これからの時代の「情報」について

 先日の記事の続きだが、「東洋経済」に「ヤフーだけが稼ぐネット広告サバイバル」という特集で、ネット業界でヤフーが一人勝ちだということが書かれており、これまでヤフーの広告の出し方やページの作り方など丁寧に見たことがなかったので、改めて観察してみた。
 そして、なるほどよくできているなあと思った。「情報」に関して、テレビ、新聞、雑誌は、もう勝てないだろうという気がする。一つのニュースから関連していく情報のネットワークがすごい。浅間山の噴火情報など、新聞やテレビが発表する一過性の情報ではなく、日々刻々と変わる火山活動の状況が示され、同時に、日本の他の火山の活動も同じように知ることができる。
 政府が、NHKを特別扱いする理由として、「災害時等の情報伝達」を挙げることがあるが、携帯も含めたネットワークを持つヤフーは、NHKよりも遙かに緻密な情報を提供することができている。そのヤフーは、自ら取材をせず、様々な情報を発信する機関と連携することで情報に厚みをもたらしている。独自の取材をすることが信頼性につながると旧メディアは主張するだろうが、どんな取材であれ、取材する人間や情報発信する組織の影響を受けることが当たり前という前提で、様々な組織の情報を並列的に見ることができる状態にしている方がフェアとも言えるだろう。そういう状況のなかでは、それぞれの組織が主張している正当性が無化される。
 ヤフーを見ていると、新聞では「毎日新聞」や「産経新聞」の記事が多い。朝日はプライドが高そうだからヤフーに従属することを拒んでいるのだろうか。毎日や産経は、意地にとらわれている状況ではないのだろうか。いずれにしろ、旧メディアがつくりあげていた情報網は、ヤフーなどのポータルサイトに吸収され、旧メディアが独占していた広告収入も少しずつヤフーに吸い上げられていくのだろうか。そうなると、旧メディアの体力が落ちて情報獲得力が落ちると考えられるが、一社が弱まっても、多くを束ねていくという戦略をとるかぎり、さして問題ではないのだろう。これまで、旧メディアの一つ一つが力を持ち、場をつくり、その場の正当性を主張し、その場から利益を獲得していたが、彼らの場は急速に萎んでいき、もはや場としての体裁を保てず、「部分」になっていくような予感がする。喩えて言うならば、「人間の身体」の役目をポータルサイトなどに取って代わられ、旧メディアは「心臓」とか「肺」とかの器官になっていくということだ。器官のなかには、無くてはならないものもあれば、手術で切り取っても大して支障のないものもあれば、盲腸などのように切り取った方がいいものも出てくるだろう。
 だからといって、ヤフーが、この社会全体を支配するということではない。
 なぜなら、テレビや新聞などの旧メディアは、こちらが何もしなくても向こうから押し寄せてくる性質があったが、ヤフーは、こちらから働きかけなければ何も反応しない。実際に、ヤフーが無くても、私は、これまで何の不自由もなかった。テレビや新聞は、本当は無くても生きていくことに支障はないのだけれど、無くてはならないように錯覚させる力があった。20歳の頃、私は2年間の海外放浪に出た。出発前は、新聞を読まなければ世間の動きから遅れるという強迫観念があったが、放浪の間、日本の新聞やテレビに一切触れなかったけれど、帰国した時、世間から遅れているという感じはまったくなかった。それ以来、新聞などは、斜めに見ればいいというスタンスで生きている。
 今、私たちの社会に起こっている変化は、テレビや新聞などの旧メディアから、インターネットへの移行という単純なことではないと思う。
 テレビや新聞などに代表される「情報の伝え方や世界の切り取り方の正当性」や、「情報を切り取り、それを伝える立場にある者の優位性」が、急速に弱められているのだと思う。「情報を切り取り、伝える側」に場があるのではなく、「情報が持ち寄られる側」に場ができるのだ。
 そうなってくると、持ち寄られる情報の質などに応じた場が、いろいろできることになるのだろうと思う。
 確かに、ヤフーには膨大な情報が持ち寄られている。でもそれは、「情報の全体」ではない。やがて旧メディアが発信する「情報の全部」が集まってくる場になるかもしれないけれど、それでも、「情報の全体」ではない。旧メディアが発信する情報は、物事の外から見て切り取るという視点がほとんどで、その時点で、情報の偏った一部でしかない。つまり、多くのことが切り捨てられている。
 多くのことが切り捨てられている「情報」をいくら集めても、足らないものがある。
 ヤフーが、旧メディアの「情報」を集めれば集めるほど、足らないものが浮かびあがる。ヤフーの存在を通して、旧メディアの情報が一断片にすぎないものであるとわからせることが、ヤフーの最大の貢献だと思う。テレビ局を買収するなど敵対的に取り込んでいくのではなく、次元の異なる場の生成によって自然吸収していくという図式がそこにある。
 そして、ヤフーのような一つの巨大な場に、全ての旧メディアの情報が集まっている状況になってくると、その場を客観的に、突き放して眺めることも可能になる。
 ヤフーという場にある情報は、時折、必要な時に見ればいいだけのことで、生きていくために本当に必要な情報はここにはない。ヤフーを見れば、そういうことが感じられる。データーとして有効ではあるけれど、生きる力を得たり、生きていく指針を獲得する場ではない。ハウツーもデーターも、それらを見て心が強く動くことがない。だから、心が動く情報を他に求めたいという衝動が自分のなかに必ず残る筈だ。そうした衝動が残っていても、テレビや新聞など旧メディアが牛耳る世界においては、次々と目新しそうな情報の断片が送り届けられるから、そちらに眼が行ってしまう人も多いだろうが、それらの影響力が低下すれば、自分で自分が心底欲する情報を探す余地が残されるだろう。
 インターネットの良いところは、こちらが働きかけなければ静かに黙っていることだ。 旧メディアのような特定の「場」から情報をいただくのではなく、情報は、自分が直接関わる場と、そこからつながっていく場全体から、言うに言われぬものとして得られる。その情報は、時間とともに深まるものだ。その感覚の獲得こそが、生きていくうえで本当に力になる情報なのだろうと思う。
 私たちは、誰かが都合良く切り取って強引に送り届けてくる情報の洪水のなかで溺れるように生きるのではなく、時間とともに深まっていく個々の関係を通して、自分のなかに年輪のように育っていく情報を拠り所にしてこそ、確かに生きていけるのだから。