を起こしており、それによって渡り鳥は、地球の磁場を知覚することができ、正確に場所を特定して飛んでいるという新しい説が唱えられている。

 鳥の目の中で起こっていることは人間には正確にわからないが、渡り鳥が、磁場を感知することで正確な方向を把握し、飛んでいることは確からしい。

 そして、鉄鉱石や砂鉄は磁性を帯びているため磁場に微妙な変化を起こしているらしく、その近くに絶好の餌場があると、白鳥は、毎年、規則正しくやってくる。

 近江の余呉湖の近く、長浜市木ノ本町古橋地区は、古代の製鉄遺跡が存在し、その背後の金糞岳から流れ出る東俣谷川(ひがしまただにがわ)周辺にも鉱山跡や製鉄遺跡があり、金糞岳は、伊吹山と並ぶ鉄の山だった。

 また、丹後の比治山を源流とする諸河川では砂鉄がよく採れ、鉄穴流しのタタラ跡が数多く遺っているという。上に述べたハイテク技術の扇谷遺跡も比治山の近くにある。

 さらに弥栄町奈具岡遺跡には紀元前1世紀頃の鍛冶炉が発見されたが、その近くの遠所遺跡は、5世紀末あるいは6世紀前半のものと現状では考えられているが、製鉄から精錬、加工にいたるまで一貫した生産地帯で、古代の製鉄コンビナートというべき大製鉄跡であったことがわかっている。そこから、日本で最も古いものの一つと考えられる砂鉄を原料とした「たたら式」の製鉄炉跡も発見されている。

 しかしながら、天女の豊受大神は、一般的には食物・穀物を司る女神とされている。

 ならば、農耕のための農具をつくる産鉄と関わりがあった可能性がある。

 稲荷神も農業神とされるが、”いな”は、砂鉄という意味もあり、稲荷は、鉄の農具を保管する蔵だという説もある。だから、稲荷神社の狐がくわえている鍵は、農具を保管する蔵の鍵であると。古代、鉄器の威力は農業生産高をあげたが、鉄器そのものが貴重で、貸出制だったと言われ、蔵で管理されたと考えられている。

 そのためか、稲荷神社では、ふいご祭りやたたら祭りなど製鉄と関連する祭りが、よく行われている。

 いずれにしろ、豊受大神(トヨウケ)の“ウケ”および、同じ食物神で亀岡の稗田野神社の祭神である保食神ウケモチ)の”ウケ”と、稲荷神社の祭神である穀物神の“ウカノミタマ”の“ウカ”は、同一の語源なのだ。

 このように見てくると、丹波・丹後には、かなり高度な技術を持った人々が、弥生時代から住んでいた。それは、羽衣伝説に象徴されるように、渡来系の人たちがもたらした技術であり、鉄の技術を含んでいた。

 しかし、第10代崇神天皇の時、崇神天皇の異母弟の日子坐王(ヒコイマスノミコ)が、旦波国に遣はされて、「玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)を殺さしめたまひき」とあるように、二つの集団のあいだで戦闘が行われたということになる。

 そして、この地に攻め込んだ彦座王も、鉄と無縁ではなかった。

 彦坐王は、第9代開化天皇和邇氏の意祁都比売命(おけつひめのみこと)のあいだに生まれたが、古事記によると、息長水依比売命(おきながのみずよりひめのみこと)という 天之御影神(あまのみかげ)の娘を妃として、二人から丹波道主命が生まれている。

 天之御影神は、鍛冶の神として知られる天目一箇神と同一神とされている。そして、丹波道主命の娘の日葉酢媛(ひばすひめ)と第11代垂仁天皇とのあいだに第12代景行天皇が生まれ、その子のヤマトタケルが生まれる。系譜で見ると、丹波道主命は、ヤマトタケルの曾祖父になる。

 さらに彦坐王は、母親の妹の袁祁都比売命(おけつひめのみこと)とも結ばれて子孫を残すが、曾孫として息長宿禰王(おきながすくねおう)が存在し、その娘が「神功皇后」である。

 古事記の中でもっとも知られる英雄伝は、ヤマトタケル神功皇后であるが、その二人が、彦坐王の末裔ということになり、さらに、ヤマトタケルの息子の仲哀天皇神功皇后のあいだの子どもが第15代応神天皇という位置付けなのだ。

 こうして見ていくと、彦座王という存在が、大和朝廷の勢力が全国に拡大していく起点になっていることがわかる。

 そうした大和朝廷にとって、丹波・丹後の豊受大神は、鬼として征伐される対象だった。

 しかし、吉備津彦命と同じく、討たれた鬼が、神として祀られることになる。第21代雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比治の等由気太神(とゆけおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、豊受大神伊勢神宮の外宮に祀られるようになったとされる。

 菅原道眞が怨霊として世間を騒がせた後、天満神として信仰されるケースと同じく、怨みをもって亡くなったものが、後に神として祀られることになる。この転換があるから歴史は複雑になる。伏見稲荷なども、秦氏が祀ってきたので秦氏の神様のように言われることがあるが、もしかしたら、この転換かもしれない。

 こうした転換はなにも日本独自のものではない。

 古代ギリシャでも、神的な力のことを「Daimon」(ダイモン)と言い、このDaimonが、悪魔を意味する「Demon」(デーモン)の語源になっている。

 また、古代ペルシャの国教、ゾロアスター教最高神、アフラ・マズターは、「智恵ある神」を意味し、善と悪とを峻別する正義と法の神で、それが古代インド世界の聖典『リグヴェーダ』の中では生命生気の善神アスラ(阿修羅)となった。

 しかし、しだいに、その暗黒的・呪術的な側面が次第に強調され、ヒンドゥー教世界では魔族となった。さらにその後、仏教に取り込まれた際には、仏法の守護者となった。

 日本においても、阿修羅は、仏法の守護者であるものの、その本質は、戦闘し続ける鬼である。

 また、古代インドにおける英雄神で最高神のインドラは、古代ペルシャゾロアスター教ではダエーワという悪神で、アフラ・マズダー(アスラ)と敵対する。

 そのインドラは、仏教世界では仏教の善なる守護神、帝釈天になる。

 インドラとアスラ、帝釈天と阿修羅は、ペルシャとインドという二つの大国のせめぎあいの中で、位置付けが変わっていったのだ。

  空海によって日本の宗教世界に大きな影響を及ぼしている密教における最高神大日如来は、その起源はアフラ・マズダーにあると言われる。それは大日如来が阿修羅の性質も帯びているということであり、だから、夜叉(鬼神)の姿の不動明王が、大日如来の化身ということになる。

