民意とは!?

Koseki様

 コメント有り難うございます。長くなりますので、こちらに書きます。

 昨日の選挙の結果で”空しい気持ち”に支配されていましたが、Kosekiさんのコメントで、少し、気持ちが立ってきました。

 私が感じた”空しい気持ち”というのは、やはりこの時代の空気に対してのものです。もはや、なるようになるしかないのだろうな、というような・・・、それを辛いとかという感覚もなく、なりゆくさまを見させてもらおう・・というような。

 そして、もしかしたら、昨日、自民党に投票した多くの人の心理が、投票以前にそういう感じだったのではないか、というような気もしています。

 小泉自民党は、そうした民意をうまく読んだ戦略で闘いました。

 私は、自民党小泉首相が悪意を持っているなどと思っていません。彼らもまた民意を汲んで活動しているのだと思います。悪意か民意かではなく、「民意」というものがいったいどういう類のものなのか、ということを一人一人が考えることが何よりも大切な問題だと思うのです。

 日本政府の政策は、日本人が現時点で享受している”物質的に豊かで便利な生活”を維持し続けることが前提になっていると思います。買い換えの早い大量消費によって経済を活性化させ、雇用を確保し、様々な不満を消費活動で解消させ、さらに不平不満を感じさせないような利便性を提供していく。

 好きな時に好きな物を買えることを幸福だと吹聴する社会。その刹那的な享楽の行きつくところが、高金利消費者金融の大繁栄ですが、国から資金調達できる銀行が、消費者金融の分野に進出していく構造こそが、そのことを端的に示しているように思います。

 国民の大半がこうした生活を享受し続けることを望むかぎり、資源の無い島国日本の政治家や官僚は、それに応える策を講じていかなければなりません。

 物質的に豊かで消費サイクルが早く便利だけど無駄も多く、刹那的な”今”のためにクレジットカードでの購買を躊躇しない生活を豊かさの普遍的な価値観のように勘違いしている人がいますが、これは、アメリカから世界に広まっていった価値観です。

 アメリカは、自らのライフスタイルを維持するための国際戦略に基づいて行動しています。そして、今日の日本人の消費特性や文化特性は世界のなかでもっともアメリカに近いものです。日本人の多くがアメリカ風ライフスタイルを望むならば、日本政府は、アメリカの国際戦略に歩調を合わせていくしかないでしょう。そしていったんその仕組みに巻き込まれてしまうと、政府の体制という表層的なことではなく、国民一人一人の無意識にしっかり根を下ろした問題なので、とても修正しにくいのではないかと思われます。

 しかし、現実的には、そのように「自己都合的な豊かさ」が長く維持できる筈がなく、じわりじわりとしわ寄せがきます。

 とは言っても、しわ寄せというのは、いったいどういう類のものなのでしょうか。

 そのしわ寄せを、「弱者切り捨て」といった言葉で言うのは簡単なことですが、私はそんなに単純なことではないと思います。なぜなら、弱者というのは、これ以前も、”物質的に豊かで便利な生活”を享受できていないからです。また、自らを中流クラスと考えている圧倒的多数の人たちは、弱者を少数と勘違いしていますが、もし仮に少数だとしたら、その少数の人がしわ寄せを受けたくらいで、全体が支えられる筈がありません。ですから、当然、しわ寄せは、圧倒的多数の中流クラス幻想の人たちの上にくると考えて間違いないと思うのです。

 しかし、それが、明確な形でやってきて、すぐさま不満爆発に変わるようなものにはならないと思います。しわ寄せは、何も考えずに生きていると、知らず知らず騙される類のものです。「現実がそうだから、しかたないよ」という無意識の囁きによって。

 不幸だと本人が気づかない形で、不幸になっていくこと。「本人がいいと言っているのだから、それでいいじゃないか」と言われながら、不幸になっていくこと。

 例えば、一つの物を大切に慈しんで10年も20年も使うことと、毎年、取っ替え引っ替え買い続けることで考えると、後者は、いろいろな物に接する機会を得ることを満足だと考え、その機会の少なさが世界の狭さや可能性の少なさということで、不幸だと考える。しかし、前者は、一つのものからたくさんの魅力を引き出す力を少しずつ蓄えていく。環境変化によって、物が減り、機会が限られてきた場合、生きやすいのは前者でしょう。後者は、そうした環境変化がとても恐ろしいものに感じられ、その強迫観念によって、生き続けていかなければならない。そして、その強迫観念のなかには、他人の目を過剰に気にしなければならないという余計な気苦労も含まれる。

 人の目をあまり気にせず、人に煽られず、自分にとって大切なことは何なのかをよく考え、生きていくこと。そのスタンスが自分に生きる知恵をつけていくのではないかと思うのですが、それを言うことは簡単でも実際に行うことは難しい。それを、そのまま言うと、悟った風の宗教家気取りになってしまう。

