自己都合的に世界を見る癖

 今日、六本木の新国立美術館で「モネ大回顧展」を見る。4年ほど前に川村美術館で開催されたモネ展ほどの感銘はなかったが、それでも、100点ものモネの作品が集まると、伝わってくるものは多い。

 しかし、この展覧会でも、「光の画家」とか、「遠近法が無くなっている」とか、「絵の具を混ぜない」とか、モネとか印象派を形容する常套句が散りばめられ、ポプラや睡蓮を同じ壁面にずらりと並べたり、「FORM」とか「REFLECTION」とか「VARIATION」など表層的な分類に作品を従属させて展示しているのが、残念といえば残念だった。

 下手な小細工で整理するくらいなら、年代順に作品を追っていった方が、モネの作風の変遷と、その背景にあるものがよくわかる。

 「モネは光の画家である」、「印象派は絵の具を混ぜない」、「モネは、ルネッサンスから始まった遠近法を採用していない」などの常套句での説明は、モネや絵画について何かを語っているかのようであるが、実際は上っ面をなぞっているだけであって、何も説明できていないと思う。

 おそらくキュレーターが、学校などでこうした説明によって芸術を学び、芸術と付き合ってきたからそうなるのだろうが、そうした芸術の扱い方が、今日では一種の権威となってしまっている。そのため、その権威に従属させられた展示で作品を見る人は、芸術というのものを「技術やスタイルの新しさの追求と、その面白さ」という程度の認識でしか受け取らなくなり、「自分はどの画風が好きか」という程度の自己都合的な判断で芸術を裁定することになるのだろう。その結果、「芸術」の精神的価値は問われなくなり、芸術は、金銭とか名声といった世俗的な価値の対象でしかなくなる。

 現代芸術が、実利性を追求するスタンスへのアンチテーゼで、実利性から遠くなろうとすればするほど、それを裁定する側は、「芸術の鑑賞のポイントは、好きか嫌いだ」だとか、「この作品はニューヨークのアートシーンで高い評価を受けている」といった権威的なお墨付きに頼ることになる。

 今回のモネの展覧会でも気になるのは、モネが生きた時代とか社会と、モネの作品との関係がまったく意識されていないことだ。

 芸術を芸術の文脈(構図や色使いやタッチがどうのこうのといった)のなかだけで語ることが、アート産業の人のなかで流行しているのかもしれないが、モネの作品を年代別に辿っていくと、時代や社会に対するモネの問題意識が浮かび上がってくる。

 モネの初期の作品には、石炭を運ぶ人間など産業革命の時代の労働者を、クールベ写実主義のように描き出したものがある。しかし、その頃の彼の絵は、影の部分は黒く塗りつぶされており、主体と客体、主役と引き立て役が、画面のなかで分離している。

 若い頃のモネは、産業革命が急速に進み、社会構造が劇的に変わっていく時代を生きて、そのことについて問題意識を持っていたものの、問題意識の持ち方や表現のスタイルそのものが、産業革命を支える「近代的思考」の枠組みのなかにあったのだ。

 簡単に言ってしまうと、目的のために役に立つものと、そうでないものを厳密に分別して取捨選択していく合理的思考だ。

 今日でも、「近代」を批判しながら、その批判のスタイルが「近代的そのもの」であるということは多い。アメリカを批判する平和主義者の論調が、アメリカがイラクやイランを批判する正義の論調と同じだったりする。

 モネは、社会の事実を抜き出して告発する「リアリズム」で問題提起することは、自分が問題視しているものと同じ穴に陥ることだと気づいたのだろう。19世紀後半からのモネは、社会の現状を描かなかった。といって、広く言われるように「自然一般」を描いていたわけではない。

 モネは、近代合理主義の思考では無用とされるものを大事に丁寧に描いていた。たとえば、画面いっぱいに広がる空、水面に映る陰影、白い雪に覆われた大地、広大な海と波、川の流れ等。「影」と一言で片づけられるものにも、微妙で豊かな表情がある。空も海の波も雪の白もそうだ。丁寧に見ればそのことに気づくが、自分に役に立つか立たないか、関係あるかないかという分別でモノゴトを見ている眼には、影はただの黒であり、雪はただの白であり、空はただの青になってしまう。それは、見ているようで、実は何も見ていないという状態だ。

 陰影の部分を「黒一色」にして、それとの比較で対象物を色づける絵画の安直さに気づき、陰影のなかに豊かな色彩を見いだして、それをそのように表現すると、陰影の部分よりも明るい部分の描き方が難しくなる。それまでの絵画手法のように欲する色を作るために絵の具を混ぜてしまうと、色が暗く濁ってしまうからだ。

 絵の具を混ぜずにキャンバスの上に置いていき、異なる色同士の呼応によって視覚的に浮かび上がってくる色で世界を表現するという印象派の技法は、そうした必然から生まれたのだと思う。影(近代合理主義のなかで役に立たないもの)を、単なる黒で片づけない「精神」が、根本にあるのだと思う。

