第1197回 飛鳥の檜隈と八角墳を結ぶ謎。

 

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(東経135.80のライン。上から天智天皇陵、宇治平等院、木津川の曲がり、平城京藤原京天武天皇陵)

 

 近畿のほぼ真ん中を南北に走る東経135.80は、どうにも怪しい。

 このラインと平行して東側に、奈良盆地の南端から京都の山科盆地まで、ほぼ直線上に奈良盆地東縁断層帯が走り、断層帯にそって盆地の東縁に山岳地帯が南北に壁のように連なっている。

 この奈良盆地東縁断層帯は、日本の主な活断層の中でも活動度が高いグループに属しており、近畿圏で大きな地震発生がもっとも高い活断層だ。

 11,000年前から1200年前に、少なくとも1回、かなり大規模な断層活動があったと考えられている。つまり、地面が大きくズレたということであり、当然、大地震が発生する。

 この巨大断層の北端、山科盆地の北の端に、第38代天智天皇陵が作られている。東経135.807なのだが、ここから58kmほど真南のところ、まったく同じ東経135.807のところに、第40代天武天皇陵とされる檜隈大内陵がある。

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天武天皇持統天皇を合葬するとされる飛鳥の檜隈大内陵。)

 この二人の天皇は学校で必ず習う古代史におけるもっとも重要な天皇の二人であり、日本国の律令制の開始において欠かせない二人だ。

 だからかどうか、律令時代の都である藤原京平城京は、この東経135.80のところにある。

 律令時代、二人の天皇の魂が南北で守り、まつりごとの中心が、二人の天皇の陵を結ぶ南北のライン上に設けられているのだ。しかも、ともに八角墳である。

 これは決して偶然ではなく、かなり厳密に計画されたものだろう。

 この東経135.80の南端に位置する飛鳥の檜前の地に、キトラ古墳があり、石室内に四神と天文図の壁画が描かれている。

 通常、白虎は南を向いて描かれるのだが、このキトラ古墳の白虎は北を向いている。

 北の方角に睨みをきかせてヤマトの律令世界を霊的に守っているように見える。

 キトラ古墳が作られたのは、7世紀後半から8世紀にかけてなので、まさに律令時代の幕開けであり、この時代、天武天皇陰陽寮を設け、天文台も作り、自らも陰陽道を行なったと記録が残っている。なので、キトラ古墳の天文図も、時代背景からして驚くべきことではない。

 天体の星の位置とか、方位とか、その当時、かなりのレベルで把握されており、方位の霊性で国を守護するという思想もあったわけだから、東経135.80上に聖域を並べることなど、決して特殊なことではなかっただろう。

 ただ、陰陽道をはじめとする知識は、日本古来のものでなく、渡来人がもたらしたものだ。

 とくに、5世紀後半の第21代雄略天皇の頃に百済を通じてやってきた百済人や漢人が、日本の新体制づくりに大きな力を発揮した。今来(いまき)と呼ばれる人たちで、現在、我々が使っている訓読みの日本語も彼らの発明とされている。

 技術や知識だけでなく、政治的な仕組み、古代日本の部民制も、彼らによって整えられた。

 これは、専門的な仕事を通じて大王や豪族に仕える仕組みであり、この新しい社会的秩序が、日本の各地域に広がっていったことを意味しており、それは様々な地域が世界観を共有することにつながる。

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(左:キトラ古墳。右:高松塚古墳。装飾古墳で有名になった二つの古墳は、渡来系の東漢氏の氏寺である檜前寺のすぐ近くに存在し、作られた時代も7世紀後半から8世紀の初頭で同じである。)

 この今来の人たちが拠点としていたのが、キトラ古墳高松塚古墳といった装飾壁画で有名な古墳や、天武天皇陵などがある飛鳥の檜隈地域だ。

 今来の人たちの中心が、檜前寺のあったところで、この高台の地は、高天原のように360度、見渡す光景が素晴らしい。

 かつて檜隈寺があったところに、​​於美阿志神社(おみあしじんじゃ)が鎮座しており、阿知使主(あちのおみ)を祀っている。

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(左:於美阿志神社。右:檜前寺跡)

