第1410回 今こそ知るべき源氏物語に秘められた真相(3)

 二日間にわたった源氏物語紫式部の背後に秘められたことについて長文を書いてきたが、これがまとめ。

 ここに添付した地図に、その全てが凝縮しており、これを見ると、紫式部藤原道長と同時代の陰陽師である安倍晴明すら、ここに関わっているかもしれないと思われる。

 二日前の投稿で、京都の堀川通紫式部小野篁の墓が並んで築かれている謎について書いた。安倍晴明の館(現在は晴明神社)は、同じ堀川通を1kmほど南に下ったところである。

 このすぐ西が、平安京の中心の内裏だった。

 そして、二日前にも説明したように、平安京の4つの角、東北の鬼門、東南の風門、西北の天門が小野郷であり、西南の人門だけが春日で、ここには紫式部氏神である大原野神社が鎮座している。

 興味深いのは、東北の鬼門にあたる比叡山麓の小野郷のさらに東北の琵琶湖地域も小野郷であることだ。この二つの小野郷と、平安京の中心を結んだラインの延長上が、大原野神社である。

 そして、紫式部氏神である大原野神社から真東14kmが、二日前の投稿でも書いた紫式部のルーツである宮道弥益の館(現在は勧修寺)で、この近くには、源氏の身分で生まれながら天皇になった唯一の人物である醍醐天皇の陵がある。この場所が、平安京の風門(南東)にあたる小野郷だ。そして興味深いことに、宮道弥益の館から真東9kmのところが石山寺で、ここは、紫式部が、須磨と明石という海人族と関わりの深い場所から源氏物語を書き始めた場所とされる。石山寺周辺は、海人族の隼人の拠点でもあった。

 さらに不思議なのは、この石山寺の真北20kmが、琵琶湖西岸の小野郷なのである。

 大原野神社石山寺のあいだの小野郷(紫式部のルーツにあたる宮道弥益の館のあった場所)は、清和源氏の武力団の中心だった坂上氏(渡来系の東漢氏)とも関わりの深い場所で、ここに、桓武天皇の時に活躍した将軍、坂上田村麻呂の墓がある。そして、醍醐天皇の父にあたる宇多天皇の母、班子女王が、この坂上氏系の当宗氏の血を受け継いでいた。

 この小野郷の宮道弥益の館があった場所は、10世紀から11世紀の歴史を考えるうえで重要な場所で、ここに鷹狩りでやってきた藤原高藤が、この館で雨宿りをして、宮道弥益の娘の宮道列子と結ばれて藤原胤子が生まれた。そして彼女が、まだ源氏の身分だった宇多天皇と結ばれて、醍醐天皇が生まれた。

 藤原高藤と宮道列子の身分違いの恋は、源氏物語の中の光源氏と明石御方の恋と重ねられているが、そうすると、二人の娘の藤原胤子は、宇多天皇と結ばれて醍醐天皇を産んだわけだから、光源氏と明石御方の娘で、天皇の妻となり世継ぎを産んだ明石姫君とも重なる。

 つまり、明石の御方の父の明石入道は、宮道列子の父で紫式部のルーツにあたる宮道弥益がモデルなのだろう。

 二日前の投稿でも書いたように、紫式部は、源氏物語の後半、光源氏が消えてからは明石一族の繁栄を描いており、源氏物語を通じて、自らの祖先の宮道氏に対する崇敬をこめているのだが、それは彼女個人の意思というより、紫式部源氏物語という壮大な文学を生み出す際に背後にいた勢力の意思でもあっただろう。

 明石入道は、京都の身分を持たない地方の受領で、自分の娘が産んだ子が国母になるという夢の啓示を信じていた。

 その夢とは、自分が須彌山を右手に持ち、帝と皇后を象徴する日と月の光が、山の左右から出て世を照らし、そして自分は、その須彌山を広い海に浮かべて、小さい舟に乗って西に向かって漕いでいくという壮大なイメージであった

 須彌山を手に持つという宇宙全体を俯瞰するような境地にいる自分が、小さい舟に乗って西に向かうという夢、これは、天の摂理を知って世俗の欲心を捨てることを象徴している。

 この天の摂理に通じていたのが、明石入道が深く信じる住吉神で象徴される勢力で、源氏物語の中で、落ちぶれた光源氏は住吉神の加護によって救われ、運命を転換させていくことになるが、住吉神は、海人族と関わりの深い神だ。

