第1367回 歴史の転換期における背後に隠れた力。

古代日本は、100年単位で、大きな変革を遂げている。

 西暦400年頃、後の東漢氏秦氏につながる渡来人が大挙してやってきて、この頃から古墳が超巨大になり、副葬品として、武器や馬具などが多く含まれるようになった。

 西暦500年は、今来という新しい渡来人が大挙してやって来て、訓読み日本語の創造や、後の官僚制につながる新しい政治機構をもたらした。豪族たちの氏姓制度なども、この頃から始まるが、この時代に即位したのが、第26代継体天皇だった。

 西暦600年は、17条憲法(604年)が制定された推古天皇の時代で、この頃の政治の中心、飛鳥の住民の80%以上が渡来系だったとされる。

 西暦700年は、大宝律令(701年)が制定され、律令制が確立していく時代だが、663年の白村江の戦いの敗戦の後、戦勝国の唐から戦後統治のように多くの人が派遣されていたことが日本書紀に残っているし、朝鮮半島新羅に滅ぼされた高句麗百済から多くの人々が渡ってきており、新しい体制作りの陰に、彼らの存在が見え隠れする。

 西暦800年は、平安京を築いた桓武天皇の時代である。桓武天皇の母、高野新笠は、百済系渡来人氏族の和氏の出身である。

 そして西暦900年は、菅原道真(901年に太宰府に左遷)を重用して政治改革を行おうとした宇多天皇の時代である。

 その政治改革の柱は、律令制の根幹だった人頭税制度が崩壊した状況の中での税制改革だった。人頭税から土地課税制度への移行。そのためには地方豪族の権限の拡大が必要で、そのことによって中央集権統治から地方分権統治への流れとなるため、これを支援する地方勢力が存在した。宇多天皇の擁立には、それらの勢力が関わっていた。

 菅原道真は、既得権組によって葬られたが、「道真の祟り」という事態の展開(陰の暗殺)で、反対派は一掃された。宇多天皇は、道真が亡くなった後も法皇として政務を行って改革を推進したが、この宇多天皇の母、班子女王は、渡来人の東漢氏系の当宗氏である。

 渡来系を母に持つ桓武天皇宇多天皇は、当初は天皇になる予定がなかった人物である。

 西暦500年代の継体天皇も、その前の武烈天皇が子を残さなかったという理由で、突如、天皇に擁立された。

 西暦600年代の推古天皇も39歳の時から35年という長期間、天皇に在位したが、もともとは敏達天皇の皇后であり、物部守屋穴穂部皇子の乱や、崇峻天皇の殺害を経て、急遽、即位することになった。

 また西暦700年代の大宝律令が制定された時の天皇文武天皇だが、まだ幼く、持統天皇太上天皇として政務を行い、710年の平城京への遷都も、文武天皇の母の元明天皇によって行われた。

 こうしてみると、西暦500年から100年間隔で起きていた大改革の時の天皇は、全て、天皇になる予定のなかった人物である。

 そして、その擁立の陰に、渡来人の存在が見え隠れしている。

 500年代の継体天皇と、600年代の推古天皇に共通するポイントが幾つかある。

 まず、この二人の天皇の石棺は、熊本の宇土という場所で採掘された阿蘇のピンク石を使った家形石棺である。

 阿蘇のピンク石を使った石棺は、全国的にも珍しく、近畿で11基、岡山で2基発見されているが、そのうち家形石棺は5基だけであり、この二人の天皇以外は、天理に1基、近江の三上山の麓に2基である。

 推古天皇の諱(本名)は、額田部皇女である。これは、額田部氏が推古天皇を養育したからだとされるが、おそらく、推古天皇の母の堅塩媛(欽明天皇の妃になった)が、父は蘇我稲目だが、母が額田部氏の一族だったのではないか?

 『正倉院丹裹文書』には、肥後国宇土郡大宅郷戸主額田君得万呂…」という一文が記されており、阿蘇のピンク石を産出する熊本の宇土に、額田部君得万呂という人物がいた記録が残っている。

新撰姓氏録』では、東漢氏の祖の阿知使主とともに渡来系技術者たちの中に額田村主がいる。

 その後裔にあたる額田部氏は、鍛冶の神、天御影命を祖神とするとともに、馬飼集団・馬匹文化に関係が深かったことが、幾つかの記録に残っている。

新撰姓氏録』によれば、雄略天皇の時代に大臣として活躍した平群真鳥の弟の早良宿禰は、母の氏である額田首を名乗り、平群県で馬を養育し、馬を天皇に献上したことで馬工連の姓を賜り、馬の飼育について任されたという。また、宿禰が馬を養育したところが生駒であるという。

