第1572回 日本史を通じて最も重要な場所の一つ、向日山

 

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明治神宮のモデルは向日山(京都府向日市)に鎮座する向日神社だが、その境内末社に御霊神社があり、その場所に磐座がある。一般的に御霊神社は、恨みを残して怨霊になる可能性のある人物や神が祀られているが、ここは、イザナギイザナミが祀られている。

 前回のワークショップ(5月31日と6月1日)のフィールドワークで向日山を訪れる前に、「日本史において最も重要な場所の一つ」に案内すると言ってから、出発した。
 行く前に敢えてそういうことで、実際に訪れてみた後に、納得感がどれだけあるかが肝心なことになる。
 学校教育をはじめ、一般的に歴史が語られる場合、大半が、その時々に起きたことや、その時々の状況が説明されるのだけれど、その時々においても過去との重なりがあったはずなのに、その重なり具合のことが、あまり考慮されていないことが多い。
 たとえば縄文時代弥生時代古墳時代律令制、武士の時代と時代を区切って説明し、その節目において活躍した人物、たとえば蘇我氏天武天皇藤原氏源頼朝足利尊氏織田信長など特定人物に焦点をあてて歴史の変遷を理解しようとする傾向が今でも強く、その程度のことが歴史を学ぶことになってしまっている。
 もしくは、現代の世の中の傾向として、歴史に対する関心が薄れてしまっているため、少しでも歴史に興味を持ってもらうためなどという言い分で、誰それの陰謀説とか、酷いものではユダヤ人起源説といった俗悪なものも多い。
 現代も歴史の流れの一部であり、現代を捉えるうえでも、現代のこの一瞬だけ切り取るわけにはいかないように、いつの時代においても、歴史の積み重なり具合が重要になる。
 太平洋戦争で大敗しても、それまでの日本の歴史が全て切り捨てられ、まったく新たな時代が始まったわけではない。
 しかしながら、明治時代の廃仏毀釈や、太平洋戦争に至るまでのあいだの皇国史観のように、その時代ごとの状況によって、それまで受け継がれてきたものが変容してしまうことがあり、その変容のことを理解したうえで、本来どうだったのかを考えていかなければ、歴史と向き合っていることにはならない。
 そして、その時々の為政者は、受け継がれてきたものを変容せざるを得ない状況のなかで、それでも、過去を葬り去るわけにはいかないという配慮も示し、様々な工夫も凝らしていた。
 状況が変わったから全てを一新するという単純な思考をもった急進的な革命者も存在したが、それらの革命的試みが長続きしなかったように、人間の歴史は、それほど単純ではないのだ。
 さて、なぜ向日山が、日本史における最も重要な場所の一つなのかというと、上に述べたような歴史の積み重なりが、現代であっても納得感をもって感じられる場所だからだ。
 向日山というのは、桂川、木津川、宇治川が合流して淀川になる場所の近くの高台だが、桃山時代までは、この三つの川の合流点には巨椋池という広大な内海があり、船着場であったことが知られている。つまり、この場所は、古代から水上交通の要だった。
 そして、この向日山の上に鎮座している向日神社を1.5倍にして設計されたのが明治神宮である。
 明治神宮のモデルは、伊勢神宮宇佐神宮など国家神道と関わりの深い神社ではなく、向日神社なのだ。
 なぜ、明治政府は、向日神社明治神宮を重ね合わせたのか?
