第1383回 イスラエルは、なぜアブラハムのことを自分ごとにできないのか。

 ガザとイスラエルの問題は、私なんかが何か意見を言えるようなことではないけれど、ハマスの無差別殺人から始まったこととはいえ、最先端の兵器を大量に備えるイスラエルの、市民や子供の区別なく徹底的に破壊し殺戮し続ける暴挙は、正気の沙汰とは思えない。

 40年前の私は、能登の最果ての地まで旅をして、大学を辞めて海外に出ようと決心して、その日から大学は一切通わずアルバイトでお金を溜め続けて旅立ったのだが、まったく無計画だったわけではない。チュニジアのブルギバスクールで外国人向けのアラビア語教育が受けられると情報を得ていたので、そこで数ヶ月間、アラビア語を学んでから中近東に移動しようと考えた。

 チュニジアに着いたのは、1982年の7月だったが、しばらくしてイスラエル軍レバノン爆撃が始まった。あの時も、無差別空爆が凄まじかった。

 私は、日本を出る時、リュックサックに聖書を入れていて、毎日、目を通していた。旅の目的の一つが、現代文明の核心にある「一神教」の世界を深く理解したいということで、だから、最初は、フォークランド戦争が勃発したばかりのイギリスから始まり、欧州をヒッチハイクでまわって北アフリカに入り、チュニジアの後に中近東に移動するという漠然としたプランが念頭にあった。

 日本人は、明治以降、西欧文明を積極的に取り入れたが、日本人の精神と、一神教の精神は、そぐわないところがある。そのことに無自覚のまま、盲目的に西欧文化を追随していていいのだろうかというのが、当時の私の問題意識だった。

 イスラエルの国教のユダヤ教の起源を、モーゼなど旧約聖書に登場する聖人を根拠に、紀元前1500年とか紀元前2000年などと言う人もいるが、それは違っている。

 旧約聖書の文章はヘブライ文字で書かれ、ヘブライ文字は、紀元前1000年頃に起きたフェニキア文字革命(アルファベットの創造)をルーツとする。

 このフェニキア文字から古代ギリシャ語も生まれ、紀元前500年頃にはソクラテスプラトンなど哲学者たちが登場した。

 ヘブライ語もまた同じで、フェニキア文字が創造されてから500年くらい経った紀元前500年頃に、旧約聖書の原典がまとめられていった。洪水神話などは、メソポタミアギルガメッシュ神話などを参考にしたと思われる箇所もあり、ユダヤ人の歴史というより、古代のオリエント世界の様々な問題と、その問題を深く感じ取った預言者たちの言葉で、「歴史」と「神話」が編まれたのだ。

 ユダヤ人はバビロン捕囚などの民族的悲劇を通して、自分たちの存在を、苦難のなかで世を憂いて善なる「神」の声に従い、人として在るべき姿を説いた預言者たちに重ね合わせた。

 その時点で、善なる神と、悪魔的な存在との善悪二元論の意識が、一神教のなかで確立されていった。

 ユダヤ教に先行する形で、この善悪二元論に基づく一神教的世界観が象られたのが、アケメネスペルシャの国教となったゾロアスター教だった。

 ゾロアスター教が創造された背景には、紀元前1000年頃に始まった、アッシリアなどの凄まじい破壊行為があった。

 それ以前、ヒッタイトが鉄の技術を秘匿していたが、ヒッタイトが滅亡したことによって、その技術が周辺諸国に流れたとされる。そして、かつてない強力な武器を手にした集団と集団が、激しく戦うようになった。

 相手を全滅させるまで容赦無く戦うという新しい戦いの形が、この時に生まれた。 

 攻めてくる敵は、悪の神が仕向けた恐ろしい集団であり、それに対して、こちら側は、善の神によって守られているから一丸となって戦うべきだ。さもないと、男も女も子供も、全員、殺され、破壊されてしまう。

 この絶対的な善悪二元論の世界観は、ゾロアスター教が起源であり、そこからユダヤ教キリスト教イスラム教へと変遷した。後になるほど、それ以前のものが世俗的に腐敗したので、より純粋でなければならないという問題意識から改革されていったのだが、ユダヤ教キリスト教イスラム教も、根っこは同じ旧約聖書にある。