 平安京を取り囲むように小野郷が配置されているように、この「小野」こそが、海人族の和邇氏の後裔で、住吉神ともつながる勢力である。

 この海人勢力は、紫式部源氏物語を書き始めた石山寺周辺を拠点としていた隼人からもわかるように、もともとは南九州の海人勢力で、「吾田の海人」と呼ばれていた。

 天孫降臨のニニギと結ばれてコノハナサクヤヒメは、別名が神吾田津姫であり、この海人勢力の巫女的な女神だった。

 コノハナサクヤヒメは、全国の浅間神社で祀られているが、その総本社の富士山本宮浅間大社神職世襲してきたのが和邇氏(後の小野氏)の後裔だった。また、コノハナサクヤヒメの父であるオオヤマツミの重要な聖域である瀬戸内海の大三島大山祇神社でこの神を奉斎してきたのが、瀬戸内海を中心に活躍した海人族の越智氏であるが、越智氏は、婚姻を通じて紀氏と同族化していた。

 そして紀氏は、和歌山県の紀ノ川流域を拠点としていたが、この地域の土着神であった丹生津比売が、6世紀以降の新羅との戦いを経て国家神となったのが住吉神である。

 播磨風土記に記述されている丹生津比売の鎮座地である吉野の藤代嶺は、住吉大社の由来を伝える『住吉大社神代記』では住吉神が鎮座していた場所とされており、ともに、神功皇后新羅討伐の後に鎮座したと伝えられている。この二つの神は、同じ神だと考えられる。

 吉野の藤代嶺に鎮座していた丹生津比売は、記紀には登場しない神だが、住吉神は、吉野の藤代嶺を出て、大阪湾を藤の筏で渡って明石の藤江に流れ着いたと、『住吉大社神代記』で伝えられている。このエピソードと同じように、海人族の紀氏も、紀ノ川流域から瀬戸内海へと活動拠点を広げていった。そのことは、紀氏の墳墓に特徴的な石棚付石室を持つ古墳が、6世紀以降、瀬戸内海沿岸に普及していったことで考古学的に裏付けられている。

 南九州を拠点とする海人族の女神コノハナサクヤヒメとつながる和邇氏(小野氏)、その父のオオヤマツミとつながる越智氏と、婚姻を通じて同族化して、紀ノ川流域から瀬戸内海への広がっていった紀氏。これが、南九州の海人勢力の展開であり、紀氏が、瀬戸内海へと進出する段階で、丹生津比売が住吉神となった。

 紫式部の祖にあたる宮道弥益(住吉神を崇敬する明石入道のモデル)の娘の列子が産んだ藤原定方は、甥にあたる醍醐天皇の即位とともに右大臣に上りつめるが、彼は、紀氏の紀貫之の後援者であり、古今和歌集の編纂の陰の立役者である。そして、彼の墓は、小野郷の宮道弥益の館のすぐ近くにあるが、亀の背に乗っており、海人族の関係を想像することができる。

 古くから各地域を水上ネットワークでつないでいた海人族は、各地の伝承を伝える役目も持っていた。

 古い時代の物語は口承で伝えられており、古事記の編纂において、書き手の太安万侶に口承で物語を伝えた稗田阿礼は猿女氏の人間だった。猿女氏というのは、猿田彦を祖神としている。天孫降臨のニニギの案内人としての猿田彦は、単なる地理的なガイド役ということではなく、新しく日本にやってきた人たちに対する歴史の案内人でもあった。

 しかし、8世紀の奈良時代以降、この猿女氏の仕事が、小野氏に奪われつつあるという訴えが、猿女氏から朝廷に起こされている。

 これはどういうことかというと、8世紀というのは古事記日本書紀が書かれた時代だが、歴史の伝達が、口承から文字記録へと変化した時代でもあった。その伝承の役割を、猿女氏にかわって小野氏が担うようになったということだろう。

 その後、小野氏からは、小野小町小野篁小野道風といった文人や学者や芸術家が多く出ている。

 そして、古事記の中で天皇に次いで数多く登場するのが和邇氏(小野氏の祖)であり、しかも、コノハナサクヤヒメのように、マレビト(天皇)と結ばれる女性が多い。この女性たちがマレビトと出会うということは、新しい時代の扉が開くということを象徴している。

