八岐大蛇について(1)
古事記や日本書紀に描かれている「スサノオの八岐大蛇退治」の物語は、誰でも知っているが、いったい何を意味するのか、江戸時代の国学者も含めて様々な解釈を試みているが、これが正解だと明確に言いきれる解答は見当たらない。
この物語は、島根県の『出雲国風土記』には記述されていないので、島根県内で起きた出来事というより、この物語が作られた当時、律令制度の開始期の奈良時代において、それまでの歴史を記述するために創造された物語だと考えた方がいいのだと思う。
だからといって、当時の朝廷や藤原不比等による情報操作ということではない。
そもそもの話として、「世界の記述の仕方」のことを考えておかなければ、神話に書かれている内容を読み誤ってしまう。
世界は「物」の総体ではなく「事実」の総体であり、事実は成立した「事態」からなる。
哲学者のウィトゲンシュタインに教えてもらわなくても、私たちは、経験的に、そのことを知っている。
事態が成立するためには関係性が必要になる。
たとえば、友人や身の回りの物にしても、それぞれの人や物との関係性を通じて、事態が成立する。そのように成立した事態が、その人の事実であり、その事実の総体が、その人の世界である。
もし、見栄や虚栄だけで物や人を集めていれば、見栄や虚栄で人や物とつながっているという事態が成立し、その事態が、その人の事実となり、その事実の総体が、その人の世界である。
なので、正確にその人の世界を記述しようと思えば、その人の周りにある人や物を列挙するだけではだめで、どんな働きによってその事態が成立しているのかを記述することが重要になる。なぜなら、その働き(意味という言葉に置き換えてもいいが)という隠れた力によって、現時点で成立していない事態が、今後、成立し得る可能があるからだ。その可能性も含めて、その人の世界である。
物質主義で視覚重視の社会を生きてきた私たちは、単なる「物」を「事実」として捉え、その総体を世界だと錯覚する傾向がある。
しかし、神話というものは、過去に在った物や事ではなく、成立した事態に重きを置き、その事態を成立させた働きをイメージ豊かに記述するという方法がとられている。
八岐大蛇の物語も同じだ。
とはいえ、それは、この神話が作られた律令時代に成立した事態にそった見方である。陰謀とか、勝者の作為とかではなく、それが人間の認知の限界だ。想像力によって認知の幅を広げることはできても、公正で客観的な目で物事を見ることは難しい。できることは、違いを弁えたうえで配慮することぐらいだが、日本の古代人は、その配慮を、畏敬にまで高めているという不思議な特徴がある。
スサノオに斬られた八岐大蛇の体内にあった剣が、日本の歴史を通じて大切に守られてきた三種の神器になっているのだ。
この畏敬の念のことも弁えていなければ、日本の古代の真相に近づくことができない。
八岐大蛇の物語の背後には、そうした日本特有の事態を成立させた働きが、歴史的に複合的に重なっており、島根の出雲地方だけを分析しても、断片的な判断しかできない。
東京と埼玉の代表的な神社といえば氷川神社。この地域だけで280社もあり、総本社の氷川神社(さいたま市)は、初詣の参拝者数は200万人を超え、全国で10位以内だそう。
この神社の主祭神は、スサノオとクシナダ姫という「出雲系」とされる神だけれど、なぜ「出雲」なのかということについては、とりあえず由緒では、成務天皇(ヤマトタケルの兄)の時に、出雲族が、この地に移住してきたからということになっている。
「出雲国」とか「出雲族」となると、一般的には、ヤマト王権と対立して敗れた島根の勢力だと思われているが、そんな単純なことではない。
氷川神社は、かなり古い聖域だが、大宮区にある総本社から冬至のラインにそって3.5km東の中氷川神社、さらにライン上3.5km東の氷川女體神社の三社を合わせて一つの聖域だったと考えられる。
