第1592回 国を譲ることは、戦いに負けることではなく、影の存在として国を支えること。

亀岡の出雲大神宮

ここ数日、先週の亀岡フィールドワーク・ワークショップで案内したことを改めて文字化しているが、とりあえず今日で最後。
 かなり長くなるが、亀岡に出雲大神宮が鎮座し、ここが「出雲」の本貫であることの理由についての考察。
 そして、事実上の初代天皇とされる第26代継体天皇が即位する直前、亀岡の倭彦王を擁立する動きがあったものの、倭彦王が逃げてしまったという奇妙な話が『記紀』に記録されているが、もし彼が逃げなかったら日本の皇統は違ったものになっていた重大事件であり、このことの真相を、これもまた古代の一大事件である蘇我と物部の戦いと合わせて、まとめてみた。
 昨日の記事で、蘇我と物部の戦いにおいて、物部氏と穴穂部間人の背後にいた勢力について言及したが、その強大な勢力に対抗するための蘇我氏聖徳太子の背後にいた勢力のことを、まずは述べておきたい。
 穴穂部間人の母親が小姉君で、この女性の母親の勢力が、物部守屋と穴穂部間人の背後に存在していたことを昨日の記事で書いたが、この勢力を丹波・丹後で打ち滅ぼした麻呂子皇子や、その異母兄の聖徳太子の父、用明天皇推古天皇の母親は堅塩媛であり、この女性の母親の勢力が気になるところだが、この女性もまた小姉君と同じく父親が蘇我稲目であることはわかっているが、母親が誰かが記載されていないので、そこは洞察するしかない。
 その洞察の鍵は、この堅塩媛の娘である推古天皇の本名、額田部皇女である。
 推古天皇に額田部の名がついているのは、額田部氏が、推古天皇の養育に携わった氏族だからとされているが、話はそれほど単純ではない。なぜなら、古代、子供の養育に携わったのは母親の実家関係者だからである。
 そして、出雲の岡田山1号古墳から出土した刀剣に刻まれた名で、額田部氏は、「臣」という肩書がついている。「臣」というのは飛鳥時代の大臣クラスで、蘇我氏もまた「臣」であり、蘇我氏と額田部氏は同格だった。
 天武天皇と、「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」という歌を交わした額田王(ぬかだのおおきみ)もまた、この関連勢力である。
 『新撰姓氏禄』では、東漢氏の祖の阿知使主(あちのおみ)とともに来日した渡来系技術者の額田村主がいる。その後裔にあたる額田部氏は、鍛治の神、天御影命を祖神とするとともに、須恵器や鉄製品の生産を関わっていた。
 さらに生駒山で馬の飼育に携わっていた平群氏と婚姻で結ばれて、その後、この二つの力が統合した勢力は、女性の側の名「額田部」を名乗るようになったという記録がある。今でも、生駒山周辺には「額田」の地名が残る。
 この生駒山の東麓、大和川の近くに、平群坐紀氏神社が鎮座している。この神社のそばに三里古墳があり、これは、紀氏に特徴的で、紀ノ川流域と亀岡に集中的に見られる石棚付き石室古墳である。
 すなわち、生駒山の麓の大和川流域で、馬の平群氏と、海上交通の紀氏が一つになり、さらに鍛治技術勢力であった額田部が婚姻でつながった。水運と馬と鍛冶技術の統合は、穴穂部皇子の母親の小姉君の実家と同じ構造だが、これが推古天皇の母親の堅塩媛の実家であろうと思われる。
 推古天皇が生まれ育ったのは、生駒山麓の平群坐紀氏神社から大和川を7kmほど遡って、大和川佐保川が合流するところにある額安寺(もとは額田寺)の場所という説があるが、ここは、奈良盆地を流れる様々な川が、大和川に合流する水上交通の一大拠点である。
 額安寺のところは、もともとは、聖徳太子が釈迦の祇園精舎にならって創建した仏教修行の道場、熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)の跡地であり、熊凝精舎が大安寺(奈良市)に移転した後、この辺りを本拠地にしていた豪族の額田部氏の氏寺として額田寺が建てられたとされる。
 先日の記事で、蘇我と物部の戦いの際に、聖徳太子が、四天王の像を作り、戦いに勝利できれば四天王の像を祀る寺を作ると誓願して協力を求めた相手が、紀氏海人勢力だったということを述べたが、この海人勢力は、馬と、鉄製品の生産技術も備えていたということになる。
 麻呂子皇子による丹波・丹後の鬼退治の舞台となった亀岡に、紀氏に特徴的な石棚付き石室古墳が多数築かれたのも、ちょうど蘇我氏物部氏の戦いの後だった。
 その紀氏の背後に隠れている「額田」は、実は、亀岡の出雲大神宮の背後にも隠れている。
 亀岡の出雲大神宮は、この地こそが「出雲」の本貫だとしている。
 そして、どうやら「出雲神話」と額田が、歴史の水面下でつながっている。
 島根県の出雲には、蘇我と物部の戦いがあった6世紀後半に築かれた前方後方墳、岡田山古墳1号墳があり、大刀・鉄鏃・刀子・馬具・須恵器が出土しており、軍事的勢力であったことが想像できる。そして出土品の大刀のうち1口に「額田部臣」の銀象嵌銘が確認された。島根の出雲に、明確に「額田」が存在していたことが明らかになった。
 亀岡からは、具体的に、「額田」の名が出ていないが、陰にその存在が見え隠れしている。
 その鍵となるのが、亀岡の出雲大神宮の背後の神体山、御影山の存在だ。額田部氏の祖神にあたる天御影命の「御影」である。