 阿知使主(あちのおみ)というのは、5世紀前半、応神天皇の頃に日本にやってきた渡来人、東漢氏を率いていた人物だ。

 この東漢氏が、雄略天皇の頃、新しい知識と技術を持った今来の人たちを、招き寄せ、自らの管理下においたとされる。

 東漢氏は、主に武力面、武器面において、古代日本において重要な役割を果たした。

 蘇我氏が滅ぼされた645年の乙巳の変大化の改新)や、天武天皇が勝利を果たした672年の壬申の乱においても、教科書では詳しく取り上げられていないが、東漢氏を味方につけるかどうかが勝負を決した。

 武力を備えた東漢氏は、新しい知識と技術を備えた今来の渡来人と、飛鳥の檜隈に拠点を設けて、新生日本を裏側から支えていた。

 山科の天智天皇陵と飛鳥の天武天皇陵を結ぶ南北のライン、東経135.80にはミステリーがいくつかあるが、その最大級の一つが、天武天皇陵(檜隈大内陵)から西北に1kmのところにある丸山古墳だ。

 この古墳は、全長が310m、周濠を含めると420mにもなり、日本で6番目の大古墳だが、上位の巨大古墳5つは、河内地方に四基、吉備に一基が建造されているが、いずれも5世紀初頭から中旬であるのに対し、この丸山古墳は、それより100年以上新しい6世紀後半のもので、奈良地方では最大である。

 さらに、5世紀の巨大古墳が円墳の上層部に縦穴式石室が作られているのに対して、この丸山古墳は、墳丘の横から出入りできる横穴式古墳で、2つの家形石棺が石室内に設置されている。

 横穴式石室は、高句麗の影響が朝鮮半島を経由して日本に伝播したものと考えられている。4世紀後半から5世紀にかけては各地に作られていたが、全国的に普及していくのは6世紀になってからである。

 縦穴式石室と横穴式石室では、構造だけの違いではなく、死生観の違いがある。

 縦穴式の場合、巨大な石を上から被せて蓋をするので、一度閉めたら開けないことが前提になっている。そして一つの石室に一人の王の棺であり、死んだ王は天に昇っていって神となり、祖先霊として共同体を守る。

 それに対して横穴式石室は横の通路から出入りができるため、後から死んだ者の棺も石室内に運び込まれて複数の石棺が残されているケースが大半だ。

 横穴式の石室内の王は、地上の権力者であったかもしれないが、死んで神となっていない。(その棺が納められた場所に、世俗の人間が出入りできるのだから)。

 だとすると、この日本で6番目の巨大さを誇る丸山古墳は、5世紀の大王のように天と地に君臨する神のような王ではなく、地上の王ということになる。

 そして、この丸山古墳の石室は、全長28.4mで、日本一の大きさである。蘇我馬子の墓として知られる有名な石舞台古墳の石室が全長19.4mなので、それよりも10mも大きい。

 そして、通常の古墳であれば、石室は墳墓の真ん中に設置されているが、この丸山古墳は墳丘が巨大すぎるためか、石室が、墳丘まで真ん中まで到達していないという特殊性がある。

 この古墳は、天武天皇陵の候補地でもあったが、考古学的に紀元6世紀後半に築かれたと考えられているので、時代としては、第29代欽明天皇蘇我稲目の時代となる。

 宮内庁欽明天皇陵としているのは、ここから南に700mほど行ったところ、同じ東経135.80で、天武天皇陵とされる檜隈大内陵と並ぶように築かれている梅山古墳だが、梅山古墳は蘇我稲目の墓という説もある。

 巨大な軍艦のような丸山古墳は、飛鳥の地の真ん中に位置しており、その上に立てば、360度、大和地方のパノラマを見渡すことができる。

 二上山金剛山、そして畝傍山耳成山、香具山といった大和三山三輪山といった特徴のある山々の姿が確認できるので、藤原京など、重要な拠点や聖域の場所も、手に取るように把握でき、丸山古墳は、ヤマトの統治を象徴しているように感じられる。それだけ大きな権力者であるとも考えられるが、一人の権力者の力というより、彼の時代に、広範囲に及ぶ統治力を備えたシステムが作り上げられ、その統治システムの象徴の場に、この時代の代表者が埋葬されたと考えることも可能だろう。

