第1448回 震災国日本の祈りのかたち。

(さらに昨日の続き)。

 古来、日本の天皇は政治的権力者というより、この国の祭祀の要に位置しており、この国の祭祀の根幹は、古代の巫女が、自分の存在を打ち捨てる覚悟で神に仕えることで、その身に神を憑依し、神そのものになって人々に恵みをもたらし災難から守護するために祈るところにあった。

 しかし、8世紀の律令体制によって、そうした古来の巫の影響力は弱められ、国家鎮護の祈りは、仏教によって執り行われることになった。

 また、古代の巫の祈りは歌人に継承されていたが、例えば挽歌のように人の死に際して本気で魂を招魂しようとする歌は、持統天皇に仕えた柿本人麿を頂点として終焉し、その後は次第に世俗的な世界の中で、個人の感傷を吐露したり情景を愛でるうえでの技巧や教養の程度を競うものになっていった。

 それが10世紀頃から、次第に古代のスピリットが復活していく状況となり、国風文化が花開いていく。 

 その原因として、中央集権的な律令体制が崩壊していったことがあるが、9世紀後半に立て続けに起きた大規模な自然災害もあったのではないかと思われる。

 864年から866年にかけて富士山が大爆発を起こした。文献上に残る最大の爆発であり、この時の噴火で埋没した地域が、現在の青木ヶ原樹海となった。

 そして、869年には東北で貞観地震が起きた。この時の津波は、2011年の東北大震災の時とほぼ変わらない高さで、東北の太平洋側沿岸部に壊滅的な打撃を与えたのだが、この時の津波が、福島原発津波対策の想定に入っていなかったことが問題視された。

 また、東北の貞観地震の18年後の887年に、津波を伴う東海大地震南海大地震が同時発生したことが、津波堆積物からわかっている。2011年の東北大震災の18年後は2029年であり、これは南海トラフ地震が起こる想定期間内である。

 ちなみに、天武天皇の死(686年)の直前の684年にも、南海と東海に大地震があったことが記録されている(白鳳大地震)。

 山崩れ、河涌くなどと記され、諸国の官舎、寺、神社なども多く倒壊した。

 『日本書紀』には、679年の筑紫地震が記録され、その時から天武天皇の死(686年)までに「地震」の記録が集中している。さらに684年に伊豆諸島の噴火、685年に、信濃における火山灰によると見られる被害も報告されて(浅間山か焼岳の噴火)、火山活動も活発化していた。

 藤原京の建設は、天武天皇が亡くなった頃に一旦停止されて、690年頃から持統天皇によって再開されたとされるが、もしかしたら、この期間の大震災の影響があったのかもしれない。

 この大震災の後に即位した持統天皇(女帝)は、一般的な認識では、後継者候補だった草壁皇子が病気で亡くなってしまい、その子の軽皇子(後の文武天皇)が7歳と幼かったので、「つなぎ」として即位したと理解されている。しかし、実際は、685年頃から天武天皇は病気がちで、持統天皇が政務を執っていた。天災などで混乱する国内事情を背景に、古代の巫女的な立場で即位した可能性もあるのではないだろうか。

 柿本人麿も、持統天皇のことを「現人神(あらひとがみ)」として崇め奉る歌を詠んでいる。

 持統天皇は、天智天皇の娘であるが、天智天皇の父母である舒明天皇斉明天皇は、それぞれ押坂彦人大兄皇子の子と孫にあたり、押坂彦人大兄皇子の母は、息長広姫である。息長は、神話の中の神功皇后息長帯比売命)や息長水依姫など、丹生の巫女の家系である。

 壬申の乱(672)の後の天皇は、天武系とされ、平安時代になって天智系が復活したなどと一般的には思われているが、実際には、持統天皇の次、持統天皇の血が流れる文武天皇が若くして亡くなった後に即した女帝の元明天皇の父は、持統天皇と同じ天智天皇であり、その次の女帝の元正天皇は、元明天皇の娘である。

 すなわち、天武天皇の死後は、3人の女帝を通じて、天智天皇の血統が続いており、天武系ではない。

 この3人の女帝は、文武天皇聖武天皇といった男の世継ぎが幼少だったためと説明されるが、文武天皇聖武天皇が即位した時も、病気がちだった彼らに代わって政務を遂行したとされているので、単なる「つなぎ」ではなかった。