比叡山の麓の御蔭神社。ここが京都の賀茂神社の元宮とされる。

 出雲大神宮は、北緯35.06に築かれているが、この北緯35.06を東に伸ばしていくと、京都の愛宕神社高山寺上賀茂神社比叡山の麓の御蔭山(ここが、下鴨神社の元宮とされ、今でも葵祭はここから始まる)と連なり、近江に入ると、近江富士と称えられ、鍛治の神とされる天御影命が降臨した三上山の麓の三上神社、額田王大海人皇子との相聞歌で有名な蒲生野、そして、伊勢湾に面する三重県桑名の「額田」の地に至る。

額田神社(三重県桑名市

 桑名にも、額田神社が鎮座し、須恵器の製造跡が発見されている。ここは員弁川流域で、古代、兵庫県の尼崎を流れる猪名川流域にいた渡来人が移住したとされ、猪名川下流域にも「額田」の地名が残り、古墳時代後期の窯跡が幾つか発見されている。
 この北緯35.06は、鉄製品の生産と非常に関わりの深い東西一直線のラインである。
 近江の三上山は、鍛治の神、天御影命が降臨した場所とされ、この「御影」の名が、比叡山の麓の下鴨神社の元宮や、亀岡の出雲大神宮の神体山である御影山に、残されている。


 そして三上山の西麓の出庭遺跡は、古墳時代の大規模な鍛治工房跡であり、京都の高山寺周辺の梅ヶ畑は、砥石のなかの仕上げ砥石では世界最高品質とされている。
 古代、武人は戦場に必ず砥石を持参したが、砥石無くして、鉄製品は作れない。
 そして、北緯35.06上で、亀岡の出雲大神宮から真西に5kmのところに、現在、砥石館があるが、古代、この周辺が、砥石の中の中砥において、世界最高品質の青砥の産地だった。

