第1165回 偶然と必然は糾える縄のごとし

 

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事任八幡宮 (静岡県掛川市


偶然と必然は、糾える縄のごとしであり、偶然だったことも、後から思えば必然だったのかと思わされることが多い。

 昨年の冬、京都から東京に移動する時、出発の前日までは長野経由を考えていたが、大雪で道路の状況に不安があったので、東海道を通ることに変更した。

 東海道を通るのならば、ただ車で走るだけではつまらないので、どこかに寄り道をしようと考えた。ちょうど数週間前、写真家の水越武さんと、北海道の積丹半島を一緒に旅していて、水越さんは愛知県出身で、水越さんのことを思い出して、東三河の霊山である本宮山に登ろうと計画した。

 そして、麓の新城に一泊した時、宿の近くに縄文から弥生へと続く遺跡があり、弥生遺跡の上に石座神社が鎮座し、その鳥居をくぐってすぐのところに、アラハバキ神が祀られていた。

 その時は、とくに深くは考えなかったが、その後、本宮山に登ったら、山頂のところに、アラハバキ神が祀られ、すぐそばに巨大な磐座があった。さらに、麓の、三河一宮である砥鹿神社にもアラハバキ神が祀られていた。

 水越さんと一緒にまわった小樽や余市周辺には、環状列石がたくさんあり、ここにある金吾龍神社が、アラハバキ神の本拠とされている。そして、これらの環状列石群から真北のラインにそって、北海道、そして東北の奥羽山脈にそって、縄文遺跡、環状列石、アラハバキの聖域が数多くある。

 このように東北や北海道に多く見られ、縄文との関連が考えられるアラハバキ神が、東三河の重要な聖域に祀られていることを初めて知った。

 そして、本宮山から東に向かうにあたって、そのまま車通りの少ない山沿いのクネクネ道を東に進もうと考え、掛川の阿波々神社という粟ヶ岳の山頂付近に巨大な磐座祭祀場があることを知っていたので、通り道にあたることもあり、ひとまずそこを目指した。

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阿波々神社 (静岡県掛川市

 そして車を走らせていると、ふと数年前、屋久島の写真家の山下大明さんの写真展が掛川の隣の袋井で野草社の主催で行われ、その時に観に行ったことを思い出した。野草社の代表の石垣さんとは、2年前、私が関わった大山行男さんの写真集「神さぶる山へ」でも縁があり、京都の私の家にも来ていただいた。石垣さんは、かなり霊感の強い方で、電話などでもそういう話をすることがあるのだが、その石垣さんが、掛川の事任八幡宮をとても大事にしているということを思い出した。袋井に会社を作ったのも、この神社が一つの縁だという話も聞いていた。

 それで、通り道から少しだけ逸れるということもあり、事任八幡宮にも足を伸ばした。そして、その後、粟ヶ岳の阿波々神社が、この奥宮に当たり、さらに、二つの神社が、南北のライン上にあることに気づいた。粟ヶ岳は、南アルプスの一番南の端に位置しているので、この南北ラインは南アルプスラインでもあるわけで、ならば、その北に何があるのか確認したら、ゼロ磁場で知られる分杭峠諏訪大社戸隠神社という聖域が並んでいた。

 これは何かあるぞと直感し、さらに、このラインが銅鐸の東限と関係していると発見し、阿波々神社の祭神の天津羽羽神の別名が阿波姫であることなどから、三河と四国との関係が気になり始め、四国を旅した。

 四国で天津羽羽神を祀っている聖域が、土佐の朝倉神社だが、このあたりも歴史的に実に不可思議なところだった。

 

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朝倉神社は、背後の赤鬼山に鎮座していた。その麓に朝倉古墳がある。(高知市

 土佐は、縄文から弥生までは、日本でも最大級の田村遺跡というのがある。そして、銅鐸の西限である。

 この土佐で栄えていた文化は、弥生時代後半で、ぷっつりと途切れる。土佐は、日本の都道府県のなかで、岩手より北の地を除けば、前方後円墳がない唯一の場所である。

 そして、土佐一宮土佐神社の祭神は、出雲の神々である。さらに、地方神にも関わらず、畿内の王権からは、大神として特別視されていた。

 さらに、古代の資料で、土佐の国造と、阿波の国造が同族だとわかった。

 ならば、阿波にも、天津羽羽神の聖域があるだろうと探したら、吉野川の日本最大の川中島である善入寺島に、かつてはあった。もともとこの川中島は、明治までは粟島という名で、3000人もの人が住むところだったが、明治維新の後、住民は退去させられ、聖域は破壊された。

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吉野川に浮かぶ日本最大の川中島、善入島。(徳島県吉野川市

 この聖域は、阿波青石と言われ、徳島地方の古墳の石棺などにも用いられている緑色片岩の岩盤の上に築かれていた。

 今では、立ち入り禁止の荒れた竹やぶになって、聖域の面影がまったくない。

 天皇の神格化が行われていく時代に、あまりにも強引なやり方で、歴史の闇に葬られている。天皇の神格化にとって、あまり好ましくない歴史でもあるのか?

 縄文から弥生、そしてヤマト王権の時代へと移っていくなかで、表から裏になったものがある。

 裏になったものは、完全に消えてしまったのではなく、むしろ、堂々とした形で、地元の人々に大切にされる形で残り続けてきた。

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吉野三山に鎮座する波宝神社。(奈良県五條市)。ここにも、かつて天津羽羽神が祀られていた。

 

 出雲の神々を祀る土佐神社は、中世も、そして今でも、地元では大切な聖域だし、掛川の事任八幡宮も、「事のままに願いが叶う」などとされ、参拝者が非常に多い神社である。

 祟り神の菅原道眞を祀る天満宮が、学問のための聖域となったり、東大阪にある石切神社は、物部氏の聖域であるが、腫れ物を治す神様として全国的にその名を知られて、毎日のように大勢の人が熱心に百度参りを行っている。百度参りとは、本殿前でお参りして、入り口に戻り、再び本殿前でお参りすることを百度繰り返すこと。

 こうした例はいくらでもあるが、歴史の裏にまわったものは、生き残りの戦略なのかどうかわからないが、奇妙な変容を遂げて、人々の心を掴み続けている。

 そして、人々は、その本来の姿を、あらためて考えることはない。

 なので、普通に、それらの聖域に足を運ぶだけだと、聖域に記された情報じたいが曲げられているので、何もわからない。

 真相に近づくためには、その場所と、他の場所とのつながりを通して、洞察していくしかないのだ。

 しかし、このつながりは、計画的に見出していくことは難しい。なぜなら、上に述べたように、大事なところが破壊されていたり、本来のものが、裏のひそやかなところに隠れていたりするからだ。表の立派な本殿だけを見ていても、何もわからないし、裏の情報は、あまり伝わってこない。

 そうした状況で、裏をつないでいく力は、偶然と必然が織り成す縁の力であり、この縁の力は、いったいどこからやってきているのか不思議な気持ちになることが多い。

 そうした不思議が続くと、自分の意思や欲求で動いているのではなく、何ものかに動かされているような感覚になってくる。

 

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