 この問いに対する一般的な説明は、建築デザイン上の問題として処理されているケースが多いが、それは、あまりにも表層的な捉え方だ。 
 向日神社が鎮座するところは、事実上の初代天皇とみなされている第26代継体天皇が弟国宮を築いた場所である。
 さらに、第50代桓武天皇は、皇位継承順位が高くなかったにも関わらず天皇に即位した人物であるが、この桓武天皇長岡京を築いたのも、この向日山だった。
 現在、長岡京市と「長岡京」という名をつけた市があるので、こちらが長岡京の場所だと誤解している人が多い。
 この長岡京市というのは、1949年に新神足村、海印寺村、乙訓村の3村が合併して長岡町を名乗り、その後、べッドタウンとして人口増大が続いて1972年に「市」として独立する時に、知名度を上げようとする政治目的で長岡京市と名付けただけのものだ。
 この長岡京市の場所は、かつての長岡京のなかでも隅っこの場所だったので、多くの反対意見もあったのだが、強引に押し通してしまった。
 桓武天皇が築いた長岡京の中心は、現代の向日市にあった。向日山の直下あたりに大極殿があり、その左右に右京と左京があった。
 桓武天皇は、自らの正当性を示す必要があったのだと思われるが、即位式を、継体天皇が最初に宮を築いた樟葉宮で行っており、現在、この場所には、桓武天皇の父の白壁皇子(桓武天皇を擁立するため、死の直前に光仁天皇として即位させられた)を祭神とする交野天神社が鎮座している。
 さらに、桓武天皇は、継体天皇が三番目に築いた宮である弟国宮と同じ場所に、長岡京を築いたのだった。
 明治政府は、王政復古を掲げ、天皇を「政治的君主」に復権させる試みを行おうとした。明治政府が、その正当性を示すために、桓武天皇と同じことを行ったとしても不思議ではない。
 この向日山が特別な場所であるのは、桓武天皇継体天皇以前の歴史も厚く蓄積した場所だからだ。
 第26代継体天皇は、即位してすぐに奈良に宮を築かず、木津川、宇治川桂川の合流点に近い樟葉宮や弟国宮、京田辺の筒城宮 を築いたのだが、それは何故か?というのが、古代史の大きな謎の一つとされ、歴史の専門家は、奈良の豪族を警戒したためと説明しているケースが多いが、そうした説は、奈良盆地だけを古代の中心地であるとみなす偏狭な思考によるものだ。
 向日山には、北山遺跡という弥生時代の高地性集落の痕跡が残っている。さらに、3世紀としては日本国内でも最大クラスである100m級の元稲荷古墳という前方後方墳が残っている。
 向日山は、三つの巨大河川の合流点のすぐ近くであり、古代から水上交通の要衝として、重要な場所であったことは間違いない。
 そして継体天皇の即位は新羅討伐と深く関係しており、継体天皇は、即位後、60,000の兵を派遣したと記録がある。(九州で磐井の乱が起きて失敗に終わる)。新羅という海の向こうの国に戦いを挑むためには、水軍の力が必要なことは明らかであり、その拠点としては、奈良盆地よりも木津川、宇治川桂川の合流点の近くの方が理にかなっている。
 さらに、向日山は、弥生時代の祭司道具である銅鐸の製造拠点だったようで、銅鐸の鋳型が発見されているのだが、驚くべきことに、長岡京大極殿の近くでは、縄文時代の祭司道具である石棒まで発見されているのだ。(石棒の製造場所も、近くで発見された)。
 驚くべきことというのは、石棒は、東日本では数多く発見されているが、西日本ではほとんど発見されていないからだ。 
 石棒の製造場所として発見されたところは、非常に限られており、向日山以外では、兵庫県豊岡市竹野川流域の見蔵岡遺跡である。
 西日本で限られた石棒の製造場所の二箇所において、一つ、奇妙な共通点がある。
 それは「竹野」である。
 向日山は、広大な竹林が広がる場所で、その竹林の中に、寺戸大塚古墳や妙見山古墳という古墳前期(4世紀)の大型古墳があり、いずれも三角縁神獣鏡が出土しているのだが、この向日山は、記紀において、「竹野媛」が、堕ちて亡くなった場所と記録されている。
 第 11代垂仁天皇の時、丹波道主命の4人の娘が、天皇に召し上げられたが、竹野媛は、醜いという理由で故郷の丹波に返されることになった。竹野媛はこれを恥じ、弟国(おとくに)=現代の向日市に至った時、自ら輿より堕ちて亡くなったので、その地を堕国=弟国と言うようになったと記録されている。だから、この地に継体天皇が築いた宮は弟国宮と言う。
