第1162回 ピンホール写真と、祈り。

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高性能のデジタルカメラは、撮影者が狙うような絵を作り出すために非常に有用なツールとなっている。

 それは、撮影者の満足度を高めるために適しているかもしれないが、そのアウトプットが、自分と世界のあいだの作法として相応しいものかどうかは別問題だ。

 世界には、自分の努力で何とかできることと、自分が努力したところでどうにもならないことがある。

 自分が努力したところでどうにもならないことに目をつぶって、それについて何も考えずにすめば心の安定を保てるかもしれないが、この世界で生きていくかぎり、そういうわけにはいかない。現在のコロナウィルスの問題もそうだし、近年、ますます酷くなっている自然災害においてもそうだ。

 自分が努力したところでどうにもならない試練が続く時の苦しみを、どう受け止めるべきなのか。この問いを、人類は、何千年も考え続けてきた。

 どれだけ便利な時代になったとしても、この問いから人間は自由になれない。

 そして、祈りというのは、その問いから生まれた。そして、祈りは宗教となった。

 世界には多くの宗教があり、その宗教を原因とする争いや残酷な事態も生じており、現代人は(とくに日本人は)、宗教に対してアレルギーを持っている人が多い。

 それでも日本人は、正月には神社や寺に初詣に出かけるし、旅先に神社があれば、ごく自然に参拝する。自分は無宗教だと言いながら、祈りを捨てていない日本人は多い。

 つまり、日本人は、宗教団体に所属していないというだけで、祈らない民族ということではない。

 気をつけねばならないことは、宗教も祈りも、自分が努力したところでどうにもならないことを受容できない心理に陥った時、邪悪なものに変容する可能性を秘めている。

 その時、宗教も祈りも、自分の願いの実現という欲の手段となってしまうからだ。

 本来は、宗教も祈りも、自分が努力したところでどうにもならない物事を受容するための、心を調える作法だった。

 芸術もまた、同じだった。

 努力しても思うようにならないのなら、努力する必要がないと考える人は、この世界を自分の欲の実現のための場と考えている。

 この世界を自分の欲の実現の場と考えない人にとって、努力することは祈ることと同じであり、それは、自分の心を調えるためのものだ。その努力や祈りは、欲の実現につながるのではなく、世界の理解と受容へとつながる。

 自分が努力したところでどうにもならない試練に満ち溢れた世界の中で生きていくうえで、本当の救いは、無聊の慰めで気を紛らわすことではなく、その世界を理解して受容することでしかない。

 世界を理解することは、科学的に証明されている事実を、いろいろ覚えるということではなく、世界を構成する様々な関わりを認識し、自分がその関わりの一つであることを納得することだろう。その関わりは、過去も未来も含め、どこまでも続いていく、目眩がしそうになるほどの連鎖だ。

 そして、受容というのは、その重さを受け止めて背負うことである。

 努力するところは精一杯の努力をするが、努力してもどうにもならないことは、その宿命を受容して、しっかりと備えをする。備えは、運命に翻弄されない確率を高めるためのもので、万全な状態を作るものではない。だから、備えをしてもダメならば仕方がない。生命の原理は、そうなっている。

 話が冒頭に戻るが、実は、高性能のデジタルカメラと違って、ピンホールカメラというのは、この生命原理と近いものがある。

 

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 撮影するにあたって、光の状態とか、風の強さとかを読み取り、どこに三脚を立てるか、判断する。針穴を開いているあいだも、そろそろ穴を閉じるかどうか、集中して、葛藤する。

 暗いとまったく映らないとか、写っている範囲が明確にわからないとか、長時間露光なので、同じ場所で一回しか撮影しないなど制約が多いために、思うようにはならない。なので、ダメなら仕方がない、という気持ちを常に持っている。

 しかし、経験を重ねていくうちに、備え方が向上し、精度は高まってくる。

 この写真行為は、祈りと共通するところがある。根本のところにあるのは、自分を超えたものの受容である。

 ピンホールカメラで撮った聖域の写真は、遥かなる古代からつながる歴史の重みを受け止めて背負う気持ちを、自分の中に生じさせる。大それたことであるが、そういう感覚が自ずから生じる。

 私たちは、制約の多い肉体に縛られた存在であるが、「魂」という言葉でしか表現できない自分に働きかけてくる力を感じることがある。

 私は、幽霊とか霊魂などは実際に見たことがないので、それらのことについて詳しく知らないが、植物であれ、岩であれ、魂が宿っていると実感することはある。その魂は、具体的に取り出して科学的に分析できる物ではなく、交流もしくは往還するエネルギーのようなものであり、一方に備えがなければ、その交流や往還は起こらない。

 写真もまた、古代の宗教や芸術と同じように、自分と世界のあいだの敬虔なる作法であると考えて撮影行為をしている人がどれだけいるかは知らない。

 写真に限らず、「アート」が金融商品のようになっている現代社会において、「アート」の性質をそう捉えている人が、どれだけいるかは知らない。

 しかしながら、いくら世の中が変わろうとも、人間と世界の関係の本質は、古代から変わっていない。

 変わったのは、世界の理解と受容における人間の真摯さだけかもしれない。

 

 

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