私にとって、とても嬉しく、かつ力になるメッセージをいただいた。この方は、休刊までの風の旅人と出会うことがなかった。現在のように莫大な情報と人間がひしめき、次から次へと通り過ぎていくような状況においては、人と人、人と物の出会いというのは、タイミングとか場とかが重要だということを改めて思う。そのタイミングとか場を整えていくことも、仕事を遂行していくうえでとても大切なこと。
「いつも、Facebookより拝見させていただいておりました。心に響く文章、写真...。ネット上での一部分だけの確認だけではなく、やはり作品として、この世に生まれててくるものを直接手にして感じてもっと深く観たいと思い、購入することに致しました。これからも貫いて創り続けていただきたいと願っております。」
近年、私がずっと考えていることは、デジタルコンテンツとアナログコンテンツの間に、どういう橋を架けるかということ。
風の旅人をデジタル出版にするように声をかけてくれる人がけっこういたのだが、風の旅人の空気感をデジタル化できるだろうかという疑問があった。風の旅人は写真と文章で編集構成しているのだが、一般の情報誌のように、それぞれのパートが個別に閉じているのではなく、お互いに響き合って、力が増幅していくように作ることを心がけている。だから、一枚の写真だけを取り出すと、根拠がよくわからないというものも含まれている。しかし、そういうものが間に入ってくることで、全体にリズムが生じ、感覚の波が生まれる。一つ一つのコンテンツも相当な力を持っていると思うが、それらを個別に完結させて1+1=2を目指すのではなく、1+1が、3にも4にも10にもなりうること実践しようとしているのだ。(もちろん、見る人がどう感じるかが問題だが)。
時々、読者から、「最初、手にとって何気なくページをめくっていると、”恐い”と感じた。でも、もう少しじっくり見て読んで行くと、その恐さが安心に変わった」というメッセージが寄せられる。このように読者が感じとっている感覚って一体何だろうと自分でも考えてみるのだが、よくわからない。作り手の自分は、その世界にどっぷり入ってしまっているので、世の中に存在するそれ以外のものとの比較ができなくなっている。暗闇のなかにずっといる人間にとっては、闇は恐くないが、明るい所から突然暗闇に入ると、最初は驚いて恐くなる、でも慣れてくると安心に変わる感覚と同じかもしれない。
アナログコンテンツは、身体を通してその中に入っていく媒体なのだと私は思っている。分析とか相対化とか、左脳であれこれ分別したり計算したりするものは、アナログコンテンツでなく、デジタルコンテンツでも伝達可能だが、身体感覚の伝達の為には、手にとって触れること、紙をめくる感覚、音、匂いなど、五感を全部開ききっていることが大事ではないかと思う。
身体感覚でキャッチできているのに、左脳の分別では削ぎ落してしまうことがある。それは、自分が自覚できる社会的通年の範疇での意味性(つまり役に立つとか立たないとか)を超えたものだ。現在の自分にとって、”意味がない”、”快適でない”と判断して削除してしまうものが、ひょっとしたら10年後の自分にとって非常に意味があって快適をもたらすものかもしれないのだけど、頭でっかちの分別を挟み込むと、そのことがわからない。現在の自分にとっての意味と快適が、10年後の無意味と不快につながってしまうことはあるのに。
(例えは悪いけれど、結婚相手を決める時に、お金持ちでハンサムで高学歴という、今の自分にとっての快適と意味だけで結婚してしまって、それ以外の重要なポイントを見落とし、10年後に、失敗だったとわかるというような・・・)
身体性というのは、自分の理性よりも正直なところがある。たとえばストレスなどで、頭では大丈夫だと思っていても、身体がおかしくなっていることもある。
風の旅人は、身体へと伝達していくアナログコンテンツとして存在する物であり、それをそのままデジタルにしてもダメだろうと思う。
しかし、デジタルの力は無視できない。アナログよりも人から人への伝達力と速度はある。つまり、出会いのタイミングと場を作り出す力にすぐれている。ならば、風の旅人を、そのまま電子ブックにするのではなく、どうデジタルに置き換えていくかを考える必要がある。とはいえ、デジタルコンテンツを商品として販売することは、難しいだろうと思う。なぜなら、出会いのタイミングと場は、きっかけにすぎず、きっかけに投資する人もいるが、それは限られているから。
デジタルコンテンツで商売になっているのは、ゲームが代表だが、それは、ゲームというジャンルが、消費マインドと憂さばらしの特化したものだからだと思う。時間を消費し、コンテンツを消費する(クリアしていく)。後には何も残らなくていい。残らないからいい。終われば次のターゲットに進む。その瞬間、現実の憂さを忘れることができる。エンドレスの消費活動だから、ドラッグのように、それにハマる人を囲い込んでいくと、莫大な収益をあげることができる。ゲームに夢中になっている時に、自分を振り返り、自分の中に生じる言葉に耳を傾けたりする人はいないだろう。デジタルコンテンツは、その瞬間の憂さをはらすものとの相性はよく、そこから収益をあげることは可能なのだろうと思う。
私は、デジタルに対して、出会いのタイミングと場の創出に期待している。そのうえで、「理屈分別の頭」と「身体
性」の間に橋をかけるためにはどうすればいいか考えて、実践していきたい。つまり、デジタルのコミュニケーションを通して生じた出会いを、アナログへと誘導すること。アナログコンテンツは一種の瞑想体験。そちらに行かないとわか
らないことがあるよということを、デジタルコンテンツで体験させ
ることはできないけれど、示唆することはできるかもしれない。
私が、
Facebookのファンページや、Tumblerなどデジタルコンテンツを通して風
の旅人を紹介していく動機は、そこにある。
だから冒頭のような、
facebookのファンページを通じて、
「実際に手にしてみよう・・」と思う人が現れるのは、とてもとても嬉しい。