 だとすると、丸山古墳の被葬者は、飛鳥時代欽明天皇こそが相応しいという気がする。

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(巨大な軍艦のような丸山古墳。右は、前方部分の端からの眺め)

 欽明天皇は、学校の教科書では仏教伝来と結びつけられ、蘇我氏の興隆のきっかけとして教わるくらいだ。

 しかし、欽明天皇という名は奈良時代後半の貴族、淡海三船(おうみ の みふね)によってつけられたもので、正式な名は、「あめくにおしはるきひろにわのすめらみこと」である。

 「あめくに おしはるき ひろにわ」という言葉は、巨大な丸山古墳の上から見渡す世界と重なる。

 欽明天皇は、父親が、近江から福井のかけて大きな勢力を誇っていた第26代継体天皇で、母親が、第24代仁賢天皇の娘の手白香皇女である。つまり、古くからの大和の勢力と、日本海を中心にした勢力の両方の血を受け継いでいる。

 継体天皇は、もともと天皇に即位する予定などなかったが、突如、天皇として担ぎ出された。しかし継体天皇は、507年に天皇に即位した後、19年間、大和の地に入らず、京都の向日山(桂川のそば)や京田辺(木津川のそば)、桂川、木津川、宇治川の合流点に宮を築いて、そのあいだに、九州の磐井の乱の平定などを行なっていた。

 そして526年にようやく大和の磐余(桜井市)に宮を築く。

 なぜか、継体天皇は、20年近く、大和の地を避けていた。これは古代史の謎の一つであるが、継体天皇が、大和をバックグランドとしない別の勢力の代表であったからだろう。

 しかし、大和をバックグラウンドにする勢力の娘である手白香が継体天皇と結ばれて生まれた子供、欽明天皇が、第29代天皇に即位した。この時、欽明天皇のもとで、二つの勢力が一つになり、飛鳥時代が始まったのだ。

 丸山古墳から西に1kmほどのところ、岩船山頂上付近に、硬い石英閃緑岩で作られた石造建造物がある。

 益田岩船と呼ばれるこの岩は、江戸時代には観光地として存在が知られていた。

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(益田岩船)

 東西約11メートル、南北約8メートル、高さ約4.7メートル(北側)の大きさがあり、その上部に幅1.6メートルの溝が東西に掘られており、さらにその溝に、1辺1.6メートル深さ1.3メートルの方形の穴が、1.4メートルの間隔を開けて二つくり抜かれている。

 この巨大で奇妙な岩の人工物がいったい何であるのか、色々な説があるが、石棺式の石室であるという説が有力視されている。

 石の加工が終わった後、横に倒して運び、くり抜いた穴に二つの遺体を収めることを目的として作られたのではないかと。

 こうした石棺式の石室は非常に珍しいが、この益田岩船から南東500mのところにある牽牛子塚(けんごしずか)古墳が、この石造建造物と同じ構造を持つ石棺式石室を用いている。ゆえに、この益田岩船は、当初、牽牛子塚古墳用の石棺を作ろうとして、途中で作業が放棄されたのではないか、というのが有力な説なのだ。

 牽牛子塚古墳は、天武天皇天智天皇の陵墓と同じ八角墳で、専門家のあいだでは、この二人の天皇の母親の斉明天皇の陵墓であるとみなされている。(宮内庁は、ここより2.4km西の越智崗上陵としている)。

 高槻の継体天皇陵である今城塚古墳と同じく、宮内庁天皇陵とみなしていないので発掘作業ができ、その成果によって、専門家のあいだでは、牽牛子塚古墳が斉明天皇陵で間違いないという見解に到っている。

 天智天皇天武天皇という古代史を解く上で最も重要な二人の天皇の陵が、近畿地方の真ん中を南北に貫く東経135.80の北端と南端に築かれていることを、前々回のエントリーで紹介した。

