第1285回 前方後円墳と前方後方墳の違いについて

 

 (愛知から信州までの塩の道、三州街道沿いの月瀬の大杉。長野県最大の巨木で、推定樹齢は1500年とも1800年ともいわれる。つまり、古墳出現期から、この街道沿いで世の移り変わりを見てきたことになる。)

 新潟の糸魚川からは千国街道、愛知県の岡崎からは三州街道、この二つのルートで長野県の松本盆地に至る道は、古代、塩の道だったが、塩だけでなく海の幸と山の幸が行き来していた。

 三州街道は、伊勢湾へと注ぐ矢作川を遡り、途中、陸路を挟んで河川を乗り継いで、古代、馬の飼育が盛んに行われていた長野の伊那谷まで出られ、ここから諏訪や松本に向かうことができる。

 この半年ほど、私は、日本海側や太平洋側から長野県の松本に至る幾つかのルートを辿ってきた。日本海側からは姫川や千曲川を遡って、東海方面と長野のあいだは、アルプスあたりを水源とする大河を遡って。

 そして、このネットワークの要にあたる松本に、西暦3世紀中旬、前方後方墳弘法山古墳が築かれた。

弘法山古墳

 この古墳は全長66mで、古墳のサイズはそれほど巨大ではないが、弘法山の上に築かれ、松本盆地を見下ろし、北アルプスを望む眺望が素晴らしく、実際のサイズよりも巨大な印象を受ける。この古墳からは、主に愛知県で作られていたと考えられているS字甕と呼ばれる非常に薄く軽い土師器が出土しているので、東海地方と関わりが深いと考えられる。

 前方後方墳は、前方後円墳に比べて、その分布に地域的な偏りがあるが、その分布を探っていくと、明らかな法則が見られる。

前方後方墳の分布。黒いマークは、古墳出現期に築かれた前方後方墳の幾つか。

 この地図を見ればわかるように、前方後方墳は、東海と関東に多く、両地域を結ぶ静岡にも幾つかあり、それ以外では、北陸、近畿の中央部、岡山に特に多い。

 前方後方墳の集中地帯は、島根県を除いて、西暦3世紀という古墳出現期の古墳が、前方後円墳ではなく前方後方墳になっているところが多い。

 そして、広島や山口などの西瀬戸内海や四国、そして九州の筑後川上流の二基と対馬以外には、前方後方墳が存在しない。

 前方後方墳が存在するところは、海上交通もしくは河川交通の要所だが、内陸部で気になるのは岡山の美作と、福島の会津周辺だ。美作は、鉄の産地で、会津は、磐梯山周辺が金の産地であり、会津は、多くの河川が出会う場所でもある。

 前方後方墳に関しては、幾つもの説があるが、比較的知られているのが、ヤマト王権が地方豪族の序列を可視化するために、前方後方墳前方後円墳よりも下位の勢力に築造を許可したものだとする説と、奈良を中心とした邪馬台国連合は前方後円墳を築造し、東海地方を中心とした狗奴国連合は前方後方墳を築造したという説だが、この二つの説と当てはまらない事実が多数ある。

 その一つが、日本最大の前方後方墳天理市の西山古墳で、ここはヤマト圏の物部氏と関係の深い石上神宮のすぐ傍であり、前方後方墳が東海地方を中心とした狗奴国連合のものという説では説明できない。

 さらに、京都の向日山の元稲荷古墳は、3世紀という古墳前期の古墳の規模としては大型の100mクラスの前方後方墳だが、すぐそばに、ほぼ同じ時期で同じサイズの五塚原古墳という前方後円墳がある。両者の勢力は拮抗しているように見え、前方後方墳が、下位の勢力のものだとは説明できない。

元稲荷古墳

 3世紀は、前方後円墳前方後方墳も、大きさにさほど違いはなかった。

 前方後円墳前方後方墳も、後円と後方のところが埋葬空間である。つまり、この部分は、弥生時代の「方形周溝墓」と「円形周溝墓」の延長にある。

 弥生時代の周溝墓は、その地域の有力者の墓だったが、この墓に祭祀空間が合わさった形が前方後円墳前方後方墳である。古墳時代、亡くなった有力者は天に上り神となって地域を守るという「宗教」が誕生し、そのための祭祀が重要になった。その祭祀を行ったところが前方の部分であり、古墳出現期は、バチ型と言われるように小さなスペースだったが、古墳が巨大化するとともに、前方部分の祭祀空間が特に大きくなり、埋葬空間の後円より遥かに大きくなった。それは、時代とともに祭祀の力が、より重要になっていったからだろう。

