第1239回 瀬戸内海の海人と、歴史の真相

明日、印刷納品される Sacred world 日本の古層 Vol.3は、海人に焦点をあてている。

www.kazetabi.jp

 日本は島国であり、古代、船がなくては、人も物資も動かせなかった。大陸から新しい知識や文化を日本に伝えたり、大陸の勢力と戦う時に、海人の力が欠かせなかった。

 兵庫県明石は、明石海峡の向こうに淡路島を望む風光明媚な場所で、新鮮な魚介類で有名だが、源氏物語の重要な舞台でもある。

 紫式部は、源氏物語を須磨と明石の帖から書き始めたとされ、紫式部の創作の意図が、この地に秘められていた可能性が高い。

 源氏物語においては、落ちぶれた光源氏が明石に流れてきて、明石入道の一族と知り合い、住吉神の加護を受けて、復活していく。

 源氏物語は、光源氏が主人公ではあるがが、その光源氏は、長大な物語の途中でフェードアウトしてしまい、後半の宇治十帖においては、明石一族の物語が転換し、最後に栄光を掴むのは明石一族で、光源氏は、その媒介にすぎなかったかのような描かれ方をしている。

 明石の地には、光源氏を救った住吉神を祀る聖域が多いが、住吉大社神代記』では、大阪の住吉大社よりも、明石こそが住吉神のルーツとなっている。

 明石というのは、地理的にも瀬戸内海の際、つまり瀬戸際であり、光源氏個人の運命においても、また歴史的にも、瀬戸際の攻防が繰り広げられたところだった。 

  聖徳太子の時代、この明石と愛媛県今治市に共通する謎のエピソードがある。

 明石市大蔵の稲爪神社の縁起には、推古天皇の時代に朝鮮半島から鉄人と呼ばれた大将が8千人の兵を引き連れ日本に侵攻し、九州の兵を打ち負かして明石の地まで攻め上ったが、伊予国の小千益躬(おちますみ)が、三島明神の加護で鉄人の弱点を見つけて討ち取り、明石の地で撃退したとある。

(稲爪神社/兵庫県明石市

 

 小千益躬は、瀬戸内海の海人である越智氏の祖だが、越智氏の後裔の河野氏が自らの氏族の来歴を記した『予章記』の中にも、明石の稲爪神社と同じ記録があり、しかも、この戦いで亡くなった兵士を

弔うために創建されたという愛媛県今治市東禅寺の由緒では、鉄人が攻めてきたのは、推古10の出来事となっている。 

 推古10年というのは602年である。

 この602年というのは、日本書紀によれば、聖徳太子の同母弟の来目皇子が、征新羅大将軍として25,000の兵を率いて九州の筑紫国に至ったが、病気で亡くなった年である。

 そして、その後任として、聖徳太子の母違いの弟、当麻皇子征新羅将軍となり、難波から船で出発したが、兵庫県明石の地まで進んだところで妻の死を理由に大和に引き返すという奇妙なエピソードが日本書紀に残されている。

 明石と今治の伝承では、602年に新羅が攻め込んできて、九州の兵を打ち破り、明石まで攻め上ったが、越智氏によって撃退されたとあり、日本書紀では、602年に、新羅討伐のために来目皇子が率いる兵が九州まで行ったところで来目皇子が病死してしまい、しかたなく、当麻皇子が、新羅討伐のために西に向かったが、明石の地で、妻の死を理由にヤマトに引き返したとなっている。

 5世紀後半より、朝鮮半島新羅の勢力が拡大し、日本が治めていた朝鮮半島南端の任那加羅諸国)を、562年に併合してしまった。

 それを取り戻すため、日本も兵を送ったが失敗に終わり、欽明天皇敏達天皇は、その奪還を宿願として遺書にまで残した。

 なので、当麻皇子が、新羅討伐に向けて進軍している時に、妻が死んだからといってヤマトに戻ってしまうというのは、普通は考えられない。日本書紀は、嘘を書いている可能性が高い。

史実は、明石と今治という二つの地に共通して残っている伝承なのではないだろうか?

 しかし、複雑なことに、古事記日本書紀に、こういう物語も残っている。

 新羅討伐を終えた神功皇后が、畿内へと戻ってきた時、忍熊皇子が反乱を起こし、明石の地に砦を築いて待ち伏せをしたという内容だ。その場所が、五色塚古墳とされる。

 日本書紀ではは、神功皇后新羅を討伐して戻ってきたという設定および、聖徳太子の時代は当麻皇子新羅を討伐しに遠征をするという設定で、明石について言及され、今治と明石に残る伝承では、新羅が日本に攻め込んできて明石の地で撃退したとなっている。

 真相はよくわからないが、明石が運命の分かれ目であることは共通している。

 伊予の海人、越智氏は、婚姻によって紀氏とも同族化しているが、663年の白村江の戦いにも参加している。

 白村江の戦いにおいて、越智の直という人物が唐の捕虜になったが、観音菩薩の霊験により無事帰還することができ、観音菩薩を奉じて寺を建てた。この寺がどこであるか具体的な記述はないが、愛媛県今治市に、四国霊場第58番の仙遊寺があり、この寺が越智氏と深く関係している。 

仙遊寺愛媛県今治市の御本尊の千手観音菩薩像)

 

 寺伝によると、仙遊寺天智天皇の勅願により、当時の国守であった越智守興(おちもりおき)によって建立された。標高300mの作礼山の頂上付近に殿堂を建立したのが始まりといわれており、作礼山の麓に越智守興をまつった三嶋神社が鎮座している。

 この寺の御本尊の千手観音菩薩像は、竜女が海から竜登川を伝って作礼山に登り、一刀刻むごとに三度礼拝し、何日もかけて彫ったものだという伝承があり、海神信仰との結びつきが秘められている。

 明石は、瀬戸際の地だが、伊予水軍の越智氏の活動範囲でもあった。

(多伎神社(愛媛県今治市)は、3万坪に近い境内の敷地に自然林が茂り、山頂近くに奥の院に磐座があるが、もとはこの磐座信仰に始まるとされる。社殿の裏及び境内一帯に30数基の古墳群がある。西暦6~7世紀頃のものとされ、当時、この地方を支配していた越智氏一族の墓であろうと推定される。)

 

 越智氏は後に河野氏となり村上氏となり、源平の戦いや豊臣秀吉の時代においても、大活躍し、勝負を決する鍵となった。

 この海人は、日本書紀古事記など、国家が残す歴史においては、表舞台に立っていないが、歴史を動かす原動力であったことは間違いない。

 

_________________________

Sacred world 日本の古層Vol.3は、6月29日に納品されますので、すでにお申し込みいただいている方から順に発送していきます。

www.kazetabi.jp