第1234回 和を以て貴しとすること。

聖徳太子が制定したとされる「十七条憲法」の第一条の冒頭。

 「和を以て貴しとし、忤(サカフル)ことは無いように。人には皆、党(タムラ)があり、悟っているものは少ない。よって君父(キミカゾ)に従わない。また、隣の里とも違うだろう。しかし、上と和し、下と睦まじくして、事を論じて話し合って、諧(カナウ)するなら、物事は自然と上手くいき、なんでも成せるだろう。」

 少し意訳になるが、「人は、それぞれ所属するところがあるし、生きている場所によっても色々異なっており、その範疇のことしか考えない傾向があるが、異なるものに対して無闇に反発するのではなく、それを調和させることが最高に素晴らしいものだと悟るべきだ。上も下も分け隔てることなく本質にそって対話を行い、その結果として調和に導くことができれば、物事は自然と上手くいき、何事も成就していく。」ということが、述べられている。

 はるか1400年前に、日本人の精神は、こういう境地に達していた。ここに述べられていることは、現代人が直面している深刻な事態にも通ずる普遍性がある。

 「和」というのは、同じ性質のもの同士の閉鎖的な予定調和ではなく、異なるバックグラウンドを持つもの同士が、お互いを生かすように組み合わさること。

 日本文化、日本の芸術表現は、ずっとそこを目指していた。

 絵画で言えば、動と静を一枚の絵の中に見事調和させる。俳句は、一瞬にして、目の前の小さな光景を森羅万象に広げる。そして、能は、彼岸と此岸を溶け合わせる。

 動きに関しては、ゆったりに見えるのに速い。軽やかなのに重厚。おっとりとしているのに凛としている。

 そして、物事の裁定においては、「いき」なはからい。

 誰かが決めたことを拠り所にしたり、前例に固執するのは、野暮。白を白と言い、黒を黒と言うだけなら、風流がない。

 日本人の美意識では、冬枯れの景色も趣がある。逆もまたしかりなのだ。

 聖徳太子が、実在していたかどうかなんて、どうでもいい。聖徳太子という人物像を創造した、いにしえの日本人の心に思いを馳せればいいだけのこと。

 大阪の富田林市にある美具久留御魂神社の境内に立つと、鳥居の向こうに二上山が見える。そして、美具久留御魂神社と二上山のちょうど真ん中3.4kmのところが、叡福寺境内の聖徳太子の陵墓であり、この二つを結ぶラインを東に伸ばしたところが三輪山大神神社である。

 この東西のラインは、大物主(大国主)の祟りと関係している。

 美具久留御魂神社の御神体は、出雲の神宝とされていた生弓と生太刀なのだが、これは、大国主が、スサノオの館から逃れる時に持ち出したもので、この弓と刀が国づくりにおいて大いに力を発揮した。 

 第10代崇神天皇の時代、美具久留御魂神社周辺で大国主の祟りがあり、これを鎮めるため、出雲の国からこの刀と弓を獲得して、大国主御神体としたという伝承がある

 祟りには疫病や自然災害も含めた国内秩序の乱れが集約されているが、重要なことは、そうした厄災における対処方法だった。

 古くは、そうした厄災において人柱などが実際に行われていた。

 しかし、崇神天皇の時に起きたとされる大物主の祟りでは、従来の方法ではうまくいかなかったと古事記日本書紀では記され、天皇の夢枕に現れた大物主が、大田根根子に自分を祀らせるように指示をして、そのようにすると鎮まったことが伝えられている。その場所が三輪山だった。

 大田根根子は、賀茂氏の祖だが、その祭祀の方法は、須恵器を用いることだった。

 1100度以上の高温で焼く須恵器は、それまでの低温で焼く陶器の土師器と異なり、水漏れがしづらく、液体の貯蔵などに向いており、主に酒器をはじめ祭祀器として用いられた。酒や食物をこれに盛って、供えるのである。

 日本社会においては、昔も今も、同じものを飲食することで、立場の異なるものが調和をはかろうとする習慣がある。だからビジネスでは接待が欠かせないし、外交においても必ず饗応がある。

 この慣習は、古代、神と人間とのあいだでも行われた。今でも神社の祭祀の最後に、直会(なおらい)が行われる。神霊が召し上がったものを参加者が頂くことにより、神霊との結びつきを強くし、神霊の力を分けてもらい、その加護を期待するとともに、同じものを食べた人間のあいだに調和が生まれる。

 太子町の聖徳太子の御陵には、太子が一緒に埋葬されることを望んだ妃の膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)が合葬されているのだが、彼女の実家の膳氏は、こうした食膳を管理する一族だった。

 大田根根子によって大物主の祟りが鎮められる話には続きがあり、高橋邑の活人という者が、大物主にお神酒を捧げさせたという記述がある。高橋邑の活人は膳氏であり、膳部菩岐々美郎女の祖先が、大物主の祟りを鎮めることに関わっていたのだ。

 だとすると、聖徳太子の御陵が、大物主の祟りと関わる三輪山と美具久留御魂神社を結ぶライン上にあるのは、妃の膳部菩岐々美郎女が合葬されていることも、理由の一つになってくる。

(太子町にある聖徳太子の御陵。太子の妃の膳部菩岐々美郎女と、太子の母、穴穂部間人が合葬されている)

 そして、この東西のラインを美具久留御魂神社から13kmほど西に伸ばすと、和泉黄金塚古墳があるのだが、この周辺が、古代、大物主の祟りを鎮めた大田根根子と関わりの深い須恵器製造場所だった。

 この和泉黄金塚古墳もまた、神秘に彩られた古墳である。築造は4世紀末から5世紀前半とされているが、被葬者は3名、真ん中が女性で、両隣が男性である。さらに、多くの副葬品が出土したが、2世紀末〜3世紀中頃という古い時期の青銅鏡が6面も出土し、その一つに、景初三年(239年)という、卑弥呼が魏の皇帝から銅鏡百枚を賜った年が刻まれている。

 古墳の被葬者のうち真ん中が女性というのは、時代は異なるが、この女性が卑弥呼のような宗教的リーダーであったことを示している。

 実は、2012年、奈良盆地の西の端、二上山から東北4kmの上牧町の丘陵で、三世紀後半の古墳が見つかり、銅鏡が出土したのだが、これが、和泉黄金塚古墳から出土した景初三年(239年)と同型だった。

 この上牧久渡古墳群は、古墳時代初期から終末期まで一つの丘陵に6基の各時代の墳墓が有る珍しい古墳群で、さらに、弥生時代の祭祀道具である銅鐸が出土した所でもある。

 つまり、上牧久渡古墳群は、弥生時代から祭祀と関わる場所であり、それが古墳時代後期まで続いていた。そして、この場所で最も古い古墳から出土した銅鏡が、三輪山、太子町を結ぶラインの一番西に位置する和泉黄金塚古墳の、宗教的指導者と思われる女性の被葬者の副葬品になっている。それが、景初三年(239年)という卑弥呼と関わりの深い年号なのは、偶然ではなく、極めて計画的に深い意味がこめられている。つまり、大物主の祟りを鎮めるという象徴的な儀礼のために、過去との調和もはかられているのだ。

