第1390回 人間の傲りを抑制する日本の聖域

真脇遺跡 石川県鳳珠郡能登町

 ギリシャパルテノン神殿やエジプトのピラミッド、シリアのパルミラ、マヤのティカール、エチオピアのラリベラ、アンコールワットやボルブドゥール、タクラマカン砂漠楼蘭遺跡も含め、世界中に残る遺跡の大半を訪問したけれど、日本の古代からの聖域は、それらとは少し異なったものを感じる。

 ほとんど人が訪れなくなっている場所でも、なぜか今も続いている何かがあると感じる。

 なぜそう感じるのか?

 それは、その場所に原因があるかもしれないし、それとも、自分自身に原因があるのかもしれない。

 世界中に残る遺跡を訪れる時は、そこに在る「物」を見に行ってしまっていたのかもしれない。

 とはいえ、マヤ遺跡などは、物よりも周りのジャングルが印象に強く残っているし、楼蘭は、物じたいは朽ちてしまっているので、砂漠の風景として記憶に残っている。

 日本の聖域の特徴は、喩えて言うならば、”のれん”のようなものだ。そこに在る物は、こちら側と向こう側の境界を示しているにすぎず、風が吹くと、その境界も揺れ動く。

 そのように、日本の聖域は、向こう側の存在を意識させるために存在している。

石上神宮の禁足地。奈良県天理市

 おそらく世界中にも、同じようなものがあるだろうが、飛行機に乗って訪れる時において、”のれん”のように気配を伝える場所は、見落としたり、通り過ぎてしまっているのだろう。日本に来る外国人観光客が、立派な天守閣のある城や金閣寺などを好んで訪れるように。

 それらの歴史的建造物もまた人類の足跡を明確な形で伝えているのだが、その足跡は、過去のものとして整理されやすい明確さがある。形や様式が明確なものは、カテゴリーで整理されやすいから。

 それに対して、形があるかどうかのものや、それ自体の存在感を主張するのではなく、それ自体の存在の向こう側を指し示すようなものは、カテゴリー化しずらい。

 なぜなら、その向こう側がどういうものなのか、今でもよくわからないから。

 よくわからないけれど、何かがある。そして、その何かは、わからないゆえの不安を与えるが、心惹きつけるものもある。

女夫岩遺跡(島根県出雲市

 日本人が、古くから畏れとしてきたものは、たぶん、そういう感覚だろう。

 現代でも、私たちは、人との関係においても、「畏れ多い」という言葉を使う。 

 その相手や物事に対して、自分では不十分なのではないかという謙遜の気持ち。

 この「畏れ多い」という感覚が続くかぎり、人間は、自分を省みることを忘れない。しかし、「畏れ多い」という感覚を失ってしまうと、人間は、傲慢になる。

 ”のれん”の向こうに、本当に何かがあるのかどうかはわからないが、それを在るものだとみなして、それを意識させるという日本の聖域は、人間の傲慢さを抑制する働きがある。

 罰が当たるという素朴な感覚も含めて、そういう感覚をもたらすような場や物を作り上げてきたことじたいが、この国の深い叡智で、文化なのだろうと思う。

 現代人は、高度な技術や豊富な知識情報を持つことが叡智だと思っているが、たぶん、本当の叡智は、人間の傲慢を抑制するものなのではないだろうか。なぜなら、高度な技術や豊富な知識情報は、人間を分裂させ、人間を滅ぼす可能性も高いが、放っておくと膨らんでいく人間の傲慢を抑制する働きが、けっきょくのところ、人間と森羅万象の関係を調和させ、人間を救済する力なのだから。

 近代西欧文明の始まりとなったルネッサンスにおいて、高度な技術も豊富な知識情報も備えていたレオナルド・ダ・ヴィンチが、亡くなるまで手元に置いて、最後の絵画とされているのが、『洗礼者聖ヨハネ』だが、この絵画で重要なのは、ヨハネの目と、その指先だと思う。

 この絵画のヨハネの指は、”のれん”のような日本の聖域に通じるものであり、私たち人間の認知の及ばない領域の存在を指している。

 ヨハネのような醒めた目で、ダヴィンチは、その領域を見つめて、二つの世界のあいだに立っていたのだろう。

 美術館で、群集の背中の向こうから絵を観賞しても、そのことはわからない。それどころか、ダ・ヴィンチが、もっとも望んでいなかった「過去の傑作」というレッテルで整理され、その金銭的価値が話題になる。

 現代を生きる自分に、ダ・ヴィンチが描いたヨハネの指の先を引き寄せる人は、ほとんど皆無だろう。

 近代の始まりにあたるダ・ヴィンチの魂は、過去のものではない。西欧文明の根元にある聖書においても、始まりと終わりは同じであると説かれている。

 そして、わざわざ美術館に行かなくても、日本には、ダ・ヴィンチが描いたヨハネの指の先を暗示するところが、不思議なほど、今でも数多く残っている。

能登一宮 氣多大社社叢  入らずの森

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 現代人は、神話が創造された時代を今と無関係だとみなして生きていますが、生物としての人間の宿命が変わらないかぎり、神話の時代と現在では、本質的に何も変わっていません。

 というより、近代合理主義のように万物の尺度を人間に置くという視点が極限に達し、様々な矛盾が強まった時に、万物の尺度を森羅万象の側に置くという神話的な視点に180度転換するということが、過去の歴史においても何度もおきており、近未来においても、その可能性があるでしょう。

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