 畏怖すべき力は、時代背景によって、神にも悪魔(鬼)にもなるということである。

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陰陽五行道の反映か、近畿の重要な聖地を結んで正確な五芒星が描ける。西北の丹後には、伊勢の内宮と外宮に対応するように、伊勢の対角線上に、皇大神社豊受大神社がある。東北は伊吹山で、東南が伊勢神宮、真南が熊野本宮大社、西南が伊奘諾神宮。そして、センターラインの真ん中に、神武天皇ゆかりの橿原、奈良、京都が正確に位置する。しかも京都は、伊勢と丹後、伊吹山と伊奘諾神宮のラインが交差するところで、とても偶然とは思えない。京都への遷都は、この設計図があったからなのか。しかし詳細に見てみると、ラインは、京都の平安京ではなく、もう少し東の下鴨神社のあたりを通っており、奈良も、平城京ではなく、その西にある第11代垂仁天皇の古墳や、佐紀陵山古墳(垂仁天皇の妃で景行天皇の母の日葉酢媛の古墳などがある)を通っている。どちらも、平安京平城京より古い。

 

1051回 日本の古層 相反するものを調和させる歴史文化(7)

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和歌山市日前神宮・国懸神宮は、現在は、一つの境内の中に二つの神社が鎮座し、ともに、伊勢神宮内宮の神宝である八咫鏡と同等のものとされる鏡を御神体としている。この二つの鏡は、アマテラスが岩戸に隠れてしまった時、誘い出すために作られた鏡であるが、あまり美しくなかったために使われなかったものという、不可解な意味付けがなされている。つまり、出どころは同じだけれど、正当でなかったものということになる。しかし、この二つの神宮は、真南に向かう鳥居の正面にはなく、左右に分かれて鎮座しており、その正面の空間には、かつて五十猛神が祀られていた。
 新天皇の即位まであと一週間。天皇制は、日本人と切り離せない仕組みであるけれど、そのルーツすらよくわからないというのが、日本人のアイデンティティの曖昧さにも通じているのだろう。
 欧州の王室であれば、そのルーツまで遡ることは難しくないが、日本の天皇のルーツは、雲の彼方だ。
 初代天皇の神武元年は、紀元前660年とされているが、これは辛酉革命の影響で、そう仮定されているにすぎない。
 干支は、子・丑・寅など12支(じゅうにし)と、甲、乙、丙など10干(じっかん)の組み合わせによる60を周期とする数詞だが、陰陽五行説と結びついて、暦を始めとして、時間、方位などに用いられてきた。
 そして、古代から、60年に1度、10千の8番目にあたる「辛」と、12支の10番目にあたる「酉」の組み合わせの時に革命が起こると考えられ、さらに60年周期の21回目、1260年で大革命が起こるとみなされた。
 それが辛酉革命である。
 日本書紀には、神武天皇の即位の年が辛酉であるとだけ記されており、その辛酉がいつの辛酉なのかを記紀に記述された天皇の在位期間などを計算したりして、紀元前660年の辛酉ではないかと考えられるようになった。
 西暦の紀元前660年にあたる頃の辛酉の年を、神武天皇の即位であると判断した最初は、平安時代、菅原道眞と学問上のライバルだった三善清行という人物のようだ。彼は、推古天皇の時代の辛酉の年(601年に該当する)を国家的大変革と位置づけ、そこから1260年を遡ったのだ。
 (もちろん、日本で西暦を用い始めたのは1872年、明治維新の後であり、平安時代には西暦の概念はなく、彼の算出の結果は、紀元前7世紀ではあるけれど、現在の計算と若干異なっている)
 いずれにしろ、そういう計算によって決められた紀元前660年の神武天皇即位である。しかし、実際の紀元前660年というのは縄文から弥生に移行していく段階であり、その時に神武天皇が即位したとなると、神武天皇は弥生王国の王で、縄文王国の王であるナガスネ彦を討ち破ったということになる。
 もしそうなら、神武天皇の前の国譲りのタケミナカタタケミカヅチの時代は、どの時代に該当するのか。さらに遡ることになるオオクニヌシの国づくりは縄文王国のことか、という疑問が生じる。
 神武天皇が実在したかどうかは議論があるが、記紀に描かれているような事態が実際に生じたとしても、紀元660年ではなく、もっと後のことだ。
 ならば、それはどの歴史的段階のことなのか。
 日本で歴史が大きく動き始めるのは弥生時代に入り、渡来人が大挙してやってきてからだ。
 それは、大きく分けて4度あったと考えられており、最初の2回は、中国国内の動乱、後の2回は朝鮮半島の動乱の時となる。
 明治維新や戦国時代の鉄砲伝来にかぎらず、日本の歴史変動は、日本列島内だけに原因があるのではなく、海外からの影響が大きい。
  第1の波は、BC5世紀-3世紀で、中国では春秋戦国時代(BC403-221)の時期。この時、渡来人がもたらした新技術(稲作だけでない)によって弥生時代が始まった。
 第2の波はAD4世紀-5世紀と考えられる。応神・仁徳天皇から倭の五王の時代にあたりとなる。古墳が巨大化され、その副葬品も、それまでの鏡、銅剣のような呪術・宗教的色彩の強いものから、武器や馬具などの実用品が多く加わるようになり、さらに馬の形をした埴輪が加えられるようになるが、その急激な変化を指摘し、江上波夫氏が、「騎馬民族日本征服論」を唱えた時期にあたる。
 この時期、中国は三国志の戦いによる分裂と混乱の後、異民族が激しく争う五胡16カ国時代にあたる。中国から朝鮮半島への人民の流入に伴い、高句麗朝鮮半島を南下し、新羅高句麗の影響下に置かれ、日本にも渡来が増えた。当時、日本では大王はじめ各地の有力豪族は、領域内の経済的、文化的発展と政治的支配力の強化を図っており、渡来人の技術が必要とされた。秦氏東漢氏など技術系の渡来人はこの時期にやってきたようだ。
 前回のメモで書いた”丹”という水銀に関わる文化は、どうやら最初の弥生時代の渡来人との関連が深い。というのは、中国の春秋・戦国時代に滅亡した江南の国、呉や越の文化との共通点が多いからだ。そして、江南の地は揚子江流域で稲作の中心地でもあるし、揚子江中流湖南省が、水銀の最大の産地である。
 戦国時代の中国はすでに鉄器時代に入っていたので、その中国からやってきた人たちが、稲作だけを持ってきたとは考えにくい。
 教科書では稲作のことばかり強調されているが、近年になって、各地で歴史認識を覆す大発見が頻繁に起こっている。
 京丹後市弥栄(やさか)町に、弥生時代の奈具岡遺跡がある。1995年の調査で、紀元前1世紀頃の鍛冶炉や、玉造りの工房が見つかっており、玉造の道具としてノミのような鉄製品も作られていた。ここから出土した鉄屑だけでも数kgにもなり、製作された鉄製品の量は莫大だったことがわかる。
 そして、つい最近、2019年3月1日、徳島の阿南市の若杉山遺跡で昨年発見されていた朱砂(硫化水銀)の坑道が、土器片の年代から、弥生時代後期(1~3世紀)の遺構と確認されたと発表された。
 これまで発見されていた最古の坑道は、奈良時代に始まった長登銅山(山口県美祢市)だったので、この若杉山遺跡の坑道の発見以前は、たとえ弥生時代の遺跡から金属器などが発見されても、材料は中国や韓国から輸入して加工しただけのように言われていた。しかし、若杉山の坑道の発見によって、坑道を掘る技術の開始が一挙に500年も遡るために、歴史認識が大きく覆されるだろう。
 さらに、2018年7月、ここから東に5kmほどの阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、弥生時代中期末~後期初頭(約2000年前)の竪穴住居跡20軒が見つかり、このうち10軒では鉄器を製作した鍛冶炉や鉄器作りに用いた道具類などが出土した。鉄器の製造工房としては国内最古級で、集落の半分が工房で、大規模な鉄器の生産拠点だったと考えられる。
 竪穴住居跡の内部に鍛冶炉が19カ所あり、鍛冶炉は、鉄をやじりや小型ナイフなどの小さな鉄器に加工するためのものという。さらに古代の祭祀などに使われた水銀朱を生産する石杵や石臼、ガラス玉や管玉など、出土品は計約50万点にも達する。
 不思議なことにこの10年以内に、徳島だけでなく、淡路の舟木遺跡(2016年から調査)や彦根の稲部遺跡(2013年から調査)など、次々と、弥生時代に作られた大規模な鉄器工房が発見されている。
 大発見からまだ日が浅いということや、これまでの歴史学の常識が覆されるような発見が続いているので、これらの新発見を踏まえた新しい歴史認識について、学会からは、まだきちんと整理された説が出ていない。
 いずれにしろ、中国国内に大きな動乱があった第1回目の春秋・戦国時代(紀元前5世紀頃〜)に日本に大量の渡来人がやってきて弥生時代が始まり、五胡十六国時代という第2回目の中国の大動乱の時(紀元4世紀から5世紀)に、新たな技術を持った人たちが大量にやってきた。
 とすれば、神話の中のオオクニヌシの国づくりや国譲りや、神武天皇の東征や、神功皇后応神天皇の物語は、こうした大変化の時と関わりがあるのではないだろうか。
 記紀が伝える内容は、歴史的事実かどうかわからないが、たとえ史実でなかったとしても、何かしらの事実を象徴的に伝えていることは間違いないだろう。