 また、上賀茂神社の祭神、賀茂別雷神は、山城国風土記では父親が火雷神とされるが、この神の本貫は、奈良県葛城の笛吹神社であり、ここは、韓鍛治技術によって新羅との戦いのための武器を製造していたという記録が残る忍海漢人の拠点であり、火雷神は、この鍛冶関連勢力の氏神であろう。
 そして愛宕神社には、火の神カグツチと、火雷神が祀られている。カグツチの火は、単なる自然の火ではなく、古代の産業革命につながる高温の火(鋳造鉄製品の製造に欠かせない須恵器などを焼ける窯の火)である。
 この北緯35.06は、さらに西に行くと、猪名川下流に額田の地がある)源流の丹波篠山を経て、谷川健一氏が、『青銅の神の足跡』で言及している鉄関連の川、杉原川流域の多可に至り、ここは現在でも鍛冶屋という地名である。この地は、天御影命の別名である天目一神の伝承が残る場所で、周辺には、この神の関連神社も多い。
 この北緯35.06ラインには、鉄製品関連地だけでなく、額田王の父親の拠点である近江の蒲生の蛭子田遺跡からは、木製の馬具が出土している。さらに、亀岡の出雲大神宮から真西に3kmのところに拝田古墳があり、これは、海人勢力の紀氏に特徴的な、石棚付き石室を持つ古墳としては、亀岡で最大のものである。
 すなわち、京都の北部を通る北緯35.06は、水運と馬と鉄のラインなのだが、その背後に、「御影」と「額田」の存在が見え隠れする。

不思議なことに、この北緯35.06ラインの兵庫県の多可(鍛冶屋)から三重県の桑名(額田)までが、155kmで、ちょうどその真ん中が京都の下鴨神社だが、下鴨神社は、第26代継体天皇が築いた筒城宮の真北26kmで、筒城宮から真南22kmのところが、推古天皇の生誕地とも言われる額安寺(かつては額田寺)の場所なのだ。
 第26代継体天皇は、事実上の初代天皇だが、継体天皇推古天皇に共通している不可思議なことがあり、歴史上、この二人の天皇だけが、阿蘇のピンク石で作られた石棺に埋葬されている。
 阿蘇山周辺は砂鉄の産地であるとともに、馬の飼育の最適地だった。そして、阿蘇山から有明海に注ぐ菊地川流域には多くの装飾古墳があるが、その図像のなかに、船で移動する海人勢力と弓矢が描かれたものがあり、さらに馬や石棺を運ぶ絵まである。

