第1218回 われわれは、どこから来て、どこへ行くのか? 第一回 京都に秘められた古代の記憶

「日本人とは何か? われわれは、どこから来て、どこへ行くのか? 日本の聖域に秘められた古代の記憶を探る」

 2022年2月27日 第一回開催 「京都に秘められた古代の記憶」において、参加者に事前に送らせていただいた長いメモを添付します。

 古代のことを語るうえで、神様の名前や地名や、歴史背景などは欠かせませんが、そういったものに縁が遠くなった現代社会において、固有名詞を耳で聞いても、具体的なイメージに結びつけることが難しいものも多く、そのため、イベントトークにおける話の内容を文章化しておくことで、参加者が、後で振り返ることができればと思いました。

 メモのつもりで書いていたら、一つのことを伝えるにしても、その背景がわからなければ理解が遠のきますので、書き加えていたら膨大になりました。最後まで読もうとする人はほとんどいないことはわかっていますが、こういうことに少しでも関心を持つ人がいれば、第二回以降も、続けていこうと思います。

 (自分としては、イベントトークの有る無しに関係なく、年に1度のペースで本を発行していければいいと思っています。)

 歴史は、私たち自身の足場を確認するうえでも大事なことなのですが、娯楽物の大河小説や大河ドラマは好きだけれど、それ以上は興味が持てないという人も多いです。

 そうなる理由は、大河小説や大河ドラマは、現代人にもわかりやすくするために、現代的価値観にそって構築しているからです。

 しかし、歴史探求は、娯楽として消費するだけでなく、現代人が失ったものを再発見するために必要なことで、そのためには、現代的価値観にあてはめないアプローチが必要です。

 具体的には、形も大きさも不揃いな巨石を積み上げて巨大で頑丈な城壁を作り上げた石工は、設計図にもとずいて作っていません。

 彼らは、石の声を聞いて、石がどこに行きたいのかを判断するといいます。石の声を聞くという言葉じたいが、すでに現代的価値観では理解できないものです。

 しかし、石工に限らず、どんな名工でも同じでしょう。樹木であれ何であれ、それ自身の声に耳を傾けることができる人が、時代を超えた物を作り出しています。

 歴史もまた同じなのだと思います。

 明治維新以降、日本は西欧文化を追いかけ、必死に取り入れてきました。しかし、風土も歴史も異なる西欧で生まれ育った精神を、そのまま日本に定着させることはできません。日本人は、無意識のうちに、日本流に変容させて西洋文化を摂取しているのですが、自分たちの基盤であるはずの日本のことを、まるでわかっていないと自覚している日本人は多くいます。

 私もそうです。私は、世界中70カ国以上を旅してきましたが、海外に出て帰ってくるたびに、日本のことがまるでわかっていないことを思い知らされたのです。

 しかし、風の旅人を編集制作し続けている時は、日本のことを深く理解していなくても世界中を旅したことが肥やしにはなっていました。

 ところが、第50号の次のテーマとして「もののあはれ」を設定した時、「もののあはれ」については感覚的になんとなくわかっているつもりでしたが、それは現代の価値基準の範疇のものでしかなく、その本質がまったく理解できていないことに気づきました。

 「もののあはれ」は、日本の歴史文化の全てが凝縮したものですが、そもそも、どういった精神的土壌から生まれ、育まれてきたものなのか?

 ”もののあはれ”は、過去を懐古的に振り返るための材料ではなく、生老病死を否定的にしかとらえない現代の死生観や、際限のない消費生活を考え直すうえで重要な精神です。それゆえ、表面をなぞるように形を整えて処理するわけにはいきません。

 過去と未来をつなぐ大切な橋としての「もののあはれ」。その精神の探求が必要であり、日本の古層をめぐる私の旅が始まりました。

 過去を知るうえで、これまでは考古学による実証的研究が重視され、その成果も大きいのですが、考古学的実証だけに重きを置く問題もあります。新たに重大な証拠が発見されるたびに、これまでの説を書き換えていかなければならないのですが、その手続きの速度があまりにも遅いのです。

 とりわけ、この20年ほどの間に大きな発見が続いており、これまでの歴史認識を修正しないと説明できないことも多くあります。

 もちろん、新しい事実の発見と議論は、真実に辿り着くために重要なプロセスですが、正しい答えの追求と、今を生きる私たちの在り方を切り離してしまうと、その知識はウンチクにすぎません。

 必要なことは、正しい答えを知って頭で覚えることではなく、世界と向き合う自分の眼差しが、どう変化するかです。それは、新しい目の付け所を獲得するといった処世的なことではなく、「われわれは、どこから来て、どこへ行くのか?」という人類にとって永遠の問いにつながる目線を獲得することです。

 過去のことを考える時、過去の人たちの方が現在の我々よりも劣っていると思っている人たちがいますが、それは間違っています。

 優劣の違いではなく、世界観の違いでしかなく、過去の世界観が幼稚ということではありません。

 人間は一つの世界観のなかで生まれ育つと、その世界観に慣れるようにできています。

 それは、脳の特性にすぎず、脳の容量は過去と現在で変わりはありません。

 現在の方が過去よりも情報量が多いと思っている人も多いですが、それも違っていて、人間の認知が反応する対象が異なっているだけで、テレビのない時代の人たちは、現代人よりはるかに虫の音を聞き分けられたでしょうし、夜空の星の位置も把握していたでしょう。

 ですので、古代のことを考察する場合、現代人の尺度を過去に当てはめた分析では、現代人には納得しやすいかもしれませんが、けっきょく、現代人の眼差しや意識、つまり現代的価値観をより頑なにするだけのことにすぎません。

 たとえば、古代の都について考える時、現代人の発想だと、戦いに備えることや交通の利便性や水の確保など、現代にも当てはまる理由を思い浮かべます。

 しかし、古代の都は、”まつりごと”の舞台であり、古代における政治と祭祀は一体です。祭祀は、過去から連続しているものであり、祖先崇拝という現代人が失った感覚を古代人は維持していたと思われます。

 また、祭祀は、目の前に展開する現実世界を超えたものにアクセスすることで、目の前の問題の細部にとらわれすぎている視点を大局的な視点へと変化させるものであり、祭祀には、世界の広がりや大きな時間を感じさせる舞台装置が必要です。

 それゆえ、”まつりごと”を行う都の建設においても同じでしょう。もちろん利便性も考慮されたのでしょうが、それだけでなく、周りの景観、方位、天体の動きとの関係、何よりも重要なことは、過去とのつながりです。