 そして、古代史の謎の一つとされているのが、持統天皇による吉野離宮通いである。

 持統天皇は、33回も吉野離宮行幸している。

吉野離宮の候補地、宮滝遺跡。この辺りの岩盤は緑色片岩であり、中央構造線上の特徴を反映している。四国の吉野川も同じであるが、四国では、緑色片岩は王の石とされ、古墳の石室や聖域などに積極的に使われている。四国と近畿、同じ吉野川でつながっている。

 この吉野宮の造営は、同じく女帝の斉明天皇の時(656)で、その頃、天皇主導での土木工事が相次ぎ、その有様は、「狂心」と揶揄されている。

 しかし、その土木工事の内容は、たとえば香久山の西から石上山まで溝を掘り、舟で石を運んで石垣を巡らせるなど、防衛の気配がある。

 当時は、百済新羅に滅ぼされる(660年)など白村江の戦いの直前であり、吉野離宮を造営した656年には、「高句麗が大使に達沙、副使に伊利之、総計81人を遣わし、調を進める。」という記録もあり、近づく戦争に備えた外交交渉が行われていた時期でもあった。

 飛鳥時代蘇我と物部で天下が二つに分かれて争った後、「和を持って尊し」という17条憲法の精神で長期に渡って政務を行ったのも女帝の推古天皇だった。

 これらの「女帝」は、男帝のあいだの「つなぎ」ではなく、歴史的転換の時代、積極的な意味があったのではないかと思われる。

 話を吉野離宮に戻すが、吉野は丹生の本拠であった。そして、丹生というのは辰砂(硫化水銀)のことで、古代から、石棺の中に敷き詰められたり刺青で用いられるなど聖なる赤色であり、これは巫女が身につける袴の色でもある。

 また、丹生は、船の防水や防腐のために用いられていたので海人族と深い関わりがあり、海人族は、海から河川を遡って、その鉱脈を探し求めた。その丹生の最大の鉱脈が、吉野から伊勢にかけての地域である。

 この海人族は、贄と呼ばれる食膳に関わる人々、木材の調達や造船に関わる人々など役割に応じて束ねられていったが、その中で、祭祀や物語の伝承に深く関わる勢力がいた。それが和邇氏だった。和邇氏の祖は吾田片隅といい、吾田というのは、南九州を拠点とする海人族で、この地の女神が、神吾田津姫(別名が、コノハナサクヤヒメ)だった。

 コノハナサクヤヒメを祀る神社が浅間神社だが、全国にある浅間神社の総本社である富士山本宮浅間大社の神官は、和邇氏の後裔である富士氏が世襲してきた。

 そして、持統天皇の時代、臣下の中で最高位にいたのが、丹比嶋であり、彼が、柿本人麿の支援者であった。

 丹比というのは、丹生のことである。丹比氏は、大嘗会の時に田舞を奏した記録があるので、古舞を管掌する家柄だった。

 この丹比氏は、大阪の住吉大社のところが拠点で、住吉神と深く関わっていた。そして、住吉大社の摂社に、式内社の大依羅神社があり、呪的集団の依羅(よさみ)連が、ここを拠点としていたのだが、柿本人麿の妻、依羅娘子が、この出身だった。

 住吉神というのは、住吉大社に言い伝えられるところでは、神功皇后新羅征伐に貢献した後、吉野の藤代嶺に祀られていた。しかし播磨風土記では、神功皇后新羅征伐に貢献した後に吉野の藤代嶺に祀られていたのは、丹生都比売だと記述されている。

 この二つの神は、もとは同じで、時代環境の変化に応じて、名称と役割が変わったのだろう。

 そして、柿本氏は、南九州の海人をルーツとする和邇氏の後裔だった。この柿本氏と、古代の語り部集団だった綾部氏とのあいだに生まれたのが、柿本人麿だ。

 小野氏もまた和邇氏の後裔だが、奈良時代以降、語り部集団だった猿女氏を吸収し、その職掌を執り行うようになっていったことが記録に残されている。

 柿本や小野は、文字の無かった時代の語り部たちとの関係を深め、集団の中に吸収し、口承から文字による伝承への転換を促進した。それが「文学」の起源となった。

 天智天皇の娘で、息長広姫という丹生の女神の血を受け継ぐ持統天皇の時代に、丹生の本拠である吉野離宮に何度も行幸し、その時代の政権トップが、田舞を奏するなど丹生の巫と関わりの深い丹比氏の嶋で、彼が支援する柿本人麿が、持統天皇を「あらびとがみ」として称えた。