 興味深いことに、阿蘇のピンク石の産地は熊本県宇土の馬門なのだが、『正倉院丹裏文書』に、「肥後国宇土郡大宅郷戸主額田君得万呂」という一文が記されており、この宇土に、額田部氏がいたことがわかっている。
 さらに、この宇土の馬門から南東15kmの球磨川の河口に、大野窟古墳がある。この古墳は、6世紀中旬以降に築かれたもので、122.8mの墳丘長は、当時の古墳として全国でも最大級で、しかも石室の高さが6.5mもあって、日本一の高さである。この古墳が、紀氏に特徴的な石棚付き石室を備えているのだ。
 阿蘇のピンク石を使った石棺に埋葬されている継体天皇推古天皇をつなぐ鍵は、推古天皇の生誕地で、さらに継体天皇の筒城宮から真南22kmのところにある額安寺の周辺の額田の地にある。
 この場所に、額田部狐塚古墳がある。この古墳は、継体天皇の時代の6世紀前半に築かれた50mほどの前方後円墳だが、継体天皇の擁立に関わったと考えられている尾張、山城、摂津地域の古墳で使われている尾張系の埴輪が使用されており、大和ではこの古墳が初出であるため、被葬者は継体天皇を支えた人物だと考えられている。すなわち、推古天皇の生誕地を拠点としていた額田部勢力が、継体天皇も支えていたということだ。
 継体天皇は、即位前に、河内の馬飼首荒籠と連絡を取り合っていたという記録が残っているが、この河内の馬飼集団の拠点は、考古学的に、生駒山の西麓の四條畷周辺ではないかと考えられている。
 四條畷市の蔀屋北遺跡からは、古墳時代中期の埋葬された馬の全骨格、黒漆塗りの木製の鞍などが出土し、中野遺跡からは、古墳時代中期の井戸内の堆積層から板材の上に乗せられた馬の頭骨が出土。さらに、奈良井遺跡からは古墳時代中期の溝から7頭分の馬の頭骨ほか、馬の飼育道具である鞭と刷毛などが、や韓式系土器などとともに出土しているからだ。
 四條畷は、現在、生駒山西麓に残る「額田」から7kmほど北である。
 すなわち、馬と水運と鉄製品技術を持つ「額田」が、継体天皇の即位の背後で関係していた可能性が高い。
 継体天皇の息子である欽明天皇は、蘇我稲目を通じて、この「額田」勢力の娘である堅塩媛を娶り、この堅塩媛が産んだ娘が、推古天皇なのだ。
 だから、継体天皇推古天皇の古墳の石棺が、同じ阿蘇のピンク石なのではないかと思われる。
 この額田部は、祖神の天御影命の名のとおり、影の存在である。
 そして、出雲神話というのは、この影の存在と深く関わっている。
 出雲の国譲りは、ヤマト王権と戦って負けた出雲族の物語だと思っている人が多いが、実際はそうではない。
 そのことを象徴している出来事が、国譲りに同意した大国主命の息子、事代主が、娘を初代神武天皇の皇后としていることである。
 さらに第2代綏靖天皇の皇后も事代主の娘であり、第3代安寧天皇の皇后は、事代主の息子の鴨王の娘である。
 つまり史実かどうかは別として、神話は、初代から三代までの天皇の皇后が、出雲の事代主の娘や孫娘である。
 神話に敢えてそれを記すことは、出雲勢力が大和勢力に征服されたわけではないことを伝えている。
 出雲勢力は、まつりごとの表を譲っただけであり、影の存在として、大きな役割を保ち続けた。なぜなら、古代、生まれた子供の養育は、母親の実家が行っており、歴史のリレーを行ううえでは、子の養育に携わる母系の方が、重要だったからだ。
 出雲の国作りと国譲りの神話は、どこか特定の部族が、ヤマト王権に制服されるまでの物語なのではない。
 大国主命による「出雲の国づくり」で象徴されていることは、この国を豊かにし、まとめていくための産業力や軍事力の向上である。額田部氏が備えていた水運力や、馬や、鉄製品の技術が、そこに深く関わっている。
 そして、これらの産業力や軍事力が強大化すると、強いものが全てを独占できる力を持つことになる。 
 その状態が、タケミカヅチオオクニヌシ に国譲りを迫った時の言葉、「ウシハク」である。
 タケミカヅチは、大国主命に対して、ウシハクはやめて、シラスにしようと説得する。シラスというのは、みなで共有する状態を指す。
 大国主命と、息子の事代主は、この提案に同意する。この時に戦いは生じていないので勝者も敗者もない。唯一、タケミナカタが、この提案に反対する。
 タケミナカタは、その当時の諏訪の状態を象徴している。諏訪だけが、中世まで、例外的措置として、アマテラス大神の末裔ではなく、タケミナカタの末裔の現人神の存在が認められ、その現人神を軸とした統治が認められた。
 例外を認めざるを得ない事情があったからだが、このことは、それでなくても長くなるので、ここでは省略する。
 いずれにしろ、大国主命と事代主は、まつりごとの表には立たず、影の存在として支えることを選択した。
 実は、これが、額田部勢力の選択だった。
 このことが、亀岡において、別の形で残されている。
 それは、第26代継体天皇が即位する前、武烈天皇が子供を持たずして亡くなってために天皇の血統が途絶え、大伴金村たちは、まずは亀岡の倭彦王を擁立しようとした。しかし、身の危険を感じた倭彦王が逃げてしまったため、しかたなく、近江から福井にかけての豪族、継体天皇に白羽の矢が立ったという話だ。
 この倭彦王の墓だとされるのが、出雲大神宮の近くに築かれている千歳車塚古墳である。