(東から、三輪山の麓の大神神社二上山、太子町の聖徳太子の陵墓、美具久留御魂神社、和泉黄金塚古墳)

 当時の政治の中心は奈良盆地にあったが、その場所に立てば、太陽は双耳峰の二上山の向こうへと沈んでいく。そこは死後の世界である。聖徳太子の御陵をはじめ大王の墓が集中している太子町は、まさにその場所にある。

 天津神は、大国主に対して、力のある者が全てを所有物と見なすウシハクの国ではなく、他の者と共有化し、役割を定めて治めるシラスにしようと、国譲りを迫る。その提案を受け入れた大国主は、幽冥界の主となり、人の世が不穏になると、祟りという警鐘を鳴らした。

 大国主は、天津神によって侵略されて排除されたわけではなく、役割が変わっただけであり、その声を尊重して、様々な方法で祭祀が行われた。

 大国主(大物主)の祟りにおける祭祀とは、人間が、自らの驕りを省みる機会である。人と人とのあいだだけでなく、人と神とのあいだも、それが幽冥界の主であれ、和を以て貴しとするのが、いにしえの日本人の目指すところだった。

 

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第1233回 古代から人間は同じことを繰り返している。

 ロシアとウクライナの戦争が、このまま続けば世界はどうなってしまうのか?

 単純化してしまうことに慎重でなければならないと思うけれど、こうした戦争は、けっきょくのところ男性原理が突出した形で現れた結果ではないだろうか。

 強い方が偉くて立派だと思い込んで勝つか負けるかに頑なにこだわり続けること。

 もちろん、今日の世界は女性の社会進出も著しく、社会の中で勝ち抜くことにこだわり続ける女性も増えているだろうが、勝つことだけが全てではない、ということを弁えている人の数は男性よりも女性の方が多いのではないだろうか。

 日本という国は、卑弥呼の時代から、男がトップに立つと国中が争って乱れ、女性をトップに立てることで治ったという歴史があった。

 また、律令制が整えられていく飛鳥時代から奈良時代の前半まで、女性天皇が続いていた。第35代皇極天皇、第37代斉明天皇(皇極天応の重祚)、第41代持統天皇、第43代元明天皇、第44代元正天皇、第46代孝謙天皇、第48代称徳天皇孝謙天皇重祚)だ。

 現在の日本は、皇位継承権を「男系男子」に限定していることの問題に直面しているが、答えを決定していくメンバーの大半が男性だから男系にこだわっているだけであり、過去において、女性天皇は不自然でも何でもなかった。

 そして、古事記日本書紀が編纂されたのは、持統天皇から元明天皇といった女性天皇が中心の時だった。

 古事記日本書紀の記述内容について、藤原不比等の陰謀による歴史の書き換えなどと、陳腐なことを主張する歴史好きとか、自称歴史専門家がいる。彼らもまた、男性原理が強すぎて、歴史の動きが、陰謀も含めて勝ち負けの論理だけで決まっている思いこみすぎている。

 彼らは、古事記日本書紀に書かれていることの真意をまるでわかっていない。

 陰謀論の好きな人は、たとえば出雲の物語や国譲りにおいても、侵略戦争のことを伝えていると思いこんでいる。

 そして、遠い過去において、一度、そういうことが起きたと思っている。

 実際は、国譲りの物語は、一度起きた史実ではなく、人間社会の法則を象徴的に伝えている。

 大国主に対して国譲りを迫るタケミカヅチが、述べている言葉は、

 汝之字志波祁流 此葦原中國者 我御子之所知國

「汝のウシハケる この葦原の中つ国は 我が御子のシラス国なるぞ」である。

 ウシハクというのは、力のある者が全てを所有物と見なす国のことであり、シラスというのは、「知らせ」を聞いた者が他の者と情報を共有化し、役割を定めて治めるところだ。

 古事記や日本書記が書かれた頃は、律令制を整えていく段階だった。

 律令制というのは、学校の教科書で習う時は、そういうことがあったと教えられるだけだが、それまで先祖代々受け継いできた土地を、いったん朝廷に差し出して、それを借用するという形をとることであり、急激に共産主義社会にするようなものである。法律や制度を変えるだけで人々が簡単にそれに従うはずがない。

 そういう体制を維持するためには、まずは新しい思想の創造が必要だった。

 ウシハクではなくシラスの国にしようという国譲りの宣言は、そのことを表している。そして、この思想の確立の段階で、女性天皇が続いたのも、たまたまではなく、必然的なことだっただろう。こうした体制転換、つまり、国譲りの歴史は、一度きりではなかった。

 飛鳥時代蘇我氏物部氏の戦いがあった後、女帝の推古天皇が長期にわたってトップに立ち、聖徳太子がそれをサポートしたという、卑弥呼の時代と同じような統治体制が伝えられている。

 蘇我と物部と戦いも、仏教をめぐる対立のように教科書で教えられるが、それは、後の時代の仏教教化の流れに重ねられただけであり、実際は、物部守屋が後ろ盾になった穴穂部皇子が、ウシハク=(力のある者が君臨する)の王になろうとして、それを蘇我馬子が阻止したことが背景にある。

 大国主の国づくりの歴史も一度きりの話ではなく、これは、人間社会に何度か起きている発展の法則を伝えている。

 国譲りの主役は大国主だが、鍵を握っているのは、大国主をサポートするスクナビコナだ。この神は、新しい知識や技術の神であるが、その親は、造化三神の一柱であるカミムスビだ。カミムスビは、高天原にいるのにかかわらず、出雲系の神々を支援する特殊な神であり、高天原の神々にとって出雲の神々が敵ではないということを、カミムスビが示している。

 カミムスビが何なのかを考えるためには、造化三神の中で重要な役割を果たすタカミムスビのことを理解しなければならない。

 天孫降臨の際に、アマテラス大神とともに重要な司令塔の役割を果たすのが、このタカミムスビで、この神は、天の磐座で、指令を出す。

 タカミムスビというのは、この世界に、あまねく行き渡っているエネルギーのようなものであり、人間が手をくわえる前の資源だ。水や空気、鉱物など、すべては、何ものかになりうる可能性に満ちた存在であり、私たちは、そうした世界の中で生きている。縄文人にとって、そうしたエネルギーそのものが神であった。

 その神は人間の意図とは関係なく、何かしら次に起きることの気配を人間に伝えた。気圧が変われば天気が変わるように。そのお告げを読み取る能力のある巫女が、古代世界には現実に存在した。そして巫女は織姫であった。そして、その神託を受ける場所は磐座だった。磐座学会は、磐座を人工的なものと定義しているようだが、それは極めてナンセンスな考えであり、人間の手を介さない領域のことを受信する場は、非人工的なものであるから、天然の巨石の方がふさわしい。

 後の時代、水田耕作がはじまった後、祈雨とか止雨など人間の願望を神に伝えるために、臨時の神霊を招き降ろす場を作った。 それが神籬(ひもろぎ)だが、榊などの常緑樹を立て、周りを囲って神座とした。なかには、岩を結界で囲むなど、人工的な手を加えることもあった。それらは、人間の分別や意図がくわわっているものであり、縄文時代の磐座とは異なる。

