?道具が作る人間意識や価値観〜21世紀編

 先日のブログで、20世紀の人間社会を、ザ・コダックの発明とフォード式ベルトコンベアで巨視的に俯瞰したが、その論考の真偽を議論するだけなら、それはまさに20世紀的な、世界を分断し、分析する思考特性の癖だろう。ザ・コダックやベルトコンベアは一つの喩えであり、似たようなものは他にもあるが、一つ一つ検討することじたいは、あまり意味がない。
 世界は連続しており、私たちは、今、新しい世紀に生きている。
 20世紀の延長線上にある21世紀であるが、20世紀にはなかった技術が生まれている。近年の世界を大きく変貌させているのは、コンピューターとインターネットであることに異論をはさむ人はあまりいないと思う。
 しかし、これらの技術の発明じたいは、ザ・コダックの発明(1890年)に遡るニエプスの写真発明(1826年)と等しい。
 つまり、ニエプスによって写真が発明されてからしばらくは、前の時代の価値観のなかで写真が使われていた。発明初期の写真は、絵を描く前のデザインスケッチ用に用いられていたのだ。19世紀中旬に活躍したドラクロワやアングルは、写真を絵を描くための手段として活用している。
 写真行為を表現活動として認めさせようとする動きは、イギリスのヘンリーエマーソンが、1889年に唱えた「自然主義写真」あたりからであり、その意思を引き継いでニューヨークの町中で切れ味鋭いスナップショットを撮って、その表現方法を確立したアメリカのステーグリッツが、近代写真の父と言われている。 
 コンピューターやインターネットの発明も、しばらくの間は、20世紀型の大衆マスメディアと大量消費社会、そして分断の価値構造(例えば、オタク化)の中で用いられることがメインだった。
 しかし、ここ最近になって、コンピュータやインターネットは、20世紀とは異なる新たな価値構造を生み出す道具になる可能性が出てきた。
 リナックスウィキペディアが出てきた時、20世紀型の分業と専門の時代にイニシアチブを握っていた学者や専門家は、否定的な見解を述べていた。素人の力を結集したところで何ができるのだと。しかし、インターネットを通じた集合知の力は凄まじく、もはやウィキペディアの情報は信頼に値しないから使わないというような人はめったにいないし、スマートフォンでトップシェアになったアンドロイドOSも、リナックスがベースになっている。
 さらに、同じく集合知で作り上げたものとして、ワードやエクセルソフトの代わりになる無料ソフトOpen office.org http://www.openoffice.org/ja/ があるし、ウィキペディアのように一般の人々を巻き込んで無料で語学学習と翻訳サービスを提供する Duolingo http://duolingo.com/ が始動を始める。
 http://jp.techcrunch.com/archives/20120522recaptcha-founders-language-learning-site-duolingo-to-open-to-the-public-on-june-19/

 昨年の震災時でも、インターネット技術の新たな段階と言えるSNSが、集合知を生み出し、ボランティアの組織化や、有機的な活動(部門ごとの連関による重複や無駄を作らない)に貢献した。また震災前に起こったアラブ諸国の革命も、SNSが引き金になっている。
 それともに、近年、若い人を中心にシェアハウスに住む人が増え、車や様々な家財道具をシェアし始めた。また、人気のオークションなども、一つの物を、別の人が時を隔ててシェアしていると言えるだろう。
 20世紀は、核家族などが典型だが、人々を分断化し、多様な価値などの吹聴しながら、一人ひとりに、より多くの新しい物を購入させ、それを消費して捨てさせ、また新しい物を買わせるという構造で成り立っていた。その構造のなかで積み上げられた数字が、経済の大きさ、豊かさの基準だったのだ。
 しかし、近年、シェアとか集合知という新たな構造によって、20世紀型の豊かさの基準とはまったく逆行する現象が生じている。
 物事がシェアされるようになり、集合知で作られた無料のものを人々が活用するようになると、従来の基準で計られる経済の規模は小さくなって当然だ。右肩上がりの数字の上昇は、もはやありえなくなる。そうすると、右肩上がりの数字の上昇に合わせて構築されている徴税、年金、保険、車や住宅などのローン制度等、20世紀型のモデルに矛盾が生じてくるのも当然のことになる。
 そして、20世紀型のモデルの中でイニシアチブを握ってきた人たちが、保身の為に、それを強引に維持しようとすればするほど、それらの矛盾は拡大していく。
 さらに、ウィキペディアリナックスのように個人の権益が消し、全体の利益を優先する仕組みがあたり前のことになってくると、著作権特許権など個人の権利や利益を重視する20世紀的な価値構造が、崩れていく。
 フリーソフトの初期段階においては、海賊版などが著作権を著しく破壊していたが、近年になって、インターネット上の新たなシステムが、海賊版著作権という対立構造を無化しつつある。