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これは、もはや偶然とは思えず、何かしらの意図があったとしか考えられない。 日本の古層(4)で書いたように、北緯34.5度のラインは、東から、伊勢斎宮跡、室生寺長谷寺三輪山、多神社、二上山、淡路舟木の製鉄遺跡を結ぶ。伊勢の多気室生寺などは水銀鉱床で知られ、三輪山や舟木など鉄と関係あるところと一緒に東西に並んでいる。 さらに三輪山から、徳島の阿南町で最古の坑道が発見された若杉山遺跡の東5kmの所にある日本最古の鉄器工房である加茂宮の前遺跡を結ぶラインが、和歌山の紀ノ川河口の日前神宮・国懸神宮と、日本建国の地とされる橿原(畝傍山)の神武天皇陵を通っている。このラインは、夏至の日に太陽が上り、冬至の日に太陽が沈むラインである。日前神宮・国懸神宮は、古代には五十猛神が祀られており、周辺に、丹生という場所が非常に多い。そして、大物主を祀る三輪山と、徳島の水銀と鉄。これらが結ばれたライン上に、神武天皇という日本の歴史の始まりが刻まれたのだ。

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さらに上記の地図の三輪山と徳島の阿南の加茂宮の前遺跡を結ぶラインにおいて、三輪山周辺を見ると、驚くべきことがわかる。 天香山、耳成山畝傍山大和三山が、ちょうどこのラインの上に三角形を描き、その中心に藤原宮がある。藤原京は、三輪山と紀ノ川河口の日前神宮・国懸神宮と徳島の阿南の日本最古の鉄器製造拠点を結ぶライン上にある。そして、藤原京は、夏至の日に、三輪山から太陽が上るのを見ることができる。 藤原京は、日本史上で最初の条坊制を布いた本格的な都城であり、694年から710年のあいだ新しい国家の中心だった。都の建設は、676年(天武天皇5年)から始められたことがわかっているので、壬申の乱に勝利した天武天皇の意思で、この地に都を作ることが定められた。天武天皇は、陰陽道に通じており、日本初の天文台陰陽寮という官僚組織を作った。そして、天武天皇は、古事記の制作も進めさせた(古事記の完成は712年)。 古事記が描く世界観と、三輪山と徳島の阿南を結ぶラインが、深く関係している。

第1051回 Original Memory

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雲ヶ畑で撮ったピンホール写真を和紙に出力して出品しました。

京都の四条烏丸の近く、ターミナルキョウトで、写真、工芸、美術、彫刻などのコラボレーション展示会を行っています。

富士山の写真で有名な大山行男さんをはじめ、各ジャンルで響きあう作品づくりを行っている人たちに声をかけて、一つのテーマにそった空間づくりを行っています。テーマは、Original Memoryです。

私たち一人ひとりの経験に基づく個人の記憶というより、人類が積み重ねてきた普遍的な記憶へのアクセス。

すぐに思い出せるような浅い記憶ではなく、もっと深いところに潜んでいる、ふだん意識できないような記憶。

時代を超えて、私たちの祖先、そして未来の子孫ともつながる可能性のあるもの。

そうしたものとの出会いは、自分という存在が自分の力で生きているのではなく、生かされているのだと謙虚に感じられ、なるべくしてこうなったと、今この瞬間を受容できる瞬間でもあります。

そうした潜在的な記憶に深く語りかけるような場づくりのために、一つひとつの作品は、自己を主張するのではなく、もっと大きな調和世界の中の大切なエッセンスでありたいと願っています。

 