 この竹野媛の物語は、天孫降臨のニニギがコノハナサクヤヒメを選び、醜いという理由でイワナガヒメを選ばなかった物語と同じである。
 選ばれなかった理由を、単に容姿が醜かったためなどと一般的に解釈されているが、神話が、人間の外見上の分別を、歴史上の重要事項として書き残すはずがなく、もっと深い意味がある。
 垂仁天皇が歴史上に実在したかどうかはともかく、この天皇の治世における記録において重要なポイントは、神祇祭祀の転換であり、それ以前の部族的・巫女的な自然発生的祭祀から、国家的な神祇制度への転換が見られる。
 もっとも大きな出来事は、それまで宮中で祀っていたアマテラス大神を祀るために相応しい場所を求めて、垂仁天皇の命で、倭姫命が諸国を巡行し、最終的に伊勢国にいたり、ここを、アマテラス大神を祀る国家的祭祀の場所としたこと。
(神話とは別に、史実として伊勢神宮の場所が定まったのは、律令制開始時期の奈良時代だと考えられる)。
 そして次に、垂仁天皇は、「天つ神の命に従って国土を譲った出雲の大神に、祭祀と社殿をもって報いよう」とし、大きな社(出雲大社)を建てさせた。
  これは、中央政府が、出雲神という「地方神」を、公式的に認めたこととなる。(史実としての出雲大社の建造は、これもまた律令制開始時期の奈良時代だと考えられる)。
 また、土師氏の祖の野見宿禰(のみのすくね)が提案で、皇族が亡くなった際に、殉死の代わりに「土の像(埴輪)」を用いることが制度化された。
 史実として埴輪制作が始まった時が垂仁天皇の治世であるとするのは短絡的で、この神話は、生贄的祭祀から儀礼的な祭祀への転換を伝えている。
 こうしたことから、竹野媛が、”いと醜き”という理由で選ばれず、その竹野媛が向日山で堕ちて亡くなったという物語も、こうした祭祀の転換を象徴的に伝えているのだと思われる。
 そのことを洞察するためのポイントが、西日本では珍しい縄文時代の祭祀道具である石棒と、「竹野」の関わりだ。
 石棒は、男性器を模した豊穣祈願や生殖祈願のための石製の祭祀具であると考えられている。
 この男性性との儀礼的対称関係として、その祭祀を司っていたのは巫女の可能性が高く、竹野媛は、そうした女性巫女による「天地交合・豊穣儀礼」を象徴している可能性が高い。
 第11代垂仁天皇に忌避された竹野媛が、帰郷する際に向日山で堕ちて亡くなったという物語は、女性巫女を軸にした祭祀の終了を告げているのではないだろうか。
 祭祀の中心が女性から男性へと転換した事例が、第10代崇神天皇の時代にも起きており、疫病が流行して多くの人命が失われた時、豊鍬入姫命や渟名城入媛や倭迹々日百襲姫命に祀らせたけれど効果はなく、崇神天皇の夢に出てきた大物主命が告げるままに大田田根子賀茂氏の祖)に祀らせることで鎮まったというエピソードがある。
 縄文時代弥生時代古墳時代と、学校の教科書では歴史的に分けて説明されるが、時代の変遷において変化したところと、変化していなかったことがある。
 弥生時代の銅鐸の中には、縄文土器のパターンが引き継がれているし、銅鐸の幾何学的文様は、弥生時代後期の吉備の「特殊器台」に引き継がれ、特殊器台が、前方後円墳の円筒埴輪になっていく。それらの祭祀の引き継ぎに役割を果たした人たちがいて、その一つが、土師氏と呼ばれる人たちだ。
 土師氏は、神話の中では、殉死にかえて埴輪を埋めることを提案したとされる野見宿禰の末裔とされる。
 豊岡の竹野は、『国司文書 但馬故事記』に、「第21代雄略天皇17年春4月、出雲国土師連の祖である吾笥の部属、阿故氏人などが部属を率いて、阿故谷に来て、清器を作る」とある。
 阿故は赤土で、この場所は、須恵器を作るのに適した地だったと考えられ、近くには県下最古ともされる須恵器窯跡が検出されている。
 竹野媛が亡くなった堕国(京都府向日山)もまた、土師氏と関わりの深い泊橿部(はつかしべ)が活動していたところだった。この部民は、洪水が多かった鴨川と桂川の合流点の治水に治水に従事していたとされるが、泊橿部(はつかしべ)は、洪水対策のための人柱にも関係していて、その人柱が巫女だった可能性がある。
