昨日、那須与一伝承とヤマトタケル神話の重なりの背後に、鳥取氏や倭文氏という、古代世界における調停、仲立ちの役割を担った人々が隠れているということを述べたけれど、その続き。
このことは、日本という国の成り立ちや、日本文化の深層を考えるうえで、とても大事なことなのだけれど、現代社会で、那須与一やヤマトタケルに関心がある人がいたとしても、それは極めて少なく、趣味教養程度の関心で、私たちの今と何も関係がないと思っている人が大半かもしれない。
AIなど最新情報を追いかけはするものの、過去の話には関心がないという人が世の中の大半であることは承知で、自分の頭の整理のためにも、とりあえず書いておこう。
平家物語の屋島の合戦で、平家の女性が揺れる船の上で掲げた扇を、見事、射落としたシーンは、象徴的に、貴族の時代から武士の時代への移行を示している。
その時、那須与一は17歳であり、彼は20歳の時に亡くなったとされるが、日本全国に那須与一伝承が残り、その墓も、各地にある。
興味深いことに、それらの墓の場所は、ある規則的なラインの上に暗示的に配置されている。その大半で、鳥取郷や倭文(織物の神)との関係が浮かび上がり、ヤマトタケル神話の背後に隠れているこの勢力(揉め事の仲裁、調停などの役割を担った)が、那須与一伝承の背後にも隠れていることがわかる。
平安時代末期も、源氏と平家の激しい争いが続いたので、揉め事の仲立ちを担う勢力が、関わった。
といっても、この仲立ちは、外交や武力によるものではない。なぜなら、平氏は滅び、源氏が鎌倉に新政権を樹立したので、争いは最後まで続き、勝者と敗者がはっきりと分かれたからだ。
だから、「仲立ち」というのは、魂の問題であり、神話や伝承が魂の仲立ちを担う。そこに鳥取氏や倭文氏が関係している。
具体的には、伝承では、壇ノ浦の戦いで敗れた平家は、南九州の山中に逃げ込んだとされ、源氏の追悼軍として那須与一の弟の大八郎が派遣されたが、大八郎は、平家の落人に同情し、その娘、鶴富姫と結ばれて住み着いたことになっている。
さらに、那須大八郎が帰ってこないので、那須与一の息子の小太郎が派遣されたが、屋島の合戦で扇を掲げた平家の官女・玉虫御前が、この地で身をひそめていて、平家落人の追討にやってきた那須小太郎を引きとめているうち、二人は恋に落ちたという伝承まで重なっている。
だから今も、南九州の椎葉あたりでは、那須姓の人がとても多い。
こうした伝承は、物語のなかで、源氏を代表する形の那須と平氏の仲立ちが行われている。

また、平氏が敗北の道を辿るきっかけとなった須磨の一ノ谷の合戦の舞台の近くに、北向八幡宮が鎮座しており、ここは、那須与一が、義経のために戦勝祈願をしたところとされるが、なぜか本殿は北を向いており、その北が、与謝野町の倭文神社と、さらに京丹後市の鳥取郷を指している。
しかも、この北向八幡宮のところに那須与一の墓がある。
そして、一ノ谷の合戦の次の屋島の戦いで、那須与一の弓が登場するわけだが、那須与一が歴史に登場する以前に、弓の名人として崇められた源頼政は、平氏打倒を以仁王から持ちかけられ、旗揚げしたものの宇治川の合戦で敗れた。その源頼政の首塚と、那須与一の霊を祀る与一堂が、亀岡の地で並ぶように配置されている。
この場所は、源頼政と、那須氏の所領だったとされるのだが、那須与一の伝説化の背景に、この源頼政の無念の死が隠れている。
その隠れているものは、源頼政自身ではなく、源頼政の郎党として、平氏との宇治川の決戦で一族に多くの死者を出した渡辺氏だと思われる。
渡辺氏というのは、安倍晴明の時代の鬼退治で知られる渡辺綱の一族だが、大阪の坐摩神社のところを拠点に、瀬戸内海の水軍を統括していたが、それだけでなく、天皇の即位儀礼の一環として難波で行われていた八十島祭に関わる祭祀集団でもあった。
そして渡辺氏は、闘鶏氏の後裔で、闘鶏氏は、氷室の祭司も行っていた。氷室は、氷の管理を行うところだが、氷は物の腐敗を止める作用があり、貴人が亡くなった時には、それに関する儀礼のあいだ遺体の腐敗を抑えるために使われていた。大嘗祭においても、氷は重要な役割を果たした。
また、氷室祭は、春、氷を溶かしてとかして生命誕生の儀礼の一つとして行われたとされている。
この氷室は、能の謡曲にも登場し、それは亀岡地域の八木町の神吉が舞台になっているのだが、この場所は、那須与一堂と、源頼政の首塚の真北である。そして、この神吉あたりも、那須氏と源頼政の所領だったとされる。
さらに、神吉の氷室と頼政の首塚を結ぶ南北のラインを南に伸ばしたところが、やはり氷室関係の闘鶏野神社で、この近くに、織物関係の神服神社も鎮座している。
継体天皇の今城塚古墳も、この地域にある。
さらに、ここから南、河内にも鳥取郷があった。古代、大和川は、大阪の藤井寺のところから北上し、現在の大阪城のところで淀川と合流していたのだが、鳥取郷は、この大和川沿いに展開しており、御野縣主神社や、天湯川田神社が、その聖域だった。
そして、現在の大阪城は、中世は石山本願寺で、それ以前、闘鶏氏が祭司を執り行う坐摩神社が、この場所にあった。
ゆえに、闘鶏氏と鳥取氏とのあいだにも、深いつながりがあったと考えられる。
那須与一の伝承は、源頼政の郎党として宇治川の決戦で多くの犠牲者を出した渡辺氏(闘鶏氏の後裔)が、弓の名人であった源頼政の魂を、那須与一という依代に昇華させて創造された可能性が高く、その背後には、鳥取氏の存在が見え隠れしている。
那須氏が所領とした岡山と広島の県境の井原は、熱水鉱床がある場所で、古代から金や銀など産出する鉱山地帯だった。
ここに那須与一の墓もあるが、この地は、口がきけなくなったホムツワケと関わる品遅部であり、品遅部は、ホムツワケのために鳥を追いかけた鳥取部と同じとされる。
そして、この場所に鎮座しているのが足次(アスハヤ)神社で、その祭神が、製鉄の神である波比岐神(ハヒキ)と、阿須波神(アスハ)であり、ハヒキは境界、アスハは基盤などとも言われる。
この二神は、渡辺党が祭司を司った坐摩神の5神のうちの2神でもあり、ここでも、渡辺党と、那須氏が重なっている。
これらの複雑な重なりの紐解きは、簡単ではないが、物語・伝承は、事実の列挙ではなく、魂の修復や仲立ちとでも言うべき鎮魂、昇華のための祈りと、後世へと深い教訓と諭しの橋を架けるべく創造されたのだろうということは伝わってくる。
人間は、何度でも同じようなことを繰り返しており、そのたびに、過去の時代に立ち返って、共通点を見出し、歴史時間を一つにつなぎ、そのことによって、個人の我に執着する人間精神を、その呪縛から解放し、大きな歴史時間の中に生きる自覚を促す。
神話や伝承には、そうした力があると信じる人々が、いつの時代にも存在したのだろうと思う。
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