(京都 梅宮大社)
前回のエントリーで、酒というのは、厄災や悪霊を防ぐ「避け」であると書いた。
神事において清めに酒が用いられるのも同じ理由であり、日本三大酒神神社のうち、酒神といえるのは、京都の梅宮大社の酒解神(大山津見神)だけであるとも書いた。
平安時代、国家の重大事に朝廷から特別の奉幣を受けた22社で、さらに延喜式の式内名神社という特に重視された神社は、京都に7社あり、梅宮大社は、賀茂神社や松尾大社とともに、その1社である。
この梅宮大社を、現在の場所に築いたのは、嵯峨天皇の皇后、橘嘉智子だった。
”酒”を”避け”と理解することで、なぜ、梅宮大社が、この位置に築かれたのかもわかる。
千年の都、京都は、様々な呪術的な仕掛けで守られている都だが、平安京の政治と祭祀の中心であった大極殿は、都の真中を通る朱雀通(現在の千本通)に位置するが、その南端が羅生門であり、さらに南に行くと、京田辺の月読神社である。ここは隼人舞の発祥の地で、前回のタイムラインで書いたように、この場所が、四神相応の南を守る朱雀である。古代中国において、朱雀とは、鳥隼のことであり、隼人をここに居住させることで、都の南を守った。
平安京の北を守るのは、西加茂の大将軍神社であり、ここの祭神は、大山津見神=酒解神のもう一人の娘、磐長姫である。
そして、東山の頂上、青蓮院の飛地境内に将軍塚がある。和気清麻呂と桓武天皇がこの場所に立って京都盆地を見下ろして都の建設を構想したとされるが、桓武天皇は、王城鎮護を願い、甲冑を着せた人形(高さ約2.5m)に太刀・弓矢を持たせ、ここに埋めたと伝えられ、ここが平安京の東の守りだ。
この将軍塚から朱雀通りまでの距離が4.2kmだが、朱雀通りから真西に4.2kmのところが、酒=避け=邪霊の侵入を防ぐ、の神を祀る梅宮大社である。
さらに偶然なのか必然なのか、梅宮大社の真北3kmのところの梅ヶ畑から銅鐸が発見され、梅宮大社から真南に6.5kmの向日山からは銅鐸の鋳型が発見された。さらに、向日山から真南に8.5kmの式部谷からも大型の銅鐸が発見された。京都盆地で銅鐸関連地は、この三箇所だけだが、三つのポイントは東経135.69上に並んでおり、梅宮大社も、このライン上にある。
銅鐸は、弥生時代の祭祀道具だが、境界に埋納されていることが多く、”避けの神”と同じ性質を持っていると考えられる。
京都の梅宮大社は、前回も書いたように、平安時代に県犬養三千代の血を引く橘嘉智子が現在の位置に遷したが、その前は、県犬養三千代の娘の光明皇后によって平城京に遷されていた。
ならば、県犬養三千代が、この酒=避けの神を最初に祀ったのはどこなのか?