 だとすると、前方後円墳前方後方墳の違いは、埋葬部分の形の違いであり、それは、弥生時代の「方形周溝墓」と「円形周溝墓」の違いからきている可能性がある。

 方形周溝墓は、瀬戸内海東部沿岸で出現し、近畿から愛知、岐阜に広がり、さらに関東にまで広がっていくが、西瀬戸内海には普及しなかった。しかし九州では、後に前方後方墳が築かれた筑後川上流付近に、方形周溝墓が築かれている。こうして見ると、前方後方墳の範囲と弥生時代の方形周溝墓の場所は、かなり重なっている。

 それに対して、円形周溝墓は、岡山県や香川に出現し、近畿に伝わったが他地域へは広がらなかった。

 方形周溝墓と円形周溝墓の違いは、墓に埋葬される人数の違いで、円形周溝墓が基本的に一人なのに対して、方形周溝墓は、複数の人が埋葬されていた。

 つまり、その地域をまとめるうえで、円形周溝墓のある地域は、祭祀や軍事など全ての権限が一人に集中し、方形周溝墓は、複数の人に分散していた可能性がある。

 だから、弥生時代において円形周溝墓がそれほど普及しなかった理由は、一人の独裁者ではなく複数のリーダーによってまとめられていた地域が多かったからではないか。

 もともと母系社会の日本は、今でもそうだが、一人の人間に全ての権限が与えられる西欧の絶対王政のような統治システムに馴染まないところがある。

 そして古墳時代に入った当初、関東や中部、北陸や東海などに築かれた前方後方墳でも、複数被葬者のものがあった。しかし、一人のリーダーが地域の全権を担うという新たな統治手法に少しずつ取って変わり、そうした統治方法を象徴する前方後円墳が、全国へと広がっていった。

 前方後円墳の全国的な展開は、ヤマト王権の支配が全国に広がったというよりも、一人のリーダーによって統治されるという仕組みが、全国の各地域に広がっていったということではないだろうか。

 もともとは、地域ごとに統治の仕方が違うだけで、前方後方墳前方後円墳のあいだに序列があったわけではなかった。

 その一例として、古墳時代前期の古墳から多く出土する三角縁神獣鏡のケースを確認したい。

 かつては卑弥呼の鏡と言われ、ヤマト王権が、この鏡を使って地方の豪族との同盟関係や従属関係を深めたなどと言われた三角縁神獣鏡だが、この説が当てはまらないケースが多く出てきた。

 三角縁神獣鏡は、京都府木津川市の椿井大塚山古墳から36面、奈良県天理市の黒塚古墳から33面と、二つの前方後円墳から大量に出土している。

 この鏡が、日本各地の多くの前方後円墳から出土したのは事実だが、前方後方墳の一部からも大量に出土している。

 奈良県北葛城郡の新山古墳からは三角縁神獣鏡9面など34面の銅鏡、向日山の元稲荷古墳と同規模、同形の神戸の西求女塚古墳からは三角縁神獣鏡7面など計11面の銅鏡、岡山市備前車塚古墳からは三角縁神獣鏡11面が出土している。 

 また、愛知県犬山市にある前方後方墳東之宮古墳は、副葬品として、銅鏡11面のほか、玉類130点や、鉄剣などの鉄製品が多く出土しており、同時代のヤマトの前方後円墳と比べても劣らない豊かさを誇っているのだが、出土した三角縁神獣鏡4面は、それぞれ同じ型から作られた同笵鏡が日本国内の古墳から出土しているだけでなく、そのうち1面が、奈良県田原本町に鎮座する鏡作神社の神宝である鏡と同じ型から作られたものである。

 鏡作神社は、その名のとおり、古代、鏡の製作と深く関わった神社であり、この地域に、鏡を製作した集団が居住していたと考えられている。

 そして、この神社の祭神は、天照国照彦火明命(アマテルクニテルヒコホアカリノミコト)で、この神は、東之宮古墳がある愛知の古代豪族、尾張氏の始祖でもある。

 そもそも、三角縁神獣鏡卑弥呼の鏡と騒がれた理由は、この鏡が、他の種類の鏡と比べて数が多く、西暦240年に卑弥呼が魏の皇帝から銅鏡100枚を賜ったという魏志倭人伝の記述が、この鏡に該当するのではないかと考えられたからだ。

