第1299回 古代、東海と福井と近江の関係(2)

余呉

 昨日、東海から近畿にかけての古い前方後方墳のことを書いた後に連絡をくださった人の在住場所が愛知県の新城市となっていて、ふと気になって、「新城」の位置関係を調べてみた。

 というのは、三河の聖山である本宮山の麓の新城は、以前にも訪れているが、このあたりがとても気になっているからだ。

 まず、本宮山の麓は、大嘗祭で用いられる絹織物のニギタエの産地である。

 そして、このあたりには、なぜか東北に多いアラハバキの聖域が多く残る。

 さらに、今では、かなり内陸部のこの場所で、豊川にそって、石器時代から縄文時代の遺跡が非常にたくさん残っている。

 また、新城を流れる豊川は、諏訪から南西に向かって折れ曲がった中央構造線上であり、断層は、伊勢まで伸びて西に進む。

 そして、このあたりは日本でもっとも白鳥神社が集中しているところで、白鳥伝説は、アラハバキと同じく東北地方に多い。

 昨日紹介した神戸の前方後方墳、西求女塚古墳のそばの篠原縄文遺跡から、東北地方で多く出土する遮光器土偶の特徴的な目の部分と、東日本に多い石棒が出土しており、とくに宇宙人のような遮光器土偶は、アラハバキと重ねられて論じられることも多い。

 そして確認してみたら、愛知県新城で、アラハバキを祀る石座神社(縄文遺跡の上に鎮座している)の南1kmのところに、断上山古墳群があり、そのなかの第10号古墳が、従来は前方後円墳だと思われていたのだが、その後の詳しい調査で、かなり古い大型の前方後方墳であることがわかったようだ。

 面白いことに、この断上山古墳10号が、昨日紹介した京都の向日山の元稲荷古墳と、愛知県安城市の二子古墳という、ともに古墳時代前期の大型の前方後方墳をつなぐラインの延長上にある。

 新城を流れる豊川は、ここから下流にかけて前方後方墳が多く築かれているが、全長50mに達する断上山古墳第10号は、その中のさきがけとなるもので、東三河地域において最初期に属する古墳となる。

 そして、この古墳は、弥生時代から続く南貝津遺跡と隣接しており、この遺跡からは、方形周溝墓3基確認されている。

 昨日紹介したように、弥生時代の方形周溝墓の延長に、古墳時代初期、前方後方墳が築かれたことを、ここでも裏付けている。

 以前、新城を訪れた時、なぜこんな内陸部に石器時代縄文時代に遡る遺跡が多く集中しているのか気になったが、この場所は、豊川の扇状地であり、かつては海岸線が、この近くまで来ていたのではないかと思う。

 そして、この断上山古墳第10号のすぐそばが、織田信長の鉄砲が武田軍の最強騎馬軍団を打ち破った長篠の決戦が行われたところだ。

 武田氏は、信濃から甲斐にかけて領土を拡大していたが、天竜川や豊川沿いに、信州と愛知の新城をつなぐルートが開かれていたということだろう。

 一般的には関ヶ原の戦いが天下分け目の決戦とされるが、戦術的に騎馬よりも鉄砲が勝るようになったパラダイムシフトとしては、この長篠の決戦が、大きな歴史的転換だろう。

 新城に白鳥神社が集中しており、白鳥伝説は羽衣伝説とも重ねられるが、羽衣伝説の有名な場所の一つが、琵琶湖の北の余呉湖で、ここは、昨日紹介した東近江の神郷亀塚古墳と、福井の鯖江の王山古墳群を結ぶライン上にある。

 この余呉湖の真南5kmの琵琶湖北端の丘陵上に、湖に面した形で南北3キロメートルにわたって一列に営造された、全国的にも有数の大規模古墳群、古保利古墳群がある。

 これまで、前方後円墳8 基、 前方後方墳8基、円墳 79 基、方墳 37 基の合計 132 基が発見されているが、この中で最も古いと考えられているのが、全長約 60 mの前方後方墳である小松古墳だ。

 この古墳からは、方格規矩鏡という中国の漢の時代に作られた鏡が発見されている。

 また、竪穴式石室や粘土郭などは確認されておらず木棺直葬となっており、重い石で蓋をして二度と埋葬空間が開けられないようにしている古墳時代の竪穴式石室とは、死生観が異なっており、弥生時代コスモロジーの移行形のようだ。

 古墳時代の琵琶湖は、近畿、東海、北陸地方、さらには海の向こうの朝鮮半島や中国との重要な交通路だった。古保利古墳群は、琵琶湖に面した山々の上につくられており、琵琶湖を利用 した交通・交易に強い影響力を持つ勢力によって築かれたのだろう。

 そして、羽衣伝説のもう一つの地が京丹後の峰山で、峰山は、扇谷とか奈具岡といった弥生時代の最先端遺跡があるところだが、弥生時代では傑出した大きさを誇る方形墳丘墓の赤坂今井墳墓がある。

  この赤坂今井墳墓と、向日山の元稲荷を結ぶラインは、福井の王山古墳群から日本最古の前方後方墳のある上磯古墳群を通って愛知の二子古墳を結ぶラインと平行している。

 ここから出土した玉類・鉄製品・土器類は、他地域との広い交易を示すもので、土器のなかには、東海地域からの影響が認められるものが含まれている。

 東海から近畿、日本海にかけて、白鳥伝説と重なる羽衣伝説の場所が、各地とつながる交通の要所であり、縄文や弥生時代から栄えていた。そこに初期の前方後方墳が関わっており、そのネットワークの中に、アラハバキや遮光土偶といった東北との関連を示すものが見え隠れしているのは、この水上ネットワークが東北まで展開されていたことを裏付けている。

 

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