私たちの人生の中の”夢の島”

 
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1970年代の後半から東京湾の埋め立て地「夢の島」のゴミの集積地で、一人の写真家と一人の舞踏家が壮絶な祈りの行為を繰り返していた。誰かに見てもらうとか、どこかに発表するという意識を持たずに。

その写真家は、2006年3月、癌のために他界した。その後、はじめて彼の作品が明らかになった。

  写真家の名前は、岡田正人、舞踏者は田中泯

 岡田さんが癌で亡くなった後、友人達が展覧会を開き、その展覧会で写真を見て衝撃を受けた私は、すぐさま「風の旅人」の第33号で掲載した。

http://www.kazetabi.com/bn/33.html

 夢の島で繰り広げられていた二人だけの祈り。発表することを前提とせず、つまり、人間達の評価などはまったく関係なく、今この時を生きる者の一人として、今この時という瞬間をもっとも象徴化する時空と、自らを一体化させていく行為。

 文明を外から批判するわけでもなく、見て見ぬふりをするわけでもなく。

 この行為が一体何の役に立つか、というポイントででしか写真と向き合えない人は、脳全体を使わず、いつも左脳の一部だけに血流を集めて、損得をはかることで忙しい人の悪い癖。

夢の島には、私たちの近代生活で、役に立たないと分別されて捨てられた物がやってくる。
 私たちは、役に立つとか立たないという分別をごく普通に持ち、そうした分別は人類誕生の時から続いてきたと錯覚しているが、実際はそうではないということを一番わかっていないのは私たち自身だ。

 さらに言うならば、役に立つものを識別できる身分にあると勘違いしている私たちは、その意識分別が支配する現実の中で、常に自分も厳しく計られ、容赦なく区別されてしまうことを自覚できていない。

  この時代の哀しみの根は、損得や、役に立つかどうかなど、自分がモノゴトを見下して分別すればするほど、その行為が鏡となって、自分自身が、何ものかによって、損得とか、役に立つかどうかとか分別され、切り捨てられていることにある。無数にある会社の中から、見栄えの良さそうな100社を分別して就職活動を行っていると、その100社から不要だと分別されて切り捨てられてしまい、表舞台に行けず、夢の島に送られるような気分になってしまう。

 私たちは、暮らしの表層を、自分が分別した綺麗なもので飾ろうとするが、裏にまわると、どこもかしこも、夢の島のような状況になっている。

 人の評価をあてにした行為は、自分にとって都合の良いものだけを選んで見せ、都合の悪いものは、自分の心の中にある夢の島に捨てる。政治家の人気取りの公約も同じ。

 表面を飾れば人の評価が得られると思っているのは、自分もまた、表面で人を分別しているからだろう。でもそうすればするほど、自分の人生の中の夢の島は広がっていく。

 岡田さんと田中さんは、私たちの人生の中の夢の島に、祈りを捧げている。

 夢の島を作り出した人間を外から見下して批判しているのではない。その中に入り、一体化して、ともに哀しみ、痛みを分かち合っている。