第5回  Original Memory

本能的に秘めた特有の記憶。

感情は、その記憶を起源に生まれる。

詳細は、ホームページでご覧いただけます。

https://kazesaeki.wixsite.com/shitsurai

2019年4月1日(月)〜5月6日(月)9時〜18時

<会場> The Terminal KYOTO

〒600-8445 

京都府京都市 下京区新町通仏光寺下ル岩戸山町424 

424 iwatoyama-cho shimogyo-ku  Kyoto cit

第1050回 日本の古層 相反するものを調和させる歴史文化(6)

 

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京都太秦蚕ノ社の三本の鳥居

  京都の太秦に鎮座する蚕ノ社には、謎の三本の鳥居がある。蚕ノ社秦氏と関係が深いので、この三本の鳥居は、秦氏の聖域を指していると考えられている。真北が、秦氏関係の古墳のある双ヶ丘と、鴨川源流の雲ヶ畑、南西の方向が桂川沿いの松尾大社で、その真逆にあるのが鴨川沿いの下鴨神社、そして東南が伏見稲荷であると。

 しかし、地図上で実際に確認してみると、松尾大社下鴨神社、双ヶ丘、雲ヶ畑は合っていたが、伏見稲荷は違っていて、蚕の社の東南の方向は、大津の石山寺となる。

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京都太秦蚕ノ社の三本の鳥居が指す方向。北は、秦氏関係の古墳があるとされる双ヶ岡、仁和寺と通り、鴨川源流の雲ヶ畑秦氏の姓が多い)となる。西南が、松尾大社の磐座の位置。その反対方向が下鴨神社比叡山。東南が石山寺で、その反対方向に亀岡の千歳車塚古墳。蚕の社の真西が、北緯35.01度に並ぶのが、嵯峨野の天龍寺、亀岡の桑田神社、佐伯郷の御霊神社となる。

 

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紫式部が「源氏物語」の執筆を始めたとされる石山寺は、琵琶湖の南端近くに位置し、琵琶湖から流れ出る瀬田川の右岸にある。石山寺は、その名の通り、巨大の石(岩)の上に築かれている。花崗岩マグマと石灰岩接触すると、石灰岩が熱変成し、珪灰石とか大理石ができるそうだが、石山寺が建っているのは、珪灰石の上で、珪灰石の下に大理石の岩盤がある。石山寺の珪灰石は、層状で強く褶曲していて、平地のところに褶曲したものが見られるのは珍しいらしい。

 石山寺秦氏の関係は謎だが、石山寺周辺は、古代、隼人の居住地だったことがわかっている。石山寺の地は、琵琶湖から流れ出る瀬田川宇治川、淀川と名を変えて大阪湾に至る)の流域で、水上交通の要である。

 そして、蚕の社の場所(北緯35.1度)から真西にラインを伸ばしていくと、京都の嵐山の天龍寺を通り、亀岡盆地の入り口で保津川渓谷を抜けたところに鎮座する桑田神社(松尾大社と同じく祭神は大山咋神)を通り、亀岡市の稗田野町に至る。ここは佐伯郷で、古代、隼人の居住地であった。亀岡の隼人の居住地は、田野町から、曽我部町穴太(あのう)、犬養あたりまでで、桂川の支流の犬飼川や、さらにその支流の山内川の流域となり、ここも、水上交通の要である。また、古代山陰道は、この佐伯郷を抜けて丹波、但馬、因幡、出雲へと通じていた。

 2017年1月、亀岡の佐伯郷で、農地の再整備に伴う区画整理を行っている最中に遺物が発見され、本格的な発掘調査が行われることとなり、その後の継続的な調査で、古墳時代から奈良時代平安時代にかけての大規模な都市遺跡、寺院遺跡が発見された。

 この地に鎮座する稗田野神社、御霊神社と、河阿(かわくま)神社、若宮神社は、非常に謎めいた神社だ。

 この四つの神社が合同で行う佐伯灯篭祭りは、五穀豊穣と男女の和合を祈願する祭りで、中世の時代、「男寝て待て女が通う 丹波佐伯郷の燈籠まつり」と呼ばれた女の夜這いの祭りとして知られていた。

 今でもこの地域でもっとも崇敬されている稗田野神社は、神社の裏に鎮守の森があり、約3000年程前にこの地に住み着いた祖先の人達が、その森の中の土盛りのところで、食物の神、野山の神を祭り、原生林を切り拓き田畑を造り、収穫した穀物を供え作物の豊作と子孫の繁栄を祈り捧げていたと伝えられ、古事記の作者、稗田阿礼の生誕の地であるという伝承もある。

 この神社の祭神は、保食神(うけもち)に、イザナギイザナミが産んだ大山祇神(おおやまつみ)と野椎神〔 のづちのかみ)の夫婦神。

 保食神は、『日本書紀』のなかで、以下のように記される。

 月夜見尊保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。

 月読神は、アマテラスやスサノオと同じ三貴神であるが、この神について記した物語は少なく、月読神を祀る神社も、アマテラスやスサノオに比べて、かなり少ない。しかし、亀岡には、名神大社の小川月神社と月読神社がある。亀岡から保津川渓谷を抜けた京都の松尾山に鎮座する月読神社と関係があると言われる。

 この月読神と、保食神は、対立的な存在であるが、月読神によって殺された保食神の身体から、様々な食べ物や、養蚕が生まれる。

 頭頂からは牛と馬、額からは粟(あわ)、眉の上には蚕(かいこ)、眼の中には稗(ひえ)、腹の中には稲、陰部からは麦と大豆や小豆。

 このことについては、金沢庄三郎・田蒙秀氏の研究によると、身体の部分と食べ物の関係は、朝鮮語で対応しているらしい。

 頭(mara) が馬(mar)、顱(cha)が粟(cho)、眼(nun)が稗(nui)、)腹(pai)と稲(pyo)、女陰(poti) と小豆(pat)。

 そして、稗田神社のもう一つの祭神、野椎命は、この神のパートナーの大山祇神が色々な所に登場し、祀られる神社も多いのに比べ、あまり知られておらず、祀る神社も少ない。

 しかし、亀岡には、稗田野神社の他に、藤越神社や篠葉神社(ささばじんじゃ)で祀られていて、全国的にも珍しい集中だ。

 イザナギイザナミが産んだ野椎神と大山祇神は、それぞれ、野と山を分担して司ることになるが、藤越神社に伝えられるところによると、「野椎命は、またの名は鹿屋野比売(かやのひめ)という女神で、今の薩摩の阿多の郡に住んでおられた。夫神に従い、日向から西海道を伊勢へと出られ淡海国の日枝の山に来られる道すがら、山野の物、甘菜辛菜に至るまで霊感を示された。」とある。