これがどこなのか? その答えが書かれた文献がどこにもないので、実際に現地周辺を探検して探ってきたのだが、たぶん、ここで間違いないだろうという場所を見つけた。それは、京田辺の大神宮跡(式内・佐牙神社旧跡)だ。
現在、京田辺市宮津に佐牙神社が鎮座するが、これは15世紀半ばに遷されたもので、それ以前は、木津川のすぐそば、県犬養氏(後の橘氏)の拠点であった井手町の対岸に鎮座していた。現在、この大神宮跡は佐牙神社の御旅所になっている。
佐牙神社の現在の祭神は、佐牙弥豆男神(さがみづをのかみ)と佐牙弥豆女神(さがみづめのかみ)という酒造神だが、木津川の河岸の旧鎮座地は、木津川の水上交通と、大和から北方へ通じる官道である山陽道の要所であり、さらに、県犬養三千代を深く信頼していた元明天皇が遷都した平城京の真北12kmのところにあり、平城京を邪霊から守るために”避け”の神を配置すべきところである。
そして、弥生時代、銅鐸製造の代表的な場所は、大阪の茨木市にある東奈良遺跡と、奈良の唐古遺跡なのだが、大神宮跡(式内・佐牙神社旧跡)の場所は、東奈良遺跡から真東に20km、唐古遺跡からは真北に25kmであり、二つの場所と東西、南北のラインで交わっている。
弥生時代の”避けの信仰”と見られる銅鐸とつながり、さらに都城を守るという意味合いにおいて、大神宮跡(式内・佐牙神社旧跡)は、京都の梅宮大社と同じである。
橘嘉智子が、梅宮大社を現在の位置に築いたのは、彼女が、県犬養三千代の存在を強く意識していたからだろう。
大神宮跡(式内・佐牙神社旧跡)の近くの飯岡丘陵には、4世紀から6世紀にかけて、木津川の水運に関係する一族の墓と考えられる古墳が数多く築かれ、トヅカ古墳からは銅鏡や刀剣、馬具、管玉などが出土している。
第26代継体天皇が、この地に筒城宮を築いたのは、この水運力が重要な鍵を握っていたからだ。
継体天皇が最初に宮を築いた樟葉の宮が、木津川、桂川、宇治川の合流点で、式部谷の銅鐸埋納地であり、もう一箇所の弟国宮(向日山)も、桂川、鴨川の合流点に近く、さらに銅鐸の製造場所だった。
京田辺の筒城宮には、田辺天神山遺跡という弥生時代の高地性集落がある。さらに、すぐ近くの古墳の上に築かれている山崎神社は、縄文中期の石棒の発見場所であり、石棒を御神体としている。すぐ近くの別の古墳からは大量の勾玉が出土した。
また、北西2.5kmの薪神社の近くからも、近畿地方で最大規模の石棒が出土している。
薪神社には、甘南備山頂にあった、月読神が影向したと伝わる石が祀られている。なぜ当社へ運ばれたのか不明。現在の月読神社は、ここからさらに北西2kmだが、もしかしたら、縄文時代から古墳時代にかけての痕跡が残る。
この場所が、月読神社の旧鎮座地なのかもしれない。
近くには、大住車塚古墳と、大住南塚古墳という、周濠のある前方後方墳が2基並んで存在しており、これは全国的にも珍しい。
京都の向日山も、銅鐸の鋳型以外に縄文時代の石棒が発見されており、元稲荷古墳という巨大な前方後方墳もある。
また、元稲荷古墳と同じ時代、同じサイズ、同じデザインで作られた神戸の前方後方墳である西求女塚古墳の近くからは、大量の銅鐸、石棒が出土しているが、さらに興味深いのが、東北に多く見られる遮光器土偶の目の部分も出土していることだ。
遮光器土偶の出土地として青森の亀ヶ岡が知られているが、この亀ヶ岡は土器も有名だ。縄文時代の後半に、全国的な人気があった亀ヶ岡式土器は、現代の工芸のように繊細な形と複雑な文様が描かれ、赤や黒などに塗られている。この土器は、九州や沖縄でも発見されており、縄文人の活動範囲が広範囲にわたっていたことがわかる。
興味深いのは、亀ヶ岡式土器には、明らかに「酒器」とわかるものが多く作られていることだ。
つまり、縄文時代後期から、祭祀のために酒が使われており、”避け”の思想は、その当時から続いているのだろう。
弥生人の暮らしが稲作を中心とするものであれば、土地に定着することが必然なので活動域は限られてくるが、縄文時代から水上交通で遠方まで移動していた人々の活動は継続されていたはずで、彼らが、物だけでなく、過去から続く文化や思想も引き継いで、伝えていた。
継体天皇が、内陸の奈良ではなく、京田辺や向日山など水上交通の要に宮を築いたのは、それらの地の勢力との関係を重要視したからだろう。
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3月25日(土)と26日(日)、午後12時半から、京都の梅宮大社に集合し、フィールドワークを行なったうえで、私の事務所で、ワークショップセミナーを行います。(それぞれ1日で完結)