第1368回 世界観や人生観に影響を与える歴史観

ここ数日で、「日置」と「額田部」を軸にした長大な文章を書いた。

 なぜ、今、あえてこんなことを書いているのかというと、私たちの足下の歴史の捉え方が大きく歪められてしまっていれば、現在を生きる私たちの世界観や人生観も歪んでしまって当然だと思うからだ。

 歴史教育が年号や人物名の記憶優先になってしまって、その背景にまったく踏み込めていないことについては多くの人が問題視しているが、問題はそれだけでなく、私たちが植え付けられている歴史観が、まるでハリウッド映画のように、ヒーローと悪人、勝者と敗者の組み合わせストーリーで処理されてしまっている。

 飛鳥時代蘇我氏という強い奴が突然現れたが、横暴な振る舞いが続いたので退治された云々。

 そして、こういう歴史教育に満足できない人は、藤原不比等の陰謀とか、ユダヤ人起源説とか、権力者によって歴史は書きかえられた云々と盛り上がっているのだが、これもまた非常に「現代的」な短絡的思考であり、考古学的な成果や様々な記録を通じて、歴史背景を丁寧に読み解くことを行っていない。

 たとえば、藤原四兄弟によって死に追いやられたとする長屋王の邸宅から発見された膨大な木簡から、長屋王が独占していた冨の巨大さがうかがえ、長屋王打倒に舎人親王なども参加していることを考え合わせると、長屋王打倒は、藤原氏の陰謀とは言い切れないところがある。

 それはともかく、私が「日置」と「額田部」を掘り下げざるを得なかったのは、島根県出雲地方を旅すると気づくことなのだが、一般的にヤマト王権と対立して敗れた「出雲国」と一括りにできない不可思議な事実の痕跡が残っており、それが「額田部」と「日置」なのだ。。

 もっとも気になることは、継体天皇が即位した6世紀以降の出雲地方の展開であり、全国的に巨大古墳が築かれなくなっていく時期、出雲は、例外的に古墳が巨大化する。しかも、前方後円墳の衰退よりも前の時期に全国的にほとんど作られなくなっていた前方後方墳や巨大方墳が築かれるようになる。そのエリアは、島根県全体ということではなく、宍道湖と中海のあいだの松江市、意于川流域に限定されている。さらに、この地域に出雲国の行政の中心となる国府が築かれ、祭祀の中心である熊野大社が築かれる。(出雲地域では、出雲大社よりも熊野大社の方が古い)。

出雲の国府島根県松江市)の前を流れる意于川の対岸の丘陵の頂上に、前方後方墳が築かれ、その石棺は、岩盤をくり抜いて作られている。6世紀前半の建造。

 一般的な認識では、前方後方墳前方後円墳ヤマト王権に対立する勢力の古墳だとされ、出雲に前方後方墳が多く築かれているのは、出雲が、ヤマトと対立していたからだと思っている人が多い。しかし、6世紀以降、突然、出雲の意于川流域に築かれた前方後方墳の一つである岡田山1号墳からは、「額田部」という名が刻まれた鉄剣が出土した。額田部臣は、出雲風土記にも登場する名前であり、「臣」というのは、飛鳥における蘇我氏をはじめとする大臣クラスの役職である。

 ヤマト王権に敵対する勢力ではなく、ヤマト王権の大臣クラスの額田部氏が、6世紀、出雲の意于川流域に前方後方墳を築いていたということになる。

 そして、不思議なのは、同じ6世紀に、宍道湖の西側の斐伊川流域では、今市大念寺古墳という巨大な前方後円墳や、馬具や鉄製品など豊かな副葬品が出土した巨大円墳の上塩冶築山古墳が築かれたことだ。

 この地域は、神門郡の日置郷であり、欽明天皇が日置氏を派遣したことが記録に残っている。

 6世紀、宍道湖の東の意于川流域では巨大前方後方墳と巨大方墳が築かれ、こちらには額田部氏が関係しており、穴道湖の西の斐伊川流域では、巨大な前方後円墳と巨大円墳が築かれ、こちらには日置氏が関係している。

 この6世紀は、前の天皇とは血統の異なる継体天皇が即位し、新羅への対抗で、急速に、日本が一つにまとまっていく時期である。

 朝鮮半島の東側に位置する新羅は、対馬海流の影響を考えれば、この島根の出雲地域が、攻防の前線基地となる。

6世紀のはじめ、新羅の力が強大化しており、それに対抗するために、日本国内でも変化が起きた。島根県の出雲地方は、新羅に直面する場所であり、戦略上、重要だったと考えられる。