 古墳への埋葬において人柱をやめて埴輪にした時、土師氏という名を賜ったとされるので、それ以前の呼ばれ方が、泊橿部(はつかしべ)なのかもしれない。はつかしい=羞であり、羞というのは、古代、犠牲を神に薦(すす)めることを表す。そして、”はじ”が、土師に転化したのではないだろうか。
 つまり、垂仁天皇に選ばれなかった竹野媛が、向日山で、恥じて、堕ちて亡くなったという物語は、垂仁天皇の時代に殉死が亡くなったという物語と重なっていて、巫女の犠牲による祭祀の終焉を象徴しているのだろう。

羽束師坐高御産日神社(はづかしにますたかみむすびじんじゃ)。通称、はづかし神社だ。竹野媛の霊を祀っているとされる。

 この祭祀の転換は、特に向日山だけのことではなかったはずだが、向日山が、縄文時代の石棒、弥生時代の銅鐸と、近畿では珍しく両時代の祭祀の痕跡を残す場所で、さらにこの場所には古墳時代三角縁神獣鏡を副葬品とする古墳も残り、そのうえ第26代継体天皇が弟国宮を築いた場所でもあり、祭祀の変遷を確認できる特別な場所だったからこそ、神話を記録するうえで特に選ばれたのだろう。
 向日山には、そのことを裏付ける特殊な痕跡が残っており、それは向日神社の境内に残る御霊神社だ。
 御霊神社というのは、無念の死を遂げたものの魂を鎮めて、その祟りを封じ、守神へと転換させる祭祀を行う神社であり、一般的には桓武天皇の弟の早良親王井上内親王菅原道真崇徳天皇などが祀られている。しかし、向日山の御霊神社は、イザナギイザナミが祭神であり、私が知る限り、この二神が祭神の御霊神社は、日本でここだけである。(他の場所であれば教えてほしい)。
 なぜ、向日山の御霊神社でイザナギイザナミの魂を鎮めなけれないけないのか、どの文献にも理由が書かれていないので、洞察するしかない。
 その理由は、おそらく、向日神社の祭神が、火雷神であることと関係している。 
 火雷神は、古事記のなかで、イザナミの死と関わっている。イザナミは、カグツチという火の神を産んだ後、黄泉の国に送られてしまうが、その身体の八箇所に雷神が取り憑いており、心臓のある胸のところに火雷神が取り憑いていた。
 この火雷神主祭神として祀る聖域は限られており、向日山以外では、奈良県葛城の笛吹神社が代表的なところとなる。おそらく、この場所が、火雷神の聖域としては本拠であり、なぜならここは、5世紀に来日した韓鍛治の技術者集団である忍海漢人の拠点だからだ。
 5世紀以降の鍛治技術は、それまでの鍛治が鍛鉄技術(熱く熱した鉄塊をハンマーなどで叩いて形を整えるもので、この技術は、弥生時代にも存在していた)であったのに対して、鋳鉄技術(溶かした鉄を鋳型に流し込んで形を整える)であり、鋳型のために、高温で焼き固めた須恵器作りの技術が必要になる。
 鋳鉄の鍛治技術は、砂鉄や鉄鉱石を鍛鉄の鍛治技術よりも高温で溶かす必要があり、さらに須恵器を焼くための高温の窯技術が必要になる。
 この技術によって農具だけでなく武器の大量生産も可能になり、そのため、5世紀以降の古墳の副葬品には、鉄製品の農具や武器が非常に多い。つまり、この新しい技術を境に、時代は大きく変化したのだ。
 忍海漢人は、記紀においても推古天皇新羅討伐の時に武器作りに関与したことが記録されており、おそらく6世紀はじめ、継体天皇が即位し、新羅討伐の準備を進める際、継体天皇が宮を築いた弟国宮(向日山)に移住させられたのではないだろうか。
 忍海漢人は、氏神火雷神とともに、葛城から向日山に移住したのだ。
 つまり、イザナミを死に追いやったカグツチは、単なる火ではなく、鋳鉄技術に関わる高温の火であり、この火が社会にもたされることで、イザナミが死ぬということで暗示されているように自然界の陰陽のバランスが崩れた。これは、古代に起きた産業革命と、新たな武器による激しい戦いの幕開けを象徴している。
 こうした時代変化における祭祀として、もはや、それまでの女性巫女の祭祀では太刀打ちできなくなった。自然災害の時には人柱を立てたかもしれないが、自然災害よりも深刻な人災の時代に変わったのだ。
 新羅との戦いのために擁立された可能性が高い継体天皇が弟国宮を築いた向日山の御霊神社に、イザナミイザナギが祀られているのは、新しい産業技術が人間社会に災いをもたらすことを、カグツチの火で亡くなったイザナミイザナミの死は、陰陽のバランスが崩れるのでイザナギの死でもある)の怨霊化と重ねて、それを防ぐための鎮魂の祈りという形がとられているのだろう。御霊神社で祀られている無念の死を遂げた人々への祈りと同じく、反省と戒めが反映されているのだ。
