次の本作りのお手伝いをすることになるであろう特定個人向けにメールを書いていたら、その人向けというより、これまでのワークショップの参加者や、これに少しは関心がありそうな人向けかなと思って、こちらにアップすることにした。
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心についての理解を得ることは、人間であるということが何を意味するのか、正確に理解することに帰着する。(スティーヴン・ミズン)
私の恩師である日野啓三さんは、晩年、2年に一度、癌の転移で入退院を繰り返していたが、眠る前に、少しずつ読み進める本があって、それがスティーヴン・ミズンの『心の先史時代』だった。
この本と、ジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙』の2冊は、人間の心の深いところに意識を集中するうえで、私にとって大切な「具体」だった。
心の問題は、どうしても抽象になりがちなのだけれど、醒めた思考と醒めた活動に結びつけるためには、具体的なメルクマールが必要になる。
私は、風の旅人の編集をやめてからの10年にわたって、ひたすら日本の古層と向き合ってきたのだけれど、その古層の探求は、日本人の心についての理解を得ることにつながっており、そのことが、日本人であるということが何を意味するのかの理解になるという確信がある。
日本の風土や神々などのことは、とても大切なことなんだけれど、現代世界の価値観では、ないがしろにされているところがある。
もちろん、その類の書籍などはたくさんある。しかし、両極端に開きすぎていて、一方は学術的な分析に偏って「心」に対する働きかけが感じられない。もう一方は、「心」を重視していると主張しながら、根拠を度外視した抽象的なものになりがちで、「具体」のリアリティに欠けている。
そのあいだが抜け落ちており、そのあいだこそが大事だという私なりの思いがあって、ずっと取り組んでいる。
スティーヴン・ミズンが、人間の心についての理解をすすめるうえで軸としたのは、人間の手が作り出す物だった。
そして、ジュリアン・ジェインズは、人間の心が大きく変容することになったきっかけの「文字」を軸に、洞察を深めた。
彼が、人間の心の転換として重視していた「文字」とは、歴史の教科書で「最古の文字」として教わる紀元前3300年頃のメソポタミアの楔形文字ではなく、紀元前1000年頃にフェ二キア人が創造したアルファベットだった。
ジュリアン・ジェインズは、人間がアルファベットを使い初めてから200年ほど経った時期に書かれたイリアスと、その100年後とされるオデュッセイアの二つのホメロス神話の違いから、この時期に起きた人間の心の変化を紐解き、アルファベット以前と以降の違いを指摘し、現在の我々は、アルファベット以降の時代を生きていると考えた。
そして、もしアルファベット以前のヒッタイト文字やミケーネ文字の解読ができるようになれば、人類は、現在の我々とは異なる思考の仕方、世界の捉え方があるということを具体的に知ることができる。そうすると、現代的思考特性のバイアスのなかに閉じ込められている現代人は、もっと広い意識の地平へと出られる可能性がある。
こうしたジュリアン・ジェインズの具体的な提示は、私にはとても魅力的だった。私自身が、うすうす、現代人の思考というのは、現代の環境世界によってかなりバイアスがかかっていると感じていたからだ。
たとえば私は、ビッグバン宇宙論などというのは、「爆弾」の威力こそが最強だとする時代の思考産物だと若い時から思っている。
真ん中で爆発が起きて、その力が周辺に広がっていくというイメージは、現代社会に生きる誰もが持っているもので、だから、太陽を見ても、その真ん中で激しい爆発が起きているという説を、すんなり受け入れる。
しかし、これに対する異論はあり、太陽のエネルギーは、その中心部でなく、表面で発生していると唱えているのが、プラズマ宇宙論の研究者たち。
太陽というのは、表面温度は6000度だが、そのすぐ外側は6万度、コロナは100万度にも達しているし、太陽フレアー大爆発の時に地球に届くニュートリノの時間計算で、中心部で爆発が起きているとするには矛盾がある。
太陽中心で核融合が起きているという説では、うまく説明できないことが多いのだ。
それはともかく、ジュリアン・ジェインスは、アルファベットの使用によって、人間の思考を司る言語野が、右脳から左脳に移ったと考えた。
右脳というのは外で起きていることを直接的に感じ取って反応する領域。音楽とか、スポーツなどの咄嗟の反射反応は、この領域。それに対して左脳は、外からの刺激を整理する領域なので、論理とかに関係するとされる。
それで、右脳に言語野があった時は、外界の反応が、客観的論理性のない状態で、ダイレクトに言語化されて人間に伝えられた。そうした言葉は、まさに神が自分に語りかけてくるような言葉であったと、ジュリアン・ジェインスは考えた。
ホメロス神話のイリアスの主人公は、自らの意思で戦っておらず、神の声に従って動いている。それに対して、その100年後のオデュッセイアの場合は、人間の意思の力が、大きな働きをするようになる。
ジュリアン・ジェインズは、統合失調症の幻聴も、右脳が言語野になっている状態だと指摘している。
つまり、アルファベットという、それまでの神宿る文字(古代象形文字)と違って、商売の利便性のために作り出された共通文字が、人間の心の有様を変化させ、その後、現代まで続く哲学なども、その変化の延長にあるとジュリアン・ジェインズは考えた。
こうした言語的思考だと、左脳という限られた領域での思考の堂々巡りに陥る。
しかし人間には、右脳によって世界のリアリティを感じとる能力もある。
この右脳と左脳に、言語的に橋を架けるにはどうすればよいのか?