 そして、あまねく行き渡ったエネルギー(タカミムスビ)を、何らかの形に結実していく力が宇宙には働いており、それが、カミムスビである。

 たとえば、泥沼が乾いて煉瓦になったり、木と木がこすれ合って火が起きたり。

 人間以外の生物たちは、そうした自然現象に対して、自然のまま対応している。

 人間だけが、その自然現象からヒントを得て、手を加え始める。カミムスビの子のスクナビコナが表しているのは、そうした力だ。

 そのスクナビコナの協力を得て大国主の国づくりが行われる。これは、人間社会が、様々な工夫を凝らしながら産業を発展させていく段階のことを示している。

 この段階での人間は、世界をありのまま受け入れるのではなく、分別によって、より良いもの、より優れたもの、より強いものを目指していく。だから、当然ながら、競争があり、戦いが生まれる。競争や戦いが、人間社会の発展と、切っても切れない関係になる。

 そして、最終的に、一番強いもの、もしくは一番優れたものが、全てを手中におさめようとする。(それが可能になるのは、多くの人間が、一番強いもの、一番優れたものに任せることが良いと思うからでもある。)

 これが、国譲りの物語に出てくる「ウシハク」なのだ。

 人間は、こうした歴史発展の段階を何度も繰り返している。

 この「ウシハク」の最終段階に至った時というのは、色々な知恵や技術も、かなり行き渡っているという状態でもあり、だからこそ、改めて、「シラス」の状態へと移行することの大切さが、国譲りでは説かれている。そうしないと、すでに獲得している技術や知恵を活用して、その使い方を間違えて、不幸なことが起きるからだ。技術や知恵が発展していれば、戦いによる破壊も、より大きくなる。

 だから、国譲りの神話では、改めて、宇宙に最初に現れた造化三神タカミムスビが前に出てくることになる。

 そして太陽神も、2度生まれる。

 最初は、人間の分別以前で、イザナギイザナミの陰陽両神によって生まれる。この段階での太陽神は、山や川やすべての自然物と等しい存在であり、オオヒルメノムチと名付けられている。

 2度目の誕生は、イザナミが死んでしまい、黄泉の国からもどってきたイザナギが、禊をする時に、アマテラス大神として生まれる。つまりこれは、陰陽のうち、陰(女性性)が欠けた世界からの新たな秩序づくりである。イザナミイザナギ、つまり、波と凪があってこその宇宙のリズムだが、波(不安定)よりも凪(安定)を優先する心理世界のはじまりである。

 この時期は、遥かなる昔ではない。なぜなら、黄泉という概念が存在しているからだ。

 5世紀の後半までの古墳では、石室は縦穴式であり、前方後円墳の円墳部分の頂上に築かれていた。死んだ人間の魂は天に上っていくと考えられていた。その時、黄泉という概念はなかった。

 しかし、6世紀になって、石室は、古墳の一番下の内部深くに築かれ、地面と同じ高さに入り口を設けた横穴式となった。

 石室を囲んでいる地面の向こう側が黄泉であり、だから、黄泉の旅のために、食べ物なども備えられた。黄泉の概念は、この時から始まっている。

 黄泉という概念が生まれ、禊をして穢れをはらわなければならないことがあって、太陽神が登場する。この時の太陽神は、タカミムスビと同じく、あまねく行き渡るエネルギーを象徴しており、だからこの二神が、国譲りの指令を行う。

 大王の石室が横穴式になったのは第26代継体天皇の時であり、この天皇は、それまでの天皇と血統が変わっている。継体天皇の即位以降、6世紀、日本は、ウシハクからシラスに向けた体制変化の一歩を踏み始める。

 しかし、すぐには簡単にできるものではなかった。

 7世紀、蘇我と物部の戦いがあり、その後、長期にわたった推古天皇聖徳太子に象徴される時代にも、その試みが行われていた。

 晩年の聖徳太子は、古事記日本書紀のもとになる天皇記と国記の編纂に、力を尽くしていたとされる。

 しかし、7世紀中旬の乙巳の変を経て、白村江の戦い壬申の乱など、混乱はなおも続き、ようやく律令制が整えられたのは、持統天皇から元明天皇の女帝時代だった。

 学校の教科書では、奈良時代平安時代は、律令制の時代で、1192年の鎌倉時代から武士による封建時代が始めると教えられるが、すでに900年代の前半、菅原道眞の祟りが吹き荒れた時をきっかけに、律令制の要である班田収授は一切行われなくなったので、平安時代の最初の100年しか律令制は続かなかった。菅原道眞の祟り騒ぎの背後には、当然ながら、律令制を終焉させようとする者たちの動きがあった。

 現代社会の価値観では、国譲りは、侵略戦争としてしか認識されない。

 それは、そう認識する人たちが、強いか弱いか、優れているか劣っているか、勝ちか負けか、損か得かという価値認識に、完全に支配されているからだ。

 なので、侵略戦争について、あれこれ解説する人や媒体のなかでも、勝ちと負けにこだわり、競争が生まれる。

 人間は、同じような歴史を繰り返しており、古代の人々は、私たちが想像している以上に、そうした人間の性質を理解していた。

 西欧社会の価値基盤の深いところに横たわっている旧約聖書にも、それが反映されている。

 アダムとイブが楽園から追放されたのは、分別という果実を手にしたからであり、その時から、恥の意識が芽生えた。

 恥の意識は、優劣を競う心となり、妬みとなり、すぐにカインのアベル殺しが生まれた。

 その後すぐに様々な技術の誕生が紹介され、ノアの洪水という自然災害をきっかけに、人間は神頼みをやめ、ひたすら人間の力だけを信じるようになってバビロンの塔を建設する。

 その結果、言葉が乱れる。これは多言語になるということではなく、産業の発展や社会体制の官僚化によって、記号的で形式的な言語が増えるということであり、そうなると、今でもそうだが、真意を伝え合うコミュニケーションが難しくなる。

 その後すぐ、ソドムとゴモラの時代となり、飽食の世界が滅びる。

 生き残ったのはアブラハムであり、アブラハムは、すべてに対して執着を持たない存在として描かれている。試練の最後には自分の最愛の息子イサクを差し出すように神に求められ、それを実行しようとして、神は、アブラハムの試練をやめる。

 アブラハムが、究極の選択においても、自己意識にとらわれていないからだ。

 アブラハムが創造された2000年後、イエスキリストが創造されたが、イエスキリストが引用するのは、つねにアブラハムがどうしたか、ということだ。

 アブラハムやイエスキリストや、シラスの国を、私たちが実現しなければならないものとして、古代人が伝えているわけではないだろう。

 人間が、そんなに簡単に、そうできるものでないということを、古代人も知り尽くしていただろうし。

 それでも古代人は、今、自分たちの目の前に起きていることも、本質的には、過去から変わらないことであるという自覚を持つことで、冷静な判断を取り戻そうとしたのであろう。