 しかしながら、その後も三角縁神獣鏡の発見が相次ぎ、100枚をはるかに超えてしまったことや、中国から同じ鏡が発見されていないこともあり、三角縁神獣鏡は、日本国産であろうとする学説が有力だ。

 もし、この鏡が国産ならば、それは、奈良県田原本町の鏡作神社のあたりで作られていた可能性が高く、鏡作神社の神宝である鏡と同じ型から作られた鏡が出土した犬山の東之宮古墳が、何かしらの鍵を握っている。

 3世紀のほぼ同じ時期に、同じくらいのサイズで前方後円墳前方後方墳が築かれ、どちらの古墳からも、三角縁神獣鏡が出土している。

 日本でもっとも三角縁神獣鏡が出土した椿井大塚山古墳は、奈良盆地ではなく、木津川流域に築かれている。二番目に多い黒塚古墳は、ヤマトの地の大和川上流部に築かれている。

 そして、黒塚古墳の近くの纒向遺跡奈良県桜井市)が、初期ヤマト王権の拠点と考えられており、ここに、古墳出現期の前方後円墳が多く築かれ、そのため、前方後円墳が、ヤマト王権を象徴するものだとみなされるようになった。

 その説に基づいて、奈良盆地三輪山の近くに築かれている大型の箸墓古墳が、邪馬台国=奈良説の人々を中心に、かつては卑弥呼の墓などとされていた。

 しかし、考古学的な調査から、箸墓古墳は、卑弥呼の時代(3世紀前半から中旬)より新しく、3世紀後半、もしくは4世紀中旬だという説もある。

 纒向にある古墳出現期の前方後円墳は、石塚古墳、ホケノ山古墳、東田大塚古墳だ。

 ホケノ山古墳の心臓部である埋葬施設の中央から「石囲い木槨」と呼ばれる埋葬施設と舟形木棺が見つかっているのだが、石囲い木槨という構造は、讃岐・阿波・播磨地域で多く見られることから、この前方後円墳には、瀬戸内海東地域の勢力が関与していると想定される。埋葬施設は、被葬者と直接関わる部分なので、この古墳の被葬者は、ヤマトの地の豪族ではなく、瀬戸内海東部の勢力である可能性が高い。

 纒向遺跡じだい、他地域からの搬入土器の出土比率が全体の15%前後を占め、その範囲も九州から関東にいたる広範囲であるため、各地域の勢力が、何らかの理由で、この地を軸にして連合していたと想定することもできる。

 しかしながら、纒向のホケノ山古墳の被葬者のように、東瀬戸内海と関わりの深い勢力は、弥生時代から円形周溝墓を築いており、一人が全権を担う統治システムを選択していた。

 もしかしたら、渡来系の人々の影響が強かったかもしれない。その当時、中国では北魏など北方の騎馬民族が王朝を築いたが、騎馬民族は、日本古来の母系制と異なり、家父長制を採用し、全権を担う王が集団を率いていた。

 この統治システムを象徴する円形周溝墓が築かれていた東部瀬戸内海は、播磨地方の加古川由良川を通って若狭湾へと通じ、若狭湾は、朝鮮半島北部の高句麗など騎馬系の民族の出入り口だった。

 いずれにしろ、東部瀬戸内海や奈良盆地で採用された一人の王が全権を担うという統治システムに基づく前方後円墳が、少しずつ全国に広がっていくのだが、この状況に大きな変化が見られるのが6世紀だ。

 5世紀末頃から、古墳の埋葬施設が、縦穴式石室から横穴式石室に変わる。

 前方後円墳の縦穴式石室は、基本的に一人を埋葬するものだったが、横穴式石室になると、一つの石室の中に複数の石棺を収めるようになった。そうなると、一人の権力者が死んで神となって地域を守るという価値観が後退する。

 その宗教観の移行期の最終段階において、近畿には、欽明天皇の古墳とされる超大型の丸山古墳が一つだけ築かれ、全国的に前方後円墳が作られなくなるが、北九州と関東に前方後円墳が比較的多く作られ、島根県の松江にだけ前方後方墳が作られるという不可思議な状況になる。

欽明天皇の古墳と考えられる丸山古墳。墳丘長318mと、この時代の古墳としては際立った大きさであり、石室の広さは、全ての古墳の中で最大である)。

 前方後円墳が、一人の人物が全権を担う政治システムの上に築かれたものだと仮定すると、の6世紀になって初めて、関東と九州を除く全域を奈良盆地に拠点を置く勢力が一つにまとめ、関東と九州は、別々の実力者が、それぞれの地域を治めていたということではないか。