 南海トラフ地震や火山噴火など天災が多かった時代、持統天皇は、丹生の巫女の役割を担って政務を行っていたのではないだろうか。

吉野川の芝崎の奇岩と呼ばれる地域で、古代、南九州の海人族、隼人の居住地域だった。近くに、阿陀比売神社が鎮座しており、コノハナサクヤヒメを祀っている。阿陀は吾田である。コノハナサクヤヒメは、南九州の海人、吾田の女神であり、和邇氏と関わりが深い。

 また吉野は、役小角が築いた修験道の拠点であり、修験者たちは、吉野の海人勢力とつながっていたからだと思われるが、全国的なネットワークを持っていた。そのため、奈良時代の前半、朝廷に弾圧されながら全国的な奉仕活動を展開していた行基集団を支えていたのも修験者たちだった。

 律令制というのは、土地から離れることを禁止する制度であるが、その時、行基が、自由に各地を移動するためには、それを支援する勢力の支えが必要であり、それが吉野の修験者たちのネットワークであり、持統天皇もまた、このネットワークを通じて、全国の情報を集めることができただろう。持統天皇の吉野離宮通いは、祭祀的な意味だけでなく、そういう現実的な意味合いもあったと考えられる。

 持統天皇が即位した7世紀後半の歴史的転換の時代、火山噴火や大地震が続いていたが、それから200年後の9世紀後半にも、富士山の大噴火や、東北および南海・東海大地震が連続した。

 この頃から、再び、上に書いたように、和歌の精神が蘇り、903年の古今和歌集が編纂された。

 そして、ここでも再び、持統天皇の時と同じく「丹比」が登場する。丹比文子という巫女が、菅原道真の怨霊の神託を受けたと告げ、人々は、その祟りを極端に恐れるようになり、道真の改革を阻止しようとした勢力が次々と亡くなっていき、律令制の要である班田収授も終焉した。

 また、浅間神社の祭神であるコノハナサクヤヒメと富士山の関係は、実は不明瞭なのだが、864年から866年にかけての貞観の富士大爆発の前は、浅間神社は静岡側にしかなく、その頃までは富士山そのものが御神体だった。

 しかし、貞観大爆発の後、山梨県笛吹市に、富士山の噴火を鎮めるためコノハナサクヤヒメを遷座して浅間神社が創建された。これを機に各地に浅間神社が広がっていく。

 コノハナサクヤヒメは、ニニギの天孫降臨後、最初に登場する巫女であり、これは、南九州の海人族の女神である神吾田津姫の別名である。そして、同じ吾田をルーツとする和邇氏系の富士氏が、富士山本宮浅間大社の神官を世襲した。すなわち、富士山の噴火を鎮めるという国家的な祭祀に和邇氏の後裔が関与し、その過程で、和邇氏と関わりの深い古代の巫女神のコノハナサクヤヒメの霊力を復活させることになったのだろう。

 古今和歌集を編纂した紀貫之の後援者は、紫式部の祖でもある藤原定方だが、彼の母、宮道列子の実家の宮道氏は、京都の山科の小野郷を拠点としており、小野は和邇氏の後裔である。さらに、宮道神社の祭神は、祖神のヤマトタケルであるが、ヤマトタケルの母、播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)の母も、和邇氏である。

 9世紀後半の大震災の後にも、和邇氏や丹生に関わる古代の巫女の力が復活しており、この勢力は政治の表舞台には出ていないが、新たな文化的潮流に関わっており、それは、柿本人麿の時代と共通している。

 一度できてしまった体制は、大陸の国のように外からの侵攻がない島国日本では、そう簡単に変わらず、矛盾を抱えたまま続いていくことになるが、大震災などが起きると、それを起点に、劇的に変わる可能性がある。