 たとえば、水の便が決して良いとは言えない平城京への遷都は、平城京の北を守るように東西に伸びる佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群と、無関係だとは思えません。

 奈良時代天皇である称徳天皇は、この古墳群の中に陵を作っていますし、元明天皇元正天皇聖武天皇も、この古墳群の東西のラインの東端に陵を作っています。

 この佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群は、4世紀末から5世紀前半の大古墳群で、河内に応神天皇陵などが築かれる直前の、ヤマトの大王クラスの陵と考えられています。

 奈良時代は、古事記日本書紀が編纂された時期ですから、過去の大王のことについての認識を持っていました。その認識が正しかったかどうかは別にして、その認識に基づいて”まつりごと”を行なっていたわけで、”まつりごと”を行なっていた人たちは、その時代の大王たちを自分たちとつながっている存在として捉えていたと思われます。

 具体的には、この古墳群に葬られている第11代垂仁天皇の皇后の日葉酢媛が重要です。

 日葉酢媛は、丹後の国から嫁いだ女性です。その父、丹波道主命は、近江の三上山に降臨した天御影神の娘、息長水依媛と和邇氏の母を持つ彦坐王のあいだに生まれた存在で、垂仁天皇に嫁いで景行天皇ヤマトタケルの父)を産んでいます。

 そして平城京が築かれた場所、三笠山から天理にかけての春日の地は、5世紀後半から和邇氏が居住していた地域です。

 平城京の場所は、木津川と大和川のあいだにあり、和邇氏と関係の深い琵琶湖方面(日本海に抜けるルート)と、奈良盆地南の古代ヤマトの地や、瀬戸内海に抜ける大和川ルートの中間地帯で、交通においてもバランスが保たれ、かつ、古代とのつながりが深い地なのです。

 同様に、なぜ平城京から長岡京平安京に遷都されたかを理解するうえでも、過去とのつながりを考慮する必要があります。

 政治に口出しをする奈良の僧侶を嫌ったからという教科書にも書かれている理由は、まったく無いわけでなくても、主たる理由ではないと思います。その理由だけなら、京都でなく他のどこでもいいわけですから。

 過去とのつながりを知るためには、考古学だけが手段ではありません。

 日本には無数の神社が鎮座しています。立派な本殿は、後からやってきた権力者が作ったものが多いのですが、境内には末社や摂社があり、古くからの神様がそこに祀られています。古墳もまた、後からやってきた権力者が、それ以前の権力者の古墳を破壊するということを行っていないため、日本には、およそ16万基もの古墳が残っており、前方後円墳のすぐそばに前方後方墳という、異なる種類の古墳が隣接しているところも多く見られます。

 そうした事実によって、私たちは、考古学的発見に頼るだけでは得られない古代の情報にアクセスする可能性が残されています。

 今では小さな祠にすぎないものが、地理的に他の重要な聖域と結ばれているという事実を発見する時、少し調べると、その小さな祠は、数百年前までは巨大な聖域であったのに戦乱や地震などで破壊されて再興されていないという事実に行き当たることがあります。

 考古学と古代文献のこれまでの研究成果は多くの論文として発表されていますが、インターネットで自由にそれらを確認することができる時代に生きている私たちは、江戸時代の本居宣長より多くの情報を得ることは不可能ではありません。

 しかし、いくら情報量が増えても、たとえば、古代人が正確な測量技術を持っているはずがないとか、過去を現代より劣ったものだと思いこんでいると、真相も遠のきます。

 古代とそれほど変わらない交通手段しかなかった江戸時代ですが、伊能忠敬は、1800年、商いを息子に譲った55歳の時から日本地図を作るための測量を開始しました。

 歩幅を正確に69センチで刻めるようにして、1日に10kmずつ測量を重ね、わずか17年で、伊豆諸島や屋久島、佐渡対馬など離れ島も含めて、日本全土の地図を完成させたのです。

 一人の人間が人生の晩年から始めたことでも、それだけのことができてしまうわけです。

 古代においても、精密過ぎるほどの測量でなければ、遠く離れた場所の位置関係の把握など、そんなに難しいことではなかったと思われます。

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 さて、京都盆地には、古代の重要な聖域を結ぶラインが、いくつかあります。

 もっとも古い聖域は、冬至のラインで結ばれています。冬至というのは、太陽の力が一番弱くなる日ですが、再生への折り返しの日でもあり、日本に限らず、世界中の古代世界で、強く意識されていた日でした。

 やがて、中国文化の影響を強く受けるようになると、天界の不動の星、北極星を重視する北辰信仰が、日本の聖域にも反映されるようになります。

 中国においては2500年前の春秋戦国時代から北極星を用いた方位測定法が行われ、都城造営に用いられていました。

 また、飛鳥時代の頃、大王から「天皇」へと称号が改称されましたが、天皇号には、北極星を神格化した宇宙の最高神天皇大帝の意があります。日本における天皇という言葉は、608年、聖徳太子が隋に送った国書に、「西皇帝(もろこしのきみ)」に対して「東天皇(やまとのてんのう)」と称したとある『日本書紀』の記述が最初とされます。

 京都(山城国)でも、古代の重要な聖域が南北のラインで結ばれています。

 京都は、794年に平安京が建設されてから発展した場所ではなく、縄文時代弥生時代においても人々が活動していました。

 また、6世紀の第26代継体天皇は、第25代武烈天皇が子供を持たずに亡くなったため、有力豪族たちによって帝位に推挙された人物ですが、即位した後、19年間も大和の地に入らず、京都周辺に三つの宮を建造し、まつりごとを行いました。

 専門家の説では、大和の勢力を警戒していたためとされていますが、そうではなく、彼が、この地域と関わりの深い人物だったからでしょう。

 継体天皇が宮を築いたのは、山城国において古代から特別に意味のあった場所ばかりです。

 弟国宮が築かれた向日山(京都府向日市)は、冬至のラインの交点にあたり、縄文時代からの重要な場所でした。ここでは、縄文時代の祭祀道具である石棒が発見され(製造場所も近くにあります)、さらに、弥生時代の祭祀道具である銅鐸の鋳型も発見され、ここが銅鐸の製造場所だったことがわかっています。さらに、向日山の上には、戦乱に備えた高地性の弥生集落があり、3世紀の巨大な前方後方墳、元稲荷古墳が残っています。この向日山から冬至の日没ラインにそって50km西に行ったところ、神戸市灘区に西求女塚古墳があり、この古墳は、元稲荷古墳と相似形で同じ大きさの前方後方墳ですので、二つの場所に関係があったことが想像できます。さらに、この西求女塚古墳の2kmほど東に14基の銅鐸が発見された桜ヶ丘遺跡があります。