 宮台さんや武田さんが仰っている”戦略”はよくわかります。でも戦略の前に、何を伝えるべきか、という根元の部分を深く考えていなければならないと私は思います。

 「風の旅人」で創刊の時から変わらないテーマは、その根元の部分の答えを示すことではなく、それを深く感じて考えていくことの大切さを自分のものにしていこうということで、それがFIND THE ROOT というフレーズになっています。ROOTSという起源ではなく、ROOTという根元探しです。

 宮台さんの言うミドルマンとか、武田さんの言う「民意を汲んで支持を手放すことなく、いかに民意と距離をもって、自省を促す視点を提供できるか」を、私なりの言葉で言うのならば(というより、このブログに訪れてくれるアクエリアンさんが「風の旅人」を評して仰ってくれた言葉ですが)、「民に媚びず、民に訴える」ということになります。

 そして、その実現が、私の能力ではとても難しくて手に負えない問題だという自覚があるからこそ、雑誌の総合力を借りています。

 「創作とはただ現状を書くのではなく、そこから何らかの展望を見出さなければならない」。これは、小説家の保坂さんからいただいたお手紙のなかに書かれていた言葉です。

 私が好きな表現者は、この言葉のように「展望」を強く意識して創作に取り組んでいる人です。小説とか人類学とか生物学とか脳科学といったジャンルは関係ありません。世界について自分が実感として感じ考えていることを自分ならではの様式で語り、そこに何らかの展望を見出そうとする意味において、文系か理系かという区分すら無意味になります。そして、写真表現もまた同様です。

 社会に生じる現象の表層をなぞって分析したり解説したり、写真で写し取ったり、小説化したものが世の中に溢れていますが、それらに触れたところで、自分のなかに新たな認識が芽生えることはありません。また、現象は刻々と変化していき、表現はそれを後追いするばかりになります。

 もちろん、「展望を見出す」と言っても簡単なことではありませんが、その志向性を内に秘めて表現活動を行っているかそうでないかによって、表現の趣が変わってきます。「展望」という答えがどこかにあるのではなく、「展望」を見出さそうとする意思の集まりが、新たな風をつくりだすのではないかと私は思っています。

 しかしながら、情報が氾濫する今日の世の中で、「展望」を見出そうとする少数の意思は、埋没しがちです。「風の旅人」という雑誌を作っているのは、その意思の濃縮度を高めて世に送り出すためです。文章だけでなく、文章と写真が一緒になることで、互いの力を引き出し、それぞれが秘めた意思の濃縮度を高めていきます。そうすることによって、たとえ大きな風にならなくても、最初の蝶の小さな羽ばたきにはなれるかもしれない。

 とあれこれ言葉で言うことより、質よりも量の時代に、それに逆行するベクトルで採算が合う運営を可能にする仕組みを実現することこそが、何よりも説得になるのではないかと思っていますが、それが一番しんどいことです。

 「質」と口で言うのは簡単ですが、本当の意味で「質」の実現とはどういうことなのかという問題があります。アカデミックな立場で、いかにも知的に論じられるものが「質」とは思えませんし、独りよがりに「アート」を気取ることも同様でしょう。

 また、採算をクリアしなければ、「口で言うのは簡単だが、やはり現実は厳しいよ」という声に負けてしまいます。

 おそらく、こうした問題をクリアしていくことが、本当の意味で、現状に対する異議申し立てであって、大量の広告スポンサーに守られながら、コマーシャルとコマーシャルの間に根元に触れない程度で政府を批判したり民に媚びながら世を憂う発言をすることは、現状の構造を増殖させる行為のように思えてなりません。なぜなら、大切なことの濃縮度が高まるどころか、希薄化してしまうからです。コマーシャルも、タレントの不倫も、イラク問題も、自殺の問題も、同じ目線になってしまうわけですから。

 公立の図書館がどこにでもあるベストセラー本を購入し、広告満載の婦人雑誌やファッション誌を閲覧室でズラリと並べる日本社会において、民意を汲むというのは、人々の意識の表層に媚びることで、決して未来につながるものではないという気がしますが、そうすることによって多くの人々が喜んでくれるものだから、どんどんそういう傾向が強くなっていく。

 体質改善より栄養剤に頼った方が、即効性があるような気がしてつい手が伸びてしまう。しかし、リハビリは、後からやる場合、最初からやるのに比べて何倍も大変で、大きな苦痛を伴います。

 政府がどうのこうのと言う前に、早い段階から自分のリハビリを始めましょうということが、民に媚びず、民に訴えるメッセージかもしれません。