 この場所に名前を残す「額田部」と「日置」だが、記録によれば、その起源は渡来系の技術者集団である。どちらも、鍛冶や須恵器と関わっている。

 そして、額田部は、前回のエントリーでも書いたが、馬と関わりの深い平群や海人族の紀氏と、婚姻を通じて同族化している。

 日置は、前々回のエントリーで書いたが、海人族の安曇氏や海部氏と結びつきが強い。さらに、馬の飼育に適している熊本の阿蘇山を源流とする砂鉄が豊富な菊池川流域に日置氏の痕跡が残る。

 つまり、額田部や日置は、鉄製の武器を作る技術を備えていたが、海人勢力の水運や、馬の飼育とも結びついて、軍事的に大きな力を持っていた。この力が、新羅への対抗上、必要だったし、国を一つにまとめていくうえでも大きな力となっていたと想像できる。

 そして、どうやら日本における海人勢力は、大きく分けて二つあった。

 このことは、神話のなかで、イザナギが黄泉の国から逃げ帰って禊をする時、まず最初に、綿津見三神住吉三神という二種類の海人勢力の神々が生まれ、その後に、アマテラス、ツキヨミ、スサノオ三貴神が生まれたという記述からもわかる。

 また、天孫降臨のニニギは、まず最初に、オオヤマツミの娘のコノハナサクヤヒメと結ばれた。

 コノハナサクヤヒメは、別名が神阿田津姫と書かれ、これは南九州を拠点としていた海人族の女神である。そして、オオヤマツミは、瀬戸内海の大三島や、大阪の淀川沿いの三島鴨神社、伊豆の三島大社が、重要な聖域だが、瀬戸内海海人の越智氏が、その奉斎に深く関わっている。越智氏は、婚姻によって紀氏と同族化しており、この勢力圏に、石棚付き石室の古墳が分布している。

 コノハナサクヤヒメは、子供をみごもった時、ニニギに自分の子供なのかと疑われたので、産屋に火を放ち、「あなたの子だったら無事に生まれる」と言った。

 このエピソードは、ニニギが、高熱の窯技術をもっていたことを裏付けており、それが須恵器や鉄製品の製造と関わっている。つまりニニギは、海人の紀氏とつながった額田部氏の象徴である。

 この時に生まれた山幸彦と海幸彦に諍いが起きた時、山幸彦は、別の海人勢力である豊玉姫と結ばれる。山幸彦が二つの海人勢力とつながった存在なのに対して、海幸彦は、一つだけの海人勢力との結びつきを象徴し、そのため、海幸彦は隼人の祖とされ、山幸彦という正当な世継ぎに仕えることを誓った。

 山幸彦の別名は、ヒコホホデミだが、神武天皇の別名も同じである。つまり、神武天皇は、豊玉姫の妹の玉依姫の子であるが、 コノハナサクヤヒメの血も受け継いでおり、二つの海人勢力を背景にした王であることが強調されている。

 神武天皇の別名はいくつかあり、もう一つが、「ハツクニシラス」で、これは、初めて、国を、「シラス」の状態で治めた存在であるということ。

 「シラス」というのは、タケミカヅチオオクニヌシに国譲りを迫る時に、汝の国はウシハク(強いものが全てを独占する)だが、シラス(知恵などを共有する)にしなければいけないと説得する時の言葉である。

 神武天皇は、二つの海人勢力をまとめあげて、国内に対立のない、シラスの国を実現した王ということだ。

 神武天皇にはさらなる名前があり、「イワレビコ」である。

 たとえば欽明天皇は、​​磯城島金刺宮で政務を行ったので、「シキシマ」という名が入った別名を持つが、同じ理屈で考えると、「イワレ」を宮とした天皇は何人かおられ、第14代仲哀天皇、第17代履中天皇、第22代清寧天皇、第26代継体天皇、第31代用明天皇である。

 このうち、仲哀天皇清寧天皇用明天皇は、短命すぎたり悲劇的であったり、神武天皇のもう一つの別名であるハツクニシラスではありえない。

 新しい時代の天皇ということで重なってくるのは、継体天皇である。

 そうすると、継体天皇が、二つの海人勢力と結びつき、その力によって、日本という国を、「シラス」という状態にまとめあげた王だと仮定することができる。

 その二つの勢力とは、コノハナサクヤヒメに象徴される南九州の黒潮系から瀬戸内海に広がった海人勢力である紀氏(平群氏と額田部氏と一体化)と、豊玉姫に象徴される北九州から対馬海流日本海へ広がった安曇氏(海部、日置氏と一体化)ではないかと思われる。