今は、海岸から遠いこの場所は、古代、見沼という東京湾への出入り口だった。
総本社の近くには寿能泥炭層遺跡という縄文時代から平安時代までの複合遺跡があり、縄文時代の丸木舟や土偶、漆を塗られた土器製品などが出土している。
三社のうち氷川女體神社が、東京湾への最前線にあたるが、ここには磐船祭祭祀遺跡があり、江戸時代まで、この聖域で最も重要な祭祀は、見沼で行われていた御船祭だった。
さらに氷川女體神社の隣に、縄文時代の大規模集落遺跡、馬場小室山遺跡があるのだが、ここからは石棒や勾玉など祭祀関係の出土物が多い。とりわけ、遮光土偶で知られる青森の亀ヶ岡式土偶の目の部分や、「の」字状石製品と言われる特殊な形に加工した石器が見つかっている。「の」字状石製品は、これまで全国で20点ほどしか確認できていないが、その分布が、八丈島、新潟、石川、富山、宮城、神奈川、群馬、長野、山梨、大阪、島根と広範囲に渡っており、群馬と長野と山梨という縄文大国を除いて、海上交通もしくは河川交通の要所であり、氷川神社の鎮座する見沼もそうなので、縄文時代、かなり広範囲のネットワークが舟によって行われていたことを裏付けている。
そして、この氷川神社の冬至のラインを氷川女體神社から東に40kmのところが千葉県八千代市の萱田で、ここも現在は内陸部だが、かつては東京湾の最奥部分にあたり、海に面する入り江だった。この場所からは、約3万年前の旧石器、縄文土器、弥生時代集落、そして奈良時代には多数の墨書土器、平安時代の集落跡などが発見されている。
さらに、氷川神社の冬至ラインを逆方向の西に行けば、埼玉県東松山市の反町遺跡がある。ここは、弥生から古墳時代をへて、奈良、平安時代まで続く大集落遺跡で、1000件以上の住居址が発見されているが、この場所からは、東海で作られた土器、そして畿内、尾張、吉備、山城など各地域の土器の特徴が反映された土器が多く見つかっている。東松山一帯は、荒川、入間川、都幾川などの河川が集結する場所で、水上交通によって日本各地とつながっていたのだと思われる。
そして、東松山市の反町遺跡からは、明らかな祭祀場の跡が見つかっており、「神矢」や「弓」という墨書をもつ須恵器が出土し、各種の陶器が壺や、墨書のない坏などが、一定の間隔で列状に配置されていた。
さらに、玉の工房跡であることを裏付ける道具、玉に穴をあける鉄針、勾玉を磨く砥石などがまとまって発見され、玉の材料も見つかった。
埼玉の入間川の上流部は、玉になる鉱物資源の豊かなところだが、興味深いことに、この反町遺跡からは、遠く離れた山梨県甲州市の竹森鉱山跡の水晶が見つかった。この鉱山のそばに玉諸神社が鎮座するが、周辺は、「国玉(くだま)」という地名で、古代から玉に関係する場所である。
山梨の竹森鉱山は、縄文遺跡として有名な釈迦堂遺跡から北に10kmのところだが、近辺には、大石神社や立石神社など古代の巨石祭神場がある。
不思議なことに、山梨県のこの場所は、埼玉の反町遺跡から冬至に太陽が沈むラインで70kmのところに位置する。両地点は、多摩川沿いの青梅街道で埼玉とつながっており、その途中、奥多摩に奥氷川神社が鎮座している。
そして、埼玉の反町遺跡から、上に述べた千葉県八千代市の萱田遺跡群までも70kmなのだが、萱田遺跡群では、5世紀の古墳時代中期に、鏡・剣・玉 などをかたどった石製晶を作る工房(こうぼ う)跡が出現し、それらは、古墳に副葬したり祭祀に使われたと考えられている。この千葉の萱田遺跡群と、埼玉の反町遺跡で見つかった水晶の原産地である山梨の竹森鉱山は、北緯35.73度の東西ライン上にあり、その距離は120kmである。
さらに、埼玉の反町遺跡から真南に60km、千葉の萱田遺跡群からは冬至の日没ラインで70km、山梨の竹森鉱山跡近くの巨石祭祀場の大石神社からは冬至の日の出ラインで70kmのところが神奈川の海老名で、ここが相模国の国分寺跡であるが、この周辺は、日本古代史においても最重要な聖域である。
