心に引っ掛かりが残らないものの方が売れる?

 本屋に行くと、「今年一番の傑作!!」というPOP付きで、吉田修一さんの「悪人」が平積みになっており、浅田彰さんの、「デビューから十年、吉田修一は作家として何と大きく飛躍したことだろう!」と、大仰な誉め言葉が踊っていた。

 私も読んでみた。面白かった。人物の描き方とか、物語の動かし方とか、すごく上手いなあと思った。面白いので、1,2日で、一挙に読んだ。

 でもこれを読んで、吉田修一という作家に対する興味が増すということはなかった。この本を手許に残しても、もう一度読み直すことはないだろうとも感じた。

 編集部のスタッフに「面白いから読めばあ」と手渡した。そして、読後の感想も、面白かったと言う。でも、それだけだ。面白ければそれでいいという意見もあるだろうが、この種の内容のものを面白く読めてしまうのも、いったいどうなんだろうと思う。

 話のストーリーは、若い男性が携帯電話の出会いサイトで出会った女性を殺してしまうという内容だ。現代社会で、よくあるような事件が設定されているが、極悪非道人による殺しとか、ゲーム化した殺人とか、ホーラー映画にありそうな変質者による偏執的な殺人ということではなく、あまりにも人間的な側面から生じた”事故”としての殺人という感じで取り上げられ、関連する人物達の人生や生活の背後が、現代の世相と絡めながら、こういうのってあるよなあという雰囲気で描きだされる。その構想とか、心理描写などは、なかなか素晴らしい。

 でも、読みながら、自分ごとになるという感覚は、私個人の問題かもしれないけれど、なかった。あくまでも、エンターテイメントなのだ。にもかかわらず、状況設定が「現代社会の問題」というテイストなのだ。

 私は、読み進めながら、テレビのニュース番組のなかで、犯罪に至るまでの過程をドキュメント風に取り上げるものを思いだした。週刊誌などでも、そういうものがある。ただ、事件を伝えるだけでなく、実際の事件をもとに制作しましたというテロップ付きで、事件の背後を物語り仕立てで示すものだ。

 この小説のなかでは、事件当事者だけでなく、メディアの横暴とか、犯人の家族に対する匿名の嫌がらせなども描かれており、今日の社会では善良な顔をした人も無自覚に酷いことをしており、誰が悪人なのかよくわからない、という疑問も投げかけている。

 しかし、そうした悪に対する認識も、この小説を読む以前に、多くの人が既に認識済みのものではないかと思う。

 登場人物にしても、テレビとか雑誌とか様々な情報ルートで既に認知済みの人物であり、意外性はあまりなかった。

 その意外性の無さが、安心して一挙に読めて、読みながら次の展開を期待してしまう面白さであり、読後の引っかかりの無さにつながっているのだと思う。

 そして、その人物像の認知というのが、自分が会って直接知っているということであれば、もっと自分ごととして肉薄してくるのかもしれないけれど、実は、テレビとか週刊誌とか既存メディアを通じて自分のなかに定着してしまっている人物像なのだ。

 自分がある種のイメージで自分のなかに定着させている人物像を引き剥がして、驚きとかショックとともに、本当の人物像が迫ってくるというわけではなく、読みながら、自分が頭のなかだけで既に知っている人物像を再確認し、その人物が実際に動いていくのであって、それは、ロールプレイングゲームのようなものだ。

 ”他者”の存在を通じて、自分がそれまで意識していなかった自分自身に向き合わせられるような気分になり、世界が歪んで見えるような小説体験ではない。

 浅田さんは、この本の帯で、「誰もが善人であり悪人でもある現実をじっと見つめる正真正銘の作家の視線」と書いているが、その善人でも悪人でもある「誰も」のうちの一人が自分であるという強い迫り方は、あまりしない。誰もが善人であり悪人であるというのは、世間の人一般のこととして感じられる。もちろん、犯人の家族に匿名で呪いの手紙を送りつけたり、送りつけたい衝動に駆られる人は自分ごとなのかもしれないけれど、たとえそれが自分ごとになっても、その卑小な自分がズタズタに切り裂かれるショックはないだろう。

小説の中で、家に石を投げ込むという行為は取り上げられても、その石を投げたり匿名の嫌がらせをする人物が具体的に描写されるわけでもない。そうした人物の内面とか生活とか人生の背後をしつこく描きだして展開していけば、現代社会を描く小説として壮大なスケールになっていくかもしれない。もしかしたら、そちらの方が、現代の閉塞状況が浮かびあがるかもしれない。

 さらにいうならば、この時代の悪とは、こうした題材を面白く暇つぶしに読んで消化している我々なのかもしれないけれど、ドストエフスキーの小説のように、その毒が強すぎて、自分が揺らぐほどのことはない。もちろん、そういう小説作りが目的ではないだろうが・・・。

 そう感じるのは私の読み方や感受性のせいもあるだろうけど、それ以前に、この小説に善悪の構図をひっくり返す意図があったとしても、その構図じたいが、既存メディアのなかで既にわかりやすく示されている内容だからだと思う。

 そうした分析はともかく、面白く一挙に読めることは間違いない。優れたエンターテイメントだ。朝日新聞の連載で、「社会派」のような顔を装って、実のところエンターテイメントとして書くという一種のアイロニーとも受け取ることはできる。

 消化してさっぱりしてしまい、もう一度読み返そうという気持ちになれないし、自分のなかに気になって仕方がないという引っかかりも生まれないのが、昨今のニュースメディアであるわけだから。

 そして、現代は、そういうものの方が売れるという現実がある。売れるということが”評価”なのだ。消費財と同じように。

 「新聞連載小説とはかくも面白いものだったのか!」という言葉が、この本の帯の浅田彰さんの文章の冒頭に付いているが、批評というより消費財の宣伝コピーにすぎないこの言葉が、この本の位置づけを端的に示しているように思う。

 この時代に生きるということは、どんなに足掻いても、大量消費社会のこの構造に巻き込まれてしまう。もしかしたら、吉田修一さんは、この現代社会の課題そのものも意識しながら、この社会の変換をさぐるために、これを書いたのかもしれないが、ならば浅ましき「メディア」を大文字で括って揶揄する程度ではなく、メディアの影響を受けながらこの小説じたいを書いている自分自身を突き放し、さらに、この小説を連載していた朝日新聞の「普通の人たちを上から温かく見守っているつもりの知識人の善意」をグサリとえぐるような展開があれば、確信犯として、もっと凄みがあっただろうと思う。


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