 この西求女塚古墳から出土した祭祀用の土器は、山陰系(古代出雲の中心地とされる日本最大級の弥生遺跡、妻木晩田遺跡のそばの徳楽方墳から出土した土器に特徴的な、装飾性の強い壺型のもの=伯耆系特殊土器)で、石室の石材は、地元だけでなく阿波(徳島)や紀伊(和歌山)のものが使われています。このことから、この古墳と相似形の向日山の元稲荷古墳も、出雲と紀伊、阿波の勢力との関係が想像できます。

 そして、元稲荷古墳の600m北の高台に前方後円墳の五塚原古墳が築かれています。前方後方墳の元稲荷古墳(全長94m)とほぼ同じ大きさ(91m)で、3世紀という建造時期もほぼ同じですが、この古墳は、卑弥呼の墓とも騒がれているヤマトの箸墓古墳と、大きさは違いますが相似形で、関係があると考えられています。

 二つの異なる勢力を象徴する古墳が、向日山に、向き合うように築かれているのです。

 そして、この向日山を基点として、冬至の日の出ラインを東にいくと、宇治川宇治橋で、さらに伸ばしていくと、伊勢神宮宇治橋になります。

 伊勢神宮宇治橋は、冬至の日、太陽が橋の中央から上ることが知られており、その瞬間を写真にとらえようと多くの人が訪れます。この宇治橋は、明らかに冬至の日の朝日を意識してかけられています。

 また、向日山から冬至の日の出ラインを西にのばすと、大原野神社を通って亀岡の稗田野神社の場所です。ここは古事記の作成に関わった稗田阿礼生誕の伝承地ですが、三年ほど前、この佐伯郷で、巨大都市遺跡が発見されました。亀岡は、この地の出雲大神宮こそが元出雲大社と言われるほど数々の神話の舞台になっているのですが、これまで考古学的に大きな発見がありませんでした。しかし、この大都市遺跡の発見で、間違いなく古代史における重要な場所であることが証明されました。

 このように、向日山は古代世界の交点にあたる重要な聖域であり、異なる勢力の攻防の舞台でもありました。

 継体天皇は、この場所に弟国宮を築き、桓武天皇は、ここに長岡京を築きました。

 そして、京都盆地周縁には二箇所、銅鐸の埋納地があり、その一つが、向日山の真北の梅ヶ畑で、ここは嵯峨野の広沢池の横から日本海側に向かう周山街道への出入り口に当たりますが、この場所で、弥生時代から平安時代まで祭祀が行われていました。

 さらに、梅ヶ畑の銅鐸埋納地の真北、沢山の西に沢の池があり、ここは京都盆地を見下ろす標高500mほどの場所ですが、石器時代縄文時代の痕跡が残り、平安時代においても祭祀が行われていました。

 もう一つの銅鐸埋納地が、向日神社の真南です。木津川、桂川宇治川が合流する地点、かつては巨椋池があった場所ですが、ここに聳える男山に石清水八幡が鎮座します。その南麓が、銅鐸埋納地です。

 銅鐸は、境界に埋められていることが多いのですが、梅ヶ畑と男山の二箇所が、京都盆地の境界なのでしょう。そして、男山の南麓の銅鐸埋納地のそばに継体天皇樟葉宮(くすはのみや)を築き、同じ場所で桓武天皇は即位儀礼を行い、父を祀る交野天神社を作りました。その真北の向日山が、継体天皇の弟国宮で、桓武天皇長岡京を築いたのは偶然とは思えません。

 このように、京都盆地の銅鐸関連地三箇所は、向日山を中心に南北に並び、桓武天皇継体天皇という、本来は天皇になる予定でなかったのに天皇に即位することになった歴史的に重要な人物が築いた宮が並んでいます。

 また、興味深いことに、向日山の上に鎮座する向日神社を1.5倍の大きさにしたのが明治神宮です。明治維新政府が、古代の歴史をどれだけ意識したかはわかりませんが、桓武天皇は、300年ほど前の継体天皇を明らかに意識しており、都の建設地が重なるだけでなく、桓武天皇の陵は、継体天皇が宮を築いた筒城宮の真北に作られています。

 継体天皇が築いた三つの宮のうち、弟国宮や樟葉宮は銅鐸関連ですが、もう一つの筒城宮は、弥生時代後期の高地性集落があったところです。現時点では銅鐸は発見されていませんが、近くで縄文時代の祭祀道具である石棒が発見されています。集落の中に埋められている銅鐸は、特別の例外であり(銅鐸祭祀の集団が関係していると思われる)、多くが人里離れた場所(山との境界など)に埋められているため、たまたま地元の人が見つけたり、住宅開発で掘り起こしていたら出てきたものが大半ですから、今後も、筒城周辺で銅鐸が発見される可能性はあります。

 そして、東経135.77度の筒城宮の真北が桓武天皇陵ですが、その3km北に伏見稲荷大社があります。

 この場所は鴨川の扇状地で、京都盆地で最初に稲作が行われた深草遺跡があった場所です。このあたりは陶土にも最適な土が得られる場所で、伏見人形はこの土で作られてきました。

 また、ここは、聖徳太子一族の上宮家の暮らしを支え、皇子の世話や養育を行う乳部壬生部)の場所で、その集団を管理していたのが秦氏でした。聖徳太子には秦河勝が側近として仕えていましたので、山城の秦氏と上宮家の結びつきがあったということです。

 それゆえ、同じ時代、京都の太秦秦氏の氏寺である広隆寺が建造され、聖徳太子から賜ったと伝承のある弥勒菩薩半跏像が、国宝第一号として知られています。

 また、聖徳太子の子、蘇我入鹿によって滅ぼされた山背大兄皇子の”やましろ”は、山城国深草との関係であると思われ、皇子は、蘇我入鹿の軍勢に襲われた時、この深草に逃げるように進言されましたが、戦って民を巻き込みたくないからと、一族はもろともに自害を遂げました。

 この深草の真北に、現在、下鴨神社が鎮座していますが、境内から縄文時代の遺物が出土しており、鴨川と高野川が合流するこの場所は、縄文時代からの祭祀場だったと考えられています。

