今、表現の在り方が問われている。

 昨日、古賀絵里子さんのトークショーの最後で、六次元の中村さんから「佐伯さんは、古賀さんの写真のどこを評価しているのか?」

という質問があった。昨日のトークは、昨年、出版された「浅草善哉」という写真集イベントみたいなものだが、私は、2007年6月に発行した風の旅人の26号で、古賀さんの浅草善哉に多くのページを割いて紹介していた。時代は、リーマンショックの少し前だった。

「浅草善哉」は、3.11の震災以降の心情にマッチしていると言われたりするが、この10年を見渡せば、9.11やリーマンショックなど、これまでの価値観が引っくり返されるような出来事は起こり続けている。そして、どんどん酷くなってきている。いい加減に目を覚まさなければ、さらに大変な事態になるかもしれないのに、問題を先送りし続けている。政府だけのことではなく、我々全員が、根本的に、何か大きな間違いをおかしているかもしれない・・・・くらいの意識を、一人ひとりが持つことも重要で、政局に呆れるばかりで、自分はマトモ、みたいな顔をしていてもダメなんだろうと思う。 

 それはともかく、古賀さんは、トークの中で、アラーキーの「センチメンタルジャーニー」を学生の頃に見て感動して、それが自分の写真の原点になっていると言ったのだが、私は、古賀さんは、その「センチメンタルジャーニー」を超えていると思っている。「センチメンタルジャーニー」は、アラーキーが、自分の妻の最期を写真を通して見届けながら心情を綴った私的写真で、古賀さんは、アラーキーの、奥さんの生と死に対する向き合い方が凄いと感銘を受けたようだ。しかし、自分が長年連れ添ってきて苦労も供にした相手なのだから、それは当然だろうと私は思うし、自分の身内との間で同じような体験をした人はたくさんいるだろうから、この表現に共感する人も多いだろうと予想できる。

 それに対して古賀さんが向
き合った対象は、身内ではなく、まったくの赤の他人。通りすがりの人と言ってもいい。その相手に対して、まさにアラーキーのセンチメンタルジャーニーのように、ほとんど一心同体になってしまって、6年間、向き合い続けているのだから、これは相当凄いと思う。身内に対してそれができる人はけっこういても、他人に対してそうなれる人は、そんなにいないだろう。そして、その凄さを感じていないところが、古賀さんの凄いところでもある。でもこの凄さは、凄いとか凄くないという分別をはさんではダメな次元の話であり、言葉にしてしまうと陳腐だが、それが”愛”というものの本質なのだろうと思う。
 この古賀さんと、同じく復刊号で紹介する岡原功祐君は、30歳周辺の若手写真家のなかで、私が、次の時代の写真表現は、こういう方向にいくだろうと思っている二人であり、その表現と表現姿勢に対して、期待と信頼を置いている。もし、「風の旅人』新人賞というものがあれば、この二人に出すだろうと思う。しかし、賞という権威は、私が感じているこれからの表現の在り方というものに、逆行している。だから私は、風の旅人賞を作ればいいという声もあったが、賞を作りたくない。それよりも、風の旅人に掲載するということが、評価判断であり、掲載される人もそう感じてくれるような誌面作りを心がけるべきだと思っている。
 なぜ、賞がこれからの表現の在り方と逆行しているかと言えば、これまでの時代の表現は、けっきょく、「どう、私はすごいでしょ」、「あの人はすごいみたいよ」という方向に、権威によって仕向けられていたように思うからだ。「あの人がやっていることって新しいわよ、私も見習いたいわ、やっぱり大きな賞をとったみたいよ」みたいな感覚で話題にされる程度のこと。そのように話題にされて自分が偉くなったように錯覚して喜んでいる表現者がいるとすれば、それはとても陳腐。それって、ファッション等と同じレベルの話。「パリコレかなんかで話題みたいよ、かっこいいわね」という感覚。そういうものは、ファッション雑誌、消費財の雑誌には必要なアイテムかもしれないけれど、その時だけ話題になっても消費されて終わり。10年後にはずいぶんと古ぼけて見える。
 古賀さんや岡原くんの表現が、これからの表現の方向になっていくというのは、そういう目立ち方はいっさいしないのに、表現が、長く人々の心に残るものになっていくということだ。
 たとえば芥川賞とか木村なんとか賞のように大きな賞をとったということで話題になって名前が一瞬だけ知られるけれど、その作品はまったく記憶に残らず、だからその名前も10年経ったらまったく覚えられていないということは、この20年ほどの間に腐るほどの例がある。
 それに対して、世間では騒がれていないけれど、ふと出会ってしまった作品が、なぜかずっと心に残る続ける。誰が作ったかは知らないけれど、その作品が、自分が生きていくうえで、どこか心の片隅で、気になるものになっている。50年経った後でも、その作品と出会った瞬間のことを思い出せるという表現がある。
 つまり、作者が有名になるとかならないとか世事の基準で計られるのではなく、作品それ自体が、生き続ける。
 賞で有名になって騒がれて、作品はほとんど記憶に残らず、けっきょく作家も忘れられるというのは、まさに消費社会の消費財の在り方と等しい。
 なんとかデザイン大賞をとった家具を買っても、自分の家に馴染まず、愛着を持てないということに等しい。
 これからの表現は、そうした消費世界を超越したものであってほしいし、その為には、賞なんかまったく眼中にないくらいの表現者の方が、潔くて素敵なのだ。