 すでに偏った分別をもってしまっている人間が、その分別の偏狭さを認識することは、難しい。 

 しかし、自分にとって重大なことで絶対的であるかのようなその分別の尺度が、実は、ただのボタンの掛け違えにすぎないということがある。

 ロールシャッハテストで、黒い部分にしか意識がいかなくて壺にしか見えなかった絵が、白い部分に意識を置いた瞬間、向かい合う二人がそこに在ることに気づく。

 人間の意識分別は、視点を置く場所によって簡単に入れ変わってしまう。

 ここにこうして書いている私の文章もしかりで、こういう視点の置き方も可能であるという明示にすぎない。

 ただ、文章に限らずどんな表現も、正しいことを伝えることに意義があるとはかぎらない。

 黒い部分だけでなく白い部分にも視点を置いてみることを促すことで、世界の見え方が変わってくることもある。そういう役割を果たすアウトプットがなくなってしまうと、人間意識は、ますます偏狭なものになっていく。

 

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第1232回 折鶴を非難する人の偏狭 

 京都の家でテレビは見られないのだけれど、ネットニュースで流れてくる情報では、ウクライナの戦争に心を痛めている人が折鶴をウクライナ大使館に送ろうという活動に対して、現地の人が望んでいるものではないとか、自己満足だとか、だったらお金を送った方がよほど有難がられるなどと、テレビその他で非難する人がいるようだ。そういう非難は、実にくだらないことで、知的を装うその人たちの内面の浅さだけをさらけ出している。

 そもそも、ウクライナの戦争にかぎらず、ちっぽけな自分の力ではどうにもならないという事態は、人生において無数にある。そういう時、どういう手が役に立つかどうかという分別思考で対応できない場合、人は祈るしかない。祈りは、たとえ人のためであっても自分の心を鎮めるものでしかない場合が多いが、それでも祈らざるを得ない状況がある。

 もちろん、通りを歩いている時に呼び止められて、額に手をあてられ、あなたのためにお祈りしますとやられても迷惑なだけだけで、折鶴を非難する人は、それと同じものだという認識があるのだろう。

 しかし、今回話題になっている折り鶴は、直接、ウクライナの人に手渡わすというものではなく、ウクライナ大使館の人がどうするか判断するだけのこと。写真に撮って、日本人にとっての折鶴が何を意味するのか文章を添えてオンラインで伝えるだけでもいいこと。日本固有の文化の押し付けだなどと主張するレベルの低い批判もあるが、私は、苦しい状況に置かれている時、自分の価値観では計れないアフリカの伝統的文化にそった品物を届けられた場合、その意味を伝えられれば、少しは心が救われると思う。ウクライナの人のなかでも、そういう人が、ゼロとは言えないだろう。

 テレビニュースの影響なのかもしれないが、ウクライナの状況を画一的に捉えすぎている。全ての国土が戦火に覆われているわけではなく、ウクライナの人々の苦しみや悲しみも、様々であり、食物や着るものに困っていなくても、危険な状況にある肉親や友人のことを思って胸が塞がれるような思いで、日々を過ごしている人たちもいるだろう。

 また、紛争地で外に一歩も出られないような状況で暗澹たる気持ちで過ごすなかで、たとえば詩集を読んだり、画集や写真集を鑑賞することに何の意味があるのだ、それよりも食い物が必要だろ、と言い切るような人間は、あまりにも想像力が欠けている。人はパンのみに生きるにあらずだ。

 その種の非難をする人間は、文学や芸術作品に救われたという経験がないだけのことであり、その人たちのライフスタイルや人間関係が透けて見える。彼らにとって芸術も投資商品にすぎないのだろう。そうした狭い自分の感覚を、世の中のスタンダードであるべきだと勘違いしている人間が、テレビ世界の中で大きな顔ができるということなのだろうか。

 人がやっていることを、あれこれ分析したり非難することは誰でも簡単にできる。その種の非難は、同じようなタイプの大勢の人間に、いいね!と同意されるだけのことにすぎないし、その大勢の人間を、自分と同じだと安心させているだけのこと。

 安心できたところで、何もならない。それこそ、ウクライナの救いにも自分の本当の救いにもならず、ただ空虚さが膨れるのみ。

 お金や物質だけではどうにもならない現実に対して、人は、人それぞれの方法で、祈るしかない。どちらがいいとか悪いという分別ほど、祈りから遠ざかるものはない。

 

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第1231回 一元化の思考を知の巨人と持ち上げる知の衰退

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 ユヴァル・ノア・ハラリ氏のことを、現代における「知の巨人」と持ち上げる論調が多いのだけれど、ベストセラーになっている彼の「サピエンス全史」にしても、とくに新しい視点はなくて、他の誰かが書いているようなことを(膨大なウィキペディアの情報も含めて)、整理して装飾的に語っているだけのようにしか思えず、目が開かれるようなことが書かれているわけではない。

 現在進行形のウクライナの問題に対する「緊急特別全文公開」においても、ウクライナのゼレンスキー大統領の全世界に向けたアピール声明としてなら、よく書けた原稿だと思うけれど、「知の巨人」と持ち上げるほどの特に深みのある言葉ではない。テレビのコメンテーターが口にする内容と、それほど大きな違いがあるわけではないし、社会の中で日々消費されている思考の一つでしかない。

 もちろん、現在進行形の戦争を止めるためのメッセージは切実に必要であるから、全員一丸となってロシアのプーチン大統領を糾弾し閉じ込めて押さえ込んでしまうという戦術として、使われているメッセージであるかもしれない。

「ドイツ政府は思い切って彼ら(ウクライナ)に対戦車ミサイルを供給し」という彼の言葉は、その象徴的なものだが、この種の言葉に、「知の巨人」という看板を添える事に対して、メディアは、もう少し慎重でなければいけないのではないか。

 メディアがそれほど期待できる存在でないことは誰もが認識していることなので、せめて読者は、ユヴァル・ノア・ハラリ氏の単純化されたメッセージの危険については用心深くあらねばならない。

 彼は、「ウクライナ人が正真正銘の民族」でありと書き、ウクライナ人を一つの民族として英雄物語の主人公に祭り上げているが、広大なウクライナの国土に住む多種多様な人々を、そんなに単純化してしまって大丈夫なのか?

 地理的にも、非常にデリケートな場所に位置しているウクライナは、単一民族国家ではない。 

 少し前にも書いたのだけれど、ユーゴスラビアは、チトー大統領が亡くなったとたん、あっという間に分裂してしまった。

 もちろん原因は色々あっただろうが、その後の内戦の状況から判断すると、国内の複雑な民族構成、宗教の違いなどの対立要因があった。

「チトーイズム」は、このユーゴスラビア国内の複雑な状況をどのようにまとめあげるかという深刻な課題に対応するもので、「緩やかな連邦制」と「非同盟主義」が重要な柱だった。

 多民族国家ユーゴの国家統合を維持するためには、東西両陣営のいずれにも属さず、いずれにも加担しない「積極的平和共存」を掲げて進んでいくしかなかったのだ。

 なぜなら、ユーゴ国内では、対外関係における選好順位は民族ごとに異なり、東方キリスト教の信者の多いセルビアなどは親ソ感情が強いし、カトリック教徒の多いクロアチアなどは西欧、ボスニアなどムスリム人は、イスラム圏の国々に親近感を持っていた。

 なので、海外のどこかの陣営に近寄ることは、国内の不平不満と分断につながりやすい。

 非同盟という戦略は、ユーゴスラビアの国内の秩序維持において重要で、少なくともチトー政権下では有効的に機能していた。

 そのうえで、社会主義国家でありながら、国家全体を一つのイデオロギーで染め上げるのではなく、穏やかな連邦制で、それぞれの主体性と自立を促し、締め付けを行わないようにしていた。

