第1286回 日本の近代化を促進させたもの

10年以上前、風の旅人編集部で働いていた中山慶が、現在、地域社会活性化と異文化交流を軸にした仕事を、京都の京北地方を拠点に行っている。

 日本各地で様々な地域社会活性化の取り組みが行われているが、中山慶が行っているプロジェクトで私が興味深く感じているのは、異文化交流を軸にしていることで、とくに海外の人たちに日本の風土や伝統などを知ってもらうという取り組みが、その地域に暮らす日本人自体の、地域や日本のことをより理解するための道筋になっている。

 海外の旅をディープに経験したことがある人なら多くの人が共通認識として持っていると思うが、異国の地で出会う人たちから日本のことを色々と質問されて、自分がまったく日本のことを理解していないと痛感することがある。そうした経験が、帰国後、日本のことを深く学ぼうとする動機になったという人も、けっこういるだろう。人に対して説明をしなければいけない局面に立つことで、人は、自分の無知を思い知らされるのだ。

 地域社会活性化においても、”経済的側面”だけを見ていても、本質的な問題解決には至らない。

 外からの刺激(公共投資など)で経済を活性化させて働き口を確保しても、長続きしないからだ。 

 理想は、その地域の出身者でも移住者でも構わないが、そこで生きる人たちが、その地域に深く関心を寄せ、そこで生きることを面白いと思い、質素ながらも充実した暮らしができるような仕事を、その場所で作り出していくことだ。

 それにしても、現在の日本人は、日本および自分が住んでいる地域のことについて、歴史や地理や地勢など、ほとんど何も知らないという人が非常に多い。

 情報も教育も、中央官庁や東京を中心とするメディアが牛耳ってきたので、各地域の違いなど考慮せずに全国画一的なものが地域に送り届けられ、押し付けられている。そのように個別の違いについて無頓着にさせる啓蒙が、日本的な情報伝達における特徴だとも言える。

 この特徴は、果たして、古代からずっとそうだったのか、それとも、ある時期にそういうシステムが作られたのか?

 一つ明らかなことは、明治維新によって、現在に至るまでの日本の在り方が、整えられたということ。

 昨日、中山慶が新妻を連れて私の家に来て、色々話をしたのだが、その時、海外の学生に対して日本の近代化について英語で伝える授業を彼が行うことになっていて、その際、東京で日本の近代化を示せるような場所を一箇所だけ案内することになっているのだが、どこがいいか?と相談があった。

 一般的な学校の授業ならば、たとえば国立歴史民俗博物館に行くことで、文明開化の様子や産業化における様々な事物を見ることができる。しかし、それらは近代化の現象にすぎず、現象というのは移ろうものであり、近代化の現象は、今も移ろいながら様々な様相を出現させている。

 「日本の近代化」について知っておくべきことは、そうした個々の現象ではなく、その構造であり、なぜなら、その構造が、現在を生きる私たちが意識していないところで、私たちの価値形成や生き方に大きな影響を与えているからだ。

 なので、東京で一箇所だけ、「日本の近代化」について、その本質を感じてもらい、思考を触発させるための場として相応しいのは、「皇居」ではないかと私は思い、そう伝えた。

 江戸時代までは目に見える政治の中心であった江戸城が、明治で「皇居」になった。

 日本のど真ん中に広大な空間が広がり、そこで何が行われているのか、日本人ですらよくわかっていない。これはいったいどういうことなのか?

 そして、そもそもの話として、近代化とは何であるのか?

 近代化の柱の一つは、近代的土地所有だろう。封建時代は、耕作者が、その土地を耕す権利を持っていたが、収穫に応じて年貢を納めなければならず、その土地を離れることも、売ることも、子供への相続の際に分割することもできなかった。

 近代的土地所有は、耕作者の土地の所有権を認め、土地の売買を可能なものにした。そして明治維新政府は、地価を定め、税金として地価の3%を現金で国家に納めさせるようにする制度改革を行った。

 その税金負担に耐えられない人は土地を売って賃金労働者になり、土地を買って広大な土地の地主になった者は、小作農を雇い、作物を売って現金をためたり、その土地で農業以外のビジネスを行い、同時に現金を金融化し、様々な産業に投資した。こうして、経営者と賃金労働者の格差が生まれたが、このシステムによって産業化が促進された。

 産業革命は、近代的土地所有制度によって起きる。ヨーロッパにおいては、フランス革命など市民革命によって封建制度は崩れ、近代的土地所有へと移行し、その後、産業革命が起きた。

 欧州において封建制度を崩壊させた力は、革命であり、これは、農業生産力の向上による農民の力が高まったことによって起きた。つまり、下からの変化だった。

 しかし、明治維新の近代化は、そうした革命のプロセスを経ない上からの変化だった。

 ペリーの黒船が来航して以来、欧米列強の脅威に晒されていた日本で、欧米に対抗できる国づくりを行わなければいけないと考える頭の良い人たちがいた。

 しかし、一つの国の制度を根本的に変えることは簡単なことではない。

 強引に制度を変えても、国民は、長年染み付いた「慣習」や「常識」を、そう簡単に捨てることができない。

 明治維新政府は、国民の慣習や常識を入れ替えて国家体制を大きく変えるために、様々な改革を行っていったが、その要に置かれたのが天皇だった。

 まずは、1867年の大政奉還で、天皇統治権を奪い取ったのではなく、徳川将軍が、天皇統治権を返還するというストーリーから始まり、1868年、王政復古の大号令五箇条の御誓文が続く