 この記録は、額田部と平群が、婚姻を通じて同族になっていることを示しているが、平群は、海人の紀氏とも同族である。

 奈良県生駒郡平群町大和川の支流の竜田川沿いに平群坐紀氏神社という名神大社が鎮座している。この神社は、紀氏の氏神を祀る神社であるが、その氏神とは木菟(つく)宿禰という平群氏の伝説上の祖なのだ。

 そして、この平群坐紀氏神社の近くに、6世紀後半に築造された三里古墳があるが、この古墳は、紀氏の拠点である紀ノ川下流域に特徴的な石棚付石室を持っている。

 これらの痕跡から判断して、海人族の紀氏と、生駒で馬の飼育を行っていた平群氏と、鍛冶技術を持っていた額田部氏は、婚姻を通じて一つになっていた。

 『肥前国風土記』の記録では、海人族が「騎射(うまゆみ)を好み」とあり、海人族は、船で馬を運んで騎射を行うという戦闘集団でもおり、この力が、時代の転換期に大きな役割を果たした可能性がある。

 継体天皇が出現した6世紀初頭、国内外の情勢は大きく変わった。

 海外では新羅の台頭。日本国内では、今来という渡来人が大挙してやってきた。

 この転換期に即位した継体天皇は、527年、新羅に奪われた任那の土地を回復するため、近江毛野を将軍とする6万人の兵を送ったが、この計画を知った新羅は、筑紫国造の磐井へ贈賄し、進軍の妨害を要請した。それを受けて磐井は挙兵し、磐井の乱が起きたが、この戦いは、『筑後国風土記』では「官軍が急に襲撃してきた」と記録されている。

 継体天皇と、紀氏(平群氏・額田部氏)勢力との関係を考古学的に示すものは幾つかあり、一つは、額田部氏の氏寺として知られる額安寺がある奈良県大和郡山市額田部に築かれた額田部狐塚古墳だ。継体天皇の時代の6世紀前半に作られた全長50mの前方後円墳だが、継体大王の擁立に関わったされる尾張、近江、山城、摂津地域の古墳で使われた尾張系の埴輪が使用されており、大和ではこの古墳が初出であるため、被葬者は、継体天皇を支えた人物の可能性が考えられている。

 そして、紀氏と関わりの深い石棚付き石室を持つ古墳が集中する紀ノ川下流域の岩橋千塚古墳群は約600基もの古墳から構成されるが、その中で初期段階の代表的な古墳が大日山35号墳で、継体天皇と同じ6世紀前半に建造された。これは、標高141mの大日山山頂に立地する墳丘長86mと和歌山県で二番目の大きさを誇る前方後円墳だが、副葬品が非常に豊かであり、玉の装身具や須恵器の他に、鉄製の武器や、馬具が出土している。そして、家形埴輪や馬形埴輪の一部が、継体天皇の今城塚古墳との共通性が指摘されている。

 ここから東1.5kmのところ、標高155mの天王塚山山頂に築かれた墳丘長88mと和歌山最大の古墳が天王塚古墳(6世紀中旬)がある。

 この古墳も石棚付き石室構造だが、石室の高さが5.9メートルで全国では第2位である。須恵器や玉類など装飾品以外に、馬具や鉄鏃などが出土している。

 そして、石室の高さが6.5mで全国一位なのが熊本の大野窟古墳で、この古墳は6世紀中旬以降に作られ、墳丘長は122.8m。この時期の古墳としても最大規模を誇る前方後円墳だが、この古墳もまた石棚付石室を持っている。

 そして、この大野窟古墳の場所が、阿蘇のピンク石の採掘場で額田部の名が残る宇土の馬門から南東15kmの球磨川の河口地帯なのだ。

 さらに、この石棚付き石室は、瀬戸内海を取り囲むように分布しており、九州の有明海と、瀬戸内海と、近畿の紀ノ川、そして、大和川のそばの生駒山地の麓が、紀氏(平群氏=額田部氏)の勢力によってつなげられ、継体天皇を背後で支えていたことを暗に示している。

 考古学的な判断だけでなく、地理的にも、継体天皇と紀氏(平群氏=額田部氏)との関係を暗示するような痕跡が残っている。

 継体天皇は、奈良に入る前に三つの宮を築いたが、その2番目の筒城宮(京田辺市)は、東経135.77で、その真南23kmに額田部氏の氏寺の額安寺があり、この周辺は額田部氏関係の古墳も多く、そのうちの一つが、継体天皇とつながりを示す埴輪が出土した額田部狐塚古墳だ。

