第1382回 吉備の鬼退治の真相。

楯築遺跡

 吉備には、日本の古代史の真相につながる深い謎が幾つかあり、一昨日に書いた鬼退治のことや、鬼ノ城という山城の存在が、よく知られている。
 それ以外の謎として、2世紀後半という、卑弥呼の時代以前に作られた楯築遺跡がある。これは全長70mという弥生時代最大の墓だが、墳丘の各所から特殊器台や特殊壺が出土した。これらは古墳時代の円形埴輪のルーツとされており、ヤマト王権というのが各地域の連合政権であったという説の一つの裏付けになっている。
 今年、佐賀の吉野ヶ里遺跡から出土した石棺の調査で、邪馬台国論争が盛り上がり、石棺の中から豪華な副葬品が出土すれば、九州邪馬台国説で決着するなどと主張する人たちもいたが、弥生時代の先進地域は、九州やヤマトだけではない。
 また、副葬品に関しても、巨大な楯築遺跡においても大したことはなく、それは、権力や冨が小さかったという理由ではなく、その時代の埋葬の習俗の違いにすぎない。
 だから、卑弥呼の墓の副葬品が豪華とは限らないのだ。
 豪華な副葬品や古墳の大きさが巨大な権力を示すという偏った考えは、あまりにも近代主義的すぎる。
 

造山古墳

 吉備の造山古墳にしても、全長350mで日本第4位の規模を誇るため、ヤマト王権に匹敵する勢力がここにあったと説明されることが多いのだが、超巨大古墳が築かれるようになった5世紀は、土木や灌漑技術が著しく発展した時代だった。
 吉備は、古代、吉備の穴海と呼ばれる海に覆われ、その沿岸部で人々が営みを行っていたが、日本各地とは水上交通で結ばれていた。
 吉備の穴海という天然の港には多くの船が停泊していたと思われるが、吉備の穴海には、吉井川、旭川、高梁の三大河川が注ぎ込んでおり、それらの川が絶え間なく土砂を運びこんでいた。
 とくに、古墳時代、造船のために多くの木が切り出され、さらに須恵器の生産には大量の薪が必要で、すでにその時点で製鉄も始まっていたら、山々の樹木の多くが失われ、流出する土砂も増えたことだろう。
 それでなくても浅い吉備の穴海は、船が座礁しやすくなり、港として機能しずらくなる。
 吉備の造山古墳の近くからは、おそらく物質の運搬のためであろう古代の水路のようなものも発見されており、それらの水路を作るためや、港を使い続けるために土砂を取り除くことが必要だった可能性がある。
 それらの堆積した土砂の浚渫を行なって積み上げたものが、巨大古墳の元になっているとも考えられる。
 大阪の藤井寺周辺は、日本で最も巨大古墳が集中する場所だが、古代、このあたりは、大和川が急激に北に折れ曲がるところで、たびたび洪水に悩まされた場所だという記録が残っている。
 現在、京都の桂川で、私が住んでいる松尾大社あたりでは河底の掘削工事が進んでいる。大雨が降った時に水位が極端に上がらないように、川底を下げる工事をしているわけだが、掘られた土砂が山のように積み上がり、これを一体どこに持っていくのだろうと、毎日のように眺めていた。
 権力者が、自分の権力を誇示するために、人民に強制して巨大古墳を築いたという発想は古いのではないだろうか。
 水上交通のための工事で生じた土砂が、古墳の基礎になっている可能性はないだろうか。日本各地の古墳は、河川のそばにあるものが非常に多い。
 しかし、300mクラスの超巨大な古墳が築かれた5世紀ではなく、4世紀前半の初期において築かれた100mクラスの大型古墳は、高台や山の上などに築かれているケースも多く、その場合は、話が変わってくる。
 ただし、この場合も、地上から見えない場所であったりするので、権力を誇示するためのものだとも思えない。
 その当時の古墳の石室は、古墳のなかで最も高い場所に築かれており、王は、死んだ後は天に上って神になって地域を守ると信じられていたので、高い場所に築かれた古墳は、やはり、宗教的な意味合いが強かったのではないかと思う。
 日本で4番目の大きさを誇る吉備の造山古墳は、5世紀前半に作られたものだが、この古墳の前方部分に、なぜか阿蘇のピンク石で作られた石棺が設置されている。

造山古墳の前方部分に設置されている阿蘇のピンク石の石棺。

 

 この石棺は、他の場所から運ばれてきたという説と、造山古墳の前方部分にあったものだという説がある。
 一般的には古墳の被葬者の石棺は、後円部分に設置されているので、前方部分にあるこの石棺は、二つの説のどちらであっても、造山古墳の被葬者とは関係ないと思われる。そもそも、阿蘇のピンク石を使った石棺は、継体天皇推古天皇のものがよく知られており、西暦500年頃より後の時代に、畿内の主要豪族の古墳で使われている。
 だとすると、気になるのは、造山古墳のすぐ近くに築かれている千石古墳だ。この古墳は、巨大な造山古墳のすぐ近くなので、造山古墳の陪塚とされている。つまり、造山古墳の被葬者の家臣もしくは親族の墓と位置付けられている。