 関東と九州のあいだの全域をまとめるために擁立されたのが、欽明天皇の父、第26代継体天皇だ。

 継体天皇は、それ以前の天皇とは血統が異なり、近江高島という海人の安曇氏の活動の痕跡が残る場所で生まれた豪族だった。

 そして、即位後、新羅に6万という大軍を送る指揮をとる。その時の大将が、近江毛野であり、その名からして、継体天皇出身地の近江の豪族である。

 6世紀になって、朝鮮半島に、新羅という国が正式に成立し、南方の任那に侵攻を続けていた。新羅の興隆は、高句麗が中国との国境を脅かすようになり、中国王朝が、高句麗の南にあたる場所の豪族を支援してきたからだった。この時の新羅と中国王朝の同盟が、日本の悩みの種となり、それは、663年の白村江の戦いの敗戦まで続く。

 継体天皇が擁立されたのは、新羅との戦いにおいて、船を作り兵や物質を運ぶ海人の力が必須で、継体天皇の背後に、その海人勢力がいたからだと思われる。

 継体天皇が、即位した後も奈良の地に入らず、木津川や桂川の流域を拠点に宮を築いていたことが古代史の謎とされ、奈良の豪族を警戒したためなどと説明されているが、そうではなく、もともと、この河川交通と関わりを持つ勢力だったからだろう。

 また、継体天皇が築いた弟国宮は、3世紀に巨大な前方後方墳である元稲荷古墳が築かれた京都の向日山であり、ここは、弥生時代の銅鐸製造の跡や、西日本では珍しい縄文時代の石棒製造の跡も発見されているなど、古代から重要な聖域だったと思われる。

 桂川と鴨川の合流点のすぐそばであり、桂川宇治川、木津川の合流点(かつては巨鯨池と呼ばれる湖があった)も近く、向日山は、古代の水上ネットワークの要でもあった。

 だからかどうか、桓武天皇もまた、ここに長岡京を築いた。

 継体天皇が即位し、新羅に対する本格出兵を行った527年、九州で磐井の乱が起きた。

 九州には、この時期においても前方後円墳が多く築かれており、磐井の墓とされる岩戸山古墳もまた墳丘長135mという巨大な前方後円墳だが、もしも前方後円墳ヤマト王権の古墳だとすれば、磐井の乱の説明が複雑になり、だから、これまでの学会では、この件について説明できていない。

 しかし、前方後円墳は、一人の権力者が全権を担って地域を治めたことの象徴だとすれば、磐井は、九州の一部地域を治める実力者だったということで、その磐井の勢力が、継体天皇政権と対立したという説明が成り立つ。

 この6世紀に、島根の松江だけで前方後方墳が作られていた。島根に前方後方墳が多くあることから、前方後方墳が古代出雲の象徴だと考えている人が多いが、島根の前方後方墳は、他の地域よりもかなり遅く、5世紀末になってから築かれ始めた。

 島根は、全国的に前方後円墳前方後方墳が増えていくあいだも、方墳を作り続けていた。そして、方墳からの出土物を見ると、吉備、周防、丹後、越の土器などが混ざっており、遠隔地の勢力が手を組んでいた状況が分かる。

 出雲という地名は、島根に限定されず、各地に残っている。

 島根と岡山は、弥生時代に他地域に先駆けて青銅器祭祀から弥生墳丘墓を舞台とする儀礼へと転換したのだが、この儀礼で用いられる「特殊土器」の分布は、土器を作り出した吉備や出雲・大和とその周辺に限られることから、これらの地域は互いに交流を持ちながら、地域形成を進めていったと考えられる。

 島根は、朝鮮半島にも近く、渡来人の窓口であったために、この地域を重要視した他の地域の実力者は、この地域を力づくで支配するのではなく、おそらく婚姻などを通じて相互の交流を深めていたのだろう。

 島根県雲南市の加茂岩倉遺跡から、一カ所の出土としては全国最多の39個の銅鐸が見つかり、荒神谷遺跡からも、同じく一ヶ所の出土としては全国最多の358本の銅剣が見つかった。いずれも、全国から持ち込まれたものだった。これだけ多くの銅剣や銅鐸がここにあるのは、この地の支配者の権力の大きさによるものではなく、各地との連携の深さを表しているのではないだろうか。

 だから、6世紀に島根だけに前方後方墳が築かれた理由も、島根が近畿の勢力と対立的な存在だったというよりは、近畿とは異なるシステムで地域を治めながらも、継体天皇欽明天皇の政権と深い連携を維持していたからだろう。

