第1614回 那須与一の物語を立ち上げた人々の心

玄性寺の那須与一の墓。(栃木県大田原市

 この1ヶ月ちょっとの間に、那須与一の墓を三ヶ所訪ねた。
 京都と、神戸の須磨と、栃木の大田原。
 こららの他に、岡山と広島の県境の井原、九州の熊本の阿蘇山の近くの大見口にも与一の墓がある。
 また、那須与一ゆかりの寺は、丹波の亀岡、滋賀の東近江にある。そして、これらの場所すべてに古代史の謎につながる鍵が隠れており、その理由は、那須与一の架空の物語を創造した勢力が、そこに関係しているから。
 私は、那須与一個人に関心があるのではなく、那須与一の物語を立ち上げた人々の心に関心がある。
 屋島の合戦における那須与一の勇姿は、吾妻鏡には描かれていない。
 勝者の源氏が作った歴史書である吾妻鏡に、那須与一のことが描かれていない。、平家物語のなかで、与一は、源氏側で活躍したと描かれているのだから、鎌倉政権は、これが史実ならば、隠す理由はない。
 だから平家物語における那須与一の物語は、創作なのだろう。
 いったい誰が、何のために?
 那須与一は、源義経との縁があって、ともに行動したと、平家物語では描かれている。
 そして源義経は、子供の頃、奥州藤原氏のもとで育ち、最後、源頼朝の追討から逃れるために、奥州藤原氏に保護される。
 奥州藤原氏は、藤原秀衡が生きていれば、義経奥州藤原氏の運命が変わっていたが、秀衡が死んでしまっために、悲劇が生まれた。
 この奥州藤原氏那須氏は、ともに藤原秀郷の後裔としている。
 そして藤原秀郷というのは、藤原氏というより、実態は、栃木の豪族の鳥取氏だということを数日前の投稿に書いた。
 古代、鳥は亡くなった者の魂を運ぶと信じられていたが、鳥取氏というのは、魂の鎮魂に関わっていた。そして、その祖が、日本書紀において国譲りの最終局面に登場する織物の神タケハズチであり、これは、異なるものとの和合や、揉め事の仲裁の仕事をしていた倭文氏の祖神。倭文氏と鳥取氏は同じ系統だが、鳥取氏には、さらに魂の問題を扱うことが重ねられた。
 平家物語において、那須与一が、源義経と行動をともにしたのは、横暴極まりない状態となっていた平家を討つためであり、自らの覇権のためではない。
 だから壇ノ浦で平家を滅ぼした後、平家の落武者をさらに追討することを命じた源頼朝に従わず、南九州で、那須氏と平家の落人が婚姻を通して一つになったという伝承まで作られた。
 与一の弟だけでなく息子までが、屋島の合戦の時に、船の上で扇をかざした女性と結ばれたという、現在の娯楽テレビドラマのようなストーリーまで作られている。
 平家物語では、那須与一や、源義経は美しく描かれている。この義経を、自らの保身のために殺し、さらに義経を保護した奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝は、傲慢な権力者としてイメージが定着している。
 こうしたイメージを作り上げることじたいが、無念の死を遂げた者たちの魂の鎮魂になる。人は誰でも死ぬが、死んだ後に、どう語られるかによって、生前の命の価値が決まってくる。
 那須与一奥州藤原氏の背後に隠れている鳥取氏は、平家物語を通して、無念の死を遂げた者の鎮魂を行うとともに、戦いの大義を説いている。
 鳥取氏は、藤原秀郷平将門の乱を鎮めたように、軍事力を備えていたが、その軍事力は、自らの覇権のためではなく、治安維持のためであった。
 だから、源頼朝が残党狩りを命じても、それに従わなかった。
 栃木の那須氏は、この地の国造の末裔であるともされ、その国造との関わりが指摘されているのが、那珂川と箒川の合流点あたりに築かれている数々の前方後方墳