 さらに、継体天皇の1番目の樟葉宮(枚方市)と3番名の弟国宮は、東経135.70だが、樟葉宮の真南27kmが、生駒山地麓の平群坐紀氏神社である。

 さらに、この平群坐紀氏神社から真南18kmが、火雷神を祭神とする葛城の笛吹神社で、このあたりは鍛冶技術を持った忍海氏の拠点だった。

 継体天皇の皇后である手白香皇女の父、仁賢天皇が子供の頃、雄略天皇による殺害から守っていたのが、この忍海氏だった。

 忍海氏は、推古天皇の時代、来目皇子による新羅遠征において武器を製造したことが、『肥前風土記』に記録されている。

 また、忍海氏の拠点に鎮座する笛吹神社の祭神の火雷神は、継体天皇の弟国宮に鎮座する向日神社にも祀られている。

 さらに地理的に興味深いことがある。

新撰姓氏録』では、鍛冶と馬に関係していた額田部氏の祖神は、鍛冶の神の天御影命とされているが、天御影命と、額田部と、鍛冶、馬と関係する場所を東西に一直線に結ぶラインが、北緯35.06上に展開している。

額田神社と、額田神社のそばを流れる員弁川(三重県桑名市)。

 その一番西、三重県の員弁川流域の桑名市の額田の地には額田廃寺跡が残り、額田神社が鎮座している。周辺では、高温の火力を使う須恵器の生産跡が見つかっている。

 ここから真西43kmが滋賀県の蒲生の地で、数多くの古墳が築かれている雪野山の南に蛭子田遺跡がある。この場所からは、5世紀後半~6世紀前半の木製のつぼ鐙(あぶみ)が出土した。鐙は乗馬時に鞍からつり下げ足を乗せる馬具だが、木製のものとしては最古級で、この地域が乗馬の文化をいち早く導入したことを示している。

 また、このあたりは、薬草のムラサキ刈が行われていた場所で、万葉集の歌で有名な「茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」の舞台であり、この歌を詠んだ天武天皇の妻、額田部姫王の父は、この地域を拠点としていたとされ、ここにも額田部の名が関わってくる。雪野山の西にそびえる鏡山周辺は、須恵器の大生産地で、渡来系の天日槍の伝承地である。

木村古墳群(東近江市)。雪野山と玉緒山との間に挟まれた平野部の南側に、 滋賀県下では最大規模の古墳群がある。

 ここから10km西が、天御影命が降臨したとされる近江富士の三上山であり、この北麓に、継体天皇推古天皇の石棺と同じ阿蘇のピンク石の家形石棺が二基発見されている。そして、三上山の西麓の野洲川を西に超えたところは出庭遺跡があり、鍛冶工房とみられる建物群が13棟発見され、その規模は全国最多とされる。

 そして、三上山から20km西が比叡山の西麓の御蔭山で、ここが京都の賀茂系神社の元宮で、賀茂建角身命は、ここに降臨したとされる。

比叡山の西、御蔭山の麓の御蔭神社。京都の賀茂神社の元宮。

 ここから5km東が上賀茂神社で、祭神の賀茂別雷命の父は、継体天皇の弟国宮に鎮座する向日神社火雷神である。

 上賀茂神社からさらにラインを西に行くと、京都の高雄の神護寺で、このあたりは、鉄製品を磨き上げる砥石の産地であり、その品質は世界一とされる。

 さらに西に行くと、火の神カグツチ火雷神を祀る愛宕山を通り、亀岡の御影山であり、その麓に出雲大神宮が鎮座している。

亀岡の出雲大神宮の磐座。この磐座群の背後が、神体山の御影山。

 さらに西に行くと、亀岡の拝田古墳群で、ここにも継体天皇の時代に作られた石棚付き石室を持つ古墳がある。亀岡は、紀ノ川下流域に次いで、石棚付き石室を持つ古墳の集中地帯で、この拝田古墳群を北端とし、ここから桂川西岸の丘陵地帯に、南北ライン上に点在している。

 この拝田古墳群あたりも砥石の産地で、中砥に使う青砥の品質が世界一とされる。

 古代、武人は戦場に必ず砥石を持参したと言われる。鉄製品は、砥石で砥ぐことによって道具として完成するのである。

 また、亀岡盆地は、高熱の窯を使う須恵器の生産においては日本有数の場所だった。

 亀岡盆地の北には由良川が流れ、若狭湾へとつながり、桂川を遡れば、鞍馬山の北の花背が源流で、そこから安曇川を下れば、継体天皇の生誕の地、近江高島に到ることができるし、逆に亀岡から桂川を下れば継体天皇の三つの宮に到ることができる。亀岡は内陸部に位置しているが、古代、水上交通の要だった。

 亀岡の拝田古墳群から22km真西が、丹羽篠山で、この東西ライン上に洞中古墳群がある。これは6世紀の前方後円墳だが、巨石を用いた石室全長約15メートルにもなる丹波地方で最大規模の横穴式石室を持つ。付近には、数基の古墳や須恵器の窯跡もある。

