第1384回 イスラエルのイデオロギーと、日本古来の境界意識の違い。

間垣の里(石川県輪島市

 イスラエルに限らないが、唯一絶対神の世界は、善悪二元論でもあるので、敵と味方の線引きを明確にしたがる。だから、その境界に、高い壁を築く。ガザを取り囲む壁は、ベルリンの壁よりも高く、その壁は、見方を変えれば、奢り昂った人間が築いたバビロンの塔のようだ。

 日本にも戦国時代があったが、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、籠絡の天才だった。いわゆる「人たらし」という対人交渉術だが、相手の心情を理解してその懐に飛び込んで、敵側だった者も寝返りさせてしまう。それを可能にした彼ならではの能力は、「気遣い」のすごさだが、気遣いによって心を動かされるという日本人一般の気質が背景にある。

 日本人というのは、もともと敵と味方を厳密に峻別するという思考をもっていなかった。

 鬼や怨霊も丁寧に鎮魂すれば、守神になる。

 中世の戦乱の時、戦があれば、城の周りの住民は、すぐに逃げて、少し離れたところで高見の見物ということもあった。城主が変われば新しい城主に仕えるだけのこと。だから日本の城は、侍たちが立て篭る場所の周りにだけ城壁がある。

 欧州の場合は、そうはいかない。住民たちが生活をしている場所の周りを取り囲むように城壁が築かれた。中世の街並みが残るというキャッチフレーズで観光客を集める都市は、そのようにして作られた。戦が起これば、城壁の中の住民も一丸となって戦うしか生きる術がない、というのが一神教の世界観の思想だ。

 兵士の姿もまるで異なる。欧州は、重い甲冑で身を固める。自由に動ける身体を犠牲にして、自分と敵のあいだに城壁を築くような姿だ。それに対して日本の侍は、もう少し柔軟に、臨機応変に活動することが可能な装備で戦った。

 味方と敵を峻別する世界は、融通がきかない。融通のきかない行動原理は、イデオロギーになる。イデオロギーというのは、どれだけの犠牲を払おうとも、決して、自分の意思を変えない、自分の計画や目的を変えないという頑迷さがある。

 白は、どこまでいっても白。黒は、永遠に黒ということ。それが彼らにとっての正しさであり、その正しさにそって行動することが「正義」ということになる。

 唯一の正しさのために生きるというのは、なんという不自由な生き方なのか。

 日本の古代に思いをはせて各地を探訪しながら、”境界”のことについて、考えることが多い。

祭祀遺跡高瀬宮(石川県羽咋郡

 今回の能登の旅は、半島ということや、海の向こうが大陸ということもあり、特にそれを強く感じた。

 境界の向こう側を、どのように捉えているのかというのが、文化に現れる。

 そもそも、芸術表現というのは、境界の向こう側の捉え方の現れであったのではないか。

 たとえば死後の世界も、境界の向こう側であり、ネアンデルタール人が死者を埋葬していたとすると、それは、彼らの境界の向こう側に対するマインドを表しており、芸術の始まりと言える。もともと宗教と芸術の線引きはなかったはずだ。

 唯一絶対神を自分たちの人生の規範にしている世界では、境界の向こう側は、異なる神を掲げる人たちの世界であり、自分たちとは相容れない敵であるか、それとも味方になってくれるのか、疑心暗鬼の心情が、常につきまとう。

 境界の向こう側に対して恐れを感じるのは仕方がない。人間以外のどんな生物でも、恐れは、身を守る本能として備わっている。

 しかし、日本という国が育んできた文化には、「おそれ」という時、単に恐がっている状態ではなく、 畏怖という言葉で表現する状態が反映されている。

 「 畏」という言葉には、「敬う」という意味も含まれる。人間の力が遠く及ばないという意味で、それを避けるだけでなく、尊敬や憧憬という心情も秘められている。

 日本が伝統的に育んできた文化芸術で、現在まで残るもののなかに、「 畏」と無縁のものが、果たしてどれだけあるだろうか。

 能は言うに及ばず、俳句にしてもそうだし、たとえば建築や庭園にしても、自然に対する「 畏」の気持ちが根本にある。自分の思うように自然を使うのではなく、できるだけ自然の摂理に反しないように使わせていただくという気持ちは、「 畏れ」である。

 西行の、「何事の おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」という心情も同じである。

氣多大社社叢 入らずの森(石川県羽咋市)。400年以上も前から神官以外は立ち入りができない聖域。神官が足を踏み入れるのは年に一度、大晦日に神事を執り行う時のみであり、目かくしなど厳重な祭式に従うことを要求されているという。

 これは、人間という大脳を肥大化させている生物にとって重要な心構えだ。なぜなら、大脳の働きというのは、自分の企みを、より狡猾に、より周到に、より計画的に、より上手に行うために力を発揮する特質があり、この機能を利己的な目的のために使うと、全体のバランスなど無視して徹底的に目的遂行を行おうとするからだ。

 そのブレーキになるのが、 「畏」である。もし、これが単なる「恐れ」であれば、自分の目的遂行を阻害する敵として、その敵を完全に制圧しなければ安心できないということになってしまう。

 「畏」は、自分の卑小さや、驕りを省みる力でもあり、それが、大脳の暴走に対するブレーキになる。

 日本人は、もともと、「何事もやりすぎると罰が当たる。」という微妙な感覚を持ち合わせていた。

 日本は、世界で最も天災が多い国であり、人間の力が遠く及ばない世界があることを熟知していた。

 そして海に囲まれた島国であり、大陸から遠すぎることもなく近すぎることもない絶妙な距離感が、微妙な境界意識を育んできた。

 マレビトは、得体がしれないところもあるが、珍しくて興味深く、憬れでもある。そして、自分を変えてくれる可能性がある。

 人間は、変化をおそれるが、変化を求める気持ちも持っている。新しい世界を見ることで、自分の可能性を少しでも拡げたい。それが希望であり、希望のない人生は牢獄と同じ。

 だから、境界の向こうに、 畏れと敬意と憧憬の思いをはせる。

 日本が生み出してきた芸術文化には、境界の向こうに足を踏み出す勇気のない者にも、力を与えるところがあった。

 境界に高い壁を築いてしまうと、相手を牢獄に閉じ込めているつもりで、実は、自分の人生を牢獄に閉じ込めていることに等しい。

 自分の周りに高い壁を築くことを促すような表現ばかりに触れていると、知らず知らず、自分を牢獄に閉じ込めてしまうことになる。

 

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