 淡海国の日枝の山というのは、琵琶湖に面した比叡山のこと。夫神というのは大山祇神のこと。

 これによると、野椎神(のづちのかみ)は、南九州の隼人の地にいたということになる。

  『古事記』でも、野椎神は「鹿屋野比売(かやのひめ)」という女神の別名であると記されるが、”かや”という言葉について、大林太良氏が、熊襲の首長名として繰り返し出てくると指摘している。さらに、マレー、フィリピン、インドネシア方面の言葉で、”カヤ”という言葉が、呪力とか資産の意味を持つことも合わせて述べている。(『隼人』社会思想社)。

 熊襲も隼人も、大和朝廷側からの呼び方にすぎず、南九州に、どうやらインドネシア系と関連の深い独自の言語と文化を持った人たちがいて、その共同体の中で呪術力を持つ首長だった鹿屋野比売(かやのひめ)(野椎命)が、亀岡にやってきたということになるのだろうか。

 ちなみに、近畿圏の隼人の居住地は、室町初期に中原康富という人が記した『康富記』(やすとみき)によると、琵琶湖に面した竜門(大津の石山寺)、宇治川沿いの田原(宇治田原町)、木津川近くの大住(京田辺)、旧大和川近くの萱振(大阪の八尾)、吉野川沿いの阿陀(五條市)、そして、亀岡の佐伯郷ということになる。いずれも、水上交通の要であるが、このうち、亀岡と大阪の八尾、そして大津に”穴太”(あのう)という地名がある。近畿では、もう一つ、隼人と同じく水上交通と関わりの深い船木氏ゆかりの三重県四日市の員弁川(いなべがわ)沿いにも穴太がある。

 大津の穴太衆は、戦国時代の城壁などの石垣積みで有名だが、もともと、穴太というのは、第20代安康天皇のために設けられた名代部(なしろべ=天皇,皇后,皇子の名をつけた皇室の私有民の土地)の一つで、安康天皇は、わが国で最初に鉄の矢を用いた天皇であるとされ、その矢を穴穂矢といったと「日本書紀」にある。

 なので、穴太は、鉄の武器と関係している。大阪の八尾は、大和朝廷の軍事を司っていた物部氏の土地で、弓矢を作る職人たちがいた。奈良時代の僧侶で、称徳天皇の寵愛を受けて天皇になろうとした道鏡は、物部氏の一つ弓削氏で、出身地は、八尾である。

 また、大津の穴太は、周辺に製鉄の史跡が多く残り、四日市の員弁川沿いも、淡路の船木遺跡のように鉄と関わりの深い船木氏ゆかりの地で、丹生という地名がある。

 ならば、亀岡の隼人の居住地、佐伯郷の穴太も、製鉄と関係あるのだろうか。

 佐伯郷で、佐伯灯篭祭りを合同で行っていた四つの神社、稗田野神社以外の三つの神社も詳しく見てみる。

   若宮神社は、奈良時代の769年の創建と伝わる。創建当時は多気神社として祀られ、2013年、台風18号の風雨で拝殿脇の池の法面で幅10m高さ3mにわたって崩れ、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての土師器や須恵器などの大量の土器が見つかった。土器は数万点にも上る皿や碗などの破片で地下約2mの深さに層状に見つかり、神社で大規模な祭礼が度々行われたことがうかがえる。多気という名は、伊勢の水銀の産地の地名でもあり、海人の船木氏の本貫でもある。

 そして、次に、河阿(かわくま)神社だが、ここは、約二千年程前に九州方面から移住してきた南方系の採鉱治金術を知った部族によって創始されたのではないかと言われている。河阿神社一帯は、温泉が湧き、近代においては日本最大のタングステン鉱山であった大谷鉱山(昭和58年まで操業)があり、古代、錫の鉱床でもあった。

 この神社の祭神は、豊玉姫命と鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえず)という、南九州ゆかりの海人関係の親子。豊玉姫命は、海神豊玉姫の父)の宮にやってきた山幸彦と結婚して、鵜葺草葺不合尊を産んだ。鵜葺草葺不合尊は、豊玉姫命の妹の玉依姫と結ばれて初代天皇神武天皇を産み、神武天皇は、45歳の時に兄や子を集め東征を開始。日向国から筑紫国安芸国吉備国、難波国、河内国紀伊国を経て数々の苦難を乗り越え、大和国に入って、橿原の地に都を開いたことになっている。

 日本のルーツには、南九州の海人が深く関係しているのだ。

 そして、4つの神社のもう一つが、御霊神社であり、近年発見された佐伯郷の古代都市、寺院遺跡は、御霊神社の目の前に広がっていた。

 この神社の祭神が吉備津彦命であることが、この地の謎を深める。

 

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亀岡の御霊神社。祭神は吉備津彦命。この神社の目の前から、つい最近、巨大な古代都市、古代寺院遺跡が発見され、現在も調査中だ。

 吉備津彦命というのは、『日本書紀』によれば第10代崇神天皇の時に四道に派遣された4人の将軍の一人で、播磨から吉備にかけて山陽道を平定したとされる。

 しかし、『古事記』においては、吉備津彦命が西方に派遣されたのは、10代崇神天皇の時ではなく、第7代孝霊天皇の時となっている。

 また、『日本書紀』によれば、亀岡に四道将軍の一人として派遣されたのは、丹波道主命だが、『古事記』では、丹波道主の父親の彦座王(ひこいます)が亀岡に派遣されたことになっている。

 丹波道主命は、第11代垂仁天皇の皇后で、第12代景行天皇を産んだ日葉酢姫(ひばすひめ)の父親だ。

 この丹波道主命が、父親の彦座王と祖父の第9代開化天皇を祀るために創建したのが、御霊神社からさほど離れていない亀岡の穴太、犬飼川沿いの小幡神社で、この地は、大本教の二代教祖の一人、出口王仁三郎の生誕の地だ。

 王仁三郎は、幼少の頃より小幡神社に参拝し続け、ここで神示を受けた。この神社の裏山は古墳になっている。

 山陰道沿いの亀岡の地は、四将軍のうち、丹波道主命もしくは彦座王の関係の深い土地なのに、なぜ、ここの御霊神社に、山陽道を平定した吉備津彦命が祀られているのか。

 実は、亀岡にかぎらず、京都をはじめ、各地の御霊神社でも、吉備大臣とか吉備精霊が祀られている。

 御霊神社は、早良親王井上内親王など、奈良時代から平安時代にかけて政争に

巻き込まれて憤死した人たちが祀られている。その人たちの恨みが怨霊となって災いを起こすことを恐れたからだ。

 一般的に、御霊神社に祀られている吉備大臣、吉備精霊を、吉備真備と解釈する人が多いが、奈良時代遣唐使として派遣され、帰朝後、聖武天皇光明皇后の寵愛を得た吉備真備は憤死した人ではない。なので、御霊神社に祀られている吉備大臣は、吉備真備ではない。京都の下鴨神社ではそう解釈している。