 継体天皇の生誕地とされる近江高島には、安曇川が流れ、ここは安曇氏の拠点で、さらに日置の地がある。

 そして、継体天皇の古墳とされる今城塚古墳の家形石棺で用いられた阿蘇のピンク石の採掘場の熊本の宇土に「額田部」の名が残り、前回のエントリーでも書いたように、大和郡山市の額田の古墳や、紀ノ川流域の古墳に、継体天皇と今城塚古墳と共通性が指摘されるものがあり、紀氏や額田部氏ともつながりがあったこともわかる。

 どうやら継体天皇は、この二つの勢力と結びついていた。

 そして、この二つの勢力内の日置と額田部を、島根県の出雲に配置したのが、継体天皇の子である欽明天皇だった。

 欽明天皇は、新羅を討伐して任那の地を取り戻すことが宿願であり、遺言まで残した。島根県の出雲地方は、朝鮮半島新羅の対岸なのだ。

 この欽明天皇に、二人の娘を嫁がせて大きな勢力を持つようになったとされるのが蘇我稲目であるが、その解釈は話が逆であり、なぜ天皇が、その二人の娘を必要としたかの方が重要だ。

 その二人の娘とは、堅塩媛と小姉君である。二人の父親は蘇我稲目だが、母親が誰なのかが隠されている。

 堅塩媛が産んだ推古天皇の本名は、額田部皇女であり、前回も書いたように、額田部と紀氏は、同族化していた。

 小姉君が産んだのは、聖徳太子の母とされる穴穂部間人、穴穂部皇子崇峻天皇で、日本書紀では、泥部穴穗部とも書かれている。

 泥部というのは、「はつかしべ」で、これは、武器としての刃物を作る部民とされているが、五十瓊敷命が大刀1千口を作らせて石上神宮に納めた時に「日置」とともに賜った10の品部の一つである。

 教科書で習う蘇我と物部の戦いは、仏教導入をめぐっての対立とされるが、それほど事情は単純ではない。

 敏達天皇が亡くなった時、小姉君の息子の穴穂部皇子が、自分こそが王であるという振る舞いをした。それに対して、蘇我馬子は、世が乱れると憂いたが、物部守屋は、おまえのような下っ端が口出しするようなことではないと嘲笑った。

 その後も続く穴穂部皇子の傲慢な振る舞いに対して、穴穂部皇子物部守屋を討伐するための勢力が蘇我馬子を中心にまとまっていった。

 この争いの時、穴穂部皇子の妹の穴穂部間人は、丹後の間人という場所に隠れていた。その丹後の間人の海岸に立岩が聳えているが、この場所に鬼退治伝承があり、麻呂子皇子によって鬼が追い詰められた場所とされる。

蘇我と物部の戦いは、推古天皇の母、堅塩媛(紀氏・額田部系)と、穴穂部皇子の母、小姉君(安曇系・泥部・日置部)系の戦いであり、この丹後の間人の海岸にそびえる立岩は、蘇我勢力の麻呂子によって、鬼(穴穂部勢力)が追い詰められた場所である。そして、同じ場所に、聖徳太子の母、穴穂部間人も、隠れていた。そのゆかりで、この場所が「間人」となっている。

