第1609回 芸術表現の未来への影響

 昨日の夜、小池博史さんの「火の鳥プロジェクト」の終演を受けて、その成果と未来への影響を多角的に探るという内容でシンポジウムが行われ、登壇者の一人として参加させていただいた。
 こうした芸術表現における「未来への影響」という壮大なテーマ。
 写真展でも美術展でもなんでもそうだが、催しの後のトークやシンポジウムなどでは、終わったことに対する解説や評価とか、ここに至るまでの裏話ばかりで、最後に、まとめとして、「今後に向けて一言」みたいなケースがとても多く、そういう場に接するたびに、つまらないと辟易していたし、そういう場に加わりたくないと思っていた。
 今回のシンポジウムでは、時間も限られているし、今行っていることと未来をどう繋げるかというポイントに焦点を当てた方がいいと私は思っていたし、小池さんの意思も、当然ながらそこにあるので、最初から、そういう展開になった。
 私は、長年、小池さんの芸術表現と接してきて、こういうものこそ未来形の表現であると、常に思ってきた。だから、「わからない」とか「言葉にならない」という人も多いなかで、敢えて、言語化することで、その体験を自分の血肉にすることを続けてきた。
 ほぼ全ての作品に対して、鑑賞後すぐに言語化してきたのは、そのためだ。
 小池さんの表現を「わからない」と言う人は、「わかる」というのは、微分的に物事を分析して、一つの正しい答えを得ることだと思ってしまっている。
 しかし、物事のわかり方というのは、微分的だけでなく、積分的にわかるというわかり方がある。
 積分的にわかるというのは、一つのことを対象に思考して一つの正しい答えを得ることではない。
 複数のことと同時に向き合って、その全体を自分ごとと引き寄せて、その全体を通して、物事の真相を把握することだ。
 「世界」を解読するための一つの答えを求めるのではなく、「世界」とはこういうものであると、掌握すること。
 「世界」を「人間」という言葉に置き換えると、誰かと関係を持つ時に、その相手はこういう人だと一つの答えを確定させるのではなく、いろいろな言動、振る舞い、しぐさ、取り組みなどの全てを通して、その人の真相を掌握すること。
 このように積分的に思考することをできていないと、詐欺師の「うまい話」に騙されてしまう。
 微分的な答えを求める人は、「これは儲かりますよ」という一言や、相手の肩書きとか経歴とかの特定部分にしか意識がいかない。
 人生においても、微分的な思考に陥ると失敗しやすいことは明らか。
 しかし、現在の学校教育などを含め、世の中の価値観が、微分的な正解を求めることが「わかること」であるかのような圧力が至るところにはびこっているために、知らず知らず、その狭い思考の落とし穴に陥っている人が多い。
 アート表現などにおいても同じで、世界の断片を切り取って、微分的でコンセプチュアルなアプローチが多い。 
 そして、こうしたチマチマとした部分的で微分的なアプローチは、もはや「芸術」と呼ぶのが憚れるのか「アート」と呼び合っている。
 なぜなら、芸術と呼ぶためには、もっと根元的で普遍的で本質的で、過去と未来の架け橋になるようなエネルギーに満ちていなければいけないという暗黙の了解のようなものが業界人のなかにもあるからだろう。
 とてもそこまでは、という気持ちや、今の複雑な世の中で、そんな大それたことは無理だという開き直りで、自分の周辺における自己投影を、ちょっと他人と違うように見せることも、自由なアート表現であるという風潮だから、そういうものはSNSで事足りている。
 そうした現状のなか、ガルシア・マルケスの「100年の孤独」や、2500年以上も前の古代インドの叙事詩マハーバーラタ」や、古代ギリシャ叙事詩「オデュセイア」や、このたびの「火の鳥」という壮大な物語を、現代世界にそって再構築して再現しようと本気で取り組んでいる小池さんの表現姿勢には、現状の自分の枠組みを守りたい人は近寄りたくないだろうし、その枠組みをぶっ壊したい人は、快感を覚える。
 日常的、通俗的なアート表現に対しては、「共感」という言葉で評価をつけることができるが、共感というのは、現状の自分の枠組みの範疇での処理にすぎない。
 だから、その枠組みをぶっ壊す力を秘めた芸術には、とても「共感」という言葉は使えない。
 これは、旅経験に喩えた方がわかりやすい。
 カタログ的な雑誌で得た情報に基づいたプランで、特別感がある旅行は、「共感」でつながりやすい。誰でも十分に想像可能な範疇のものだからだ。
 それに対して、飛行機の遅延その他で、当初の予定になかったイスラム圏の都市に降ろされ、当初の想定になかった喧騒のバザールの中を彷徨うといったことは、もはや異界の体験であり、こうした体験を人に伝える時、「共感」を求めることは難しく、「すごかった」と言うしかない。
 自分の視点や世界観を変えてしまう旅体験は、そういう「異界」の体験であり、芸術体験も同じなのだ。人との出会いの面白さも、本当は、そこにある。
 若い時から、「あの人は、よくわからない」ということで距離を置いてしまうか、 「わからない」からこそ面白いと思えるかどうか。
 微分的に一つの正しい答えを得る能力は、人工知能がもっとも得意とすることであり、こうした答えを求めがちな人は、答えを得て「わかった」とすっきりしているうちに、人工知能の言いなりになり、下僕になる可能性がある。
 これに対して、突然、イスラムのバザールに放り込まれた時の、胸が苦しくなるような恐怖や不安と、得体の知れない興奮や恍惚を、人工知能は、生々しい体験として記憶できない。
 生々しく体験できないと、自分の中に蓄積して学習を重ねていくことはできない。
 こうした恐怖や不安や興奮や恍惚といった野生の本能のようなものは、物事を判断するうえで、実は、とても大事なもの。生命の根元の力といってもよくて、不吉なことを察知する嗅覚だ。
 人工知能が、この野生の力を学習していくことができるかどうか?