 吉備大臣というのは、四道将軍吉備津彦命であり、いつのまにか吉備真備にすり替わってしまったのだろう

 ここで注意しなくてならないことは、吉備津彦命というのは、吉備に派遣された将軍の名ではないということ。吉備に派遣された人物の名は、第7代孝霊天皇の皇子、彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)であり、彼によって征伐されたのは温羅(うら)という百済の王子だが、温羅こそが、吉備津彦命だったのだ。

 吉備の伝承では、温羅は、吉備に製鉄の技術を伝えたが、鬼として大和朝廷に征伐され、この時の話が、桃太郎の鬼退治の説話になっている。

 湯羅には、吉備冠者の異称があるが、吉備に派遣された彦五十狭芹彦命は、湯羅を討ち取った後、その名を自分が名乗るようになったのだ。

 ジブリアニメ「千と千尋の神隠し」で、千尋が湯婆婆に名前を奪われるという状況が描かれているが、名前を奪われることは、支配されることである。

 古来より、名前は、ものの本質を表すものと考えられており、日本の古い言い伝えでも、『妖怪に名前を知られるとその人間は呪われてしまうが、反対に妖怪の名前を知ったときは、その妖怪を支配したり使役したりできる』という話がある。

 すなわち、吉備津彦命という名は、吉備を支配していた湯羅が、ヤマトから派遣された彦五十狭芹彦命に討たれ、奪われた名前なのだ。

 吉備津神社に伝えられる話によると、討たれた温羅の首はさらされることになったが、討たれてなお首には生気があり、時折目を見開いてはうなり声を上げたため、犬飼武命に命じて犬に首を食わせて骨としたが、静まることはなかった。次に吉備津宮の釜殿の竈の地中深くに骨を埋めたが、13年間うなり声は止まず、周辺に鳴り響いた。ある日、夢の中に温羅が現れ、温羅の妻の阿曽媛に釜殿の神饌を炊かせるよう告げた。このことを人々に伝えて神事を執り行うと、うなり声は鎮まった。その後、温羅は吉凶を占う存在となったという。

 死んだ後も鎮まらなかった温羅の魂が、神事を経て、吉凶を占う存在となったわけで、平安時代以降、怨霊を鎮めるために行った御霊会に通じるところがある。

 日本の歴史の初期段階において製鉄をめぐる戦いがあり、その多くが鬼伝説となっているが、鬼を鎮魂することで鬼を守護神に転じさせるという発想が、古代からあったのだろう。

 太宰府に流されて憤死した菅原道眞を神として祀ることなど、平安期において、災いを、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」として祀ることにより祟りを免れ、そのご加護で平穏と繁栄を実現しようとする御霊信仰が広まるが、その根元が、吉備津彦命の物語なのではないだろうか。

 そして、吉備の鬼退治伝説に通じるものが、亀岡の地にもあるのだ。

(つづく)

 

 

第1049回  虚飾の時代の、覚醒の本。 鬼海弘雄最新写真集『PERSONA 最終章』

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 鬼海弘雄最新写真集『PERSONA 最終章』(筑摩書房)。

 写真集の詳しい内容はこちら→http://www.chikumashobo.co.jp/special/persona/

 

  こんなにもおかしくて、こんなにも美しい本が、ほかにあるだろうか。

 この本は、美しさがおかしさの旨味を引き出すソースで、おかしみが美しさの香味を引き立てるスパイスであることを、生の体験として教えてくれる。

 計算づくめのしたり顔で料理のレシピの工夫を説明するシェフが多い世の中だが、押し付けがましい見かけだおしばかりで、肝心の味が臓腑に染み込んで満足感を与えてくれるものは極めて限られている。

 この本の料理人、鬼海弘海は、今までの作品集ではあまり見られなかったサービス精神を少し発揮してはいるものの、それは、ベテランの域に達した者だけが持つ懐の広さから生じる遊び心であり、程合いを弁えている。そのうえで、手間暇かけて作り込んだ料理を、品のいい器に丁寧に盛り付けて、気の利いたアドバイスを一言だけ添えて出してくれる。

 「わかる人にはわかる。わからない人に、敢えてわかってもらおうとは思わない。」

 それでいいのだろう。化学物質におかされて鈍った舌の力は、当人の心がけがなければどうにもならない。

 味のわかる人が、食べ終わった後にもずっとその至福の余韻を保ち続け、後々まで記憶してもらえれば、料理人として、それ以上の喜びはない。

 鬼海さんは、そういう風に仕事をしてきた。世の中に媚びて流行りの店を賑わせたり、目新しいメニューで話題性を狙うなんて、気性として向いていなかった。だから、何十年も同じことを続けてきた。見返りのない私的な仕事だと割り切って。ただ一つのこだわり、写真行為の誠意と矜持として、人を正面から見つめるということからは、決して脇に逸れることなく。

 この最新写真集『PERSONA 最終章』は、鬼海さんのただ一つのこだわり、人を正面から見つめるということを、何十年も積み重ねてくるとどうなるかという、一つの極致の形である。

 1960年代から70年代の初頭、ダイアン・アーバスという高名なアメリカの女性写真家が、人を正面から見つめることを苛烈に行い続け、自らの精神のバランスを崩し、48歳で自殺した。

 彼女が行ったことも写真表現の一つの極致であり、尊い仕事として写真史に刻まれているが、鬼海さんは、同じように人間と正面から向き合い続けても、ダイアン・アーバスのような悲壮にはならなかった。鬼海さんには、不可思議な軽妙さと野太さがあり、ダイアン・アーバスがもがき続けた壁を、ふわりと超えてしまっている。

 おそらくであるが、ダイアン・アーバスが、ニューヨークで生まれ育ち、若い頃、華麗なファッション写真においても成功した都会人であるのに対し、鬼海さんが、山形の農村出身で、若い頃、トラックの運転手や職工、マグロ漁船など、自然にもまれ、肉体労働者として生きていたことが表現のベースになっていることが大きいだろう。肉体は思うようにならないことが多いし、自然は、人間に容赦なく、長い目で見るしかないと、たびたび思い知らされるものだから。

  さらに鬼海さんは、大学時代、哲学者の福田定良さんと師弟関係だった。

 政治運動が盛んな頃、福田さんは、社会に関心を寄せながらも哲学という根気のいる試みを淡々と続けていた。哲学者は、外にばかり答えを求めるのではなく、自分の内に答えがあることを知っている。