 麻呂子皇子は、蘇我と物部の戦いの時に、穴穂部皇子打倒の側にいた人物である。

 つまり、この鬼退治は、物部守屋穴穂部皇子の勢力を討伐する戦いの神話化であり、鬼は、聖徳太子の母の穴穂部間人が隠れていた場所まで追い詰められたということになる。

 その理由は、この場所が、穴穂部間人や穴穂部皇子の母親である小姉君の実家勢力の拠点だったからだろう。

 ここは丹後半島を流れる竹野川の河口域で、すぐ近くに鳥取郷があり、日本古代における一大製鉄プラントとして知られる遠所遺跡がある。

 鳥取という地名は日本各地に幾つかあるが、五十瓊敷命が、大刀1千口を作らせた鉄と関係する場所である。

 そして、穴穂部間人が隠れていた丹後半島は、籠神社を奉斎する海部氏(安曇氏)の拠点で、ここに、浦島太郎伝承と関わる日置の地がある。

 欽明天皇に嫁いだ蘇我稲目の二人の娘のうち、小姉君の実家勢力がこれだったのだろう。

 欽明天皇は、堅塩媛と小姉君を娶ることで、紀氏・額田部勢力と、安曇氏(海部)・泥部(日置部)の勢力を一つに束ねた。

 しかし、欽明天皇の息子の敏達天皇の死後、この二つの勢力に分断が起きた。それが、蘇我と物部の戦いの背後の事情である。

 この戦いの後、蘇我氏を中心に長く推古天皇の時代となり、安定した状態が続くが、蘇我入鹿の時代に、再び対立的な状況が生じる。

 そこに現れたのが中大兄皇子だが、この人物は、蘇我入鹿を討伐する前に、藤原鎌足の助言で、二人の娘を娶った。これが越智娘と姪娘である。この二人の娘の父親は蘇我石川麻呂で、蘇我氏でありながら蘇我入鹿を討伐する勢力にまわるが、その後に、大化改新政府によって死に追いやられており、あまり重要ではない。重要なのは、この二人の娘の母の実家勢力である。

 なぜなら、越智娘の子は持統天皇、姪娘の子は元明天皇と、ともに後の時代に天皇に即位しているからだ。

 元明天皇の本名は阿部皇女であり、その母、姪娘の別名は桜井娘である。阿部氏の拠点で阿倍文殊院という阿部氏の氏寺があるのが奈良県桜井市だから、姪娘は、阿部氏の女性と、蘇我石川麻呂のあいだに生まれた子である可能性が高い。

 この姪娘を娶った中大兄皇子を中心に蘇我入鹿が打倒された後の大化改新政府では、阿部内麻呂が左大臣という政権トップに立った。阿部氏は強力な水軍力を誇り、飛鳥時代日本海側を北へ航海して蝦夷を服属させたという記録が残っている。

 また、奈良時代のはじめ、大宝律令が制定された時は、阿部御主人が右大臣で、彼がキトラ古墳の被葬者の有力候補である。

 キトラ古墳の石室には陰陽道と関わりの深い四神相応図と天体図が描かれていることで知られているが、とくに天体図は、高句麗から見た星々の配置が描かれており、阿部氏は、単なる海人勢力ではなく、渡来系の勢力とも婚姻を通じて同族化していた可能性が高い。

 そして、中大兄皇子に嫁いだもう一人の娘、越智娘は、持統天皇以外に大田皇女を産んでいるが、大田皇女は、斉明天皇とともに、越智岡丘陵に埋葬されている。 このあたりは、越智氏のヤマトにおける拠点であるが、このヤマトの越智氏と、瀬戸内海の海人勢力である越智氏が同じかどうか議論はある。

 しかし、斉明天皇は、白村江の戦い(663)の前、660年の暮れに難波京に入り、武器と船舶を準備させ、661年1月に、大田皇女とともに、瀬戸内海を西に進んだ。出発してまもなく、大田皇女は、備前(岡山)で大来皇女を出産し、伊予の石湯行宮(松山市)に到着して二カ月ほど滞在している。

 その後の7月に斉明天皇は朝倉宮で崩御するのだが、この2年後の白村江の戦いにおいて、伊予を拠点としていた越智氏は、水軍兵力をもって戦いに参加したことが記録に残っている。

 白村江の戦いの前に、越智娘の子である大田皇女が、斉明天皇とともに瀬戸内海を移動し、伊予の石湯行宮に滞在したりしているのは、大田皇女の母の越智娘が越智氏の女性で、越智氏に対して戦いへの参加を求めるためではなかったろうか。

 愛媛の越智氏は、紀氏と婚姻を通じて同族化していた。

 また、越智氏が拠点としていた伊予国には鴨部郷が存在し、今治には賀茂神社が集中する。さらに、越智氏が奉斎していたオオヤマツミは、愛媛の大三島以外には、摂津国の三島鴨神社と、伊豆の三島大社が需要な聖域だが、伊豆国にも賀茂郡があり、摂津の三島鴨神社も、賀茂氏と関わりが深い。

 賀茂氏は、須恵器や鉄生産、そして陰陽道を通じて暦作りも行っており、欽明天皇の時代の日置氏と同じ役割を、飛鳥時代の後半から奈良・平安時代にかけて果たした氏族だ。

 蘇我入鹿を打倒する際に、藤原鎌足の勧めで、中大兄皇子天智天皇)が娶った越智娘と姪娘の実家もまた、欽明天皇に嫁いだ堅塩媛と小姉君という二人の女性と同じく、それぞれの母の実家が、海人の水運力と、渡来人がもたらした新しい知識や技術を備えていたと考えられる。