上侍塚古墳。4世紀末に作られた全長114mの前方後方墳。(栃木県大田原市

 箒川の上流は、縄文時代、各地に流通した黒曜石の産地であり、那珂川の流域は、古代から黄金の産地として知られている。
 古墳時代前期から、この地には、前方後円墳ではなく、巨大な前方後方墳が築かれた。
 そもそも前方後円墳ヤマト王権の象徴とし、前方後方墳ヤマト王権への対抗勢力とみなすのが、今日の古代研究の通説だが、私は、そうした通説を、信じていない。
 中世の戦国時代、全国に似たような天守閣を持つ城が数多く築かれていたが、どこかの強力な勢力が、全国にそのデザインを広めたわけではなく、群雄割拠のなかで、技術とデザインの広がりがあっただけである。統一王朝となった豊臣秀吉の時代や江戸幕府では、むしろ各地の城は取り壊されていた。
 中央集権的体制というのは、そういうものであり、権力者は、自分以外の者に対して、自分と同じことを認めない。
 前方後円墳前方後方墳も、後円や後方の部分が高くなっていて、その頂上に竪穴式石室が作られるのが一般的だった。 
 つまり、後円や後方の部分が墓で、前方部分は祭祀空間。
 古墳時代の前の弥生時代には、円墳や方墳の2種類があった。古墳時代になると、それらの墓が単なるリーダーの墓ではなく、リーダーが死んで神になって、その地方を守るというコスモロジーが生まれ、そのための祭祀空間が作られたと考えれば、円形か方形かの違いは、弥生時代と同じく、その地方の治め方の違いとも考えられる。
 弥生時代の円墳は被葬者が一人、方墳は、被葬者が複数のケースが多い。
 つまり、円墳の方は、強い一人のリーダーがその地域を治め、方墳の方は、複数リーダー制だった可能性がある。
 全国的に前方後円墳が作られなくなった飛鳥時代、和をもって尊しで独裁や独断を禁じた17条憲法が作られた時代、推古天皇用明天皇の墓は、方墳だった。同じ時代、「我こそは王である」と独裁を主張し、物部守屋とともに蘇我馬子聖徳太子たちに討たれた穴穂部皇子の墓は、斑鳩藤ノ木古墳とされ、豪華な装飾品が出土したが、これは大型の円墳だ。
 古墳時代前期に前方後方墳が多くて、次第に減っていったのは、ヤマト王権の征服地が広がったからというより、全国的に、複数リーダーで地域を治める体制から、一人の王が地域ごとに治める体制へと移行していったからだと考えた方が、いろいろと辻褄があう。  
 その理由は、祖法農業から集約農業への移行が進み、灌漑など労力を集中させる体制が必要になっていったことと、産業力の高まりとともに、他地域との争いが激化していったからだろう。
 中世の戦国時代も、戦いが激しくなるにつれ、一人のリーダーの資質によって、その集団が生き残れるかどうか決定されるようになっていった。
 というふうに考えた時、前方後方墳が集中的に作られていた那珂川上流部が、鳥取氏の拠点となり、その後、中央から国司として下向してきた藤原氏と、鳥取氏が婚姻で結ばれることが重なって、歴史上に藤原秀郷が現れ、平将門の乱を鎮圧した。
 そして、この地を那須氏が拠点とするようになり、義経とともに横暴極まりない平家を討伐するために行動を起こした。
 しかし、最後、源頼朝の横暴によって、悲劇が生まれた。
 その悲劇と、教訓を後世に伝えるために平家物語が創造され、琵琶法師によって全国に伝えられていった。
 全国各地に残る那須与一の墓や、那須与一ゆかりの寺は、おそらく、源平の戦い以前の鳥取氏の活動拠点と重なっている。そういう直感があって、現在、那須与一ゆかりの地を訪ねている。
 それは、単に歴史への興味というより、古代鳥取氏が担った役割が、現代においても、とても大事なのではないかと思うからだ。
 分裂と断絶のなかで魂が蝕まれていくこの時代に、いかにして、異なるもののあいだに橋をかけ、魂の救済をしていくのか。
 歴史は過去形ではなく、いつの時代でも、メルクマールとなる可能性を秘めている。

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侍塚古墳群。後方に見える全長84メートルの下侍塚古墳の周辺に、小さな前方後円墳1、円墳6、方墳1がある。(栃木県大田原市