 数千万人の視聴者を集め、従来のテレビ局に脅威を与えているニコニコ動画は、各種の著作権協会とまとめて契約を行い、「ニコニコ動画」への動画のアップロードや、その視聴に関する許諾をとりつけている。そのことを認めない音楽や映像のコンテンツ制作者や会社は、ニコニコ動画の莫大な数の視聴者から無視され、結果として、それぞれの市場でのソフト販売も難しくなるそうだ。
  さらに、映画やテレビ番組定額見放題サービスHULU http://campaign.hulu.jp/?cmp=328&wapr=4fbca182 や、1600万曲を聴き放題のスポッティファイhttp://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A90889DE6E2EBE5E2E2EBE2E2E3E2E7E0E2E3E0E2E2E2E2E2E2 などのネット上の新しいシステムが、世界中に散らばる映像や音楽などの莫大な数の表現コンテンツを統合し、違法ではなく、正当に、それらを楽しめる状況ができつつある。
 書籍についても、プロジェクト・グーテンベルク青空文庫をはじめ、著作権の切れた莫大な数の本を無料で読める。既存の出版物の電子化における権限をめぐって日本の出版界は守りに入り、そのことが日本の電子書籍化を滞らせているが、近未来には、出版物も映像分野のHULUのような月額定額制度になるか、スポッティファイの音楽のように読み放題ということになるのではないか。著作権も、まとめて幾ら、という取り決めになるだろうし、そこに加わりたくない表現者や会社は著者の目に止まらなくなるかもしれない。
 その結果、一般大衆をターゲットにしたCDでは食えなくなった音楽家が、コアなファンを大事にしながらライブで食べていこうとしているように、文章や映像で表現を行う者も、それに近い形になっていくと思われる。つまり、パッと飛びつくけれど、すぐに去っていく浮気性の人々を対象にしたマスの戦略では食えなくなる。マスは自分の存在を忘れらないための、奉仕的な場(つまりフリー)にすぎなくなる。
 だから、作家なども、数万部の本を売って10%の印税をあてにするという活動ではなく、人数が10分の1に減っても、自分をしっかりと応援してくれる人に直売できるようにすればいい。電子書籍なら製造コストはかからないし、紙の本にするなら、一般流通用の低価格の本のような作り方はする必要はなく、きっちりとした装丁で、手元に長く置いておきたくなるものを作ればいい。読んだらすぐにブックオフに持ち込まれるような本は、電子書籍で十分なのだ。月間に5000円の書籍代を使う人は、これまでは、中途半端な装丁と中途半端な内容の1600円くらいの本を3冊くらいしか買えなかったが、これからは、世の中をウオッチする為に300円の電子初期を6冊と、著作権の切れたフリーの古典を好きなだけ買って、新刊では3000円くらいの手元に長く置く良質の紙の本を1冊買うというスタイルに変えられる。 
 また、フリーのドキュメンタリー映像作家は、これまでは自分の作品をテレビ局などに売り込んで、採用されて初めてお金になるという苦労があった。だから、それだけでは食べていけない人がほとんどだ。そういう人は、インターネット上の様々な仕組みを活用してコアのファンの心をしっかりと掴んで、年間に数千円でも支えてもらえれば、世界各国の現地からのレポートを送り続けることも可能になる。
 これからは、出版社やテレビ局や音楽プロダクションなどといった中間基地は、これまでのように機能しなくなる。それらの存在は、表現流通を支配していたからこそのイニシアチブだった。しかし、もはや表現流通は、ドラスチックに変化しつつあり、その変化に基づいて、新たな方法が作られていく。
  20世紀は、分業と専門化と、多様化する個々の権利と利益を重視することが美徳とされた時代だった。その流れを加速させたのが、先日にブログに書いたような、ザ・コダックや、ベルトコンベア式生産ラインに象徴される思考特性だった。
  そして、21世紀は、間違いなくシェアと統合の時代。個人の権益よりも、集合知を活用し、多くの人々の利益が優先されていく時代。そして、個人の権利(エゴ)の主張よりも、他者とのシェア(補完関係)を通じて、他者への配慮や尊重が必然的に重視される価値観になっていくと、世界は、今よりは素晴らしいものになっていく筈。人間は簡単に変われないとも言われるが、古い人間はそうかもしれないが、世代交代によって新しいタイプの人間が増えてくると、全体として変わらざるをえなくなる。様々な集合知や、シェアによって、個人では得られなかった大きな達成や喜びを知った人が増えつつあることも確か。その流れに反発しようとする古い人間と、軋轢や確執がしばらく続くかもしれないが、あと10年、20年経てば、新しい人達がメインの社会になることは間違いない。
 20世紀型の人間も、19世紀型の人間には考えられないように変化したわけだから、21世紀もまた同じだろう。それがどうなっていくかは、新しく出てきた道具の使い方が、決めていくのではないかと思う。