 肉体労働と哲学、この二つの軸によって、鬼海さんは、どんなに物事がうまくいかない時でも、軸をぶらすことがなかった。その表現世界は地にしっかりと足がつき、それでいて軽やかで、タッチは柔らかいのに、ずっしりと重い人間の尊厳に迫るものとなっている。

 人間の尊厳とは、大きな声で叫ぶスローガンではなく、私たち一人ひとりの”体温をおびた想像力”を通して、愛しさや慈しみと深くつながっているものである。

 想像力を麻痺させてしまう恫喝的な正義や尊厳の主張は、正しそうな言葉とは裏腹に、人間の体温の伴う感覚からの容赦のない遮断ではないか。

 鬼海さんが撮る肖像写真は、なまめかしいまでの体温が伝わってくるものである。その体温それじたいが人間の命を愛おしく感じさせる力であり、尊厳を大切にするというのは、そうした愛すべき存在を、そのまま愛することである。

 鬼海さんは、「表現は独創性なしでは成り立たない。」と述べているが、肖像写真という、写真表現の中では差別化しずらい方法を選んでいながら、その表現個性が際立っているのが、鬼海さんの写真である。

 しかし、それだけ印象の強い鬼海さんの写真であるがゆえに、同じことを長期間に渡って続けていると、ともすればワンパターンの仕事だと、思慮の浅い裁断をする人もいるだろうが、事実はまったくそうはならない。

 鬼海さんは、浅草の浅草寺の朱色に塗られた壁の前で、通りゆく人を撮影するということを、1973年から続けていて、2004年に、草思社から「PERSONA」を発表し、日本だけでなく世界中で話題になった。

 浅草の一箇所で出会った人の肖像写真に、世界中の人々が、特別な親近感と驚きと普遍性を感じ取ったのである。

 そして、このたび筑摩書房から発行された『PERSONA 最終章』は、2004年の写真集の発行の後、2005年から2018年にかけて撮影されたものが収められている。

 なんと、最初の「PERSONA」と今回の「最終章」のあいだで、45年もの月日の隔たりがある肖像写真が存在している。

 にもかかわらず、何も変わらないと感じさせるところと、何かが違うと感じさせるものがある。

 テレビ番組などにおいて、10年前、30年前の流行などを取り上げて明らかな違いを強調して懐かしさを押し付けて消化させる類のものとは一線を画した、得も言われぬ差異と普遍性。

 人間には、現実にさらされて変わらざるを得ないところもあるが、生き物として、変わらなくていいものもある。そして、人間として、生き物として、変わらなくていいものがあると気づかせてくれるものが、これほどまで愛おしいということを、消費社会の廃棄物だらけの中で、鬼海さんの写真は、にんまりと教えてくれる。

 鬼海さんが撮った写真を通じて、鑑賞者もまた、「人に思いを馳せること。」の追体験をする。その時、他人にも、自分にさえも少し愛おしさを感じることになる。

 『PERSONA 最終章』を見終わった後の幸福感は、人に愛されることで満たされる自己愛によるものではなく、人を愛せることに喜びを感じる他者愛によるものだ。

 人に思いを馳せることは、人を深く愛し、人に深く配慮し、どんな人生にも敬意を払うこと。

 人類が、幸福になるためには欠かせないその大切な軸が、種々雑多な薄っぺらい虚飾によって崩され、人生の足元がおぼつかなくなる。

『PERSONA 最終章』は、そんな虚飾の時代に、ひたすら誠実に人間の正面に立ち続けた驚くべき持続の軌跡であり、生の感覚を鈍らせた頭と身体を覚醒させる本なのだ。

 写真表現は、生まれてから200年にもならず、絵画や彫刻などに比べてもっとも歴史が浅い表現であるが、『PERSONA 最終章』は、写真表現にとって一つの極北を示しており、同時に、人生のリアリティを、他の表現方法では成し得ないスタイルで描ききることに成功している。

 さらには、一つひとつの写真に添えられた短いキャプションの豊かさにも感嘆させられるが、巻末の鬼海さんの文章が、また味わい深い。写真の奥行きは、写真家の人生の奥行きの投影だということが、これ以上に明確に伝わってくる言葉を、私は他に知らない。

 

 写真集の詳しい内容はこちら→http://www.chikumashobo.co.jp/special/persona/

 

第1048回 日本の古層〜相反するものを調和させる歴史文化〜(5)

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紀国(和歌山)は”木国”であり、五十猛神の土地である。五十猛神は、木と船の神なので、船木氏のイメージが重なる。また、紀国は、中央構造線上にあり、水銀の産地である”丹”という地名が多い。五十猛神は、もともと、現在の日前神宮・国懸神宮のところに祀られていて、その後、この写真の「亥の森」のところに移り、さらに現在の伊太祁曽神社に移された。

 『源氏物語』よりも前に書かれた物語はいくつかあるが、その中で、『源氏物語』の様々な箇所で影響が見られるのが、平安初期に書かれた『伊勢物語』である。

 『源氏物語』には、伊勢物語の中の歌が数多く引用されているし、伊勢物語の主人好のプレイボーイ(在原業平が想定されている)が繰り広げる恋愛は、源氏物語光源氏と重なる。

 なかでも、『伊勢物語』の第69段で、 男と伊勢斎宮恬子 (やすこ) 内親王との一夜の情交の話を描かれているが、 『伊勢物語』 という通称は、この伊勢における一夜の愛が、愛の極致の姿であると考えられたためだとも云う。

 伊勢斎宮は未婚の皇女たちの中から選ばれて、伊勢神宮に巫女として奉仕する女性であり、 神聖で冒すべからざる存在である。

 『源氏物語』には、光源氏につれない態度をとる朝顔の君や、たびたび怨霊となって現れる六条御息所の娘である秋好中宮などの伊勢斎宮が登場するが、光源氏は彼女たちに惹かれるものの男女の関係とはならない。光源氏にとって神聖で冒すべからざる存在にもかかわらず男女の関係となってしまうのは、父親の妃、藤壺であり、彼女との恋愛の苦悩が、物語の軸となっている。

 『伊勢物語』には、古代に海人として活躍した紀氏が多く登場する。主人公の在原業平の妻も紀氏だった。

 紀氏と、住吉神との関係は深い。

 大阪の住吉大社の境内摂社として、船玉神社がある。船玉というのは船の守護神であるが、この祭神について、『住吉大社神代記』では、「紀国の紀氏の神なり。志麻神(シマ)・静火神(シヅヒ)・伊達神(イタテ)の本社なり」とある。

