第1413回 写真に気配が写るとは?

 私がピンホールカメラで撮っている写真において、”気配”のことについて質問されることがよくある。

「磐座」や「御神木」「滝」などの聖域に立った時、古代から大切に守り継がれてきた何か、もしくは秘められた先人達の声などを嗅ぎ取ろうとして撮影しているのか、とか。

 しかし、実際には、意識して、気配を写すことはできない。

 ピンホールカメラの宿命として、撮影者の意図よりも、長時間露光の結果として何ものかが映るということを超えられないから。

 ただし、撮影前の段階では、その場所と自分の関係が深くならざると得ない。

 何枚も撮影できないので、どこか一点に三脚を立てなければいけない。そして、最善だと思われるタイミングで、針穴を開けなければいけない。

 そうすると、三脚を立てる前に、周辺を歩き回るし、目を凝らして状況を丁寧に観察して、その聖域で最も大事だと感じられるところや、その聖域の特性が集約しているようなところを探して判断せざるを得ない。

 また、風も吹いているし、太陽も、雲の状況で陰ったりするので、その場の光量も変化していく。そうした時の流れの中に佇む時間が、撮影の前に、どうしても長くなってしまう。

 また、針穴をあけているあいだも、太陽光線の変化によって露光時間が変わってくる。針穴をあけた瞬間は、陰っているので10分くらいかと判断していても、雲間から太陽が顔を出すと、10分よりかなり前に針穴を閉じる必要がある。

 ピンホールカメラでの撮影は、その場の様々な状況に対して、丁寧に関わらざるを得ない。聖域というのは、当然ながら、そういう場所なのだが、自分の願い事のために聖域を訪れたり、聖域の空気を吸って、いい気持ちになりたいだけの場合は、その聖域を自分のために活用する意識が勝っているので、状況を自分に都合よく見たり解釈することが多くなるだろう。

 ピンホールカメラで撮影することは、意識的に何かを捉えるのではなく、無意識のうちに、何ものかを招き入れるという行為なので、その場所に漂うものや蠢くものを、知らず知らず感知しているということは、ありえる。



 その気配というものは、霊界現象のようなオカルト的な話ではなく、あくまでも物理的なものだ。具体的には、空気や光といった、当たり前すぎて人間がその存在を特に意識していないけれど、周りに満ちている大切なものの動き。それらの物理的な波動。

 私は、時折、螺貝を吹く。螺貝を吹く時は、楽器を演奏しているという感じではなく、波動を呼び起こしているような感じで、その波動を通じて、自分と世界がつながる。人間の体の中の様々な器官も、DNAやミトコンドリアなど、螺貝と同じく渦巻構造であり、同じ構造のものは、共鳴しやすい。

 光や風の動きも、ミクロレベルでは渦巻構造なのではないかと思う。気配を感じるというのは、この渦巻構造のエネルギーを感知することなのではないかと思う。

 そして、ピンホールカメラで撮影する前に、周辺を歩き回ったり光の変化を読み取ったり、いろいろな作法を重ねるのは、撮影対象を一個の物としてではなく、動いている世界との関係で成り立っているものとして向き合っていることになる。

 こういう向き合い方じたいが、その場や、その物事に対する配慮であり、その配慮が、結果的に、対象が秘めているものに耳を傾けるということになっている。

 道具というのは、人間によって使われるものとは限らず、人間の作法を整える役割もある。

 職人の人は、そのことがよくわかっている。

 人工砥石は素人でも使えるが、高品質な天然砥石は、素人ではうまく磨けないが、一流料理人は、その天然砥石を求める。

 また、切れ味鋭い日本刀は、腕の力だけで振り回すことが難しく、それに相応しい身体の使い方を身につけなければ、使いこなせない。

 便利な道具より、扱いづらい道具の方が、その真価が発揮された時には、より素晴らしい働きをする。その道具の力を引き出す人間力がくわわった時に限って。

 その時に初めて、道具は、人間と世界を深いところで繋ぐ神聖なものになり、そうした道具を使って作り出された物には、気配が満ちる。漆工芸でも、家具でも、なんでもそうだ。

 匠が作り出す物が、大量製品の機械製品と大きく異なっているのは、物から醸し出される気配の違いだ。

 最新鋭のカメラよりも、古い時代のマニュアルカメラの方が、写真の質が良いことは風の旅人の編集を通じて実感していた。何よりも気配が違っている。

 その理由として考えられるのは、古い時代のマニュアルカメラというのは、一枚の写真をとるために、シャッター速度、露出、ピントを操作しなければならず、一瞬のあいだにそれらを成し遂げることは達人でも難しく、その時の状況を読んで、速度か露出かピントのいずれかを決めておいて、最後の決定的な一瞬は、どれか一つの行為だけですませる、というふうにしなければできない。

 つまり、事が起こる前に状況を読むことが重要で、この読む力というのは、経験を積むと、どんどんと鋭くなっていく。

 人間は、この読む力、予知する力、洞察する力を鋭くすることもできれば、鈍くしてしまうこともある。

 便利すぎるものは、知らず知らず、それらの力を鈍くしてしまう。

 そして鈍い状態でアウトプットされたものは、何かが足りない。

 料理でもそうで、いくら有名なレストランに行っても得られないお袋の味という懐かしい味があるが、この微妙で、とっても大事な味は、対象に対する配慮から生まれる力、つまり洞察力と関係している。

 人間がこの力を失っていくと、人間社会は、殺伐としたものになっていくし、危機察知能力も減退してしまう。

 

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