ジュリアン・ジェインズは、アルファベット以前の、ヒッタイト文字やミケーネ文字の解読に期待を寄せて、『神々の沈黙』という本を書き終えている。
私は、ジュリアン・ジェインズの考え方に頷くところも多いのだが、彼が見落としているポイントがあるとも思っている。
アルファベットを使い始めて僅か300年ほどで人間の心の様相が変わってくるのであれば、その逆もあるはず。人間の心というのは、それだけ柔軟性があるということだ。
人類史において、アルファベットを使い始めたのは、3000年前の地中海世界。そのアルファベット言語思考が、近代合理主義となって、現在は、全世界を覆い尽くしている。
ジュリアン・ジェインズも、その世界の住人の一人だったから、その思考的限界を超えられなかった。
しかし、古代ローマ帝国が滅んだ後、ヨーロッパ世界は暗黒時代と呼ばれる状態となった。それまで普通に使用されていた鉄器製品を作らなくなって農作は木器で行われて生産量は低下した。文字の使用もなく、人々は、生まれた場所で土地を耕しながら生涯を閉じて、他地域との交流もほとんどなかった。
この状態は500年以上続き、それが動き出したのは西暦1000年頃、ロマネスク巡礼が始まった時で、そこからあっという間に、各地の交流が始まり、都市ができ、ルネッサンス時代が始まり、大航海時代に至った。この著しい変化も、500年ほどのあいだに起きている。
そして、文字に関しては、ようやくグーテンベルクの活版印刷ができてから人々のあいだに普及するようになった。それをきっかけに、キリスト教は、二つに分かれて激しい宗教戦争が始まった。わずか500年ほど前のことだ。それから100年ほど経った17世紀にデカルトが生まれ、近代哲学が始まった。デカルトは最悪の宗教戦争とされるドイツ30年戦争の志願兵であり、そのことへの反省が、近代的思考へとつながったのだ。
ヨーロッパ人が、現代のように、アルファベットを当たり前に使い、思考するようになってから、500年ほどしか経っていない。
すなわち、3000年以上前のヒッタイト文字やミケーネ文字まで遡らなくても、1000年前のロマネスク時代に人間の世界観を再点検したり、古代ローマ時代の辺境地であったゲルマンやケルトの文化を見直せばいいのだ。
しかし、なぜ、そうしたことより、ジュリアン・ジェインズが、古代ヒッタイトやミケーネに意識を向けたかというと、これらの文明には文字が存在し、ゲルマン文化やケルト文化にはそれがなかったからだ。
そして、文字の有る無しで、未開か、そうでないかという価値分別が、彼の心の中にあったのではないか。
人間が新たな意識の地平に至るためには、現代文明とは異なる文字を通じた思考特性で築かれていた古代文明を築き上げた人間の心を知ることが必要と、ジュリアン・ジェインズは考えてしまい、20世紀にも地球上に存在していた無文字社会のことが、新しい未来への扉になるという発想がなかったのかもしれない。
この「文字」を重視する文明観じたいが、アルファベット思考の範疇のものだった。
しかし、そんなジュリアン・ジェインズでも、ラフカディオ・ハーンのように、明治時代初期の日本に触れることができていたら、西欧文明とは異なる文明の在り方を、リアルに感じ取れていたかもしれない。
江戸時代までの日本が築き上げていたのは、アルファベット文字思考とは別の回路によって作られた文明だった。
一般の西欧人が文字を通して世界を理解するようになったのは、せいぜい500年だが、中世日本の識字率は非常に高く、平安時代から「いろは歌」を通して、文字を習得する人が多かった。
そして、「いろは歌」というのは、実は、日本人の思想哲学と直接に結びついていて、その内容は、「色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見し 酔ひもせず」である。
すなわち、「花は美しく咲いて香りもするけれど、やがて散ってしまう。わたしの人生も、この世のありさまも、いったい誰が永遠に変わらずにいられるだろうか。そういうことを踏まえれば、浅はかな夢をもう見たり、酔うこともない。」