 さらに、「船木氏の遠祖・大田田命が、自分が領有する山の樹を伐って船三艘を造り奉った。神宮皇后は、この船に乗って新羅に遠征し、凱旋したのち、その船を武内宿禰に命じて祀らせたが、志摩社・静火社・伊達社とは此の三前の神なり」とある。

 住吉大社の摂社である船玉神社の祭神は、船木氏が神功皇后のために造った三艘の船であり、これらは、紀氏の神となっている。

 だから、この三神は、いずれも紀の国(和歌山)に祀られている。志摩神社祭神:中津島姫命(別名:イチキシマヒメ))、静火神社祭神:火結神ホムスビ))伊太祁曽神社(祭神:五十猛神(イタケル))である。

 神功皇后の参謀として活躍し、これらの三神を祀った武内宿禰の母親も紀氏であるが、神功皇后新羅出征に紀氏が大きく関わっており、紀氏は、住吉の神ともつながっているということになる。

 神功皇后の物語はフィクションである可能性が高いとされるが、たとえそうだとしても、紀氏と住吉神は関係が深く、『伊勢物語』と紀氏の関係も深い。さらに、『源氏物語』などの女流文学、仮名文学に大きな影響を与えた『土佐日記』の作者が、紀氏の紀貫之である。

 そして、一般的に和歌三神とされるのが、住吉神と、紀の国(和歌山)の玉津島明神と、柿本人麿である。

 玉津島神社には、稚日女尊(わかひるめのみこと)、神功皇后衣通姫(そとおりひめ)が祀られている。

 稚日女尊水神・水銀鉱床の神である丹生都比賣大神(にうつひめ)の別名である。また、衣通姫は、第19代允恭天皇の皇女であり、美しく、歌に優れていたとされる。

 紀貫之が、小野小町の歌を評して、小野小町は古の衣通姫の流(りゅう)なり。
 あわれなるようにて、つよからず、いわば、よき女のなやめるところあるに似たり。つよからぬは女の歌なればなるべし」と書いている。

 古事記』によれば、衣通姫は、允恭天皇の皇女であるが、允恭天皇の第一皇子で、衣通姫の同母兄である軽太子(かるのひつぎのみこ)と情を通じるタブーを犯す。それが原因で允恭天皇崩御後、軽太子は群臣に背かれて失脚、伊予へ流刑となるが、衣通姫もそれを追って伊予に赴き、再会を果たした二人は心中する(衣通姫伝説)

 衣通姫の物語も、「伊勢物語』や『源氏物語』と同様、禁じられた恋の物語であり、だからこそ、人々の胸に深く刻まれてきた。

 そして、和歌三神の残りの一つ、柿本人麿が祀られているのが明石の柿本神社である。

 柿本人麿は、明石の歌を数首、詠んでいる。

 「ほのぼのとあかしの浦の朝霧に島隠れゆく船をしぞ思ふ」

 古今集の中では、詠み人知らずとされているが、平安時代より、この歌は柿本人麿のものだと信じられてきた。

 『源氏物語』の明石の帖において、光源氏が明石の地に残してきた明石の君に送る手紙の中で、

 嘆きつつ あかしの浦に 朝霧の 立つやと人を 思ひやるかな

 と詠んでいる。

 紫式部のなかで、明石の地というのは、住吉信仰の地であるとともに、柿本人麿ゆかりの地として、すなわち、歌神の聖地として、認識されていたものと思われる。

  日本の古層(3)の記事で書いた紫式部のルーツ宮道弥益は、『今昔物語集』において、山城国宇治郡の郡司として登場する。その当時、850年頃、宇治郡を含む山城国の長官だったのが、紀氏の紀今守である。租税制度の改革など様々な政策を提言し、実行するなど良吏の代名詞とされる人物で、最終的な官位が、『源氏物語』の明石入道と同じ播磨守だった。

 そして、宮道弥益は、自分の娘が産んだ娘が宇多天皇と結ばれて醍醐天皇を産むことになるので、『源氏物語』の中の明石入道の娘が光源氏と結ばれて産んだ娘が皇后となる展開と同じである。

 さらに、宮道弥益の娘、列子は、紫式部の父親の祖父にあたる藤原定方の母親でもあるが、藤原定方は、醍醐天皇の叔父として政界で出世するとともに優れた歌人でもあり、紀貫之の最大の後援者だった。

 紫式部と、住吉神や紀氏とのあいだには、深い縁がある。

 ともに歌神と関係が深いということも、興味深い。

  平安文学を彩り、日本固有の文化の軸となっていく和歌だが、”和歌陀羅尼”という言葉がある。

 空海は、「和歌はこれ陀羅尼なり」と言い、西行も「和歌陀羅尼」と言った。陀羅尼とは呪文のようなお経であり、言葉に特別な力の宿る神秘の言語表現ということになる。

 905年、醍醐天皇の勅命で編纂された『古今和歌集』の序文において、紀貫之が、和歌について、このように述べる。

「大和歌は、人の心を種として、万の言の葉となれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見る物、聞く物につけて、言ひ出だせるなり。花に鳴く鴬、水に住む河鹿の声を聞けば、生きとし生ける物、いづれか歌を詠まざりける。力をも入れずして、天地を動かし、目に見えぬ鬼神をも、あはれと思はせ、男女の仲をもやはらげ、猛きもののふの心をも、慰むるは歌なり」

 紀貫之は、歌というのは、力も入れないで天地を動かし、目に見えない鬼神ですらしみじみと感動させ、男女の仲も和らげ、勇ましい武士の心でも慰める。と述べている。

 言葉というものは、世の中の現象をなぞるためのものではなく、言葉には霊の力が宿り、その霊の力が、言葉によって表された事柄を現実化する。そういう言霊の力を、紫式部も信じて、『源氏物語』を書き表したに違いない。

 そして、数多くの歌が織り込まれている『古事記』も、考古学的な裏付けが必要な歴史事実の記述ではなく、言霊の力によって、この国の大切な真理を伝えているのだと思われる。

 

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和歌山の玉津島神社から、近江高島安曇川町(古代船木氏の地)を結ぶライン上に、比叡山清水寺石清水八幡宮四天王寺住吉大社日前神宮・国懸神宮が並ぶ。四天王寺の鳥居は、真西を向いていることで知られる。春と秋の彼岸の日、鳥居の向こうに太陽が沈む。沈む夕日に浄土の想いをはせる日想観(につそうかん)が古代から現在まで行われているが、四天王寺の真西に位置するのが明石の柿本人麿神社で、ともに北緯34.65度である。