 さらに東経135.77度の真北には鞍馬山があり、鞍馬山の左右に貴船川と鞍馬川が流れ、ここが鴨川の源流です。

 鞍馬山の背後に、貴船神社の奥宮があり、そこに船形石がありますが、これは、神武天皇の母親の玉依姫が乗ってきた黄船を、人目に触れぬよう石で覆ったものとされます。

 なぜこんな山中に玉依姫がやってきたのか不思議に思われるかもしれませんが、貴船神社の場所は、実は、瀬戸内海へとつながっていく鴨川の源流であるばかりでなく、北の日本海にもつながる場所なのです。

 若狭湾の小浜で南川と北川が日本海に注ぎますが、この二つの川にそって京都に向かう道が、鯖街道として知られています。

 南川は、周山街道とつながり京北から京都西部に入る道となります。

 北川は、琵琶湖岸の近江高島に向かいます。近江高島継体天皇が生まれた場所です。

 そして、高島からは安曇川が京都方面に流れ、その源流が、貴船の北の花背あたりです。花背は、日本で一番背の高い杉の木があることで有名です。

 また、花背は、桂川の源流でもあります。桂川は、ここから西に向かい、亀岡で平野部に出て、保津川渓谷を抜けて京都の嵯峨野に入ってきます。

 さらに桂川源流付近の支流、片波川源流域一帯は、古くから御杣御料として守られてきた森で、西日本屈指の巨大杉群落の森です。長岡京平安京の造営時や御所炎上の際には、膨大な量の建築用材がこの地より供給されたという記録が残ります。1本の木から多くの材がとれるように台杉仕立てが盛んに行われ、さらに雪の重みで伏した形となり、伏状台杉と呼ばれる、杉とは思えない奇怪な形をしています。当然ながら、それらの木材は、川を利用して京都まで運ばれました。

 継体天皇の生誕地、高島と京都を結ぶ安曇川は、古代、海人の安曇氏の拠点であり、安曇氏の祖神がワタツミで、その娘が豊玉姫玉依姫であり、貴船神社の奥宮に玉依姫が船で到達したという伝承があるのは、安曇氏が、日本海と京都を結ぶ水路を担っていたということでしょう。

 継体天皇が築いた筒城宮は木津川沿いで、弟国宮は桂川と鴨川の合流点のそば、樟葉宮は木津川と桂川宇治川の合流点です。どの場所も、継体天皇生誕の地である近江高島とは河川交通でつながっています。

 また、筒城宮から真西に15kmの淀川沿いにあるのが三島鴨神社で、ここは古代の軍港ですが、全国にある三島系の神社のなかで、伊予の大山祇神社と伊豆の三嶋大社とともに、三三島とされます。

 この場所は、三嶋湟咋( みしまみぞくい)の拠点です。古事記では、三嶋湟咋の娘が、大物主神日本書紀では事代主神)と結ばれて生まれた娘が神武天皇の皇后になり、後継を産みます。

 つまり、現在の天皇には、摂津の三島氏の血に出雲系の血が混ざり、九州から東征してきた神武天皇の血が混ざっているということになります。

 三島系の神社の祭神は、大山祇神です。大山祇神は、山の神ですが、渡しの神でもあります。それは、山が、船の建造に必要な木材の供給地だからです。ですから、伊予、摂津、伊豆の大山祇神の聖域は、水上交通と深い関係があります。

 また、大山祇神の娘のコノハナサクヤヒメが、天孫降臨のニニギと結ばれたわけですから、大山祇神は、それ以前から存在していたということです。

 さらに、コノハナサクヤヒメは、別名、神吾田津姫で、阿多隼人の女神です。阿多隼人というのは、鹿児島の大隅半島を拠点としていた黒潮系の海人です。宗像三神を祀る宗像氏と同族であり、宗像氏は九州と朝鮮半島のあいだをつなぐ海人でもありました。

 同じ海人でも安曇氏は、古代、中国とのあいだをつなぐ海人で、弥生時代初期に中国の江南地方から稲作文化を伝えたとされます。

 この安曇氏の祖神がワタツミであり、ニニギの息子、山幸彦は、ワタツミの娘の豊玉姫と結ばれました。

 山幸彦の兄の海幸彦は、山幸彦が失くした釣針の件で彼に辛く当たりますが、山幸彦はワタツミの力を借りて海幸彦を懲らしめ、海幸彦は、山幸彦に服従することを誓います。海幸彦は、隼人の祖先と位置付けられています。

 山幸彦と海幸彦の確執は、山の神と海の神との争いではなく、海幸彦とつながる隼人という黒潮系の海人に対して、山幸彦を支援したワタツミを祖神とする安曇氏が優位に立つ物語と読み取れます。史実としても、安曇氏が、全国の海人を統率する役目を担うことになるのです。

 また、三嶋湟咋は、下鴨神社の祭神の賀茂建角身命と同じとされます。山城国風土記では、賀茂建角身命の娘の玉依姫が、向日神社の祭神である火雷神(朱塗りの矢に変身した)と結ばれて上賀茂神社の祭神である賀茂別雷神を産んだとされます。

 秦氏の伝承では、この火雷神が、秦系の松尾大社日吉大社の祭神である大山咋神(オオヤマクイ)に入れ替わっています。

 このあたりの事情は複雑ですが、平安京遷都の前から、京都には賀茂神社と、松尾大社伏見稲荷大社広隆寺など秦系の聖域が築かれていたことからわかるように、賀茂氏秦氏は、京都の古層を理解するうえで最重要なポイントなので、少し詳しく説明をさせていただきます。

 下鴨神社の祭神である賀茂建角身命は、別名、八咫烏ともされ、神話のなかで神武天皇の東征を導いたともあります。

 咫というのは、長さの単位で親指と中指を広げた長さなので、八咫もある巨大な烏というふうに解釈されてきました。

 しかし、八咫烏の真意は、伝承にもある三本の足の方が重要です。

 三足烏(さんそくう)は、古代、中国における霊鳥で、太陽の中に住み、1日に1度、太陽を背中にのせて天空をまわるとされます。ゆえに、八咫烏も、日輪の中に描かれているケースが多いのです。

 朝鮮半島においても4世紀から6世紀の高句麗の古墳に日輪と三足烏が描かれており、飛鳥のキトラ古墳の天井に描かれた天文図の太陽の中にも三本足の鳥が描かれています。

 ただ、中国や朝鮮半島における霊鳥としての烏(カラス)は、おそらく、鵲(カササギ)のことではないかと思われます。

 カラス科のカササギは中国語で“喜鹊”xǐquèと言い、喜び事を伝えてくる鳥とされます。吉兆のシンボルで、とても愛されており、歌うようにさえずることから、同じカラス科でも、他のカラスとの扱いはまるで違います。カササギは、脳が大きく賢い鳥で、哺乳類以外ではじめてミラーテスト(鏡に写った姿を自分だと認識する)をクリアしました。