 ゾロアスター教善悪二元論から始まった一神教世界観ではあるが、旧約聖書の作り手たちは、その二元論によって陥る問題点に対しても自覚的だった。

 古代オリエント世界が、その二元論によって酷い状況に陥ってしまい、そのなかで、バビロン捕囚などユダヤ人たちの民族的悲劇も起きたからだ。

 そのため、ヘブライ文字の使い手は、アブラハムという人物を創造した。ユダヤ教徒にとってもイスラム教徒にとっても、最も重要な聖人である。新約聖書においても、イエス・キリストは、自分の言葉というよりは、アブラハムを引き合いにして、アブラハムは、どう行動しましたか?と、人として在るべき姿の規範にしている。

 そのアブラハムは、創世記のなかで、バビロンの塔が作られ、人間たちの意思疎通がうまくできない「言葉の乱れ」という状況のなかで登場する。

 人間が、神なんか関係ないと奢り昂って建設したバビロンの塔と、言葉の乱れという旧約聖書で描かれている世界は、現代文明にも通じる状況である。

 アブラハムという存在が史実か神話かはともかく、彼は、ソドムとゴモラの時代に生きた。

 彼は、神の言葉に従って、地位や名誉、家など一切を捨て、荒野への旅に出た。その時、神の言葉を聞かず、奢り昂った自らの保身と欲心のためだけに生きていたソドムとゴモラが滅びるところを見た。

 アブラハムが辿り着いた場所が、1948年にイスラエルが強引に建国したところだ。

 実は、創世記には無数の数字が複雑に書き込まれているが、アブラハムの誕生は、アダムとエバから1948年後である。

 20歳の旅の途中、私は一つひとつの数字を足したり引いたりして、そのことに気づいた。イスラエルの建国は、このアブラハムの数字も意識されているだろう。

 しかし、アブラハムと現代のイスラエルは大きく異なる。

 アブラハムは、荒野の旅を終えた後、さらに神によって試される。息子のイサクをさえ犠牲に捧げるために捨てきれるのかと。

 そしてアブラハムは、その時も神の言葉に従おうとしたが、神が、アブラハムの心を認め、イサクは殺されることはなかった。

 アブラハムを通して、古代、ヘブライ語の使い手は何を示そうとしたのか?

 40年前の私は、これは、自己や自我への執着を捨てろと言っているのだと受け止めた。

 一神教善悪二元論の世界では、自己正当化によって善悪の線引きがなされる。自分への執着、自己の保身が強ければ、自分が絶対的な善ということになり、自分に反論するもの、意義を唱えるもの、自分を敵視するものは全て絶対的な悪ということになる。だから、善か悪かを決める場合、自己への執着や保身があってはならない。そして、イサクという家族への執着もまた、善悪の基準を曇らせるものになるというのが、アブラハムの心を試みた神の言葉だった。

 こうした物語が創造されたのは紀元前500年頃であり、同じ時代、ギリシャではソクラテスが現れ、インドでは釈迦、中国では老荘思想が生まれた。東も西も関係なく、自分への執着、自己への囚われ、自分の知識分別による偏狭に対して警告を発する「無の思想」が、創造されていた。

 私は、旅の途中、それに気づいた時から原稿を書き始め、2年間の放浪の後すぐ、当時、日本の知識層の権威的存在だった人の家を調べ、400枚に達していた原稿を持っていった。

 敬愛する小説家よりも、自分が書いたものを見せるのは評論家のような人の方がいいだろうと、若すぎた私は、間違った判断をしてしまったのだ。

 その評論家は、私の原稿を読む前に、「書かれていることを、まず説明しろ」と言うので、私が、古代と現代の共通点や、現代がデカルトから始まる近代的思考の中の堂々巡りにあるといったようなことを話した。

 それに対して、彼は、「君は巨視的すぎる」と言い放ち、デカルトについて話すなら、デカルトの研究者が日本には10名以上いて、何人かが全集とかの翻訳書を出しているから、それらを全部読んでから来いと言った。

