猛暑が続きますが、この夏、身も心も涼やかになれるお勧めの美術展があります。
東京オペラシティー(京王新線初台駅そぐ傍)で開催中の難波田龍起展。
まだそれほど知られていないかもしれないけれど、きっと、半世紀後くらいには、じわじわと世界的にも評価を受けるような気がします。
個人的には、先日、上野で見たミロよりも素晴らしい。上野のミロの展覧会を観て、とても良かったと思った人は、ぜひ、こちらにも足を運んでください。なにせ、上野の美術館のような混雑とは別世界で、美術館としては申し分のない素晴らしい空間なのに、一部屋に一人くらいしか鑑賞者がいないので、どっぷりと絵画に集中できますしね。
この難波田氏は、もともと詩人を志していて、敬愛する高村光太郎に自分の詩を受け止めてもらった時から交流が始まり、光太郎の勧めで、本格的に絵画に取り組み始めた人。
だから、絵画活動の最初から、眼差しが、物事のフォルムに向けられておらず、内的生命の方に向いていた。
一般的にという言い方はよくないけれど、思春期の頃から画家を目指す人は、絵を描くことが好きで、だからその眼差しは、対象の観察に向けられる。そして、その対象を正確に写し取ろうとする。その正確さは、最初の頃はともすれば「形」や「色」ということになるかもしれないが、次第に、自分の目に見えている「形」や「色」が、その対象の本質かどうか疑いはじめ、デフォルメが始まる。そして、観察より印象を画面に定着させようとする。そのようにして抽象化が深まっていく。
人によっては、最初から、対象のことなんかどうでもよく、自分の気分なりを、キャンバスに叩きつけて、それを「生命力」だとか、いろいろ理屈づけている人もいるが、そんなものは、ただの自己主張で、どうでもいい。「他者」や「世界」との内的交流が感じられないアウトプットは、自己承認欲求と自己満足という近代的自我の肥大化した現象にすぎないと私は思う。そうしたアウトプットと響き合う人もいるけれど、それは、内的環境が似ている人同士の自己発散になるからであって、世界や他者の見え方が変わりうるといった芸術の力とは無関係のもの。
難波田龍起は、詩という表現方法で、内的生命の根元でつながる自我の範疇を越えた世界との交流を模索していたが、その詩心の情熱が、高村光太郎との出会いを通して絵画へと向けられていった。画家として生きていこうと決めたのは25歳くらいのこと。
そして内的生命の探求は、自ずから、古代への眼差しにつながっていく。なぜそうなるかはうまく説明できないが、私自身の探求のベクトルも同じような傾向があったので、わかるような気がするのだが、それはやはり、近代という狭い枠組みの中の価値観を越えた人間の普遍性に意識が行くからだと思う。
難波田龍起の抽象絵画が、欧米の抽象絵画の画家たちと違うと感じさせるのは、欧米の抽象画家たちが、対象のデフォルメもしくは、自分自身の印象を表現していると感じられるのに対して、難波田氏は、彼の目には、本当にそのように世界が見えているのではないかと感じられてくることであり、同時に、古代人の目にも、世界はこのように見えていたのではないかと、ふと思ったりする瞬間があることだ。
内的生命が宇宙の摂理と重なり、それは、常に宇宙で起きている「ものの生成」「ものの始まり」、場合によっては「ものの終わり」「ものの崩壊=あらたな生成のはじまり」の気配を、受信しているという感覚。
自然界に存在するもの、たとえば草木にしても、それは単なるフォルムではなく、刻々と変化していく途上にある。
染色において、桜の花びらから桜色は染まらない。すでに花となった時点で、もう終わりの準備をしているからだ。だから染色の桜色は、開花する前の桜の枝から染める。桜の枝を見ても桜色は見えないが、桜色は、枝の中に横溢している。
緑もまた同じで、自然環境のなかには、これだけ緑が溢れかえっているのに、緑の葉っぱからは緑色は染まらない。私たちは緑を生命の色だと思っているけれど、緑色は、実は、すでに生命を出し切った色、死んだ色。志村ふくみさんと話をした時、これ以外にも、たとえば藍色においても、藍染の甕のなかでは同じように見えても、藍は生きて月のサイクルと呼応しており、藍をうまく染めるためには、月を読まなくてはいけない。
つまり目に見えるそのものではなく、その背後を読み取れるかどうかが鍵になるのだが、それは、気配を察するとか感性のアンテナに関するものではなく、その仕事に集中し続けてきた人の目には、具体的に目に見える形でわかるのだ。
毎年、同じ時期に同じ場所に飛んでくる渡鳥が、磁場を感じて飛んでいるのではなく、磁場が、実際に見えていて、その磁場ラインに沿って飛んでいるのと同じ。
近代的自我意識というものは、自分を自我の檻の中に囲いこんでいるので、その自我のフィルターを通して物を見ることが当たり前になっているけれど、その自我が希薄な人、赤ん坊もそうだろうし、古代人もそうだろうが、世界をまったく違う風に見ているのではないか。
難波田氏の作品を見ながら、そういうことをリアルに感じるのだけれど、その近代的自我とは異なる目があると知ることは、近代人にとっての可能性であるとも思う。
だって、世界をこういうものだと決めつけていることによるニヒリズムこそが、近代における最も深刻な病なのだから。
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京都と東京でワークショップを行います。
<京都>2025年7月26日(土)キャンセル待ち、7月27日(日)キャンセル待ち
*亀岡のフィールドワークを予定。
<東京>2025年8月30日(土)、8月31日(日)
*いずれの日も、1日で終了。
詳細、お申し込みは、ホームページでご確認ください。
https://www.kazetabi.jp/%E9%A2%A8%E5%A4%A9%E5%A1%BE-%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%97-%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC/
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新刊の「かんながらの道」も、ホームページで発売しております。