 また、七夕伝説においても、織姫と彦星は天の川によって分けられてしまいますが、カササギが群れをなして飛んできて橋を作るという設定になっています。

 カササギは、隔たったものをつなぐカラスなのです。

 しかし、日本においては、福岡県と佐賀県に生息域が限られ、豊臣秀吉朝鮮出兵の時に、はじめて連れ帰られたとされます。

 そして、八咫の「咫」は、「タ」ではなく「アタ」です。八咫烏は、「ヤアタガラス」です。 アタという音に長さの単位の咫がつけられてしまいましたが、実際は、南九州の黒潮系の海人である阿多隼人の可能性があります。神武天皇の東征を導いたのは、海人であり、熊野からヤマトへの道も熊野川だったのでしょう。

 黒潮系の海人に対して「隼人」という呼び名がつけられたのは、天武天皇の時代以降です。

 その理由として本居宣長が、「すぐれて敏捷(はや)く猛勇(たけ)きが故」などと書いていますが、発想が安易だと思われます。

 律令制が始まる頃に建造されたキトラ古墳の石室には、東・西・南・北にそれぞれ青龍・白虎・朱雀・玄武の動物が描かれ、その方位の守護をつかさどっています。

 この四神のうちの朱雀は、古くは「鳥隼(ちょうしゅん)」で、南方位を守護するのが「隼」であったようです。

 ゆえに、宮の南の位置に、呪力をもって朝廷の守衛・警護を行なっていた南九州をルーツとする黒潮系の海人を居住させました。その呪力は、隼人犬吠とか、隼人舞などが知られています。

 そして、その居住地は、まずは東経135.74度、吉野川の阿陀比賣神社が鎮座する場所です。ここは、吉野川が大きく蛇行するところで芝崎の奇岩として知られています。

 この場所は、藤原京平城京の真南ではなく、斑鳩で最も大事な場所であった中宮寺聖徳太子の母、穴穂部間人の宮殿)の真南です。

 そして、この東経135.74度のラインに、もう一箇所、隼人の居住地があり、それは、京田辺の月読神社のところです。ここは、隼人舞発祥の地として知られています。

 実は、この隼人舞発祥の地の南に甘南備山がそびえていますが、この山の上に立って、平安京の位置決めが行われたとされています。

 吉野川の阿陀比賣神社、斑鳩中宮寺跡、京田辺の甘南備山、月読神社が位置している東経135.74度は、平安京の中心の朱雀通りとなり、このラインにそって、南の入り口、羅生門大極殿が築かれ、北を守る玄武として、船岡山があります。

 一般的には、平安京の四神相応は、北の玄武が船岡山、東の青龍が鴨川、西の白虎が、双ヶ丘ともしくは山陰道、南の朱雀は、かつて存在した巨鯨池(石清水八幡宮のところの三つの河川の合流点)とされますが、平安京の南を守る朱雀は、鳥隼(ちょうしゅん)であり、それは、京田辺の隼人居住地ということになります。

 さて、中国の伝承にある三足鳥のカササギは、古代の日本には生息していませんでしたが、鴨氏の鴨は、稲作と相性の良い鳥です。田んぼの雑草や害虫を食べてくれ、田んぼを泳ぐことで、田んぼの土をかき混ぜ、土に酸素が混ざり、根から酸素が吸収されます。また、糞もまた肥料になります。

 しかし、鴨は当て字であり、かも氏は、賀茂や加茂など様々な表記があり、もともとは「かみ」だと考えられます。

  賀茂氏のルーツは二つあり、一つは八咫烏賀茂建角身命)の天神系と、大田根根子を祖とする地祇系です。

 太田根根子というのは第10代崇神天皇の時の人物です。その時代、世が乱れ、占いによって三輪山の大物主の祟りだということになりましたが、天皇の夢枕に大物主が現れ、大田根根子を自分を祀る祭主にするように告げました。そして、その通りにしたところ、疫病は収まり、国内も鎮まり、五穀が実って、百姓は賑わった、と日本書紀に記されています。

 大田根根子は、神と人のあいだをつなぐ祭祀者であり、彼の出身は、茅渟県の陶邑とされています。陶邑は、須恵器の生産地であり、須恵器は祭祀具として使われていました。

 また、奈良盆地の西の葛城の地の高鴨神社の祭神は、アジスキタカヒコネですが、この神は、大国主命と、宗像三姉妹のタギリ姫のあいだの子です。

 宗像氏は、黒潮系の海人の阿多隼人と同族です。

 八咫烏賀茂建角身命=三島溝杭はもまた黒潮系の海人だと考えられ、出雲の地の古墳の祭祀用土器と、阿波や紀伊の石材を使った前方後方墳が、神戸の西求女塚古墳であり、これと同じ大きさで相似形が、向日山の元稲荷古墳でした。

 この勢力が、紀ノ川(吉野川)を遡って、奈良盆地の南西の葛城の地に入っていたと思われます。

 そのため、葛城の地の祭神は、事代主やアジスキタカヒコネなど出雲系です。

 そして、祭祀族である”カモ”の人々とつながった黒潮系の海人は、伊豆諸島や伊豆半島にも到っており、ここもまた古代の賀茂郡です。伊豆諸島および伊豆の開拓者として三島明神が祀られ、三島大社がありますが、その祭神は、摂津の三島鴨神社から勧請されました。

 伊豆半島南部には面積のわりに式内社が非常に多いのですが、律令時代の神祇官は、対馬出身が10名、壱岐出身が5名、そして伊豆出身が5名と決められていて、この5名は、伊豆の賀茂郡神職です。

 ”かも”=神は、血族というより、もともとは祭祀を司る人たちのことだったのでしょう。

 淀川沿いの三島鴨神社の真西、3kmのところにある弥生時代の東奈良遺跡からは36点もの石製の銅鐸鋳型が発見され、ここは銅鐸製造における日本最大の拠点でした。

 三島鴨神社の近くの東奈良遺跡と関連する銅鐸祭祀者も、”かも”だったのでしょう。

 もう一つの重要な銅鐸製造拠点は、奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡遺跡ですが、こちらの鋳型は陶器性が多く、時代的には石製の方が古いとされます。銅鐸は、紀元前2世紀頃から紀元200年頃の400年にわたって普及し、突然、作られなくなりました。

