第1217回 「土偶を読む」を絶賛する人たちの心理って?

 縄文時代のことが気になっている一人として、「土偶を読む」という本がベストセラーになっていると知って立ち読みしたが、あまりにも独断的で、答えを最初に決めてから、それにそった裏付けだけを集めているという姿勢が目に余ったので、どうでもいいと思っていた。しかし、サントリー学芸賞とか、大きな賞を受賞したり、各種メディアで取り上げられて、本の販売数が伸びているというのだから驚く。この本の内容よりも、この本を褒める人の心理の方が気になる。

 この土偶の顔は栗だ、くるみだ、里芋だ、とやって、「これで謎の土偶が解明された!」「これまでの考古学のように、専門家の世界の常識に囚われていたら真実は見えてこない!」などと反権威ののろしをあげるセールスプロモーションがうまくいったようだが、考古学会以外の有識者とされる大勢が、絶賛している。

 考古学会が地道にやっている実証的歴史研究と、その説明が、人々の歴史への興味を遠ざけてしまっている原因になっていて、それへの反発もあるだろうし、知識文化人が、自分たちがやっていることに対して閉塞感を感じているのはわかるが、こんな土偶論を持ち上げる心理や感性や知的洞察力が不思議でならない。

 目の付け所として新しいから、そうした目の付け所も排除しないことが誠実な学問的態度だというスタンスなのだろうか。

 ならば、逆に、この「土偶論」は、自らが展開する説にそっていないものを、意識的に排除して持論を繰り出しているので、権威的考古学者たちよりも視点が偏狭だ。情報提供の恣意的な限定は、縄文のことを深く知らない人たちをミスリードするだけだ。そして、テレビメディアのターゲットは、そういう人たちだ。ミスリードされやすい人たちが、テレビを見て、この本を買うという、マーケティングとしては望ましい効果が期待できる。

 ユーチューブで、歴史のことをよく知らない人たちをターゲットにして、面白おかしく歴史を解説するお笑い芸人がウケているらしいが、それと似ている。

 しかし、娯楽の一線を超えて、権威的な賞を与えてしまえば、著者と出版社の思う壺。知的有識者もまた、マーケティングの材料、もしくはその寄生者でしかない

 ただ、いずれにしろ、こういう本を読んで、土偶の顔は栗なんだ、と頭にインプットしたところで、いったい何になるんだろう。縄文時代に関する知識を、そのように整理したところで、自分の人生の豊かさに何か影響でもあるのだろうか。酒の席のウンチクにしても、あまり興味深い内容だとは思えないし。

 この本の内容について、いろいろ言いたいことはあるけれど、一時、土偶作りや縄文土器づくりに没頭した経験から、土偶は、この本の中で示されている写真のような視覚的に平面なものではなく、もっと立体的で土の質感の伴ったものだ。中空土偶は、なぜか頭の背面の膨らみがない。

 栗を想定するならば、絵を描くように平面的な形をなぞるということにはならず、もっと膨らみが意識される。ハート形土偶を「くるみ」の形だとする説もそうで、「くるみ」を割った時の平面的な形が似ていたとしても、くるみは、もっと奥行きのある実態であり、ハート形土偶のように薄っぺらいものとして、印象を受けない。

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 そもそも、ハート土偶にしても、たくさんの種類があって、まったく同じハート型ではなく、少しずつ違っている。その中には、くるみを割った形に見えるものもあるが、まったく見えないものもたくさんある。

 本の中で使われている写真は、私のなかでは彫りの深い顔であり、一般的なハート形土偶の印象は、もっと平面的な顔だ。

 国宝の「縄文のビーナス」にしても、顔の形と植物の形を結びつける著者は、この土偶はトチノミを表しているとするのだけれど、この土偶の身体の線については何も感じないのだろうか。

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 顔の形よりも身体の線、とくにお尻に惹かれて、私は、なんどもこの土偶を作った。お尻がうまくできなければ、自分の中ではすべて失敗だった。

 著者が、顔の形が栗と同じだとする中空土偶にしても、小さな顔よりも、この美しいラインのボディに、惚れ惚れする。

 パリに住んでいた20歳の頃、ルーブル美術館に通って眺め続けていたサモトラケのニケ像のように、顔がとれてしまってボディだけになっても訴えかけてくるものがある。

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 現代人でも、あの人の顔は狐だ、犬だ、カバだといくらでも分類できるけれど、顔の形はそんなに重要ではない。造形がカバのようでも、内から滲み出るもので美しく感じられる顔もあるし、逆の場合もある。

 縄文人は、表向きのものより、内から滲み出るものに敏感だっただろう。

 それは、初期の頃の土偶をみれば、より明瞭だ。

 造形的に凝っているわけではないけれど、初期の土塊からも滲み出る何かがある。それは、生命感という言葉に置き換えてもいいだろう。

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 縄文人は、土をいじり、こねながら、生命を吹き込んでいる。植物も生命だから、そのイメージが土偶に投影されることもあるだろう。しかしそれは、栗やくるみの形といった、明瞭に線でなぞらえる形のことではなく、自分自身の魂と呼応する何かだ。

 芸術家は、栗を表現する時、写真で撮ったような平面的な栗の形をなぞって、これが栗だとは言わないだろう。

 芸術家は、目に見えている形の向こうにアクセスする人たちであり、その意味で、縄文人も芸術家と同じ魂を持っていたと私は思う。それは、土偶縄文土器を見る時、その形の向こうにある何かを感じずにはおれないからだ。

 顔の造形はともかく、初期土偶から滲み出るものが何なのか?

 何事も、その源流から考えていかなければ、その本質は遠のくばかり。

 

日本の聖域に秘められた古代の記憶

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