芸術と、新しい回路

 日曜日に、世田谷美術館で行われている若林奮展に行った。2003年に亡くなった若林氏は鉄など金属を使った彫刻家として知られているが、この展覧会で彫刻は数点に限られ、主に版画作品を見ることになった。

 若林氏の彫刻作品や版画を形容するならば、「クオリア」というしかない。

 物が物として存在する質感であり、機微であり、その質感は制作者の手によって人為的に作られているのだが、森羅万象を森羅万象たらしめているモノに通じる何かがそこにある。

 といって、作品を見た瞬間は、何かしらの力を感じたものの、大きな感動を得たわけでもないし、特別なことを覚ったわけではない。

 実を言うと、展覧会場を出た後、モゴモゴとしたものが自分のなかに残ったのだけれど、それが何なのかよくわからないまま、砧公園の林の中を歩いていたのだった。そして、そこには、たくさんの樹木があり、樹皮の模様が醸し出す質感に異様に引き寄せられた。また、樹々の枝振りに、声にならない声を感じた。見た目が綺麗だとか美しいといった分別ではなく、強烈な質感をキャッチしたのだった。そこでふと思った。これらの樹木の切り株がゴロリと美術館のなかに転がっていてもいいのではないか、自然の形象が作り出す質感は、人間のつくり出す芸術作品のオーラを遙かに凌駕しているのではないかと。正直言って、若林氏の作品から感じたオーラよりも、一本の樹木からの方が遙かに強いものを感じたのだ。

 でも、それはそうではないのだと、すぐに気が付いた。若林氏の作品を見た後、私の目が変わっていたのだ。私のなかの回路が、樹木の質感をより強く感じ取る準備状態になっていたのだ。樹木だけではなく、樹木にも流れ、他の様々なものの内奥に流れている何かしらの力。それをキャッチしやすい回路が、若林氏の作品を見ることでできあがったのだった。つまり、人間がつくり出すものは到底自然に適わないわけであるが、人間の知覚と感覚を総動員して自然のなかにある何ものかの力を掌握し、自分自身とその力のあいだにつながりをつけようとする創作運動は、他の人間の知覚と感覚にも働きかけて、新しい回路を作り出す何かしらの効用がある。それが、芸術の力だという直観に打たれたのだ。

 おそらく新しい回路というのは、時代によって異なる。私達は、日頃ほとんど自覚していないが、多くの先達者が作り出した回路を当たり前のことのように活用して世界を見ている。例えば、ものごとを遠近法で見るという見方を私達は人間本来の力のように錯覚しているが、その見方は、ルネッサンスの時代に作り出された回路に基づいて、少しずつ訓練されたものではないかと思うのだ。それ以前の人間が見る世界というのは、その後の時代のように整然としていなくて、色とか形が様々に溶け込んだスープ状のものだったかもしれない。そうと決まったわけではないが、違う見え方だったことは間違いないと思う。

 そして、その後、時間をかけて人間は世界を区分し、整理し、一つ一つの個を個として認知する習慣を身につけた。一本の樹があるというのは、人間が共有認識によってその性質を「樹」とカテゴライズしている個体がそこにあるということを意味する。その時、樹は、その周りにある個体と区別される輪郭をもって存在している。そうして、樹だけでなく、私達を取り巻くすべてのものが輪郭で形取られ、カテゴリーごとに区分されて整理され、バラバラになっていった。

 そういう状況下で、一つ一つのバラバラなものは、人間によって整理された概念のなかに位置づけられて、存在を存在たらしめる何ものかの力は、もはや無いに等しいものとして扱われる。

 しかし、人間を取り巻く森羅万象と付き合っていると、存在を存在たらしめている何ものかの力が働いていることを強く実感できてしまうわけで、誠実な芸術家は、その力を見て感じないふりをすることはできず、その力に忠実に向き合おうと試みる。その懸命な努力の積み重ねは、作品となって、樹皮のように自然物の秘めた力に近づいていく。

 その作品が、樹皮のような自然物ではなく、自然と人間のあいだをつなぐ人為であることに大きな意味がある。尊敬すべき人為は、人間が世界とどう付き合っていくかという新しい回路を作品のなかに包含している。その回路を通して私達が得られる感覚は、世界に対する信頼感のようなものだ。その信頼感は、大地の恵みを十分に蓄えた真っ赤なトマトを何の味付けもせずに食べた時に、胃袋が満たされるだけでなく、Inspireされて気持ちが少し高まるような感じに似ている。

 芸術の力によって、知らず知らず、世界の見え方が変わる。そのことによって、一人の人生が少し変わり、その少しが積み重なって、社会は少し変わる。そのように、少しずつ少しずつ、新しい回路は広がっていって、やがて当たり前のことになる。

 芸術の力とはそういうことではないかと、今までも感じていたのかも知れないけれど、若林氏の作品を見た後に樹木の幹や枝を見て、その感じ方がさらに強くなったように思う。