さすらう魂

 新宿ゴールデン街に、NAGUNEというバーがある。→ http://www.nagune.jp/about.html

 ひっそりと狭いけれど胎内のような温かみが感じられる店内で、写真の企画展が行われているが、そのセレクションが、私の中の何かと呼応するものがある。

 NAGUNEの意味は、古くから朝鮮半島に伝わる<ナグネ>と言う言葉からきており、その意味するところは<さすらい人・流れ者・たびびと>だそうだから、「風の旅人」と呼応するところがあって当然かもしれない。

 現在行われている企画展は、「風の旅人」のVol.26(2007.6/1発行) LIFE ITSELFの特集で掲載した村上仁一君の、日本の古びた温泉地の写真だ。昨夜、NAGUNEを訪れ、マスターの田さんや村上君たちと深夜遅くまで話し込んだ。

 村上君のこれらの写真は、「風の旅人」のVOL.26に掲載された後、今年のビジュアルアーツフォトアワード(Visual Arts Photo Award)という賞を受賞した。

 この賞は、専門学校ビジュアルアーツ4校が共同で出資し、商業ベースに乗りにくい、優れた写真作品に光をあて、写真集の形で永く後世に残すことを目的に2003年に創設され、本年で5年目を迎える。作品の買い上げ、写真集の発行、写真展の開催も併せて行っており、日本の数多い写真賞のなかで、もっともまともで、写真家にとっても喜ばしい賞だと思う。

 今年のはじめ、村上君の写真を「風の旅人」に掲載することを決めた時、一人の評論家と会って話す機会があり、村上君の写真を見せたところ、ちらっと一瞥して、「森山大道の写真の影響下から出ていないね」と、興味なさそうな表情をした。

 そして、現代を映し出しているのはこういう若手写真家達だ、というニュアンスで、焦点の定まらない、空虚で、乾いた感じの写真を幾つか見せてくれた。

 それらもまた、現代を”さすらう魂”の映像なのかもしれないが、私はどうしてもそれらの写真が好きになれなかった。

 村上君の写真は、それらとまったく作風の異なるものだが、やはり現代を”さすらう魂”が写しとったものだ。

 同じように現代を”さすらう魂”なのに、この違いはいったい何なのだろう。そして、どうして私は、村上君の”さすらう魂”の方に呼応するものがあったのだろうと、考えることになった。

 ちなみに、ビジュアルアーツフォトアワードの審査委員の一人である百々俊二さんと、今年度の選考会の直後に会って話をする機会があり、村上君の受賞をその時に聞かされていた。

 審査員に森山大道さんも入っているので、「村上君の写真のことを、森山大道風と一括りにする評論家がいますけど・・・」と話すと、百々さんは、「確かに、プリントの仕上げ方等、森山さんから学んでいるところはあるだろうけれど、だいたい撮っているものが全然違うからね、森山さんも村上君の写真を見ながら、僕は、温泉に行ったとしても、こんなひなびた所には行ったことがないよ、と言っていたよ」と答えてくれた。

 村上君と森山さんでは、撮影している場所も違うし、被写体との距離感とか出会い方がまったく違うと私も思っている。

 対象と向き合う時、対象の内実を直観的に掴み、その感覚を作品に反映させていくが、その過程で、プリントの焼き方などにおいて森山さんから学んだものが出たとしても、森山さんと同じということではない。重要なことは、対象と自分との関わり方なのだ。

 学校で写真の歴史のことをいろいろ勉強して写真評論などを行うようになると、写真そのものの内実を直観するのではなく、スタイルとか方法論で分析する傾向がある。そういう人にとって、新しさというのは、スタイルとか方法論の新しさだから、そういう意味で、村上くんの写真は新しくも何ともないということになる。

 ビジュアルアーツ・フォトアワードと同じ新人賞である木村伊兵衛賞の選考は、中野正貴さんのように例外もあるが、ここ近年、スタイルとか方法論など、ファッショントレンドのような新しさを求めているように私は感じている。

 木村伊兵衛賞は、芥川賞のように、出版メディア界の販売戦略の一貫になりつつある。だから、その意向が反映されているように感じられる。

 メディアの大勢は、ファッショントレンドが時代を表すとみなし、新しい人材に、その新しい時代のアンテナを期待する。そして昨今では、作品そのものが新しい時代の何かを映し出しているというよりも、そうした表現手法をとる人間が現れているということを、新しい時代の象徴として提示している。

 「プライベートヌード」とか、「町中、面白ハプニング」とか、「街をおもちゃのように見せる」といった写真は、私たちの現状を、今ここより一歩前に進めさせる新しい力と呼べるものではなく、この現状に拘泥している一つのサンプルだ。写真そのものではなく、表現者が、この時代の現象サンプルなのだ。「こういうこともできるよね」とか、「こういうのでも、いいんじゃない」とか、「こんなのも、ありなんだ」とか・・。誰も彼も評論家になって、その時代の現象サンプルをあれこれ論じながら、退屈しのぎをする。でも、自分の現実は何も変わらない。