 また、モネが遠近法を行わなかったのも、自分から物理的に遠いものを小さく、近いものを大きく扱うという世界との関わり方に、違和感があったからではないか。

 遠近法においては、遠近の表現はあくまでも物理的な距離にすぎない。しかし、世界と自分との距離感は、物理的なものとは限らないのだ。たとえば、川の向こうにポプラの並木があって、その向こうに山があるという状況のなかで、川に眼差しを注ぎ、その表情の美しさに意識がとらわれると川面が近くなるが、ポプラが風にそよいでいる気配に心動かされ、そこに眼差しを注ぐと、ポプラ並木がぐっと自分に近づいてくる。また、背後の山が、夕陽に照らし出されて刻々と変化していることに心が引きつけられると、山が近づいてくる。私たちと世界との距離感は、そのように心の動かされ方によって変動するものであり、モネは、そのとおりに描いているだけだ。

 遠近法のように物理的な距離感だけで世界を構築してしまうと、私たち人間の揺れ動く心が排除されてしまう。揺れ動く人間の心を排除し、世界(企業とか国家でもかまわない)の秩序に従うべき機械的な存在として人間を扱うこともまた、近代的思考の根底にあるものなのだ。

 さらにモネが遠近法に馴染めなかったのは、世界を静止した空間としてではなく、流動する時間的な存在として捉えているからだろう。上に述べたように、眼差しの移動によって世界との関係が変わるということもまた、世界を時間的に捉えるということだ。世界は刻々と変化していき、その変化のたびに心が動く。心が動くことで世界との”距離”も変わる。遠近法で描かれる固定した枠組みの世界で、私たち生きているのではない。

 モネは、自然物だけでなく、ルーアンの大聖堂など人工物も刻々と変化する世界の一部として描いた。人間が作り出した「近代」の様々な問題を感じながら、そうした人間的産物もまた、大きな意味で自然の一部であり、人間に酷い仕打ちを与えているものも、次第に人間に優しくなる可能性がある。そのように考えていたのかどうかわからないが、人工物を多く描いた20世紀を挟んだ数年のモネの作品は、画面全体が微妙に揺らいでいるものの、どこか澄み切った空気が感じられ、安定した美しさがある。フランスはまさしくベルエポックで、1900年にはパリで万国博覧会が開かれ、市民生活は充実し、華やぎに満ちた空気が広がっていた。 

 しかし、そうしたフランス国内の安定は、実際は植民地を搾取することでも成り立っていたわけで、植民地戦争に後から参加してきたドイツとの確執が強くなっていき、ついに1914年から1918年に、第一次世界大戦が起こる。この頃から、モネの作品は、形が大きく崩れ、色彩も激しくなり、画面全体が悲痛に揺らぐようになる。

 晩年のモネは失明寸前であったがゆえに絵が限りなく抽象的になったと説明されるが、「抽象的表現」を、目がよく見えないゆえの産物として扱うことは、あまりにも安易だろう。美術評論家がそういう言い方をすると、専門家に弱い人々は、抽象的絵画は、物をよく見ずに描く絵画というふうに誤解をする。そして既にそう思っている。

 モネは晩年、ジヴェルニーの自宅の庭にある睡蓮の池をモチーフにして描き続けており、形をしっかりと描きたいのであれば、たとえ目が不自由でも、記憶だけで充分に描けた筈なのだ。抽象化の理由は、そんな単純なことではない。

 このたびの新国立美術館の「モネ回顧展」でも、最後の方に何点か晩年のモネの作品が展示されている。

 私がモネの作品で一番感銘を受けるのは、この時代の作品だ。4年前の川村美術館で行われたモネ展では、晩年の作品が数多く展示され、それらを見てモネに対する印象がガラリと変わった。

 ベルエポックの時代、時の流れとともに近代という人間的産物も世界と美しく調和するだろうと思い描いた夢は、ヨーロッパ全体を巻き込む大戦争、進化した武器による前代未聞の殺戮という狂乱の時代を迎えるにあたり空しく消えた。その当時、モネが描いたジヴェルニーの庭園の睡蓮も人工物である太鼓橋も、境目が無くなり、ともに炎に包まれるように激しく揺らいでいる。または、画面が激しく引き裂かれ、喘ぐような気配に満ち満ちている。

 モネの晩年の作品は、世界との調和を優しく語りかけてくるのではなく、私たちのなかにある頑なな何かを激しく揺さぶり、壊す力を秘めている。私の感じ方で言うと、それは、自己都合的な目で世界を見て解釈して納得しようとするそのスタンスの甘っちょろさを、激しく叱責しているように感じられる。モネは、絵画を見る人を責めているのではなく、あくまでも自分自身を責めているのだろうと思う。でも、その責め方じたいが崇高なのだ。自分自身に対して、世界の引き受け方の甘さを激しく責めるモネのスタンスは、自己都合的な分別で世界を見る癖がついている私たちの安直さと浅はかさと傲慢さを裏表の関係で浮かびあがらせる。

 ただ残念なことに、現代社会において、安直に、浅はかに、傲慢に、自己都合的な分別で世界を見る癖は、ますます強化されている。その自覚もなく、「有名」とか「話題性がある」などといった安直で、浅はかで、傲慢な理由で芸術を消化する時代に、私たちは生きている。

 社会全体だけでなく自分自身の身に降りかかってくる今日の様々な問題が、安直で、浅はかで、傲慢で、自己都合的な分別で世界を見る癖から生じていることに気づかず、その問題を批判する場合においても、安直で、浅はかで、傲慢で、自己都合的な分別で世界を見る癖から生じる思考で行ってしまう。この質の悪い思考から抜け出さないかぎり、私たちは、本当の意味で、自由になれないのだろうと思う。


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