 前期においては淀川沿いの東奈良遺跡が、途中からはヤマトの唐古・鍵遺跡遺跡で作られた銅鐸が、近畿を中心に各地に流通したのです。(近畿式と言われる「見る銅鐸」は、東は静岡の掛川、西は四国の高知と愛媛までしか発見されていません。)

 

 京都と”かも”の関係は、『山城国風土記逸文では、賀茂建角身命八咫烏)が、神武天皇の先導をした後、山城国へ至ったとなっています。

 そして、賀茂建角身命の娘の玉依姫が、川遊びをしている時に、朱塗りの矢が流れてきて、賀茂別雷命上賀茂神社の祭神)が生まれ、朱塗りの矢の正体は、火雷神向日神社の祭神)とされています。

 これは、歴史背景から考えても、賀茂氏が奈良葛城から山城に移住したことを物語っているのではありません。

 賀茂建角身命の聖域となった下鴨神社の地は、縄文時代からの祭祀場でした。そして火雷神の向日山も、縄文時代の祭祀道具である石棒の製造地であり弥生時代の銅鐸の製造地でした。鴨川を通じてつながるこの二つの場所が、山城国の精神的古層になっているということを、神話は語っているのだと思います。

 そして、史実として、賀茂氏が奈良から北上して京都入りをするのは、5世紀末、第21代雄略天皇によって、奈良盆地の西に大きな勢力を誇っていた葛城氏が滅ぼされた時です。

 この時、同じ場所にいた秦氏も北上して京都に入っています。

 とはいえ、賀茂氏は、祭祀に関わる人であり、その全員が山城国に移住したわけではありません。

 天武天皇の時代に活躍した修験道の祖である役小角は、奈良葛城の賀茂氏の出身です。

 修験道空海密教にもつながっていきますし、山城に移住した賀茂氏陰陽道を担い、安倍晴明は、賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学びました。賀茂氏が伝えた精神世界は、後の日本の精神世界に大きな影響を与えています。

 また、秦氏は、一つの血族というより職業集団であり、雄略天皇の頃までは各地の豪族のもとで専門技能を発揮していました。そのことについて秦酒公が雄略天皇に訴え出たため、雄略天皇は、秦酒公にその技能集団を束ねることを認めました。そして、秦酒公は、彼らの力を結集して絹織物をたくさんつくり、雄略天皇の宮の庭に積み上げました。それが、京都の太秦という名の起源とされます。

 秦酒公の活躍が雄略天皇に認められ、それまでは葛城氏の管理下にあった賀茂氏の一部とともに、秦氏山城国に移住したのでしょう。秦氏は、技能集団として山城国の産業や治水灌漑工事などに関わり、賀茂氏は、祭祀を司る者として。

 賀茂建角身命の娘、玉依姫と結ばれたのは、山城国風土記では火雷神ですが、秦氏の記録ではオオヤマクイ(秦氏と関係の深い松尾大社の祭神)となっているのは、5世紀末以降、山城国を開発し治めていったのが、この両氏族だからでしょう。

 そして、上にも述べたように、第26代継体天皇は、近江を中心にした海人と、その水上ネットワークを重視していましたが、その息子の第29代欽明天皇は、再び、紀ノ川への出入り口となる飛鳥を中心に祭りごとを行い、葛城氏と同族の蘇我氏が台頭します。

 その欽明天皇の567年、国内は風雨がはげしく五穀が実らなかった時、賀茂の大神の崇敬者であった伊吉の若日子に占わせたところ、賀茂の神々の祟りであるというので、祭礼を行い、これが、京都の葵祭の起源となりました。 

 その後、葛城系(紀ノ川と関係が深い)の蘇我氏を滅ぼした天智天皇は、第26代継体天皇と同様に、まつりごとの中心を、琵琶湖系の水上ネットワークにつながるところに置きます。

 琵琶湖は、現在も琵琶湖大橋の近くに和邇という地名が残るように和邇氏(小野氏)の拠点です。

 さらに宇治川流域や山科川流域も和邇氏(小野氏)と関係が深い場所です。

 第26代継体天皇の最初の妃は、和邇氏と同族の尾張氏尾張目子媛であり、その後も、近江高島の三尾氏や和邇氏から妃を迎えています。

 天智天皇の血統である桓武天皇が築いた平安京は、小野氏(和邇氏)と非常に関係が深い都です。

 平安京が、風水に基づいて作られた都であることは知られていますが、平安京の四隅を守る鬼門(東北)、風門(東南)、人門(西南)、天門(北西)のうち、西南の人門以外は、すべて小野郷です。

 そして、その四つの方位が交差するところに晴明神社堀川通)が鎮座しています。ここは、安倍晴明の館があったところです。安部晴明は平安京遷都とは関係ありませんが、安部晴明に陰陽道を伝えたのは賀茂氏ですので、賀茂氏を通じて、安部晴明は、風水の要に館を置く重要性を知ったのでしょう。

 平安京の「まつりごと」の中心である大極殿は、現在の千本通丸太町通が交差するところにありましたが、ここから晴明神社を通って東北方向の鬼門にラインをのばしたところにあるのが小野郷の崇道神社で、さらに琵琶湖湖畔までラインを伸ばすと、小野神社や小野道風神社、小野妹子の墓がある小野郷となります。

 崇道神社は、長岡京の変で無実の罪を着せられて悶死した桓武天皇の同母弟、早良親王の祟りを恐れて祀っている場所ですが、この敷地内から小野毛人小野妹子の息子)の墓誌が発見されたように、このあたりも小野氏の拠点でした。

 また、平安京の風門(南東)にあたる山科川流域も小野郷で、真言宗小野流の本拠、随心院があります。随心院小野小町ゆかりの場所で、小野小町小野篁がこの地で育ったとされます。

 さらに、平安京の西北、邪霊が入ってくるのを守る天門にあるのが、岩戸落葉神社。なぜ落葉なのかというと、源氏物語の登場人物、落葉の宮が隠棲していた所だからです。

 落葉の宮は、光源氏の妻となった女三宮に恋い焦がれて亡くなった柏木の妻でしたが、柏木の死後に、光源氏の息子、夕霧にしつこく求婚される女性で、源氏物語でも、小野の地に隠棲していたと書かれています。