 企業の意思決定も、国家や党ではなく、その企業の労働者集団、あるいは労働者総体からの代表者集団が行なうというユニークな社会主義化によって、当時の共産圏の国々が陥っていた労働意欲の減退はなく、経済成長も果たしていた。

 こうした、当時の世界において他に類がなく前例もないオリジナルの政策は、知的ではない経済や政治の専門家などから、「欠点を見つけ出して批判する」という方法での批判を受けやすいが、チトー大統領の強大な求心力が、それら批判のための批判を圧倒した。

 もちろん、ユーゴスラビア国内の分断と対立は、チトーの死だけが原因ではなく、1980年代、ソ連イスラム圏などを中心に各地で高まっていった民族主義の波を受けたこともあるだろう。

 時代環境も変わっており、また国内情勢も様々であり、いつでもどこでも同じ方法が通用するとは言えない。

 しかし、明確に言えることは、時代が進むにつれて状況はより複雑になっている。にもかかわらず、かなり古いとしか思えない国家論を前面に押し出したユヴァル・ノア・ハラリ氏の論説に「知の巨人」の冠を与えるというのは、むしろ知の衰退現象としか思えない。

 ユヴァル・ノア・ハラリ氏がウクライナ問題において展開している言説は、西欧諸国による植民地から独立を目指して戦った民族の物語と、さほど大きな違いはない。

 彼の言葉の「ウクライナが新しいロシア帝国の下で暮らすのを断じて望んでいない」「一国を征服するのは簡単でも、支配し続けるのははるかに難しいのだ。」という言葉は、植民地からの独立を目指して戦ってきたアフリカなどの国々の歴史と重なる。

 植民地からの独立において、他国の力を借りた国が、その後、どういう状況に陥ったか、私たちは知っている。そして民族主義が、独立後にどのような対立を生み出したかも知っている。

 大国の汚さや、民族主義運動の危険な純粋さを知り尽くしていたチトーは、ナチスドイツに対するパルチザン活動においても、ソ連陣営や、イギリスやアメリカを安易に頼らなかったし、民族の垣根をなくすことを、思想的にも政策的にも重要視としていた。

 なので、本当の知の巨人ならば、そのチトーイズムから、時代の変化に応じたさらなる教訓を引き出して、新しく深い知恵を創造できるはずだ。

 ユヴァル・ノア・ハラリ氏のように、他人から得た情報をうまく整理する人は、テレビ界でも知的タレントとして重宝されているが、そうした情報整理は、ものごとをわかったつもりにさせることに役立つだけで、それは、情報を消化することにしかならない。

 本当に必要な知恵というのは、たぶんそういうことではない。

 時代は繰り返すと言うが、まったく同じ形で繰り返すわけではなく、常に新しい様相を孕んでいる。

 その新しい様相に応じた新しい思考の方法を提示する力こそが、本当の知恵だろう。

  ユヴァル・ノア・ハラリの文章と、これを知の巨人として持ち上げることへの一番の懸念が、その一元化の思考だ。

 国同士の対立に限らないが、すべての対立の根本に、この一元化の思考があるような気がしてならない。その一元化の思考は、硬直して偏狭になればイデオロギーになる。

 多様性尊重とか、ボーダレスといわれる新しい局面に入っている時代において、一元化に変わる新しい思考方法こそが求められるように思う。

 ウクライナのことに関しては、インターネットやSNSの普及によって、まさにボーダレスな状況で情報や考えを共有できるようになっているし、戦いの最中にある人々は、短時間のうちに、世界を味方にしたり敵にしたりすることになる。

 こういう新しい状況のなか、「ドイツ政府は思い切って彼ら(ウクライナ)に対戦車ミサイルを供給し」などという、問題解決の手段として強引に一元化された価値思考の普及は、その価値思考に違和感を持つ多様なものたちへの迫害の可能性を秘めている。

 多様性を尊重する世界ならば、緩やかな統合が求められるはずであり、一元化ではなく多面的で重層的な思考が必要だろう。

 ドイツをはじめ欧州各国がエネルギー資源の問題で、全面的にロシアを敵に出来ないという事情などは、現在の国際関係の複雑で新たな様相を示しており、それゆえに、一元化された性急な問題解決の方法がとれないわけだが、だからこそ、重層的な方法での問題解決の道を探るしかなく、前例のない思考は、そこからしか生まれない。

 ウクライナ対戦車ミサイルを供給することよりも有効的な方法はないのか?

 本当の知の巨人ならば、今、そのことを真剣に考えているのではないだろうか。

 

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第1230回 月読神と、古代海人との関係

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 京都の松尾大社の近く、桂川西芳寺川が合流するところが月読神社の旧鎮座で、比叡山愛宕山を同時に望む絶景の地だ。ここは今も吾田神という地名で、アタは、古代の南九州の海人のこと。

 京都の月読神は、5世紀の末に壱岐島から勧請されて、その時に亀卜という亀の甲羅を用いた占いが持たらされ、これが日本の神道儀礼において朝廷主導で物事の吉兆を占う大切な手段となった。

 月読神と亀卜を畿内にもってきたのは、アタの海人と壱岐の祭祀者だった。

 月読神はよく知られている神であるが、謎は多く、この神を祀っている神社の数も少ないし、古事記日本書紀でもエピソードがほとんどない。

 唯一、日本書紀において月読神が保食神を殺す物語があり、これは、古事記においてスサノオが大宜津比売を殺すエピソードと同じだ。

 「陸を向いて口から飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し」て料理を作っていた保食神に腹をたてた月読神が、保食神を殺してしまう。すると、頭からは牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦と大豆と小豆が生まれた。

 これについて、専門家による色々な解釈があるが、どの解釈もうまく説明できていない。

 私が思うに、このエピソードが伝えている事実は明確だ。保食神は、人間が手を加えていない原野から取れるもので料理を作っているが、月読神によって殺された後、あきらかに肥沃な存在となって、そこから様々な食物が生まれている。

 それをアマテラス大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とし、その種は秋に実ったとエピソードの続きがあるので、この物語は、多くの人々が養えるようなしっかりとした生産体制ができた状況を示している。

 これが一体何を示しているかというと、おそらく洪水氾濫であり、古代エジプト文明のように、ナイル川の氾濫によって土地が豊かになっていく物語と重なっている。

 スサノオは、水と風に関係する神なので、嵐を起こすこともある。そして月は、満月と新月のあいだで大きな干満差を引きおこし、洪水を起こすのだ。

 アマゾンのボロロッカが有名だが、雨季に川の水量が多くなっていると、大量の水が満潮になって押し寄せる海水と衝突し、逆流し、内陸にも洪水による甚大な被害がもたらされる。現在はダムによって川の水量が減っているので、あまり実感できないが、古代において、こういうことは珍しいことではなかった。

 京都から桂川を遡ると、亀岡に月読神の聖域がいくつか残っている。

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 桂川のほとりに建つ小川月神社は、何度も洪水に流されてきたが、あえてそういう場所に鎮座している。現在は小さな祠しかないが、ここは名神大社であり、その歴史は、近くにある名神大社出雲大神宮より古く、氏子総代保管の「丹波国桑田郡小川月神社之事」では、「神代よりの旧地なり」と記されている。

