消費経済とは何だったのか。そして、次なる段階とは。

 戦後の消費経済社会とは、いったい何だったのか。コマーシャルで新製品の魅力を宣伝して、多くの人々がそれを買う。そのサイクルを早める。気が付けば、身の周りには不要な物が溢れ、自分にとって本当に大事なものが何であるか、よくわからなくなる。そういうエンドレスの繰り返しに人々が疲れ、倦んできた。経済状況が良い時は惰性でそれを続けていたが、悪くなると、続けられないだけでなく、もはや馬鹿馬鹿しくなる。そういう物が無くても生きていけるという当たり前のことに気づく。現在の消費不振は、メディアが騒いでいるように金融危機の煽りを受けた一過性のものではなく、人々の心の根っこに関わる問題ではないか。とすれば、政府がもくろんでいる定額給付金による消費刺激など空振りに終わる可能性が高い。
 消費経済社会というのは、単純に物が満ち溢れる社会ということではないと思う。物をたくさん買ってもらわないと成り立たない経済構造のなかで、いったい何が行われてきたかを知っておく必要があるだろう。
 例えば、高度経済成長の真っ只中にあった1965年当時、三種の神器と言われたテレビ、洗濯機、冷蔵庫など一家に一つあれば充分なものは、家族の数が増えれば販売も増えた。だから、核家族化が進むことは追い風になる。さらに一軒の家の中を幾つもの部屋に区切って個室化を進めれば、テレビなどの家電製品の販売も増える。夫婦の価値観を別々にし、女性が女性の世界を持ち始めると、そこに新たな消費サービスの販売機会が増える。その次に、子供の世界を切り離し、老人の世界を切り離す。そのように、一つのものを細かく切り離していけば行くほど、物を買わせ続けることができる。それが消費経済社会の構造だ。
 消費経済の発展というのは、そのように家族の分裂と、世界の細分化と裏表の関係になっている。メディアや、そこに寄生する文化人は、一方で「物より心」と言ったり、「家族の崩壊」を嘆くポーズを取りながら、細分化の加速に拍車をかけることをする。自立だ、個性だ、それぞれの権利だ、それぞれのニーズだ、多様化だ、などと言葉のうえで論じながら。学問もまた、細分化によって、そこに寄生する人々の場所を多く確保できる構造になっており、カタログ化された状態のなかで、メディアなどが、その都度、必要な評論家を抜き出して消費する仕組みになっている。
 最近、テレビなどで何かしら社会の問題が伝えられる時、その分野の専門家と称する人々が登場するが、そのクレジットを見ていると、とても面白い。
 以前から海外で戦争が起きると、兵器に詳しい人があちこちのチャンネルに出ていたが、最近では、「老人の徘徊問題に詳しい●●大学の●●さん」とか、「若者の引きこもりに詳しい●●大学の●●教授」などが多い。「ブログの炎上に詳しい●●さん」という馬鹿げたものもある。それらの人々が話していることは、実に標準化、画一化、規格化されたことにすぎない。つまり、当たり障りのないことを、適当に編集して伝えられているだけだ。 こうした状況は、戦後消費経済社会の発展の必然性のなかで作られてきたものだから良いとか悪いと言ってもしかたないのだが、細分化のメカニズムで肥大化したカタログ社会は、自分の人生の選択における指針にも拠り所にもならないという自覚が、少しずつ人々の心のなかに育ってきていることは間違いないだろう。
 細分化のカタログ社会のなかで自分の持ち場を確保している人たちは、たとえそれがちっぽけなものでも、自らの生存のために手放してなるものかと躍起になって当然だ。しばらくは、そうした抵抗が続くだろうが、全体の流れとして、必然的に次の段階に移行していくような気がする。
 私が思うに、次の段階というのは、これまでにない新しい価値観が向こうからやってくるのではなく、ずっと以前から私たちのなかに在るものだ。
 消費経済を推進する細分化、カタログ化された知識情報の洪水のなかで見えにくくされていたもの、人々に気付かれると困るから隠されていたものが、消費経済の勢いが落ちることで見えやすくなる。現在の経済の混乱は、きっとその転機になると思う。新聞やテレビで連日伝えられている「日本経済の不振」は、家電メーカー、自動車、不動産関係ばかりで、それらは間違いなく、「家族」などを細分化していくことで恩恵を受けていた産業であり、細分化を促進する力となったのも、それらの企業から多大な広告費を得ているテレビ、新聞、出版社なのだ。
 新聞やテレビではほとんど伝えられないが、日本の産業用機械などを作る資本財メーカーは、現在でも世界的に圧倒的なシェアを握っている。携帯電話の中に無数に組み込まれている電子部品などもそうだ。さらに、それらのハイテク部品をつくるためのファインセラミックス炭素繊維導電性高分子、超強力磁石などの材料も、日本の企業の独壇場だ。
 テレビやパソコンなどの最終製品は、派手な広告を打つから有名になるし、メディアも大広告主だから大切にする。しかし、その中身を作っている企業は、製品の品質で勝負しているので宣伝など必要ないし、メディアでもほとんど伝えられないから、あまり知られていない。だから、大学就職ランキングでも入ってこない。
 最終製品を作る企業は、派手な宣伝をし、価格競争に巻き込まれ、新たなニーズを作り出そうと広告会社やメディアと組んで様々な仕掛けを行うが、結論から言えば、ソニーが消えればパナソニックでもいいし、サムスンでもいいわけで、他に取り替え可能な世界で消耗戦を行っている。それに比べて、産業用機械とか部品や材料は、地味だけれど、それが無ければ製品も作れない。簡単に他に取り替えがきかない状態を少しずつ自分達のなかに作りあげている。
 そして、なぜ日本の資本財メーカーが強いのかという理由を多くの人が知り、その価値観を共有するようになってくると、進むべき次の段階も見えてくると思う。
 その価値観は私たちの中に存在しているのだけれど、派手で賑々しい自己宣伝社会のなかで、見えにくくなっているだけなのだ。
  私は、その全体をしっかり把握しているわけではないけれど、現在、世界的に圧倒的なシェアを持つ資本財メーカーと少し関わらせていただくなかで、それまで頭でイメージしていたことが少しずつリアルに実感できるようになっている。
 そのことを言葉で言い表しにくいのだが、象徴的な言葉で伝えるとすると、その企業は、「言うに言われるものを、とても大事にしている」のだ。
 「論理」は大切なものを多く殺ぎ落とす。実際の生の現場では、論理によって殺ぎ落とされたものによって甚だしい支障が出るということを、彼らは体験を通じて理解している。だから、決して、「論理」にもたれかからない。
 彼らが作る物は、消費されるものではなく、その物が、他の生産活動に役立てられ、その生産活動の質を左右する。だから、その物の価値は明確になる。「論理」でごまかしがきかないのだ。
 彼らが何かを行う際に、もっとも大事にするのは「場」だ。あるテンションに高まった「場」で、みんなが集まって、自分自身がリアルに感じている”自分の情報”をもとにして、ニュアンスなども総動員して、伝えようとする。その”場”には、取締役も、そうでない人も、営業も、広報も、年季の入った技術者も混ざっている。そして、営業や広報の人も、ひととおり現場を経験している。つまり、同じ空気のもと、それぞれ違った角度から様々な話し合いが行われる土壌がある。そういう話し合いの時も、スケジュールとしての時間が切り刻まれていない。「次の予定があるから、どうのこうの」という雰囲気ではない。単なる情報交換ではなく、その場の空気が大事であり、せっかく場を設けたのであれば、何か気付きを得なければ無意味なのだ。だから、スケジュールを刻んでデータだけ持ち寄る形式的な会議などはやらない。
 また、私のような、その企業に所属していない人間と仕事をする場合、家電製品を扱うような消費財メーカーの多くは、内部と外部という意識が強く働いている。どこかに線が引かれて秘密を守っているという感じがして、心を開いて話しをしているという雰囲気にならない。また、彼らにとって意味のないこと、メリットの見えにくいことを言うのは許されないという息苦しさもある。そして、すぐにデータ的裏付けのようなものを求められる。そういうものは無意味だと言っても、無意味でもあった方が、社内で話しが通りやすいからと、形式的なものでも提出を求められる。
 私が関わらせていただいている産業用機械製作会社は、「形式的なもの」の意味の無さを、社員が共有意識として持っている。そういうものは、社内の話し合いで、むしろ支障になるということをわかっている。また、秘密主義でもない。だから、心を開いて対話ができる。他に取り替え可能なことをやって他よりも早いことだけが生命線になっている会社が、秘密主義になるのだろう。この産業用機械製作会社のように他が真似のできないことをやっているところは、情報に関してはけっこう無防備で、大きな工場なのに守衛がおらず、とても驚いた。
 データではなく、自分がリアルに実感していること、自分の頭で考えていることを率直に述べ合うことで、お互いに気付きを得る。その気付きこそが、次に何を成すべきかの方向付けになっていく。一緒に物事をつくっていくというのは、そういうことだ。おそらく、産業用機械製作会社は、自社の部品やシステムや機械を必要とする取引先と、一緒になって物事を作っていく。丁寧な対話を行い、実際に手を動かしながら、必要に応じて修正をくわえていき、反省を繰り返し、時間とともに精度を高め、仕事を深めていっている。
  現場に行き、そうしたことを肌で知りながら、私は、まだまだ完全にわかっているわけではないが、現時点で、これから日本の進むべき段階について、次のようなことをイメージしている。
 
