今回のワークショップで39回目、毎回二日ずつ行っているので、累計で78日目にして初めて、集合時間の時点までキャンセルの連絡をもらえないケースが出た。
今回は二人ほどキャンセル待ちの人がいて、直前まで空きを待ってくれていたので、その機会を喪失して残念なことになった。
社会では、AIによって人間の仕事が奪われる云々の情報が飛び交っているけれど、奪われる仕事は、どちらかというと、事務的で機械的で無機的な領域で、人間ならではの配慮や誠意が重視される領域は、そう簡単にAIに取って変わられないのではないかと個人的には思っている。
ビジネスの取引などにおいても、人間力というのは大きな意味を持つはずで、この人に任せようとか、この人は信頼できると感じられるかどうかが分かれ目になるケースも多いのではないだろうか。
そうした人間性さえ、どうでもいいという社会になってしまうくらいなら、AIを導入することは、人間にとって悲劇としか言いようがない。
私は、そのように考えているので、キャンセルのことを伝えないという人に対して、怒りというより、気の毒に思えてならない。主催者の準備に対する配慮とか、人に対する誠意を持てない人が、いくら明るく社交的で愛想よく振る舞っていても、人間として信頼を得られるはずがなく、AI時代において、真っ先に不要とされるに違いないからだ。
今回少し気になったのは、その人が、何度も参加してくれているメディア関係の人から、このワークショップのことを聞いて興味を持ったメディア関係者だったということ。
メディアの仕事というのは情報発信を担っている。そして、現代社会には、メディアが発信する情報言語が溢れかえっている。
情報の伝達とは、知識や知恵を媒介することであり、それはすなわち「橋を架ける」行為に他ならない。どこへ向けて橋を架けようとしているのかが見えない言葉は、単なる自己顕示であり、発信者のエゴにすぎない。
橋を架ける際、その場の状況を無視した橋は、渡ろうとする者を危険にさらすことさえある。何より重要なのは、対岸をどれほど深く想像できているか。
もしその対岸が、人々の不幸へと繋がる領域であれば、橋を架けるべきではない。
ゆえに、メディア組織に所属しながら、自分が関わる対象を、軽く見てしまったり、ぞんざいに扱ったりすることほど罪なことはないだろう。
メディアの中だけでなく、政治経済や戦争や人権や環境問題など、もっともらしい言葉で発信している人は、数えきれないほどいるけれど、自分が発信している言葉を、どれだけ自分ごととして自分に引き付けているか?
発信するかぎりは、その対象のことを深く知らなければいけないという強い意識を持っている人が、果たしてどれだけいるのか?
私は、20歳の時、大学を中退して海外放浪をしていた時、イスラム諸国を巡りながら、アラビア語を取得したうえでイスラム圏を旅して市井の人々の話を聞きたいと本気で思い、チュニジアのブルギバスクールというところで、摂氏50度にもなる狂った夏、必死にアラビア語を学んでいたことがあった。そして、バザールに行って、少し会話をしてみる。しかし、一人の人の断片的な話を聞き集めたところで、いったい何がわかるのだろうと無力感を感じてしまった。そんな話を少し聞き齧って、現地の人はこう考えていると、自信をもって発信できるとは思えなかった。
現在、アメリカとイスラエルによるイラン攻撃について、テレビの街角インタビューで、この事態をどう思うか?と一人ひとりに尋ねているが、「物価が今よりも上がるのは困りますねえ」、「ガソリン代は大丈夫なんですかね」、「株をやっているので株価が心配です」といった言葉を編集し、メディアは、街の人々の声をお聞きしましたと、お茶の間に流している。メディアが予め欲しいと考えている類の意見を編集しているだけなのか? それとも、たまたまそういう意見の人と出会ったのか?
メディアは、信頼の確保のために、有名大学の教授といった「権威」を借りて横流しにする。これは、思考の責任を「権威」に丸投げする行為だけれど、その行為自体が、かなりみっともない。
情報の橋を架けるその先にある対岸とは、現在から見た「未来」でもある。ゆえに情報を媒介する者は、”現場”を軽く扱わないということは当然として、誰よりも未来を深く思索する覚悟が求められる。
「未来の平和」といった空疎なスローガンをなぞるのが思索ではない。現場に立ち、五感を研ぎ澄ませて、自らの頭で考え、実践し、省察と修正を繰り返す。その泥臭いプロセスを通じて得られる「他者とは容易に共有し得ない手応え」の積み重ねこそが、真の思索だ。
こうした全人的なプロセスから創出されるものは、いわばその人固有の「伽藍」であり、その空間に漂う空気こそが、情報の「文脈」となる。
受け手がその伽藍に身を置き、静かに独索できる時間を提供できているか。その視点を持っていれば、自らの伝え方や橋の架け方に対し、自ずと謙虚な自省が生まれる。
もちろん、誰もが完璧な橋を架けられるわけではない。しかし、対岸の状況や川の流れを無視しているのか、あるいはそれらを細心に汲み取ろうとしているのか、その姿勢の差は決定的に大きい。
私はかつて『風の旅人』という媒体メディアを編んでいた頃から、「正しさ」ではなく「根源」を探ることを自らの立脚点としてきた。
例えば、アボリジニの歴史は西洋の実証主義的な歴史観とは相容れない。西洋的な「正解」から見れば間違いかもしれないが、彼らにとっては紛れもないリアリティである。そのリアリティに深くコミットし、感応しようとすること。それが私の考える「根源を探る姿勢」だ。そうしたスタンスの延長で、現在、日本の古層と向き合っている。
権力者や専門家の言葉、世俗的なところでは金融会社が持ち込む投資話に惑わされず、それらを一旦脇に置く。その上で、自分はどう感じ、どう考えるのか。その内面的な必然性を徹底的に大切にすることからしか、根源へは辿り着けない。それは正誤の判断を超えて、自らの生を全うするために世界とどう対峙するかという、実存的な問いとなる。
ネットやAIから得た既成の知識や周囲の状況にばかり翻弄され、自らの感覚や思考を見失うことは、世界に対する身体性の喪失を意味する。 世界に対して注意深くあることは、同時に世界の一部である自分自身に対して注意深くあること。
外なる世界に反応する内なる自己が存在し、内なる自己が働きかける外なる世界が存在する。両者は決して切り離せない一分(いちぶん)のもの。
「形骸化した権威」や「自己増殖する情報」が蔓延する社会において、一人ひとりが、真正を見極めるための基準軸を、どのように形成していくのか? これは誰かに教わったり、ハウツーのマニュアル本でテクニックを得ようとしてもできるものではなく、自分の暮らしや生き方を通して、積み重ねていくしかないものだろう。
AI時代においては、もはやメディアに限らず、その人でなくても他の誰かが言っているというレベルのものは、AIの方が的確に伝えることができるので、ご用済みになる。
そして、事務的で機械的で無機的な領域は、AIに任せてしまえばいい。
そうなることで、かえってノイズは減り、人間にとって本当に大事なことは何なのかという問いに、深く向き合えるのかもしれない。
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新刊の「みちのく古代巡礼」は、ホームページで発売しています。
3月28日(土)、3月29日(日)に、京都でワークショップを行います。
お申し込み、詳細は、ホームページアドレスからご確認ください。
https://www.kazetabi.jp/
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