 以上、平安京を守る四つの方位のうち、三つが小野の地です。

 そして、この小野氏と何かしらのつながりがあったと思われるのが紫式部です。

 紫式部の墓は、堀川通にあります。ここは、晴明神社上賀茂神社を結ぶ南北のラインと、平安京の北を守る玄武とされる船岡山下鴨神社を結ぶラインが交差するところなのですが、彼女の墓は、なぜか小野篁の墓と隣り合わせなのです。200年近く異なる時代の二人の墓が、夫婦のように並んでおり、その理由が謎とされています。

 俗説では、恋愛小説を書いた紫式部が地獄に落ちないように小野篁に守ってもらうためなどとも言われますが、平安時代、恋愛は自由ですから、そんなことが罪になる筈がありません。

 小野篁というのは、六道珍皇寺の冥土通いの井戸の伝承で知られています。

 昼間は天皇に仕えていた小野篁が、夜は閻魔大王に仕え、地獄に落ちる人間を裁定する手伝いをしていたという伝承があり、小野篁は、この井戸を通って地獄の入り口に通っていたとのことです。

 この六道珍皇寺の隣に、私は3年くらい前まで住んでいました。この場所は、現在、松原通ですが、かつての五条通りです。昔は、この松原通祇園祭山鉾巡行も行われていました。

 現在の五条通りは、第二次世界大戦の時、延焼を防ぐために、住民が建物を壊した跡地に作られた新しい道です。

 現在の五条通りの鴨川にかかる橋に弁慶と牛若丸の像がありますが、この場所で弁慶と牛若丸が出会ったのではなく、現在の松原通にかかる橋ということになります。

 松原通は、かつては死者を運ぶ道でした。

 鴨川の西岸までが人間の営みの世界であり、亡くなった人の遺骸は、松原通りを通って鴨川を渡り、六道珍皇寺で最後のお別れを行い、さらに東に向かって歩いていくと清水寺になりますが、そのあたりが鳥辺野とされる風葬地帯だったのです。

 六道珍皇寺の井戸で冥土通いをしていた小野篁は、生と死の境界に関係していたことになります。

 これは、小野篁個人にかぎったことではなく、小野氏が、そのように生と死のはざまに関係する氏族だったのです。

 平安京の鬼門にあたる場所の小野郷(比叡山の麓)は、八瀬童子で有名で、八瀬童子は自らを鬼の子孫と称していますが、この人たちは、亡くなった天皇の棺を運ぶ役割を担っていました。

 小野氏というのは、和邇氏の末裔です。和邇氏の末裔は、春日氏、柿本氏もそうで、皇族の死に際して多くの挽歌を詠んだ柿本人麿も同族です。小野小町小野道風など、古代、文人などが多く出ている氏族です。

 また、古事記において、天皇以外に最も登場する氏族が和邇氏で、その多くは、天皇に見初められ、天皇とのあいだに多くの子を残しますが、悲劇的な物語が多いのです。

 日本文学の特徴である悲劇のルーツに、和邇氏の存在が見え隠れします。

 小野篁紫式部の墓が並んでいることについて、これをどう考えるかですが、もともとは9世紀前半に活躍した小野篁の墓がここにあって、後から11世紀前半の紫式部の墓が作られたと考えるのが自然でしょう。

 しかし、その理由を考えるためには、紫式部が、いったい何者であるかを考えることが必要です。

 お送りした地図で、黒いマークが、紫式部に関係する場所です。

 まず、平安京の人門(南西)にあたる場所ですが、ここに大原野神社があり、紫式部氏神とされています。

 4つの門のうち、ここだけが「小野」ではなく、「春日」と呼ばれます。

 ここは桓武天皇が鷹狩りをしていた場所で、奈良の春日の地と似ていたからだとされますが、奈良の春日の地は、古代、和邇氏の拠点で、春日氏も和邇氏の後裔、つまり小野氏と同族です。

 そして、大原野神社を真東に伸ばしていった琵琶湖のほとりが石山寺で、ここは、紫式部源氏物語を書き始めた場所です。このあたりは、古代、隼人の拠点でした。

 紫式部は、源氏物語を、「須磨」と「明石」の帖から書きはじめたとされていますが、それは、紫式部の存在の背後に、海人がいるからです。隼人も、和邇氏も、海人です。

 古代、和邇氏と、和邇氏の祖にあたる尾張氏など海人は、女性を大王に嫁がせ、婚姻を結ぶことで同族となっています。

 戦闘においても、物質を運ぶうえでも、海人の存在は不可欠でした。

 しかし、宮中に迎え入れられた海人の女性たちは、いわば人質であり、いくつもの悲劇を経験します。古事記の中にそれが描かれていますが、紫式部の文学のなかには、これら運命に翻弄される女性たちが重ねられています。

 そして、石山寺大原野神社を結ぶライン上の黒いマークに、現在、観修寺があります。

 観修寺は、醍醐天皇が宮道氏の館を寺にしたものですが、この地を拠点にしていた宮道 弥益(みやじ の いやます)が、紫式部の血統を遡ったルーツなのです。

 この場所は、山科川を挟んで、小野郷の随心院の対岸です。

 宮道弥益は、陰陽寮陰陽道の官僚組織)に所属していたことがわかっていますが、多くは謎に包まれています。

 この人物が歴史的に重要なのは、彼の娘の列子が、藤原高藤に見初められ、二人のあいだにできた胤子が、まだ源氏の身分だった頃の宇多天皇に見初められて醍醐天皇を産んだからです。

 そして、この胤子の兄が藤原定方で、定方の娘が、紫式部の父、藤原為時の母です。

 つまり、紫式部は、小野郷の宮道氏の血統です。

 そして紫式部の曽祖父にあたる藤原定方は、歌人としても活躍しますが、紀貫之を後援し、古今和歌集編纂の陰の貢献者となります。

 さらに、10世紀、菅原道眞の祟りによって、道真を失脚に追いやった藤原氏の人物たちが死んでいく中で、藤原氏のなかでは例外的に菅原道真の友人だった藤原忠平左大臣になった時、藤原定方は右大臣となり、道真がやり残した改革を推し進めます。

 菅原道真宇多天皇に信頼を受けていました。

 そして宇多天皇は、源氏の身分の時、宮道氏の血を引く藤原胤子を娶ったのですが、継体天皇桓武天皇のように、本来、天皇になるはずがない存在だったのです。

 桓武天皇の母、高野新笠は、土師氏と百済系渡来人の和氏のあいだの娘でした。そして、宇多天皇の母もまた、渡来氏族である東漢氏系の当宗氏の娘でした。桓武天皇の時代に征夷大将軍として活躍した坂上田村麻呂東漢氏であり、彼の墓は、宮道氏の館のあった場所のすぐ北に存在します。

