畏ろしいほど美しいもの

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↑流氷を撮影する水越武さん

 「風の旅人」第32号(6/1発行)で紹介する流氷の取材のため、水越武さんと知床に行く。流氷は、まだ海岸を埋め尽くしていたが、時が来れば、ほんの一時間ほどで陸から去っていくのだそうだ。今年の流氷はスケールが大きいらしく、白い氷の大地が見渡すかぎり続いており、シベリアかどこかの広大な雪原のようにも見えるが、流氷が一瞬にして去ってしまうと、たちまち、オホーツクの荒い波が牙を剥く。
 流氷は来る時もまた一瞬に来るらしい。ウトロの海岸のすぐ傍に住んでいる人の話では、夜眠る前は荒れた波の轟きが空気を揺るがしているのに、深夜、ふとその音が消え、静寂に包まれると流氷が接岸したことが気配でわかり、目が覚めるのだそうだ。
 大海原の広大な世界の動と静が一瞬にして切り替わるというのは凄い。
 昨日は珍しく快晴で、白い氷面が眩しく反射して目を開けていられないほどだったが、今日の朝は曇天で、霧が出て粉雪が舞い、おどろおどろしい雰囲気がたちこめていた。
 水越武さんは、そういう状態の自然に美しさを感じるのだと言う。私も、昨日の晴れ上がった空の下のアッケラカンとした流氷よりも、荒れ模様の空の下の畏ろしいくらいの方が、美しいと感じた。どちらも自然の様相だし、人それぞれの好き嫌いはあると思う。また、荒れた状態の自然のなかで生活を営んでいる人たちにとっては、美しいも何もあったもんじゃないだろう。荒れた自然を見て美しいなどと言うのは贅沢なことなんだろう。
 ただ、現在の表現物の多くは、”畏ろしいもの”よりも、”アッケラカンとしたもの”が圧倒的に多いから、この世界には”畏ろしいもの”があるということを知っておくためにも、”畏ろしい”ものに惹かれてそれを表現しようとする水越さんは貴重なのだと思う。
 夕暮れ、流氷を撮影している時、他にも数人が写真を撮っていた。その全ての人たちが、見栄えのいい大きな氷の塊の手前に三脚を立て、その向こうに沈んでいく夕陽を撮ろうとしていた。
 水越さんは、その場所にはまったく関心のないようで、ずんずんと氷のなかに入っていく。そして、他の人たちがフレームのなかに入れようとしている氷塊の向こうに行ってしまい、反対側から、つまり夕陽があたる側を撮っていた。他の人たちは、形の良い氷塊の向こうに夕陽を撮ろうとしていて、そうすると、形の良い氷塊の光が当たらない側を撮ることになる。形は良いけれど、ただの形にしかならない。
 水越さんは形にはこだわらずに、”自然の表情”が一番良い方へと足を運ぶ。にもかかわらず、そのようにして撮られた自然の形もまた美しいものになる。というよりも、自然はどこの部分であっても、形の美しさを秘めているものなのだろう。それを引き出すのが表現者なのだろう。
 多くの人が”見栄えが良い”と感じるものを写真に撮れば良いものになるかというと、それほどでもないことが多い。これはいったいどういうことなのだろうか。
 ”見栄えが良い”と感じる感覚は、自分の純粋な感覚だと思っているだけで、実は、知らず知らずメディアをはじめ他の誰かに擦り込まれていて、自分では無自覚のままステレオタイプに陥っている可能性がある。
 その感覚を自分もまたコピーして再生産してしまうから、そこに表れてくるものに対して、発見もなければ、ときめきもないのかもしれない。だから、「まあ綺麗けれど、思ったほどでないなあ、なんか物足りないなあ」という感じになるのかもしれない。
 その「なんか物足りない」という理由がいったい何なのかわからないまま、そうした感覚を次々と再生産していくのが、現代社会なのかもしれないと思ったりする。
 流氷の上で、夕陽が沈んで他の写真家達が帰ってしまった後、水越さんは独りで撮影を続けていた。
 他の人たちは、我々が到着する遙か前から場所を決めて三脚を立てて待っていた。水越さんはのんびりとしたもので、ぎりぎりになってから車でその場所に向かった。そして、セッティングをしたと思ったら、「背中に背負っていると自分では思っていた鞄(レンズが入っている)を車に置き忘れたことに気づき、取りに戻っていった。そうしているうちに、太陽はどんどん沈んでいくのだけど、まったく焦ったところはない。
 「あり得ないこと(レンズを忘れるということ)が起こってしまいましたねえ、これから気を付けないと」なんて言ってニヤニヤしている。
 それで、他の人が撮影を引き上げた後も、独りで黙々と撮っている。
 「こんなに暗いのに大丈夫ですか?」と私が聞くと、「へまをしたから、取り返さなくちゃ」と言って、「夕陽が沈んだ後の、色がいいんです」と言う。
 夕陽が沈んだ後の色といっても、都会で空が真っ赤になるようなものではなく、普通の人が見れば、ただの薄ぐらがりだ。だから他の写真家は、引きあげていったのだ。
 たしか野町和嘉さんも、若い頃、砂漠に惹かれた理由として、夕陽が沈んでしまった後の薄暗さの中に豊かな色があることを発見したからだと言っていたことがあった。
 彼らには、他の人にとっては薄暗がりにしか見えない状態のなかの豊かな色が見えるのだろう。それをフィルムに取り込む術を持っているのだろう。
 野町さんも水越さんも、他の人が、”見栄えが良い”と思う物にはまるで興味がなく、自分にしか見えないものを追っているという感じだ。それを意識的に作為でやっているのではない。取り憑かれたようにそれを美しいと感じている。だから仕上がる写真は、とても美しい。綺麗とかではなく、何とも言えない美しいものになる。
 美は、おそらく、予め決まった場所にステレオタイプに存在しているのではなく、人間の魂の陰影と呼応して”引き出される”ものなのだろう。引き出されることによって、自分の感覚が広げられるからこそ、美しいと感じるのだろう。そして、引き出され、広げられることがわかるからこそ、物足りないとなどと微塵も思うことがないのだろう。
 綺麗けれど何か物足りないものを感じる時というのは、おそらく、それを見る前と見た後で、自分の何も変わらないからなのだろう。