 この野生の力を経験せず学習していない人工知能が、もっともらしい言い方で、膨大な知識をもとに正しい答えを伝えたきた時、こちら側が、野生の力を失っていると、間違った道に導かれる可能性がある。
 芸術体験というものは、根元に遡れば、たとえばラスコーの壁画など見れば明らかだが、得体の知れない力が漲っている。
 この得体の知れない力が漲っていないものは、もはや芸術ではないと言い切ってもいい。観る人に対して、その得体の知れない異界の力を体験させることが、ある意味、芸術のミッションといってもいいからだ。
 なぜなら、人間は、分別という思考方法を身につけたことで、野生動物のような生命の根元的な力を失っていき、不吉なことを察知する嗅覚も衰えてしまいがちであり、そうした状態から救い出す力が、芸術表現には秘められているからだ。
 芸術が、未来への架け橋となりうるのは、そうした生命力の復元力、修正力、再構成力があってこそ。
 だから、小池さんの表現を、演劇とか舞踏とかジャンル分けで捉えることほど無意味なものはない。
 なぜなら、そうしたジャンル分けは、縦割り行政の官僚組織を例にするまでもなく、現代の人間が陥っている様々な弊害の理由になっており、その閉塞状況から脱出する回路を創造しようとしているのが小池さんの芸術表現だからだ。
 私も、風の旅人を作っている時、書店や書籍流通会社から、この雑誌はどの棚に置けばいいか?とよく聞かれた。 
 写真なのか美術・アートなのか、人文、科学など、いったいどこに置けばいいのか?
 そして、面白いことに、創刊当時、飛び抜けて売れていたのが中野サンプラザにある青木書店で、どのように売っているのか確認のために現場を見にいったら、音楽コーナーに置いていた。たぶん店長の、野生的な判断、感性の力だろう。
 観察していると、音楽コーナーに来る人が、レコードのジャケ買いのような感覚で、風の旅人を手にとって、パラパラ見て、そのままレジに持っていく姿が多かった。
 一方、白川静さんなどの執筆者で判断して人文コーナーのようなところに置いている書店では、来る人は、丁寧に立ち読みするけれど、奥付けのところの発行元とかを確認して、棚に戻すケースが多かった。音楽コーナーに来る人は、感性で購入するけれど、人文コーナーは、理屈分別、すなわち発行元が岩波とかの人文部門の権威かどうかを気にするのかもしれないし、写真が大半を占める誌面構成に対して、欲しいのは知識情報だけと思っているから、買わないのかもしれない。
 いずれにしろ、理屈分別の人は、判断する時に、常に何かを計りに乗せて計算して、そのため、セコクなりがちだ。
 これいいね、という心の勢いが弱いと感じた。
 今、取り組んでいる日本の古層については、書店の棚で売ることはまったく想定していない。
 歴史の専門書の棚、それとも写真集のコーナーか? 写真に興味がある人で歴史に興味がある人は、あまりいない。歴史に関心がある人で、写真に興味がある人はあまりいない。
 棚割りというのは、最初から、ターゲットをどれかに決めなければいけない。
 私としては、両方大事で、全体として大事で、全体として感じてもらいたくて、だからといって細部を疎かにしているつもりはない。
 そして机上の研究ではなく、フィールドワークを重視して、知識だけに偏らずに体験を重視している。
 もはや、ジャンル分けは、近代合理主義の悪い癖であり、落とし穴であり、それはもう過去形で捉える必要がある。
 だからといって、単なる寄せ集めの総合でいいわけでもない。
 生命というのは、もっとデリケートにできていて、全体としての「理」が明確にあるが、細部に対して、多大なる自由の余地が与えられている。しかし、その自由が行きすぎて全体の「理」を壊すわけでない。全体の「理」は、硬直化しているわけではなく、融通無碍でもある。
 この全体の「理」と、細部の「自由」の見事なまでの調和とダイナミズムが生命の本質であり、私は、小池さんの舞台を観る時に、いつも、この生命力を感じとっている。
 古代から今日まで残り続け、人々の心に強く働きかける芸術には、必ずといっていいほど、この生命力が宿っている。

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www.kazetabi.jp
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