暗く烈しい孤高の美 ブラマンク展

  現在、新宿の 損保ジャパン東郷青児美術館で開かれているモーリス・ド・ブラマンク展に行った。
 ブラマンクは好きな画家の一人だ。ブラマンクの絵は、時代の潮流に流されることなく、アート産業の動向になびくことなく、アカデミズムの評論・批判に惑わされることなく、凛とした孤高の佇まいで、激しい情念を内に秘めながらも、冷徹に世界を見つめているという感じが伝わってくる。
 画家として初期の頃、川面に揺らめく風景が多く見られ、途中から、雪景色が増える。そして、この頃から、暗さのなかの美しさが凄みを増してくる。
 空は嵐のような異様な様相を呈し、枯れた樹木は不気味にしなり、雪の道はぬかるんで泥と混ざり合っている。重く沈鬱な風景ではあるけれど、底深く美しい。
 また、大荒れの海辺に残された小さなボートがあるが、圧倒的な世界の荒びのなか、小さなボートは、惨めにも不憫にも見えない。嵐の傍で、それが通りすぎるのを寡黙に待ち続けているその姿には威厳すら漂う。おそらく、この小さなボートは、ブラマンク自身だろう。
 大きく荒れ狂う世界のなか、静かな孤高の闘いを挑んでいる人は、きっとこの絵に勇気づけられるだろう。
 ブラマンクは、人生の長い冬を、ネガティブにならず、強靱なまでの意思で乗り越え、晩年になるに従い、鮮烈なまでの生命力を開花させる。
 祈りがはじけるような、清楚で、烈しい花。そして、「雷雨の日の収穫」や「積み藁」
など、黄金色の麦畑の作品は、比較的似ているゴッホの晩年作以上のものを私は感じる。

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  ゴッホの絵は、一人絶望の淵で引き裂かれ、もがきながら、神への願いと恨みに近い気持ちを共存させているようで、それが激しくも危い美につながっているように思うが、ブラマンクの絵は、未練がましさや恨みのようなものを微塵も感じさせない。歩くべき道を歩くという烈しさを内に秘めて、潔く、一歩一歩進んでいるという感じなのだ。
 同じ「独り」でも、ブラマンクの方が、ゴッホよりも遙かに強いものがあるという気がする。
 ブラマンクの生きた時代は、二つの大戦をはさみ、かつ、アートの流行もめまぐるしく変わり、軸をぶらさず生きることが容易くなかった筈なのだけど、いったい何がこの芸術家を支え続けたのだろう。
 ブラマンクは、この変転著しい時代のなかで、ブラマンク固有の世界を、歳とともに深めていった。実験的な派手な活動はなく、ほぼ同じ時代を生きたピカソマティスムンクなどに比べて、「現代絵画」の潮流とも少し離れているのでセンセーショナルさはなく、地味で、知らない人も多いけれど、いぶし銀の良さがある。
 ブラマンクは、移ろいゆくものではなく、「根元」を見つめていた。社会のなかで激しく変わるものを眺めながらも、変わらないものがしっかりと見えていた。変わらないものを古いとみなすのではなく、やがてそれが新しくなる(元に戻る)時代の訪れを、きっと心で感じとって、その心に忠実に生き続けていたのだろう。そうしたスタンスを少しのあいだ持つことは誰でもできるが、生涯にわたってそれを貫けたところが、ブラマンクの半端でない偉大さなのだろうと思う。