咲いて、枯れて散る自然

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 この写真は、風の旅人の次号(www.kazetabi.jp)で紹介する丸山健二さんが撮った写真。小説家の丸山健二さんは、作庭でも(庭師の間では)有名だが、自分で20年かけて作りあげている庭の花々の最も美しい瞬間の写真を撮り続けている。その花々は、主に野生の種で、野生ならではの凄みのある美しさを発揮している。

 花は満開に咲いて、やがて枯れて散る。その時々に美しさがある。散り際にも美があり、とりわけ野生は、生と死のコントラストが美そのものでもある。丸山さんの近年の小説は、生と死の両面に、生命力の凄み、奥深さを感じさせるものが多いが、生だけでなく、死を合わせた生死の両面で生命を捉えることが大事ということを、もともと日本人は深く理解していた。

 昨日、NHKの特集で『家での看取り』を取り上げていた。病院のベッドで死ぬことは、もう過去のことになりつつある。長期入院すればするほど病院が得られる入院費は減らされる仕組みになっており、病院は経営を圧迫される。その為、病院での寝たきり状態を防ぐために、自宅に戻ることが求められる。そして、これまで病院に任せっぱなしだった家族が、身内の死と向き合いながら、様々な葛藤を抱えて、最期の時間を過ごすことになる。

 ステレオタイプの一つの正しい答はない。場合によっては、胃ろうを停止するなど消極的安楽死を選択せざるを得ない状況もある。その状況に直接向かい合っていない人達が、判断の是非を簡単に口にできない、それぞれのシリアスな局面。その時になって考え始めるのではなく、人生の全ての期間を通して、生命について考えに考えぬいておく必要性が出てきている。義務としてではなく、そのように身近に人の死と向き合わざるを得なくなると、必然的にそうなるだろう。(たとえば子供の時に、家の中で死に逝く祖父母を見守り続けるという体験が、そのような意識を生むだろう)。

 花は咲いて枯れて散る。枯れた姿にも、散ってゆく姿にも美しさはある。老衰は自然なことであり、その死の瞬間をただ長引かせればいいということでもない。長い短いではなく、生命としての在り方が問われる。その瞬間に立ち会うことで、果たして生命としてどうあるべきか、各自が問われることになり、自分の答えを見つけ出していくしかない。そのような問いと答えは、身内の看とりに対する問いと答えとして終わるのではなく、きっと自分自身の人生に対する問いと答えになっていくだろうと思う。