 そして、この新しい産業化の時代の幕開けにおいて、祭祀の内容も変わる。
 具体的には、自然災害ではなく人災を気にかけているわけだから、祭祀の要に、禊や祓いが位置付けられた。まずは人間自身が身を清く保つことが重要だからだ。
 この祭祀を執行するのは中臣氏など男性の神職であり、はつかしい=羞=犠牲を神に薦(すす)める祭祀の要にいた女性の巫女は、瀬織津姫に象徴されるように、祓いの女神に転換した。
 かつての祭祀は、そのようにして新しい祭祀の中に組み込まれたのだ。
 従来の巫女の象徴である竹野媛は、向日山で堕ちて亡くなった。
 堕ちるというのは、ある秩序から逸脱する行為であり、否定・断絶であると同時に、再構築・変容の始まり。
 密教では、「堕ちる=穢れる」ことによって、人間の本質(欲・煩悩)に触れ、そこからこそ大きな覚醒が可能になるという逆説的教義がある。
 御霊神社=御霊会というのも、悪霊を守神に転換する逆説的教義であり、イザナミイザナギという国産みの神を御霊神社に祀る向日山は、時代の変遷による価値観の変容を、逆説的教義によって受け止めざるを得ない場だったのだ。
 地理的にこの場所は、宇治川、木津川、桂川の合流点に近いが、この三つの大河は、琵琶湖や丹波から日本海、大阪湾から瀬戸内海、奈良盆地から伊賀、鈴鹿、伊勢へと畿内の主要な場所を結ぶ巨大なネットワークである。
 そして、かつての大阪湾は今よりも広く、この三つの大河の合流点から瀬戸内海へは、もっと近かったわけで、遥かなる古代から、この場所は、大陸との接点だった可能性もある。
 縄文時代の石棒と弥生時代の銅鐸、そして古墳時代の幾つもの古墳が重なっている場所は、日本には他にない。
 この場所に、継体天皇が弟国宮を築き、桓武天皇長岡京を築き、そして明治政府が向日神社明治神宮のモデルにしたことは、決して偶然の重なりではないと思われる。

 明治天皇は、自ら北朝の系譜に属しながらも南朝を正統とした。
 つまり、自身の血統という狭い視点ではなく、国家を再編するためのイデオロギー的、政治的な正当性のために、明治天皇南朝を正当とした。
 「血統の枠組みを超えて」というところが大事であり、それは桓武天皇継体天皇も同じだからだ。
 明治政府にとって北朝というのは、武家支配下、つまり武家に屈していた王朝であり、南朝は、武家に屈しなかった。それゆえ南朝こそが「純粋な皇統」として相応しい。明治の「王政復古」は、建武の新政の再来でなければならない。
 歴史的事実としては、北朝こそが万世一系の流れのなかにあり、血統としては、明治天皇もまた北朝。しかし、血統や歴史的事実を踏まえれば矛盾となるのに、あえて「国体の正統性」を優先した政治判断が、南朝を正当とするということであり、これが、近代国家建設における象徴操作だった。
 その象徴操作のために、継体天皇桓武天皇という血統の枠組みを超えて即位した天皇が宮を築いた向日山を明治の王政復古と重ね合わせ、正当の拠り所にした。
 向日神社明治神宮のモデルになっている歴史の真相は、そこにあると思う。
 
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京都と東京でワークショップを行います。
<東京>2025年6月21日(土)、6月22日(日)
<京都>2025年7月26日(土)、7月27日(日)*亀岡のフィールドワークを予定。*いずれの日も、1日で終了。
 詳細、お申し込みは、ホームページでご確認ください。
https://www.kazetabi.jp/%E9%A2%A8%E5%A4%A9%E5%A1%BE-%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%97-%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC/
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新刊の「かんながらの道」も、ホームページで発売しております。

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阿古谷神社(豊岡市竹野町