 京都の桂川流域や亀岡が秦氏との関係が深い土地なので、この神社も、秦氏との関係を指摘する人が多いが、それは間違っていると思う。

 というのは、この小川月神社から桂川の対岸にも月読神社が鎮座するが、この西北場1.5km、亀岡盆地北西部の丘陵南斜面に拝田古墳群があり、前方後円墳1基(16号墳)・円墳16基の計17基が存在する。このうち、前方後円墳の16号墳は、石棚付きの石室を備えている。

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 石棚付きの石室は、和歌山県の紀ノ川河口域に特徴的に見られるものだが、瀬戸内海を取り囲むように豊後、安芸、讃岐、伊予、播磨、淡路にも築かれ、それ以外の地域では、亀岡と福井の敦賀だけに存在する。この分布は、明らかに、海人との関わりが考えられるが、日本書紀ヤマトタケルによって征伐されたとされる蝦夷(東北の住民とは限らない)の配置先で、その蝦夷たちが、あまりにも”さわぐ”ので、さえぎとなり佐伯部となったという記述の場所とも重なる。今でも、豊後や安芸にも佐伯の地名が残るが、讃岐は空海の出身地で、空海も佐伯氏である。兵庫の播磨町も佐伯姓が非常に多い。そして、亀岡で保食神主祭神とする稗田野神社周辺が佐伯郷であり、この神社の祭である女夜這いの佐伯灯篭祭りは、中世時代から有名だった。

 稗田野神社の本殿の背後は、弥生時代の祭祀場であり、3年ほど前、この周辺で、巨大な古代都市遺跡が発見された。

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稗田野神社の本殿背後。ここは弥生時代の祭祀場だった。

 そして、この佐伯郷にある稗田野神社の真北1kmのところの山中に鹿野古墳群があり、ここからも6つの石棚付石室が見つかっている。

 鹿野古墳群は、1872年にイギリスのウィリアム・ゴーランドが調査しており、首飾りや馬具や剣や土器の欠片まで、大切にイギリスに持ち帰っている。

 さらに不思議なことに、鹿野古墳群から真北の小金岐(こかなげ)古墳群は、行者山の東斜面に200基以上の古墳が分布する京都府最大の群集墳だが、ここからも石棚付石室が見つかっている。

 この小金岐古墳群の真北1.5kmが、上に述べや拝田古墳群であり、石棚付石室のある三つの古墳群と稗田野神社の4箇所が、南北に、1.5km、1km、1kmの間隔をあけて並んでいる。

 しかも、この南北のラインは、この西4kmの出雲大神宮と鍬山神社という亀岡を代表する大国主の聖域を結ぶラインと平行である。

 この二つの出雲系の神社の近くにも古墳があるが、出雲大神宮は元出雲とされ、鍬山神社は、泥湖であった亀岡盆地の開発と関係があり、この二つの聖域が、秦氏大国主を助けて国づくりを行なったスクナヒコを祀っている)とつながっている。

 そして、さらに不思議なことに、この鍬山神社の東10kmのところが、上に述べた京都の月読神社なのである。この周辺は、弥生時代から古墳時代後期まで600年間続いた松室遺跡でもある。

 そして、この東西のライン上、京都の月読神社の真西1kmほどのところには、京都盆地で最大の群集墳がある。

 また、月読神社の旧鎮座地の北800m、桂川の対岸が梅宮大社であり、この神社は、藤原不比等の後妻である県犬養三千代が、木津川流域の綴喜郡井手町に祀っていたものを、平安時代嵯峨天皇の皇后の橘嘉智子が、ここに遷座したものであるが、「橘」というのは県犬養氏が賜った姓である。

 実は、亀岡の佐伯郷にある稗田野神社の真南2.4km、犬飼川の河岸に、犬飼天満宮が鎮座しているのだが、このあたりに、犬飼衆がいたと考えられている。

 犬飼衆とは何なのか?

 隼人は、犬吠という邪霊を払う呪術を行なっており、朝廷警護の際に、犬を用いていた。

 また、日本書紀垂仁紀・石上神宮の件に次のような文章がある。

「昔、垂仁天皇の頃、丹波国桑田郡の人に甕襲(みかそ)という人物がいた。甕襲の家には足往(あゆき)という名の犬がいた。この犬は山の獣のむじなを食い殺した。獣の腹に八尺瓊の勾玉があり、それを献上した。この宝はいま石上神宮(現奈良県天理市)にある。」

 丹波国桑田郡というのは亀岡であり、ここに書かれている場所が、犬飼天満宮あたりだと考えられる。 

 この日本書紀の記録は、犬を使った狩猟(犬山)の日本最古の記録と説明されるが、たぶんそういうことではなく、八尺瓊の勾玉という言葉からわかるように、祭事の変化のことを抽象化している。

 甕というのは、須恵器の祭祀器であり、高貴な人が亡くなった時の殉死の代わりに埴輪が埋められたように、洪水などの禍に対する人身御供をやめて、新しい祭祀に切り替わった時期があった。

 須恵器は5世紀前半に伝わった陶器製造技術であり、それまでの陶器と違って水が洩れない硬い器であり、酒や食物などを神に供える祭祀道具として用いられることが多かった。上に述べた石棚付きの古墳などの副葬品としても大量に出土している。

 そうした新しい文化知識を日本に伝えるうえで海人の活躍があったが、犬飼衆もまた、そうした人々のなかで、特定の祭祀の役割を担っていたのだろう。

 亀岡に月読神の聖地が多いのは、この地が、石棚付きの石室に見られるように、瀬戸内海を活躍の場にした海人が、淀川から桂川を遡って入り込んできたからだ。

 (石棚付石室のある拝田古墳から真西に6.4kmの薮田神社も月読神を祭り、周辺には古墳がある)

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薮田神社

 瀬戸内海は、太平洋との干満の時間差が潮汐に大きな影響を与えるので、月を読まずして航海はできない。

 隼人とか犬飼、石棚付き石室と関わりの深い紀氏、宗像氏や和邇氏など後になってからの役割分担で名前が様々に派生していったものの、起源は、南九州の「あた」と呼ばれる海人だったと思われる。

 海人の宗像氏と和邇氏の祖は阿田片隅で、同じである。

 この「あた」の女神が、神吾田津姫という別名を持つコノハナサクヤヒメであり、天孫降臨のニニギと結ばれた。

 ニニギは、新たな祭祀を日本にもたらした存在であり、「あた」という海人の女神と結ばれて、その新しい祭祀が様々な地域へと広がっていったのだ。

 そして、新しい祭祀というのは、国譲りの神話のなかで、タケミカズチが大国主に伝える言葉のとおり、「ウシハク」から「シラス」への変化だ。

 「ウシハク」というのは、強いものが全てを独占することで、「シラス」というのは、知らしめること、すなわち、みなで共有すること。

 なぜ、亀岡が、神話と深いところでつながっているかというと、古代、亀岡は極めて重要な場所だったからだ。

 桂川を通じて瀬戸内海につながる亀岡は、北部に由良川が流れており、丹波、丹後、若狭湾へとつながっている。

 また、西は平坦な道で篠山、西脇、播磨、生野、宍粟・佐用へと抜け、このルート上には鉱山資源が豊富にあり、西南に向かうと、多田銀銅山から宝塚、神戸へとつながる。また桂川の源流の花背から琵琶湖へも抜けられる。