 宇多天皇天皇に擁立された背景として、この山科の地の豪族の存在が見え隠れしますし、菅原道真が行おうとした改革の内容や、祟りもまた、それに関係してきます。

 道真の左遷によって改革は頓挫しますが、道真の死後、祟りによって改革は進むのです。

 そして、紫式部の曽祖父の藤原定方は、道真の祟りが吹き荒れる中、文人としても政治家としても活躍しましたが、彼は、宇多天皇の義理の兄であり、醍醐天皇にとっては叔父になります。

 藤原定方の息子で紫式部の父となる藤原為時は、歌人漢詩人として活躍し、花山天皇に漢学を教えたことでも知られる人物です。

 紫式部は、文学の家系に生まれ育ち、当然ながらその教養が豊かだったわけですが、源氏物語には、古代の神話とつながる場面も多く、とりわけ、光源氏を加護し、光源氏が消えた後に繁栄する明石一族とも関わりの深い住吉神の存在が気になります。

 あの長大な物語の書き始めが、明石と須磨という住吉神の舞台であることも鍵を握っています。

 住吉神は、もともとは、海人によって大切にされてきた神であり、神話の中では神功皇后を守護し、そのため、遣隋使、遣唐使など国家的な航海守護の神として崇められ、平安時代からは和歌の神として朝廷・貴族からの信仰を集めました。

 山城国の古代からの聖域は、どこも河川の流域です。

 京都北部の山間部の聖域を流れる清滝川や天神川は桂川と合流し、鞍馬川や貴船川は鴨川と合流し、鴨川と桂川が合流し、山科川宇治川と合流し、さらに桂川宇治川と木津川が合流して淀川となって瀬戸内海に注ぎます。

 この河川ネットワークが、山城国の古代からの聖域を結んでいるのです。

 古代、とりわけ物資を運ぶためには、陸路ではなく水路が重要視されていました。そして、海人たちは、木を切り出して船を作り、船を操りました。

 そして海人たちと、権力者は、婚姻によって同族化していきました。

 女性が権力者に嫁ぎ、子供を産むと、子供は母親の実家で育てられました。

 古代日本の系図には、必ずといっていいほど母親の実家が記されています。母の実家こそが、その時代を読み解くうえで重要な鍵となるのです。

 子供が産まれ、権力者の後継になれば、その一族も繁栄します。しかし、嫁ぐ女性は、いわば人質です。権力者の周辺で不穏な動きがあれば、その影響を真っ先に受けます。そうした女性の悲劇が、古事記の中に多く描かれていますが、紫式部が描いた女性たちにも、同じようなことが反映されています。

 源氏物語は、途中から主人公の光源氏が姿を消し、和邇氏(小野氏)と関わりの深い宇治の地を舞台に物語は進みます。この宇治十帖の中で栄華を誇るのは、光源氏との身分の違いに苦悶してきた明石の君が産んだ娘の子供たちです。

 明石の君は、明石の地の海人と関わりの深い明石入道の娘です。

 源氏物語は、紫式部が筆を動かして書かれたものかもしれませんが、紫式部の周辺に、古代からの記憶の伝承者たちがいたのではないかと思われます。

 古代からの記憶の伝承者は、もともとは猿女氏でした。古事記の編纂に関わった稗田野阿礼は、猿女氏です。

 しかし、奈良時代頃より、猿女氏が小野氏によって管理されるという事態が生じ、猿女氏が、その不満を朝廷に訴え出たという記録が残っています。

 古代の猿女氏は、口伝えで話を伝承しました。耳で聞いて物語を記憶することに才能のある人物を輩出し、稗田阿礼もその一人でした。

 神話の中に、謎の神、猿田彦が登場します。

 天孫のニニギの案内人です。しかし、その案内とは、おそらく地理的なことに限定されないのだと思います。

 猿田彦は、「上は高天原(たかまのはら)を光(てら)し、下は葦原中津国(あしはらのなかつくに)を光す神」とされます。

 この解釈について専門家の中でも色々議論があるようですが、すべてに明るいということは、古代からの事情に通じているということでしょう。

 そして、猿田彦と、猿女氏の祖神のアメノウズメが夫婦となります。

 稗田阿礼の稗田氏は、その猿女氏と同族です。

 しかし、8世紀、物語の伝達において、口誦(こうしょう)から記載への転換が起こります。口から口へ受け継がれた文学から、書く文学という根本的に新しい質の文学への転換が起こったのです。

 その流れを加速させたのが歌であり、和邇氏の末裔、柿本人麿という存在が重要です。

 やがて、猿女氏の役割は、小野氏に取って代われます。

 小野氏は、小野小町小野篁など多くの文学者を輩出します。

 さらに小野郷の宮道氏から、藤原定方藤原為時を経て紫式部が誕生します。

 1300年前の稗田阿礼の役割を、1000年前の時代状況に応じて、紫式部が果たしたとも言えるのです。

 日本書紀古事記は、藤原不比等藤原氏の正当化のために捏造したかのように言う人がいますが、日本書紀は、複数の言い伝えを併記するような非常に学問的な書き方をしているので、陰謀説とは相容れない。

 また、古事記の序文には、天武天皇の言葉が載せられている。

 天武天皇は、聖徳太子の頃に作成された帝紀および旧辞を書き写したものが、いろいろな氏族のあいだで所有されていたが、それぞれの氏族が自らに都合が良くなるように虚偽を加えていたことを嘆き、これを正して後世に伝えなければならないと真実は滅んでしまうと決心し、その重要な役割を稗田阿礼に命じたとしている。

 継体天皇桓武天皇も、自らの”まつりごと”のために、過去から伝わっているものを疎かにしなかった。

 日本という国は、外から新しいものが入ってきて、古いものと新しいものを和合させながら自らを変化させてきました。

 古いものを尊重していたからこそ、新しいものが、この国にしっかりと根付いていき、なかには、発祥の地よりも日本の中でより高められていったものがたくさん存在します。

 密教や禅などの仏教もそうです。

 また漢字から仮名文字を生み出し、源氏物語などの傑作を創造しました。

 我々がどこから来て、どこへ行くのか? 

 この永遠の問いの答えを、古代人も、真摯に考えていたのだろうと思います。

 

日本の聖域に秘められた古代の記憶

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