 この東経135.80の謎の一つとして丸山古墳のことを前回書いたが、さらに一つ、古代史の中でも最大級の秘密が、このラインに隠れている。それは、八角墳だ。

 日本には16万基ほどの古墳が存在するが、八角墳として認められているのは、わずか14基で、そのうち2基が、東経135.807に築かれた山科の天智天皇陵と、飛鳥檜前の天武天皇陵だが、4つの八角が東経135.80の天武天皇陵の周りに存在する。

 第37代斉明天皇の牽牛子塚古墳と、天武天皇の子供の草壁皇子の束明神古墳、専門家のあいだでは草壁皇子の息子である第42代文武天皇の陵墓とされる中尾山古墳、残りの一つは、斉明天皇の陵墓の候補だった岩屋山古墳だ。

 そして、天武天皇陵から8kmほど東に行った奈良県桜井市にある段ノ塚古墳は、天智天皇天武天皇の父である舒明天皇陵と考えられており。

 東経135.80を軸にした近畿の7つの八角墳は、舒明天皇斉明天皇夫婦の血縁のものばかりである。

 そして、残りの7つの八角墳のうち、1つは鳥取市国府町の梶山古墳で、この古墳の石室には、魚や同心円、三角文などの彩色壁画が描かれている。

 被葬者は、日本書紀において675年に天武天皇によって因幡に流されたと記録される麻績王(おみのおう)ではないかとされている。

 麻績王が何者かは謎であるが、壬申の乱(672年)で天武天皇に敗れて自害したとされる大友皇子ではないかという説もある。

 大友皇子であれば、天智天皇の子供なので、八角墳の一族に該当する。

 そして、兵庫県宝塚市中山荘園古墳も八角墳であり、この古墳は、奈良の桜井にある舒明天皇陵と、因幡の梶山古墳を結んだライン上に築かれている。

 被葬者は、すぐ近くに鎮座する売布神社の周辺が物部氏一族の若湯坐氏が支配していた地域とされ、その関連性が指摘されている。しかし、そもそも若湯坐(わかゆえ)というのは、貴人の養育にあたる者(壬生)で、だとすると、八角墳に関連する大王の養育葬られている人物である凡海(おおあま)氏の存在が気になる。凡海氏は安曇氏の一族であるが、大海人皇子天武天皇)の名は、凡海(おおあま)氏の女性が皇子の乳母であったことから付けられたものだ。そして、凡海氏は摂津を拠点としていた。

 こうして見ていくと、14基の八角墳のうち、近畿にある8基が、天武天皇と関係の深い王や皇子のもので、1基が、天武天皇の養育者である可能性が高い。

 そして、残りの八角墳は5基であるが、すべて関東に存在しているのだが、その古墳の配置に規則性が見られる。

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(全国にある八角墳は14基。水色が八角墳。近畿の真ん中、奈良盆地東縁断層帯にそった東経135.807に、八角墳の天智天皇陵(京都府山科)と天武天皇陵(奈良県飛鳥)が存在する。天武天皇陵のまわりに、斉明天皇陵候補が2つと、草壁王子陵、文武天皇陵があり、奈良の桜井市舒明天皇陵がある。そして、この7基以外の7基は、関東に5基、鳥取に1基、兵庫の宝塚の1基。奈良の舒明天皇陵と、宝塚の中山荘園古墳を結ぶラインの延長が、鳥取の梶山古墳。宝塚の中山荘園古墳と山科の天智天皇陵の延長が、群馬の伊勢塚古墳。檜前の天武天皇陵と桜井市舒明天皇陵を結び、その延長が山梨の経塚古墳、筑波山、茨城の吉田古墳。笛吹の経塚古墳と、群馬の伊勢塚古墳と、東京の稲荷塚古墳の位置を結ぶと、二等辺三角形になる。そして、赤いマークの伊勢神宮と淡路の伊奘諾神宮は、飛鳥の檜隈から等距離で東西の位置にあり、和歌山の日前神宮の「日前」は、ひのくまと呼び、ひのくま大神を祀っているが、関東の八角墳と、飛鳥の檜隈の八角墳集中地帯を結ぶライン上に位置している。