 この内容は、1.政治は会議を通して人々の意見によって行われるべきである。2.身分の上下に関係なく心を一つにして国家の政策を論じて行う。3.全ての人が、(努力次第で)それぞれの志をとげられる状況にし、人々のやる気をそぐようにはしない。4.これまでの偏った狭い因習にとらわれず、普遍的な摂理に基づくこと。5.広く世界から学び、その知恵によって、新しい国づくりを大成する。

 これが明治政府の基本方針であるが、新しく始める政治が天皇による独裁政治ではないことを示し、太平洋戦争後、吉田茂首相が、この五箇条の御誓文こそが日本の民主主義の原理であると述べた。

 しかし、この御誓文は、明治天皇天神地祇を祀り、神前で公卿・諸侯を率いて共に誓いの文言を述べ、かつ、その場に伺候する全員が署名するという形式で行われた。

 そのうえで1869年の版籍奉還。日本中の土地と人民に対する統治権をすべて天皇に奉還し、天皇の下にある中央政府が、土地と人民を支配するという仕組みになり、税金を徴収し、国家的事業を行うこととなった。人民に、農業・工業・商業の自由を与え、産業化の促進につなげた。

 そして、1889年、大日本帝国憲法の発布。これによって天皇統治権の責任者とされ、「神聖不可侵」な存在であるとされた。 

 明治政府が、この新体制を国民に周知させるために行ったのが、1890年の教育勅語だった。

 教育勅語も、明治天皇が、教育の基本方針を示すという形がとられ、学校儀式などで奉読され、国民道徳の絶対的基準・教育活動の最高原理となった。

 朕がおもふに、我が御祖先の方々が国をおはじめになったことは極めて広遠であり、徳をお立てになったことは極めて深く厚くあらせられ、又、我が臣民はよく忠にはげみよく孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一にして代々美風をつくりあげて来た。これは我が国柄の精髄であって、教育の基づくところもまた実にこゝにある。汝臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦むつび合い、朋友互に信義を以って交り、へりくだって気随気儘きずいきままの振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すやうにし、学問を修め業務を習つて知識才能を養ひ、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起つたならば、大義に基づいて勇気をふるひ一身を捧げて皇室国家の為につくせ。かくして神勅のまに々々天地と共に窮りなき宝祚あまつひつぎの御栄をたすけ奉れ。かやうにすることは、たゝに朕に対して忠良な臣民であるばかりでなく、それがとりもなほさず、汝らの祖先ののこした美風をはつきりあらはすことになる。

 ここに示した道は、実に我が御祖先のおのこしになった御訓であって、皇祖皇宗の子孫たる者及び臣民たる者が共々にしたがひ守るべきところである。この道は古今を貫ぬいて永久に間違がなく、又我が国はもとより外国でとり用ひても正しい道である。朕は汝臣民と一緒にこの道を大切に守って、皆この道を体得実践することを切に望む。

(1940年 文部省図書局が発行した「教育に関する勅語の全文通釈」)。

 この教育勅語の内容は、この国の教育の基本方針が、道徳倫理の教育であることを示しており、学問を修め業務を習つて知識才能を養うのも、社会や国家にとって善良有為の人物となるためであるとし、万一危急の大事が起つたならば、大義に基づいて勇気をふるひ一身を捧げて皇室国家の為につくすことを求める。そうした心構えは、天皇に対して忠良な臣民であるばかりでなく、祖先から伝えられてきた美風にそったものである。としている。

 これはまさに太平洋戦争にまでつながる新生国家日本のバイブルと言える。

 そして、大日本帝国憲法の第1条では、「大日本帝国万世一系天皇之ヲ統治ス」とした。

 近代化の道を歩みはじめる日本の統治の要に、「万世一系」という言葉が用いられているのだ。

 天皇の古代からの永続性を、天皇の正統性の根拠であるとしたわけだが、その永続性の中身は、国民にとっては神秘のベールに包まれている。そして、その神秘性こそが、日本人にとっての説得力となり、日本の近代化の求心力となった。

 欧米にとっての近代的思考は、17世紀、最後の宗教戦争といわれるドイツ30年戦争に志願し、絶望したデカルト、世の中に広まっている色々な考えに盲目的に追従することを否定したうえで、自分の理性の力で、真理を見極める方法として提示した「方法序説」を起点としている。

 めいめいが「自分の考え」を深めるために学習し、自分の権利と義務についてもしっかりと考え、不条理に対して異議をとなえ、それを抑圧する権力と戦い、革命によって自由を勝ち取り、近代化は進められてきた。

 それに対して日本の近代化は、社会や国家にとって役に立つ人物となるために学習し、自分のことより大義に基づいて勇気をふるって身を捧げることが祖先から伝えられてきた美風であると教えられて、そういう道徳と倫理を備えた国民の総合力が欧米列強に対抗するための国力となり、そうした国作りこそが、日本の近代化ということであった。

 こうした美風を強いてくる力は、具体的なものより、神秘的なものの方が、いっそう権威的な力を帯びる。

 たとえば寺の秘仏なども、もったいをつけて30年に一度の公開とかにした方が、多くの日本人に有り難がられ、その威光の維持につながる。

 ”含み”は、日本の伝統的コミュニケーションかもしれない。

 そして、日本人の多くは、今でも「理屈を超えた力」を尊重しており、デカルト的な近代的思考に、あまり馴染んでいない。

 皇居という日本の真ん中の広大な空間は、一般の日本人にとって無窮の空間である。それは、面積という横広がりの大きさだけでなく、その中で行われている神秘的な祭祀が、はるか昔から続けられてきたものらしいという、どこまで続いているのかよくわからない時間的な広がりを備えているからだ。

 日本の近代化のエンジンは、この無窮の力であり、万世一系」という個人の見識を超えた”有難い”天皇を軸にするという仕組みのなかに仕込まれていた。

 

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