 退屈しのぎのサンプルは、サンプルとして扱われるほどに露出機会が増え、有名人になり、ステイタスになる。パリスヒルトンのように、仕事の内容そのものよりも、その言動が世間の注目を集めるパーティー・ガールであっても、商業的に、もしくは社会分析?のために利用されて、利用されることでさらに露出機会が増え、有名人好きの人々の好奇の目がさらに集まり、誰もが知る存在になることで知らず知らず大御所のような存在と錯覚されるようになる。これが現代の絡繰りだろう。

 ファッショントレンドの新しさも新しさの一つかもしれないけれど、私は、表層を上滑りしていく新しさのような気がしてならない。

 表層と内実などという言い方をすると、表層は見てわかるけど、表層しか見ない人は、”内実”っていったい何なんだよ、そんなものあるのかよ、と反発する。内実は、生理的感覚のようなものだから、その生理感覚がなければ、まったく無いに等しいか、信頼の置けないもの、ということになってしまうのだ。

 また、”内実”というと、”精神性”といった一般概念と結びつけられることもある。

 ”精神性”がどうのことのということになると、「美しい日本」というスローガンと似たようなものになり、「プライベートヌード」とか、「町中、面白ハプニング」などは、「精神性が感じられないからよくない」などと単純化されてしまう。多くの左がかったインテリは、「精神性が感じられないからよくない」という批判は、「美しい日本」の肯定につながって体制擁護派になるということを察している。もしくは、表現を古典様式の範疇でしか見られない頭の固い輩と思われると心配している。だから、反体制派だけれど、表現の自由を支持し、若い人に対しては物わかりがよいのだよと人気取りに走り、「現代を象徴する現象としてその種の表現が存在することの意義」を高見の見物で語ったりする。「それらを否定することは、言論の自由を奪う閉塞社会になる、だからそうした息抜きや面白さも必要なのだ」というスタンスを世間に媚びたインテリはとる。そのうえで、「あまり商業主義に走りすぎるのも問題があるけれど」と良識も付け加える。そういう人が増え続けて、表現世界は、何がなんだかわからなくなってくるのだ。

 私は、そのように若者の機嫌を取るタイプのインテリが避ける”精神性”ではなく、かといって、上滑りの表層変化でもなく、内実というものをしっかりと捉えていく道を歩んでいると感じられる写真家を支持したい。そのために、内実というのがいったい何なのかを、自分なりにもっとしっかりと考えておかなければならないと思う。そこのところが甘いと、”精神性”とか”スピリチュアル”と一括りにされてしまうからだ。

 考えなければならないことはいろいろあるにしても、村上君の写真で私が感じた”内実”と、表層変化の上滑り表現との違いが何であるかは、述べることができる。

 どちらも”さすらう魂”が撮ったものだとしても、後者は、自分の”さすらう魂”の”さすらっている感じ”そのものを表現にしている。だから同じような心情の人に、「うん、こういう感じ、わかるよね」という共感を与える。

 村上君の場合は、さすらいながら、いろいろな先入観をどんどん殺ぎ落としていき、空っぽの自分がさらに真空状態に近づいた時、その空心にガツンとぶつかってくるものを作品にしている。それは、対象に出会っているということだ。

 つまり、村上君の写真は、さすらうことによって得られた新たな出会いが感じられる。出会いがあるから、そこから前に一歩、何かが始まっていく兆しが包含される。

 しかし、前者は、さすらいながらも、自分に擦り込まれた「時代の枠組み」をはじめ先入観が殺ぎ落とされておらず、また、表現自体を目的化してその材料探しの下心が強すぎるため、ガツンと対象と出会っているという感じがしない。だから、その表現を見るものも、その表現が、ガツンとした出会いにならない。出会いがないから、「この感じ、わかるよねえ、おもしろいねえ」という感じを得たとしても、自分の内実の揺らぎにならず、何かが変わっていく微かな予感すら得られないのだと思う。

 ”内実”とは、表現者の精神性とかそういうものではなく、ガツンと出会う手応えとか手触りなのではないかと思う。そして、この情報過多社会においては、そのように物事や人と出会うことじたいが難しい。それが時代の希薄性ということだろう。出会うためには、自分の側にそれなりの準備が必要なのだ。その準備を怠ったまま、時代の希薄性をなぞって表現するのか、準備を心がけてガツンとした出会いを求めていくのか、表現者のスタンスがいっそう問われる時代なのだと思う。


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