第1333回 出雲の国譲りと諏訪

 出雲の国譲りのことを考えるうえで、諏訪のことも考えておかなければならない。

 諏訪大社というのは、諏訪湖の南に鎮座する前宮と上宮、北に鎮座する下社の春宮と秋宮の4社で構成されるという得意な形をとっており、これが、全国に25000社存在する諏訪神社の総本社である。この4社は、もともとは別のものであり、それぞれの聖域としての構造と、雰囲気が異なっている。

 諏訪は、古事記によると、タケミカヅチとのあいだの国譲りの戦いに敗れたタケミナカタが逃げ延び、諏訪から出ないことと、葦原中国天津神の御子に奉る旨を約束するという条件で、ここに留まったと記されている。 

 また、タケミナカタは、諏訪地方に伝わる伝承では、現地の神々(洩矢神)を征服する神として登場するが、諏訪の地における祭祀では、先住の洩矢氏の神官が、諏訪明神の現人神である「大祝」(おおほうり)となる童男に、ミシャクジ神の神下ろしを行っており、先住の神々への信仰が、こうした仕組みによって後世に引き継がれている。

 この儀式が行われた場所が、諏訪湖の南、諏訪上社の前宮が鎮座する所だ。

諏訪上社 前宮の御室社。半地下式の土室(つちむろ)が造られ、現人神の大祝や、神長官以下の神官が参篭し、蛇形の御体と称する大小のミシャグジ神とともに「穴巣始」といって、冬ごもりをした遺跡地である。

 前宮は、本来は洩矢氏の本拠地で、ミシャクジ神の聖域だったと考えられる。 

 そして、前宮でのミシャクジ下ろしで諏訪明神の現人神となった大祝じたいを御神体としていたのが、上社の上宮である。 

 諏訪湖の北に鎮座する下社のうち、春宮は砥川沿いに鎮座している。砥川というのは、黒曜石の産地である和田峠を源流とし諏訪湖に流れ込む川だが、春宮のすぐ近くの川岸に、一の釜遺跡や、ふじ塚遺跡がある。一の釜遺跡では、約5,500年前を中心とする集落跡が見つかり、大量の黒曜石が出土した。このことから、諏訪下社の春宮の地は、縄文に遡る聖域だった可能性がある。

 また、木曽川に沿った東山道は、塩尻から諏訪湖の北、春宮から黒曜石を産出した和田峠を経て、雨境峠を越え、そこから軽井沢を抜けて毛野(群馬・栃木)や武蔵に到っていた。諏訪と佐久という縄文王国のあいだの立科町の雨境峠には、現在でも古代からの祭祀跡を見ることができる。

鳴石。諏訪と佐久という縄文王国のあいだの立科町の雨境峠には、現在でも古代からの祭祀跡が残る。

 最後に、下社の秋宮だが、秋宮のすぐ近くに諏訪地方で唯一の前方後円墳である青塚古墳が築かれており、この古墳が、古代諏訪の謎を解く鍵を握っている。

 横穴式石室を持つこの古墳は、ほぼ聖徳太子の時代と重なる6世紀末に築造されている。6世紀末というのは、畿内においては、300mを超える超巨大な丸山古墳一つだけが築かれ、全国的にも、関東と九州や長野の伊奈盆地を除いて、ほとんど前方後円墳が築かれなくなった時代である。

 

諏訪下社 秋宮のそばに築かれている諏訪地方唯一の前方後円墳青塚古墳の石室。

 前方後円墳ヤマト王権の支配勢力を示すものだという従来の考え方だと、6世紀末の前方後円墳の分布を説明しづらい。

 用明天皇推古天皇など、ヤマトの地の王の古墳は、この後すぐに方墳に変わる。

 さらに、諏訪の青塚古墳の気になるところは、長野の伊那盆地に同時代に築かれた飯田古墳群とのあいだで墳墓の形など共通性が指摘されるところである。

 飯田の地は、5世紀後半から6世紀にかけて、突如として狭い区域内に数多くの前方後円墳が築かれた。そして、飯田古墳群の特徴的なこととして、馬の存在がある。

 この古墳群からは、乗馬する際に馬に装着する馬具、馬を飾った装飾具が大量に出土しているが、さらに若い馬の馬葬が確認されており、その数は30近く、全国的に、これほどの数の馬葬例はない。

長野県伊那盆地の飯田古墳群の高岡1号墳。石室内部の壁面に赤色顔料が塗られており、長さ72m、高さ6.1mの下伊那では最大級の前方後円墳。馬具多数出土した。

 通説では、ヤマト王権が伊奈盆地を管理下に収め、この地の豪族を通じて馬の生産に関わったとされるが、果たしてそうなのだろうか?