 まさに、瀬戸内海から日本海、京都や奈良、琵琶湖方面全ての地域にアクセスする立地にある広大な盆地が亀岡だったのである。

 

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亀岡の黒い点が月読神を祀る神社で、西端の赤い点を結ぶ南北のラインは、上から拝田古墳群、小金岐古墳群、鹿野古墳群で、いずれも石棚付きの石室を持つ古墳がある。その南に稗田野神社(月読神に殺された保食神が祭神)、犬飼川沿いの犬飼天満宮。この南北のラインは、出雲大神宮と鍬山神社という大国主の代表的聖域と平行で、さらに京都の月読神社の旧地、梅宮大社、梅ヶ畑の銅鐸埋納地、沢山の西、沢の池周辺の旧石器時代からの祭祀場を結ぶラインとも平行。さらに、西の端にあるのが薮田神社で、ここも月読神を祀っており、周辺に古墳がある。

 

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第1229回 思考停止の正義よりも大事な自らの眼差し

 河瀬直美氏の東大入学式での祝辞に噛み付いている人々の意見って、テレビの芸能人コメンテーターの意見とさほど大きな違いがあるわけでなく、東大生にとって、とくに頭を使って考えさせられるような内容ではない。

河瀨直美監督の東大入学式での祝辞、国際政治学者から批判相次ぐ。「侵略戦争を悪と言えない大学なんて必要ない」 | ハフポスト NEWS

 河瀬直美氏の言葉の真意は、そうした思考停止状態の危険性を遠回しに説いているのであって、東大生という社会で最も優秀であるかのように位置付けられている人たちに向けての祝辞としては、彼女なりに考えたうえでのことだったのだと思う。

令和4年度東京大学学部入学式 祝辞(映画作家 河瀨 直美 様) | 東京大学

 河瀬氏が語った「小さくても自らのまなざしを獲得すること」は、自分に向けられた課題でもあるし、小さくても自らのまなざしで生きている人への敬意を育むことでもある。学者の中には、自らの眼差しの大切さよりも、正しいとされやすい側についておけば保身が保たれると計算しがちな人が多い。

 自らの眼差しの大切さよりも、正しいとされやすい側についておけば保身が保たれると計算しがちな人は、河瀬直美氏の言葉の一部を恣意的に切り取って、真意を曲げて噛み付くという論法で、自分の正当性を強化する。こういう人たちの方が、いざという時に信用できないし、束になった時に怖い。

 ただSNSで河瀬氏が述べているようなことを発信するだけでも、その一部を切り取って文脈無視の思考停止の正義を振りかざして噛み付いてくる人も大勢いる社会において、それを承知で、こうした言うに言われぬ領域のことを、なんらかの形でアウトプットしていくのが、表現者であり、本来は学者もまたそうあるべきなのだ。

 しかし、河瀬直美発言に噛み付いている学者たちのように、学者が、正しいことと間違っていることを見極める専門家のように勘違いしている人たちが多い。

 日本の学校教育における査定がそうなっており、大学教師は、教育界の一員にすぎないからだ。

 だから、この種の学者の発信する言葉を聞いても、脳が刺激されたり触発されたり、考えさせられたりすることが、ほとんどない。

 そして、学者も、自分の発信するものが、いいね! そうだね!と多くの人に同意されるかどうかを競うだけの存在になる。

 脳が動いていないから、いいね!とか、そうだね!と簡単に反応しているだけなのに。

 河瀬直美氏の祝辞を聞いた東大生は、そのメッセージに対して、いいね!とか そうだね!と、簡単に反応できないだろう。

 自分の想像の範囲の言葉であれば、そう反応できるのだが、メディアを含め、想像の範囲を狭めてしまう言論が溢れかえっている状況のなかで、河瀬直美氏の言葉を耳にして、「ああ、私の思っていたとおり」と感じた若者は少なかったはず。

 脳を刺激し、動かす言葉というものは、そのように、簡単に、いいね! そうだね!と同意できないものだ。自分の脳で動いていなかったところが刺激されて、もごもごと何か考えさせられるようなものとなる。そうした脳の深いところの刺激と触発が、学問や表現活動の本質であるはずだ。

 こうした思考の発動がなければ、脳のなかで動いている領域は知らず知らず狭まっていく。そうなると、河瀬直美氏の言葉の文脈など伝わらず、「何を言いたいのかよくわからない」とか、「どっちもどっちの相対論にすぎない」とか、文学的な機微の失われた判断しかできなくなる。

 そういう人は、話を聞いてもツイッターの発信内容を見ても、味も深みもない。

 もしも、河瀬直美氏が、これらの学者レベルのことを東大入学式の祝辞で述べていたら、彼女の映画を見たいなどと思わない。だって、映画を見る前から、彼女がどんな映画を作るか内容が透けてみえてしまう。

 その人が信用できるかどうかの判断は、言っていることの正誤よりも、その内容の深さによる。

 

 

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第1228回 パンデミックの後にくるもの

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 松尾大社のそばの桂川の河岸では、バーベキューをする若者たちが群れている。 

 さすがに自粛生活も2年になると、我慢の限界であり、人との接触は増える。そのため新型コロナの感染者数が減らず、専門家が、また警鐘を鳴らしている。

 新型コロナについて語る時、過去のスペイン風邪などを持ち出す人がいるが、大きな違いがあり、今回のパンデミックは、病原体の問題というより一種の社会病のような気がする。

 スペイン風邪は、大戦と重なって環境が劣悪で栄養状態が悪い若者の多くが亡くなったが、今回は高齢者や成人病の人の犠牲者が多い。もしかしたら過去にも同じようなウィルスが登場していたかもしれないが、現在のような超高齢社会でなければ、誰も気づかないうちに終わっていた可能性がある。

 また、たとえば奈良時代に流行した天然痘や、ヨーロッパ中世のペストは、人口の半分から三分の一を奪ったが、今回の新型コロナウィルスの主な問題は、死亡者数ではなく、医療崩壊によって助かる命も助からないんじゃないかという、漠然とした不安現象だった。

 なので、戦争など、もっと目の前の危機や厳しい現実に追われている社会ならば、問題視すらされないものだろう。社会の混乱をさらに悪化させる病というより、社会が混乱してしまうと、後回しになるような問題だということだ。

 ただ、どんな形であれパンデミックというのは、社会に大きな変化をもたらす。ヨーロッパのペストは、神頼みの限界を知り、医療をはじめとする科学の発展へとつながる転機となった。

