田口ランディの新著 サンカーラ〜この世の断片をたぐり寄せて〜

 田口ランディの新著、「サンカーラ:。この本は、ほんと素晴らしい。友人だから言うのではなく、この本には、今まさに必要な言葉凝縮していると思う。

 昨年の震災後、色々な言葉が社会に泡のように現れては消えていったが、この本の言葉は、そういう類のものではない。何が違うのかというと、多くの言葉は、生身の自分を他所において社会の現象をあれこれ分析する物であるか、生身の自分にどっぷり浸りきったものばかりなのだが、田口ランディは、その両方を自分の
身体、記憶を通して、喘ぎながら統合しようとしている。

 21世紀は統合の時代だとよく言われるが、生身の自分を他において、学問的な何かを統合しようとしても、おそらくそれは統合にならずに、また新たな壁の中のグループにしかならないだろう。統合すべきは、自分と世界なのだ。

 いみじくも、昨年の震災後の心のありようを探るランディの言葉が、自分と世界の統合への祈りと疼きに昇華していく。それらの言葉に触れると、やはり昨年の震災が、20世紀的な世界から21世紀的な世界へと転換していく大きな節目になっているのだということを改めて実感する。田口ランディは、きっと時代の巫女なのだと思う。何ものかに選ばれてる。そして、この本の表紙が、震災のすぐ後にできた「風の旅人」の43号の表紙と同じ装丁であることに、私は、とても運命的なものを感じる。

 43号は、結果的に、あの震災を預言したような内容になってしまった。自分に予知能力があったとか、そんなことを言うつもりはない。そうではなく、何と言えばいいのだろう、20世紀が、自分の計画したことの先に未来を築くという世界像の中で生きて、それを当たり前のことだと信じていた時代とすると、21世紀は、自分の計画の延長ではなく、自分を超えた何か大きな構造みたいなものがあって、その一部を、一人ひとりが担っていることに自覚的になっていく時代ではないかという気がするのだ。その感覚は、おそらくずっと昔の人が抱いていた感覚でもあるだろうと思う。しかし、悪魔的な生理を持つ人間に、その感覚を間違って悪用されると、全体主義の歯車にさせられてしまう。だから、見誤らないようにしなければならない。何が違うのか。その最も大事なポイントは、この「サンカーラ」に滲み出ている。それは、足掻きであり、祈りであり、痛みであり、同じ箇所に胡座をかいて安心して開き直って傲慢にならないということだ。常に、それでいいのだろうかと自分に問いかけながら、世界との距離を探り続ける。そうすると、啓示のように、自分の身体の奥深くに言葉になるかならないかの微妙な感覚として自然に降りてくるものがある。その啓示に素直に心を開いてたぐり寄せるようにして確認していく。素直になることを阻害する様々な偽り(虚栄、自己保身、その他)と闘い続ける。常に、この世の断片をたぐり寄せながら、自分の身体の奥深いところとすり合わせて行く。そうすることが結果的に、世界と自分の重なりに気づくポイントに近づいていくことなんだろう。21世紀の統合というものが、そうでなくて、いったい何なのだ。大企業が統合したり、大学が統合したり、学問が統合したりといったことは、単なる取捨選択でしかなく、それは20世紀的な合理主義の延長でしかない。統合という言葉よりも、集めて重ねていくといった方が実感として納得できる。人生の記憶もまた同じだ。そして、人間は、この世に存在する時も、この世から消えた後も、その記憶の重なりの中で生きている。その重なりの中に、あらゆる経験、学問、芸術、人間関係、歓びや悲しみ、その他が凝縮している。世界は、その記憶の中で一つになる。それが自分ということの認識とともに。