 私は、デカルトの研究者になりたいわけではなく、またデカルトは、1600年当時の宗教戦争の時代に必要な思考方法を創造しただけであって、その思考方法が、現代においても通用するどころか、弊害すらあるという認識だった。

 なので私は、「これが日本の知識人の代表か、日本のインテリって、大したことない」と、大学を辞めた時と同じく若気の至りで思い、その反骨心を持ち続けた。後に、インテリの人たちの縄張り意識や権威主義のようなものを超えたものを作りたいという思いで、風の旅人という新しいタイプのメディアを作ることになった遠因が、ここにある。

 私は、現代の神話を作っているという思いで、風の旅人を作っていた。だから、「森羅万象と人間」というテーマの中に、現代の様々な紛争や、環境のことや、未開の地域の暮らしや、都市文明のことを織り込んでいった。

 それはともかく、40年前、旅の途中、一神教世界を深く知るために旧約聖書を読み続け、イスラエルレバノン空爆の情報をイスラム圏の中で暮らしながら得ていた私が感じ、考えたことは、その後の人生においても、大して違っていない。

 イスラエルにとって最も重要な聖人であるアブラハムの言動を、なぜ、イスラエルの人々は、振り返ろうとしていないのか。

 これは、けっきょく、神話に書かれていることを、今を生きる自分に引き寄せることができなくなってしまった時代の宿命なのだろう。

 2500年前、ヘブライ語の使い手は、歴史の法則のようなものを感じ取っていた。そして、人間という特殊な生物の性質を。

 他の生物にだって戦いはあるが、現在のイスラエルのように、相手を壊滅させるところまでやろうとはしない。負けそうな方も、早い段階で勝てないと察したら、それ以上の戦いはやらない。

 敵を全滅させるための戦いは、自分をも滅ぼすことになるということを生物の本能が知っている。

 しかし、人間は、生物の本能にくわえて、自我という魔物を自分の中に育てている。自我というのは、意地とか虚栄とか妬みとか憎悪とか、今この瞬間を精一杯生きるという生物の本能の枠組みとは別の、奇怪な心情とつながっている。

 そして、人間は、この奇怪な心情が、自分の幸福を左右すると思いこんでしまっている。

 ソドム・ゴモラと、アブラハムは、対照的な存在として旧約聖書に描かれている。 

 ソドム・ゴモラは、史実かどうかはどうでもよく、人間の側面として間違いなく存在したものである。

 それに対して、アブラハムは、そんな愚かで悲しい人間に警鐘を与えるために、賢人によって創造された聖人なのかもしれない。

 そのアブラハムを、最も大切な聖人として位置付けるイスラエルという国が、ソドムとゴモラへの道を突き突き進んでいるという究極の矛盾は、人間の自我ならではの矛盾でもある。

 自我は、虚栄のために自分を飾り立てて、その結果、自分が幸福になるのであればいいのだが、ほとんどの場合、逆の結果へと導く。後に引けなくなった状態で、偽りの上に偽りを積み重ねて、全てを失うという作用があるのだ。

 悲しいかな、自我は、自分を喜ばせたいための心の動きなのに、これで良いと止まるところがないために、次第に自分を蝕んでいく方向へと導いてしまう。

 蝕まれた心で、善と悪の線引きをしようとすると、どうなってしまうか明らかなことだ。

 善悪二元論の世界の住人は、心に緩衝地帯がないから、行き着くところまで行かないとわからないのかもしれない。

 聖書を作った人たちは、そのことにも自覚的だった。だからこそ、最後の審判という形で、「黙示録」が書かれたのだ。

 神話は、遠い過去にあった別世界の作り話ではなく、なんらかの史実から抽出して作り出された物語であり、神話の作り手は、後世に歴史的教訓を伝えるという使命をもっていたと思う。

 同じ愚かさと悲しみが繰り返されないように。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーー

日本の古層の真相をめぐる旅。Sacred world Vol.1,2,3 販売中 https://www.kazetabi.jp/