千石古墳

 しかし、この古墳の石室は横穴式であり、もしこれが造山古墳と同じ5世紀前半に造られたとするならば、日本最古の横穴式石室ということになってしまう。一般的には、横穴式石室は、西暦500年頃からであり、天皇として最初に横穴式石室となったのは継体天皇であり、それよりも100年近く古いことになってしまう。
 そして、この千石古墳は、造山古墳に設置されていた阿蘇のピンク石の石棺と関わるかもしれない九州系の石棺を用いている。そして石室には、讃岐産の安山岩が敷き詰められている。
 吉備のもう一つの謎が、神武天皇が日向を出発した後に吉備の高島に宮を築き、数年間この場所にいたというストーリーなのだが、このことと、造山古墳に設置された阿蘇のピンク石の石棺や、九州系の石棺を用いている千石古墳が重なっているのではないだろうか。

玉比咩神社(岡山県玉野市)。神武天皇の祖母であり、海人族の女神、豊玉姫を祀る。神武天皇の東征神話で、吉備には高島宮が築かれた。高島宮がどこなのかはわからない。この場所は、吉備の穴海の外で、瀬戸内海と接する場所。

 

 吉備の高島がどこなのかは判明していないが、第26代継体天皇の生誕地は、近江の高島である。私は、神武天皇というのは第26代継体天皇の神話化ではないかと考えており、以前のエントリーでも、その根拠を詳しく書いた。
 継体天皇と同じ阿蘇のピンク石の石棺が、吉備地方で最大級の造山古墳の上に設置されているという謎。
 継体天皇を支えた勢力として、和歌山県の紀ノ川下流域を拠点に置く海人勢力がいて、6世紀頃から紀ノ川流域に築かれた日本最大の規模を持つ岩橋千塚古墳群の中の代表的古墳である大日山35墳の家形埴輪・馬形埴輪の一部が、継体天皇の今城塚古墳との共通性が指摘されている。
 この海人勢力の古墳に共通して見られる石棚付き石室が、瀬戸内海から九州の有明海まで展開していることから、この海人勢力が、阿蘇のピンク石を有明海から畿内まで運んだのではないかと考えられ、吉備にも阿蘇のピンク石の石棺があることの理由ともなる。
 このように継体天皇を支える勢力の影響力が、九州から瀬戸内海へと広がっていることが、神武天皇の東征神話に象徴化されているのではないだろうか。
 さらに、造山古墳や千石古墳のある岡山の総社の地において、律令時代に築かれた国分寺のすぐそばにコウモリ塚古墳がある。

コウモリ塚古墳

 

 この古墳は、6世紀後半という、継体天皇の息子の欽明天皇の時代に築かれたものだが、全長100mの前方後円墳で、この時代の古墳としては、欽明天皇陵と考えられている飛鳥の丸山古墳を除けば、日本最大級だ。
 そして、このコウモリ塚古墳は、石室の長さで、全国3位であり、蘇我馬子の古墳とされる飛鳥の石舞台古墳よりも長い。(日本一は、欽明天皇の丸山古墳である。)
 さらに、このコウモリ塚古墳の形は、欽明天皇の丸山古墳と相似形である。つまり、吉備の地に、継体天皇欽明天皇と深く通じる勢力がいたということになる。



 そして気になるのは、考古学上、日本最古の製鉄遺跡である千引カナクロ谷遺跡は、このコウモリ塚古墳の真北6kmのところであり、ともに6世紀後半と同じ時代のものであることだ。
 さらに鬼退治伝承の舞台も、この場所である。
 継体天皇の息子の欽明天皇は、仏教伝来や太陰太陽暦の導入など、日本国内の新しい秩序化が進められた時代の天皇であり、その背景には、隣国の新羅の国力増強があった。
 継体天皇の時から本格的に始まった新羅討伐のための派兵は、失敗続きで、欽明天皇は、新羅討伐を遺言にまでした。
 海を越えた朝鮮半島の敵との戦いにおいて、海人族の力は欠かせないもので、吉備の穴海もまた、その重要な拠点だった。
 吉備の鬼退治は、第10代崇神天皇の時代と記録されているが、崇神天皇というのは、古事記日本書紀で、日本の祭祀の転換を象徴するエピソードが多く伝えられており、史実の天皇というより、ハツクニシラスという神武天皇と同じ名前を持つことから、神武天皇とは違う角度で日本の秩序化を神話的に象徴した存在だと思われる。
 ゆえに、崇神天皇の時代の吉備の鬼退治というのは、継体天皇から欽明天皇の時代、この地の鉄資源を、新羅討伐を目指す新生国家の管理下に置いたという意味合いがこめられているのではないかと思われる。
 そして、ここからは私の想像だが、7世紀後半、白村江の戦いの後、鬼退治伝承と同じ場所に山城の鬼ノ城が築かれたのだが、これは、日本が唐の侵略に備えるためという通説は正しくなく、戦勝国の唐が、この地の鉄資源を抑えることが目的だったのではないかと思われる。

鬼ノ城



 太平洋戦争後、アメリカが日本の軍需産業を管理下に置いたのと同じだ。
 鬼ノ城を日本側が築いたものではない根拠として、城壁の周辺に敷き詰められている敷石の構造は、朝鮮半島では同じものが見られるものの、日本の他の地域では見られないからだ。
 しかも、標高300mを超える山中で、瀬戸内海を進む敵の進攻を防げるわけがない。唐が、ここを通っていくとは限らないし。
 1000年後、現在の日本各地に築かれた米軍擬地の調査をした未来の学者が、日本が敵の侵攻を防ぐために築いた基地だと間違って解釈するのと同じである。

 

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