 このように各地域との連携を維持する力は、海人ネットワークだと思われる。

 古墳の出現期、この勢力は、前方後方墳の配置にも地域間ネットワークを反映させ、両地域の結びつきを意味あるものにしようとした形跡が見られる。

 たとえば、先日も紹介したように、群馬、諏訪、東海を経て、京都の向日山の元稲荷古墳と神戸の西求女塚古墳という前方後方墳を結ぶ冬至の日没ライン上には、縄文時代に遡る重要な遺跡が数多くあり、このライン上に、日本最古の前方後方墳である神郷亀塚古墳(滋賀県東近江市)も築かれている。

(東から、赤城山赤城神社)、道訓前遺跡と滝沢石器時代遺跡、坂本北裏遺跡環状列石、縄文時代の遺跡が多く、なかでも巨大石棒が特徴的な佐久、諏訪湖岐阜県関市の塚原遺跡(縄文草期、縄文中期、古墳時代の遺跡があり、そのあいだ、2500年ずつ遺跡が存在しない)、東海最大の縄文遺跡である荒尾南遺跡、日本最古の前方後方墳である神郷亀塚古墳、日本最大の銅鐸が出土した大岩山、向日山、如意谷銅鐸、巨石の祭祀場である越木岩神社、西求女塚古墳。)

 向日山の元稲荷古墳と神戸の西求女塚古墳は、古墳出現期を代表する巨大な前方後方墳だが、この二つは同じサイズ、同じ形であり、両地域のあいだに深い関係が考えられる。

 西求女塚古墳が築かれている場所は、古代、大阪から船で西国に向かう時の最初の宿泊港であった。また、西求女塚古墳から1.5km北の篠原縄文遺跡からは石棒や遮光器土偶が発掘され、さらに1.5kmほど東北の桜ヶ丘遺跡からは大量の銅鐸が出土しており、ここもまた縄文に遡る聖域だった。

 西求女塚古墳の石材は、阿波国紀伊国からも運ばれ、地元の土器は出土せず、祭祀に用いられたと考えられる土師器は、山陰系の特徴があった。この古墳を築いた勢力が、出雲、四国、和歌山などと深い交流をもっていたと想像できる。

 そして、深い関係があると思われる神戸の西求女塚古墳と京都の向日山古墳の二つの前方後方墳と、日本最古の前方後方墳である近江の神郷亀塚古墳は、同じライン上で、それぞれ50kmずつ等間隔に位置している。

 さらに、神戸の西求女塚古墳から、冬至の日の出ライン上、東に50kmのところが、三角縁神獣鏡9面など34面の銅鏡が出土した北葛城の新山古墳なのだ。

 しかも、この新山古墳から夏至の日の出ライン上に東6kmのところが田原本町の鏡作神社で、さらに東6km行くと、日本最大の前方後方墳である天理市の西山古墳がある。

(上のライン、西から西求女塚古墳、ヘボソ塚古墳(愛知県犬山の東之宮古墳三角縁神獣鏡と同じ型の鏡が出土)、長法寺南原古墳(同じく東之宮古墳三角縁神獣鏡と同じ型の鏡が出土)、元稲荷古墳、日本最古の神郷亀塚古墳。下の黒いマークが北葛城の新山古墳、東に6kmのところが鏡作神社、さらに6kmが、日本最大の前方後方墳、西山古墳)。


 不思議なことはまだ続き、神戸の西求女塚古墳から真西(北緯34.70)に行くと、三角縁神獣鏡11面が出土した岡山の最古級の前方後方墳備前車塚古墳があり、同じライン上の西に、都月坂古墳群、一丁𡉕古墳1号墳と、岡山の前方後方墳が並び、その西の端の島根県益田市の四塚山古墳群は、古墳としての形を留めていないのだが、三角神獣鏡が発見されており、これが、上に紹介した愛知県犬山の前方後方墳である東之宮古墳から出土したものと同じ型から作られたものである。

 こうした精密な位置関係は、とても偶然とは思えない。

 そして、さらなる不思議は、北葛城の新山古墳から、神戸の西求女塚古墳という、ともに3世紀に築かれ三角縁神獣鏡を多く出土した前方後方墳を結ぶ夏至の日没ラインを伸ばしていくと、岡山の美作の前方後方墳の集中地帯を通り、6世紀に日本国内で例外的に前方後方墳が集中的に作られた島根の松江に至るのである。

 

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