1.「形式的なもの」から「実質的なもの」へ。 
2.「データ情報重視」から「出会う人そのものが体験を通して心身に刻んでいる情報重視」へ。
3.「肩書きや、専門などの細分化」から、「全体がつながった場の空気を醸成すること」へ。
4.そのもののを都合良く説明する「データ情報」や「断片的な知識」より、そのもの全体が感じられる「文脈」へ。
5.「目新しいものが良い」から「時間を積み重ねて修正をしていったものの方が良い」へ。
6.5に関連するが、「若い人の方が発想が面白い」や、「新規の方が刺激的だ」から、「年輪を重ねた人の方が、発想が奥深くて、面白くて、味があって、新規ものの目新しさのように簡単に消費されない」へ。*実際に、上に述べた産業用機械会社は、定年がなく、70代、80代、最近で90代の技術者がいて、その人たちの智慧が、世界で圧倒的なシェアを握る力になっている。
 
 このように書くと、若い人をないがしろにしているように思われるかもしれないが、そうではない。
 若者も、いつまでも若くない。時間とともに深まっていくことが大事だという良い見本を傍に見ながら、自らもその発想で「今」に取り組むことが、若者にとっても幸福なことなのだと私は思う。時間とともに褪せていく大人の傍にいて、将来の自分をそこに重ね合わせてしまうと、人生に希望を持てない。
 「時間」の蓄積がないがしろにされている価値観に添って、自らの新しさを主張し、自らも目新しさを追い続けることは、時とともに、自分の先行きが狭まっていくことが予感できるわけで、それは幸福な生き方とは言えない。一つの対話や物作りにおいても、人間関係においても、人生全体においても、「時間をかけながら深めていくこと」の価値を多くの人が取り戻すことは、目新しい物を次々と回転させることで拡大してきた消費経済を今以上に崩壊させることになって、抵抗もあるだろうが、次なる段階は、自然とそうなっていくのだろうと思う。