 明治維新は、列強による外圧が大きな要因であるが、ペリーの黒船来航の翌年、南海トラフ地震が起きている。いくら政権のトップが体制を変えようとしても、人民がそれを受け入れるかどうかも大事な問題であり、大震災というのは、人々の人生観や世界観に大きな影響を与える。

 明治維新政府は、欧米の列強に対抗するためにどういう国家の枠組みを作るかということを検討し、その時、日本が選択したのは、一番真似のしやすいイギリスの立憲君主国制度だった。つまり、天皇の位置付けをビクトリア女王のようにすること。この時、長い時代を経て、再び、国政の中心に天皇が戻ってきた。

 しかし、イギリスと日本では大きな違いがあった。イギリスの王室というのは、日本の朝廷に比べて、かなり世俗に近くて開かれている。だから、メディアも、イギリス王室に関するスクープを狙う。

 現在のチャールズ国王は、ダイアナ妃のことなどスキャンダルだらけだが、日本の天皇で同じことがあったら、天と地がひっくりかえるような衝撃がある。

 日本の天皇は、イギリスの王室と違って世俗を超えた存在であり、それゆえ明治政府が天皇を権力装置の中心にもってきたことで、神国日本のようになってしまい、太平洋戦争の悲劇が起きた。

 戦後、GHQは、天皇を戦犯にして天皇制を廃止しようと考えていたが、天皇は、世俗を超えた存在ゆえに日本人の心の要にあることを理解し、苦肉の策として象徴天皇というポジションを作り出した。

 戦争の当事者となった昭和天皇は別として、戦争に対する真摯な反省を心中に抱く平成の天皇は、古代の天皇の位置付けに近いところにあられたように思われる。

 平成の天皇は、退位の際、2016年8月8日の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」において、次のように述べられている。

「私が天皇の位についてから、ほぼ28年、この間、私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。

 私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。

 天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。

 こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。」

 天皇は、「おことば」の中で、「天皇の務め」あるいは「象徴的行為」として、「国民の安寧と幸せを祈ること」と「時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うこと」を二つの大きな柱として位置づけている。このことを全身全霊で行うことが難しいお身体となったので、退位を決断された。

 平成の天皇と皇后は、日本中をくまなく訪ね歩き、災害があれば被災者のもとに駆けつけて寄り添い、膝をついて、一人一人の顔を見ながら語りかけておられた。

 東北大震災の時にも、被災地を訪問し続けるとともに、国民全体に「おことば」を伝えられた。

 長年の良き助言者であった美智子さまの言葉、「振り返りますとあの御成婚の日以来今日まで、どのような時にもお立場としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの、というその時に伺ったお言葉のままに、陛下はこの60年に近い年月を過ごしていらっしゃいました」のとおり、平成の天皇には、イギリス王室のような、カリブのリゾート地での優雅なサマーバケーションなどなかった。

 戦後の象徴天皇の祈りは、国家の安泰と国民の幸せを祈って古くから続けられているものと同じであり、その祭祀の本質は、古代の巫女が、自分の存在を打ち捨てる覚悟で神に仕えることで、その身に神を憑依し、神そのものになって、人々を災難から守護するために祈ることと変わっていない。

 平成は、北海道南西沖(1993)、阪神・淡路(1995)、鳥取西部(2000)、中越(2004)、岩手・宮城内陸部(2008)、東北・東日本(2011)、熊本と鳥取中部(2016)、胆振地方中東部(2018)と、ほぼ5年以内に一度の大地震があり、さらに雲仙普賢岳の大火砕流、各地の水害など大災害が頻発した時代だった。

 今年初めの能登の大震災、継続している千葉の揺れ、南海トラフの発生が間近に予測されている現在、平成の天皇の「おことば」にこめられた祈りを、真に受け止めるべき状況であることは変わらない。

 問題は、国民が、どれほど象徴天皇の位置付けを理解したうえで、震災国という宿命的な状況に即して暮らしを整えていけるかだろう。

 そのためには、文化の力が大きく関わってくる。

 10世紀の国風文化の中で極まっていったのが、「もののあはれ」の世界観であり、源氏物語を頂点として、中世の日本文化の核には、これがある。

 文化は、人々の人生観や世界観に影響を与える。

 文化に関わる表現活動を行っている人たちに、そして、それらを受け取る側に、どれだけ、その自覚があるかどうかが問われ、試されている。

 

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