千歳車塚古墳

 墳丘長が82mの前方後円墳は、継体天皇と同じ時期のもので、この時代では、丹後・丹波では最大の古墳である。
 この古墳の埴輪が、継体天皇の今城塚古墳と同じ、大阪府高槻市の新池埴輪窯で作られたものだとわかったので、この二人は敵対関係ではなく協力関係にあり、倭彦王は、事情があって皇位継承を辞退しただけであり、それが後に「逃げた」と伝承に変わったのではないかという説もある。
 すなわち、倭彦王は、継体天皇皇位を「譲った」のだ。
 倭彦王が皇位を譲った理由は、どこにも記録がないから想像するしかないが、そのヒントとなるのが、継体天皇が第15代応神天皇の5世孫と伝えられるのに対して、倭彦王は、第14代仲哀天皇の5世孫とされていることだ。
 万世一系ならば、両者は第14代仲哀天皇の5世孫と6世孫でいいのだが、応神天皇は、仲哀天皇とは別の血統なのだろう。だから、仲哀天皇の子の忍熊皇子と、神功皇后の戦いの物語が記紀に挿入されている。
 しかし、いずれにしろ神功皇后の物語は、以前の記事で書いたように史実ではないので、仲哀天皇の名は、象徴的な意味で、倭彦王と関連づけられている。
 応神天皇の母の神功皇后は、新羅討伐を優先したが、仲哀天皇は、新羅討伐よりも国内平定を重視した。
 さらに仲哀天皇は、景行天皇の子でありながら世継ぎとはならず、国内平定に生涯をかけたヤマトタケルの子である。
 つまり、敢えて仲哀天皇の5世孫に位置づけられた倭彦王は、国内平定の象徴であり、新羅討伐のために、この国の王として表に立ったのが、応神天皇の5世孫と位置付けられた継体天皇だったと考えることができる。
 実際に、継体天皇は、即位後、6万の兵を新羅討伐軍として送ろうとした。(九州の磐井の乱で失敗に終わる)。
 そして、国内平定を神話のなかで語っているのが、大国主命の国づくりである。
 これらのことを総合的に踏まえて、亀岡において、倭彦王の墓とされる千歳車塚古墳のそばに、出雲大神宮が鎮座していることの理由を解釈できる。
 そして、この出雲大神宮が、上に述べたように、東西に伸びる「御影」ライン。すなわち、影の役割を果たす額田部氏と関連するラインであることから、千歳車塚古墳の被葬者とされ皇位を辞退した倭彦王は、この額田関係の人物なのではないか。
 これは、推古天皇の生誕地、奈良県大和郡山市の額田部に築かれた額田部狐塚古墳の被葬者が、上にも述べたように、継体天皇の擁立に関わり、継体天皇を初期の段階から影で支えた人物であったことと重なってくる。
 さらに、この額田部の名が、大臣の位とともに、出雲の国府が築かれた意于川流域の岡田山古墳群から発見された太刀に刻まれている。
 出雲の地は、海をはさんで新羅と直接向き合う場所であり、新羅との戦いにおいては前線基地だった。

 島根の出雲は、奈良のヤマト王権と対立した出雲族の拠点だったのではなく、奈良において大臣だった額田部氏の拠点であり、この勢力は、紀氏の水運力と、平群氏の馬と、鉄関連技術を備えた一大勢力であった。
 しかしながら政治の表面には直接立たずに、継体天皇などを影の存在として支えた。そのうえで事代主の娘や孫娘が、神武天皇から三代の天皇の皇后になった神話が示すように、娘を通じて影響力を持ち続けた。欽明天皇に嫁いで、推古天皇(額田部皇女)を産んだ堅塩媛が、その象徴であり、これが、出雲の国譲りの真相だろう。
 そして、敏達天皇の死後、穴穂部皇子と、彼を支える物部守屋によって国内が分裂した際も、この堅塩媛の実家の勢力が、蘇我馬子聖徳太子の影の力として働き、国内の秩序回復を実現した。
 その後に制定されたのが17条憲法であり、その精神は、和をもって尊しである、独断と独裁を禁じるということも明記され、その内容は、まさに出雲の国譲りの精神である「ウシワク(強いものが全てを独占する)を否定し、シラス(共有する)への移行を促す」ものなのである。
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亀岡は、琵琶湖、日本海、瀬戸内海を結ぶ水上交通の要に位置しており、継体天皇の生誕地、近江高島と、継体天皇が築いた三つの宮は、安曇川桂川でつながっている。