 そして、奈良時代天然痘の大流行は、日本人特有の信仰のあり方につながるきっかけとなった。

 大阪府柏原市に、石神社が鎮座しているが、ここは、かつて智識寺があったところで、奈良時代以降の精神革命のきっかけになったところだ。

 智識寺は、日本の歴史文化を考えるうえで、とても重要なところなのだけれど、そのあたりが、うまく伝えられていない。

 現地の説明書きにも、「仏教を信仰する知識と呼ばれる人々が建てたお寺です。」という何とも浅すぎる内容になってしまっている。

 この智識寺は、奈良時代聖武天皇がここを訪れた時に目にした盧舎那大仏の素晴らしさと、人々の信仰心に心を打たれ、東大寺の大仏を造立しようと心に決めたところだった。

 しかし、「知識」を仏教信徒と説明してしまうと、大きな誤解が生じる。

 なぜなら、奈良時代の前半まで仏教は、国家鎮護の宗教で皇族や貴族のためのものであり、一般民衆が仏教に関する宗教的活動をすることは禁じられていた。

 そうした一般民衆の信仰の中心にいたのが行基であり、行基は、信仰の力と社会事業を結びつけ、貧民救済や架橋や溜池づくりなどの事業なども行っており、行基を崇敬する人々は、行基集団として活動していた。その中には修験道者たちも多くいて、彼らは特殊な武術も用い、行基を守っていた。

 なぜ、これらの人々を朝廷が弾圧したのかというと、律令制というのは、人間が土地に根付くことを基本としており、社会事業のためといえども人々が自分の土地を離れてしまうことは、認めがたいことだったからだ。

 しかし730年代、天然痘の猛威が吹き荒れ、人口の3分の1から半分が亡くなったとされる非常事態が起きた。そうしたなかでも、行基集団の活動は衰えることなく、むしろ勢いを増し、そんな彼らが作ったのが、智識寺と、盧舎那大仏だった。

 国家の力とはまったく無縁に、信仰心ある人たちの財物及び労力によって、素晴らしい寺と盧舎那大仏が作られていたのを目にした聖武天皇は強く心を動かされた。

 そして、この精神こそが、天然痘で壊滅的な打撃を受けた社会を救う道だと確信した。

 おりしも、聖武天皇がこの智識寺を訪れた時は、九州で藤原広嗣の乱が起きた740年だった。

 この乱にしても、九州に左遷された藤原広嗣が起こした反乱と一般的には説明されているが、乱の鎮圧のため、東海道東山道山陰道山陽道南海道の五道の軍1万7,000人が動員されており、九州に左遷されて間もない藤原広嗣が、これだけの規模の朝廷軍に匹敵するような兵を簡単に集められるはずがない。

 朝廷への反乱は、藤原広嗣の左遷とは別に準備されていたはずである。九州では、律令制が始まった頃から、たびたび隼人が反乱を繰り返していたが、隼人に限らず、律令制に抵抗する氏族が、多く存在していたのだ。律令制というのは、先祖代々守ってきた土地を朝廷に差し出して、それを借受ける仕組みであり、当人たちの意思を無視して急激に共産主義社会にするようなものであり、抵抗する人たちがいて当然だ。

 しかし、聖武天皇に限らないが、律令制を整えてきた持統天皇元明天皇元正天皇などの女帝は、自分が、日本の土地を支配するなどという気持ちを持っているわけではなかった。

 律令制の理念は明白であり、それは、古事記などの国譲りの神話で語られるウシハクからシラスの国への移行だ。

 神話のなかでタケミカヅチは、大国主に言う。

 汝の国はウシハクだ。これからは、シラスの国にしようと。

 ウシハクというのは、強いものが全てを牛耳る国であり、シラスというのは、知らしめるということ、すなわち共有する国であるということだ。

 それまでのように豪族が土地を所有すると、その所有をめぐって争いが起きて、より強いものが、より大きな土地を支配していき、それを奪おうとする者とのあいだに、新たな争いが起きる。もうそういうことは辞めにしようよ、というのが国譲りの本意だ。国譲りの神話というのは、はるか古代に、大国主国津神)に該当する存在がいて、タケミカヅチ天津神)に該当する存在に国を侵略されたということではなく、8世紀、律令制が整えられて行く時に作り出された神話に違いない。

 こうした律令制のビジョンと理念はあるものの、具体的にどうしていけばいいのかという難問にぶつかっていた時、天然痘が猛威をふるい、九州で大規模な反乱が起きた。

 そのタイミングで、聖武天皇は、智識寺で、「これだ!」という体験をしたのだ。

 聖武天皇が「これだ!」と思ったのは、行基の精神と実践だった。

 律令制の理念とビジョンを具現化するための精神と実践とは何だったのか?

 行基集団の活動は、自らが菩薩になるために努力し活動し続けることが、結果的に衆生救済につながり、この世をよくするだけでなく、自らの魂の救済につながるという精神をもとに行われていた。

 衆生救済というのは、権力者や宗教的なカリスマ、救世主などによって実現するものではなく、一人ひとりが菩薩の心で活動することで実現するものであるということ。

 行基を中心にして広がっていたこの救済のビジョンは、その後の日本人の精神にもはかり知れないほど大きな影響を与えている。

 日本人は、今でも、そういう考えの人がけっこう多い。人のために尽くすことが、人を助けるだけでなく自分の救いにもつながるという考え方であり、救世主の到来を待ち、政治の専門家に幸福な社会の実現をまかせるのとは、かなり違う。

 日本人も西欧化によって、そういう受け身の救済を求める人が増えているが、そうでない人も多く残っている。

 これまで朝廷が弾圧していた行基集団であるが、聖武天皇は、行基を、仏教界の最高位である大僧正に任命した。これは日本の歴史で初めてのことだった。そして彼に東大寺大仏を作るための協力を依頼する。

 同時に、聖武天皇は、大仏造立のために詔を出す。

 「人々を無理やりに働かせるのではなく、この事業に自らの意思で加わろうとする者と一緒になって、ともに悟りの境地に達したい。たとえ1本の草、ひとにぎりの土でも協力したいという者がいれば、無条件でそれを認めよう」と。

 聖武天皇は、行基に深く信頼を寄せ、行基行基集団の力を得て、 のべ260万人が工事に関わったとされる東大寺盧舎那大仏を完成させた。

 その時、九州のローカルな信仰だったヤハタ神(8世紀初頭、隼人の反乱を鎮圧した際に起きた殺戮後、その魂を鎮めるために始まった)が、藤原広嗣の乱の鎮圧と重ねられ、さらに大仏造立の支援をするという神託で人民を奮い立たせ、大仏完成の時、神輿にのって平城京入りをする大セレモニーが演出され、人々の前に八幡菩薩神の存在が植えつけられた。

 これを機会に、八幡信仰という神仏習合による国家の守護神が誕生し、日本ならではの神仏のあり方が、明治維新まで続くことになった。

 聖武天皇は、740年に智識寺を訪れた後、各地を転々とし、平城京から恭仁京に遷都するなど不思議な行動をとり、これが古代の謎の一つとされているが、おそらく、伊賀から始まるそのルートを見ると、聖武天皇は、行基集団および修験者たちと行動をともにしていたに違いない。

 智識寺以外の行基集団の活動を実際に目にし、行基やその支持者たちとの対話を通じ、東大寺大仏造立と、仏の加護による律令社会の構想を、より練りこんでいったのだろう。

 2020年から始めるパンデミックは、病になることの怖さを感じている人の数よりも、自分が病になることで周りの人たちに迷惑をかけてしまうことの不安を持っている人の数の方が大きいという奇妙な特徴がある。

 経済対策も大事には違いないが、このパンデミックをきっかけに、過去のパンデミックのように何らかの精神的変化が起きる可能性があるのかどうか、ということも気にかけておきたい。

 

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