森山大道展は、今ひとつだった。

  先週末、東京都写真美術館恵比寿ガーデンプレイス)で開催されている森山大道さんの写真展を見た。過去の軌跡を追った「.レトロスペクティヴ1965-2005」と、近作の「.ハワイ」が、二階と三階に別れて展示されている。
 森山さんは、現在、写真界ではステイタスとなっており、その人の大々的な展覧会ということで注目する人も多いだろうし、新聞や雑誌などでも、アートコーディネター?とか評論家が、どこにでもありがちな誉め言葉で絶賛している。
 私は、森山さんの写真を、「風の旅人」の第5号で掲載した。その時の写真はパリだった。そして、その写真に添える文章も私自身が書いた。でも、今回の展覧会では、なぜかパリはなかった。
 森山さんのデビューからの軌跡を断片的に紹介した「レトロスペクティヴ」は、偉く立派になった人の経歴を紹介するという展示になっているので、そこからは、新しく何かが生まれてくるという迫力はなかった。既にできあがった評価付けにあぐらをかいて、それを見る側も、成功者の軌跡を「お勉強」するというスタンスになってしまうのだ。
 「過去」を再編集して新しく見直すのなら話は別だが、「過去」を既に認識済みの時系列に従って並べても、現在につながる新たな発見はない。
 そういう意味で、森山さんの近作の「ハワイ」は、いったいどうなのだろう。
 森山さんの権威や、評論家のありきたりの誉め言葉や、今回の展覧会で用いられている巨大なプリントのサイズにごまかされないところで、一点一点の写真と向き合った時、果たして胸に迫ってくるものがあるかどうか。
 残念ながら、私は、何も感じることができなかった。そして、いったいなぜなんだろうと考えた。
 ハワイの写真では、海とかヤシとか、いわゆる自然がたくさん写っている。
 これまで森山さんの写真で私が感応していたのは、都市の写真だった。
 都市というのは、もともと自然界にあったものではなく、人間がつくり出したものだ。永い歳月を経て、人間の様々なイメージが重なり合って、都市は形成された。だから、都市は、よく言われるように”非人間的”なものなのではなく、ある意味で切ないほど人間的なのだ。建物の形や装飾、ネオンや看板、ウインドーのなかのマネキンに、人間は濃密なイメージを吹き込んでいる。それは、人間が見る夢の結晶であるとも言えるし、人間の無意識の働きが不気味に露出した場所であるとも言える。
 森山さんが撮影した都市写真には、人間の憧憬や不安が恍惚と吹き込まれているとともに、都市がもともと自然界に存在したものでないがゆえの、儚さが漂う。つまり、森山さんに撮影された都市は、人間が見る夢なのか、それとも人間の方が夢なのか、境界が揺らぎ、その危うい感覚が倒錯した官能となり、色気と毒気が醸し出されていたのだ。
 そして、その都市のなかの、あまりにも人間的なものを裏側から強固に下支えしているものが、表現者の”自我”だった。
 森山さんの写真には、自分の姿がガラスに写り込んでいたり、影となって写っているものがけっこうあり、それは、そこにある景観が、表現者の主体と関係なく自ずから存在しているのではなく、表現者のフィルターを通して存在しているものであることを示している。そして、表現者のフィルターというのは、自我だ。
 森山さんの”自我”と、都市のなかで人間がつくり出したものが反応し合う時、それが人間対人間の局面から生じるものであるからこそ、それを見る人のなかにもある欲望の不気味さや哀しさや喜びともシンクロする。
 しかし、ハワイのように自然が相手になるとどうだろうか。
 森山さんが、マネキンを自分に引き寄せて撮影したものの迫力と、ヤシの木を撮ったものでは、森山さん風のタッチで処理しても、まるで異なる。
 森山さんでなくて、森山さんの影響を受けてそのスタイルを真似た若い人が、自然物を自分に都合の良い表現の素材にしてしまっているのと、さほど変わらないと私は感じてしまった。
 これから展覧会に行く人も、すでに見た人も、あの一連のハワイの写真を、森山さんが撮ったという先入観を抜きに、そのステイタスを追い払い、さらに巨大なプリントサイズにごまかされずに見た場合、いったいどう感じるのだろうか。
 ある意味でムーディーな写真だから、それでも好きだと言う人はいるだろう。
 ただ、森山さんの都市の写真のような、撮影者と対象のあいだのせめぎ合いのようなものは、感じられないだろう。
 相手が人工物ではなく、自然なのだから、違って当然という考えもある。撮影の目的とか狙いが違うと分析する人もいるだろう。違うのはかまわないけれど、違うなら違うで、その違うものによって、いったい何が生まれてきているかが大事なことだと思う。
 都市のなかの人工物はしょせん人間が作ったもので、表現という人工物と等価だった。同じレベルで対峙できた。しかし、相手が自然になった時、表現者が、対象を自分の自我に添ったところで表現してしまうと、ムーディな心象風景にはなるけれど、心象風景のなかで自己完結してしまって、そこから先が何もないという感じになる。
 簡単に言うと、ヤシであれ、海であれ、本来の自然物に備わった力とかエネルギーとかが人間の自我によって大きく損なわれ、抜け殻みたいなものだけが提示されているような感じになる。そこに写っているのは、”世界”ではなく、その表現者の心象だけ。表現者が、ステイタスな人だからこそ、その心象も有難く受け容れられるが、もしそうでなければ、あまり価値はない。そういうことは、ブームが去った時に、はっきりする。
 森山さんの都市写真も心象だと言う人がいるかもしれないが、心象だけではなく、心象というネガにジリジリと焼き付けられた”人工世界”が紛れもなく提示されていたと私は思う。
 おそらく、自然そのものは、心象に収まってしまうほどちっぽけなものではない。自然を自我のフィルターを通して処理しようとすればするほど、そこに描かれる世界は、狭く閉じて自己満足的なもので終わる。
 自我のフィルターを通して処理するという手法は、自我文化全盛の頃の方法論であって、その自我による産物の溢れかえる社会のなかで、それを再生産することの表現意義は、ほとんど無いのではないだろうか。
 自我のフィルターを通して自然を処理するのではなく、自我では決して処理できない自然(宇宙)の実態をどのように表現で捉えていくかが切実な問題であり、新しい思考や感性の回路は、そちらにあるような気がする。