「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。
そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないためである」マハトマ・ガンジー
テレビ朝日とNHKの幹部が、事情説明の為に官邸から呼び出しを受けた。
http://jp.reuters.com/article/marketsNews/idJPL4N0XE1W620150417
なんとも露骨なことがおおっぴらに行なわれるようになってしまったものだ。
「放送法」を盾にしてテレビ局を脅かし、官邸の管理下に置く。政情不安定な独裁政権の国にはよくあることだろうが、日本は、形としては言論の自由が認められた民主主義国家の筈なのに、狡猾な方法で言論統制を行なおうとしている。
日本のメディア構造は、ものすごく歪だ。まず第一に、大手新聞社とテレビ局は、東京新聞を除いて同列の会社であり、新聞とテレビ界は、互いを厳しく批評し合うということがない。また、同じ大手クライアントからの多額の広告収入で運営されているので、産業界に対しても及び腰になる。
その上で、「放送法」という政府の鎖につながられるような法律で支配される。
5年に1回更新される「放送免許」。
放送局は、1年以上前から事情聴取の準備を進める。総務省に対して、主に?免許期間中の事業継続性、?番組の編成計画を説明し、求められた資料はすべて提出する。
このように政府の管理下に置かれる放送局から、政府に都合の悪い話が出てくる筈がない。
政府は、いかようにも放送局および放送局と関連の深い新聞社を脅かすことができる。
彼らの免許を更新してあげること。そして、新規参入を抑えることで利益を守ってあげること。
衛星放送にしても、欧米ではチャンネル数の多いCS放送が普及していった時期に、日本だけが、チャンネル数の限られたBS放送が優位になるように導き、結果的に、BSチャンネルを運営する会社も、地上派放送局ばかりになっている。
このようにして、放送局と政府が、お互いに利用し合う関係になっている中で、先日のテレビ朝日での騒動があった。
「番組中に、古賀茂明氏が、事前に打ち合わせにないことを話し出し、古舘伊知郎氏との間で、お茶の間の皆様に対して見苦しいものをお見せしてしまったこと」に対してテレビ朝日が謝罪し、テレビ界の世話になっている人達が、古賀茂明氏批判を行なっていた。「テレビで自分の意見を言えることの有り難みをわかっていない」とか、「公共の電波をプライベートに使っている」とか、問題の本質をズラして。
古舘伊知郎氏も、少し前までは「原発問題など、厳しく追求していく」などと、威勢のいいことを言っていたが、威勢のいいことを言える雰囲気が残っている時に、威勢のいい発言をすることは簡単なことだ。
その人を信頼できるかどうかは、威勢のいいことが言いにくい雰囲気になった状況で、孤立することを覚悟のうえ、言うべきことを言えるかどうかなのだ。
多くの人が簡単に同意や共感を求めて発言する。それは、人気者になるうえで得策なことかもしれないけれど、支持者の数が、その人の本当の価値を表しているわけではない。
社会の問題が複雑になっていくのは、「社会に役立つことをしたい、自分の存在価値を見いだしたい、社会を動かしたい」と前向きな気持ちを持って生きている人達が、社会に対して影響力を持つ為には多くの人に支持されること(巻き込むこと)が大事と考える傾向があるので、その分、多くの人に支持されていることや、多くの人を相手に影響を持っているように見えるもの(大衆メディア)の動向を気にして、その影響を受けやすくなってしまうことだ。
放送局を中心とする大衆メディアが、政府の管理下に置かれながら、同時に政府の庇護によって影響力を増大させているため、その影響力のおこぼれをいただこうとする人がその周辺に集まりやすい。そうすると政府は、時々、その放送局を脅かすだけで、連鎖的に、間接的に、その周辺にも影響力を及ぼす。
冒頭のガンジーの言葉は、古賀氏が報道ステーションの最後の出演の時に用意していたものだが、この言葉どおり、自分の影響力によって少しでも社会を変えたいと思っている前向きで真面目な人でも、社会を変える以前の問題として、知らず知らず、政府とメディアが作るムードによって自分が変えられてしまっているかもしれないということに気を配った方がいいのかもしれない。自分のエゴの為に進んで自分を変える人はわかりやすく、後から後悔することもあまりないのかもしれないが、自分が変えられてしまっていることに気づかず、その片棒を担いでしまうことほど、悲劇的なことはないからだ。
政府は、最初から表立って、「戦争をしましょう」なんてことは言わない。「原発を動かしましょう」とも言わなかった。知らず知らず、「それもやむを得ないなあ」と思わせるように、少しずつ意識に働きかけている。
多くの人に好かれたり、拍手喝采されたりすることは、本当は人生の価値とは別のことなのだけど、それを同一のものだと錯覚させることが、日本の教育や躾のなかで当たり前のことのように行なわれている。
だから、しっかりとした教育を受けてきた人ほど、古賀氏のように”事を荒立てる”ことよりも、”協調しながらうまくとりまとめる”ことの方に重きを置いて現実に合わせることが、社会にとっても、多くの人に自分を気にいっていただくうえでもいいことだと考える。
だからわりと簡単に、「それもやむを得ないなあ」というポジションに陥りやすい。「それもやむを得ないなあ」と思う人がどんどん増えて、「それは違うんじゃないか」という人が白い目で見られて、排除されたり、「テレビで発言できることの有り難さがわかっていない」などと、内容そのものとは関係ないところで非難されたりするうちに、ある方向の逆戻りがきかない道に、深く入り込んでいく。
もちろん、今は、既存の放送局などの旧メディアだけでなく、インターネットを通じた様々な情報伝達の方法があるので、昔ほど一色に染まらないだろうけれど、いくらインターネットであっても、広告収入で運営されたり、数の論理が優先されたりすると、構造的同じようなことになる可能性が高い。
だから、環境がどうであれ、ガンジーの言葉のように、世界によって自分が変えられないために、ほとんど無意味であるが、それでもやるべきことをやらなければならない。
”無意味かもしれないけれど、それでもやらねばならないこと”の一つは、メディアでどういう情報が流れているとか、誰がどう言っているとかに関係なく、社会で起こっていることを自分自身の問題として引き受けて、自分の頭で考え続けることなのではないか。
影響力があるとかないとかつまらない計算をして、顔の見えない人達の”数”ばかり気にかけるのではなく、数十年後から振り返った時に、今自分が取り組んだり関わっていることが、いったいどういう意義を持つのか、考え続けることなのではないか。
そのように自分に言い聞かせて、自分のやるべきことをしっかりと見定めて、やらなければならないなあ、世界を変えるためではなく世界に変えられない為に、と思う今日この頃。
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