 この二つの勢力を背景に、欽明天皇中大兄皇子天智天皇)は、絶大なる力を持って国内の秩序化につとめたが、彼らが亡くなると、二つの勢力のあいだに対立が起きて、秩序が乱れる。それが、蘇我勢力と物部・穴穂部皇子勢力の戦いであり、天智天皇の死後に起きた壬申の乱も同じである。

 壬申の乱に勝利した大海人皇子天武天皇)は、中大兄皇子と兄弟とされているものの、大化改新でも白水江の戦いでも、中大兄皇子だけが活躍し、大海人皇子の存在感が全くないことや、持統天皇や大田皇女など中大兄皇子の娘4人を娶っていることから、とても兄弟だとは考えにくい。

 それはともかく、大海人皇子という名は、凡海氏 (おおしあまうじ)が育ての親だったからとされるが、これは安曇氏系の海人族である。また、大海人皇子は、尾張氏(海部氏と同族)の支援を受けることで勝利することができた。

 それに対して、大友皇子側の5人の重臣の一人が紀大人(きのうし)だった。しかし、壬申の乱の後、他の4人が自殺したり処分されたりしたのに、紀大人だけが処罰されなかった。その理由は不明だが、戦いの途中に寝返ったからだという説もある。

 そして、壬申の乱の後、天武天皇が強い求心力で改革を進めるものの、その期間はわずか13年で、それ以降は、持統天皇(7年)、文武天皇(10年)、元明天皇(8年)、元正天皇(9年)と、文武天皇以外は女帝が24年間も続く。文武天皇も、若かったために実質的には持統天皇太上天皇として政務を行ったので、34年ものあいだ、女性が、この国のトップだった。

 奇しくも、蘇我と物部の戦いの後の混乱時期に即位した推古天皇の即位期間も、35年で、ほぼ同じくらい長い。

 西暦500年頃から700年頃までのあいだ、日本が一つにまとまっていく段階において、二つの大きな勢力を均衡させることが重視されていたように思われるが、そのバランスを崩しかねない人物が、討伐の対象となったのでないだろうか。

 敏達天皇の死後、専制君主のようになろうした穴穂部皇子や、乙巳の変で討たれた蘇我入鹿がそうだった。蘇我入鹿の父、蘇我蝦夷は、豪族間の融和をはかろうとしていたことが記録に見られ、入鹿が山背大兄王一族を滅ぼしたことを知った時は、「自分の身を危うくするぞ」と嘆いている。

 そして、均衡と調和が維持できずに国内が二分される激しい戦いが起きた後、新たな秩序が浸透するまで、しばらくのあいだ、女帝が続いている。

 倭国大乱の後、女王の卑弥呼がクニをまとめて治めた。そして、なぜか男が世を継ぐと国が乱れた。

 これは、男性と女性の気質の違いというだけではなく、古代社会における男性と女性と婚姻の在り方の違いによるのではないだろうか。

 男性は、多くの女性を娶り、婚姻を通じて様々な勢力と関係を持つことになり、その分、それらの勢力の間で権力争いが起きやすい。

 しかし、女性の場合はパートナーは一人である。

 転換期に女帝となった人物を確認してみると、越智氏(紀氏)とつながる持統天皇は、安曇氏系の大海人皇子と結ばれた。阿部氏(安曇系)とつながる元明天皇は、越智氏(紀氏系)の持統天皇の子の草壁王子と結ばれた。

 額田部氏(紀氏)とつながる推古天皇が嫁いだのは敏達天皇だが、敏達天皇の母、石姫皇女の父は、尾張目子媛(海部系・安曇系)の子の宣化天皇である。

 二つの海人勢力のどちらかを実家に持つ彼女たちは、もう一つの海人勢力を背後に持つ男と結ばれ、その紐帯となる子供を産んでいる。

 そして、歴史上唯一、女性から女性へ譲位されて即位した元正天皇は、姪娘の血を受け継ぐ元明天皇と、越智娘の血を受け継ぐ草壁皇子のあいだの子で、生まれた時点でどちらの勢力ともつながっていた。

 元正天皇は、聖武天皇が幼かったための繋ぎなどと言われるが、実際は、聖武天皇が即位した後も、太上天皇となり、病気がちで政務が行えずに仏教信仰に傾きがちであった聖武天皇に代わって政務を行っていた。

 この女帝は、一生、誰とも結婚せず、独身を通したのだ。

 古代において、婚姻というのは勢力間の均衡を変えたり、後継者争いの原因にもなったが、一人のパートナーだけを選ぶ、もしくは誰とも結ばれないという選択も可能だった女性が長くトップに立っていた時期は、勢力間のバランスを維持することが、とくに重視されていたのかもしれない。

 

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