 6世紀前半に急遽即位することになった第26代継体天皇は、大王への即位を躊躇していたが、彼は、河内馬飼荒籠という馬飼集団の長と親交があり、荒籠からの情報提供によって大王になることを決意したことが『日本書紀』に記録されており、馬飼集団は、一つの独立した力を持っていた可能性がある。

 また、壬申の乱において、大海人皇子は、吉野から美濃の地に入り、東国からの兵力を集めて、軍勢を二手にわけて大和と近江の二方面に送り出したとあるが、その時、置始兎 (おきそめ の うさぎ)が率いる1千の騎兵隊が、先鋒隊として大活躍したと『日本書紀』に記されている。

 軍事力として騎馬が重要であることを改めて認識した天武天皇持統天皇は、壬申の乱の後、騎馬の確保と訓練を積極的に奨励した。そして、馬の繁殖と調教をおこなう牧を掌握するために、西暦700年、諸国に公的な牧の設置を命じた。

 つまり、畿内中央政府が、全国的に馬を掌握しようとつとめたのは、律令制が整えられてからであり、4世紀や5世紀の、いわゆるヤマト王権とされる時代ではない。

 興味深いのは、6世紀以降、前方後円墳があまり作られなくなっていく古墳時代後期において、甲冑や馬具の出土が多い地域と、前方後円墳が比較的多く築かれている地域と重なっていることだ。それは、九州と関東や長野である。とくに、東国とされる長野や関東は、甲冑や馬具が多くて軍事的な色彩を強く帯びている。

 6世紀の継体天皇欽明天皇、さらに、7世紀の後半、壬申の乱に際しての大海人皇子は、この軍事力を尊重せざるを得なかったのではないか。

 こうした馬の力によって、欽明天皇や、その次の敏達天皇と関係を深めたのが科野の勢力であり、欽明天皇が営んだ「磯城島金刺宮」の名に由来する金刺氏と、敏達天皇が営んだ「他田幸玉宮」の名に由来する他田部氏が、歴史上に登場した。

 奈良時代の官人に、金刺舎人八麻呂という人物がいて、その役職は、信濃国牧主当で、伊那郡の大領であり、「牧主当」というのは馬に関わっていたことを示している。

 彼は、『続日本紀』によれば、765年の藤原仲麻呂恵の乱に際して功績を挙げたとされる。

 金刺氏は、信濃で馬の生産と管理を行いながら、中央の非常事態において、騎兵として出撃した。壬申の乱などの有事においても、その軍事力によって、勝敗の鍵を握る存在だった。

 そんな彼らが、古墳時代の末期、全国的に前方後円墳が築かれなくなっていた時代に、諏訪下社の秋宮のそばに前方後円墳を築いたのは、彼らがヤマト王権に従属していたからだとは考えにくい。

 信濃に限らず、関東など古墳時代後期に前方後円墳が数多く築かれた地域に、軍事力と関係が深い馬具や甲冑などの出土数が多いことを考え合わせると、前方後円墳というのは、強大な軍事力を背景に、その地域を治めた王の存在と関係しているのではないか。

 すなわち、全国的に前方後円墳が築かれていた時代は、ヤマト王権という中央政府によって束ねられていたのではなく、中世の戦国時代に全国的に壮麗な城が築かれていた時と同じく、日本の各地域は軍事力を供えた王によって治められ、しのぎを削っていた時代なのではないか。

 そして、そうした状況こそが、タケミカヅチ大国主に対して国譲りを迫った時の言葉、「うしはく」=強い物が全てを独占するという状況なのだ。

 タケミカヅチは、大国主に対して、「うしはく」の時代を終了させて、「しらす」=皆で共有し合う状況への移行を促す。そして、大国主は、それに従う。しかし、タケミナカタが最後まで抵抗し、タケミカヅチと戦って敗れるが、諏訪から出ないことを条件に許される。

 タケミカヅチの聖域は、茨城県鹿島神宮だから、「うしはく」から「しらす」への移行に、関東の軍事勢力も関与したことが考えられる。

 その時期がいつなのかというと、おそらく推古天皇の時代から天武天皇による律令制の開始期にかけてであり、その根拠は、この時代だけに作られた八角墳が、近畿圏(9基)の大王クラスの墓と、関東(5基)にだけ築かれているからだ。この事実から、律令体制を整えるにあたって、近畿と関東の勢力が大きな役割を占めていたと想像できる。

 つまり、神話の中の国譲りの物語は、律令制の時代への移行を象徴している。

 そして、タケミナカタの物語は、日本書紀には登場せず、古事記だけで記録されているが、タケミナカタ古事記の中に挿入させたのが、金刺氏だとされる。

 この金刺氏の有力者の古墳とされているのが、諏訪下社の秋宮のそばに築かれた青塚古墳なのだ。

諏訪下社 秋宮に築かれている諏訪地方唯一の前方後円墳青塚古墳。後円の上から、前方側を見る。

諏訪下社 春宮の北、諏訪湖を望む丘陵に古墳終末期に築かれた姥懐古墳の立派な石室。

 タケミナカタの物語が何を象徴しているのかというと、それは、律令制への移行の後も、諏訪地方だけを、例外的な位置付けにさせたということだろう。

 天武天皇以降、近畿の政権は、アマテラス大神を皇祖に位置付ける体制を整えていったが、諏訪においては、金刺氏の世継ぎが諏訪明神の現人神となって地域を治めるという体制を維持し続けた。

 金刺氏は、奈良時代の政変の際に力を発揮していることから、強大な軍事力を維持していたことは間違いないが、もともとは伊那盆地の飯田を拠点として、継続的に前方後円墳を築き、馬の生産と調教を行っていた。金刺氏が、諏訪を拠点としたのは、諏訪で唯一の前方後円墳である青塚古墳が諏訪下社の秋宮の地に築かれた6世紀末だと考えられる。

 だとすると、それ以前にこの地にいたのは、どういう勢力だったのか?