 

 山梨県笛吹市の経塚古墳と、東京都多摩市の稲荷塚古墳は北緯35.63で、東西のライン上に築かれている。この二つの古墳の中心から真北の群馬県藤岡市に伊勢塚古墳があり、さらにその真北、群馬県榛名山赤城山のあいだに三津屋古墳がある。

 笛吹市の経塚古墳も、東京の稲荷塚古墳も、甲斐国武蔵国国府国分寺が築かれた場所の近くである。

 また群馬の三津屋古墳のところも、上野国(こうずけのくに)の国府の近くで、伊勢塚古墳の群馬県藤岡市は、土師氏の拠点で埴輪の供給地だった。その後、須恵器窯から瓦窯へと発展し近代まで瓦製造業が継承された場所である。

 また、茨城県水戸市の吉田古墳の周辺は、愛宕山古墳など古墳群や、十五郎穴(横穴墓群)、磯浜古墳群などがあるが、これらは、那賀国造との関係が考えられている。

 那賀国造は、皇別氏族屈指の古族である多氏と同族であるが、この多氏というのは、古事記編纂を行った太安万侶などもそうなのだが、実態がよくわからないところがある。

 近畿での活動以外では、阿蘇や筑紫、尾張信濃など、九州と東国で、国造など実力者になった者が多い。また阿蘇や諏訪など、国造だった氏族が、後に、その土地の宗教的権威となっているケースも多い。

 多氏は、神武天皇の子、神八井耳命(かんやいみみのみこと)の末裔としている。神八井耳命というのは、日本書紀の記録によれば、手研耳命(たぎしみみのみこと)との戦いにおいて手足が震えて矢を射ることができず、代わりに弟の神渟名川耳(かむぬなかわみみのみこと)が射て殺したのだが、その失態を深く恥じて弟に皇位をすすめ、自分は天皇を助けて神祇を掌ることとなった、とされる人物である。

 これが史実かどうかわからないが、多氏が、この神八井耳命を祖としているということは、自分たちの役割を、「神祇を掌ることで天皇を助けること」とみなしているということだろう。

 宗教的な権威によって大王を奉り、その権威の力によって国を一つにする仕組みが考案され、地方に拠点が張り巡らされた。その地方の拠点に、多氏が深く関わっているということになる。

 こうして見ていくと、関東の5つの八角墳の場所は、古代の重要拠点であり、それらの地と近畿の八角墳が、不思議なラインで結ばれている。

 地図を見ればわかるように、飛鳥の八角墳が集中する檜隈から、奈良桜井市舒明天皇陵(段ノ塚古墳)を結ぶラインを東に延長すると、山梨県笛吹市の経塚古墳を通り、茨城県水戸市の吉田古墳に至る。

 そして、兵庫県宝塚市の中山荘園古墳と、京都府山科市の天智天皇陵という八角墳を結ぶラインを東に延長すると、群馬の藤岡の伊勢塚古墳である。

 さらに、奈良の舒明天皇陵と宝塚の中山荘園古墳を結ぶラインを延長すると鳥取の梶山古墳だ。

 日本に14基しかない八角墳は、近畿と関東と鳥取で規則的なラインで結ばれている。

 また、茨城の水戸、山梨の笛吹と飛鳥檜前(ひのくま)を結ぶラインを西にのばした所は和歌山の日前(ひのくま)神宮であり、ここも「ひのくま」という名の神域である。

 和歌山の日前(ひのくま)神宮で祀られているのは、天岩戸の神話のなかで、アマテラスを岩戸の外に連れ出すために作った鏡であるが、実際には使われなかった鏡である。

 つまり、朝廷の三種の神器として、正当な鏡になれなかった鏡。

 飛鳥の「ひのくま」と、和歌山の「ひのくま」に、一体どんな関係があるのだろう。

 偶然の一致かもしれないが、八角墳で結ばれるライン上にあることもあり、気になる一致である。

                                 (続く)

 

ピンホールカメラで撮った日本の聖域と、日本の歴史の考察。

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