 彼岸と此岸、既知と未知、過去と未来のあいだに位置するのが、これらの女性であり、そうした境界のポジションから発せられる預言の言葉こそが、文学の起源だった。

 口承で歴史を伝えてきた猿女氏に代わって、小野氏が、文字記録によって歴史を伝える役目を担うようになった。

 また外交の仕事も既知と未知のあいだに立つことであり、小野氏からは、小野妹子のような人物が出ている。

 紫式部は、彼女一人の経験や知見で、源氏物語を書き上げたのではない。

 彼女の背後には、古代から連綿と伝わる物語の伝承を担ってきた勢力がいた。それらの物語には、森羅万象と人間世界の摂理が秘められて神話化されていた。

 そして、時代の転換期には、それらの物語を、新しい時代の状況に即して捉え直して、新しい文体で、書き改める必要があった。

 8世紀の初頭、律令制が始まる時期に書かれた古事記もそうだし、11世紀の初頭、紫式部によって書かれた源氏物語もそうだった。

 紫式部が、明石入道の夢を通して伝えている壮大なビジョン、「須彌山(仏教の世界観で、世界の中心に聳え立つという山。頂上には帝釈天が住み、中腹には四天王が住む。この山の周囲を月日が回転している)を右手に持ち、帝と皇后を象徴する日と月の光が、山の左右から出て世を照らしていた。そして自分は、その須彌山を広い海に浮かべて、小さい舟に乗って西に向かって漕いでいく」というのは、時代の転換期の物語の伝承者(文学者)の境地と使命を伝えているとも言える。

 「須彌山を右手に持つ」というのは、歴史全体と森羅万象全体を俯瞰するほどの眼差しを持つことに等しく、「小さい船に乗って西に向かって漕いでいく」というのは、そうした展望力と洞察力を世俗の欲のためには使わず、東から上って西に沈む普遍的な太陽の軌跡のように、天命を果たすだけ、ということになる。

 紫式部藤原道長が生きた時代は、二日前にも書いたように、律令制が崩壊し、中央主権社会から封建社会へと急速に変化していく境目であった。

 その境目において大きな政治的役割を果たしたのが、菅原道真を重用して政治改革を行った宇多天皇だった。宇多天皇は、臣籍降下をした源氏の身分から天皇になった歴史上唯一の天皇であり、息子の醍醐天皇は、生まれた時に源氏の身分だったという、これもまた歴史上唯一の存在だった。この醍醐天皇が、源氏物語の冒頭で理想的な治世として描かれる桐壺帝のモデルで、桐壺帝の息子が、光源氏である。

 さらに、源氏として生まれて天皇になった醍醐天皇は、紫式部のルーツにあたる宮道弥益の血を受け継ぐ存在でもあり、源氏物語の明石入道と、宮道弥益は、娘の子が国母となることで重ねられている。

 「源氏物語」という壮大な物語の主人公につけられている”源氏”には、紫式部にとって、こうした背景がある。

 また、紫式部源氏物語を書くことを支援した藤原道長にも、陰に”源氏”の存在があった。二日前にも書いたように、藤原道長の6人の妻のうち4人が、源氏の娘であり、菅原道真の祟り騒動で有力な藤原氏たちが没落していくなか、唯一、道真の霊に護られるという形で繁栄したのが藤原道長の一族だったが、その背後には、源満仲源頼光という清和源氏の存在があった。

 だからといって、紫式部藤原道長が、そうした個人的な事情で、源氏の物語を創出したわけではない。

 藤原道長の背後で彼の繁栄を支援した清和源氏は、その見返りに多くの権限を獲得していき、道長の死後、歴史の表舞台に出てくる。そして、源頼朝足利尊氏に象徴されるように、清和源氏の時代が到来する。

 こうした時代の転換を引き起こすきっかけとなったのも、源氏の身分から天皇になって宇多天皇ということで、紫式部藤原道長は、そうした歴史の流れを俯瞰したうえで、預言的に、”源氏”の物語を創出したのだと思われる。そして、この新しい物語は、その時まで伝えられてきた伝承などが、新しい時代の在り方に応じて改変されたものだった。

 光源氏と交わる様々な女性たちは、古代、マレビトと交わる宿命を背負ったコノハナサクヤヒメなどの女性たちに重ねることができるが、大きく違っているのは、源氏物語の女性たちの個性の豊かさだ。

 光源氏が大切にした妻で、容姿、知性、感性、性格、才覚、才芸など理想的な女性として描かれる紫の上をはじめ、朧月夜のように男性にもたれかからず強い社会的自立性を備えていたり、玉鬘のように出処進退や人への対応が見事で家族の大黒柱のような存在であったり、優れた知性と教養を持ち、絵画という共通の趣味で冷泉帝の良き話し相手となった秋好中宮や、その母の六条御息所のように情念が怨霊になってしまったりと、古代の巫女のように境界でマレビトを迎え入れるという受け身だけの存在でない女性たちが多く描かれている。

 源氏物語の面白さというのは、光源氏の単なる恋愛というよりは、その相手となる女性たちの個性の味わい深さにある。

 それらの個性の違いが浮き彫りになるように、光源氏が女性を分析する独白や、アプローチの手立てにおける工夫や、細かな気配りが丁寧に描かれている。

 源氏物語は、不易流行の物語でもある。

 古代から変わらぬ本質と、新しい時代に応じた変化。その統合が大事である。

 いつまでも変わらないものを見定めずに、変化を後追いしていると、自分が、歴史の時空のなかで、どこに存在しているのか、わからなくなってしまう。

 

 

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