まず、相模国国分寺の北1.5kmのところにある秋葉山古墳群は、3世紀の古墳出現期から作られた古墳群で、前方後円型墳墓1基、前方後円墳2基、前方後方墳1基、方墳1基の6基からなる。この中で最も古いのが、全長37.5メートルの前方後方墳である4号基とされているが、これとほぼ同じ時期に作られた3号基は、千葉の市原市の神門古墳群とともに、纏向型の前方後円墳とも呼ばれる最も古い特徴を持つ前方後円型の墳形である。
そして、この古墳群は、伊勢湾、東海、関西方面からもたらされた土器なども出土している。
奈良盆地をヤマト王権発祥の地とする根拠は、奈良盆地に最初の前方後円墳が築かれたという考古学的証拠がもとになっていたが、20世紀後半の新たな調査で、千葉の市原と、神奈川の海老名にも同じタイプの前方後円墳が、奈良盆地と同じ時代に築かれていたことがわかってきた。
ヤマト王権とは何だったのかということを考え直す重要な歴史的資料ではないかと思う。
また、相模国分寺から2km西の河原口坊中遺は、弥生時代から古墳時代にかけての大集落遺跡で、約500棟の大規模集落が見つかり、膨大な遺構や遺物が出土しているが、ここから3km南の社家宇治山遺跡から、古墳時代の玉作工房の建物が3軒見つかった。
この東2kmの本郷遺跡からも、古墳時代前期と推定される玉作り工房が出土しており、このあたりが、玉作りの拠点だったのではないかとされている。
山梨、埼玉、千葉、神奈川の「玉」に関係ある4点は、冬至の日の出および日没ラインで結ばれ、一辺が70kmの菱形図形になる。
埼玉の氷川三社は、その一辺である千葉の萱田遺跡群と、埼玉の反町遺跡を結ぶ冬至のライン上に規則的に配置されていることになる。
そして、この「玉づくり」に関して、一つの謎がある。
縄文時代から始まる玉作りは、弥生時代や古墳時代は、北陸、出雲、関東、畿内など各地で盛んに行われていたが、古墳時代後期から次第に衰退し、作られなくなった。
白川静さんの説によると、古代中国や日本の縄文時代から作られた玉製品は、悪霊退散や護身のため、祭祀や神仙術に使われたとされるが、仏教や陰陽道など新たな宗教コスモロジーが導入された後、その存在意義が失われたのかもしれない。
しかし、奈良時代、716年に宮廷行事として出雲国から勾玉の献上が行われるようになる。
これは、「出雲神賀詞奏上」というもので、出雲国造が新任するごとに朝廷に出向き、朝廷の繁栄を祈願し、恭順を誓うための行事だった。
出雲の玉造の場所は、律令制以降、国府となり熊野大社が築かれるなど出雲地方の政治と祭祀の中心となった意宇郡の玉造温泉(松江市)の場所である。
それまでは、出雲地方中間部の意宇郡の鎮座する熊野大社の奉斎を行っていた出雲氏の神職が、出雲西部の杵築に移り、出雲大社の奉斎に専任するようになったことが、この行事の始まりとされる。
これは神武天皇に、櫛明玉命(くしあかるだまのみこと)が、朝廷が栄えるようにと勾玉を捧げた神話の再現であったが、平安時代になって神賀詞奏上の中断とともに出雲の玉作部もなくなり、玉作りは日本の歴史から消えた。
神話の中で、オオクニヌシが国譲りに同意することの見返りとして求めた神殿として出雲大社を出雲の地に築き、神武天皇の神話の再現として勾玉を朝廷に献上する役目を出雲が担った。
奈良時代の律令制度の成立後、島根県の出雲地域は、神話世界を裏付ける舞台装置のような役割を果たすことになったのだろう。
出雲大社が築かれたのも、この時期である。
これは、島根県の出雲という場所が、近畿の朝廷から太陽が沈むところに位置していることと関係があるかもしれない。
過去の祭祀道具である銅鐸や銅剣などが、全国から集められ、荒神谷や加茂岩倉の地に埋められたのも、この時期のことではないかと思われる。
(つづく)
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