 諏訪の地で最も古い古墳は、諏訪の上社本宮の近くに5世紀前半に築かれたフネ古墳だとされる。フネという名は、この地の字名から来ている。盛土はすでに失われているが、副葬品が立派で、鉄製品が多い。馬具は見つかっていないが、極めて特徴的なこととして、鹿の角で作られた剣の鍔(つば)や刀子の柄(つか)が発見されたことと、全国的に出土数が少なく地域的な偏りがある蛇行剣が2本、出土したことだ。

 

 蛇行剣は、70ほどの古墳で、100本ほど見つかっているが、半数近くが、宮崎県と鹿児島で、大隅半島薩摩半島など、古くからの海人勢力の拠点として知られるところに集中している。

 他の地域でも、出雲地方や越の海岸線や、近畿や四国の紀ノ川や吉野川河口地域、丹羽では桂川、但馬では円山川といった重要河川の近くに多い。

 そして、2022年12月、円墳としては全国最大規模の奈良県の富雄丸山古墳(4世紀末建造)から、2.37メートルという国内最長の蛇行剣が発見されて大きな話題になった。ここは、大和川の支流の富雄川を遡ったところである。

(2022年12月、富雄丸山古墳で出土した日本最長の蛇行剣のX線写真(分割して撮影したものを合成)=奈良県橿原考古学研究所提供) /毎日新聞

 兵庫県朝来市円山川近く、近畿では富雄丸山古墳に次ぐ巨大円墳である茶すり山古墳(5世紀前半建造)からも、蛇行剣が出土した。

 前方後円墳ではなく巨大円墳から蛇行剣が出土しているのが興味深い。

 蛇行剣が出土した古墳は、海人勢力とのつながりがあるように思われ、だとすると諏訪のフネ古墳もまた、その可能性がある。

 フネ古墳からは、剣や刀子に鹿の角で作った持ち手が組み合わされているが、鹿は、群となって海を渡ることから海人の信仰対象でもあった。

 海人の安曇氏の拠点だったとされる北九州の志賀島志賀海神社境内の鹿角堂には、1万本以上ともいわれる鹿の角が奉納されている。

 また、諏訪大社七不思議の一つとされる御頭祭では、75頭の鹿の首が、生贄として供えられていた(今は剥製)が、両社のあいだに何かしら共通点がある可能性がある。

 というのは、諏訪大社は、タケミナカタ以外に八坂刀売神(やさかとめのかみ)が祭神となっており、この女神は、記紀には見られない神だが、北安曇郡にある川合神社の社伝では、綿津見命の娘で穂高見命の妹とされている。志賀海神社の祭神が、綿津見三神なのだ。

 また、志賀海神社は、龍の都と称えられるが、諏訪明神の神体は竜蛇であるとも言われ、フネ古墳から出土した蛇行剣も、蛇の姿を象徴する祭祀道具の可能性がある。

 フネ古墳が築かれたのは4世紀末だ。しかし、諏訪の地と海人勢力との関わりは、それよりも遡る可能性がある。

 諏訪上社の前宮の近くを流れる上川を3.5kmほど、縄文のビーナスと言われる土偶で有名な尖石遺跡の方向に向かうと、御座石神社が鎮座しており、ここは、越の国の女神、奴奈川姫が祭神であり、この拝殿の前の石に鹿の足跡があるとされる。

 諏訪神社明細帳によると、奴奈川姫は、越の国から鹿に乗ってやってきたのだという。

 奴奈川姫は、縄文時代に沖縄から北海道まで流通していた糸魚川のヒスイと関連づけて語られることが多い女神だ。

 諏訪上社前宮の鳥居の右側に、溝上社があり、ここも奴奈川姫が祭神で、前宮から出立する各種の神事はまずこの社へ参拝することから始まったとされる。

 縄文遺跡として有名な青森県三内丸山遺跡では、諏訪とつながる和田峠産の黒曜石と、新潟の糸魚川産のヒスイの両方が出土した。

 青森県津軽海峡をはさんだ対岸の北海道福島町の館埼遺跡では、近年、和田峠産の黒曜石で作られた矢尻が見つかったが、この場所は、海路でなければ運べない。

 諏訪の古層には、縄文時代から水上ネットワークに通じた人々がいて、そこに、騎馬戦力を供えた勢力が融合し、その力を無視できない律令政権は、諏訪ならではの独自の祭祀形態を認めてきた。

 諏訪から出ないことを条件に許されたというタケミナカタの物語は、律令政治が始まった後も、諏訪の地では古代からのミシャクジ神を降ろして現人神となった金刺氏によって治められたという事実を、神話的に伝えているのかもしれない。

 

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