様式としてのアナログではなく、存在感のあるアナログ

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 本橋成一さんの写真展が、品川のキャノンギャラリーで開催されている。http://cweb.canon.jp/gallery/archive/motohashi-ueno/index.html

 昨日、そのオープニングパーティに行ってきた。本橋さんは、いまだデジタルカメラを使わず、銀塩写真にこだわり続けている写真家だが、「上野駅の、幕間」と題されたこの写真展を見ると、写真は、ただきれいに映ればいいのではないということが、よくわかる。本橋さんの写真からは、上野駅の、あの時代の匂いがムンムンと漂ってくる。その理由は、写真がいいこともあるし、人々の存在感がいいからでもあるけれど、その二つを結びつける距離感とか時間感覚が、やはりアナログであることが大事なんだろうと思わせられる。とはいえ、ただ銀塩カメラを使えばいいというわけではなく、道具の使い手が、アナログでなければならないのだ。

 私は、本橋さんとの付き合いは深く、本橋さんの田舎の家で縄文土器の野焼きをさせてもらったり、家にも何度も泊めてもらっているが、たとえば本橋さんは、朝早く起きて洗濯をするのが大好きだ。そして、洗濯物の干し方が素晴らしい。ただ干せばいいのではなく、洗濯物を干す為の道具も美しいし、干された洗濯物の姿も美しい。本橋さんは、洗濯をするという単調で、日々、積み重ねていく行為を、とても大事にしている。洗濯の中に、味わいとか美しさを感じている。アナログというのは、そういう当たり前のことを、とても大事にする精神があってこそであり、ライカやハッセルを使っていればいいわけではない。
 本橋さんの写真を見れば、おそらく多くの人が、アナログの良さを感じることだろう。しかしそれは、技術的なことや、道具の力ではなく、日々、育まれている感受性の賜物なのだ。
 道具にこだわるだけの形ばかりのアナログというのは、実は、物事を一つながりで捉えることができないデジタルの感性であり、逆にデジタルカメラを使っていても、アナログを感じさせる写真がある。ただ、それはめったにない。なぜなら、合理性よりも、不合理なところに独特の味や面白さや豊かさや美質を感じてしまうのが、アナログの感受性であり、その感受性が強いと、便利すぎるものに面白みを感じられないからだ。

(写真ではないけれど、今回の展覧会中の4月5日に本橋さんとトークショーを行なう小栗康平監督の映画『埋もれ木』は、デジタルカメラで撮った作品であり、デジタルカメラだからこそ可能になったことも多くあるが、作品じたいは、それまでの小栗映画と同じアナログの魅力に満ちている。)

 様式としてのアナログではなく、存在感のあるアナログを生み出す人は、普通の人が遠回りだと思うものを、まったくそう感じていない。そうした何でもない過程(時間)が、ただ嬉しくて、楽しくて、ワクワクしている。

 「上野駅の幕間」という写真展を見ていると、本橋さんが、そのように心をときめかせながら、上野駅で、長い時間を過ごしていたことが伝わってくる。

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