 本を大量に刷って派手に宣伝されて書店に並べられて話題になっても、人に何の影響も与えずすぐに忘れられてしまうものが多いが、たった千部しか刷らなくても、強烈なボディブローのように、人に対して、時代社会に対して、ジワジワときいてくる表現というものがある。
宮沢賢治がそうだった。風の旅人の復刊第一号で、古賀さんや岡原くんの作品と一緒に紹介する川田喜久治さんの作品もそうだった。

 80歳の川田さん、30歳周辺の古賀さんや岡原さんに共通することは、自己表現なんていう自分周辺のセセコマしいことが、表現を始動する動機になっていないこと。自己表現は、自己顕示欲とつながっているので、消費社会と相性がいいし、賞という権威に弱い。

 自己表現なんてものは、平和の産物であり、退屈な時代の、その瞬間ごとの差別化(区別化)でしかなかったのかもしれない。悲しいかな、自己表現は、私の世代も含めて、戦後生まれで平和な時代に育ち、消費文明に身も心もすっぽりと染上げられた30歳〜70歳くらいまでの間で咲いた徒花だったかもしれない。下の世代にも、メディアのスポットライトを浴びた(つまり消費メディアと相性がいい)徒花世代の主役のようになりたいと願って、自己表現に切磋琢磨している人もいるが、バブル崩壊以降に育った人達の間で、そういう傾向に対して覚めた眼を持っている人が増えてきていることは間違いないだろう。私も含めて、徒花世代の役割は、自戒をこめて、川田さんのように戦争を知っている世代と、バブル以降に育った人達との間を、消費時代の価値観を超越して、つなげることではないかと私は思っている。

 川田さんの写真は、自己表現を超えているが、それは、自己に囚われる間もなく疾走し続け、自分を解体し続け、自分を変革し続けることで実現されている。中途半端な疾走だと、たちまち自己に囚われてしまう。川田さんの速度は、並大抵のものではない。80歳にもなろうとする男が、奥さんに危険だから止めてくれと笑われても、車のハンドルを握りながら東京の写真を撮り続け、コンピューターも自在に使いこなし、常に時代の一番尖ったところに眼を向け、かつそれを自分のものにしようとし続けている。
 それに対して、古賀さんや岡原くんの自己の超え方は少し違っている。もっともはっきりしているのは、他者に対するコミットメントの強さだ。岡原君は、英語、スペイン語、フランス語を使うこなし、世界中のどこであれ深く潜入し、そこにいる人々と深く付き合い、写真を通して、他者を浮かび上がらせる能力がある。極めてインターナショナルな写真家で、日本の写真業界の狭い枠組みの評価よりも、海外で評価されるタイプだ。しかし、彼の持ち味は、人に対する向き合い方の深さであり、その深さがあるからこそ、国際的に通用する。深いものは、普遍だからだ。おそらく古賀さんの写真も、日本の写真業界より、海外で評価されるだろう。今はまだその機会がないだけだ。

 今、私たちが直面している問題は、世界共通の問題になってきている。だから、今、私たちが直面している問題に真摯に取り組み、それをどう乗りこえるか必死にトライし続けている表現が、けっきょく国際的なものになる。

 今の問題を政局の問題だと片付け、涼しい顔をしているのではなく、どれだけ自分ごととして引きつけられるか。表現者として信じられるかどうかは、そこにかかっている。

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