日本は、アメリカや中国などに比べると小さな島国ですが、北から南まで長い国で、その自然や文化の多様性は、無限とも言えるほどの豊かさがあります。
現在、私が取り組んでいる「 Sacred world 日本の古層」のプロジェクトで、ピンホール写真で撮った訪問地域が広がってきたので、ピンホール写真紹介のWEBSITEを更新しました。
https://kazesaeki.wixsite.com/sacred-world
私は、長年、優れた写真家の仕事をそばで見てきましたが、個人的に、ピンホールカメラという道具を愛好しているわけではありません。
しかし、今、取り組んでいるプロジェクトにおいては、ピンホールカメラで試みるのが、もっとも相応しいと考えています。
なぜなら、
「未来も過去も、目に見える世界の基準を超えたところに存在している。そのため、目に見えている物に意識を限定させる映像ではなく、見えているものと見えていないものの間の微妙な領域に対する想像力を養う映像が、過去と現在と未来の橋渡しになる。」と考えるからです。
私が、古代世界を自分に引き寄せたいのも、古代マニアだからではなく、古代と現代と未来は、決して断絶しているわけではないと考えるからです。
そして、未来は、現代の基準の延長ではありません。現代の基準や価値観の範疇でやっている限り、「新しい」という言葉で表現されるものも、すべて、「現代」のコピーです。
過去においても、現在の価値観や基準を当てはめて分析してしまうと、見誤ったり、見落としたりするものが増えます。
考古学の成果は素晴らしいですが、気をつけなくてはいけないと思うのは、発掘された遺物における実証主義だけをもとに過去を分析しようとすることには限界があるということです。
現在という時代一つを考えてもわかりますが、私たちの周辺には、膨大な物が存在しています。
これらの多くは、長い時間の経過のなかで、当然ながら朽ち果ててしまい、ごく一部だけが、未来の人間によって発掘される。
その時、電気製品やコンピューターが発見されても、それがどういうものだったか、未来の価値観で分析するのは簡単ではないでしょう。
海に沈んだ軍艦が発見されれば、未来の人間にとっても、戦争のことは理解できます。
しかし、第二次世界大戦など大きな戦争があったということは、とても重要な歴史的事実ですが、それよりも重要なことは、その戦争を人間がどう受け止めて、その戦争の後に、どういう価値観の時代が築かれたかです。
これは、未来の人間にとっても同じでしょう。
私たちが、古代を考える時も同じで、考古学的な発見や記録をもとにヤマト王権とそれ以外の勢力の戦争を時代ごとにつないでいくと、古代の歴史の変遷が理解できたかのように錯覚してしまいますが、それは、この100年の歴史にあてはめると、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦があった、という理解でしかなく、第二次世界大戦後の複雑な世界は、とうてい理解できません。
過去や未来のことは、現在、目に見えていることや、理解できていることを元に、判断はできません。
いずれも、見えているか見えていないかわからない微妙な領域に存在しています。
そして、その微妙な領域に対する想像力を養うことでしか、未来や過去は、自分に引き寄せられないでしょう。
引き寄せたところで、理解できるものでないかもしれない。
しかし、理解できなくても、それらに対する心構えは、整えられるかもしれない。
人が生きていくうえで大切なことは、おそらく、何事においても、わかったつもりになることではなく、わかるようでわからないことに対する心構えを整えることであり、それに対する作法を身につけることで、その心構えは、より整えられていくと思われます。
ピンホール写真というのは、わかるようでわからない領域に対する一つの作法なのです。
「Sacred world 日本の古層」は、ホームページだけで販売しております。(税込、発送料込み1300円)