 このあたりは、猪名川武庫川の源流で、加古川の支流の篠山川とつながっている。

 猪名川下流域は、渡来人が入植した場所だが、尼崎市猪名川西岸に額田町があり、この場所で、畿内の先進鍛冶工房集落、若王寺遺跡が見つかっている。

 また、この猪名川流域に住んでいた渡来人の「猪名部」が、この東西ラインの西端の三重県桑名に移り住んだことで、員弁(いなべ)という呼称になったとする伝承がある。

 そして、猪名川の源流である丹波篠山から篠山川を真西に進むと加古川流域の西脇となり、ここは、鍛冶の神、天御影命の別名の天目一命の聖域である。西脇で加古川に合流する杉原川に沿って、多可の鍛冶屋まで、かつてJRの鍛冶屋線があった。

 播磨国風土記多可郡の記録に、次のような話がある。

 「ここに道主日女命という名の神がいる。父なくして子を生んだため、盟酒(うけひさけ / 神意を判断するための酒)を醸すために七町の田を作ると七日七夜の間に稲が実った。酒を醸して諸神を集め、その子に父神へ酒を捧げさせたところ、天目一命に奉った。それでその父を知った。」

 播磨の多可郡において、父がわからなかったために子に父神に酒を捧げさせたところ、天目一命が父だとわかったという話は、京都の上賀茂神社の祭神、賀茂別雷命の誕生に関する話と同じである。玉依姫が鴨川を流れていた丹塗矢を持ち帰り、生まれたのが賀茂別雷命だった。この丹塗矢が何ものかわからなかったので、賀茂別雷命が成人した時の祝宴の席で、祖父の賀茂建角身命が「汝の父と思はむ人に此の酒を飮ましめよ」と言ったところ、賀茂別雷命は屋根を突き抜け天に昇っていき、丹塗矢の正体が、乙訓(弟国)の火雷神とわかった。

 弟国の火雷神も、播磨の天目一命も、鍛冶と関わる神であるが、当初は、何ものなのかわからないというエピソードを共有している。

 不思議なことに、何ものなのかわからなかった天目一命の伝承のある播磨の多可から、三重県桑名市の額田までの東西ラインの距離は156kmだが、この真ん中の78kmのところが、賀茂建角身命(ヤタガラス)の聖域である下鴨神社で、その真南が、継体天皇の筒城宮、さらにその真南が額田部氏の氏寺の額安寺であり、この近くには、継体天皇を支えたと考えられる人物が被葬者の額田部狐塚古墳がある。

 阿蘇のピンク石でつながる継体天皇推古天皇(額田部皇女)という西暦500年と600年の転換期の天皇と、馬や鉄製品の関係地が結びつき、その背後に、天御影命(天目一命)や火雷神という、当初は何ものかよくわからない存在が見え隠れする。

 天御影命の「影」というのは、背後に隠れているという意味もある。

近江富士の三上山山頂。天御影命が降臨したとされる磐座。

 近江の三上山に降臨したとされる天御影命は、神話上のことであると思うが、天皇家の血統においても、重要な位置を占めている。

 天御影命の娘の息長水依姫が、日子坐王と結ばれ、その子供の丹波道主の娘の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が第11代垂仁天皇に嫁ぎ、景行天皇や、アマテラスを伊勢の地に祀ったとされる倭姫命や、大刀1千口を石上神宮に納めた五十瓊敷入彦命を産んだことになっているからである。

 ヤマトタケルの父である景行天皇倭姫命五十瓊敷入彦命などが神話上の存在だとしても、これらの人物が天御影命から始まったと敢えて記録されているというのは、何かしらの意図があるのだろう。

 鉄製品の製造は、古代、社会構造を大きく変化させたことは間違いなく、生産性の向上という恩恵だけでなく、戦いの激化など混乱も生み出したはずである。そうした構造変化に対応するためには、国の治め方も変える必要があり、その時、統治者になる者には、それなりの支援勢力が必要だった。

 推古天皇など個人の力で歴史は動かず、影の存在が関わっていたことは間違いないのだが、彼らの多くは、渡来系だった。しかし、弥生時代から何段階も経て、日本には多くの渡来人がやってきており、そのたびに新しい知識や技術や制度をもたらし、その積み重ねが日本だから、渡来系とそれ以外の線引きは、あまり意味がなく、複雑に重なっている。上に述べた桓武天皇宇多天皇の血統からもわかるように、天皇家も、明らかに渡来系の血を受け継いでいる。

 それらの複雑な重なりと、広い範囲でのつながりは、おそらく当時の人たちの意図があったのだと思うが、千年を超える未来にも伝わるメッセージを秘めるかのように、地理上に精確に、計画的に刻印されている。

 当初は何であるかわからないが、伝承と歴史的遺物と地理上の位置関係を丁寧に織り込んでいくうちに、少しずつ確かなものが浮かび上がってくるように。

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