「有為の奥山 今日越えて」は、現世の煩悩からの解脱を意味しており、この歌の趣旨は、「この世は無常。だから迷いや欲にとらわれず、悟りの境地に至れ」ということになる。
「何事を成しても、無常なのだから、どんな活動も空しいだけで意味がない」ではなく、「だからこそ、後腐れのないように、執着せず、人に迷惑をかけず、見苦しいことはせず、潔く自分の生を全うするのが良い」という美意識が、この歌には宿っている。
芥川龍之介は、『侏儒の言葉』の中で「われわれの生活に欠くべからざる思想は、あるいは「いろは」短歌に尽きているかもしれない。」と書き残しているが、ラフカディオ・ハーンは、この精神がまだ宿っていた明治初期の日本社会に、深く感銘を受けたのだった。
ハーンだけでなく、石牟礼道子さんを最後まで支え続けた渡辺 京二さんの「逝きし世の面影』では、幕末から明治にかけて日本を訪れたヨーロッパ人たちの手紙、論文、エッセイその他を膨大に知ることができ、当時の西洋人が見た日本の美しい姿を、感じとることができる。
しかし、この美しさは、あっという間に失われてしまい、その失われていく様を、ラフカディオ・ハーンは悲しんだ。
明治維新後の変化、その合理主義、効率主義、功利主義は、まさに商業言語として誕生したアルファベットの思考特性を、急速に日本人が吸収していった結果だろう。
しかし、たかが150年の変化。
ジュリアン・ジェインズが期待を寄せた3000年以上前の時代の人間の思考や心の様相を再発見することに比べれば、現代を生きる日本人は、もう少し身近なところで、『逝きし世の面影』を再発見することは可能だ。簡単ではないが、絶望的だと諦めて投げ出すほどでもない。
私は、若い頃から、日本より海外のことに興味がいき、秘境も含め、様々なところを旅してきたけれど、その結果として、自分の国のことを、あまりにも知らなさすぎると実感した。
同時に、自分が様々な地域に足を運んでいたのは、自分の既存の思考の範疇を超えた未知なる世界と出会い、かつ、そこにある根元的なものに触れたかったからであり、その対象は、海外に出なくても、日本の古層にあるということに気づいた。
だから、現在取り組んでいる日本の古層の旅は、過去に向かっているのではなく、自分にとっては、今ここでないどこか=未来に開かれていると思っている。
毎月一回、無理をしてもスケジュールを組んで、京都と東京で交互にワークショップを行っていることも、そうした旅の一貫であって、自分にとってこれは仕事というよりも、旅の同伴者との出会いの場なのかもしれない。
そして、上に述べたようなことを、うすうす感じ取っている参加者が、以前より増えてきているという実感もある。
8月末のワークショップは、これまで最も暑く、気温39度くらいあったと思うが、その酷暑のなかのフィールドワークも、その後、夜の9時くらいまでの座学も、途中退席は自由ですよ、どこが終わりという内容でもないし、と毎回言っているのだけれど、一人も帰らなかった。
そういう場は、こちらがエネルギーを使っているというより、エネルギーを受け取っている感覚になるので、私も、あまり疲れない。
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京都と東京でワークショップを行います。
京都:2025年9月27日(土)、9月28日(日)
⚪︎石清水八幡宮から京田辺あたりのフィールドワークを行います。
東京:2025年10月25日(土)、10月26日(日)
*いずれの日も、1日で終了。
詳細、お申し込みは、ホームページでご確認ください。
https://www.kazetabi.jp/%E9%A2%A8%E5%A4%A9%E5%A1%BE-%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%97-%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC/
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